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カンボジア王国の勲章 ホノルル福島県人会85周年
ハワイ島のヒロ市で、『ハワイ島福島県人同志会』の創立110周年に招かれたのは、2008年の6月のことであった。私の書いた小説、『マウナケアの雪』の縁での招きであった。110年前は、『マウナケアの雪』の主人公・故勝沼富造が福島県から多くの移民を連れて行った年であった。その式典の帰途、ホノルルに立ち寄った私たちに、ホノルル福島県人会長のロイ・トミナガさんから、この年の10月に開かれる予定の『ホノルル福島県人会85周年』への出席を依頼されたのである。
「えっ。またハワイかい?」
ホテルで妻からそれを聞いた私は、驚いて言った。私にとって、ハワイは決して近い所ではない。むしろ遠い所である。しかしロイさんをはじめ、ジョージさん、トーマスさん、ウォルターさんなどなど、ハワイで知り合った多くの人たちの顔を思い浮かべれば、むげにも断れないなと思った。「しかし三ヶ後で、しかも遠いな。」そう困惑して言う私に、妻は、「それはあなたの決めることよ。」と言って笑った。その笑顔の裏には「私は何度付いて来てもいいわよ。」という意味が隠されていた。
帰国してからもロイさんとのメールが頻繁に往復していた。彼が特に気にしていたのは、招待状は出したが、福島県知事がこの祝典に出席してくれるであろうか、ということであった。それには次のような事情があった。
昨年、ブラジルで開かれた『ブラジル福島県人会100周年』に皇太子殿下が出席されたが、ハワイを代表してロイさんも参加した。そのとき福島県知事と同じテーブルになったのを幸いに、ロイさんが県知事に、『ホノルル福島県人会創立85周年記念式典』への出席を依頼したが、感触としては80%なので、どうにか100%にしたいということであった。それにはもう一つ、6月に行われた『ハワイ島福島県人同志会創立110周年』に福島県知事の出席を依頼したが不調に終っていることから、代りに私が知事の祝辞を持参したという事があったからである。
「知事出席を100%になるよう協力して貰いたい」
そうは言われても、私にそのような政治力はない。福島県の国際交流協会を通じて、それなりのプッシュをした。しかしそれでも、県知事の出席は実現出来なかったが、副知事の出席が実現した。それでもロイさんは、大いに喜んでくれた。
ところがその頃、大分県別府市におられる無着成恭先生から手紙が届いた。カンボジアとタイの旅行に、一緒に行こうというのである。それが10月、日程として、ハワイと完全にガチンコしてしまったのである。
実は先生とは大学時代に知り合って親交を重ねており、先生のカンボジアに学校を贈る運動などにも少々協力していた経緯もあって、先生を通じてではあるが、『カンボジア王国国家建設功労勲一等章』なるものも頂いている。また先生はいろんな所でも私を『弟』などと紹介してくれている方のお誘いであるから、断る訳にも行かず、これをどう調整するか、大いに悩んでしまった。
それでも私たち夫婦が無着先生とカンボジアへ旅立ったのは、10月18日であった。この旅行以前にホノルル福島県人会に招かれていた私は、カンボジア旅行の後半とのダブりを解消するため早めに切り上げることでの予定を了承してもらっていた。しかし出発前にタイ・カンボジア国境で起きた小競り合いで、デモ隊がバンコク空港を占拠、一時閉鎖された事件があった。もしまた不測の事態が発生したら、ホノルルへ行くのが間に合わなくなると心配したが、カンボジアでの旅行は、どうやら順調に進んだ。その後、無着先生たちとも別れて成田に着き、そこで一泊したのち、ホノルルに出発した。
ホノルルの国際空港に着いたとき、空はどんよりと曇っていた。何度か取材などで訪れていた私は、珍しいなと思った。いつ来たときも『ハワイ晴れ?』であったからである。ホテルへ行く途中の車のフロントガラスには、パラパラと雨があたりはじめた。
ーー雨になったな。
私はそう思った。ホテルの部屋に落ち着いてから海を見ると、鉛色の波がゆったりと揺れていたが、水平線は煙って見えなかった。私は同行していた妻に声を掛けた。
「ハワイで雨とはめずらしいな」
「そうね。折角の85周年の記念日なのに残念ね」
「うーん、しかし日本では、雨降って地固まる、という諺があるが、ハワイではどうかな?」
当日、私たちを車で迎えに来てくれたジョージさんと雨の諺の話になった。
「そうですか。ハワイでも、雨には幸せの意味があります」彼はそう言った。
式典は順調に進んでいった。その式典の中で、不肖、私が、ハワイ移民に関連した著書、『マウナケアの雪』とその後にまとめた『我ら同胞のために〜日系二世アメリカ兵』が、ハワイ州日系人会とホノルル福島県人会の連名によって表彰されたのである。私にとっては突然の、そして思いもかけぬ光栄なことであった。お礼の挨拶に、壇上に立とうしたとき、テッドさんの奥さんが私にこう耳打ちしてくれた。
「昨夜、マウナケア山に雪が降りました」
「そうですか。それはいいニュースを、ありがとう」
私には、『マウナケアの雪』の主人公・故勝沼富造が、私に声を掛けてくれたと思えるようなこの偶然に驚き、急遽このエピソードを挨拶に付け加えた。ホノルルに着いたときに降っていた雨が、ハワイ島のマウナケア山では雪に変わったのであろうと思っていたからである。
ホノルルでの行事は無事に進んだ。ところがホノルル最後の日、ヒロのトーマス・カツヌマさんから電話があった。「来月(11月)15日、家族六人で日本へ行きます。」ただ、それだけの通話であった。その翌日、私たちは半月に及ぶ海外の旅を終えて家に戻った。早速確認した予定表の15日には安積高校での講演が、18日には三春観光協会で、20日は郡山自由大学でと講演予定が続いていた。
トーマス一家は自力で郡山まで来られるのだろうか? 臨月に入った娘を預かっている女房を、成田空港にまで迎えにやる訳にはいかない。そう心配する中の17日の夕方、彼らは自分たちだけで郡山に到着した。ところが18日は私の講演の日と見事にガチンコ、トーマスさんの遠縁にあたる湊さんに案内をお願いした。
19日、いわき市にあるカツヌマ家の墓参りを済ませから、彼らにも『いわきハワイ交流協会』の懇談会に出席してもらい、20日の朝、郡山駅で見送った私はその足で郡山自由大学での講演会場に駆けつけた。
24日の夕方、娘夫婦が訪ねて来て「義父が岳温泉で倒れ、救急車で二本松の病院に運ばれた。」と言う。駆けつけた病院で案内されたのは地下の霊安室であった。それから行われた弔いの一切が終わった12月4日の朝、タイに向かったと思われるころから音信不通となっていたトーマスさんから電話が入った。連日のニュースで流れていたバンコク空港の騒動に、巻き込まれていたというのである。「バンコクからクアラルンプールに脱出、いま成田に着いた。」と電話をくれた。大きく安堵しながらも、あとは娘の出産まで何事も起こらないようにと願うのみであった。
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