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邪馬台国連合(ユナイテッド クニズ オブ ヤマタイ)と郡山
邪馬台国の女王・卑弥呼の生まれた年は分かりませんが、卑弥呼は、約30ヶ国の王が連合して立てたいわゆる王の中の王で、宗教的儀式を司り重要な政治的決定を行っていました。卑弥呼には夫がなく、卑弥呼の弟が助けて国を治めていました。ところが卑弥呼が女王として即位する直前の2世紀後半、倭国内で争乱がありました。日本史上最初の大規模な内戦だとする意見もあります。倭国の大乱と言われていますが日本では記録がなく、中国の複数の史書にその記述が見られます。魏志倭人伝は、男子王の系統が71〜80年経過した後に争乱が起こったとしていますが、『後漢書』は、桓帝と霊帝の間(146年〜 189年)に大乱が起こったと、大まかですが時期が指定されています。
卑弥呼が王として立てられたのは西暦188年とされますから、これは朝鮮半島から稲作文化が伝えられた弥生時代の後期ということになります。稲作はそれまでの狩猟や採集より生産性が上がり、より多くの人の生活が可能となりました。卑弥呼はこれら30の国々をまとめるために、大きな力が必要でした。その大きな力の一つが、稲作の普及であったのかも知れません。卑弥呼は、西暦239年に魏に使節を派遣し、魏と同盟を結ぶのに成功したのです。しかしその同盟の成果を、具体的にあらわす必要がありました。それが三角縁神獣鏡でした。卑弥呼は、「魏が後ろ楯になっていることを知らしめよ」言われて授かった三角縁神獣鏡100枚を各地の豪族に分与したと言われます。ところが全国で発掘されている三角縁神獣鏡の総量が300枚を越えていることから、その越えた分は国産の複製品で補ったと考えられています。この三角縁神獣鏡の一枚が、会津若松市の大塚山古墳から発掘されています。また中国の魏の前の前漢の時代(紀元前202年〜紀元8年)に作られた前漢鏡の拓本が、三春町実沢の高木神社で採取されていますが、三春町史によると、現物は國學院大學に保存されているそうです。ということは、この時期この地方が、すでに邪馬台国連合、つまりユナイテッド ステーツ オブ アメリカならぬ、ユナイテッド クニズ オブ ヤマタイであったのかも知れません。
卑弥呼は晩年、この約30ヶ国の一つ、邪馬台国連合の狗奴国と戦っています。狗奴国 ( ) は、現在の岐阜県・愛知県・三重県にある濃尾平野を中心にしていたと考えられています。この地域から考えてみると、神武東征の神話と重なります。しかし開戦間もなく、卑弥呼は亡くなりました。その卑弥呼の死後、内乱が起きました。卑弥呼の時代前後から気象の長周期変動で寒冷期に入っていました。この農耕の不振は、隣人と隣人、つまりクニとクニの損益がぶつかることになったと考えられています。邪馬台国連合と連合内の狗奴国との内戦は、このような天候による不作にあったとも考えられ、それはまた、農耕地を巡って対立であったのかも知れません。
さて郡山市田村町にある大安場古墳は、東北地方最大の『前方後方墳』です。 これの築造時期は、4世紀後半と推定されています。大安場古墳は、平成十二年(2000)に国指定史跡となりました。『前方後方墳』は、全国的には約500例が確認されていますが、それでも『前方後円墳』の約十分の一以下です。中通りに限ってみても、19を超える前方後円墳に対し、前方後方墳は大安場と田村町正直の2基と須賀川の2基、合計で5基しかありません。
邪馬台国連合と狗奴国との戦いの結果がどうなったかは諸説あるのですが、大安場古墳が東北最大の前方後方墳であるということは、周辺の邪馬台国派(前方後円墳)のクニに対して少数派である狗奴国派(前方後方墳)の存在を誇示するために、出来るだけ大きく作ったものとも考えられます。つまり『前方後円墳形の墓』は邪馬台国を中心とした連合の墓であり、『前方後方墳形の墓』は濃尾平野を中心として形成された狗奴国のものであったと考えられているからです。なお前方後円墳は、鍵穴のような形をしたものであり、前方後方墳は、鍵穴の丸い部分が四角になっているものを言います。
新潟大学名誉教授の甘粕健氏は、「古墳の形式は二種類あるが、古い時代には同一の氏族であったのではないか。」という説を唱えておられますが、それも十分に解明された訳ではありません。また愛知県埋蔵文化財センターの赤塚次郎氏は、「狗奴国は戦いに敗れたかもしれないが、無条件降伏ではなかった。」と推測し、大安場古墳の主は地元の豪族とも想像しています。ちなみに卑弥呼は、狗奴国との戦いの最中に死んだとされていますが、卑弥呼の死は、暗殺を意味すると作家の松本清張が書いています。理由として、魏志倭人伝にある文字『以死』を『もって死』と読まず、『よって死』と読み、卑弥呼が狗奴国に敗れて責任をとらされたと解釈しています。
では実際に大安場に葬られたのは、どのような人物だったのでしょうか? 想像出来ることは、あれだけ壮大な前方後方墳が造られたのは、それに見合うだけの強大な権力があった人物ということになります。そしてその人物が特定されていない現在、2つのことが考えられると思います。1つは、狗奴国から派遣されて来た豪族であったということです。そうすれば、この巨大な前方後方墳を造るための技術者つまり設計者や監督を一緒に連れて来て築造したという可能性が高いと思われます。しかし大安場に葬られたのが地元の豪族であったとしたら、狗奴国に対し、特別な貢献をした人物だったと考えられます。その貢献に対するお礼として、狗奴国が墳墓築造技術者を提供したとも考えられるのですが、どんなものでしょうか。いずれこの問題に対しての結論は、まだ出ていません。なお縄文人の寿命は、約30歳であったと想定されています。邪馬台国連合と郡山の間には、このような歴史もありました。
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