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皇室の紋
そもそも皇室の紋として使われるようになった植物の菊は、中国から渡来した花で、第16代・仁徳天皇の時代に入って来たそうです。最初は薬草という意味合いが強かったようで、不老長寿を願うという意味もあり、旧暦九月九日の重陽の節句には、杯に菊の花びらを浮かべて楽しんだと言われます。このようなことから、菊は花の王として重用されました。平安時代には古今和歌集にも多く詠まれていますし、菊の花自体も200種類以上あったということです。ちなみに菊の花言葉は、『高貴』です。この菊が皇室で菊の紋として使われるようになったのは、第82代・後鳥羽天皇が大変菊の花がお好きで身の回りのものに多く使われ、その後の天皇も菊の模様を愛でられたことから、次第に一般の者は使うのを遠慮するようになり、自然に皇室だけの模様として認知されるようになっていったのだそうです。
現在の皇室の紋は『十六弁八重表の菊』、簡単に言うと16枚の菊の花ですが、昔の天皇家の紋は片方が金、片方が銀の菊の円が二つ並んだ紋で、日月(じつげつ)紋と言われました。これは皇室の紋の一つであり、太陽と月を形象化したものです。その由来はきわめて古く、古事記や日本書紀にも、皇室の先祖である天照大神は太陽の神であり、その系譜にある神武天皇は太陽の御子としていたということに由来します。正面に鳥形の旗を、左右に日月紋(じつげつもん)の旗を立てるようになったのは、大宝元年(701)正月一日、42代文武天皇が朝賀の礼を受けた時からであると伝えられ、また錦の御旗として日月(じつげつ)紋を使うようになったのは、82代の後鳥羽天皇から96代の後醍醐天皇の間であると言われています。
明治になってから、菊の紋は正式に皇室の紋として太政官布告によって決められ、一般人が使うことが禁じられました。このように皇室が菊を紋として使うようになってからはなおさら、菊紋は高貴なものという印象が強くなり、草木の中の君子として称えられた蘭、菊,梅,竹の一つでもあることから、吉祥模様としても使われるようになっていきました。このように菊の紋は、皇室が使うものとされていったのですが、その他にも桐竹鳳凰紋は庶民がつけてはいけない模様でした。桐竹鳳凰紋は、君主が善政を施したときだけにこの世に現れるとされる鳳凰が桐の木に宿り、竹のみを食べるという中国からの言い伝えによるもので、皇室も桐紋を替え紋として使っています。なお桐紋は、菊紋とともに皇室専用の紋でしたが、後に皇室以外の戦国大名も用いるようになり、皇室は専ら菊紋のみを用いるようになりました。今でもこの五七の桐は、日本政府や内閣のシンボルとして使われています。『菊の模様 銀座泰三/ウェブリブログ』より
話が変わりますが、郡山市内の清水台から、清水台郡衙の遺物とされる『素弁蓮華文軒丸瓦』が出土しています。しかし清水台地域は明治の頃から市街化が早かったため、発掘は遅々として進んでいません。ところが郡山以外の土地からも、百済様式の八葉復弁蓮華文瓦やそれによく似た六葉復弁蓮華文が発掘されています。なお、これらと同じような蓮華の花びらの瓦が、奈良の東大寺や奈良・明日香村の寺々より、さらには熊本県山鹿市の鞠智城跡 ( ) からも、7世紀後半の百済人が作ったと思われる八角形の建物の跡から発掘されています。この八角形というのは、八枚の蓮華の花びらを表したものかも知れません。
清水台で見つかっている瓦の模様は八葉の蓮華文ですが、時代が下がるにつれて単純化され、結果として飛鳥寺のものとほぼ同じ16枚のはなびらの蓮華文に戻ったようです、不思議な巡り合わせと思っていますが、清水台遺跡から発掘された素弁蓮華文軒丸瓦の現物は、公会堂の前の、郡山歴史資料館に展示されています、ところで皇室の菊の紋のような紋が、二本松市岩代町、田村市都路町、双葉郡葛尾村などの寺や墓石に数多く見ることが出来ます。私は、南北朝最後の戦いとなった宇津峰山で敗れた兵士たちが逃げた跡だから、と考えたのですが、皆さんはどう思われますか?
さて日本で最初の瓦葺建物とされているのは、588年に建立された奈良県明日香村の飛鳥寺です。飛鳥寺では、朝鮮半島の百済より『瓦博士』を招き、瓦製造の技術の導入を図ったのです。飛鳥寺の軒丸瓦の模様は、清水台遺跡の軒丸瓦とまったく同じで、しかも百済の模様と非常によく似ているのです。百済と飛鳥寺と清水台遺跡の瓦紋が非常に似ているということは、驚きです。
西暦596年、日本最初の本格的な寺院である飛鳥の四大官寺、つまり国立の四ツの寺のうちの川原寺や飛鳥寺,さらには薬師寺からも、百済様式の八葉復弁蓮華文瓦が出土しています。八葉復弁ということから、倍の16枚の蓮華の花びらと考えられます。ということは、現在の皇室の菊の紋の花びらの数と、同じということになります。
ところで、旧田村郡都路村史に、次のような記述を見つけました。
長岩寺 都路村岩井沢字中ノ作106
『同寺本堂正面には十六弁の菊花文様が画かれているが、いつの時代かこれを隠蔽するため塗りつぶした形跡がある。この裏山に熊野権現が祀られている。墓地には十六弁の菊花文様のついている石井七五さん一家の墓があり、また台石に菊花の紋が刻まれている松本家の墓がある。』
大槻観音堂
『この堂の仏像の台座の中に、菊花文様のある観音像が一体ある。この旧墓地付近の小高い丘に瓦小社が三体あり、菊花紋章の他に葉菊、左三ツ巴の紋章がある。吉田文雄さんの裏山にも菊花紋章のある小さな瓦の社があり、そのそばに地域に異変が起こる時唸り声を出すという『うなり地蔵』がある』
そこで、現地へ行ってみましたら、この阿武隈川の東の阿武隈高地に、変形および飾り付きのものを含みますが、複数の菊の紋が残されているという不思議なことが分かったのです。「これらの菊の紋は、何をあらわしているのであろうか?」そう思った私は、菊の紋があるという都路の長岩寺に行ってみました。住職に聞いてみたのですが、「自分は坊主になるのが嫌で、東京で就職した。父が急逝したので急遽帰郷、寺を継いだばかりでそれについては何も知りません」と言うのです。「それでは松本家の法事などで、何か菊の紋に関わる話が出たことがありませんでしたか?」と聞いてみたのですが、「そのようなことは、聞いたことがない」と言われたのです。ただこの近くに、天皇山(てんのうざん)という山があります。その山の通称は日山ですが、安達郡岩代町と双葉郡浪江町との境にあります」その話を聞いた私は、天皇山という名の山があるというのも、不思議な話だと思いました。
二本松市東和町針道出身で仙台に住んでおられる佐藤さんという方から、「あなたの書いた田村太平記を読んだ。わが家の家紋は陰五瓜(かげごか)に十六葉菊であり、南朝の末裔との伝説が伝えられている。何かこれについて、知ることがないでしょうか?」という問い合わせの手紙が旧安達郡東和町史のコピーと一緒に届きました。
その東和町史資料編と佐藤さんの話から、東和町に現存する善導寺と最勝寺と愛蔵寺の名が、菊となにかが関係する寺として浮かんできたのです。善導寺は、佐藤さんの菩提寺であり、その寺では菊の紋が使われているのです。また最勝寺にある菊池家の家紋は陰五瓜(かげごか)に十六葉菊で、佐藤さんの家紋と同じなのです。これらの寺のある広い森の西側の地域には、多くの南朝の伝説が残されています。そして愛蔵寺には、京都市伏見区醍醐東大路町にある醍醐寺報恩院より下賜されたという、菊の紋章入りの九條袈裟が保存されているのです。醍醐寺と言えば、後醍醐天皇の信仰していた寺ですから、この地方と南朝との結びつきを、強く感じたのです。ところがその後、また情報が入りました。「双葉郡葛尾村にも菊の紋のある墓地がある。」というのです。葛尾村は都路町の隣です。そこで私は、「もしかして、やはりこの辺り一帯は、敗れた南朝側の兵士たちが隠れ住んだ所ではあるまいか?」と想像しています。
私は、三春町の法蔵寺に、菊の紋のある墓石があったことを思い出しました。私の本家にあたる、三春町中町の故橋本孫十郎さんの先祖の墓にです。彼は常々、私に、「家の先祖の墓石に、菊の紋が彫ってある。」と言っていたのです。私はその言葉を頼りに、墓参り方々、カメラを持って行ってみました。その墓の一番古い墓石は、文禄四年(1595)に亡くなった橋本刑部少輔貞綱のものです。ただその菊の紋章は円形ではなく、若干潰れたような菱形に近い形でした。これは、南朝の忠臣・楠木正成の菊水の紋から水の部分を取り去ったようにも見え、その菊の部分が蓮華の花びらのようにも見えるのです。家紋図鑑で調べてみたのですが、そのような菊の紋は記載されていませんでした。「これは本当に菊の紋なのであろうか?」疑問は残ったのですが、孫十郎さんは菊の紋を主張していました。
たしかに南朝の忠臣であった橋本正茂が、本家の孫十郎さんが言うように、橋本刑部少輔貞綱の先祖であるとすれば、橋本家の先祖の墓に菊の紋があってもおかしくはないなと思いました。大正七年十一月十八日に故橋本正茂が宮内省から正五位を贈位されています。そしてその年、私の祖父が中心となって、三春大神宮の一角に橋本神社を建立したのですが、その時の記念写真が残されています。このことは、本家の先祖の墓石に彫られたものが菊の紋である、ということの傍証になるのかも知れません。話が大分脱線してしまいましたが、何れにしても、この地方の広い範囲で菊の紋が使われていたことは、不思議なことだと思っています。
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