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郡山さんと安積さん
片平町にある3ヶ寺の一つ、常居寺で、「郡山の領主・伊東祐長が、兄の祐時の依頼に応じて、わが子祐朝(すけとも)を日向国の国富に派遣したとの言い伝えが残されています。」との話をしてくれました。しかし私はその話を聞いても、言い伝えであることから、あまり気にしませんでした。ところがそれから三年後の平成十六年(2004)年四月七日、イラク日本人人質事件が発生したのです。当時、大ニュースでしたから、記憶されている方も多いと思われます。拉致された3人のうちの一人が、宮崎県佐土原町生まれの郡山総一郎さんだったのです。帰国後は『自己責任』という激しいバッシングにさらされました。なお後に、解放の仲介をしたとされるイラクの有力者が殺害されています。私は、宮崎県という遠い町に、ここの地名と同じ郡山さんが住んでいたことに驚き、あの常居寺で話を思い出したのです。
さて、伊東祐長の曾祖父であった工藤祐隆は、北條氏の支援を受けて挙兵した源氏の棟梁の源頼朝に従い、鎌倉幕府成立に協力しました。工藤祐隆はその功績により、頼朝の信任を得て日向の国など二十四ヵ所に所領を得たのです。
この工藤祐隆は正室との間に長男の祐家がいたのですが、ある若い後家を子連れのまま側室としたのです。ところが何を血迷ったか祐隆は、この側室の連れてきた娘にまで手をつけたので、息子が出来てしまったのです。それでも祐隆が、長男で正室の子である祐家に家を継がせていれば問題は少なかったのでしょうが、若い娘のような女の産んだ祐継の方を可愛がり、幼いうちから家督を祐継に譲ってしまい、本来の跡継ぎであるはずの祐家には、少しばかりの領地を、今の静岡県河津町に分けて本家から追い出してしまったのです。祐家にしてみれば、まったく面白くない状況です。しかし父である祐隆の命令なので、やむを得ず河津に移りました。そこで祐家は父の姓である工藤を捨て、その土地の名である『河津 ( ) 』氏に姓を変えたのです。今でもこんなことをすると、家庭は揉めますよね。ここでも揉めたのです。当然ですよね。さてここに、河津が出てきますね。これは文字が違いますが、ここの河内という地名と関係するようなのです。
さて工藤家を追い出された河津祐家の子の河津祐親は、工藤の本家を継いでいる伯父の工藤祐継を恨みに思っていました。そこで祐親は、箱根権現に呪い殺しの願をかけたのです。たしかにこの時代には白い衣を着、五徳の足に蝋燭を灯して頭に乗せ、鏡を胸に下げて呪う相手をかたどった藁人形を鳥居や神木に打ち付けて恨みを晴らす、などということが行われていましたから、それはそれでそう不思議な行為ではなかったと思われます。ところがなんと、その願かけの効果があったのか、祐継は間もなく重い病にかかってしまったのです。
死期の迫った祐継は、まだ幼いわが子・祐経の先行きを心配し、祐親の抱いている恨みも知らず、祐経の後見人に指名すると間もなく死んでしまったのです。しかし恨まれていることを知らなかった祐経は、祐親に対して大きな信頼を寄せていました。やがて父の工藤祐継の跡を継いだ工藤祐経に、叔父となる河津祐親が後見人となった上、祐経は祐親の娘・万劫を妻とし、上洛して平重盛に仕えました。ところが、祐経が単身で都に上っている間に、河津祐親は祐経の本領である伊東荘を横領し、それでもう用が済んだとばかり、祐経の妻の万劫まで連れ戻して土肥遠平に嫁がせてしまったのです。叔父である河津祐親の酷い仕打ちを深く怨んだ工藤祐経は、郎党に祐親の狩の帰りを狙って討ち取ろうとしたのです。ところが郎党の放った矢は河津祐親の嫡男である河津祐泰に当たったため祐泰は死んでしまったのです。すると祐親は、土肥遠平から娘の万刧を引き離し、自身の甥にあたる曽我祐信と三度目の再婚をさせたのです。二人の遺児は曽我を名乗ることになりました。
そののち、この曽我兄弟の敵討ちに遭って殺された工藤祐経に代わって、子の伊東祐長が安積に来ました。これに関して、備前老人物語というものに、『工藤右衛門祐経、初めて奥州安積を始め、田村の内、鬼生田村などを領す。嫡家伊東大和守祐時、嫡流たるにより伊豆に住す。これ日向伊東の先祖なり、次男祐長、安積伊東の祖なり』とあるそうです。伊東氏と、いまの宮崎県にあった日向国との関係は、工藤祐経の子伊東祐時が、鎌倉幕府から日向の地頭職を与えられて庶家を下向させたことが始まりであるとされています。この庶家とあることから、常居寺に伝えられているように、伊東祐長の子が含まれていたと考えてもいいのかもしれません。
この郡山総一郎さんの出身地は、宮崎県佐土原町でした。そこで宮崎県の地図を見て知ったのは、国富がいまの宮崎県国富町であり、佐土原町は、その国富町の隣の町であったのです。「これは常居寺で聞いたように、何か、郡山と関係があるな。」そう思って日向国つまり宮崎県の歴史を調べてみました。そして調べていて、宮崎県の電話帳に気がついたのです。するとなんと、宮崎県には多くの郡山さんばかりか安積さんが住んでいたのです。しかしそれだけでは、「う〜ん。これは一体どうしたことでしょうか?」しかしこの電話帳の苗字だけから、郡山総一郎さんやその他の郡山さん、そして安積さんが、安積伊東氏との関係者、また郡山出身者であると断定する訳にはいきません。
いまの国富町の範囲は、延岡藩の飛地から天領となり、その後に高鍋藩の飛地となったこともありました。しかしそれだけでは、解決になりません。さらに当たっていて、いまの宮崎県日南市飫肥に、幕末まで続いていた飫肥藩(五万二千石)を見つけました。最後の当主は、伊東修理大夫祐帰です。しかも飫肥藩に関連して、岡山県真備町岡田に一万一千石の岡田藩があり、最後の当主は、伊東若狭守長◯(ながとし)、この『とし』の字は、卆業の卆の下の十の右に百、左に千を書くというものでした。
このどちらの藩主も工藤氏ではなく、伊東氏を名乗っていました。すると、先ほど話した岡山県の『備前老人物語』と通ずるものがあります。一説に、祐長は郡山に来てから伊東に姓を変えたともされているのです。しかもこの二つの藩主の名をよくよく見比べてみると、飫肥藩伊東氏は『祐』の文字を、岡田藩伊東氏は『長』の文字を通字として使用していたのです。そこでこの二人の藩主の通字を合わせてみたら、なんと『祐長』の綴りになってしまったのです。これには私も、本当に驚きました。このことは出来過ぎの感無きにしもあらずですが、郡山の伊東祐長の子孫が九州や岡山に移ったという常居寺伝説の傍証になるのではないだろうかと思ったのです。
次に私は、岡山県真備町周辺の電話帳を当たってみました。するとそこには安積さんが一人、郡山さんが二人しか居なかったのですが、なぜか浅香(あさか)姓や香山(こおりやま)姓が結構多いのです。香山姓は郡山姓のすぐ次に出てきますから、同じ『こおりやま』の読みで間違いはありませんし、浅香についても、安積と読みが同じところにあるのです。この飫肥藩や岡田藩の歴史では、二藩とも伊豆の工藤氏とのつながりを強調しているのですが、工藤氏ではなく伊東氏が藩主なのです。それにも関わらず、現在でもそれぞれの地元に残されている安積・浅香・郡山・香山の姓とは一体何なのでしょうか。これらのことを考えれば、この郡山さんや安積さんたちが郡山出身者であるということは、否定すべきことどころか肯定すべきことなのかも知れません。しかし私は、常居寺で聞いた伝説が、むしろ事実であった、ということが証明できるのではないかと思っています。
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