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高玉城・撫で斬り
4年ほど前、ハワイから三春訪問のグループ受け入れ準備のため、八幡町の法華寺を訪問した時であった。「どこをどう案内しようか」そう考えていて、余り昔のことですのですっかり忘れていましたが、法華寺に鳴竜のあったことを思い出したのです。多分それは私が小学校に入る前、祖父に連れられて行った記憶があったのです。「よし、そこも計画に入れよう」と思ったのですが、いきなり連れて行く訳にもいきません。前もって寺へ行き、事情を話して了解を得ておく必要を感じたのです。
アポイントもとらず、寺を訪問したのですが、生憎和尚は、法事で出掛けておりました。しかし「もう間もなく戻る筈です」と言われ、乗って来た車に戻って待っていました。しかし和尚は、なかなか戻って来ません。そこで車から降り、墓地の様子を見て時間潰しをしていました。ところが歩いているうちに、高玉氏の墓を見つけたのです。『高玉氏の墓?』しかしその墓は、新しく作られたようでした。私はそこにある墓誌の最初が、没年月日が同じ高玉城主夫妻であったのです。高玉城は、今の熱海町高玉にあった城です。「なぜ三春に、高玉城主夫妻の墓があるのだろうか?」これは私の感覚では、あり得ないことであったのです。
時代を遡ります。三春田村氏に叛旗をひるがえした小浜城主の大内定綱は、救援に来た伊達政宗に滅ぼされ、伊達氏への忠誠を誓って小浜城を訪れました。留守の政宗に代わって父の伊達輝宗が応対したのですが、大内定綱は帰りがけに輝宗を拉致したのです。それを知って追った政宗は、阿武隈川のほとりで追い付いたのです。このとき政宗は、結果として父を殺すことになってしまったのです。
翌年、政宗は父の弔い合戦として、殺された大内定綱の甥の菊地顕綱(きくちあきつな)が逃げ込んだ二本松城へ激しい攻撃を加えたのですが、この二本松城の救援を口実にして、常陸、会津、磐城、石川、白河勢の大連合軍が、須賀川に集結、北上して来たのです。この連合軍に対し、伊達・田村の連軍が本宮に集結したものの、兵力的には劣勢でした。このときの本宮の人取橋の戦いは、大激戦となったのです。しかし勝敗がつかず、伊達勢は小浜に、田村勢は三春に兵を引きました。当然、大軍勢である敵の逆襲を予期していた伊達と田村は、阿武隈川を楯にして戦う準備をしていたのです。ところが佐竹の兵が突然引き上げ、連合軍は空中分解をしてしまったのです。
その後、伊達と田村の連軍は高玉城を攻め、会津の葦名に攻勢をかけました。この高玉城の戦いについて、『政宗記』には次のように記されています。『高玉城の北側に陣を置き、惣勢は南側から東側にかけて陣を取った。西の方は尾根続きとなっているが、この方向だけはわざと空けて置いた。』とあります。高玉勢が城を放棄して西側から逃げ出すのを期待していたのです。しかし五月五日の辰の刻(午前8時)には高玉城が落城、『撫で斬り』が行われました。高玉城の尾根続きの西側には攻め手を置かず空けておいたにも関わらず、高玉勢は一人も西側から落ちていくことはなく、皆討死している。『また哀れなりしことどもにや』と述べています。
相生集によりますと、高玉城主の高玉太郎左衛門常頼は、いまの大玉村の戦いで鉄砲で腰を撃たれて歩けなくなっていたのですが、戸板に乗せられて幾つかの曲輪で下知を行っていました。しかしそれらの曲輪が攻め取られると、城に戻り、妻と2人の子供を殺害し、手槍を持って出撃しようとしたのですが、伊達・田村勢が城に攻め込んできたので、ついに白砂の上で討死したとあります。
この高玉城は、伊達勢によって全員虐殺が行われた城として知られている小手森城での『撫で斬り』とは、趣を異にしているようです。小手森城の場合は政宗が怒りに任せ、「人はおろか牛馬までも全員皆殺しにせよ!」と命じたのに対し、高玉城では、城兵に無駄な抵抗させないために、わざと西側の尾根続きの方を空けて置いたのです。それにも関わらず、高玉の城兵は最後の一人まで必死に戦い、結局、高玉城主・高玉常頼夫妻をはじめとして、全員討死してしまっています。結果として『撫で斬り』とされてしまったのですが、これは政宗が意図したことではなかったと言われています。ここで、問題となる『撫で斬り』について言及しておきます。つまり『撫で斬り』とは、全ての人を片端から切り捨てることです。しかし戦闘員を殺すのは戦 ( いくさ ) では当たり前のことですから、仮に、城内にいた戦闘員を全員殺したとしても『撫で斬り』とは言いません。法華寺の墓碑銘によりますと、高玉氏夫妻はこの年の同月同日に亡くなっています。この日は、高玉城が落城した日ですから、夫婦同日の死亡というのもうなずけます。
さてこの話を頭においた上で、現代に話を戻します。法華寺の和尚が戻って来たので、私は、ハワイからのグループに鳴竜見学の許しを得た上で、高玉家の墓地について質問をしたのです。そこで知ったことは、この寺の前任者が高玉正広和尚で、現在は茨城県石岡市の照境寺に勤められておられるというのです。私はこの墓についてのお話をお聞きしたいと思い、アポを得るため問い合わせの電話をしてみました。長い電話になってしまいましたが、次のような話を聞くことができたのです。
「このことは、わが家に伝えられてきた話です。自分は法華寺で生まれ、父と二代に渡ってこの寺の住職を勤めてきました。自分でもよく知りませんでしたが、どうも自分は、その高玉家の末裔と思われたのです。そこで先祖を供養するため、平成十年に墓地を改修、墓碑銘を建立したのです。」そして、次のような話をしてくれました。
高玉城が落城する際に、高玉常頼は妻子を殺害したのですが、満二歳の末の姫が殺されそうになった時、乳母が、「死なすのは忍びないので、姫を私にください」と言ったそうです。そこで常頼は「この子は幼い女の子であるから殺されることもあるまい。助けてみよ」と言い、乳母に姫を託したというのです。そこで乳母は姫を背負って城を脱出したのですが、途中で伊達勢に掴まってしまいました。伊達勢が二人を本陣に連れ帰ったところ、本陣の小者たちの2人が刀で斬りつけました。乳母と姫は斬られたまま伏せていましたが、戦場での混乱の中で、傷は浅手で済んでいました。乳母は伊達兵がいなくなった隙に起き上がり、姫を背負って逃げ出しました。
この乳母は、日和田町にあった高倉城の高倉近江の姪であったのでこの城に逃げ込み、助けを求めました。高倉近江もさすがに哀れに思ったのですが、敵の城主の姫を勝手に助けたとあっては、あらぬ嫌疑をかけられかねません。そこで、政宗の臣・片倉景綱に相談したところ、「一度斬られた者をまた斬ることはあるまい。幼い女の子のことであるから、助命のことは私の方から殿に申し上げておこう」という返答であったというのです。政宗が高玉で『撫で斬り』を命じなかったということは部下の独断による『皆殺し』であり、『撫で斬り』を命じなかった気持が政宗にあったということが、高玉常頼の姫を助けることにつながったのかも知れません。
私は、政宗が、どのような理由で高玉常頼の姫を敵地であった三春へ移したのであろうか、という質問をしてみました。それに対し、「考えられるのは豊臣秀吉の奥州仕置により、三春が政宗より取り上げられて会津領となったことと関係すると思われます。つまり高倉城に逃れていた姫を、三春が会津領となったので問題がなかろうとしたのではないかとも考えられます。熱海町高玉の常圓寺にある高玉氏初代の戒名、『常圓寺殿無外心公居士』により、この寺が、高玉氏によって創建されたと推定できます。『安達郡大概録』によれば、永禄元年(1558)、常圓寺は三春の天澤寺の末寺として開基しているので、寺の創建は、政宗による高玉城の『撫で斬り』以前ということになります。今ある常圓寺が、高玉氏の菩提寺ですが、古い話ですし、住職も代わっているので、今になれば聞いても分かるかどうか。30年ほど前、岩波書房の『独眼竜政宗』に、このあたりの話が出ていましたが、無くしてしまいました。それにこれらの話は、先祖からの言い伝えだけなので、これ以上のことは分かりません。折角来られるとのことですが、無駄になると思います」とのことだったのです。
そこで私は、熱海町高玉の常圓寺を訪ねてみたのですが、残念ながら代も変わっており、特に知ることはありませんでした。それでもこれらのことから、高玉氏の墓が三春にあったことは、何となく理解ができたように思っています。ともあれ、その姫の末裔となる高玉正広和尚が三春法華寺の僧侶となり、先祖の墓に墓碑銘を加えて改葬し、供養をしたのです。
なお郡山歴史資料館によりますと、政宗の臣となっていた高玉太郎左衞門、高玉で討ち死にした高玉太郎左衞門常頼の子ですが、彼による話が残されているそうです。政宗は常々、「芦名は名家であるから、血統の者があれば立たせたい。」と言っているというのを高玉太郎左衞門が聞きつけて、妹である姫を連れて行ったら、政宗が喜んだのだそうです。
資料=三春歴史民俗資料館によりますと、「この姫が蒲生源太左衞門尉の下人の妻になったとありますが、これは蒲生源左衞門尉郷成(さとなり)のことではないかと思います。郷成は慶長六年(1601)に守山城代となり、その後、年は不明ですが三春城代となっていることから、三春との関係が想像できます」と示唆されました。
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