『福島の歴史物語」

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2021.09.01
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安倍文殊堂

 田村市船引町文珠に、日本五大文殊の一つとされる清凉寺安倍文殊堂があります。第70代後冷泉天皇の御代、奥羽・出羽の領主安倍貞任がこの地方の巡検をした折、髪の毛に結わえていた自分の守り本尊、三寸の紫金銅(黄銅)の大聖文殊大士(たいしゃくもんじたいし)と北斗妙見大菩薩摩利支天を祀ったのが由来とされ、毎年四月二十九日の例大祭には、地元の子供たちが平安時代を思わせるきらびやかな衣装に身を包んだ稚児行列が行われ、樹齢400年のうっそうとした杉並木の参道を、ほら貝を吹く冨塚祐信住職を先導に、梵天を持った世話人や稚児、保護者など約60人が本堂を目指し参道を練り歩きます。文殊さまと言えば学問の神様です。そのご利益にあやかろうと、多く人が学業成就、合格祈願に訪れるお堂です。

 さてその安倍貞任ですが、彼はどのような人で、本当に船引町に来たのでしょうか?

 永承六年(1051)、安倍氏と朝廷から派遣されていた陸奥守の藤原登任(なりとう)との争いに端を発して、以降12年間にわたって続いた前九年の役において、安倍氏は東北各地において善戦したと記録にあります。しかし登任の後任として源頼義が翌年に赴任すると、後冷泉天皇の祖母の病気快癒祈願のために大赦が行われ、安倍氏も朝廷に逆らった罪を赦されました。ところが天喜四年(1056)に、源頼義の部下が阿久利川畔の野営において何者かの夜襲を受けて人馬が殺傷され、このため前九年の役長期化の原因のひとつとなった阿久利川事件がありました。この事件の折、頼義が藤原光貞を呼び出して心当たりの犯人を尋ねると光貞は「安倍貞任が私の妹を妻にしたいと願ったが、私はいやしい俘囚にはやらぬと拒んだのを逆恨みしての襲撃以外考えられない。」と申し立てました。 これを聞いた頼義は大いに怒り、真相を確かめることもなく、安倍頼時に命じ、息子の貞任を出頭させて処罰しようとしたのですが、頼時は父親として「貞任ハ愚ナレドモ父子ノ情、棄テラレンヤ」とこれを拒絶したので、再び開戦となりました。天喜五年、安倍頼時が戦死したため貞任が跡を継ぎ、弟の宗任とともに一族を率いて戦いを続けたのです。

 天喜五年(1057)十一月、陸奥守・源頼義は多賀城の国府軍1800を率いて安倍氏を討つべく出陣しました。しかし厳しい雪の中で行軍は難航し、食糧にも不自由する有様で、黄海の戦い(きのみのたたかい)において完敗、国府軍は数百の戦死者を出したのです。源頼義は、息子の源義家を含む供回り6騎で命からがら安倍軍の追跡から逃れました。二本松市木幡字治家地内にある木幡山には、このとき源頼義の一行がここへ逃げて立て籠もり、追ってきた安倍の軍勢が、一夜にして全山が雪で白くなった様子を源氏の白旗に見違えて戦わずして敗走したという伝説があります。現在『木幡山の幡祭り』として伝承されています。この戦いの後、暫くは国府を凌いで安倍氏が奥六郡の実権を握ることとなったのです。安倍氏は衣川以南にも進出しましたが、康平五年(1062)、俘囚の長として一族を配置し、一族・郎党を武装させ家臣化していた強力な武士団となっていた清原氏が源頼義側に加勢したので形勢が逆転して劣勢となり、厨川(くりやがわ)の戦いで貞任は敗れて討たれたのです。これらの史実から考えられるのは、貞任の活動範囲が衣川以南とはありますが、いまの岩手県以北のことと思われます。つまり貞任は、船引には来ていないと考えるのが順当ではないかと思っています。なお『陸奥話記(むつわき)』によりますと、貞任の背丈は六尺を越え、腰回りは七尺四寸という容貌魁偉な色白の肥満体であったと記述されています。

 明治三十七年に出版された『田村の誉』誌に、次の記述があります。ただし私が、現代文に書き直しています。

『天喜五年十一月、安倍氏は河崎柵に拠って黄海の戦いで国府軍に大勝した。以後、衣川以南にも進出して、勢威を振るったが、康平五年七月、清原氏が頼義側に加勢したので形勢逆転で劣勢となり、安倍氏の拠点であった小松柵・衣川柵・鳥海柵が次々と落とされ、九月十七日には厨川の戦いで貞任は敗れて討たれた。深手を負って捕らえられた貞任は、巨体を楯に乗せられ頼義の面前に引き出されたが、頼義を一瞥しただけで息を引き取ったという。享年44、もしくは34。その首は丸太に釘で打ち付けられ、朝廷に送られた。なお、弟の宗任は投降し、同七年三月に伊予国に配流され、さらに治暦三年(1067)太宰府に移された。』

 どうもこれらの資料から見るに、安倍貞任がこの地方の巡検をしたという記録がありません。しかしこの近くでは、安倍貞任の兵が二本松の木幡山に源頼義を攻めたとの伝説がありますが、伝説上でも木幡山から北へ転じています。ましてや髪の毛に結わえていた自分の守り本尊、三寸の黄銅の大聖文殊大士(たいしゃくもんじたいし)と北斗妙見大菩薩摩利支天を祀ったのが由来としていますが、そういうことは、あり得ないのではないかと思っています。では安倍文殊堂のこのような謂れはどこから来たのでしょうか。

 三春秋田氏は、安部貞任の子孫とも言われますが、安倍あるいは安東が本来の苗字です。秋田を本拠としていた実季は、出羽国の支配者の官職である『秋田城介』への任官を欲したため、苗字も安東から秋田へ替えました。しかし任官運動中にいまの茨城県笠間市宍戸に転封され、正保二年(1645)、宍戸から三春城主として入城しました。秋田氏は祖先の由緒ある菩薩を信仰していたのですが、三春に入府に際して厨子一基を寄進しています。どこに寄進したとの記録はないようですが、安倍文殊堂の毎年の祭礼の際には、重臣に代参させています。秋田氏はこの山の景色を愛でて山頂に新たな屋敷を造作し、その屋敷の前には数千の桜を植えさせました。階段の左右には無数の躑躅(つつじ)を植えたので、花の時期には赤い毛氈を敷いたようであったと言われます。現在のお堂は、天明三年(1783)に堅牢な木材と巧妙な彫刻もって改造されたのですが年を経るに従って腐食したため、明治三十一年に、およそ三千円をもって大修繕を行っています。

 これらの記述と、貞任がいまの岩手県以北で活躍したという史実を合わせてみると、貞任が船引町に来て安倍文殊堂を作ったのではなく、秋田氏が先祖を顕彰するために造営したものではないかと思っています。

 ところで、前の自民党総裁の安倍晋三氏が「私は、阿部貞任の末裔です。ルーツは岩手県。その岩手県に帰ってきた。」と参議院議選挙の遊説先の岩手県北上市で演説したそうです。北上市は『旧生活の党』の小沢一郎代表の本拠地で衆議員の選挙区岩手4区です。小沢一郎氏の威光はすっかりかすみ、各陣営は票の上積みに向け『小沢票』の切り崩しにやっきのときであったそうです。安倍晋三氏は、演説の『つかみ』で親近感を強調したかったようです。安倍晋三氏が古代奥州の俘囚長を称した安倍氏の末裔であるかどうかの真偽は分かりませんが、恐らく代々安倍家に伝承されてきた話ではないかと思われますので、何らかの真実を含んでいるのではないかと考えています。そしてこの話は、会津若松の演説会でも披露されたのですが、反応はイマイチであったそうです。この話は会津若松でではなく、田村市や三春あたりでやれば、良かったのかも知れません。安倍貞任伝説は、東北や関東に数多く伝承されているのですが、研究者の調査によると貞任伝説の分布は広く、西日本から九州にまで及んでいるそうです。安倍文殊堂建立のこのような話は、その一環であるのかも知れません。

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最終更新日  2021.09.01 06:50:05コメント(0) | コメントを書く
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