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2024.08.20
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カテゴリ: 目明かし金十郎


目明かし金十郎・①

 いま私の手元に、『目明かし金十郎の生涯』という本があります。この本の著者の阿部善雄氏は台湾に生まれで、昭和十年、郡山に帰って安積中学校を卒業し、昭和二十年に東京帝国大学文学部国史学科を卒業の後、中学校の教師となっていましたが、昭和二十四年東京大学史料編纂所に入り、助手、助教授を経て、昭和四十八年に教授となっています。定年後は東京大学名誉教授、そして立正大学教授をされていた方で、著書にもこの『目明かし金十郎の生涯』や『最後の日本人・朝河貫一の生涯』などがあります。これらの著書にみられるように、阿部善雄氏は福島県に対し、深い思いがあったのであろうと推察できます。このような阿部善雄氏が、この本を書くに至った事情を、『目明かし金十郎の生涯』の『あとがき』にこう記しています。

 私がこの『御用留帳』にはじめてめぐりあったのは、昭和三十三年である。その頃私は、阿武隈川のほとりに住む友人で、須賀川二中教諭の折笠佐武郎の一家をよくたずねたが、彼は守山藩史料の存否を確かめようとする意欲に燃えていた。そうしたある日、私が守山の田村町教育委員会を訪れたとき、郡山市文化財保護委員で守山藩の歴史に詳しい伊藤尭信氏が私をオートバイに乗せて、谷田川支所に案内された。その二階に投げ出されて山をなしていたものこそ、この『御用留帳』百四十三冊だったのである。

 ところで江戸時代、江戸ばかりではなく、全国の各藩に『目明かし』と呼ばれる人たちがいました。『目明かし』は、藩の下級役人である『同心』に私的に雇われ、その手先となって犯罪人の捜査・逮捕に従事した者たちのことで、身分は庶民であって、町人でさえなかったのです。この『目明かし』は、目であきらかにするという意味ですが、『岡っ引き』とも言われました。『岡っ引き』とは、庶民が『目明かし』をバカにして呼ぶ言い方でしたが、『下っ引き』と呼ばれる手下を持つ者も多かったのです。『岡』には、『岡場所』、『岡惚れ』と言うように、見下した意味がありましたが、『おか』には『かたわら』にいて手引きをする者の意味もあったといわれます。『目明かし』には、犯罪を犯した者に共犯者などを密告させることで罪を許し、代わりに犯罪捜査の手先とされた者たちのことです。というのは、犯罪捜査に『同心』を当てたとしても、市中の落伍者や渡世人の生活環境、そして彼らが犯す犯罪の実態を良く知らなかったために、それを知る犯罪者の一部を、体制側に取り込む必要があったのです。『目明かし』とは、江戸の警察機能の末端を担っていた、非公認の協力者たちであったのです。

 江戸の警察組織の前身は、『町奉行所』でした。ここには『町奉行』というお役人が頭となって行政・司法・警察・消防をつかさどっていたのです。 ちなみに、有名な時代劇ドラマ、「おうおうおう! この桜吹雪が全て御見通しだ!」の『遠山の金さん』のモデルとなった遠山金四郎景元も、この町奉行の一人でした。この町奉行所に勤める人たちは現在の警察官にあたりますが、現在と比べて違うのはその人数です。当時、江戸の人口は約百万人もいたのですが、警察業務を担っていたのは『同心』と言われる、たった三十人ほどだったのです。しかしこれだけの人数の同心では、到底江戸の町の治安を維持することなどできません。そこでこれらの同心には、十手を持った『目明かし』を、『同心』の私的使用人として各々五人ほどがついていたのです。『同心』というのは武士で、幕府の下級役人です。『同心』が持つ十手は幕府からの支給品で、一種の身分の証明も兼ねていました。いわば十手は、『同心』という身分の証明であり、いまの警察手帳のようなものでした。ですから、無くしたりしたらそれこそ責任問題です。そのため、支給された十手は大事にしまっておいて、ふだんは個人的に購入した十手を持ち歩く『同心』もいたそうです。そのため『目明かし』には、このような十手さえも支給されていませんでした。しかし『目明かし』の持っていた十手は、『目明かし』自身、またはその『目明かし』をやとった『同心』が、自費で、個人的に作ったものです。ところで『目明かし』は、専業ではありません。通常は、『担い屋台』の『夜鷹蕎麦屋』などを営業しながら、夜歩く人の行動などを監視していたのです。彼らは、同心に頼まれたときだけお手伝いをする、言わばアルバイトの探偵でしたから、『警察のイヌ』みたいなものだったのです。そのため『目明かし』としての収入は少なく、現在の貨幣価値で年収七万五千円ほどとされるのですが、なんと、江戸町奉行であった大岡越前守の年収が二億円、火付盗賊改方の鬼平犯科帳のモデルである長谷川平蔵が二億二千五百万円であったというから驚かされます。

 ところで、『いざ捕物!』となったとき、三十人ほどの『同心』だけでは足りない時があります。そのようなときは例外として、『同心』が『目明かし』に十手をそのときだけ、一時的に持たせて捕り物の手伝いをさせることもあったそうですが、それは例外中の例外で、ましてや普段から『目明かし』が十手を持ち歩くことはなかったのです。ところで『同心』や『目明かし』が持っていた十手ですが、これは悪党から身を守る武器であり、捕り物道具の一種でした。とは言え、その長さはせいぜい四十センチほどの鉄の棒の手元に鈎をつけたものです。『目明かし』たちは、これで賊の刃からの防御に用いたり、突いたり打つなどの攻撃、時には短棒術として用いて犯人の関節を押さえつけるたり投げるなど、柔術も併用したというのですから、生半可な人間では、『目明かし』にはなれなかったのです。なお、女性の『目明かし』もいたそうですが、女性の『同心』はいませんでした。

 江戸時代には、それぞれの藩が、各自の警察機構や司法機構などの体制を備えたことから、反乱を警戒する幕府は、大名同士の法的拘束力を持つ約定を堅く禁じていました。そのため犯罪者が他の藩領に逃亡した場合、その犯罪者の逮捕と引き渡しを求めることができないことになってしまったのです。それでも、正面切って犯人の引き渡しを求めようとすると、それは大変面倒なことになってしまったのです。そうした際の解決策の一つに、幕府の大目付に逮捕を依頼する方法がありました。しかし藩主がこの方法を選べば、自分の力で捕らえることができない無力さを証明することになりかねません。そしてこのことはまた、その藩の中での犯罪の多発と、取り締まりの無能力をさらすことになるため、最後の手段として、ヤクザの親分たちを『目明かし』として採用せざるを得なかったのです。これらの『目明かし』たちは、藩の領域を越え、各地で『とぐろ』を巻いている他の仲間と相互連絡を取ることによって、犯人の発見と逮捕につなげたのです。つまり『目明かし』は、藩主たちにとって、内分のうちに事を運ぶことが出来るという、具合のいい隠れ蓑ともなったのです。





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最終更新日  2024.08.20 07:00:14
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