三春化け猫騒動(抄) 2005/7 歴史読本 0
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(三春町州伝寺にある松下石見守重綱の墓。法名が削り取られて判読が出来ない) あ と が き 私は約三十年も以前、初代・三春歴史民俗資料館長で今は亡き松本登先生に「三春町斉藤字里山の山林に隠れ切支丹の墓がある」と教えられていた。しかし地方史に余り興味のなかった当時、私はこのことをすっかり忘れてしまっていた。そしてつい先年、三春町史に次の文章を見たとき、この隠れ切支丹の墓を思い出したのである。 キリシタン (前略・三春城の引き渡しが)このように大げさになったのは、 『会津藩家世実記』によるところでは、「城地受取の節に、自然の 警固として近国の大名たちが次第に下向した」ことを、三春の家臣 たちが聞きつけて、「われわれは、切支丹でもないのに、理由もな く御誅伐されるよりは、籠城して自分らの心底を訴え、聞き届けら れない時は、城を枕にして討死にしようと決議し、にわかに城中に たてこもった。」という情報が伝わったことによったのである。 城引き渡しが済むと、末子松千代は江戸へ護送され、山内忠義へ 預けられた。この長綱の乱心の核心の問題である「切支丹」の件に ついては、あながち、長綱の妄想とばかりはいえなかった。重長帰 府の翌日、『大猷院殿御実記』は、「松下石見守長綱家士二人邪宗を 尊奉する聞こえにより、府に召て責問せらる」の記事を載せている。 (後略) 乱心の病理 もう一つ、長綱の乱心は、病理的にどう判断されるであろうかと いう問題がある。加藤明成兄弟の行状に関する記事を並べ、「長綱 幼稚たれば」、「発狂しければ」を重ねていくと、そこに生来の病理 的要因があったのではないかとの疑念をいだかせられる。 (中略) とまれ、嫡子に先立たれ、異郷に幽囚の晩年を送った長綱は、法 号の削り取られた父・州伝寺殿の石碑とともに、悲劇的存在ではあ った。 (後略) この記述を見て考えたことは、『隠れ』ている『切支丹』が、藩主に知られるような行動をとるだろうか? しかしそうはしないと考えれば、藩主自体が切支丹であったと考えざるを得ない、ということである。 私はこの小説を書く前に、墓のあるという現地へ行ってみた。しかし見つけることはできなかった。そしてこの小説がはからずも第三十回歴史文学賞の第三次選考通過を知ったとき、今度こそ徹底的に探してみようと再び現地を訪れた。しかし判明したのは、土地の所有者がブルを使って畑に整地したとき、行方不明になってしまったということであった。 ところが折りよく二代・三春歴史民俗資料館長の原宏氏と会う機会があり、このことを尋ねたところ、彼が昭和三十年代に調査したときのメモを頂くことができたのである。これをここに掲載する。 なお、なぜ法号が削られたかを訊いたところ、「精神病とその予防のため、町の人たちが石碑を削った粉を飲んだ」との答えであった。「しかし精神病を患った長綱の墓ではなく、病気とは関係のない父の重綱の墓ではおかしいのではないか?」という私の質問に、「長綱が重綱と勘違いされたのではないか」とのことであった。しかし私は、そうではないと考えた。 三春町史にある「長綱幼稚たれば」、「発狂しければ」という言葉から、藩主・長綱を快く思わないグループ、つまり長綱が隠れえキリシタンであると知っていたグループが、浪人とならざるを得なかったことに対しての恨みと考える。とは言っても旧藩主の石碑である。そうするにはそうする言い訳が必要であった。その言い訳こそが精神病であったのではあるまいか。実際に石を削って粉にして飲むということは、考えにくいのである。 (原宏氏の書かれた「隠れ切支丹の墓」の図面) ◇ ◇ ◇ 第三十回歴史文学賞の経緯(寂滅) 第三十回歴史文学賞第一次選考発表 (歴史読本 二〇〇五年十一月号より) ●九十三篇が第一次選考を通過! 第三十回歴史文学賞第一次選考の結果、応募総数三百五十二篇のうち、次の九十三篇が第二次選考に残りました(順不同)。第二次選考の結果は本誌十二月号で発表します。 第三十回歴史文学賞第二次選考・三十三編・発表 (歴史読本 二〇〇五年十二月号より) ■新人物往来社が主催する第三十回歴史文学賞に数多くのご応募ありがとうございます。 先頃おこなわれました第二次選考におきまして、次の三十三篇の作品が通過いたしました(順不同)。最終候補作品の発表は、本誌「歴史読本」一月号の誌上にておこないます。 第三十回歴史文学賞最終候補作品発表 (歴史読本 二〇〇六年一月号より) ●最終候補作は六篇! 受賞作は本誌来月号誌上で発表! 【第三次選考通過作品 十六篇】 「土蔵の中の道伯」 森 祐太郎 (東京都) 「道寸の海」 石井 竜生 (神奈川県) 「阿修羅記」 万城目 学 (東京都) 「遠き歌霊ム晩年の紀貫之」 赤巖 隆 (三重県) 「貞享暦事始」 小山 鎮男 (神奈川県) 「渡河」 白川 悠紀 (福島県) 「雨、土塊を破らず」 竹野内 京山(愛知県) 「招かざる象ム享保の象の真相」 矢元 竜 (東京都) 「かねと殊法」 大友 一一 (新潟県) 「備中高松城和議談判・安国寺恵瓊の賭け」研田聡介(東京都) 「以蔵の焚書」 牧 秀彦 (東京都) 「美弥の留記」 班田 個太郎(大阪府) 「来る者は拒まず」 浅川 遊 (東京都) 「寂滅」 橋本 捨五郎(福島県) 「三別抄耽羅戦記」 金 重 明 (東京都) 「坊門のやんちゃ姫」 宮崎 空夫 (群馬県) 【最終候補作六篇】 「阿修羅記」 万城目 学 (東京都) 「渡河」 白川 悠紀 (福島県) 「招かざる象ム享保の象の真相」 矢元 竜 (東京都) 「備中高松城和議談判・安国寺恵瓊の賭け」研田聡介(東京都) 「三別抄耽羅戦記」 金 重 明 (東京都) 「坊門のやんちゃ姫」 宮崎 空夫 (群馬県)* 選考委員(伊藤桂一・早乙女貢・津本陽)による選考結果、および受賞作品は、『歴史読本』二〇〇六年新春二月号誌上で発表いたします。候補作の六篇はいずれ劣らぬ力作ぞろいです。歴史文学の新しい星の誕生にご期待ください。 〈新人物往来社歴史文学賞係〉 ◇ ◇ ◇ 参 考 文 献 一九八四 三春町史 三春町 凸版印刷 一九九四 復元・江戸情報地図 天羽直之 朝日新聞社 圓明寺案内 圓明寺 愛媛県松山市 お世話になった方々 (敬称略) 三春町歴史民俗資料館 福島県三春町 故・松 本 登 福島県三春町 原 宏 福島県三春町 山 口 篤 二 茨城県古河市
2008.02.17
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しばらく間をおいて三郎左衛門が言った。「やはり違いまする御家老様。われらが信仰するということは、神と向き合い、語り合い、祈ることでございます。ですから私には、このように責め苛まれても切支丹であるという自負がございまする。しかし御家老様がご自身で言われるように、『死んでも仕方がない』というお座成りなお考えでは余りにも情けない死に方でございます。それではご自身が救われぬのではございませぬか? 御家老様。ただ極楽があって南無阿弥陀仏の名号さえ唱えればそこへ行けるなどということは、夢にございまする」「夢か・・・、しかしわしは別に投げ遣りな気持のみで言っている訳ではない。単純に極楽浄土に行けると思っている訳でもない。ただ、たしかに今まで生きてきた意義を自身に問うてみれば、『分からぬ』としか言いようがない」「いいえ御家老様。『分からぬ』ということではございませぬ。御家老様の心に平安があれば、世の中に平安が来るのでございます。もし御家老様の心にそれがなければ、三春藩にも平安がないということでございましょう」「わしの心に平安がなければ、三春藩にも平安が来ないということか?」「左様でございまする。ここまでになって、私は御家老様に改宗をお勧めするなどという僭越な気持は、毛頭ございませぬ。ただ御家老様の心に『平安あれ』、と願うのみでございます」 権兵衛は黙っていた。そしてしばらくして言った。「しかしその方、そんなにも少ない人数で、しかも閉ざされた信仰が・・・、寂しくはなかったか?」「いいえ御家老様、私共は各家そのものが神の宿る教会でございまするから、寂しいことはございませぬ」「それは仏壇のようなものか?」「いえ、そのようなものではございませぬ。私共の家という教会は、全世界に広がる教会の中心のローマの教会にありまするから、いわば神様に一番近いところにあるのでございます。寂しいなどとはとんでも無いことでございます」 権兵衛の考えは、混乱していた。 ──平安か・・・。三郎左衛門が平安という言葉に何を込めようとしているかは分からぬが、わしは輪廻転生の思想を信じたい。輪廻転生とは、そこに今いる馬や猫または野に咲く花などが、自分と関わりのある人の転生ではないかと思えることなどから生まれる思いやりであろう。もうわしはこの世での使命は終わった。また生まれ変わって、来世は花に囲まれて安穏に生きたい。何に生まれても良い、仏の教えに従う。 しばらくして、権兵衛は考えていたことと別のことを話しはじめた。それは自分として、なんとも納得し得ないことであり、三郎左衛門がどう答えるかを知りたいと思ったことでもあった。「ところで三郎左衛門、殿を押込んだとき殿がわしにこう言われたことを思い出した。『主、主たらずとも、臣、臣たれ』とな」「『主、主たらずとも、臣、臣たれ』でございまするか?」「左様。わしはあのときのあのお言葉は、われらに対する殿の悔悟の意と勘違いしておった。『済まぬ、権兵衛』と・・・。しかしここにきて、その意がようやく分かった。殿はわしに謎をかけておられたのじゃ」「謎を・・・? なるほど、そう言われてみますれば殿が申されたお言葉の意味、私にも分かるような気が致しまする。」「そうか、分かるか」権兵衛は端然と座ったまま寂しそうに頷いた。「わしは命をかけて守ろうとした藩を失い、主と仰いでいた殿にまで裏切られた。そう思うと、虚しさのみが心に残る」 そう言ったまま、権兵衛は黙っていた。 ──しかし死は、誰しもがいつかは通る道。死は悲しみではなく、阿弥陀如来様への元にいく喜びのときである。 そう思う権兵衛に、三郎左衛門もなにも言わなかった。「いずれ、わしもここを呼び出され、切支丹としてこの世から送り出されることになろう。しかし、どっちつかずのわしの死後はどうなるのか? 寺はどうするのか? 冥土の先祖たちは、このようなわしを許して迎えてくれるのであろうか? 家族や親戚は年忌などをやってくれるのであろうか? それらを考えると寂しくてかなわぬ。それでこの頃、西方浄土に向いて阿弥陀経を唱えるのに精を出して来たがのう、少しも気が休まらぬわ」 三郎左衛門はくすっと笑うと、すぐ痛そうに顔をしかめながら言った。「御家老様・・・。切支丹屋敷の中から阿弥陀経の声が聞こえるというのも、妙な話でございます」「・・・」「私は最前申し上げたように全能の神を信じて参ります。私は殉教をしたらハライソに参り、神の下で生きる訳でございますから少しも寂しいことはございませぬ。つまり死ぬということは、この世のすべてを恕して神の下へ逝くということでございまするから、むしろ嬉しいことと喜んでおりまする」「そうか、やはりそうか」「はい、御家老様。それでもどうか殿をお恨みにならないで下さいませ。他人を恨むということはご自身のお心に夜叉を育てるようなもの、それではお心に安らぎが生まれないのではございませんでしょうか。全能の神は申されました。『汝の敵を愛せよ』と・・・。私は、人を愛するということのためにはお譲りも致しまするが、信仰においては決して譲歩は致しませぬ」 権兵衛は腕を組み、三郎左衛門の話を目を閉じたまま聞いていた。周囲では、何の物音もしなかった。 ──三郎左衛門の申すこと、なんとなく納得できる。わしとて生と死の向こうにある心の本質を知ることができたら、生きたことの意義があったことになろう。もしそれができなかったら、わが生は無意味なものとなる。しかしそうなると、このわしにとって今まで信じてきた幕府とは、藩とは、そして殿とは、いったい何であったのであろうか! 恨みを抱きながらも殿を庇う、この惨めな自分が哀れだ! 権兵衛がそう考えていると、三郎左衛門が苦しい息遣いをしながら言った。「御家老様・・・。御家老様が殿や藩のために一生をかけてやってこられた努力が、このような形でしか報われないことに世の不条理を感じまする」 権兵衛は三郎左衛門の縄目の跡も痛々しい右の手にそっと触れた。しかしその心の中は、千々に乱れていた。そして二人の間には、静かな時が流れていった。やがて権兵衛は三郎左衛門の耳に口を近づけると囁くかのように言った。「わしものう・・・、わしも命をかけて殿や藩を守ろうとしてこういう結末になろうとは、思いもよらなかった。しかしそれを知りながらも、わしは自分で自分を追い詰めてまでこうするのじゃから、人様には不器用な生き方としか見えぬであろうな・・・。ただわしとしては、わしなりに納得して死ねれば、それもよいかと思うてのう。三郎左衛門、まあ笑ってやってくれ。こんな男も生きていたと・・・」 聞こえているのであろうか、三郎左衛門が身じろぎもせぬその獄舎には、夕映え後の暗闇が密やかに忍び寄っていた。 (完)
2008.02.16
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拷問は連日続けられていた。「その方、誰にその教義を教えられた!」 すでに梁に吊され鞭で打たれ、下ろされて水を掛けられて正気に戻ったところで石を抱かされている三郎左衛門を、政重は睨みつけるようにして尋問していた。すでにその肌には死の色が浮き出ていた。 ついに三郎左衛門は、虫が鳴くかのような小さな声で言った。「・・・申し上げまする・・・」 それを聞いた政重は片頬に笑みを浮かべた。「ほう、ようやく話す気になったか。してそれは誰じゃ?」「・・・はい。旅の者にございまする・・・」「此奴! この期に及んで何を抜かすか!」 傍らの役人が三郎左衛門の抱いている膝の石を揺り動かそうとした。「まあ待て」 政重はそれを制すると三郎左衛門の前にかがんで聞いた。「して、その旅の者の名はなんと申す? ん?」「名を聞いてはおりませぬが、北の方に行く途中だと申しておりました」 次に何を言い出すのかと思ったのであろう、三郎左衛門の前に立ち上がった政重の顔を、その役人が見詰めていた。「北の方と申せば仙台であろう? その方が住む三春よりは大分遠いの? ん?」 政重は優しげに鎌を掛けた。しかし三郎左衛門は返事をしなかった。 政重は、江戸や関東の切支丹たちがその信仰や生命を奪われるのを恐れ、遠い奥羽に逃れつつあるとの噂を耳にしていた。しかし仙台と名指したのには、理由があった。それは仙台領の北辺、一ノ関の東が製鉄の産地であり、日に一千貫もの鉄をつくり出す作業所の人夫として多くの隠れ切支丹が群がっていたということである。 ──その逃亡先が神君家康公以来深い関係にあった仙台。大き過ぎる上、鉄は幕府にとっても重要な物資、その上幕府、仙台ともにこれを見逃している節がある。ここに手を入れるのは不味かろう。とは言っても隠れ切支丹の全部がここに留まる訳もない。さすればせめて、弘前や秋田に幕府目付の役人をやって探索させねばなるまい。 そう考えながらも政重は、あくまでも物静かに訊いた。「で三春藩には他に切支丹は何名ほどおる?」「あの周辺では昔から仏様が深く信仰されておりますので、切支丹への折伏など出来たものではございませぬ。それに御禁教ということでございまするから、うっかり折伏などして漏れるのが恐ろしく、話もできず、私め一人で信仰して参りました」 それを聞いて政重はニヤッと嗤った。旦那寺や五人組制度がうまい具合に機能をはじめていると思ったのである。 ──しかし三郎左衛門が本当のことを言っているとすれば権兵衛が嘘を言っていることになる。やはり長綱様を庇ってのことと考えればその辻褄は合う。元三春藩主とその一統に累を及ぼさせぬためには、元家老を切支丹として断罪せざるを得まい。 間もなく襤褸のようになった三郎左衛門は、二人の牢番に引きずられるようにして運び込まれて来た。その姿は見るも無惨な有様であった。権兵衛は三郎左衛門の痛む身体を庇ってそっと横にした。「わしはその方に『隠れろ』と言っておきながら結局引きずり出すことになってしもうた。それにこんなに痛めつけられて・・・、相済まぬと思うておる」「いいえ御家老様。私は自分と同じ切支丹の殿にではなく、われら下々の切支丹を支えてくだされた御家老様に命をお預けしたのでございますから、どうぞそれにつきましてはお気遣いをなさいませぬように」 黙っている権兵衛に三郎左衛門は静かに話しかけた。「それにしても御家老様は、何故御公儀に『切支丹である』と嘘を申されましたか? 以前に『わしも対応の策を考えてみよう』と仰せられましたは、このことであったのでございますか?」 権兵衛は苦笑いをした。しかし返事はしなかった。「ただ御家老様、実は切支丹奉行様に『御家老殿は本物の切支丹か』と問われました」 権兵衛は慌てて聞き返した。「それで奉行になんと?」「はい、『御家老様は切支丹ではございませぬ』と・・・」 権兵衛には、返事が出来なかった。しかし頭の中では、三郎左衛門も要らぬことをと思いながらも、一瞬、命が助かるのでは・・・、と思ったのも事実であった。「結局御家老様は、命を捨てることが分かっておられながら百姓共を救われました。このような場で申し訳ございませぬが、御礼の言葉もございませぬ・・・」「礼をのう・・・、ただ三郎左衛門。わしとて今回の殿の御公儀への告げ口には、腑の煮えくりかえる思いがしておる。それを思えば、州傳寺のご先代の墓碑に悪さを働いた者の気持も分からぬではない気がする」「・・・」「すでにお互いが死罪を待つ身。さすればその方にも隠し立ては無用、実は殿は乱心などではなかった、正気であった」「それはまた、どういうことでございましょう。殿は御乱心とのことで高知お預けになられたと聞き及んでおりましたが・・・。それが嘘だと?」「左様、嘘じゃ。あれはわしが仕組んだ真っ赤な嘘じゃ。乱心ということにして殿が切支丹であることを隠そうとしたのじゃ」「なんと御家老様はそれまでにもして・・・」「うむ、だからもし殿が『三春藩家臣二名、邪宗を信奉す』などと余計なことを言い出されなければ、切支丹の問題がその方に及ぶこともなかった筈。それに何故二人などと具体的に言われたか、それも不思議な話・・・」「御家老様! それでは殿の身代わりとしての嘘の、偽の切支丹ではございませぬか!」 そう強く言った三郎左衛門は、心と身体の痛みに思わず呻いた。「これ、三郎左衛門・・・。そう大きな声でものを申すな。身体に響くであろう」「・・・されど嘘をつかれてまで切支丹となられるのでは、以前に『殿や藩のために捨てる命に悔いはない』と申されていたこととは違うのではございませぬか」「左様、あのときの考えは、耶蘇宗の教えから殿をお救いするための一心からであった。本当に殿をお救いできるものならば、この年寄りの皺腹一つをかき切っても悔いはないと心底そう思っておった。しかるにわしも殿や藩のための切腹こそは覚悟しておったが、このような形で死に様を迎えるとはのう・・・。思いも至らなかった」 権兵衛は三郎左衛門の腫れあがった目を優しく見ながら続けた。「殿はご自身が切支丹であることを隠すためだけの理由で、藩もわれらも見捨てられた。殿は高知に行かれたが、お命は全うされよう。返上でお命を失われるということは、あり得ぬからのう。さすれば殿は、今後三春藩がどうなろうと、もはや関係がないとお考えになられるのかも知れぬ。しかしわしは藩を、三春松下藩を永久に存続させたかった。じゃが頼りにしていた藩が無くなってしまった今になると・・・」 権兵衛は大きな溜息をついた。「わしは御公儀に『松下岩見守重綱が嫡子左助長綱幼稚たれば』とご報告申し上げて殿からの咎めを受けた身。それにわが意に反してここまで進展してしまった事態を、いまさら白紙に戻せる訳もない」「いや、しかし御家老様。白紙には戻せなくとも、神に救いを願うことは出来まする。人間には等しく、全能の神により、身体は滅してもハライソに生きる命が与えられているのでございます。多くの切支丹の信者が踏み絵も踏まずに捕らえられ、転ぶようにと命じられて酷い拷問にかけられ、あげくに十字架に掛けられ火炙りにされても棄教せぬのは、唯一神の御大切(神の愛)とハライソを信じているからに外なりませぬ」「ハライソ・・・?」「はい、仏教に極楽がありますように切支丹にはハライソという天国がございまする」「なんじゃ。それでは仏教も耶蘇宗も変わりがないではないか?」「いいえ、それが同じではございませぬ。われら切支丹は、全能の神との間で交わされた信仰のお約束を一番大事に考える極めて一途なものでございます。全てを知るわれらの神は、『他の神を神とするな』と申されました。それ故にこそ信仰を捨てるということは、自己の命を含む一切を否定することになりまする」「しかし真に神が全てを知られるなら・・・、人が信仰するか否かということなどは、関係がないのではないのか? そこから見れば、わが神仏などは寛容なもの・・・」 そう独り言のように問う権兵衛に、三郎左衛門はかすかに微笑んだように見えた。
2008.02.15
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某、切 支 丹 に て 候 権兵衛は齋藤三郎左衛門を江戸に呼び出した。長綱の言う二人のうちの一人として、その信仰を明らかにするよう、すべてを明かして説得したのである。「分かりました御家老様。しかし殿が切支丹であったことを、はじめて知って驚きました。ところで切支丹である私は死をも覚悟致しまするが、殿が信仰をなされていることとは絶対に関係がございませぬし、私も殿の御信仰について口を割るようなこともありませぬ。そこのところは何卒・・・」「それは分かっておる。ただのう、殿が家臣の二人と申された以上、あと一人を差し出さねば事は落ち着くまい。そこのところをどうするかじゃ」「・・・」「そこでじゃ、その方の切支丹仲間から誰か一人、江戸へ出て来るように説得ができぬか?」「御家老様・・・、私が命を捨てることは、少しも厭いませぬ。しかし純朴な百姓の信者を引き出すのは・・・、それではあまりにも・・・」三郎左衛門は絶句した。「そうか・・・、相分かった。ただ殿が家臣の二人と申された以上その方はともかく、あとの一人が百姓では如何にも間尺に合わぬ。少しわしも対応の策を考えてみよう」「御家老様。私共に対してそこまでのお心遣い、心より御礼を申し上げまする。こうなりますれば私はすでに命を捨てたも同然の身の上、御家老様のお役に立てることがあればなんであれ喜んでいたしまする」 その後権兵衛は、三郎左衛門をそのまま江戸の屋敷に留め置いた。もし幕府から切支丹の調べが入った場合に、『すでに切支丹の身柄を江戸屋敷に拘束しておいた』と説明する積もりであったのである。この早手回しの行為が、もしも起こるかも知れない長綱への疑惑を解くためのよい方法であるとも考えていた。 しかしそれにもかかわらず、幕府の動きも急を告げていた。権兵衛がそれなりの処置を講じてほっとする間もない正保元(一六四四)年の四月九日、幕府に対して加藤家より『門番の斬殺』、また山内家よりは『使者に斬りかかったこと』が乱心によるものとしての顛末と同時に、長綱の領知返上の願いが提出されていたのである。そのため翌十日、長綱に領知返上の沙汰が下されたのである。すでに権兵衛の思惑が外れ、事態は大きく転回をはじめていた。 この返上にともない、この年の四月十四日、幕府は三春城請取の役を寺社奉行であり高崎藩主である安藤右京進重長に命じた。更にその命を受けた会津藩主の保科肥後守正之は下向の暇願いを提出すると、直ちに江戸を出発した。この幕府の処置を聞いた権兵衛は、愕然とした。今までの苦心の数々が水泡に帰しそうなのである。返上とは御家取潰、すなわち藩の解体を意味していた。三春に早馬が立てられ、江戸の屋敷内も騒然としていた。乱心との理由で高知藩山内家に預けられることになった長綱は、迎えの駕籠に乗せられて高知藩江戸屋敷へ移って行った。そしてそれとは行き違いに高知藩の相良文右衛門が使者となり、『万端首尾よく三春城を引き渡しますよう』と伝えてきた。さらに幕府からは三春城在番に棚倉藩主内藤豊前守信照を、その目付として能勢頼重、永井直元らを命じたことが伝えられてきたのである。 ──万事休す。 予想外の展開にそうは思ったが、それでも権兵衛は長綱の嫡子の豊綱が江戸の屋敷に残されていることにまだ一縷の望みをかけていた。仮に減封ではあっても、お家再興の期待が断たれた訳ではないと考えていたからである。──しかしそれには三春城の引き渡しを粛々と進める必要がある。 藩邸に併設されている長屋に起居する藩士たちの動揺を見ながら、権兵衛は再び早馬を三春に発した。 権兵衛からの書状を受けた三春では、家老の主馬と角左衛門がきびしい選択を迫られていた。言わずと知れた、主戦論の台頭である。「われわれは豊綱様が居られるにも拘わらず、藩が返上とされた理由に納得がいかぬ。納得できぬままに御誅伐されるよりは籠城しても自分らの心底を訴え、聞き届けられないときは城を枕にして討ち死にすべきである」 こう主張して城中に立て籠もろうとする藩士たちに、権兵衛は江戸にあって豊綱によるお家再興を主張し、穏便な行動を説得していた。しかし遠くからの説得は、必ずしも意のままには進まなかった。 一方で三春城請取の態勢が着々と進んでいた。 この同じ十四日、江戸を出発していた保科肥後守正之は、途中の栗橋宿から家臣の井深、馬淵らを三春に先発させた。さらに白河と棚倉藩は三春領周辺に藩兵を配し、平藩などは藩兵三百人を出動させた。そのような中で「主馬や角左衛門の説得に応じなかった主戦派は城を離れ、戦闘に備えて近隣の山中に潜んだ」という報告とともに、権兵衛の肝を冷やすような出来事が知らされた。あの州傳寺に葬られた先代の墓地が荒らされ、墓碑に記された法名『州傳院長厳長洋大居士』は、読むに耐えられないほど深く大きく削り取られてしまったというのである。 ──なんということか! それは主戦派の叛意の表れか、はたまた切支丹の者共の恨みによるものであるのか! そうは思ったが今はそれを調べる余裕がなかった。それでもその間に行われていた『お家再興』を願うさらなる説得に、主戦派はようやく矛を収めた。 四月二十日、保科肥後守正之は白河に到着した。そしてこの日、会津藩に三春城が引渡された。これは、江戸の権兵衛が願ったとおりの、平穏な無血明け渡しであったのである。城付けの武具改めや渡し請取も行われず、侍屋敷も帳面のみで行われた。 それらの一切が済んだ後、権兵衛たち家老は、お家再興のための陳情を幕府に繰り返していたが、それは常に気休め程度の返答を引き出すに過ぎなかった。 五月八日、山内家は長綱と嫡子豊綱の高知引き取りを命じられた。その長綱親子には、家老であった藤田主馬の他に松下小源太、松下庄右衛門、鈴木八右衛門、新国平三郎、高瀬三郎介、松山忠兵衛らが高知まで随行して行った。 五月十二日、安藤右京進重長は将軍家光に謁見して三春城請取を復命したが、そのとき『三春藩家臣二名、邪宗を信奉す』との報告を加え、その使命を終えた。この返上後の三春三万石は、幕府代官の樋口又兵衛、同じく福村長右衛門の支配とし、城は隣の相馬氏の警固下とされた。これらを知らされたとき権兵衛は、やるべきことを全てやったにも拘わらず、その心に虚しさが拡がっていった。権兵衛の、『お家再興』の夢も断たれた。 全てを失った権兵衛と角左衛門は切支丹屋敷に喚問された。それを聞いて元藩士の間には動揺が走った。「まさかに筆頭家老であられた松下権兵衛様や木村角左衛門様が切支丹であったとは」 それは誰もが想像し得ないものであった。 切支丹屋敷での問責は厳しいものであった。もとより身に覚えのない二人は必死に抗弁したが、認められることはなかった。しかし権兵衛は、幕府の切支丹取締大目付の井上筑後守政重が発した言葉を身の震える思いで聞いていた。「元三春藩家老・松下権兵衛。その方が切支丹であることは元藩主の松下長綱様より言及があった。あと一名は同じ元家老の木村角左衛門に間違いなかろう。どうじゃ」 いままで長年、長綱が切支丹であることを隠してきたにもかかわらず、その長綱の口から「家老の松下権兵衛と木村角左衛門は切支丹である」との虚偽の報告がなされていたらしいことが、権兵衛にはなんとも納得致しかねた。 ──いったい殿は、何を考えて切支丹はわしだと! 権兵衛は怒りで血の逆流する思いであった。角左衛門もまた想像を絶する面持ちをしていた。しかしこの取り調べに際して権兵衛は自らが切支丹であると告白し、頑として踏み絵に応じなかった。長綱の裏切りにもかかわらず、自分は切支丹であると徹して見せることで長綱を救おうとしていたのである。そのためもあって権兵衛は、切支丹を自認する書状を提出した。『某、切支丹にて候』 しかし井上筑後守政重は、「自分は切支丹である」という権兵衛の主張に、納得することができないでいた。そこで切支丹であることを否定する角左衛門に対して、拷問が準備された。角左衛門は権兵衛が切支丹であると自白しているにも拘わらず踏み絵にも応じ、切支丹ではないことを主張していたからである。一方で権兵衛は、なんとしても角左衛門を救いたいと思っていた。もしも三春藩が存続された場合に備えて、せめて元家老として唯一人残った角左衛門を帰郷させたいと考えていた。 権兵衛は切支丹に対する拷問の厳しさについては、充分に聞き及んでいた。そのため『切支丹は家老の角左衛門ではなく実は割頭の齋藤三郎左衛門であり、すでに江戸屋敷に拘束している』と主張し拷問による傷害を受けさせぬようにと考えていた。今度は三郎左衛門が切支丹屋敷に呼び出されて尋問を受けることになった。その三郎左衛門は、ついに踏み絵を踏むことはなかった。 角左衛門は、ようやく無罪放免とされた。 権兵衛と三郎左衛門の二人は切支丹屋敷に収監された。しかし井上筑後守政重は『踏み絵』に応じなかった権兵衛に対して、疑問を感じていた。その取り調べの返答を通じて切支丹ならざるものを感じていた。これほど耶蘇宗のことに疎い切支丹を見たことがなかったのである。しかし踏み絵を頑固に拒否する権兵衛を見て、それだけを理由として、『切支丹である』との裁断も下せないでいた。 ──なにかを隠しておる。 表面上、元三春藩家老としての立場を考慮したことにして穏便に扱わせながら、政重は考えていた。 ──小藩といえども権兵衛は元三春藩家老、それなりの責任を持って行動をしてきた筈。 そうは思いながらも気になったのは、権兵衛が切支丹でないとすれば、三春領内に別の家臣の切支丹がいる筈ということであった。そのことから政重は早急に手を回した。釈放した角左衛門を「厳しい調べをしない場合には目付を派遣する」と脅かし、領内での踏み絵の実施を命じたのである。しかしその返答は政重の予想に反し、切支丹存在の報告は來なかったのである。 ──本当か? しかしそれは三郎左衛門の拷問で得た返答と一致する。すると権兵衛は、やはり何かを隠しておる・・・。そのなにかとは・・・。 そう考えてきた政重はふと気づき、血の気が引くような思いがした。 ──これは長綱様を庇っているということではあるまいか? すると・・・、あと一人の切支丹とは長綱様ご自身のことではあるまいか! そこで長綱様を詮議するということになれば、いまの三春松下藩小なりと言えども、事は松下本家にも、また場合によっては『賤ヶ岳七本槍』と謳われた加藤本家にも、そしてそれ以上に長綱様の御正室の喜与姫様が家康様の孫にあたられるということから、とてつもない問題に拡大するやも知れぬ。それに元とは言え藩主の取り調べは、わしの権限外のこと・・・。 そう考える政重の額には、深い縦皺が刻まれていた。それには寛永十四(一六三七)年の島原の乱を経験している幕府、その様子を知っている政重にとって、三春藩の調査が予断を許さない結果になることも想像させていた。その上でもう一つの関心事は、耶蘇宗の教えが三春藩にどのような経路で入ったかであった。しかし他に切支丹がいないとすれば、考えられることは三郎左衛門が藩主の長綱に教えを受けたのではあるまいか? という疑惑であった。 ──しかし三郎左衛門は単なる割頭、藩主と直接対話の出来る身分ではない。すると長綱様は元松山藩主の加藤左馬頭嘉明様から続く切支丹でもあると考えられる。そうなると問題は元三春藩主のみならず松山藩累代の身にも及ぶ。ところが長綱様は人も知る乱心者。そうなれば何とでも言い逃れができよう。これであれば尚更のこと、「長綱様は無罪である」と繕わねばなるまい。 そういう論理ではあったが政重は三郎左衛門に対する過酷な拷問をゆるめることはなかった。たしかに三郎左衛門は、取り調べに対して頑なに黙秘を続けていたからである。
2008.02.14
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──さて、苦し紛れに加藤様にああは申したが、困ったことになった。山内家にも事情を話さねばならぬし・・・。 権兵衛は長綱の傍を離れられなかった。もし長綱自身が開き直って、「自分は切支丹である」などと周囲に言い出したら後の始末がつかぬ、と思っていた。 ──すでに幕府には加藤家から松下家の家臣に切支丹がいると伝えられている。かくなる上は、なんらかの処置が幕府から下されることは目に見えておる。殿のこともある。以前に自分が三郎左衛門と切支丹について内密に話し合ったこともある。早急に手当をせねば・・・。 ついに権兵衛は長綱を『押込』にする覚悟をした。そのため権兵衛は、隠密裏に準備をはじめた。事は急を要していた。家老の藤田主馬と木村角左衛門とを江戸の屋敷へ呼び出した。長綱による加藤家門番の殺害はすでに公然の秘密になっており、藩内でも様々な憶測を呼んでいた。権兵衛は今回の『押込』の相談を『加藤家門番の殺害』のみの単純な理由としようと考えていた。長綱が切支丹であることだけは例え家老たちにでもあれ、絶対に内密にしなければならなかった。そのための押込の計画でもあった。幕府が三春藩内の切支丹探索に動く前に、主君・長綱に対して家臣一同が『加藤家門番の殺害』に諌言を為したという実績を作っておくことで、長綱を切支丹探索と切り離しておこうと考えたのである。 通常『押込』とは、藩主に悪行暴政が重なり、これに諫言しても聞き入れられない場合に家老や重臣の指導で藩主を監禁し、改心が困難とされたときには隠居させて新藩主を擁立する行為である。そのためこの押込については家老および重臣たちがその執行主体となり、その合意により表座敷という公的空間において執行される必要があった。つまりこの行為は、単に家老たち個人の私利私欲のためではなく、藩の政治的決断であることを明確にする意味があったのである。それにしてもこの押込の執行については、権兵衛としては胃の痛む思いであった。 このような切迫した状況に思い詰めた顔つきで列座する家老、重臣を前に、なにも知らずに長綱が出座した。そしておもむろに周囲を見ながら口を開いた。「これは物々しい。いったい如何致した?」 権兵衛は不審な顔をする長綱の顔を見返しながら、一膝前に、にじり出て言った。「殿。御身持ちよろしからず、暫くお慎み遊ばさるべし・・・」 この言葉を合図として、次の間に控えていた者たちが敏速な行動を開始して長綱の身柄を拘束し、大小刀を取り上げて準備していた奥の座敷に軟禁した。しかし長綱にとってこの行動は、権兵衛たちの忠義の意志に反して公然たる反逆であった。 しばらくしてその座敷の前に一人で現れた権兵衛に向かって、長綱が叫んだ。「権兵衛! 余を監禁に及ぶとは、なんの恨みやある! 加藤家の門番を斬り殺したのが悪いと申すが、それには理由あってのこと! 余に対して不埒な行いがあらば他家の門番であろうとも手討ちは当然であろう! 余は藩主なるぞ!」怒鳴り続けて疲れたのを確認しながら、権兵衛が言った。「殿、よくお聞き下されませ。今回の押込の本源は殿が切支丹であることと、殿が加藤屋敷より御公儀に提出なされた『三春藩家臣二名、邪宗を信奉す』という文書にございます」意表を突かれたか長綱は黙っていた。「殿が切支丹であることが御公儀に知られれば藩はお取り潰し、その上領内でも切支丹が一人囚われておりますれば、殿の行く末とて無事とは思えませぬ」 権兵衛は軽く首を横に振りながら続けた。「ところが丁度折よく殿が加藤家の門番をお手討ちになされました。そこで恐れながら、殿を乱心者に仕立て上げたいと思ったのでございまする。」「・・・」「誠にご無礼ながらこれを利用し、殿の押込に及んだ次第にございまする。殿には殿の理由がございましょう。しかしそれを今は申されずに我慢をなされませ。折を見て、われら必ず殿の再出勤に尽力致しますれば、何卒われらの意を汲まれてお静かに願いまする」 『再出勤』とは、主君が『押込』の結果として悔い改め、再び藩主としての公務に復することであった。「藩を守り殿を立てるは、われらが本意にございますれば、今しばらくのご寛容を御願い奉りまする」 権兵衛は長綱の座敷の前で平伏していた。懸命に話していたのである。「そうか、その方らの労苦、よく分かった」 長綱が静かにそう言うのを聞いて、権兵衛の目に思わず涙がにじんだ。「権兵衛」「ははっ」「『主、主たらずとも、臣、臣たれ』という言葉がある。余が切支丹であることを知っていながら誰にも話さず、長い間苦労を掛けた。主らしからぬ主で誠に相済まなかった。とは言ってもこの信仰を止めてわが神を裏切ることは出来ぬ。いままでも余は誰にも漏らさず一人で信仰して参った。今後もそうしたいと思う。余は他言をせぬ。それ故このことについては、口を閉ざしていてくれ。後は『再出勤』やその他のことについても一切をまかせる。権兵衛、よしなに頼む」それを聞いた権兵衛は、ようやく長綱の信頼を勝ち得たと思った。権兵衛は感激の涙が流れるにまかせながら言った。「殿。とりあえず殿の御舅様であらせられる高知屋敷に使者を立てたいと思いまする。いずれ何らかのご助力が賜れるものと思いまするに・・・」「うむ、相分かった。その方が申す乱心の方が、切支丹であることよりは罪が軽かろう」「事情のご賢察頂き、ありがとうございまする。殿、この問題につきましては不肖権兵衛、命がけで当たらせて頂きまする」 そう言って頭を下げながら権兵衛は思っていた。 ──大殿、大殿への冥土の土産が出来申しました。老い耄れになった今、ようやく藩の存続に目鼻が立ったような気がいたしまする。 その目からは涙がしたたり落ちていた。それは嬉し涙であった。
2008.02.13
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ある日の午後、上段の間に仁王立ちになった長綱の前で権兵衛は平伏していた。「権兵衛! その方、御公儀に何を申した! 包み隠さず申してみい!」 長綱は興奮で顔を赤くし、その身体は震えていた。寛永五(一六二八)年正月、長綱が二本松より三春への国替えに際して御公儀に提出した文書に、『陸奥国二本松城主松下岩見守重綱が嫡子左助長綱幼稚たれば』と記述していたことを知られてしまったのである。たしかにその文書は、権兵衛が朱を入れて提出したものであった。 ──それにしてもあれは十四年も昔の話。いったい今頃になって、誰が殿の耳に・・・。 権兵衛は冷や汗の流れる思いで聞いていた。「権兵衛! 返事をせぬか!」権兵衛は平伏したまま、返事もできなかった。「その方、何も言わぬと言うことは、知っておるということであろう」「・・・」「それまでにして隠すというのであれば余が言ってやろう。このこと、西山十右衛門昌時が申しておったわ!」 ──そうか、十右衛門昌時様が申し上げたのか。そう思った権兵衛は思わず顔を上げた。 主の長綱が二本松から三春へ国替えになったとき、権兵衛は長綱が切支丹であることを、幕府から隠そうとしていた。そのための方法の一つが若い長綱の出府を遅らせることで諸侯との付き合いをさせないことにあると考え、長綱を『幼稚』という表現で誤魔化そうとしたものであった。それはまた、一途な忠義の心から出たものであった。 ──殿が昌時様のお付きから聞かれたということは、すでにこの話が江戸城内でくすぶっていることになる。するとこの話は意外に広まっているのかも知れぬ。どうするか。 権兵衛の頭の中は、止まることのない走馬燈のように回っていた。 ──どう返事をしたらよいか。 咄嗟のことで気が動転してしまった権兵衛を無視して、長綱は毒づいていた。「たわけ奴! このような話が広まっている江戸城へ、恥ずかしくて余がのこのこと登城のできる訳がないではないか!」 権兵衛は再び平伏した。もうこうなれば何を言われても弁解はすまい、と考えていた。長綱の怒りが鎮まるのを、ただひたすら我慢しているだけであった。 ──それにしても、この『長綱幼稚たれば』という話が広がっているということは、もう御公儀に殿が切支丹であることが知られているということかも知れぬ。もしそうだとすれば藩もなくなる。 そう考えて顔面蒼白となった権兵衛の耳に届く長綱の怒声は、混乱した権兵衛の頭の中で、もはや意味を成していなかった。 その一方で、幕府からの訴追を恐れる長綱の頭の中には、切支丹の処刑の情景が渦巻いていた。それが何時しか自身の姿に見えていたのであろう、怒りは鎮まらず、その声を荒げていた。 翌寛永二十一(一六四四)年三月七日、長綱は権兵衛を供に、収公された加藤孫三郎明勝を江戸の屋敷に見舞った。その帰りがけに、あろうことか加藤屋敷の門番を手討ちにしてしまったのである。 その主の一瞬の素早い動きに、権兵衛の対応が遅れた。あり得べからざることが瞬時に起きたのである。慌てて立ち騒ぐ加藤家の家臣たちを前に長綱を駕籠に乗せ、引き揚げさせるのが精一杯の行動であった。いままで権兵衛は、長綱の行動に異常を感じたことはなかった。しかし先程の行動は常識では考えられない行動であった。 屋敷に戻った二人を追いかけるかのように、長綱の舅にあたる土佐高知藩山内家の使者が訪れてきた。加藤家での騒動を逸早く聞きつけたのである。ところが次の間に通されて待たされていたその使者に、なんと長綱が抜刀したまま斬りかかる勢いで入ってきたのである。権兵衛は家臣の新国平三郎とともに背後から走り寄り、使者との三人で刀を取り上げて奥の部屋に押し込んだ。権兵衛は騒動後の屋敷内の手筈を指示すると、加藤屋敷に急いだ。なにはともあれ謝罪をしなければならないと思っていた。「その方の領内に切支丹が居るのか?」 明勝にそう直截に訊かれたとき、権兵衛は絶句した。今まで隠しに隠してきたことだったからである。「なにか殿がそのようなことを?」 そう権兵衛が訊き返すのに、やや時間を必要とした。なにか長綱が余計なことを言ったのではないか、切支丹のことが元で門番を斬り殺したのではないか、と気を回したからである。「先程長綱殿が来られた折りにわが家臣に書状を書かせ、それを御老中の堀田加賀守様に届けさせたと申すわ」そう明勝は言うと権兵衛の顔つきを窺った。「えっ? わが殿がご当家のご家臣に書を書かせて御老中に届けさせた? なぜ殿はそのようなことを・・・、それは、どのような内容の書状でございましたか?」 権兵衛は驚いていた、そして慌てていた。「うむ。それにはのう・・・、『松下家の家臣に二人の切支丹の者がいる』と書かされたそうなのじゃ。その方なにか知っておるのではないか?」 それを聞いた権兵衛は、長綱のとったこの意外な行動にとまどっていた。「わが藩に・・・、でございまするか? そのようなことは、一向に」「知らぬ、と申すか」「ははっ」「領民はどうじゃ?」「いやぁ、そのようなことも・・・」「知らぬ、か?」「ははっ。・・・ところで加藤様。わが殿は『松下家の家臣に、二人の切支丹の者がいる』とのみ書かされたのでございまするか? 他になにかを申されませんでしたか?」 権兵衛はその方が気にかかり、尚かつ肝を潰す思いであった。その他にも何かを書かせたかどうかを、必死で聞き出そうとした。「うむ、切支丹の者二人としか言われなかったが、むしろそのことを御公儀に書状で提出したということの方が問題じゃ。それにわが家の門番の刃傷に及んだは、これと関連があったのかも知れぬ」 言外に明勝がこの問題を穏便に取り計らおうとしているのを感じながらも、権兵衛は言葉を失ってしまった。 ──殿が切支丹であることを知られるのも困るが、殿の言われる二人の切支丹の家臣とは誰のことであろうか? 刃傷沙汰もさることながら、それをもっと恐れていたのである。 ──しかし切支丹より乱心の方の罪が軽い。 一瞬のうちにそう判断すると、権兵衛は腹を決めた。「実は加藤様。言いにくいことでございまするが、わが殿には御乱心をなされました」「なに、乱心とな? 嘘ではあるまいな」「ははっ、先程の御当家御家臣への手討ち、直後の山内家御使者への刃傷沙汰、みなその表れにございまする。その上わが殿には若い頃よりその気が見えておりました。それを隠すためそれがし、長い間腐心をして参りました」「なんと・・・」「寛永五年、幕府に『長綱、幼稚たれば』とのお届けしたのはそのことでございました。寛永五年と申せば、わが殿は十九歳で元服も済ませておられました。決して幼いなどと申す年ではございませんでした」 頭を垂れたままの権兵衛の声は、心なしか震えていた。「十九歳? そう言えば江戸城内でその話、話題になったことがあった。しかし余は長綱がそうであったとはついぞ気付かなかったが、要するに幼稚とは乱心ということであったのか?」「左様でございまする。殿には、幼いときから好んで食べておられましたものが『砂を噛むようだ』と申されたり、眠れぬ夜が続いたりしておられるようなのでございまする」 そう言うと権兵衛は、がばっとひれ伏した。「加藤様、なにとぞ格段のご助力をお願い致しまする」「そういわれてものう権兵衛。その方も知っての通り余とて今は立場が悪い。長綱は余とは従兄弟、できるものなら何とかしたいが・・・」「加藤様、そこを何とか・・・」 ──殿には相済まぬが、この嘘、何としてもつき通さなければ・・・。 権兵衛は頭を上げることができなかった。
2008.02.12
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寛永十四(一六三七)年、島原藩の各地で切支丹一揆が発生した。有馬村の農民が集会を開いて代官の林兵左衛門を殺害、さらに千々石村、串山村の代官を小浜村で殺害したことから表面化したのである。村々の神社仏閣などを焼き払い仏僧を殺害した一揆勢は、島原城を目指し進軍したが、島原勢により制圧された。そこで一揆勢は有馬の原城に引きこもったが、それを聞いた天草でも一揆が起こったのである。 しかし翌年、これらの一揆は十二万にものぼる幕府連合軍の攻撃を受け、天草四郎時貞を中心とした三万七千の一揆軍は全滅してしまった。その後これらの切支丹は隠れ住むことのみで、その命脈を保つことになる。戦いに際しての素人集団の悲しい末路であった。しかしそのことに関して長綱は何も言わなかった。権兵衛はその様子を見ながら長綱の信仰の深さを推し量っていた。 この年の九月六日、崇源院殿(徳川秀忠室)の十三年忌の御法会が営まれたが、裏門の警備は三春藩の担当とされた。費用はかかったが幕府からのこの命令は、権兵衛を安心させていた。長綱が切支丹でないことが無言のうちに証明されたようなものであったからである。寛永十六(一六三九)年、曹洞宗州傳寺は三春の古くからの同宗天澤寺の相僧録所となり幕府からの禄を賜ることとなった。しかしそのことは、領内での宗門改めの実施を迫られることになったのである。「殿、今度(こたび)の宗門改めは州傳寺様の格上げによるものではございますが、つまりは殿のご信仰の隠匿のため、やむを得ず実施するものでございまする」 権兵衛は長綱の前に平伏したまま話しかけた。「殿、ここは殿のお考えもございましょうが、なんとかいまの内に耶蘇の信仰を捨てては頂けませぬか? 遠い島原の例もございまするが先年の古河、それに米沢、会津、白河さらには二本松の例もございまする」 長綱は権兵衛の願いを聞きながらも、睨みつけたままなにも言わなかった。権兵衛が何を言いたいのか充分に知っていたからである。 この年幕府は諸大名に切支丹の厳禁を命じポルトガル船の渡航を禁止し、さらにはポルトガル人やその混血児たちを国外に追放していた。「殿・・・。これは殿ご自身のことではございまするが藩に関することでもございます。もし殿の耶蘇信仰のことが御公儀に知られればわが藩お取り潰しになるやも知れませぬ。さすれば家臣及び領民どもの一切が如何になりましょうや? そこのところに殿、思いを致して頂きとうございまする」 権兵衛は平伏したままであった。 ──権兵衛奴、遂に口に出したな。余が黙ってさえいればそれで済むことであろう。 そう思いながら聞いていた長綱が、しばらくして口を開いた。「権兵衛、新しい本丸に相応しい鯱を上げようぞ」「はっ・・・? 今、なんと?」 思いもかけぬ言葉に権兵衛は思わず顔を上げた。「何を驚いておる権兵衛。天守閣の上に鯱を上げいと申したのじゃ。当たり前ではないか」「鯱を・・・、でございまするか?」「その方、天主と鯱の意を知らぬか?」 そう言うと長綱は怪訝そうな顔をする権兵衛に、水を得た魚のように話をはじめた。 鯱は魚であるがこの魚はキリスト教とは深い関係にある。昔ロ ーマ帝国の皇帝ネロがキリスト教に対して大弾圧を加えたとき、 隠れて信仰していた人々はギリシャ語の「イエスキリスト」「神 の子」「救い主」の頭文字を一文字ずつとり、これをつないで「イ クトゥス」つまり魚という言葉になることからキリストを魚で象 徴した。「なるほど、意味はよく分かりました。しかし殿、鯱を天守閣に上げるのは、いとたやすいことではございまするが、それでは耶蘇信仰の方は諦めて頂けるのでございまするな?」 権兵衛は強い口調で迫った。権兵衛としては、鯱は胴体が魚で頭部は龍・獅子・鬼などの想像の生き物であり、伝説によると口から水を噴き、激しく雨を降らせることから中国で漢の時代ころから火災除けの呪いとして棟に付けるようになったと思っていた。しかしあえて反論をせず、棄教を誘導しようとしたのである。しかし長綱は強い口調で反駁した。「何を言うか権兵衛、鯱を上げれば朝な夕な天主を仰ぎ見ることで人に知られず祈れるではないか」 ──殿は本気だ。 権兵衛はそう思うと、頭を垂れたまま返事が出来なかった。 その翌年、幕府は四千石の旗本、井上筑後守政重に六千石を与えて下総高岡藩(千葉県下総町)を立藩させ、その上で切支丹取締まりの総元締の大目付とした。宗門改めを兼ねることになった政重は、高岡藩下屋敷(文京区茗荷谷)に被疑者を収容し、過酷な取り調べをはじめた。江戸の人々はこの屋敷を切支丹屋敷と呼び、恐れていた。 権兵衛はやむを得ずこの大目付の要求に従って三春藩にも切支丹奉行を設置した。長綱の信仰を責めながらもそれを隠す、家老としてのやむを得ない処置であった。 権兵衛は齋藤村の割頭である齋藤三郎左衛門を、内密に呼び出した。齋藤村に切支丹がいる噂を聞いたのである。三郎左衛門はその存在の否定を繰り返していたが、ついに自分自身の信仰と若干の百姓共にそれのあることを告白したのである。 三郎左衛門の耶蘇信仰には殿とも関係があるのか? という疑問は是非とも聞きたかったが、この質問はついに口にすることができなかった。それを明らかにすることは、長綱のそれを三郎左衛門にあからさまにすることにもなり、新たな問題の火種ともなりかねなかったからである。三郎左衛門は、自分以外の切支丹については沈黙を守っていた。しかしその沈黙こそが、三郎左衛門の信仰の強さを如実に表していると思っていた。「わしはその方共のことを隠さねばならぬと思う」 権兵衛は言った。「このことを明らかにすることはその方個人のみの問題だけでは相済まぬことになる。信仰を持つ百姓共はもとより、殿にもそして藩そのものにも迷惑のかかること」 三郎左衛門は権兵衛の前に平伏したまま黙っていた。「三郎左衛門、まさかその方が切支丹であったとは思いもよらなかった。それにしても、ここのところを良く考えてもらわねばならぬ、のう?」 返事もならず、三郎左衛門の額には冷や汗が浮かんでいた。 権兵衛は三郎左衛門の傍に来ると軽く肩に触れ、耳に口を寄せて小さな声で言った。「隠れろ三郎左衛門。切支丹を信仰するなら隠れてやれ。わしの言う意味、分かったな? わしはこれについては何も知らぬ」「・・・」 権兵衛は二度ほど三郎左衛門の肩を軽く叩くと立ち上がった。「せめて殿と同じ切支丹を一人、そっとしておいてやりたい」と思ったのである。権兵衛の顔に笑みはなかった。 三郎左衛門は平伏をしたまま身じろぎもしなかった。 その後も権兵衛は、切支丹である長綱と他の家老との接触に多くの注意を払っていた。そしてそのような寛永十九(一六四二)年、三春藩は幕府旗本である西山十右衛門昌時の身柄を預かることとなった。 西山十右衛門昌時は元御蔵入り奉行窪田藤左衛門の次男で、母方の祖父・西山十右衛門昌勝の養子となった。その後大番組頭にまで進んだが、実父である窪田藤左衛門の私曲に連座して三春藩にお預けとなったものである。この事件に関連して切腹させられた者は十五名、斬に処せられた者は八名にものぼる大事件となっていた。この西山十右衛門昌時を預かったとき、権兵衛はその身柄を里見孫兵衛に預けた。里見孫兵衛は家老木村角左衛門屋敷の近くの桜谷にあったのである。これはまた、間接的に角左衛門の監視下に置くことでもあった。 権兵衛がこれほどまで気遣った理由は、十右衛門昌時が旗本であったというのもその一つではあったが、長綱が切支丹であることが知られないようにという配慮でもあった。逆に考えれば、十右衛門昌時という幕府隠密を預かってしまったようなものでもあった。もしも長綱の信仰が知られれば、恩赦を願う十右衛門昌時に格好の情報として通報される危険性が、非常に大きかったからである。 そして寛永二十(一六四三)年、会津藩主の加藤式部少輔明成は、ある問題で将軍家光から厳しく叱責され、会津領四十二万石が収公された。またそれと同時期に二本松五万石の加藤民部大輔明利が病没したため、それを機に嫡子孫三郎明勝も収公され、改めて三千石が与えられた。この間、長綱は加藤の姻戚でありながら、何の処分も受けることがなかった。権兵衛はこの騒ぎの中で、長綱が切支丹であることが明らかにならなかったことに安堵していた。 鯱 天明五(一七八五)年二月に発生した火災は、三春城をはじめ城下町のほとんどを焼き尽くした。焼失した城の修復は直ちに開始され、寛政元(一七八九)年には本丸三階櫓の普請が行われた。この鯱はこの時作成されたものと思われ、実際にはこれと似た瓦が使用されたと考えられている。この小説に出て来る鯱とは別の物である。 (三春歴史民俗資料館蔵・説明も)
2008.02.11
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殿! 御 乱 心 寛永十(一六三三)年、長綱にようやく縁談が舞い込んだ。お相手は土佐高知の城主・山内土佐守忠義の長女の喜与姫である。 ──土佐の高知と言えば以前加藤家のおられた伊豫の松山にも近い。それに喜与姫様の母上は御神君家康様の弟君・忠勝様のお子である上、家康様の御養女様となって山内土佐守忠義様に嫁がれておる。いわば喜与姫様は、家康様の孫にもあたられるお方、これはお家安泰の礎になる。 権兵衛は大いに喜んでいた。 この山内土佐守忠義は、関ヶ原の戦功で遠江掛川六万石から一挙に土佐一国・二十四万石を得た土佐高知の祖・山内土佐守一豊の弟の山内康豊の嫡子である。土佐守一豊の子の政豊に嗣子が無く絶えるところを忠義に譲ったものである。つまり土佐高知の二代目の城主となっていた。 そのような権兵衛の期待の中で、華燭の典が盛大に執り行われた。長綱はこのとき二十四歳となっていた。決して娶るには早い年齢ではなくなっていた。 そしてこの年、幕府は鎖国令を発した。しかし幕府は鎖国政策を進めながらも朝鮮、琉球を『通信の国』とし、オランダ、中国を『通商の国』として認めていた。そこで幕府は長崎、対馬、薩摩、松前の四つの窓口を設け、さらに外国船の寄港地を長崎、平戸に制限して交易を統制し、その収益の独占を計っていた。 ──今後幕府は、さらに切支丹の取締まりを強めるのではあるまいか? まずい。殿には棄教をして頂かねば、いかにもまずい。権兵衛は長綱の幸せを願いながらもそう呻吟していた。そのことを権兵衛が持ち出せば必ず言い争いになることが分かっていたからである。 寛永十二(一六三五)年、会津藩の式部少輔明成は再び切支丹の大弾圧を実行した。捕らえられた中心人物の横沢丹波と切支丹伴天連など信者の六十余名が拷問を受け、薬師堂河原で一斉に火あぶりの刑に処せられた。式部少輔明成は、亡父の左馬頭嘉明の耶蘇信仰を隠すかのように苛酷な弾圧を加えていた。権兵衛は長綱に膝を付け合わせるようにして報告をしていた。長綱も苦しい表情をしながら聞いていた。猪苗代、二本松、白河でも切支丹の処分があった以上、近隣にあたる三春藩に切支丹が一人もいないとは考えられなかった。現に噂もある。もしその噂が表面化し対応を誤れば、御公儀の手が入ることも想像できた。そうすれば、殿の身辺も危険である。しかしそれらの長い話が終わったとき、長綱は「そうか」と言っただけで領内での切支丹の状況を聞くこともなく、その表情を変えることもなかった。 ──おそらく殿ご自身が切支丹に取り込まれているために、切支丹探索を強めるお積りはないのであろう。 権兵衛はそう考えながら帰路についた。丁度、城の大手門から退出するとき、寺町から梵鐘の音が聞こえてきた。権兵衛は夕暮れの濃い藍色の空を見上げた。 ││人の世の苦渋に比して、なんと空の色の美しいことよ。そう思ったとき、「この国には八百万(やおよろず)の神々と多くの仏がおられるのに、なぜ殿は切支丹などというものになられたのか、困ったことだ」そういう独り言が、思わず権兵衛の口をついて出た。 幕藩体制の確立とともにはじめられた参勤交代が、大名の妻子の江戸定住を求めていた。娶ったばかりの喜与姫との同衾は、長綱の心に、さらなる強い信仰を生んでいるかのように権兵衛には思えた。 ──どうしたら殿の信仰を隠しおうせるか? そのことが権兵衛の気持を重いものにしていた。 寛永十三(一六三六)年、長綱二十七歳のとき、従五位下石見守に任じられた。遅すぎた任官であったが、権兵衛は、ほっとしていた。少なくともこれで切支丹のことは知られていないことがはっきりしたからである。 この頃、将軍家光は、日光東照宮の社殿のすべてを建て替えた。この大事業は『寛永の大造替え』と言われた。漆や金箔をふんだんに使い、極彩色の彫刻で飾られた社殿にはオランダ商館から贈られたシャンデリアが飾られ、その境内には外国や諸大名からの献灯が立ち並んでいた。 そして この同じ年、この祝賀のために来日した朝鮮通信使の饗応を、長綱は二本松城主の加藤民部大輔明利とともに命じられた。この役どころは光栄なこととされてはいたが、それにかかる費用は全額が担当藩持ちであった。三春藩としても大きな出費であった。 当時鎖国の中にあった日本で、朝鮮と琉球のみが唯一国書を交換し合う対等の友好国であった。朝鮮通信使は、慶長十二(一六〇七)年以来、文化八(一八一一)年までの間に十二回来日したが、その人数は毎回三百人から五百人という大使節団であった。その中心には朝鮮国が選び抜いた優秀な官僚たちが並び、それに美しく着飾った小童、楽隊、絵師、武官、医師、通訳などで編成されていた。受け入れ側の日本では、幕府老中、寺社奉行を中心に『來聘御用掛』を組織し、『人馬の手配、街道、宿泊の準備とそれら一切の警備』などをしたのである。 このときの朝鮮通信使の一行は四七五人であった。この人数もさることながら、通信使は将軍に献上するために象を連れてきた。こうし交趾(いまのベトナム)生まれのこの象は、中国人の商人が献上したものであった。箱根では新しく象小屋を建て、好物の笹や野菜を準備して象を迎えた。この一行は、その後小田原、平塚、保土ヶ谷、神奈川、川崎で宿泊し、江戸に到着した。三春藩はこの神奈川宿から江戸までの区間を担当した。この珍獣を引いての行列は、否が応でも市井の注目を集めた。一般民衆からも大歓迎を受けていた。それだけにこの注目の的での接待と警備は気の休まることがなかった。やがて江戸に着いた朝鮮通信使の一行は、新しく完成したばかりの日光を表敬訪問した。 役目を終え江戸に戻った長綱は上機嫌であった。そしてその夜、長綱は盃を片手にかたわらの喜与姫に言った。「象とは大きな不思議な形をした生き物であった。それにしても権兵衛、あの長道中を無事に警備をしたは、天晴れであった」「殿のお褒めを頂き、誠に有難き幸せにございまする。それがしもあの象なるを見て、ただただ驚き入った次第でございまする」 酒席のご相伴をしていた権兵衛が言った。城代家老ではあったが、長綱に随行していたのである。 喜与姫が言った。「殿からの伺ったところ、随分と物々しい警備であったそうですね」「ははっ、象は生き物とは申せ上様への献上品でございまする。それゆえ、象に危害を加える者が飛び出してもなりませぬ。またもし見物人が象に近づき過ぎたり、その行動に驚いた象が暴れでもして見物の者に怪我をさせてもなりませぬ」「左様、権兵衛の申すとおり、もし見物人の中に怪我人でも出たらそれこそ藩の名折れ、その上に厳しい罰でも被ったら、それこそ先祖に顔向けならぬ」 そう言いながら、長綱は話題を変えた。「のう喜与、三春の田村大元明王社にあった象の彫り物を覚えておるか? 余は本物の象を見たときは本当に驚いた。彫り師がどこかで見てきたのかと思うほど実に良く似ておったのじゃ。ただ実物の方が長い鼻であり、耳が大きいという違いはあったがな・・・」「まぁ、さようでございましたか・・・、そのような不思議なもの、わらわも見てみとうございました」「その上奥方様。その象の身体たるや、まるで小山のような大きさでございました。その小山のような身体の上に人が乗り、その命ずるところ右にも左にも自在に動き、重い物をその鼻に巻き付けて運び、果てには犬のようなチンチンまでするのですから、これは見ものでございました。しかしそのチンチンも、あの大きな身体でするのでございまするから、見る方も圧倒されて、恐ろしい気がしました」 権兵衛は軽く頭を下げながら言った。「まあ、権兵衛にまでそう言われますと、なおさら見てみとうございます、殿、わらわにも是非見させて下さいませ」 まるで甘えでもするような喜与姫の様子に、権兵衛は思わず目を逸らせた。「これ、そう無理を申すな。すでに象は江戸城内に入っておる・・・。それにしても珍しい生き物であった」「それが奥方様・・・」 思わず権兵衛は話しかけながら、言葉を切った。 喜与姫は興味深そうな顔で権兵衛を見ながら話の先を促した。「権兵衛、いかが致した?」「いやその実は・・・」 再び権兵衛は言葉を濁したが、思い切ったように話を続けた。「実はそれがしも象を見たのははじめてでございまするから、その生態などは知りませぬ、それでも通常に歩いている折はようございましたが突然立ち止まったときは何事が起きたかと驚きました。奥方様、そのとき象は何をしたと思われまする?」「・・・」「何と糞をしたのでございます。この話、奥方様の前ではどうかと思いまして黙ってしまったのでございまするが、ともかくそれがしはそれを見て一安心しました。ところがその後、いきなりあの長い鼻を振り上げたのでございます」「まあ、それでどうなりました?」「はい、それがしも一瞬、象が暴れ出すのかと思って肝を潰しましたが、間もなく大事なくノッシノッシと歩きはじめたのでございます。やれやれと思いましたが、その後に残された糞の多さに魂消ました。とにかく驚くことの連続でございました」「まあ、面白い話ですこと」 喜与姫は口を隠して小さな声で笑った。 権兵衛は、長綱と喜与姫との話を聞きながら、自分と妻との会話のあり方との差を考えていた。それは自分たちとは違って仲がよいというよりも、夫と妻との身分の差を感じさせない話し方であったのである。 ──これが切支丹の言う、男も女も皆同じで身分の上下のないという話し方なのであろうか・・・、亡くなられた左馬頭嘉明様は伊豫の四国第五十三番札所・真言宗智山派圓明寺に切支丹灯籠を寄進した経緯を持たれる。さすれば土佐にてご成長なされた喜与姫様もまた、もともとの切支丹であったのではあるまいか。これについて殿とは話し合われているのであろうか。するとこれはこれでまた難しいことに相成る。 そう思った権兵衛はなに食わぬ顔をしながらも思わず額に手をやった。困ったことになったと思ったからである。しかし権兵衛は話を続けた。「殿のお陰で、それがし冥土へのいい土産が出来申しました。ありがたいことでございまする」 それからほぼ一ヶ後、朝鮮通信使の帰国に際し、三春藩は再び神奈川宿までの接待と警護に当たった。 唐子 岡山県邑久郡牛窓町で毎年十月第四日曜日に疫神社の秋祭りに奉納される舞楽風の踊りがあり、『唐子踊り』と呼ばれる。朝鮮李朝期の衣装である唐装束をまとった童子二人により踊られる。寛永十三(一六三六)年以後は毎回朝鮮通信使一行が寄港ないし停泊した。そのためおそらく韓国から伝承し、稚児舞楽化したものであろう。 朝日新聞・一九八七年十月十八日付記述の『祭りの周辺』に『唐子踊り』が紹介されているが、その写真を見ると、三春人形のそれとそっくりであり、この人形の題名を『唐子踊り』とすることに全く問題はない。牛窓の『唐子踊り』は、上述のように、その由来はほぼ明らかであるが、どのようにしてこれが三春人形に取り入れられたかは明らかでなく、土人形など他の人形にも類例を見ないようである。絵巻物にでも描かれたものを模したものであろうか。今後の解明を待つ他はないが、いずれにせよ、現在も伝承されている古くからの踊りがそのまま『三春人形』の題材となっていることはきわめて興味深い。三春人形の世界はまことに奥行きが深く、当時の文化全般を広く反映していたといっても過言ではなかろう。 (三春郷土人形館蔵・説明文は、三春歴史民俗資料館による) なお、この唐子人形は、朝鮮通信使の衣装ならびに形態を表していると言われる。
2008.02.10
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(加藤氏系図) 「領内にも切支丹が隠れているという噂がある。それが事実かどうか調べるよう申し付けておいたが、その後如何相成ったか?」権兵衛はこう切り出した。すでに州傳寺の工事と一緒に始められていた新本丸建築工事の音が、会議をしているここ三の丸にも聞こえていた。「ははっ権兵衛様。割頭の齋藤三郎左衛門や町方の目明かしなどにも命じて探索させておりましたが、『それらしき者は見あたりませぬ』と言うことでございました」 角左衛門が人の良さそうな顔をして言うのに、権兵衛がかぶせるように言った。「だが角左衛門、『火のないところに煙は立たず』とも申す。この噂はなにかの徴であるまいか?」 権兵衛は長綱が切支丹であることを家老たちが感づいているかどうかが、常に気になっていた。「そうは申されますが権兵衛様。そのような噂などを信じて踏み絵などを実行した他の藩の様子を漏れ聞きますれば、もめ事などが起こりまして仲々に苦労をしておるようでございます。噂だけでは罪人であるとして捕らえる訳には参りませぬし・・・」主馬がいつもと違い慎重な意見を吐いた。「左様でございます権兵衛様。よほど確たる証拠がございますれば話は別でございますが、さもなくば少々様子を見てからでも遅くはないと存じます」角左衛門もまたそう主張した。「しかしのう。わが藩にも切支丹がいるという流言が飛んでいるとすれば、御公儀に対してもそうそう知らぬ顔もできまい?」「しからば現在進められておりまする城下の大工事の様子を申し上げて、切支丹の取り締まりから目を逸らさせる、というのは如何でございましょうか。」 権兵衛は心の中で思わず白けた。このことが、そんな単純な対応で済むとはとても思えなかったからである。「ほう、なるほど、しかし主馬。そのように申し上げることについてはわしも異存はないが、ただ御公儀へのご報告がそれだけで済むかどうか、それが問題じゃ」「とは申せ、あえてこちらから申し上げずとも、御公儀の方から問われてからでも遅くはないのではございませぬか?」 角左衛門はあくまでも明るい顔をしていた。「それで問われたら如何いたす?」「それはそのときのこと。御公儀の申す疑念の点を聞くだけ聞いて、『急ぎ藩に戻り、調べた上でご返答いたします』と申し上げるだけでようございましょう。逆にその疑念の点をよく考慮すれば、何かの意味が分かるかも知れませぬ」思わず苦笑しながら権兵衛が言った。しかしその笑いには、『何も知らぬその方らは気が楽でよい』という皮肉の意味が込められていた。「なんじゃ、主馬も申すのう。しかし、そうそちの言うように、こちらの都合の良いようにばかり参るか? 御公儀は、そう甘いものではない」 それを聞いて主馬は、言いにくそうにして言った。「では権兵衛様は、わが領内に切支丹がいるとでもお考えなのでございましょうか?」 一瞬、権兵衛は、『主馬は殿が切支丹であることを感づいたか』と思ってひやりとしたが、努めて平静を装っていた。「ただわしも参勤交代の折には殿に随行することになる。もちろん殿と一緒に戻ることもあるが、その方らも留守についてはしっかりとのう・・・。わしも年齢が年齢じゃからのう、後を頼むぞ」 自分でも訳の分からぬ言い訳を言うと、権兵衛は黙ってしまった。余計なことを言って尻尾をつかまれたくなかったのである。それで権兵衛は話題を変えた。「どうやら本丸のご普請の方も、うまい具合に進んでおるようじゃ」 寛永八(一六三一)年、会津藩主の加藤左馬頭嘉明は病気のため江戸の屋敷で亡くなり、その長男であり長綱の義兄にあたる加藤式部少輔明成が、会津藩を継いだ。「ご先代様と申せ、会津本藩の嘉明様と申せ、お家にご不幸が相次いだのう。ところでつい先だって明成様は、会津で四十二人の切支丹を処刑なされたそうじゃ。古くは蒲生飛騨守氏郷様以来、また加藤家ご一族にかかわる耶蘇信仰を隠す意味もあったのかも知れぬが、明成様も若さにまかせて強硬なことをなされたものよのう」 二人の家老を前にしたまま、うっかり、『加藤家ご一族にかかわる』などと余計な口を滑らせてしまった権兵衛は、はっとした。しかし松下家とは無関係の話題とでも思ったのか、幸い疑問の声は上がらなかった。それにすでに州傳寺は三春へ移されていたし、長綱の父・重綱の『州傳院長厳長洋大居士』の墓碑は新しく作り直されていた。大きな一つの難問は、人に知られることなく解決されていた。 主馬は額に縦皺を寄せながら言った。「ところで権兵衛様。白河藩の丹羽加賀守長重様は十三人もの切支丹の処刑をなされたとのこと、また周辺の各藩でも切支丹が処刑されている、とのことでございまする」 権兵衛は主馬の返答が終わるか終わらないうちに急いで言った。『加藤家ご一族にかかわる』という言葉に気が付かれないように気遣ったのである。「うむ、そのようじゃの。ここのところ御公儀の締め付けも厳しくなっているからのう。ところでわが領内の様子はどうじゃ?」「ははっ、権兵衛様。ただいま身共が聞いておりまする範囲では、大事ないと承知致しておりまするが・・・」「そうか角左衛門、大事ないと申すか。その方がそう言うなら安心じゃが、なぜ人は隠れてまで切支丹に走るのかのう」 権兵衛は苦々しげな顔をした。長綱の信仰を思い出したのである。「そのことでございます権兵衛様。どうも聞くところによりますと切支丹どもは、『耶蘇とか申す全能の神が只一人天におられ、身分の上下はない』などという教義を触れ回しておるそうにございます」「なんと角左衛門、それはどういう意味か? それでは我らが神仏はどうなるのじゃ?」「それは・・・主馬様、身共もよく知りませぬが、なんでも耶蘇とは唯一絶対の神で、わが国の神仏を共に信仰することは一切認めないとのことでございます」「それでは・・・、我らが神仏とは相容れぬと申すのか? それにしてもいまの話をよく聞くと、そのなんとかと申す神を信じる者どもは、『殿も百姓も皆同じ』と申しているのと同じことになるのではないか?」 権兵衛は二人が長綱についてはまだなにも知っていないような感じに安心はしたが、長綱から聞いていたのと同じその教義の厳しさに、恐れさえ感じていた。主馬もまた驚きの声を上げた。「やっ、待たれい角左衛門。『殿も百姓も皆同じ』とは何を申す、冗談にも口を慎め!」「主馬様にお言葉を返すようではございますが権兵衛様。切支丹どもは『人としては男も女も同じ、違うのは生きるについての役割のみ』とも申しておりまするようで・・・」「なに? 『男も女も皆同じ』とな?」「左様でございます。奴等は、『一旦切支丹とならば、殿といえども一匹の羊に過ぎない』などとほざいておりまする」「羊? 羊とはなんじゃ?」 主馬が問うのを、権兵衛は腕を組んで聞いていた。その話の先の展開が心配であった。「はい、それは神の目から見れば、『あまねく人々は平等、ひとり一人が大切。羊とは神に従順な人間の例え』だそうでございます。「それにしても人間を獣に例えるとは、非道い神じゃな」「ただ主馬様、そのような教えについて考えてみますると、下々の者共が切支丹になりたくなるのも分かるような気がいたしまする。もし国中があの宗教にかぶれることがありますれば、『侍は戦うのが役割、百姓は作物を作るのが役割。違いがあるのは役割のみで身分の上下の差はない』と考えますでしょうから・・・」「すると角左衛門。権兵衛様の前でもう一度言葉を隠さずに訊くが・・・、つまりなんじゃ・・・、その宗派は『天子様や将軍様も、われわれ武士も下々の百姓どもも皆同じ人間だ』と申すのと同じではないのか?」「うーむ、その考えは確かに問題じゃ。それでは世が乱れることにもつながろう」権兵衛はこの話がこれ以上に進まないように、話を引き取ろうとした。 角左衛門が慌てて答えた。「主馬様、間違いのないように申し上げますが、身共はなにもあの宗派の肩を持っている訳ではございませぬ。下々の者共がそう考えるのではありますまいか、と思ったことを申しただけでございます」「分かっておる角左衛門。わしはその方が切支丹だと疑うて言うている訳ではない。気にするな。しかし権兵衛様、もしいま角左衛門の申したことが本当とすれば、これは藩にとっても由々しきことでございまするな?」「うーむ」 権兵衛は唸ると主馬の顔を凝視した。長綱が、以前に光岩寺を三春に勧請したときのことを、思い出していたのである。 ──あのとき殿が浄土宗の光岩寺を勧請しようとしたのは、その教義が切支丹に似たところがあるからであろうか? 浄土宗では、『阿弥陀如来の前では、生きとし生けるものの命は全て尊く、全ては平等である。念仏こそ造像起塔や持戒持律が不可能な圧倒的多数の民衆を往生にみちびく唯一絶対の行であり、念仏往生には善悪や身分の違いなど一切ない』という……。窮極のところ宗教とは同じことを目指しているのではあるまいか。すると何故、御公儀は切支丹を排斥するのか? その昔、織田信長様が弾圧した一向宗と、似たところでもあるのであろうか。それにしても二人は、殿が切支丹であるということに気が付いてはおらぬ、大丈夫だ。 権兵衛はそのような心の内を隠しながら二人に言った。「切支丹に対しての御公儀の厳しい処置の意がわしにもようやく分かった。このような教義では場合によっては幕府の存立にもかかわる重要な問題となる。わが領内が大事ないというのはせめてもの慰めじゃがまずは殿にご報告し、後のことのご指示を仰がわなければ……」権兵衛はあくまでも知らぬ顔をしていた。 ──ともかく角左衛門は『大事ない』と言っていた。会津若松や猪苗代では多くの切支丹が処刑されているそうだがいましばらく様子を見ていても差し支えなかろう。それにしてもこのような過激な教え、角左衛門はどこであの教義の内容を聞いてきたものか。しかしそこを突けば、何が出て来るか分からぬ。困ったな。
2008.02.09
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この「寂滅」は、2005年、新人物往来社の「第30回歴史文学賞第3次選考16篇」に入選し、2007年の「ふるさと自費出版大賞・優秀賞」を得たものです。 寂 滅 隠 れ 切 支 丹 大 名 キリスト教が初めて日本に入ったのは天文十八(一五四九)年のことであった。当初その伝道に当たっていたイエズス会の方針は上から下へということであったので、まず天皇との会見を強く望んだが戦国という時代相もあって天皇の権威は全く地に落ちていた。やむを得ず彼らは、布教の目標を各地の大名に変更した。 地方の大名に接近したイエズス会士らは南蛮交易による利益を教え、さらには軍事的援助をし、その歓心を得て庶民に布教しようとした。この時代は鉄砲の伝来によって戦法が変ろうとしていた時期であり、城砦にも火砲を備える必要が生じていた。それなのに国内では武器や火薬の調達が困難であったため、これらの購入を含む交易は有力な諸大名にとって必須の条件となっていた。そこで諸大名は競って西欧文化の吸収につとめ、切支丹伴天連との引見も繁く行われていた。そこではまた伴天連の歓心を買うために、切支丹となる大名も現れた。それもあって全国の約三十侯が切支丹大名となり、南蛮文化は当時の日本の大流行のような風潮を見せていた。ところが天正十五(一五八七)年、豊臣秀吉は突如としてこれらイエズス会士の国外追放令を発した。 奥州三春(福島県)の田村氏が会津領に編入されることでその領地を失ったのは、豊臣秀吉の『奥州仕置』によるものであった。そしてその会津九十二万石を受け継いだのは、蒲生飛騨守氏郷である。飛騨守氏郷は受洗名をレオと称する切支丹大名であった。 寛永四(一六二七)年、その会津の領主であった飛騨守氏郷の孫の下野守忠郷が、疱瘡のため二十五歳の若さで亡くなった。そのため幕府は出羽上ノ山四万石に封じられていた弟の中務大輔忠知に蒲生の名跡を継がせると同時に伊豫松山二十四万石に転じさせ、その松山城主であった加藤左馬頭嘉明に会津への国替えを命じた。 『賤ヶ岳七本槍』の一人として名を馳せておりながらすでに老齢となっていた左馬頭嘉明は、松山城下近くの和気村にある四国第五十三番札所・真言宗智山派圓明寺に匿名で寄進した切支丹灯籠のことが気にかかっていた。変形した十字の形をとったこの石塔の灯籠には、聖母マリアを写した像を浮き彫りにしていたからである。ただ左馬頭嘉明には、一尺五寸ほどというこの小さなこの灯籠と、地蔵様に似せた形の聖母マリアの姿が、誰にもそうとは気付かれないという自信はあった。しかし松山を離れるに当たっては、その切支丹灯籠を噂にならぬよう内密に取り外しをしなければならないという考えもあって、「整備が終わったばかりの松山城を手放したくない」との理由をつけて松山から離れることを拒んだが、それは許されなかった。やむを得ず灯籠をそのままにして会津に入った左馬頭嘉明は、無城であった三男の加藤民部大輔明利を会津領内の三春三万石に、また娘婿で下野烏山(栃木県)二万石の城主であった松下石見守重綱を同じ会津領内の二本松五万石に任じたのである。 (愛媛県松山市・園明寺の切支丹灯籠と案内文) この二本松城主となった石見守重綱の父の松下加兵衛之綱は遠江久野(静岡県袋井市)一万六千石の城主であったが、一時、のちの豊臣秀吉が仕えたことがあった。そのとき秀吉は松下氏に敬意を表して公を外し、木下藤吉郎と名乗ったという。 その関係もあって松下岩見守重綱は豊臣秀次に近侍していたが、之綱の死後は徳川家康に従うようになり、関ヶ原の合戦では東軍に属して岐阜城攻めに参加した。そして美濃の郷戸川では石田三成と戦って自らが敵の首五十余を得る奮戦をし、さらには島津義弘を打ち破った。その後、石見守重綱は徳川秀忠付きとなるが、許可なく久野城に石垣を築いたため常陸小張(茨城県伊奈町)一万六千石に国替えを命じられた。しかし大坂夏の陣では天王寺口の一番槍で首十七の手柄を立て、下野烏山の二万石を拝領していた。 ところが、下野烏山から二本松に移されて僅かに数ヶ月後、石見守重綱は病気のため急死してしまった。そのため左馬頭嘉明は三春に入れたばかりの民部大輔明利を二本松に移し、石見守重綱の嫡子の松下佐助長綱を二本松から三春に入れ替えた。当時の長綱は未だ独り身であったこともあってか、二万石の減封とされたのである。 寛永六(一六二九)年、幕府は切支丹を見つけ出すため、踏み絵を開始した。この踏み絵は切支丹独特の信仰への態度、つまり自分の命を棄ててでも自分の信仰を守っていくということを知っている、いわゆる転び切支丹よりの提案であったと考えられている。 その翌年、徳川家康を祀る日光東照宮が造営された。そこで日光から四十里四方を聖地と定めた将軍家光は、日光参詣の際に棄教を強制された切支丹たちに反抗されるのを恐れた。そのため幕府は下総古河領やその周辺を急襲し、切支丹約六百人を思川と渡良瀬川の合流する三角地の下宮村(栃木県藤岡町)に追い立てた。ところが、たまたま豪雨のため川が増水したのを機に、下宮村の堤防を夜半に掘削して決壊させ、約四百人を一夜にして水死させた。そして残りの約二百人には無理矢理棄教させた上で帰農させ、それでも棄教しない九十五人を古河城外の金掘谷に連行し、礫にして皆殺しにしてしまった。家光の『寛永の治』と言われた事件である。この古河での事件以来、幕府は信仰を捨てるように命じても従わない者たちには極刑を与えるようになった。そのため、これらの迫害から逃れようとして切支丹たちはその信仰を隠し、西国や関東から比較的取り締まりのゆるく、かつ新たな開墾地を多く抱えて人の少ない奥羽や蝦夷地へと移動をはじめた。 (これはイタリアのアッシジの土産物屋で買い求めたタウ十字架のネックレスである) 切支丹灯籠 ギリシャ語のアルファベットではTをタウと言うので、この形の十字架はタウ十字架とも言われる。これは上部がカットされた珍しい形の十字架で旧約の十字架とも言われ、モーゼが荒野で蛇を持ち上げたときに用いた竿がこの形をしていたとされる。このことから、後に十字架にかけられたキリストの予表であるとされている。 (ヨハネ3;14) 伝説によると、聖フィリポがこの形の十字架を付けて殉教したとされることから、聖フィリポの十字架とも言われる。 この園明寺のタウ十字架は、切支丹迫害から逃れる目的で使用されたものと思われるが、よく見ると登頂部分が若干高く平になっている。もしここに7本のローソクを立てれば十字架の形になる。一見、灯籠らしからぬ形にもかかわらず、切支丹灯籠と伝えられた理由が、ここにあるのかも知れない。 7つの燭台(ローソク)については、ヨハネの黙示録1:19,20節において、「7つの星は7つの教会の天使たち、7つの燭台は7つの教会」と説明されている。
2008.02.08
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