三春化け猫騒動(抄) 2005/7 歴史読本 0
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安倍文殊堂 田村市船引町文珠に、日本五大文殊の一つとされる清凉寺安倍文殊堂があります。第70代後冷泉天皇の御代、奥羽・出羽の領主安倍貞任がこの地方の巡検をした折、髪の毛に結わえていた自分の守り本尊、三寸の紫金銅(黄銅)の大聖文殊大士(たいしゃくもんじたいし)と北斗妙見大菩薩摩利支天を祀ったのが由来とされ、毎年四月二十九日の例大祭には、地元の子供たちが平安時代を思わせるきらびやかな衣装に身を包んだ稚児行列が行われ、樹齢400年のうっそうとした杉並木の参道を、ほら貝を吹く冨塚祐信住職を先導に、梵天を持った世話人や稚児、保護者など約60人が本堂を目指し参道を練り歩きます。文殊さまと言えば学問の神様です。そのご利益にあやかろうと、多く人が学業成就、合格祈願に訪れるお堂です。 さてその安倍貞任ですが、彼はどのような人で、本当に船引町に来たのでしょうか? 永承六年(1051)、安倍氏と朝廷から派遣されていた陸奥守の藤原登任(なりとう)との争いに端を発して、以降12年間にわたって続いた前九年の役において、安倍氏は東北各地において善戦したと記録にあります。しかし登任の後任として源頼義が翌年に赴任すると、後冷泉天皇の祖母の病気快癒祈願のために大赦が行われ、安倍氏も朝廷に逆らった罪を赦されました。ところが天喜四年(1056)に、源頼義の部下が阿久利川畔の野営において何者かの夜襲を受けて人馬が殺傷され、このため前九年の役長期化の原因のひとつとなった阿久利川事件がありました。この事件の折、頼義が藤原光貞を呼び出して心当たりの犯人を尋ねると光貞は「安倍貞任が私の妹を妻にしたいと願ったが、私はいやしい俘囚にはやらぬと拒んだのを逆恨みしての襲撃以外考えられない。」と申し立てました。 これを聞いた頼義は大いに怒り、真相を確かめることもなく、安倍頼時に命じ、息子の貞任を出頭させて処罰しようとしたのですが、頼時は父親として「貞任ハ愚ナレドモ父子ノ情、棄テラレンヤ」とこれを拒絶したので、再び開戦となりました。天喜五年、安倍頼時が戦死したため貞任が跡を継ぎ、弟の宗任とともに一族を率いて戦いを続けたのです。 天喜五年(1057)十一月、陸奥守・源頼義は多賀城の国府軍1800を率いて安倍氏を討つべく出陣しました。しかし厳しい雪の中で行軍は難航し、食糧にも不自由する有様で、黄海の戦い(きのみのたたかい)において完敗、国府軍は数百の戦死者を出したのです。源頼義は、息子の源義家を含む供回り6騎で命からがら安倍軍の追跡から逃れました。二本松市木幡字治家地内にある木幡山には、このとき源頼義の一行がここへ逃げて立て籠もり、追ってきた安倍の軍勢が、一夜にして全山が雪で白くなった様子を源氏の白旗に見違えて戦わずして敗走したという伝説があります。現在『木幡山の幡祭り』として伝承されています。この戦いの後、暫くは国府を凌いで安倍氏が奥六郡の実権を握ることとなったのです。安倍氏は衣川以南にも進出しましたが、康平五年(1062)、俘囚の長として一族を配置し、一族・郎党を武装させ家臣化していた強力な武士団となっていた清原氏が源頼義側に加勢したので形勢が逆転して劣勢となり、厨川(くりやがわ)の戦いで貞任は敗れて討たれたのです。これらの史実から考えられるのは、貞任の活動範囲が衣川以南とはありますが、いまの岩手県以北のことと思われます。つまり貞任は、船引には来ていないと考えるのが順当ではないかと思っています。なお『陸奥話記(むつわき)』によりますと、貞任の背丈は六尺を越え、腰回りは七尺四寸という容貌魁偉な色白の肥満体であったと記述されています。 明治三十七年に出版された『田村の誉』誌に、次の記述があります。ただし私が、現代文に書き直しています。 『天喜五年十一月、安倍氏は河崎柵に拠って黄海の戦いで国府軍に大勝した。以後、衣川以南にも進出して、勢威を振るったが、康平五年七月、清原氏が頼義側に加勢したので形勢逆転で劣勢となり、安倍氏の拠点であった小松柵・衣川柵・鳥海柵が次々と落とされ、九月十七日には厨川の戦いで貞任は敗れて討たれた。深手を負って捕らえられた貞任は、巨体を楯に乗せられ頼義の面前に引き出されたが、頼義を一瞥しただけで息を引き取ったという。享年44、もしくは34。その首は丸太に釘で打ち付けられ、朝廷に送られた。なお、弟の宗任は投降し、同七年三月に伊予国に配流され、さらに治暦三年(1067)太宰府に移された。』 どうもこれらの資料から見るに、安倍貞任がこの地方の巡検をしたという記録がありません。しかしこの近くでは、安倍貞任の兵が二本松の木幡山に源頼義を攻めたとの伝説がありますが、伝説上でも木幡山から北へ転じています。ましてや髪の毛に結わえていた自分の守り本尊、三寸の黄銅の大聖文殊大士(たいしゃくもんじたいし)と北斗妙見大菩薩摩利支天を祀ったのが由来としていますが、そういうことは、あり得ないのではないかと思っています。では安倍文殊堂のこのような謂れはどこから来たのでしょうか。 三春秋田氏は、安部貞任の子孫とも言われますが、安倍あるいは安東が本来の苗字です。秋田を本拠としていた実季は、出羽国の支配者の官職である『秋田城介』への任官を欲したため、苗字も安東から秋田へ替えました。しかし任官運動中にいまの茨城県笠間市宍戸に転封され、正保二年(1645)、宍戸から三春城主として入城しました。秋田氏は祖先の由緒ある菩薩を信仰していたのですが、三春に入府に際して厨子一基を寄進しています。どこに寄進したとの記録はないようですが、安倍文殊堂の毎年の祭礼の際には、重臣に代参させています。秋田氏はこの山の景色を愛でて山頂に新たな屋敷を造作し、その屋敷の前には数千の桜を植えさせました。階段の左右には無数の躑躅(つつじ)を植えたので、花の時期には赤い毛氈を敷いたようであったと言われます。現在のお堂は、天明三年(1783)に堅牢な木材と巧妙な彫刻もって改造されたのですが年を経るに従って腐食したため、明治三十一年に、およそ三千円をもって大修繕を行っています。 これらの記述と、貞任がいまの岩手県以北で活躍したという史実を合わせてみると、貞任が船引町に来て安倍文殊堂を作ったのではなく、秋田氏が先祖を顕彰するために造営したものではないかと思っています。 ところで、前の自民党総裁の安倍晋三氏が「私は、阿部貞任の末裔です。ルーツは岩手県。その岩手県に帰ってきた。」と参議院議選挙の遊説先の岩手県北上市で演説したそうです。北上市は『旧生活の党』の小沢一郎代表の本拠地で衆議員の選挙区岩手4区です。小沢一郎氏の威光はすっかりかすみ、各陣営は票の上積みに向け『小沢票』の切り崩しにやっきのときであったそうです。安倍晋三氏は、演説の『つかみ』で親近感を強調したかったようです。安倍晋三氏が古代奥州の俘囚長を称した安倍氏の末裔であるかどうかの真偽は分かりませんが、恐らく代々安倍家に伝承されてきた話ではないかと思われますので、何らかの真実を含んでいるのではないかと考えています。そしてこの話は、会津若松の演説会でも披露されたのですが、反応はイマイチであったそうです。この話は会津若松でではなく、田村市や三春あたりでやれば、良かったのかも知れません。安倍貞任伝説は、東北や関東に数多く伝承されているのですが、研究者の調査によると貞任伝説の分布は広く、西日本から九州にまで及んでいるそうです。安倍文殊堂建立のこのような話は、その一環であるのかも知れません。 <font size="4">ブログランキングです。 <a href="http://blog.with2.net/link.php?643399"><img src="http://image.space.rakuten.co.jp/lg01/72/0000599372/67/img25855a93zik8zj.gif" alt=バナー" height="15" border="0" width="80"></a>←ここにクリックをお願いします。</font>
2021.09.01
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日本におけるキリスト教の源流 最初に日本にキリスト教が伝来したのは、5世紀の頃という説がある。この説によると、中国で景教と呼ばれたネストリウス派キリスト教が、聖徳太子に強く影響を与えた人物とされる秦河勝(はたのかわかつ)などによって日本に伝えられたというのです。このネストリウス派とは、古代キリスト教の教派の一つですが、431年、トルコのエフェソス公会議において異端認定されて排斥されて中国へと伝わり、唐代の中国において、景教と呼ばれました。景教とは中国語で『光の信仰』という意味であり、景教の教会が唐の時代、大秦寺(たいしんじ)、大秦とはローマ帝国の意味ですが、この名称で建造されました。 当時、日本からは、遣唐使が派遣されていました。弘法大師空海は、伝教大師最澄とともに入唐しています。そして弘法大師は、景教徒の集まりにも足を運んでいたそうです。弘法大師が長安にいたときに、景教徒の般若三蔵という人物に会い、景教の知識を吸収したと言われます。弘法大師は、絶対者をめぐって般若三蔵とかなりの論争をしたと言われ、実在する救い主は誰かという議論になったとき、弘法大師は、「それは仏陀だ」と主張したのですが、般若三蔵は、「違う、キリストだ」と反論したというのです。般若三蔵とは、南インドで密教を学んだ後、中国にやって来たといわれる僧で、弘法大師はこの般若三蔵からサンスクリット語を学んでいます。弘法大師がこの般若三蔵に紹介されて、すぐ近くに住んでいたという景教の僧の『景浄(シリア語でアダム)』に会ったに違いないとは、ほとんどの学者の間で意見が一致しているそうです。 弘法大師は、景教、つまりキリスト教について、かなりの知識を吸収したと言われます。しかし般若三蔵は、般若心経は旧約聖書と同根の経典だという考えを持っており、純粋にキリスト教的考えの持ち主ではなかったようです。それでも般若三蔵は、自分で翻訳した経典や、集めたものを日本に持ち帰るようにと、弘法大師に贈りました。それらは、マタイの福音書や十戒、その他基督教の文書であったと言われます。さらに弘法大師は『潅頂(かんじょう)』、つまりキリスト教で言う洗礼を受け、『遍照金剛(へんじょうこんごう)』という洗礼名が与えられたといわれます。この遍照とは、『光明があまねく世界を照らす』という意味で、聖書『マタイの福音書・五章一六節』の、『あなたがたの光を人々の前で輝かせ』の漢語から取ったものだと言われています。このため弘法大師の思想の中には、キリスト教的なものが混合するようになったと言われます。唐で修行を重ねた弘法大師は、帰国したのち、高野山で真言宗を創建しました。 ところで、弘法大師はその死に臨んで、「悲嘆するなかれ。われは弥勒菩薩のそばに仕えるために死ぬが、56億7000万年ののち、弥勒菩薩と共にふたたび地上にまみえん」と弟子たちに語ったといわれます。弥勒菩薩が将来人々を救いに来るときに、自分も復活するというこの信仰は、まさに、『キリストは復活する』という信仰と同じものです。さらに真言宗では、密教儀式の最初において十字を切る動作をするというのもキリスト教に似ているそうですが、これは、他の仏教にはない動作だそうです。それに金色の羯磨(かつま)や金剛杵(こんごうしょ)は、十字架に似た形態で、密教の儀式には欠かせない道具となっています。 ところでその唐の時代につくられた景教の石碑が、1368年から1644年の明の時代になって、長安で発掘されました。そして、それからさらに約300年後の明治の末、来日した仏教史学の権威であるイギリス人のエリザベス・ゴードン女史が、『弥勒菩薩』についての語源を調べた結果として、「ヘブライ語の『メシア』が、インドでは『マイトレィア』となり、中国では『ミレフ』、日本では『弥勒』となったと説明し、「ヘブライ語のメシアはギリシャ語のキリストである」と結論付けました。 ゴードン女史は、仏教とキリスト教の根本は同一であるという『仏基一元』の研究者であり、真言宗と景教の関連性を確信して、中国の長安にある碑林博物館所蔵の『大秦景教流行中国碑』を忠実に再現、明治四十四年(1011)に、高野山の奥の院に、高さ3・6メートル、幅1・5メートルの黒色石灰岩で、亀趺(きふ)(亀状の石碑の台)の碑座に建てました。そしてこの景教碑の横には、大正十四年(1925)に京都で死去したゴードン女史の墓石がありますが、それは自らの遺志で奥の院に埋葬されたもので、その側面には、『密厳院自覚妙理大姉』という戒名が刻まれています。この記念碑やゴードン女史の墓石の建立について高野山が容認したということは、景教との関係を認めたということなのかも知れません。とは言え、景教が、いわゆるキリスト教として、そのまま日本に伝わったとは思われません。 これに関連するかどうかは分かりませんが、『いろは歌』があります。『いろは歌』の成立時期については諸説あるのですが、文献として最も古いものが、承暦三年(1079)に成立した著者不明の「金光明最勝王経音義(こんこうみょうさいしょうおうきょうおんぎ)」に記されていますが、景教が伝来してから約500年後のことになります。ところが不思議なことに、この『いろは歌』に、キリストに関するメッセージが折り込まれている、というのです。『折句(おりく)』と言われます。 いろはにほへと ちりぬるをわか よたれそつねな らむうゐのおく やまけふこえて あさきゆめみし ゑひもせ す」 この『いろはにほへと』を7文字ずつ並べて書いて下の文字を右から読むと、『咎(とが)なくて死す』、すなわち、『罪がなくて死んだ』の意味になります。そこでさらに、もう一つの折句です。この『いろは歌』、の各行一番上の文字を右から横に続けて読みますと、『イチヨラヤアエ』となります。これはヘブライ語の、『イーシ・エル・ヤハウェ』であり、イーシとは人を意味し、ヤハウェとは神の名であるということから、イエス・キリストそのものを表すというのです。そこでこの二つを合わせると、『イエス キリストが、咎なくて死なれた』というメッセージが、折り込まれているというのです。(中島尚彦『日本シティジャーナル編集長』の説)江戸時代には「咎なくて死す」とある『いろは歌』は縁起が悪いから、手習いに用いるべきではないという意見もあったそうです。ストレートにキリスト教とは言わないにしても、景教という形で日本にキリスト教が伝わっていたことに、驚いています。 さて話が変わりますが、岩手県一関市には、隠れキリシタンと河童の間に次のような話があるそうです。江戸時代、一ノ関の猊鼻渓のある砂鉄川で砂鉄を採取していた隠れキリシタンたちは、苛酷な作業に耐えていました。ところが彼らは、本当は河童たちであったという話なのです。川や水辺に出てくる河童の頭の上には、丸い皿があります。この皿には常に水が張られていて皿が乾いたり割れてしまうと力が出なくなるという話は洗礼を表しており、その皿自体が切支丹伴天連の象徴であるというのです。この皿の周囲に頭髪がグルリと回っているその姿は、頭頂部を剃った伴天連の頭であり、さらに外套のような甲羅を背中につけているというのです。これはポルトガル語でのカッパ、つまり外套を着た宣教師の姿だというのです。また『河童の川流れ』という言葉があります。これは川に入って砂鉄を採取していて、水流に流されたということだったのでしょうか。また一方で、河童は恩義に厚く、田植えを手伝ったり、毎日魚を届ける姿という話も、数多く伝承されています。この行為にも、慈悲を説いたキリスト教が感じさせられます。また上岡龍太郎氏はその著書『龍太郎歴史巷談』において、「河童の正体は弾圧から身を隠し、暗闇の中で水浴びをしていたキリシタンである」と推理しています。ところで一ノ関の山の中に、ダビデの星の付いた古い多くの墓石があるのです。これもまた、隠れキリシタンと河童の伝承を生んだ理由の一つなのかも知れません。ところで、三陸沿岸の釜石と北上高地の遠野の間の山岳地帯は、片羽山の雄岳を主峰に六角牛山、雌岳、大峰山、岩倉山など1000メートル級の高峰が連なり、良質な鉄鉱石に恵まれた地域です。この河童の伝説が遠野市に多いのは、これと関係があるのかも知れません。 <font size="4">ブログランキングです。 <a href="http://blog.with2.net/link.php?643399"><img src="http://image.space.rakuten.co.jp/lg01/72/0000599372/67/img25855a93zik8zj.gif" alt=バナー" height="15" border="0" width="80"></a>←ここにクリックをお願いします。</font>
2021.08.20
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穢多と非人と乞食 今は死語となっていますが、『穢多』と『非人』さらには『乞食』などという言葉がありました。 穢多とは、日本の仏教や神道における『穢れ』の観念からきたもので、『穢れが多い仕事』や『穢れ多い罪人』が行なう生業の呼称でした。穢多は、平安時代には賤民と言われたもので、その発生元は、『天皇の屋敷の庭掃除』から始まると言われます。天皇が行幸する前に、道路にある死体や動物の遺骸、ゴミなどの清掃を行ったために、『屍体を取り扱う賤しい者』つまり賤民とされたのが、大雑把な理由です。穢多とは、主に皮革に関わる仕事で、武器や馬具、羽織、下駄や雪駄の鼻緒、更には太鼓の皮を張る仕事などに使われました。 江戸時代になって確立された穢多は、皮革製品製造業などの『死穢(しえ)』に直接関わることを生業とした人々のことを言うようになりました。この『死穢』とは、死による穢れのことで、古代や中世において死は恐怖の対象と見られ、死は伝染すると信じられていました。そのため死体と接する遺族は死穢に染まっていると考えられ、清められるべきものと考えられたのです。現在でも葬式に出た者が家に入るときに、清めに塩を使うのはそのためです。そのほかにも穢多は、罪人の遺体処理や道端に転がっている動物の死骸の処理などに直接携わったことから、彼ら自身も穢れているとされ、忌避されたのです。 これらの穢多を管理するために、幕府の下で、東日本全域の被差別民を支配した『穢多頭弾左衛門』が任命されました。江戸の被差別民は、この弾左衛門の直接・間接の支配下にあって、被差別民の仕事とされるさまざまな仕事に従事し生活していました。弾左衛門は、被差別民であった穢多や非人の頭領であり、幕府から水戸藩、喜連川藩、日光神領などを除く関八州と伊豆全域、及び甲斐 山梨県の都留郡、駿河 静岡県の駿東郡、陸奥の白川郡、更には三河、いまの愛知県の設楽郡(したらぐん)の一部の被差別民を統轄する権限を与えられ、触頭と称して全国の被差別民に号令を下す権限をも与えられたのです。ここに陸奥の白川郡が出てきます。白川郡は陸奥国とは言っても、坂東、つまり今の関東圏と考えられていたのかもしれません。ところで『穢多頭』とは幕府側の呼称であって、自らは代々長吏頭(ちょうりがしら) 矢野弾左衛門と称していました。また浅草を本拠としたため浅草弾左衛門とも呼ばれたのです。しかしこの蔑視という考え方は、この地方にまで広がっていたのです。彼らは城下町から離れた場所に住み、部落民と蔑称され、隔離されていたのです。 弾左衛門による支配の根拠となったのは、鎌倉幕府初代将軍である源頼朝より下された認可状を元にしたもので、そこには芸人などの支配権も明記されていたようです。その芸人のなかに、猿回しなども含まれていました。その身分は、穢多と非人の中間とされたようです。江戸では、猿飼頭長太夫と門太夫の両人が支配していました。この二人は猿回しだけでなく、厩のお祓(はらい)なども行なっていました。弾左衛門の屋敷は浅草新町にあり、その屋敷のまわりを寺や神社や店で囲い、周囲からは見られない構造になっていました。屋敷内には長屋式の住居と皮革関連の作業場があり、常時300人が暮らしていました、屋敷内で生活はできましたが、塀の外の庶民との交流はなく、隔絶された屋敷であったと言われます。このことは、弾左衛門の支配する以外の地でも、同様の状況にあったと思われます。このように、彼らは町人とは別と考えられるようになり、いつしか町人から分離された所に部落を作って住むようになりました。そのため彼らは部落民と呼ばれるようになったのですが、現代では部落という単語は差別語とされ、集落と呼ばれるようになっています。 幕末において13代目であった弾左衛門は、関東、伊豆などで10万人の穢多や非人を従え、金銭も多く蓄え、一説には大名のようだったといわれます。しかし弾左衛門は兼ねてから身分の引き上げを願っていました。そこで幕府の兵力の増強に力を貸し、長州征伐、鳥羽伏見の戦いには多くの穢多や非人を兵隊として差し出していました。先代の弾左衛門が病気の折りには、御典医松本良順が診察したことがあり、この良順を通じて新撰組ともつながりをもち、甲陽鎮撫隊にも参加させています。このときには、新式の銃に資金1万両をつけて200人を参加させたという説もあります。なお穢多という呼称は、明治時代に廃止されました。 非人という言葉は仏教に由来するとも言われます。非人は刑場での仕事、屍体の処理などで、生計を立てていましたが、土地などの財産は持てませんでした。江戸の非人には、抱非人と野非人との別がありました。抱非人は、非人小屋頭と言われる親方に抱えられ、各地の非人小屋に定住していましたが、彼らを監督するこのように非人小屋は、江戸の各地にあったのです。野非人は『無戸籍者』でしたが、飢饉などになると一挙に江戸に集中しました。非人には、以前は武士であったり、町人からドロップアウトした人々などもいて、社会のシステムからはぐれ、はじき出されてしまった人々の落ち行く先でした。武士であった人たちの中には、強い者たちへの反発心と、弱い者たちへの同情心。いわば『任侠道』にも似た精神が育まれていったと考えられています。そこには当然、犯罪者なども逃げ込んでいたことでしょうし、そのためにヤクザなどの裏社会とも繋がり易かったろうし、むしろヤクザとなった者も少なくないと言われます。 乞食とは『物乞い』などをして歩く者で、特に生業に付けなかった者とされます。私も子供のころ、店の前に立って「ものもらいです。」などと言って手を出している男の姿を見た記憶があります。第二次大戦前であったように思います。正業を持たずに、人から金や食料を恵んでもらう者たちを言いました。それに似た者に、『河原乞食』がありました。これはその名が示すように、河川敷などで芝居などの見世物の興行を行っていた者たちですから、むしろ生業を持っていたと考えられます。いわゆる『ものもらいの』乞食とは、一線を画すべきかもしれません。 当時の旅回りの役者は、幕府より常設の小屋を設ける許可をもらっていました。しかし旅の芸人たちが小屋掛けをして芸を披露する場合、人の土地に勝手に小屋掛けするわけにはいかないので、誰の土地でもない河原に小屋を掛けるようになりました。芸人とは芸を見せてお金を恵んでもらう者たちでしたが、河原などに住む不浄の者たち、つまり河原乞食と言われたのです。河原という場所は葬送の場所であり、遺体を棄てる場所でもありました。つまり河原は、『不浄』な所とされていのです。そのような場所に小屋を掛け、寝泊りするような者たちは不浄な者たちだとされました。役者をはじめ、芸人一般の蔑称である『河原乞食』の由来がこれです。この地域でも、常設ではありませんでしたが、守山藩の田村大元神社の祭礼などには、阿武隈川の河原で芝居などが興行されていたのです。 ところで歌舞伎役者なども、初めは弾左衛門の支配下にありました。しかし弾左衛門による支配は不当であるとして、初代市川團十郎をはじめとする歌舞伎役者たちが、奉行所に訴えを起こしました。これが認められ、歌舞伎役者は晴れて非人身分から解放されました。しかし非人ではなくなったとはいっても、役者芸人であることには変わりなく、扱いそのものは変わることはなかったようです。歌舞伎役者たちは役者業のほかに、小間物屋などの店を構えていました。町人としての正業はあくまで商店主で、それが役者も兼ねているという形をとったのです。この店の屋号が、そのまま彼ら歌舞伎役者の屋号となりました。『成田屋』『成駒屋』『播磨屋』『沢潟屋』などの屋号は、いわば役者差別の名残のようなものと云えるかもしれませんが、のちに庶民が店を開くときに、歌舞伎役者が◯◯屋などという屋号を付けたことから、歌舞伎役者が屋号を付けることの先駆者となったのかも知れません。。また後に、商人が○○屋というようになったのは、これが元なのかも知れません。 <font size="4">ブログランキングです。 <a href="http://blog.with2.net/link.php?643399"><img src="http://image.space.rakuten.co.jp/lg01/72/0000599372/67/img25855a93zik8zj.gif" alt=バナー" height="15" border="0" width="80"></a>←ここにクリックをお願いします。</font>
2021.08.01
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雪村の菁(かぶら)図 戦国時代の画僧と言われる雪村周継は、武家に生まれながら早くに出家、しかも文化の中心地の京都ではなく、絵師として生地の茨城を離れて福島、神奈川などを遍歴したその生涯は、いまだ謎に満ちたものでした。しかし遺された作品は、高い技術力とともに独特の奇抜さを持ち、いまなおその革新性に驚かされます。雪村の作品について、その質を何で測るかという判断基準は難しい面がありますが、単純に国が指定している国宝や重要文化財の数で見てみるのも一つの判断基準となるのかも知れません。すると雪村の現存する作品のうち、『竹林七賢人』、『呂洞賓図』、『雪村自画像』、『風涛図』などの9点が国の重要文化財指定を受けているのです。 この雪村の生没年は、はっきりしていません。しかし延徳二年(1490)の頃から天正元年(1573)頃まで生きた人と推測されていますから、83歳を超えるほどの長命であったことになります。雪村は、室町期の画僧である雪舟等楊を継ぐ者として、自らを『雪村』と称したといわれます。その雪舟の師と言われるのが天章周文ですが、周文は室町幕府第四代将軍の足利義持が朝鮮へ派遣した使節に参加しており、また第六代将軍足利義教の頃には御用絵師となっていました。山水・花鳥画のほか仏像彫刻の制作にも携わり、享徳三年(1454)頃まで生存していた人です。 雪村は常陸国に生まれ、幼くして禅寺に入り、50歳ごろ常陸を出て、会津蘆名氏を訪ねて奥州に滞在し、最晩年は奥州三春の雪村庵、いまの西田町大田字雪村に隠棲し、最後まで筆力衰えることなく制作を続けたと言われます。河合正朝・千葉市美術館館長は、雪村の遍歴の人生を『歴参』と表現され、修行のために旅を重ね、一つの場所に留まらないのは拘りを持たないということだと図録に書かれています。雪村は、禅僧であったことから、絵を描くことも修行の一つと考えていたのかも知れません。雪村と三春とのつながりは、庇護者であった会津の葦名氏が衰退しはじめた頃にはじまったとされ、当時70歳ほどになっていた雪村の晩年が、その時期にあたります。この当時の三春は、戦国大名である田村清顕の時代でしたが、頻繁に戦さをくりひろげた清顕が、一方で雪村の新たな庇護者になったことに、清顕の文化人としての側面をうかがうことができます。 2017年に坂本裕子氏は、『なぞ多き戦国の画僧雪村に見る、奇想の源流と細部へのまなざし』に、次のように書かれています。『雪村の作風は、仙人の奇妙なポーズ、山水の特徴的な描法、動物たちの精緻ながらどこか飄々とした愛らしさ、同時に波、風、空気が、みごとに表されたものです。しかしそれらのすべてに通じているのは、細部への視線で、大きな屏風も小さな山水画も、仙人たちの豊かな表情や豆粒ほどでもしっかり描かれる風景の中の人々が・・・。そこには自然の移り変わりと人間の営みへの限りない愛情が感じられます。画僧・雪村の魅力は、その先駆的な表現のみならず、小さなもの、見えないものへ注がれる、その万物への愛着に由来するのかもしれません。奇想の源流とともに、ぜひこの細部への暖かいまなざしを楽しんでください』 雪村の三春における門弟に、等清がおりました。等清は戦国時代の画家で、雪舟の筆法を学びましたが、雪村の画風によく似ていたと言われます。その後の江戸時代になると、狩野派の絵師で雪村に水墨画を学んで師の雪村に似せた山水、花鳥、人物を描いた雪閑がおりました。しかし雪村の没後においてもその影響は強く、琳派の大成者である尾形光琳の最晩年の傑作、『紅白梅図屏風』の構図は、雪村の描いた『欠伸布袋図』とよく似ているというのです。雪村は琳派の大成者の尾形光琳にとっても特別な存在であったようで、雪村作品の忠実な模写が残る一方雪村を慕い、しかも自作したと思われる『雪村』印を所持していたのです。その後もその作風は、伊藤若冲、曾我蕭白、酒井抱一と続いています。 酒井抱一には、光琳に私淑して描いた、『琴高仙人図』が伝わっています。琴高仙人とは古代中国の仙人で、琴が巧みで仙術を得意とし、川の龍を捕えるために鯉に乗って水中から現れ人々を驚かせたという画面です。琴高仙人図は雪村や尾形光琳の作品が有名ですが、酒井抱一筆のこの作品は、光琳の画を基にして描いたものとされています。雪村の画は、狩野派が主流を占めた江戸時代に、狩野派の粉本(後日の研究や制作の参考とするために模写した絵画)としても伝わりました。さらに江戸時代後期に雪村の流れを汲んだ絵師の狩野栄信は、光格上皇に屏風を進献しています。また江戸時代末期の浮世絵師の歌川国芳は、『奇想の系譜』の絵師たちの先駆け、とも位置づけられています。その後も雪村の後継者として、佐々木雪洞や狩野芳崖がいましたが、さらに明治になっても、岡倉天心が雪村を高く評価し、美術専門雑誌『国華』でも雪村をたびたび紹介しています。明治初期の2大巨頭の狩野芳崖と橋本雅邦も雪村に惹かれ、特に芳崖はかなりののめり込みようだったといわれます。 雪村の作品は海外でも人気が高く、戦後かなりの数が流出してしまいました。アメリカのメトロポリタン美術館、ミネアポリス美術館、フーリア美術館、クリーブランド美術館、デンバー美術館、シカゴ美術館、シアトル美術館のほか、海外の個人にも収蔵されています。雪村は、今の郡山市西田町雪村にある雪村庵で数多くの作品を残しましたが、三春にはほとんど残されていません。奔馬図(三春歴史民俗資料館)、達磨・山水・龍画(伝雪村筆)(以上三点、三春町福聚寺)三十六歌仙絵(三春町田村大元神社・明治十二年田村郡寺社明細書記載。ただし所在不明)それと郡山市西田町の今泉家に所蔵されている蕪図です。この絵については、1993年4月10日の福島民報で報じられました。この今泉家に所蔵されている『菁図(嘉永五年木村明細書上帳記載)』を拝観する機会を得たのですがこの『菁図』、頭部が左向きに描かれているのです。ところが京都の花園大学には、頭部が右向きに描かれた雪村の『菁図』が収蔵されているのです。素人の私は、雪村が対の『菁図』を描いたのではないかと想像しています。 もしこの絵が雪村の筆によるものであるとしたら、ビッグニュースになると思うのですが、皆さんはどう思われるでしょうか? <font size="4">ブログランキングです。 <a href="http://blog.with2.net/link.php?643399"><img src="http://image.space.rakuten.co.jp/lg01/72/0000599372/67/img25855a93zik8zj.gif" alt=バナー" height="15" border="0" width="80"></a>←ここにクリックをお願いします。</font>
2021.07.20
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伽羅先代萩 伊東七十郎重孝 『樅ノ木は残った』は、小説家山本周五郎による歴史小説で、昭和四十五年一月四日より十二月二十七日まで放映されたNHKの大河ドラマでしたので、ご記憶にある方も多いと思われます。内容としては、伊達家で起こったお家騒動を題材にしたものです。この小説の主人公は、従来は悪人とされてきた原田甲斐で、幕府による取り潰しから藩を守るために尽力した忠臣として描くなど、山本周五郎の新しい解釈が加えられたものです。その中に、伊東七十郎重孝という人が出てきます。 この重孝の先祖は、文治五年(1189)、源頼朝が平泉の藤原氏を破って奥州を平定した際、その戦功を認められ、安積を安堵された工藤祐経の第二子の伊東祐長から始まっています。そして戦国時代、安積の伊東重信は、仙台・伊達氏の麾下に属し、天正十六年(1588)、郡山の夜討川合戦の際、倍する勢力の常陸の佐竹、会津の蘆名、それに白河、須賀川などの連合軍に苦戦し、伊達政宗の命運も危うくなった時、伊東重信は政宗の身代わりとなって僅か20騎で突撃し、須賀川の家臣の矢田野義正に討ち取られ、壮烈な戦死を遂げた武功ある家柄でした。伊達家では、その討ち死にの地に『伊東肥前之碑』を建ててその武徳を永久に顕彰することとしたのですが、それは現在、富久山町久保田の日吉神社に移されています。この神社は、その合戦の際の伊達本陣であったとされます。 重孝は、伊達氏の家臣で伊東重信に連なる伊東重村の次男として、仙台に生まれました。儒学を仙台藩の内藤閑斎、京都に出てからは陽明学を熊沢蕃山、江戸にては兵学を小櫃与五右衛門と山鹿素行に学んでいます。その一方で重孝は、日蓮宗の僧の元政上人に国学を学び、文学にも通じていました。また、武芸にも通じ、生活態度は身辺を飾らず、内に烈々たる気節を尊ぶ直情実践の士であったとされます。 伊達騒動は、江戸時代の前期に伊達氏の仙台藩で起こったお家騒動です。黒田騒動、加賀騒動とともに、三大お家騒動と呼ばれる事件でした。仙台藩3代藩主の伊達綱宗は遊興放蕩三昧であったために、大叔父にあたる一関藩主の伊達宗勝がこれを諌言したが聞き入れられず、家臣と親族の大名の連名で、幕府に綱宗の隠居と、嫡子の亀千代(後の伊達綱村)の家督相続を願い出ました。そこで幕府により、綱宗は21歳で強制的に隠居させられ、4代藩主にわずか2歳の伊達綱村が就任したのです。 ところが綱村が藩主になると、一関藩主の伊達宗勝と原田甲斐が実権を掌握し、権勢を振るっての専横を嫌って、幕府に上訴することになったのです。ところが清廉な板倉内膳正の裁断により伊達宗勝の側が敗訴したため、もはやこれまでと抜刀した原田甲斐は宗勝の側の伊達安芸を斬ったのですが自らも討たれて結末を迎えました。のちにこの板倉内膳正は福島藩に転封され、福島市杉妻町の板倉神社に祀られています。この伊達騒動において、重孝は伊達家の安泰のために対立する伊達宗勝を討つことを伊東重門と謀りました。伊東重門は、寛文三年(1663)に原田甲斐と家老となっており、藩主伊達亀千代(綱村)の後見役である伊達宗勝と田村宗良に誓書を書かせたのですがまもなく重門は病に倒れ、後事を分家の重孝に託して死去しました。しかしこのはかりごとは事前に計画が漏れ、重孝は捕縛されたのです。 重孝は入牢の日より絶食し、処刑の日が近づいたのを知ると『人の心は肉体があるから、物欲に迷って邪道に陥る危険がある。本来人に備わっている道義の心は物欲に覆われ、微かになっている。それゆえ人の心と道の心の違いをわきまえ、煩悩にとらわれることなく道義の心を貫き、天から授かった中庸の道を守っていかねばならない。』と書き、また、『人の心これ危し、道心これ微なりこれ精(せい)これ一(いち)まことその中(なか)をとる古語にいう。身をば危すべし、志をば奪うべからず又云。殺すべくして恥しめべからず又云。内に省(かえりみ)てやましからず、是予が志なり食を断って三十三日め目に之を書なり我が霊魂三年の内に滅すべし 罪人七十郎』 こう書き残した四日後の寛文八年(1668)四月二十八日、重孝は死罪を申し渡され、米ヶ袋の刑場で処刑されています。 重孝は処刑される際に、処刑役の万右衛門に「やい万右衛門、よく聞け。われ報国の忠を抱いて罪なくして死ぬが、人が斬られて首が前に落つれば、体も前に附すと聞くが、われは天を仰がん。仰がばわれに神霊ありと知れ。三年のうちに疫病神となって必ず兵部殿(宗勝)を亡すべし」と言ったというのですが、そのためか万右衛門の太刀は七十郎の首を半分しか斬れず、七十郎は斬られた首を廻して狼狽する万右衛門を顧み「あわてるな、心を鎮めて斬られよ。」と叱咤したと言われます。気を取り直した万右衛門は、2度目の太刀で重孝の首を斬り落としたのですが、同時に重孝の体が天を仰いだといわれます。またこのとき一族は、御預け・切腹・流罪・追放となりました。後に万右衛門は、重孝が清廉潔白な忠臣の士であったことを知り、大いに悔いて阿弥陀寺の山門前に地蔵堂を建て、重孝の霊を祀ったとも伝えられています。 重孝の死により、世間は伊達宗勝の権力のあり方に注目し、また江戸においては、文武に優れ気骨ある武士と言われていた重孝の処刑が、たちまち評判となりました。そして伊達宗勝一派の藩政専断による不正、悪政が明るみとなり、宗勝一派が処分されて伊達家が安泰となり、重孝の忠烈が称えられたのです。 重孝の遺骸は、仙台市若林区新寺阿弥陀寺に葬られたと伝えられ、のちに伊東家の菩提所である仙台市若林区連坊にある栽松院に墓が造られ祀られています。また、当時の人々が刑場の近くに重孝の供養のため建立した仙台市青葉区米ヶ袋の『縛り地蔵尊』は、『人間のあらゆる苦しみ悩みを取り除いてくれる』と信仰され、その願かけに縄で縛る習わしがあり、現在も毎年七月二十三、二十四日に、縛り地蔵尊のお祭りが行われています。さらに昭和五年になって石巻市北村に、七十郎神社が創建されその霊が祀られています。 なお重孝には2人の息子がいましたが、兄の重綱は父の重孝の跡を継いで大阪の陣で活躍し、仙台藩成立後は、家老となっています。いずれ伊東七十郎重孝は、郡山とは深い関係のあった人でした。 この伊達騒動を扱った最初の歌舞伎狂言は、正徳三年(1713)の正月、江戸・市村座で上演された『泰平女今川』ですが、これ以降、数多く伊達騒動ものの狂言が上演されました。特に重要な作品として、安永六年(1777)に大阪で上演された歌舞伎『伽羅先代萩』と、翌安永七年、江戸・中村座で上演された歌舞伎、『伊達競阿国戯場(だてくらべおくにかぶき)』、さらに天明五年(1785)、江戸・結城座で上演された人形浄瑠璃、『伽羅先代萩』の3作が挙げられています。 <font size="4">ブログランキングです。 <a href="http://blog.with2.net/link.php?643399"><img src="http://image.space.rakuten.co.jp/lg01/72/0000599372/67/img25855a93zik8zj.gif" alt=バナー" height="15" border="0" width="80"></a>←ここにクリックをお願いします。</font>
2021.07.01
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伊達政宗のマタギ軍団 中世以降、日本人は北海道を蝦夷地と称してきました。そのため北海道に住むアイヌ人を蝦夷人の直系と考える人も多いのですが、現在では蝦夷人は絶滅し、アイヌ人とは別の人種であったとされています。この頃から狩猟で生活をしていた人たちの中に、マタギといわれる人たちがいました。一般的にマタギは、東北地方・北海道で古い方法を用いて集団で狩猟を行う狩猟者集団とされ、クマ獲り猟師として知られていますが獲物はクマだけではなく、ウサギ、鹿など多くの動物を獲っていました。マタギの語源は諸説あって不明ですが、最も有力なものは、アイヌ語で「冬の人」・狩猟を意味するマタンギ・マタンギトノがなまったものだという説です。ただし、日本語のマタギという語が先にあり、この語がアイヌ語に取り入れられたという説もあります。 マタギには大雑把に分けて、二つのスタイルがありました。先祖から受け継いだ土地を守りながら同じ場所で農耕と狩猟を続けてきた、言わば里マタギと呼ばれるスタイルと、もっぱら域外に出かけて長期間狩猟の旅を続ける旅マタギというスタイルです。どちらのマタギ達もクマは山神様からの授かり物と信じていたため、捕獲から解体まで、丁度厳かな儀式のように『礼儀と掟と作法』をもって作業にあたっていました。捕獲したクマは、仲間うちの食料にするほか毛皮は敷物や衣類として。また内臓は一部食料とするものの胆嚢などの医薬効果のある臓物は乾燥させて薬として。あるいは骨は粉末にして滋養強壮剤としてそれぞれに利用していました。マタギ一つの集団の人数は通常8〜10人程度ですが、狩猟の対象によっては数十人編成となることもあり、集団の各人はそれぞれ仕事を分担していました。通常は、クマを谷から尾根に追いたて、先回りしている人が弓矢で仕留める方式で行ったのです。 ところで、仙台にもマタギがいました。仙台青葉城にちなんで青葉流マタギと呼ばれていたものです。青葉流マタギという名前は、伊達家の二代目忠宗が付けたと言われます。開祖は田村男猿という人物です。政宗の正室・愛姫の父、清顕には後継ぎがいなかったので弟の氏顕の長子孫七郎をもらって後継ぎにしました。その孫七郎は、のちに元服したとき、政宗の宗をもらって宗顕といっていました。田村家は政宗の反対で小田原征伐に参戦できず、三春は秀吉によって取り潰されて会津・蒲生領にされたため、宗顕は片倉小十郎の白石に寄寓しました。宗顕は、愛姫の命により白石城の西、蔵元村今の白石市の勝坂という地に住むようになりました。喜多子は伊達政宗を保育した女性で、文武に優れた日本三賢婦と呼ばれて豊臣秀吉にもたびたび会っていたのです。その宗顕には二人の子どもがいましたが、一人は宗広、そして、もう一人が男猿でした。 慶長十九年(1614)、白石の田村邸で生まれた男猿は、伯母・愛姫の願いにより、仙台・青葉城で養育されました。頭脳明晰で文武に優れた彼の命名式には、政宗、愛姫夫妻の前で重臣が列座する中で挙行され、愛姫によって田村男猿と命名されたと言われます。寛政四年(1627)、男猿が14歳の時、政宗夫妻と片倉小十郎との話し合いで、白石に居住することになり、祖父・田村清顕が信仰していた軍神・愛宕尊像と新藤五国光(しんどう ごくにみつ)の刀、および雪村の描いた絵が下され、姓を片倉、名を三右衛門として片倉家の家中となりました。 その喜多子の養子となったのが、男猿でした。豊臣秀吉の生きている時代には、伏見に伊達家の屋敷がありました。その伊達藩の京屋敷に、三春出身の政宗の側室『お藤』という絶世の美女が住んでいました。秀吉がその美女に興味をもち、政宗が狩りに行っているときに、その『お藤』に登城するようにと使いの者がきたのです。喜多子は何度も断わったのですが秀吉の命に背いたときの政宗の身を案じ、登城させてしまったのです。狩りから戻ってきてそのことを聞いた政宗は越権行為だと大変怒り、喜多子を屋敷から追放してしまいました。その喜多子の隠棲した所が蔵元村の今の観音堂のある所で尼となり、そこで72歳でなくなりました。 さて男猿は子どもの頃から体も大きく運動神経もよく武術にも達者であったので、白石の城下から不忘山という山まで2時間で走ったといわれています。なぜそんなに速く走れたかというと、ある日山中で出会った白狐が逃げたとき、白い玉を拾ったというのです。そこでその玉を家に持って帰ったところ、夜に夢枕が立ち、その玉はお稲荷さんの大事な宝だから返してくれと言われました。その代わり、一つだけ願いをかなえてやると言われたので、速く走れる足を望み、そのため男猿は、仙台で1番速いと言われるようになったというのです。 さて伊達藩では、政宗を初め代々の藩主が、時折、大々的な鹿狩りを行っていました。男猿は領内で行われる狩りのときは、つねに藩主に随行しました。慶安三年(1650)、二代藩主の伊達忠宗が、片倉小十郎と蔵王山麓で勢子2500余人を動員して大々的な巻狩りを行ったときなどは、3日間で鹿3000余頭、猪、熊など100余頭を獲ったとされています。この巻狩りで勢子に追い出された大猪7頭が藩主の忠宗を目がけて猛進してきたのですが、これを傍にいた男猿が早撃ちの秘法で仕留めました。忠宗はこの神業を激賞、自分が着ていた陣羽織を下賜、狩りの流儀を「青葉流と称せよ」と言ったと伝えられています。巻狩りは、戦いの陣型と同じようにして行われていました。そしてその中心となって常に活躍したのが、田村男猿というマタギだったのです。通常マタギは里に住んで農作業などを行い数名が一組で狩りをするのに対し、男猿は勢子2500名を引き連れ、実働三日間で獲物3100余頭といいますから、軍隊と言ってもよく、その流派とともに、異質なマタギであったといえるでしょう。 これら鉄砲を持って訓練を経た青葉流マタギ鉄砲組は1500人といわれ、非常備のマタギ1000余人を含めると、2500人という大部隊になります。仙台藩の正規の鉄砲隊に加え、青葉流マタギはその技量を生かし、伊達軍の隠れた鉄砲隊として活躍したそうです。特に天正十七年(1589)の猪苗代の摺上原の戦いでは、山中から伊達軍の急先鋒を務め、会津の蘆名義広を破る大きな功績があったと言われています。ところで、この男猿(おさる)という名ですが、これは正式な名称ではなく、通称であったと言われます。 <font size="4">ブログランキングです。 <a href="http://blog.with2.net/link.php?643399"><img src="http://image.space.rakuten.co.jp/lg01/72/0000599372/67/img25855a93zik8zj.gif" alt=バナー" height="15" border="0" width="80"></a>←ここにクリックをお願いします。</font>
2021.06.20
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高玉城・撫で斬り 4年ほど前、ハワイから三春訪問のグループ受け入れ準備のため、八幡町の法華寺を訪問した時であった。「どこをどう案内しようか」そう考えていて、余り昔のことですのですっかり忘れていましたが、法華寺に鳴竜のあったことを思い出したのです。多分それは私が小学校に入る前、祖父に連れられて行った記憶があったのです。「よし、そこも計画に入れよう」と思ったのですが、いきなり連れて行く訳にもいきません。前もって寺へ行き、事情を話して了解を得ておく必要を感じたのです。 アポイントもとらず、寺を訪問したのですが、生憎和尚は、法事で出掛けておりました。しかし「もう間もなく戻る筈です」と言われ、乗って来た車に戻って待っていました。しかし和尚は、なかなか戻って来ません。そこで車から降り、墓地の様子を見て時間潰しをしていました。ところが歩いているうちに、高玉氏の墓を見つけたのです。『高玉氏の墓?』しかしその墓は、新しく作られたようでした。私はそこにある墓誌の最初が、没年月日が同じ高玉城主夫妻であったのです。高玉城は、今の熱海町高玉にあった城です。「なぜ三春に、高玉城主夫妻の墓があるのだろうか?」これは私の感覚では、あり得ないことであったのです。 時代を遡ります。三春田村氏に叛旗をひるがえした小浜城主の大内定綱は、救援に来た伊達政宗に滅ぼされ、伊達氏への忠誠を誓って小浜城を訪れました。留守の政宗に代わって父の伊達輝宗が応対したのですが、大内定綱は帰りがけに輝宗を拉致したのです。それを知って追った政宗は、阿武隈川のほとりで追い付いたのです。このとき政宗は、結果として父を殺すことになってしまったのです。 翌年、政宗は父の弔い合戦として、殺された大内定綱の甥の菊地顕綱(きくちあきつな)が逃げ込んだ二本松城へ激しい攻撃を加えたのですが、この二本松城の救援を口実にして、常陸、会津、磐城、石川、白河勢の大連合軍が、須賀川に集結、北上して来たのです。この連合軍に対し、伊達・田村の連軍が本宮に集結したものの、兵力的には劣勢でした。このときの本宮の人取橋の戦いは、大激戦となったのです。しかし勝敗がつかず、伊達勢は小浜に、田村勢は三春に兵を引きました。当然、大軍勢である敵の逆襲を予期していた伊達と田村は、阿武隈川を楯にして戦う準備をしていたのです。ところが佐竹の兵が突然引き上げ、連合軍は空中分解をしてしまったのです。 その後、伊達と田村の連軍は高玉城を攻め、会津の葦名に攻勢をかけました。この高玉城の戦いについて、『政宗記』には次のように記されています。『高玉城の北側に陣を置き、惣勢は南側から東側にかけて陣を取った。西の方は尾根続きとなっているが、この方向だけはわざと空けて置いた。』とあります。高玉勢が城を放棄して西側から逃げ出すのを期待していたのです。しかし五月五日の辰の刻(午前8時)には高玉城が落城、『撫で斬り』が行われました。高玉城の尾根続きの西側には攻め手を置かず空けておいたにも関わらず、高玉勢は一人も西側から落ちていくことはなく、皆討死している。『また哀れなりしことどもにや』と述べています。 相生集によりますと、高玉城主の高玉太郎左衛門常頼は、いまの大玉村の戦いで鉄砲で腰を撃たれて歩けなくなっていたのですが、戸板に乗せられて幾つかの曲輪で下知を行っていました。しかしそれらの曲輪が攻め取られると、城に戻り、妻と2人の子供を殺害し、手槍を持って出撃しようとしたのですが、伊達・田村勢が城に攻め込んできたので、ついに白砂の上で討死したとあります。 この高玉城は、伊達勢によって全員虐殺が行われた城として知られている小手森城での『撫で斬り』とは、趣を異にしているようです。小手森城の場合は政宗が怒りに任せ、「人はおろか牛馬までも全員皆殺しにせよ!」と命じたのに対し、高玉城では、城兵に無駄な抵抗させないために、わざと西側の尾根続きの方を空けて置いたのです。それにも関わらず、高玉の城兵は最後の一人まで必死に戦い、結局、高玉城主・高玉常頼夫妻をはじめとして、全員討死してしまっています。結果として『撫で斬り』とされてしまったのですが、これは政宗が意図したことではなかったと言われています。ここで、問題となる『撫で斬り』について言及しておきます。つまり『撫で斬り』とは、全ての人を片端から切り捨てることです。しかし戦闘員を殺すのは戦(いくさ)では当たり前のことですから、仮に、城内にいた戦闘員を全員殺したとしても『撫で斬り』とは言いません。法華寺の墓碑銘によりますと、高玉氏夫妻はこの年の同月同日に亡くなっています。この日は、高玉城が落城した日ですから、夫婦同日の死亡というのもうなずけます。 さてこの話を頭においた上で、現代に話を戻します。法華寺の和尚が戻って来たので、私は、ハワイからのグループに鳴竜見学の許しを得た上で、高玉家の墓地について質問をしたのです。そこで知ったことは、この寺の前任者が高玉正広和尚で、現在は茨城県石岡市の照境寺に勤められておられるというのです。私はこの墓についてのお話をお聞きしたいと思い、アポを得るため問い合わせの電話をしてみました。長い電話になってしまいましたが、次のような話を聞くことができたのです。 「このことは、わが家に伝えられてきた話です。自分は法華寺で生まれ、父と二代に渡ってこの寺の住職を勤めてきました。自分でもよく知りませんでしたが、どうも自分は、その高玉家の末裔と思われたのです。そこで先祖を供養するため、平成十年に墓地を改修、墓碑銘を建立したのです。」そして、次のような話をしてくれました。 高玉城が落城する際に、高玉常頼は妻子を殺害したのですが、満二歳の末の姫が殺されそうになった時、乳母が、「死なすのは忍びないので、姫を私にください」と言ったそうです。そこで常頼は「この子は幼い女の子であるから殺されることもあるまい。助けてみよ」と言い、乳母に姫を託したというのです。そこで乳母は姫を背負って城を脱出したのですが、途中で伊達勢に掴まってしまいました。伊達勢が二人を本陣に連れ帰ったところ、本陣の小者たちの2人が刀で斬りつけました。乳母と姫は斬られたまま伏せていましたが、戦場での混乱の中で、傷は浅手で済んでいました。乳母は伊達兵がいなくなった隙に起き上がり、姫を背負って逃げ出しました。 この乳母は、日和田町にあった高倉城の高倉近江の姪であったのでこの城に逃げ込み、助けを求めました。高倉近江もさすがに哀れに思ったのですが、敵の城主の姫を勝手に助けたとあっては、あらぬ嫌疑をかけられかねません。そこで、政宗の臣・片倉景綱に相談したところ、「一度斬られた者をまた斬ることはあるまい。幼い女の子のことであるから、助命のことは私の方から殿に申し上げておこう」という返答であったというのです。政宗が高玉で『撫で斬り』を命じなかったということは部下の独断による『皆殺し』であり、『撫で斬り』を命じなかった気持が政宗にあったということが、高玉常頼の姫を助けることにつながったのかも知れません。 私は、政宗が、どのような理由で高玉常頼の姫を敵地であった三春へ移したのであろうか、という質問をしてみました。それに対し、「考えられるのは豊臣秀吉の奥州仕置により、三春が政宗より取り上げられて会津領となったことと関係すると思われます。つまり高倉城に逃れていた姫を、三春が会津領となったので問題がなかろうとしたのではないかとも考えられます。熱海町高玉の常圓寺にある高玉氏初代の戒名、『常圓寺殿無外心公居士』により、この寺が、高玉氏によって創建されたと推定できます。『安達郡大概録』によれば、永禄元年(1558)、常圓寺は三春の天澤寺の末寺として開基しているので、寺の創建は、政宗による高玉城の『撫で斬り』以前ということになります。今ある常圓寺が、高玉氏の菩提寺ですが、古い話ですし、住職も代わっているので、今になれば聞いても分かるかどうか。30年ほど前、岩波書房の『独眼竜政宗』に、このあたりの話が出ていましたが、無くしてしまいました。それにこれらの話は、先祖からの言い伝えだけなので、これ以上のことは分かりません。折角来られるとのことですが、無駄になると思います」とのことだったのです。 そこで私は、熱海町高玉の常圓寺を訪ねてみたのですが、残念ながら代も変わっており、特に知ることはありませんでした。それでもこれらのことから、高玉氏の墓が三春にあったことは、何となく理解ができたように思っています。ともあれ、その姫の末裔となる高玉正広和尚が三春法華寺の僧侶となり、先祖の墓に墓碑銘を加えて改葬し、供養をしたのです。 なお郡山歴史資料館によりますと、政宗の臣となっていた高玉太郎左衞門、高玉で討ち死にした高玉太郎左衞門常頼の子ですが、彼による話が残されているそうです。政宗は常々、「芦名は名家であるから、血統の者があれば立たせたい。」と言っているというのを高玉太郎左衞門が聞きつけて、妹である姫を連れて行ったら、政宗が喜んだのだそうです。 資料=三春歴史民俗資料館によりますと、「この姫が蒲生源太左衞門尉の下人の妻になったとありますが、これは蒲生源左衞門尉郷成(さとなり)のことではないかと思います。郷成は慶長六年(1601)に守山城代となり、その後、年は不明ですが三春城代となっていることから、三春との関係が想像できます」と示唆されました。 <font size="4">ブログランキングです。 <a href="http://blog.with2.net/link.php?643399"><img src="http://image.space.rakuten.co.jp/lg01/72/0000599372/67/img25855a93zik8zj.gif" alt=バナー" height="15" border="0" width="80"></a>←ここにクリックをお願いします。</font>
2021.06.01
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甲賀流忍者の墓 私は、久しぶりで、三春の福聚寺に行ってみました。三春町史などに載せられていたので知ってはいたのですが、戦国時代の田村氏三代の墓を見てみたいと思ったからです。とにかく初めてのことなので、墓地のある場所も分かりません。庫裡に寄って、聞くことにしました。生憎、住職の玄侑宗久さんは留守でしたが、奥さんに墓地のある場所を聞くことができました。その場所は、本堂の横にある道をまっすぐ登った突き当たりにあることが分かりました。この墓地一帯が山でしたから、道の途中、結構きつい坂の所もありました。山を背にし、一番高い所にあった田村氏三代の墓は三基、しかも一番右にあった墓碑は、人の形をしていました。そのことは町史の写真などで知っていましたから、特に驚くことではありませんでした。参拝を終え、墓地の階段を降りた左に、『甲賀家の墓』があるのをみつけました。一瞬、「甲賀家の墓が?」とは思ったのですが、初期の目的は達したので、そのまま家に帰ってしまったのです。 家に戻った私は、甲賀家の墓について、思いを巡らしていました。そして幾つかの、疑問が出てきたのです。甲賀家の墓が、なぜ領主の墓地のすぐ下の隣接した場所にあったのか? もしかして甲賀家は、田村氏に重用された家系であったのではないか? 甲賀家は、甲賀忍者の流れをくむ家ではなかったのか? などなどです。さあそうなると、気になって仕方がありません。甲賀家の墓地の石碑に、何か手がかりになるものが彫られていないか、と思ったのです。私は日を改めて、再び福聚寺に行ってみました。一度行った場所ですから、道に迷うことはありませんでした。ところが行ってみてわかったことは、この墓地は近年になってから整備されたものらしく、古い墓碑は残されていなかったのです。「これでは分からないな」と思い、庫裡に寄ってみました。幸い今度は、住職の玄侑宗久さんがご在宅でした。そこで私は、疑問に思っていたことなどを、彼に聞いてみたのです。 そこで得た回答は、次のようなものでした。「明治以降の過去帳についてはコンピューター上での整理はついた。しかし、それ以前については手付かずの状態であり、質問に答えられる資料はない。」とのことでした。「う〜ん」と思ったとき、彼はこう言ったのです。「実は甲賀家の墓が、もう一ヶ所あるのです。そこの亡くなった当主が、『うちは侍だった。』と言っていました。しかし何家に仕えたとは言っていませんでした。あそこの墓碑は、古い筈です。」私は場所を確認すると、そこへ行ってみました。数は少なかったのですが、古そうな墓碑が並んでいました。そこで私は、没年月日を確認しました。ただし読めなくなっているのもありましたので、全部ではありません。年代順に並べると、次のようになっていました。(戒名略) 寛延三年(1750) 明和年間(1764〜1772) 文化七年(1810) 天保五年(1834) ただしここで、1834年から1750年を引くと84年になります。それらを考えれば、もっと以前からの人のもあったのかも知れません。しかしそれ以上のことは、知ることができませんでした。 さてこうなると、忍者とはいつ頃から発生して何をしていた人たちであったのか知りたくなりました。通常私たちは、これらの人を『忍術使い』『忍者』『忍び』と呼んでいます。しかも今や忍者は世界的に有名になり、日本語そのままのニンジャという名で定着しているようです。ところが意外や意外、聖徳太子が『志能備(しのび)』と呼ばれるスパイを使い、朝廷内の動きを探っていたというのです。聖徳太子が志能便として活動させていたのが大伴細人(さびと)ですが、この人が日本最古の忍者であると言われています。一説によれば、聖徳太子は大伴細人以外にも服部氏族などの忍者を使っていたと言われ、服部氏族が伊賀忍者、大伴細人が甲賀忍者の源流になったと言われています。聖徳太子は、西暦574年から622年の人です。ということは、三春に田村氏が君臨していた1586年頃には、すでに忍者はいた、と考えてもいいことになります。甲賀はコウカと読むのですが、コウガと誤った読み方をされることが多いとされます。この甲賀流(こうかりゅう)とは、近江国甲賀の地に伝わっていた忍術流派の総称であって、山を一つ隔てた場所に存在する伊賀流と並んで、最も有名な忍術の一派として知られています。なお、慶長にあたる1600年代に、イエズス会が編纂した「日葡辞書」では、「Xinobi(忍び)」と表記されているそうです。 戦国時代になると、忍術には「陰忍」と「陽忍」があるとされました。陰忍とは、姿を隠して敵地に忍び込み、内情を探ったり破壊工作をする者であり、陽忍とは、姿を公にさらしつつ計略によって目的を遂げる者です。いわゆる諜報活動や謀略、離間工作などがこれにあたります。この時代の領主の中には、普段からプロの悪党や忍びを集団で雇ったり、合戦前に忍びを募集するところもありました。例えば埼玉県東松山市にあった武蔵松山城主の上田憲定の合戦前の兵の募集の制札には『夜走(よばしり)、夜盗はいくらでも欲しい』『侠気のある剛健なもの』『前科者、借財ある者みな帳消しにする』とあり、陰徳太平記という古典文学書では、『足軽など山賊盗賊でも嫌わず召し集める』とあるそうです。これらは、田村氏も忍者を雇っていたかも知れないということを示唆する文書ということができると思います。忍者は、身体能力に優れ、厳しい規律に律された諜報集団という面の他に、優れた動植物の知識や化学の知識を持つ技術者集団としての一面も持っていたと言われます。 何か田村氏と甲賀家との間を埋める接点はないものだろうか。そう思って、田村三代の治世を調べてみました、初代の田村義顕の生誕は不明、死没は永禄四年(1561)。二代の田村隆顕もまた生誕は不明、死没は天正二年(1574)九月六日とあり、三代田村清顕もまた生誕が不明ですが、死没は天正十四年(1586)十月九日とあり、甲賀家の墓碑の年代とは大きくかけ離れていたのです。すると甲賀家で言っていた『侍』というのは、田村家に仕官したものではなく、秋田氏に仕官していたことを言っていたのでしょうか。また疑問が増えました。 それについて、私は寺で分からなかったので、斎場と仏具店を経営する内藤忠さんを訪ねてみました。彼は職掌柄、町内のそういうことには詳しいのです。法事などでそのような話が出たかどうかを、知りたかったのです。彼は開口一番、「そうだよ。あそこの家は、甲賀流の忍者だった。」と教えてくれたのです。ただし今は東京に住んでいるので、詳しいことは来たときに聞いてくれることになりました。これ以上のことは分かりませんでしたが、皆さんはどう思われますか? これも歴史のロマンの一コマかも知れません。 <font size="4">ブログランキングです。 <a href="http://blog.with2.net/link.php?643399"><img src="http://image.space.rakuten.co.jp/lg01/72/0000599372/67/img25855a93zik8zj.gif" alt=バナー" height="15" border="0" width="80"></a>←ここにクリックをお願いします。</font>
2021.05.20
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伊達郡国見町の安積屋敷 郡山地方史研究会による、伊達郡国見町への旅行に参加した。その中に、安積屋敷の見学があったからであり、なぜ国見町に安積屋敷があるのかと思ったからである。そのときに頂いた昭和六十三年十月十五日の『広報くにみ(No184)』に掲載された『ふるさとの文化財35安積屋敷跡(前田舘)菊池利雄』というパンフレットに、次のように記されていた。 『安積氏は伊東あるいは工藤とも称し、工藤左衛門尉祐経の次男祐長を祖とし、承久の乱の戦功として鎌倉将軍藤原頼経より、奥州の安積郡に四十五色を賜って来住し、安積氏と改めた。室町時代のはじめ頃、祐長九世の後裔祐時の時、伊達氏十一代の伊達持宗に仕えて麾下に属した。天文二十二年(1553)、天文の乱後の伊達氏十五代の伊達晴宗は本拠地を西山城(福島県桑折町)から米沢城に移し、南奥羽の中心的存在になった。一方、祐長十四代の安積肥前重信は、若年にして父親の安積祐重に死別したが晴宗によって所領が安堵され、安積金四郎または新左衛門と称した。次いで伊達晴宗・政宗の父子に仕えたが、天正十三年(1585)十月、政宗が佐竹・蘆名氏などの連合軍と戦った際に人取橋の戦いに戦功をあげ、天正十六年、郡山の対陣において戦死した勇将であったが、この頃主命により伊東の姓に復していた。この戦いに重信が出陣して行ったのは、この舘からであろう。天文二十二年(1553)正月、伊達晴宗が安積金四郎に与えた『所領安堵状』の中に、『伊達郡前田(現小坂)ノ内、屋敷手作・・・がある。(中略)これらのことから安積金四郎が本拠としたのは、この前田舘とみてまず間違いがなかろう。この金四郎、またの名・安積新左衛門は祐長から数えて五代目とされている。 初 代 安積六郎祐長 祐経の二男 建長六年 (1254)没、享年62歳 二 代 薩摩七郎祐能 祐長の長男 文永三年 (1266)没 三 代 薩摩四郎祐家 祐能の長男 四 代 安積新左衛門尉祐宗 祐家の嫡男 五 代 安積新左衛門尉祐政 祐宗の長男 六 代 安積摂津守祐朝 祐政の養子 七 代 安積新左衛門尉祐治 祐朝の嫡男 応永十三年 (1406)没 八 代 安積新左衛門尉祐信 祐治の嫡男 九 代 安積備前守祐時 祐信の長男 十 代 安積備前氏祐 祐時の嫡男 文明十七年 (1485)没 十一代 安積摂津宗祐 氏祐の嫡男 永正元年 (1504)没 十二代 安積新左衛門祐里 宗祐の長男 永正 二年 (1505)討死、享年25歳 十三代 安積紀伊祐重 祐里の長男 天文二十一年 (1552)没、享年53歳 十四代 伊東肥前重信 祐重の嫡男 天正十六年 (1588)討死』 なお吾妻鏡の宝治元年(1247)五月十四日丙寅の項に、『安積新左衛門の尉』が、次の人々の中にあった。しかし伊東ではなく、安積なのである。通称としてでも、使っていたのであろうか。 戌の刻(いまの夕方7時から夜9時の間)御台所左々目谷の故武州禅室(経時)の墳墓の傍らに送り奉るなり。人々素服を着け供養す。所謂、 備前の前司 越後右馬の助 遠江左近大夫将監 春日部甲斐の前司 美濃左近大夫将監 能登右近大夫 関左衛門の尉 常陸修理の亮 城の次郎 大隅太郎左衛門の尉 肥前太郎左衛門の尉 後藤三郎左衛門の尉 駿河の九郎 千葉の八郎 安積新左衛門の尉 宇佐美七郎左衛門の尉 宮内左衛門の尉 彌次郎左衛門の尉 伊賀次郎左衛門の尉 太宰三郎左衛門の尉 小野澤の次郎 加地六郎左衛門の尉 信濃四郎左衛門の尉 出羽次郎兵衛の尉 摂津左衛門の尉 小野寺四郎左衛門の尉 内藤四郎左衛門の尉 押垂左衛門の尉 紀伊次郎左衛門の尉 海老名左衛門の尉 とにかく私は、『広報くにみ』を読むまでは、てっきり伊東、つまり『広報くにみ』で言う安積肥前重信は、安積に住んでいたとばかり思い込んでいた。なぜなら彼は、伊東祐長から数えて、直系の十四代目とされているのである。直系なのに安積肥前重信はこの前田館、すなわち安積にではなく伊達に住んでいたということになるからである。しかし伊達氏十一代の伊達持宗の時代にその麾下に属していたということから、安積氏が伊達に住んでいたことを、無下に否定するわけにもいかないと思われる。しかし郡山市史では、いまの郡山市の久保田合戦(夜討川の戦い)において、重信が政宗の身代わりとして戦死したのが伊東肥前重信となっていることもあって、私は、重信が安積から出陣したとばか思っていたのである。ところが菊池利雄氏の論文によると、『重信が出陣して行ったのは、この舘、つまり今の国見町からであろう』としているが、どうも姓が違うし伊達からでは、戦場までの距離が遠過ぎるように思われた。しかし国見町には、安積屋敷跡として前田舘が残っているというのである。 私はこの疑問を、郡山歴史資料館に問い合わせてみた。しかし確たる回答を得ることができなかったのである。 <font size="4">ブログランキングです。 <a href="http://blog.with2.net/link.php?643399"><img src="http://image.space.rakuten.co.jp/lg01/72/0000599372/67/img25855a93zik8zj.gif" alt=バナー" height="15" border="0" width="80"></a>←ここにクリックをお願いします。</font>
2021.05.01
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橋本庄七郎とは? 私が学生時代、つまり今から60年ほど前、本家の橋本孫十郎に家系図を見せてもらったことがある。その時に聞いた話であるが、本家の先祖は、南北朝時代の橋本九郎正茂(まさもち)であるという話を聞いたことがあった。そして正茂の末裔の橋本刑部顕徳(あきのり)という人が、本家の最初の先祖であるという。顕徳は、戦国田村氏三代と言われた初代の田村義顕の弟である田村月斎頼顕(あきより)の子であった。月斎は田村家きっての勇猛果敢な武将として恐れられ、『畑に地縛り(じんばり・害虫) 田にひるも(蛭) 田村に月斎 なけりゃ良い』とまで言われていた人物であった。その頼顕により、『橋本家の先祖は橋本正茂(まさもち)である。』と言い伝えられてきたと教えられた。孫十郎は、私の祖父の年代の人である。当時、私は若かったこともあって、このようなことにあまり興味を持っていなかった。 そして幾星霜、土蔵の中を整理した時に、大正七年に、宮内省より故・橋本九郎正茂(まさもち)へ与えられた『贈正五位』の位記が見つかったのである。その贈位記には、『我祖ハ人皇五十六代清和天皇ノ系統ニ而源經氏ヨリ起リ家氏、頼氏、義氏ヲ經テ正氏ノ代大和国橋本ノ城主タリ子孫正忠ニ至リ楠木氏ノ縁戚タリ其子八郎正員ハ楠正成ト與ニ後醍醐天皇ノ朝元弘建武ニ渉リ勤王シ湊川ニ楠正成ト共ニ忠死シタリ其子正家ハ楠正秀ト與ニ千剱破城ニ兵ヲ揚ケ賊軍ノ為メニ破ラレ遁レテ奥州ニ下リ其子贈正五位故橋本正茂ハ祖尊八郎正員ヨリ楠氏ノ一族楠氏八臣ノ一ニシテ祖八郎正員忠死ノ後北畠顕家義良親王ヲ奉シ入京シ攝泉ノ間賊兵起ルヤ正茂天王寺ヨリ赴キ賊軍ヲ破ル三年ニシテ顕家ノ弟顕信ニ属シ顕家戦死スルニ當リ正茂軍ヲ旋シテ之ヲ援ク延元四年後醍醐天皇崩シ人心危懼ス正茂楠正行ヲ輔ケ正平年中田村輝定ノ軍ニ属シ再奥州ニ下リ北畠顕信ニ従ヒ賊軍ニ抗戦スルコト十有余年而シテ祖先八郎正員ヨリ朝廷ニ勤王シ終始淪ラサル忠節ヲ盡シタル功績ニ因リ今般贈位ヲ賜フ祖先ノ徳ヲ尊奉シココニ後裔一族ニ此表ヲ贈ルモノ也』とあったのである。 これを見た私は本家を訪れて、むかし見た家系図を見せてもらおうとしたが、生憎紛失したという。すでに世代が一代、代わっていたのである。しかも故・橋本孫十郎には子がなく、養子の夫婦であったことも、家系図が無くなった理由の一つであったのかもしれない。そこで調べてみると、『贈正五位』の由緒にある橋本八郎正員は、橘姓を称した楠木氏の一党であり、この橋本八郎正員の名が、『太平記』巻十六にあることが確認できた。橋本氏は、和泉国、いまの大阪にあった日根郡橋本郷、いまの大阪府貝塚市橋本を発祥としたが、南北朝時代に、正員をはじめとする多くの一族が戦死している。 そして時代の下がった戦国時代、三春は、いわゆる戦国田村三代と言われた田村義顕・隆顕・清顕と続いてきた。この橋本刑部顕徳の父は、義顕の弟の田村月斎頼顕であるが、何故か橋本の姓となっている。父が田村月斎でありながら、顕徳が橋本の姓となったのは、月斎が橋本の姓を使っていたことがあったからという。このことは、日本家系協会『田村一族68ページ』に、田村月斎の嫡子の羽州秋田の宗輪寺住持(氏名不詳)の説として載っている。それによると、田村義顕は橋本姓を名乗ったこともあり、月斎もまた橋本庄七郎と称していたこともあったという。その上、田村清顕の甥の田村広顕が橋本の姓を名乗ったことなどから、顕徳が橋本の姓を名乗ったとも想像される。 明治三十七年に出版された『田村の誉・73頁』に、次の記述がある。『田子森舘跡=要田村大字荒和田字田子森に在り応永年中田村持顕館を荒和田に築き次子重顕をして之れに居らしめ東北の藩屏たらしむ重顕の子廣顕に至り氏を橋本と改称す爾来子孫相継ぎて田子森舘に居る天正十八年田村氏没落橋本時顕も亦降りて民官に居り世々荒和田村の里正たり後時房に至り文政六年出て三春城主秋田公に仕ふ故に其子孫三春に居る尚荒和田に居るもの荒和田を以って氏とす』 少なくともこれによっても、田村氏と橋本氏の間に密接な関係のあったことが想像できる。 この橋本正茂と田村氏をつなぐ系図は残されていないが、義顕の祖父が直顕、父が盛顕とその名は残されている。田村氏の22代とされる盛顕の生年は不明であるが、没年は長享元年(1487)とされる。清顕の没年、天正十四年(1586)などを参考とすれば、初代の田村氏は南北朝になるかと思われる。するとそのあたりで、田村氏と橋本正茂との間には、なんらかの関係があったのかとも推測される。ここのところは、宗輪寺の住持の説であるということに、留めておくべきなのかもしれない。 江戸時代に書かれたものに、『仙道田村兵軍記』という本がある。これは平姓田村氏を始祖と称する三春の田村清顕一代記として書かれたもので、延暦十三年(794)の田村麻呂の征夷から始まり、古くからこの地に定着していた橋本氏に結び付け、自らの出自を貴種とする物語であるという。『仙道田村兵軍記』では、田村麻呂は奥州の生まれで、胆沢の高丸・悪路王・阿底利為・母礼等を征伐したが、阿底利為と母礼を殺さなかったというこの話は、江戸期一ノ関に移封された田村氏が、三春で勢力を振るっていた時代を回顧して書かれたものであるとされる。一ノ関は、胆沢城の南、阿底利為と母礼の勇敢な戦闘の歴史が残る場所である。なおこの文中、『田村麿の子浄野公三春城を築き数代を経て橋本左京政秀に賜はるてふことは御国史によりても知るを得べし』とあるそうであるが、この政秀、果たして実在の人物なのかどうかも不明である。なお『仙道田村兵軍記』は、お伽草子の『田村皇子』や世阿弥の謡曲『田村』、仙台浄瑠璃などを参考にして書かれたらしいから、事実にはないことも含まれていると思われる。 ところでこの故・橋本九郎正茂の受けた『贈正五位』の位記が、なぜ我が家にあったのか? 疑問に思って調べてみたが、まったく不明であった。そこで怖るおそる、宮内庁に電話してみた。結局わかったことは、明治後期から大正にかけて、天皇に忠誠を尽くした複数の人物を洗い出し、位階を与えたと言うのである。静それで南北朝時代の橋本九郎正茂に、大正七年なってから与えられた理由はわかったが、それではなぜこの文書が我が家にあるのかを尋ねてみたが、それについては、わからないという。ちなみにこの時期、幕末三春藩家老の秋田主税も、『正四位』を贈られている。 ところで田村清顕の弟・氏顕の子の宗顕が孫七郎を、また清顕の次弟が孫八郎を名乗っていた。うがった見方をすれば、本家の襲名・孫十郎や私の家の襲名・孫三郎ともつながると思うのは、我田引水に過ぎるのかも知れない。なお私の場合、幼名が正明、壮年期は捨五郎、老年期は孫三郎を襲名することになっていたらしい。というのは私が9歳のとき父が襲名しないまま、11歳のときに祖父8代目捨五郎が亡くなった。戦後の配給の時代、母は私に無断で捨五郎を種名したが、その理由の伝承は途切れていた。あるとき、私は叔父に言われた。「なぜ生まれた息子に孫の字を使った名を付けなかったのか?」と。そして襲名についての事情を教えられたが、それはすでに遅かった。ところが私の祖父の8代目の捨五郎が、三春大神宮の境内に親戚の人たちと橋本神社を建立した記念の写真が、あの『贈正五位』と一緒にまとめて残されていた。それでも今は亡くなっているが、私の父の妹の伊藤サワから、写っているそれぞれの人の名の確認をすることができた。せめてもの、我が家の歴史の一端を確認できたことは、幸いであったと思っている。 蛇足になりますが、私・十代目捨五郎の嫡子に子供が恵まれなかったので、この名は風前のともし火となりました。それでも嫁に出た娘夫婦に姓は異なりますがただ一子、男の子が生まれたのです。橋本家での襲名の話を聞いたムコ殿は、その男の子に『捨』の文字を入れた名を考えてくれたのです。しかし私は、猛反対をしました。孫が学校に行くようになったとき、イジメに会うのではないかと心配したからです。さてこの捨五郎の名は、どうなるのでしょうか。後は娘夫婦が、孫が成人した折にどうするのか。予断を与えないようにして、黙って見ています。 <font size="4">ブログランキングです。 <a href="http://blog.with2.net/link.php?643399"><img src="http://image.space.rakuten.co.jp/lg01/72/0000599372/67/img25855a93zik8zj.gif" alt=バナー" height="15" border="0" width="80"></a>←ここにクリックをお願いします。</font>
2021.04.20
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源義経北行伝説 日本を襲撃してきたジンギスカンは、1162年から1227年の人で、義経は1159年から1189年の人です。ですから、兄の源頼朝の追討から逃れて北に向かった義経が、北海道を経て大陸に渡りジンギスカンと名乗ったと考えるのに、たしかに、そう不自然な時期とも思えません。ところでジンギスカンについては、生れ年や前半生が不明な点が多いことや、モンゴル民族が元来文字を持たなかったため文献が残っておらず、口伝・口承による歴史伝達など裏づけ部分に不明なことが多く、この説の決定的な否定の材料に乏しいことも事実です。特にジンギスカンの約十年の空白期間、何をしていたのか特定できず、義経がその時期日本で活躍していたことなどがこの説をややこしくしているのです。 源義経は日本史の上で極めて人気が高く、その人気ゆえに数々の事実と確認されない逸話や伝説が生まれました。室町時代以降になると、いわゆる『判官びいき』から生まれた『義経不死伝説』が『御曹司、島渡り』説話と結びついて成立しました。この『義経北行伝説』の『あらすじ』は、文治五年(1189)閏四月三十日、平泉の藤原秀衡が源頼朝の命により、源義経を討ち取るため襲撃をしたが、義経は平泉の高殿から姿をくらまし、奥州の各地を転々と逃亡したのち津軽の三厩から北海道に渡り、さらに大陸へ渡って蒙古に着き、蒙古名ジンギスと名を変えてカン、つまり王となって中国からヨーロッパを席巻したというものです。しかしこれはお話ですので、まず事実を追ってみたいと思います。 義経は兄の頼朝と共に平家を打倒したのですが、兄との間が不仲となり、藤原秀衡を頼って平泉に入ったのですが、文治三年(1187)、秀衡が病没しました。秀衡の嫡子の泰衡は頼朝の圧力に負け、500騎の兵をもって10数騎の義経主従を衣川舘に襲いました。多数の泰衡勢を相手にした弁慶は、義経を守って堂の入口に立って薙刀を振るって孤軍奮闘するも、雨の様な敵の矢を身体に受けて立ったまま絶命し、その最期は『弁慶の立往生』と後世に語り継がれることになります。吾妻鏡にも、館を泰衡の兵に囲まれた義経は一切戦うことをせず持仏堂に籠り、まず正妻の郷御前(さとごぜん)と4歳の女の子を殺害した後、自害して果てたとあります。享年、31歳と伝えられています。また、『岩手県姓氏歴史人物大辞典』に、『先祖が奥州藤原秀衡の三男藤原忠衡の子孫が、北海道に居住』と書かれています。つまりこれは、姓氏に関して見る限り、忠衡に近い血脈の人物が蝦夷に逃れたことになります。そしてまた、『中尊寺建立供養願文』には、奥州藤原氏が大陸系の民族である粛慎(しゅくしん)や挹婁(ゆうろう)とかなり親しく、しかも藤原氏に従順だったのではないかと思わせる記述があるというのです。ちなみに粛慎とは、中国東北地方及びロシア・沿海地方に住んでいたとされるツングース系狩猟民族であり、挹婁とは、ロシア沿海州から中国東北地方東部にかけて住んでいた古代民族です。これらの事実が、『義経北行伝説』の伏線になっていると思われます。 『義経北行伝説』は、江戸時代中期の歴史学界でも、林羅山や新井白石らによって真剣に歴史問題として議論され、徳川光圀が蝦夷に探検隊を派遣するなど、重大な関心を持たれていました。寛文七年(1667)には、江戸幕府の巡見使の一行が蝦夷地を視察し、アイヌのオキクルミの祭を見て、アイヌ社会ではオキクルミがホンカンサマと呼ばれ、大男で強力無双の従者サマイクルに関するものがあり、その屋敷が残っていたと証言しました。オキクルミは、アイヌ伝承の創世神話における英雄神でアイヌ民族の先祖とされる神とされていたのですが、ホンカンサマは、『判官様』が転じたもので、そのホンカンサマは、樺太やシベリアへ向かった、との伝承もあったと報告しています。これが義経北行説の初出であり、その後に出た『義経記』は広く流布して本格的に読まれるようになり、浄瑠璃、歌舞伎、狂言、読本などにも盛んに取り入れられていくのですが、こうしたなかで、『義経不死伝説』と『御曹子、島渡り』説話が互いに結びつき、義経は自刃したとみせかけて実は蝦夷地に渡ったという話になっていったと考えられています。 寛文十年(1670)、林羅山・鵞峰親子が幕命で編纂した『本朝通鑑』には、『俗伝』の扱いではありますが、「衣川で義経は死なず、脱出して蝦夷へ渡り子孫を残している。」と明記され、その後も新井白石も同じようなことを論じています。徳川光圀の『大日本史』においても、注釈の扱いながら、泰衡が送った義経の首は偽物で、義経は逃れて蝦夷で神の存在として崇められているという生存説として記録されているそうです。そして嘉永五年(1852)、シーボルトがその著『日本』で、義経が大陸に渡ってジンギスカンになったと主張したので、その説への関心は一層高くなり、近藤重蔵や、間宮林蔵、そして幕府の通詞をしていた吉雄忠次郎など、かなりのインテリ層に信じられていきました。 このように、義経が蝦夷地に入ったという説はアイヌの間にも広まっており、その上、千島、もしくは蒙古へ逃げ延びたという話もあり、新井白石はその著書『読史余論』の中で、「吾妻鑑を信用すべきか。」と言って幾つかの疑問点を示しながらも、義経の蝦夷地入りを紹介し、更に蒙古に入ったという説も付記しています。明治の初期には、アメリカ人教師グリフィスがこの話に影響を受け、その書『ミカド 日本の内なる力』でこの説を論じたので、現代人が想像する以上に、源義経北行説は深く信じられていました。明治十三年(1880)に、『日本奥地紀行』を著したイザベラ バードも、『義経は蝦夷に逃れてアイヌ人と長年暮らし、十二世紀の末に死んだとの説を信ずる人も多く、義経はアイヌの祖先に文字や数学と共に、文明の諸学芸を教え、正しい法律を与えたと主張している。』などと和人からの伝承を記しています。このようなことが長崎出島にいたオランダ人の医師のイサーク ティチングに翻訳され、欧米に紹介されたのです。 大正の末、アイヌ研究家で『義経=ジンギスカン説』と『日本ユダヤ同祖論』の提唱者である小谷部全一郎によって、『ジンギスカンハ源義經也』が著されると大ブームになり、多くの信奉者を生みました。しかしその一方で、史実を捻じ曲げ、捏造される書物も多く出されました。蒙古に敗れた『金』の正史の『金史』の外伝もそうで、『12世紀の金の将軍に源義経なる者がいた。』と記していたというのです。この『金史別本』の内容に、清王朝の最盛期を創出した乾隆帝の御文の中に 「朕・姓は源、義経の末裔、其の先は清和に出づ。故に國を清と號す。」とあり、これが後の日本の大陸進出に利用され、大陸に向かう日本人を鼓舞するのに大いに役立ったと言われています。 ところで当然、これに対する反論もあり、臨風生という人は、その著書『中央史檀』の中でこの説を否定しています。それによると、エスガイバアトルとその妻との間には四人の男子と一人の女児とがあったが、ジンギスカンはその長子であるとあり、『元朝秘史』、『元史訳文証補』、『聖武親征録』、『蒙古源流』、『元史太祖本記』、『長春真人の西遊記』、そして『中世のキリスト教と文化』を著したドウソンの『蒙古史』には、ジンギスカンの誕生及びその人物像が詳細に記されており、『義経=ジンギスカン説』など要れる余地はないと手厳しいものがあります。戦後になると、高木彬光が昭和三十三年に、『ジンギスカンの秘密』を著して人気を得たのですが、この頃になると戦前あったほどの関心は薄れ、生存説はアカデミックな世界からは取り扱われることはなくなり、現代では、トンデモ説と評されています。 ところで2005年、大の親日家を自負するフランスのシラク元大統領は、エリゼ宮を訪問した日本の要人に、『源義経とジンギスカンの関係』などを話題にして驚嘆させたと言われます。 では現在も伝えられている義経の足跡を追ってみましょう。まず『義経北行伝説』において義経は衣川舘で死なず、ここから生きて逃亡したということから始まります。義経が脱出したとされる衣川館跡には、義経最期の地としての碑が建立されており、平泉の地元では衣川舘を、判官館や高舘と呼んでいます。そして衣川を出立した義経は、北上川を渡って対岸の、いまの岩手県奥州市江刺区岩谷堂に入りました。ここの源休館で、義経の一行十数人は数日間休息をとったと伝えられ、『平泉雑記』にもその記載があります。また江刺区玉崎の牧馬山に馬を放ち、玉崎神社に義経が、武運長久と道中の無事を祈願したと伝わり、義経にまつわるという品々を保存しています。ここにはかつて、弁慶が住んでいたといわれる弁慶屋敷跡があり、北上の際はここで空腹を満たしてから出発したと伝えられ、弁慶が足を洗った池が存在すると言われます。 岩手県一関市大東町には、義経主従が投宿したとされる観福寺で蝦夷入りの行程を検討したと伝えられ、供の亀井六郎重清が、その礼として残したといわれる笈が寺宝として残されています。 岩手県住田町世田米には、義経が、野宿をしながら険しい山を越えたと伝えられる判官山があります。この名は九郎判官の転化と思われ、義経が手をかけたという『判官手掛けの松』や『弁慶の足跡』が残されています。 岩手県遠野市の駒形神社には、弁慶が持ち上げて重ねたとされる全長7メートルの巨岩『続石』があり、ここには、風呂さんという家があるのですが、ここでは義経一行にお風呂を提供したことから風呂家と呼ばれる姓ができたと伝えられています。 岩手県油田村には、油田村の惣平より糧米粟七斗(126キログラム)借用したとする文治四年(1198)四月の日付で、義経、弁慶の連名の署名が残されているという。 岩手県釜石市、義経が宿泊した八幡家が義経の石像を作り、中村判官堂を建立したという。 岩手県山田町大沢には、義経一行が宿泊したので、明治以前は『判官』の姓を名乗っていたという家があり、今も判官の名が入った墓石が残り、また義経の軍師の佐藤庄司基治の子信正が、義経一行を案内して当地まで来たことを示す文書があるという。 岩手県宮古市には、平泉を脱出した義経一行が3年あまり滞在したとされます。そのためか、宮古市周辺には、判官館、横山八幡宮、法冠神社、判官宿、弁慶腰掛岩、黒森山(九郎森)に判官稲荷とゆかりの地名がとても多いのです。 岩手県普代村の清河羽黒権現は、義経を追っ手から守り亡くなった清河・羽黒・権現という3名の山伏を祀る祠と伝えられ、その他にもここには、藤九郎様という神社があります。 青森県八戸市には、義経の八戸での仮住まいが地名となったという『舘越』や『長者山』などがあります。 青森県三厩村(みんまやむら)から、義経たちは津軽海峡を舟で渡ろうとしたのですが、霧や潮流に妨げられて行く手を阻まれました。大岩の上に座り、守り神の観音様に三日三晩祈ると海は静まりました。この大岩の下にある岩屋の中に、3頭の馬が繋がれており、義経は白髪の老人に白馬の『竜馬(りゅうめ)』を与えられました。以来この大岩を厩石、そして地名が三厩となったと言われます。さてこれからは、北海道です、 義経が初めて北海道に上陸したとされるのは江差町ですが、滞在したとされる場所は、日本海側の道南を中心に実に120ヶ所以上になると言われます。もうやむを得ません。地名だけをお知らせします。 函館市、松前町、江差町、乙部町、寿都町、岩内町、泊村、積丹町、札幌市、石狩市、恵庭市、壮瞥町、厚真町、むかわ町、平取町、新冠町、様似町、大樹町、豊頃町、中札内村、白糠町、釧路市、弟子屈町(てしかが)、羅臼町、斜里町、旭川市、東神楽町、稚内市。 このように岩手県から北海道にかけて点在する義経伝説ですが、この義経伝説、ひとつひとつは神秘めいたいかにも創作された話のように聞こえるのですが、実はこれらの伝説の場所を地図に落とすと平泉を起点に三陸海岸、八戸、青森市、十三湊そして北海道と一本の線の上にきれいに並び、また年代も平泉から順に新しくなっているのです。つまり点在する義経伝説は、地理的、年代的に合致し整合性があるのです。とは言え、衣川で義経が襲撃されたとき、義経の家来全員が玉砕したと考えられません。そのことから、衣川から北上したのは義経本人ではなく、残された家来たちの逃避行であったと考えるのがいいのかなと思っています。いずれ義経がジンギスカンになったというのは、噴飯物だと思っています。 <font size="4">ブログランキングです。 <a href="http://blog.with2.net/link.php?643399"><img src="http://image.space.rakuten.co.jp/lg01/72/0000599372/67/img25855a93zik8zj.gif" alt=バナー" height="15" border="0" width="80"></a>←ここにクリックをお願いします。</font>
2021.04.01
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奥州・鞭指莊(べんざしそう)とはどこ? 奥州平泉の戦いは、北からの脅威を取り除きたい源頼朝が「奥州藤原氏が朝敵の義経を匿っていたことは重罪だ!」と決めつけ、源頼朝の独断で起こした戦いです。この合戦の主戦場となったのが、いまの国見町の阿津賀志山でした。藤原泰衡の異母兄である藤原国衡がここに陣を構え、泰衡はいまの仙台市鞭楯を本陣として待機していました。しかし阿津賀志山で敗れた藤原国衡は北へ逃亡しようとしたのですが戦死し、藤原泰衡も逃走、平泉も陥落しました。 これにより、奥州地方は鎌倉武士たちに戦いの恩賞として配分され、安堵されました。工藤祐経が曽我兄弟の仇打ちにあって亡くなったのち、長男の祐時は本貫地の伊豆を継ぎ、次男の祐長が安積に赴任しました。このあたりについて『姓氏家系大辞典』は、『工藤祐經威勢重く成りて、大将殿より日本国中に所領を当てるとの約束にて、廿余ヶ国迄下し給わる。』と記述しています。そこでWebで調べていたところ、『苗字のルーツは日本の歴史 伊藤氏のルーツ5』というのを見つけました。そこには工藤祐経の嫡子・伊東祐時の子、つまり祐経の孫の時代の領地が、次のように記されており、この3行目に、奥州鞭指莊 祐時の長男・祐朝という記録があったのです。 長門国三隅 山口県 (大津郡三隅町) 祐時の長男・祐朝安芸国奴田 広島県 〃奥州鞭指莊 〃石見国 島根県 次男・祐盛備前国三石 岡山県 (備前市三石) 三男・祐綱伊勢国富田 三重県 (四日市市富田) 四男・祐明日向国田嶋 宮崎県 〃日向国富田 宮崎県 (児湯郡新富町富田) 〃播磨国長倉 兵庫県 五男・祐氏播磨国吉田 兵庫県 (神戸市兵庫区吉田町または 洲本市五色町鮎原吉田) 〃相模国鎌倉 神奈川県 (鎌倉市) 六男・祐光日向国門川 宮崎県 (東臼杵郡門川町) 七男・祐景日向国木脇 宮崎県 (諸県郡国富町大字木脇) 八男・祐頼日向国八代 宮崎県 (諸県郡国富町大字八代) 〃石見国稲村 島根県 九男・祐忠石見国伏見 島根県 〃石見国長岡 島根県 〃石見国御対 島根県 〃甲斐国横手 山梨県 (北杜市白州町横手) 〃肥後国松山鷺町 熊本県 十男・鷺町主紀伊国一の莊 和歌山県 十一男・伊東院主 この表から伊東氏の領地の分布を見てみますと、西日本や九州にかけて多いのが分かります。しかもその場所は、ほぼ確定されているようです。それにしても領地の数もさることながら、いくら側室を持つ事を許されていた時代であったにしても、それを管理するのに、十一人の男の子を当てたというのですから、その数の多さには驚かされます。しかも恐らくその間には、女の子も生まれていたと考えられますから、それらを加えると、もっと多くの子供の数になる筈です。そう思ったとき、片平町の常居寺の和尚に聞いた寺に伝わる話を思い出しました。この常居寺は安積伊東氏の菩提寺ですが、そこの和尚から寺に伝わる話を聞いたのです。当時、大した話ではないと思って仕舞い込んだいた古いメモを、私はようやく見つけ出しました。それには、こう書いてあったのです。 『安積の最初の領主となった伊東祐長が、兄の祐時の依頼に応じ、自分の子の祐朝を日向の国富、いまの宮崎県国富町に派遣した。』と・・・。すると安積から国富に派遣されたという祐朝は、山口県か広島県のどちらかに本拠を置いて管理をしたと想像できます。ところが工藤祐経が、源頼朝に奥州で唯一つ、安積の地を安堵されていたという事実があるのです。いずれにしても、この表と常居寺の話の双方に、祐朝の名が出てきます。私は祐朝の名をこの双方に確認をしたとき、鳥肌が立つほど驚きました。常居寺でこの話を聞いたのは随分前のことでした。そしてこの表は、最近になって見つけたのです。それなのに、名が一致していたのです。しかし工藤祐経は頼朝から安積を安堵されているのですから、奥州鞭指莊とは安積であったのではないかと想像できるのです。ところが、安積には鞭とか指と書く地名なども残されていないようです。 『講座日本荘園史5東北関東東海地方の荘園』には、宮城県内所在とみられる国分荘、それに鞭指荘などが掲示されています。このことについて、ハンドルネーム・標葉石介さんからメールがありました。標葉石介さんは、『私は、鞭指とは国分原鞭楯、いまの仙台市宮城野区榴(つつじ)ヶ岡の付近であろうと推測している。理由は、いまの国見町の阿津賀志山の戦いで、藤原泰衡の兄の藤原国衡が源頼朝に敗れているが、泰衡が守備隊の本陣を設営した所の地名が鞭楯である。しかしあいにく、この仙台説と決定づけるような遺構などは発見されていない。』と教えてきてくれたのです。その後も標葉石介さんからは、『種々の資料によれば、小生の『鞭指荘』仙台付近推論は間違いになります。というか裏もとれていませんもので。』と言いながらも、『案外、鞭指莊は、福島県郡山市の付近かもなどと妄想するなか、逍遙すること10日間、思い至ったのは仙台市の鞭楯の地にあったと推理した。』いうコメントを寄せてくれていました。 私も鞭指莊は郡山であったと思いたかったので、妄想をしてみました。これから先は、私の想像です。 『平泉の戦いで勝ち、仙台まで引き上げてきた源頼朝は、工藤祐経に奥州の安積の地図を見せ、鞭で指し示した所が鞭指莊、つまり本当は安積の地であった、と想像したらどうかと思っているのですが、これは単なる思いつきに過ぎません。なにか具体的な証拠が必要です。どなたかご教示をお願いします。 <font size="4">ブログランキングです。 <a href="http://blog.with2.net/link.php?643399"><img src="http://image.space.rakuten.co.jp/lg01/72/0000599372/67/img25855a93zik8zj.gif" alt=バナー" height="15" border="0" width="80"></a>←ここにクリックをお願いします。</font>
2021.03.20
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三春の滝桜〜その2(その1は、ショートショート20にあります) 今年もまた、桜の季節になります。しかし新型コロナの蔓延により、各地ともに、『お花見』が寂しくなりそうです。しかしこのお花見に欠かせない桜が、日本三大桜と言われる三春の滝桜です。この三春町の名が全国的に知られているとすれば、国の天然記念物に指定されている滝桜のおかげと言えます。ところで、滝桜の樹齢は、およそ1000年とされています。もちろん木の年齢など外から見ただけでは簡単には分かりませんから、あくまで推定されたものです。各種の資料や文献によりますと、『滝桜は樹齢千年』と書いたものもあれば、『天文年間に植樹された』と書かれていたものもあります。天文年間とは1532年から1555年の間ですから、これによると樹齢は500年にも満たないものとなってしまいます。ところが、江戸時代の三春名所案内記『松庭雑談』に寿永三年(1184)とあります。すると今年は2021年ですから、単純に計算すると837年前ということになります。その寿永三年に5人で手をつないだ太さであったということは、滝桜の樹齢が1000年以上ということの傍証となるのかも知れません。しかしこのような矛盾する記述が出てくるのも、結局はよく分からないためなのでしょう。明治三十七年(1904)に出版された『田村の誉』に、『秋田氏所領の節は、保護特に厚く、周囲に竹の柵を巡らし、標識を建て枝折を禁ず。』とあります。いかに大事にされていたかが分かります。 先にお示しした江戸時代の三春名所案内記『松庭雑談』に、滝桜について次のような記事が載せられています。『瀧村の桜。瀧村、纔(わずか)に城下より壱里餘也。近郷の名木也。本木ふとさ五囲余、枝縦横十八間、糸桜也。花の頃、近隣の尊鄙(人々)群集ス。人皆、邊鄙(田舎)にありて、名をなさじるを惜しむ。桜の傍に不動堂あり。堂に掛ル額あり。武蔵坊弁慶ノ筆なり。左の如し。』と神戸市の須磨寺の桜について記載されています。これに関して、三春歴史民俗資料館のweb資料に、藤井康氏の記述が載せられていました。 平敦盛遺愛の『青葉の笛』や『敦盛の首塚』、『義経腰掛の松』や『弁慶の鐘』など、多くの寺宝や史跡が存在する兵庫県神戸市の須磨寺には、弁慶が書いたと伝えられる『若木の桜制札』というものが残されています。現代文に直しますと、そこには、『もし若木の桜の枝を折る者がいたら、一枝に対して指一本を切るぞ。』いうものです。いかにも弁慶らしいセリフですがこの制札かかれたのが、寿永三年(1184)とあります。しかし元暦二年(1183)、頼朝と義経の不仲が表面化し、弁慶を供にして平泉の藤原氏を頼って東上しています。するとこの歌は、その一年前に作られたことになります。弁慶が京都で活躍した時期に須磨寺で書き、源義経とともに平泉を目指して落ち延びる際に滝桜で書いたとしたら…。歴史のロマンを感じさせます。』 このエドヒガン系の紅枝垂れ桜の滝桜は、大正十一年(1922)に、桜の木としては初めて国の天然記念物の指定を受け、日本三大桜のひとつに数えられています。皇居宮殿の正殿松の間の杉戸絵『櫻』(橋本明治画伯)や、赤坂サカス・赤坂BiSタワーの壁画、千住博画伯の『四季樹木図』などが、滝桜をモデルに描かれたことでも知られています。ちなみに日本三大桜とされているのは、岐阜県本巣市の根尾谷淡墨桜、山梨県北杜市の山高神代桜、そして三春の滝桜です。ところでこの滝桜からちょっと北にある龍光寺の境内に、明治のはじめに枯れて無くなったとされるのですが、滝桜の親樹があったとされます。もし枯れずに残っていたら、さぞかし風情のあるものであったろうと思われます。 田村の地域内には、滝桜を中心にして半径1キロメートル以内に根廻り1メートル以上のしだれ桜が420本以上分布しているそうです。これらの枝垂れ桜は、滝桜から同心円状に広がり、遠ざかるほど幹は細くなり、数も少なくなっているというのです。全てを網羅してはいないと思いますが、簡単にそれらを、抽出してみたいと思います。 永泉寺の桜 田村市大越町栗出 樹齢およそ400年。福島県の天然記念物 紅枝垂地蔵桜 郡山市中田町木目沢字岡ノ内。『滝桜の娘』の異名を持つ。樹齢はおよそ400年、郡山市の天然記念物。 上石の不動桜 郡山市中田町上石字舘。樹齢およそ350年。郡山市の天然記念物。 大聖寺の桜 田村市船引町新館曲山 樹齢はおよそ300年。 福田寺の糸桜 二本松市東新殿字大久保。樹齢はおよそ300年。 金寳桜 郡山市田村町金沢字高屋敷 仁井田本家。樹齢はおよそ300年。 合戦場の枝垂桜 二本松市東新殿字大林。樹齢はおよそ170年。福田寺の糸桜の子、滝桜の孫。 水月観音堂桜 郡山市中田町駒坂字表の常林寺。樹齢はおよそ100年。 県外にも次のようなものがあります。 岩手県一関市 一関市役所前 釣山 田村神社 仙台市青葉区荒巻字青葉6〜3 東北大学青葉山キャンパス 西公園 御譜代まちづくり実行会により、愛姫桜と命名された。 埼玉県北本市石戸宿6丁目放光寺。平成七年に植樹。 埼玉県越谷市レイクタウン四丁目イオンレイクタウン アウトレット棟。 東京都港区赤坂 赤坂サカス ブリッツ前 平成二十年のグランドオープンに合わせて植樹。 鎌倉市笛田 笛田公園 山梨県北杜市武川町山高 実相寺。山高神代桜のある寺 愛知県尾張旭市 滝桜の子孫樹三本。 京都府南丹市 丹波基督教会氷所教会堂 香川県高松市 高松市香南町岡 香川県園芸総合センター 長崎県佐世保市 ハウステンボス。 ところが、海外にもあるのです。三春町に、カラヤン財団とザルツブルグ市から、「カラヤンが好きだった日本とオーストリア交流の象徴とするために滝桜の子孫樹が欲しい」との要請があったのです。『三春さくらの会』では種から3年ほど育てた高さ約2メートルの三春滝桜の苗木を発送し、植樹されました。カラヤンは三春を訪れたことはありませんでしたが、日本の美の代表として滝桜などが選ばれたそうです。彼は11回の来日に加え、勲二等旭日重光章を受章するなど、日本とのゆかりも深い方でした。2008年4月、読売、毎日、東京、河北、さらに福島民報、民友、その上オーストリアのザルツブルグの新聞に、ヘルベルト フォン カラヤンの生誕100年を記念して天然記念物の日本三大桜の三春滝桜、山梨県の山高神代桜、岐阜県の根尾谷淡墨桜がカラヤンの墓地および邸宅や公園へ植樹された、と報道されました。大の親日家のカラヤンを讃える企画であるとして、その関係者は、日本とオーストリア交流の象徴と喜び合いました。カラヤンはベルリンフィルの首席指揮者、芸術監督をはじめ西洋音楽界の枢要ポストを一手に収めたことから『帝王カラヤン』とも呼ばれ、多くの世界的指揮者、歌手、演出家を指導しました。世界的指揮者の小沢征爾氏なども師事しています。 『都まで 音に聞こえし滝桜 いろ香を誘へ 花の春風』という歌は、天保6年(1835)、前の内大臣大炊御門経久の作ですが、この他にも多くの文人墨客に親しまれてきました。そして奇しくもザルツブルグに滝桜の子孫樹が贈られた年の11月、滝桜を含む14種の桜の花の種が、スペースシャトル・エンデバー号で宇宙へ飛び、約8か月半、国際宇宙ステーション「きぼう」に滞在して無重力状態が発育に与える影響などが調べられ、2009年7月31日(日本時間)、若田光一宇宙飛行士と共に地球に帰還しました。帰ってきた種は元の場所にほとんど植えられたそうですが、今まで種から発芽したことがなかった種が発芽したとか、開花まで10年ほどかかるのに通常より早かったとか、さらには木の成長が早い、花びらの数が違うなどの変化がみられたそうです。これらの桜は、宇宙桜(そらざくら)と呼ばれるようになりました。三春滝桜の種を集めてくれたのは三春町立桜中学校の生徒たちで、(そらざくら)は、その校庭に植えられました。ところがこの中学校は合併して廃校となり、いまはアニメのテーマパーク 三春ガイナックス 福島さくら遊学舎となりました。現在、関係者以外は立ち入り禁止ですが、(そらざくら)はフェンス近くに植えられているので、三春町運動公園の大駐車場からも見ることが出来ます。 滝桜の子孫樹をブータンへ、これは新聞記事です。 三春町はブータン王国に三春滝桜の子孫樹を贈る。鈴木義孝町長らが2013年2月下旬に同国を訪問し、植樹式に臨む。日本ブータン友好協会などでつくる福島三春滝桜ブータン・プロジェクト実行委員会の提案を受け、寄贈を決めた。ジグメ・ケサル・ナムゲル・ワンチュク国王夫妻が昨年、東日本大震災の被災地支援として県内を訪れたことへの感謝を表す。国王夫妻は昨年11月に相馬市を訪れ、被災児童を見舞うなどした。この他にも、次の各国に子孫樹が息づいています。台湾 ポーランド ハンガリー。 大韓民国などです。ところでこの滝桜は、古くから歌われていました。 『陸奥に みちたるのみか 四方八方に ひゝき渡れる 滝さくらかも』は、宝暦四年(1754)に生まれた通称山本安房守、正四位下の加茂季鷹により詠われています。『名に高き 三春の里の 滝桜 そらにもつゝく 花の白波』は、花山院右大将家厚により、寛政元年(1791)に作られています。また記録によれば、天保六年(1835)、三春藩士草川次栄が上洛して滝桜の見事な様子を報告したのですが、それを聞かれた大炊御紋 前内大臣 経久の詠まれた歌が、『都まで 音に聞こえし 滝桜 いろ香を誘へ 花の春風』であるそうです。この当時、すでに滝桜は今のように立派な大樹であったことが伺えます。なお詠まれた年代は分かりませんが、僧侶の如及が詠んだ、『滝桜 白かねさへと 思ふかな こがね花さく 此國にして』という歌も残されています。滝桜の歌と言えば、なんと平成十八年(2006)に作られた歌謡曲がありました。『滝桜 千年の恋』です。作詞が郡山出身の麻こよみ、作曲が弦哲也ですが、唄も彼自身や美桜かな子が歌っています。 さて滝桜の話のついでに、三春福聚寺に『愛姫桜』という樹があるのをご存知でしょうか。境内にあるベニシダレザクラですが、樹齢は約450年。三春滝桜の『長女』であると同時に、愛姫の誕生樹なのではと玄侑宗久師は推測しています。実は私もそう思い、平成二十一年に、『愛姫桜〜ひそやかな恋の物語』などという話を出版しています。そして仙台では、三春が伊達政宗の正室・愛姫の出身地であることから、仙台市地下鉄東西線工事に伴う西公園再整備に合わせて、平成十八年に「三春愛姫櫻お輿入れ準備会」が滝桜の苗を植樹しました。七夕が有名な仙台ですので、織女(しょくじょ)星と牽牛星の伝説になぞらえて広瀬川を天の川に見立て、右岸の仙台城本丸に設置されている伊達政宗騎馬像を望むことが出来る左岸の西公園の仙台市天文台付近に、桜が植樹されましたのです。なお同天文台は、後に移転しています。しかしこの植樹式では、仙台市天文台が発見した小惑星に『メゴ』と名付ける命名式も、一緒に執り行われました。 ところで三春町では、せっかく滝桜を訪れた観光客が、滝桜だけを見て帰ってしまう方が多いのを残念がっています。このほかにも町内には多くの枝垂れ桜があり、また水芭蕉や座禅草などもあります。そこで町へ観光客を呼び込むための提案をひとつ。それは滝桜から町まで、ポツリポツリでもいいので、滝桜の子孫木を植えられないかということです。町へのアプローチになると思うのです。また滝桜の周辺にその子孫木を植えるのも、良い方法かも知れません。 <font 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2021.03.01
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大乗仏教にみられるキリスト教の影響 この稿は、いわゆる『トンデモ説』になるかも知れませんが、下記各氏のwebなどを参考にしてまとめてみた素人の文です。読み流して頂ければと思います。 『日本は本当に日本なのか〜稲荷・密教とキリスト教の同源説』松川行雄著(ストラテジスト・小説家) 『仏教化されたキリストの復活・昇天の絵』久保有政著(プロテスタント系の聖書解説家) 最初に日本にキリスト教が伝来したのは八世紀で、この時より朝廷の記録に、景教の用語である『景福』という言葉が出てくるようになります。景教とは中国で呼ばれた宗教の一つで、ネストリウス派キリスト教のことです。このネストリウス派とは古代キリスト教の教派の一つなのですが、西暦431年、トルコのエフェソス公会議において異端認定されて排斥されて中国へと伝わり、唐代の中国において、景教と呼ばれたと言われます。景教とは中国語で『光の信仰』という意味です。 弘法大師空海は、伝教大師最澄とともに遣唐使として派遣されていました。そして弘法大師は、秦河勝(はたのかわかつ)とも接点があり、景教徒の集まりにも足を運んでいたそうです。唐へ渡った弘法大師は、真言密教を学びましたが、この真言密教は、当時中国に影響を与えていた様々な宗教の混合宗教でした。真言密教の立宗者である『不空三蔵』のいた長安では、景教寺院、仏教寺院、ゾロアスター教寺院、道教寺院などが、軒を並べて建っていたと言われます。 弘法大師がこのような長安にいたときに、景教徒の般若三蔵(はんにゃさんぞう)という人物に会い、景教の知識を吸収したと言われます。般若三蔵とは、「大秦寺」(だいしんじ)という景教の教会を営んでいた人物で、大秦とはローマ帝国の意味です。弘法大師は、絶対者をめぐって般若三蔵とかなりの論争をしていたのです。そして実在する救い主は誰かという議論になったとき、弘法大師は、「それは仏陀だ。」と主張したのですが、般若三蔵は、「違う、イエスだ。」と反論したというのです。ここで、弘法大師は、このような景教、つまりキリスト教について、かなりの知識を吸収したそうです。しかし般若三蔵は、般若心経は旧約聖書と同根の経典だという考えを持っており、純粋なキリスト教的考えの持ち主ではなかったようです。弘法大師は、般若三蔵が自分で翻訳した経典や、集めたものを日本に持ち帰るようにと、空海に贈りました。このようにして、弘法大師の思想の中には、キリスト教的なものが混合するようになったと言われます。 『稲荷大神秘文(いなりおおかみひもん)』というものがありますが、冒頭、驚くべき言葉からはじまります。『夫神は唯一にして御形(みかたち)なし、虚にして霊有。』・・・(それ かみはゆいいつにして みかたなし きょにしてれいあり)つまり、神と呼ばれる存在は、たった一つしかない、と言い切っているのです。それが稲荷だというのです。しかし考えてみれば不思議です。日本は、神羅万象あらゆるものに神があり、霊性がそなわっているという多神教の国家である筈なのに、稲荷だけが、『神は唯一である。』と言い切っているのです。しかしそれが、古代キリスト教の流れを汲んでいるとするのであれば、容易に納得はできます。ところで弘法大師が般若三蔵に紹介されて、すぐ近くに住んでいたという景教の僧の『景浄』にも会ったに違いないとは、ほとんどの学者の間で意見が一致しているそうです。弘法大師は、長安でマタイの福音書や十戒、その他キリスト教の文書を得たであろう、という学者もいます。さらに弘法大師は『潅頂(かんじょう)』、つまりキリスト教で言う洗礼を受け、『遍照(へんじょう)金剛』という洗礼名が与えられたと言われます。この遍照とは、『光明があまねく世界を照らす』という意味で、これは聖書『マタイの福音書・五章一六節』の、『あなたがたの光を人々の前で輝かせ。』の漢語から取ったものだと言われています。弘法大師は唐で修行を重ねたのち帰国、高野山で真言宗を創建しました。 弘法大師は、死に就こうとするとき、弟子たちに次のように語りました。「悲嘆するなかれ。われは弥勒菩薩(みろくぼさつ)のそばに仕えるために死ぬが、五六億七〇〇〇万年ののち、弥勒菩薩と共にふたたび地上にまみえん。」と。将来人々を救いに来るときに、自分も復活するというこの信仰は、まさに、『キリストが再来するときにクリスチャンは復活する。』というキリスト教信仰と同じものです。さらに、密教儀式の最初において十字を切る動作をするのもキリスト教に似ていますが、仏教にはない動作です。そして金色の羯磨(かつま)や金剛杵(こんごうしょ)は、十字架に似た形態で、密教の儀式には欠かせない道具となっています。 ところで中国の明代の末に、景教の教義や中国への伝来などが刻まれた『大秦景教流行中国碑(だいしんけいきょうりゅうこうちゅうごくひ)』が、長安の崇聖寺境内で発掘されました。この碑文は景教の僧の景浄が撰文して建立されたもので、古代キリスト教関連の古碑として世界的に有名なものです。現在は西安碑林博物館にて保管されています。明治の末、仏教を研究するために日本を訪れていたイギリスの仏教史学権威のエリザベス アンナ ゴードン女史は、例えば弥勒菩薩について、その語源を調べた結果、「弥勒の原語であるインドのマイトレィアが、中国ではミレフ、日本ではミロクとなったもので、これはヘブル語のメシアであり、ギリシャ語のキリストである。」と結論付けています。つまりヘブル語のメシアが、インドではマイトレィアとなり、中国ではミレフ、日本ではミロクとなったと言うのです。ゴードン女史はこの大秦景教流行中国碑のレプリカを、高野山に建立しています。彼女の考察による結論は、『仏教・キリスト教一元論』、つまり仏教とキリスト教は源流が同じであるという説です。とくに密教は、このネストリウス派の影響が色濃く出ていると言われ、高野山側も、このレプリカを処分していないところを見ると、あながち「火のないところに煙は立たず」なのかもしれません。この記念碑は今も高野山に現存しており、夫人の墓もその隣にあります。今も毎年宮中で演奏される雅楽の『越天楽』は、「ペルシャから伝わった景教の音楽です。」と日本雅楽会会長・押田久一氏は断言しておられるそうです。 ところで『いろは歌』があります。『いろはにほへと』のアレです。『いろは歌』の成立時期については諸説あるのですが、文献として最も古いのが、承暦三年(1079)に成立した著者不明の「金光明最勝王経音義(こんこうみょうさいしょうおうぎょうおんぎ)」に記されているのですが、この『いろは歌』が作られたのは、中国から景教、つまりキリスト教が伝来してから約500年後のことになります。ところが不思議なことに、『いろは歌』に、キリストに関するメッセージが折り込まれている、というのです。『折句(おりく)』と言われます。通常の『いろは歌』は、7・5・6・5・7・5・7・5ですから、ちょっと変に感じられるかも知れませんが7文字づつ7行にしてみます。 「いろはにほへと ちりぬるをわか よたれそつねな らむうゐのおく やまけふこえて あさきゆめみし ゑひもせ す」 どうですか? 『いろは歌』の各行の一番下の文字を右から左へ読むと、『咎(とが)なくて死す』、すなわち、『罪がなくて死んだ』の意味になります。ところが『いろは歌』には、そこでもう一つの折句があるというのです。この『いろは歌』の各行一番上の文字を横に続けて読みますと、『イチヨラヤアエ』となります。これはヘブル語の、『イーシ・エル・ヤハウェ』であり、ヤハウェとは旧約聖書および新約聖書における唯一神のエホバです。そしてイーシは人を意味するということから、イエス キリストを表すというのです。そこでこの二つの折句を合わせますと、『イエス キリストが、罪なくして死なれた』というメッセージとなって、折り込まれていることになります。江戸時代には『とがなくてしす』とある『いろは歌』は縁起が悪いから、手習いに用いるべきではないという意見もあったそうです。 <font size="4">ブログランキングです。 <a href="http://blog.with2.net/link.php?643399"><img src="http://image.space.rakuten.co.jp/lg01/72/0000599372/67/img25855a93zik8zj.gif" alt=バナー" height="15" border="0" width="80"></a>←ここにクリックをお願いします。</font>
2021.02.20
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天神様と将門塚、そして御霊神社 東風吹かば にほいおこせよ 梅の花 主なしとて 春な忘れそ これは都から無実の罪で太宰府へ流された、菅原道真の歌です。太宰府に左遷された道真は59歳で亡くなりましたが、その遺骸を運んでいた牛車の牛が途中で座り込んで動かなくなりました。このことは道真の意思であろうと推察されたことから、道真はその場所に埋葬されたと言われます。 それから約30年後の延長八年(930)六月二十四日に、清涼殿落雷事件が起こりました。清涼殿とは、平安京の御所の一つです。ここに昼を過ぎた頃、愛宕山の上より起こった黒雲はたちまち雨を降らせ、にわかに雷鳴を轟かして清涼殿の上に雷を落とし、大火災を起こしたというのです。このため、大納言藤原清貫(きよつら)は胸を焼かれて死亡し、右中弁・平希世(まれよ)の顔は焼けただれました。また紫宸殿にいた者のうち、右兵衛・佐美努忠包(みぬのただかね)は髪が焼けて死亡、紀陰連(きのかげつら)は腹部が焼けただれて混乱、安曇宗仁(あずみむねひと)膝を焼かれて倒れ伏すというありさまで、しかもこの落雷で、時の醍醐天皇も病に伏し起きれらなくなってしまったのです。しかも3ヶ月後の九月二十九日には、この醍醐天皇が亡くなってしまったのです。この落雷は道真の祟りであるとされ、道真は雷神とされてしまいました。このことから、理不尽な処置で人を死に追いやれば、その怨霊はその罪を犯した人すべてに報復を加え、ついには最高責任者たる天皇をも殺しかねないのだという認識が、当時の人々の間に定着していったのです。 御霊(ごりょう)とは霊魂を敬った表現で、非運にして命を絶たれた皇族や豪族、さらには政権争いや戦乱で敗れた者などの霊魂や怨霊が祟ると考えられ、天災や疫病の発生、不作など、社会全体に対しても災いをもたらすものと考えられたのです。このように市井の人々を脅かすような事柄が、怨霊『うらみのれい』という名に集約されていき、やがて『怨霊とは、怖れるべきもの』として人々に捉えられるようになったのです。平安時代になると、人々はこの恐ろしい怨霊に対して敵対するのではなく、これを慰めることによって祟りから免れようとしました。そのために怨霊に位を贈って鎮め、神として祀ればかえって社会全体を鎮める神となり、世に安寧を与えるという考え方が起こったのです。それもあって、政争での失脚者や戦乱での敗北者となった多くの皇族方も、御霊とされて祀られるようになっていきました。これが御霊神社です。中でも有名なものが、今も語り継がれている平将門の首塚です。 話が一挙に現代に飛びますが、平将門の首塚と言えば、第二次世界大戦後、GHQ、つまり連合軍総司令部が、爆撃を受けた丸の内周辺の区画整理をするため、邪魔となる平将門の首塚周辺を撤去し造成しようとしました。ところが、不審な事故が相次いで起きたため計画を取り止めた、という事件がありました。そのため平将門の首塚は現在にも残され、近隣の企業が参加して『史蹟将門塚保存会』が設立され、維持管理を行っているのです。隣接するビルは「塚を見下ろすことのないよう窓は設けない。」「塚に対して管理職などが尻を向けないように配慮して机の配置をする。」と言われますが、そのような事実は特にないそうです。また数十年にわたり、地元のボランティア団体が浄財を元に、周辺の清掃・整備を行っているのですが、その資金の預金先として、隣接する三菱UFJ銀行に「平将門」名義で口座が開かれているそうです。ところでお笑い芸人の爆笑問題の太田光は、この首塚にドロップキックをしたことがあったのですが、そのせいか、しばらくの間まったく仕事が来なかったという噂があります。 さて皆さんのご近所に、八幡神社という名の神社はありませんか? この神社のご祭神の八幡太郎は、平安後期の武将の源頼義の長男の源義家なのです。源義家は、父頼義が今の京都府八幡市八幡にある石清水八幡宮に参詣したときに夢のお告があり,間もなく生まれたのが義家であったといわれ、この源義家が、石清水八幡宮で元服したことから、八幡太郎と号したといわれます。八幡太郎には多くの伝説がありますが、この伝説を大きく分けると,(1)戦闘での武勇伝と,従者や部下に対する思いやりを描いたもの。(2)そこから派生して、八幡太郎の名や声を聞いただけで悪辣な輩も逃げ出すというようなもの。(3)さらに八幡太郎によって物の怪(もののけ)や悪霊さえも退散するという神がかり的な武勇神とでもいうべきものの3種があります。 この八幡太郎の家来に、鎌倉権五郎景政という人がいました。後三年の役において、敵兵の放った矢が権五郎の右眼に深々と突き刺さりました。権五郎は刺さった矢を抜くことなく、彼を射た敵兵を斬り殺し、そのまま陣中に戻って来た権五郎は仰向けに倒れ込み、部下の三浦為次に矢を抜くよう頼みました。しかしあまりに深く突き刺さっているため困った為次は、権五郎の顔に足をかけて矢を抜こうとしたところ、突然権五郎は仰向けのまま刀を抜き、為次を刺そうとしたのです。驚いて飛びすさった為次は怒り心頭、理由を尋ねたところ、「弓矢で死するは武者の望むところ、生きたまま顔に土足をかけられるは我慢がならぬ。されば、いま汝を仇として討ち、我も死なんとした。」と言ったため為次は驚き、かがめた膝で顔をおさえて矢を抜いたというのです。 このような御霊信仰に基づく神社が、郡山にもあります。大町二丁目の阿邪訶根神社(通称・うぶすなさま)には弓の名手として剛勇を鳴らした平忠通が祀られています。平忠通は、平将門の娘を嫁に貰った平忠常の弟で、若いときに源頼光配下の四天王の一人、と呼ばれました。渡辺綱、坂田金時(またの名、足柄山の金太郎)、卜部季武(うらべのすえたけ)、そして平忠通で、大江山の酒呑童子を退治したとされる人たちです。 その二は、富久山町の豊景神社です。祭神は豊斟淳命(とよくむぬのみこと)と鎌倉権五郎景政です。伝えによると、八幡太郎は安積地方が毒蛇の禍で凶作に苦しんでいるのを知り、権五郎に命じてこれを退治させたという伝説と、この地が乱暴な盗賊に荒らされ、住民はほとほと困り果てていたが、そこを通りかかった八幡太郎が住民の頼みを聞き入れ、自分の家来である鎌倉権五郎に命じて、4人の兄弟の悪人を滅ぼしたという話が残されています。感謝した住民たちは、権五郎の御霊(みたま)を豊景神社に合祀したというのです。 その三は、逢瀬町の多田野本神社です。多田野には、浄土松公園があります。年ともに風化が進みましたが、松の緑が点在する風景が日本三景の松島に似ていることから『陸の松島』とも呼ばれています。断層で分断された地層が風化し突出した白亜の岩が『きのこ岩』、日本のカッパドキアとも呼ばれ、独特の景観を見せてくれる場所で、県の名勝天然記念物に指定されています。この浄土松にも、八幡太郎にまつわる伝説が残されています。前九年の役において八幡太郎の東征に同行した鎌倉権五郎が、里人の願いにより、多田野の『きのこ岩』の大蛇を退治して民を救いました。ところがその後、大蛇の亡霊が祟って農民を苦しめたので、里人が大蛇の亡霊を峠の『櫃石(ひついし)』に供養したところ、五穀豊穣となったため、この御石を御霊櫃と言って崇め、この峠を御霊櫃峠と呼ぶようになりました。 鎌倉権五郎は、怨みを持って死んだ訳ではなかったようですが、しかしなぜか、御霊信仰の代表例とされた人物です。これらの三つの神社は、『御霊の宮』と呼ばれていました。『郡山の地名・安積名称考』によりますと、『多々野村城主鎌倉権五郎阿倍貞任征伐ノ後、是ノ多々野ノ地ヲ権五郎ニ賜ハル。(中略)又大槻ノ北ニ蝦夷原ト云フ處アリ、永承康平ノ頃(1046〜1065)モ尚此地ニ蝦夷人ノ長タル者住居セン處ナリ。故ニ蝦夷原ト云』とあります。 八幡太郎は、歌も詠んでいます。『吹く風を なこその関と 思へども 道もせに散る 山桜かな』が、 勅撰和歌集の一つである『千載和歌集』に収録されており、詞書に「陸奥国にまかりける時、勿来の関にて花の散りければよめる」とあります。平泉の安倍氏との戦いの際、勿来から浜街道を北上したことが推察できます。 <font size="4">ブログランキングです。 <a href="http://blog.with2.net/link.php?643399"><img src="http://image.space.rakuten.co.jp/lg01/72/0000599372/67/img25855a93zik8zj.gif" alt=バナー" height="15" border="0" width="80"></a>←ここにクリックをお願いします。</font>
2021.02.01
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郡山さんと安積さん 片平町にある3ヶ寺の一つ、常居寺で、「郡山の領主・伊東祐長が、兄の祐時の依頼に応じて、わが子祐朝(すけとも)を日向国の国富に派遣したとの言い伝えが残されています。」との話をしてくれました。しかし私はその話を聞いても、言い伝えであることから、あまり気にしませんでした。ところがそれから三年後の平成十六年(2004)年四月七日、イラク日本人人質事件が発生したのです。当時、大ニュースでしたから、記憶されている方も多いと思われます。拉致された3人のうちの一人が、宮崎県佐土原町生まれの郡山総一郎さんだったのです。帰国後は『自己責任』という激しいバッシングにさらされました。なお後に、解放の仲介をしたとされるイラクの有力者が殺害されています。私は、宮崎県という遠い町に、ここの地名と同じ郡山さんが住んでいたことに驚き、あの常居寺で話を思い出したのです。 さて、伊東祐長の曾祖父であった工藤祐隆は、北條氏の支援を受けて挙兵した源氏の棟梁の源頼朝に従い、鎌倉幕府成立に協力しました。工藤祐隆はその功績により、頼朝の信任を得て日向の国など二十四ヵ所に所領を得たのです。 この工藤祐隆は正室との間に長男の祐家がいたのですが、ある若い後家を子連れのまま側室としたのです。ところが何を血迷ったか祐隆は、この側室の連れてきた娘にまで手をつけたので、息子が出来てしまったのです。それでも祐隆が、長男で正室の子である祐家に家を継がせていれば問題は少なかったのでしょうが、若い娘のような女の産んだ祐継の方を可愛がり、幼いうちから家督を祐継に譲ってしまい、本来の跡継ぎであるはずの祐家には、少しばかりの領地を、今の静岡県河津町に分けて本家から追い出してしまったのです。祐家にしてみれば、まったく面白くない状況です。しかし父である祐隆の命令なので、やむを得ず河津に移りました。そこで祐家は父の姓である工藤を捨て、その土地の名である『河津(こうづ)』氏に姓を変えたのです。今でもこんなことをすると、家庭は揉めますよね。ここでも揉めたのです。当然ですよね。さてここに、河津が出てきますね。これは文字が違いますが、ここの河内という地名と関係するようなのです。 さて工藤家を追い出された河津祐家の子の河津祐親は、工藤の本家を継いでいる伯父の工藤祐継を恨みに思っていました。そこで祐親は、箱根権現に呪い殺しの願をかけたのです。たしかにこの時代には白い衣を着、五徳の足に蝋燭を灯して頭に乗せ、鏡を胸に下げて呪う相手をかたどった藁人形を鳥居や神木に打ち付けて恨みを晴らす、などということが行われていましたから、それはそれでそう不思議な行為ではなかったと思われます。ところがなんと、その願かけの効果があったのか、祐継は間もなく重い病にかかってしまったのです。 死期の迫った祐継は、まだ幼いわが子・祐経の先行きを心配し、祐親の抱いている恨みも知らず、祐経の後見人に指名すると間もなく死んでしまったのです。しかし恨まれていることを知らなかった祐経は、祐親に対して大きな信頼を寄せていました。やがて父の工藤祐継の跡を継いだ工藤祐経に、叔父となる河津祐親が後見人となった上、祐経は祐親の娘・万劫を妻とし、上洛して平重盛に仕えました。ところが、祐経が単身で都に上っている間に、河津祐親は祐経の本領である伊東荘を横領し、それでもう用が済んだとばかり、祐経の妻の万劫まで連れ戻して土肥遠平に嫁がせてしまったのです。叔父である河津祐親の酷い仕打ちを深く怨んだ工藤祐経は、郎党に祐親の狩の帰りを狙って討ち取ろうとしたのです。ところが郎党の放った矢は河津祐親の嫡男である河津祐泰に当たったため祐泰は死んでしまったのです。すると祐親は、土肥遠平から娘の万刧を引き離し、自身の甥にあたる曽我祐信と三度目の再婚をさせたのです。二人の遺児は曽我を名乗ることになりました。 そののち、この曽我兄弟の敵討ちに遭って殺された工藤祐経に代わって、子の伊東祐長が安積に来ました。これに関して、備前老人物語というものに、『工藤右衛門祐経、初めて奥州安積を始め、田村の内、鬼生田村などを領す。嫡家伊東大和守祐時、嫡流たるにより伊豆に住す。これ日向伊東の先祖なり、次男祐長、安積伊東の祖なり』とあるそうです。伊東氏と、いまの宮崎県にあった日向国との関係は、工藤祐経の子伊東祐時が、鎌倉幕府から日向の地頭職を与えられて庶家を下向させたことが始まりであるとされています。この庶家とあることから、常居寺に伝えられているように、伊東祐長の子が含まれていたと考えてもいいのかもしれません。 この郡山総一郎さんの出身地は、宮崎県佐土原町でした。そこで宮崎県の地図を見て知ったのは、国富がいまの宮崎県国富町であり、佐土原町は、その国富町の隣の町であったのです。「これは常居寺で聞いたように、何か、郡山と関係があるな。」そう思って日向国つまり宮崎県の歴史を調べてみました。そして調べていて、宮崎県の電話帳に気がついたのです。するとなんと、宮崎県には多くの郡山さんばかりか安積さんが住んでいたのです。しかしそれだけでは、「う〜ん。これは一体どうしたことでしょうか?」しかしこの電話帳の苗字だけから、郡山総一郎さんやその他の郡山さん、そして安積さんが、安積伊東氏との関係者、また郡山出身者であると断定する訳にはいきません。 いまの国富町の範囲は、延岡藩の飛地から天領となり、その後に高鍋藩の飛地となったこともありました。しかしそれだけでは、解決になりません。さらに当たっていて、いまの宮崎県日南市飫肥に、幕末まで続いていた飫肥藩(五万二千石)を見つけました。最後の当主は、伊東修理大夫祐帰です。しかも飫肥藩に関連して、岡山県真備町岡田に一万一千石の岡田藩があり、最後の当主は、伊東若狭守長◯(ながとし)、この『とし』の字は、卆業の卆の下の十の右に百、左に千を書くというものでした。 このどちらの藩主も工藤氏ではなく、伊東氏を名乗っていました。すると、先ほど話した岡山県の『備前老人物語』と通ずるものがあります。一説に、祐長は郡山に来てから伊東に姓を変えたともされているのです。しかもこの二つの藩主の名をよくよく見比べてみると、飫肥藩伊東氏は『祐』の文字を、岡田藩伊東氏は『長』の文字を通字として使用していたのです。そこでこの二人の藩主の通字を合わせてみたら、なんと『祐長』の綴りになってしまったのです。これには私も、本当に驚きました。このことは出来過ぎの感無きにしもあらずですが、郡山の伊東祐長の子孫が九州や岡山に移ったという常居寺伝説の傍証になるのではないだろうかと思ったのです。 次に私は、岡山県真備町周辺の電話帳を当たってみました。するとそこには安積さんが一人、郡山さんが二人しか居なかったのですが、なぜか浅香(あさか)姓や香山(こおりやま)姓が結構多いのです。香山姓は郡山姓のすぐ次に出てきますから、同じ『こおりやま』の読みで間違いはありませんし、浅香についても、安積と読みが同じところにあるのです。この飫肥藩や岡田藩の歴史では、二藩とも伊豆の工藤氏とのつながりを強調しているのですが、工藤氏ではなく伊東氏が藩主なのです。それにも関わらず、現在でもそれぞれの地元に残されている安積・浅香・郡山・香山の姓とは一体何なのでしょうか。これらのことを考えれば、この郡山さんや安積さんたちが郡山出身者であるということは、否定すべきことどころか肯定すべきことなのかも知れません。しかし私は、常居寺で聞いた伝説が、むしろ事実であった、ということが証明できるのではないかと思っています。 <font size="4">ブログランキングです。 <a href="http://blog.with2.net/link.php?643399"><img src="http://image.space.rakuten.co.jp/lg01/72/0000599372/67/img25855a93zik8zj.gif" alt=バナー" height="15" border="0" width="80"></a>←ここにクリックをお願いします。</font>
2021.01.20
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伊東さん 狩野さん 相楽さん 現在の郡山に、伊豆に関連する苗字が三つ残されています。それらは前回の伊東さんであり、それと相楽さん、狩野さんです。 私は大分以前に、三春の福聚寺で、伊東祐長が郡山へ来たときの話をしました。いま有名な芥川賞作家の玄侑宗久さんの父親の橋本宗明和尚にです。すると和尚は、こう言ったのです。「祐長は、ウチの寺に泊まったんだよ」。瞬間私は「ヒェ〜」と思いました。何故なら私は、伊豆から来た祐長らは、今の安積町から郡山に入ったとばかり思い込んでいましたから、あえて阿武隈川を越えて三春に泊まった理由が分からなかったのです。和尚は話を続けました。「その頃、福聚寺は、三春にではなく日和田にあった。」「うーん。なるほど。」そう聞いた私は、帰り足で、日和田にあったという、福聚寺の跡を探しに行きました。そしてどうやら見つけた場所の地名は、なんと聖坊(ひじりぼう)でした。「そうか、ここに泊まったのか。」私はそう思いました。そこは阿武隈川の手前でしたから、なんとか納得できたのです。 このことについて、郡山市史では、『笹原川、逢瀬川、藤田川などの合流点近くの郡山、安積町、富久山町、日和田町の阿武隈川流域に求め、伊東氏の開発進展によって、水利権や用水確保の必要から次第に上流へと上り片平などに嫡流の居城がおかれた』と記述しています。しかし私は、郡山に赴任してきた祐長の一行は、聖坊の福聚寺に足を留め、それから片平方面へ向かったと考えました。もちろん先遣隊が来ていて、祐長らを案内してくれたと思われます。片平方面に向かった祐長らは、奥羽山系の水を利用して棚田を開拓し、その後になって郡山市史とは逆に下流の郡山、安積町、富久山町、日和田町方面へ開拓をしていったと考えています。その理由として、熱海町、大槻町、片平町には、伊豆から勧請された神社が多いこと、その神社のうちの采女神社のある『うねめ公園』には、いまも棚田があるのです。そして片平町に大きな舘跡がある上に館に関する地名が多いこと、などからです。たとえば片平町には、上館、中館、下館、西戸城、東戸城、そして門口に館堀、外堀、新堀、的場、馬場下があり、それと寺町を示唆する寺下という地名、ここには今でも常居寺、岩蔵寺、広修寺が集中しているのです。そしてもう一つの理由として、祐長に付き従ってきたと思われる狩野氏と相良氏が土着したらしいことからです。場所は片平の伊東氏を中心にし、その北の熱海に狩野氏、南の大槻に相良氏を配置していますので、戦いの場合を想定したのかも知れません。 いまの熱海町に住んだと思われる狩野氏は藤原南家工藤氏の流で、伊豆の工藤氏、つまり伊東祐長の先祖になります。狩野の名は、工藤氏が拠点としていた伊豆の狩野荘、現在の狩野川上流で伊豆市大平柿木付近に由来するものです。姓氏家系大辞典によると、狩野氏は、『伊豆国狩野庄を領していた大族で、伊東の工藤と同族である。』と記されているとされます。現在の静岡県天城湯ケ島町には、治承四年(1180)に築城された狩野城、別名・柿ノ木城が、静岡県狩野川と柿木川が合流する地点の南西にあり、標高189メートルの山頂に築かれていました。いまもその城跡が残されています。伊豆半島の中央を流れる狩野川は、狩野川水系の本流で、現在は一級河川で、その水系の流域面積は653キロメートルで静岡県の面積の11%を占める大河です。 『太平記』巻一に、南北朝時代の人物として『狩野下野前司』、巻六に『狩野七郎左衛門尉』、巻十に『狩野五郎重光』、巻十四に『狩野新介』、巻三十七に『ひとかたの大将にもとたのみし狩野介も、降参しぬ』というように、狩野の姓が見られます。さらに文治五年(1189)、狩野行光が奥州合戦に於いて戦功があり、源頼朝から恩賞として一迫川(いちはさまがわ)の流域、今の宮城県栗原市周辺を給わっています。ですから狩野氏は、宮城県地方にも勢力を持っていた氏族だったのです。その一族を伊東氏は、自己の本拠の片平の北の守りを、熱海の狩野氏に委ねたのではないでしょうか。家族数は少ないのですが、狩野さんは、いまも熱海町中山宿を主に、住んでおられます。 いまの大槻町には、多くの相楽さんが住んでいます。アイラクと書きます。しかし伊東祐長と一緒に郡山に来たと思われる相良氏は、アイリョウと書きました。この相良氏は、江戸時代後期の人吉藩の藩士、田代政鬴が編纂した相良氏を代表する史書の一つ『求麻外史』によりますと、人吉藩の相良氏は、藤原南家の流れをくむ工藤氏の庶流で、今上天皇の直系祖先である工藤維兼を相良氏自身の祖としているのですが、德川幕府が編修した大名や旗本の家譜集である『寛政重脩諸家譜』では、その孫にあたる工藤周頼が遠江相良荘に住んだことから相良を苗字としたとしています。相良城は、現在の静岡県牧之原市にありましたが、恐らく大槻町に来たのは、ここの庶流の相良氏であったと思われます。 ところで、大槻町に住む高齢の方は、いまでも相楽さんとは呼ばずに、相楽様と呼ぶ土地柄です。もっとも相楽氏は、この地で古くから庄屋などの役職についていたといわれますから、その所為とも考えられますが、むしろ伊東氏との関係から様を付けて呼ばれたとも推測できます。なお現在の大槻に住む相楽さんに尋ねたところ、「戦国時代に、茨城県の結城から移り住んだと伝えられている。」ということでした。そこで大槻町の長泉寺にある相良氏の墓所を見せて頂いたところ、鎌倉時代のものと思われる墓碑が数基祀られていました。ですからその頃には、大槻に相良氏のいたことが証明できます。またその墓所には、相良から相楽と変えた形跡が残されています。それにしても、伊東さん、相良さん、そして狩野さんの末裔の方が現在も郡山に住んでおられることも凄いと思っています。 <font size="4">ブログランキングです。 <a href="http://blog.with2.net/link.php?643399"><img src="http://image.space.rakuten.co.jp/lg01/72/0000599372/67/img25855a93zik8zj.gif" alt=バナー" height="15" border="0" width="80"></a>←ここにクリックをお願いします。</font>
2021.01.01
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郡山の地名のはじめ。 現在の郡山市には、郡山という地名が大字にも小字にもありません。郡山市教育委員会がまとめた『口承文芸刊行物・郡山の地名』にも、それは無いのです。 この『郡山の地名のおこり』について、『郡山の歴史』では、次のように解説しています。 古代の郡衙があったところには、『こおり』や『こおりやま』という地名が多い。常陸国新治郡衙の所在は古郡(ふるごおり)であり陸奥国伊具郡衙は郡山、安積郡の北部を割いてつくられた陸奥国安達郡衙は、(二本松市の)郡山台にある。陸奥国安積郡衙とその周辺も、おそらく郡衙のあるところという意味の『郡山』と呼ばれていた時期があり、やがて清水台となった後も、村や市の名称として、現代に残されてきたものと思われる。 ただこの記述は、想像による部分が多いのですが、唯一、『郡山と呼ばれていた時期があ』ったという記述が気になりました。もしこのことが記載されている文物があれば、想像が具体化されると思ったからです。そこで、この郡山という地名が最初に出てきた文書が無いかを調べ始めました。 鎌倉幕府の初代将軍・源頼朝から第六代将軍・宗尊親王までの将軍記という構成で、治承四年(1180)から文永三年(1266)までの幕府の事績を編年体で記されたものに、吾妻鏡があります。これには、源頼朝が白河を経ていまの伊達郡国見町の阿津賀志山に着き、ここで奥州平泉の藤原の軍を破った様子などが記述されています。その際、頼朝軍は郡山を通過した筈と思い、吾妻鏡を読んでみました、ところが吾妻鏡に郡山という地名が出てこないのです。理由は、頼朝軍が白河に入ったところの記述の次は、一挙に阿津賀志山での戦いの記述になっていたからです。これ以前の時代についても随分と注意をして来たのですが、それでも郡山という地名が出て来ません。郡山という地名は、どこからきたのでしょうか。 この郡山という地名が最初に出てきた文書は何なのか、それが分かれば、地名の由来が分かると思っていました。そこで見つけたのが、相生集でした。相生集は二本松藩における地誌として、天保十二年(1841)につくられた、近世安達郡・安積郡を網羅した歴史資料書です。この相生集の『村邑類(むらむらのるい)』の項に、次のような一文があったのです。 永享年中(1429年頃)、伊東氏横塚ヨリココニウツリテ郡山トアラタム其證ハ今横塚ニ芳賀池トイフアル是成。舊事記ニ伊東氏ノ始大和國郡山ヲ領ス。文治五年、藤原泰衡亡ビテ伊東氏ニ安積郡ヲ給ハリシ故本國ノ郷名ヲトリテ郡山ヲ號ストイフ。按ズルニ工藤祐経ノ子犬房丸後に大和守祐時(すけとき)と名ノル。又太平記ニ安積伊東ハ大和守ノ前司トアリ實ニ伊藤氏始大和ノ郡山ヲモ領シシナラン。然ラバ伊藤祐長稲荷館ニ移りてより此の地を郡山ト称シ氏ニモ称セシナラン。 (郡山の地名・郡山市教育委員会より) どうでしょうか、この内容。まずここから読み取れるのは、『横塚ヨリココ』とある『ココ』とは、稲荷館を指していると思われます。では稲荷館とはどこでしょうか。歴史家の広長さんは、郡山駅前の繁華街、陣屋にあった館が稲荷館であったと言われます。するとこの陣屋が、郡山の語源となったのでしょうか。そうかも知れません。しかし、ここが郡山の語源であったかどうかは別にして、実は、もう一つの稲荷館が今の若葉町にあったのです。その所の古い地名は、茶臼館と言いました。沼館愛三の著書、『会津・仙道・海道諸城の研究』には、茶臼館が稲荷館と呼ばれていた時代がある、と書いてあるのです。そうすると、稲荷館は二ヶ所あったことになります。 それがどちらであったにせよ、稲荷館は実在したようです。そこで相生集を、再検討してみました。相生集には、伊東氏は、大和郡山に住んでいたとありますが、これは事実のようです。ところが、『安積郡ヲ給ハリシ故本國ノ郷名ヲトリテ郡山ヲ號ストイフ』とあるのです。この文脈から考えられることは、伊東氏が郡山という名に『したようだ』という意味であると思われます。つまり、そうだと断言していないのです。やはりこれをもって、この時点から郡山が使われていたとは言えないと思うのです。 『街こおりやま 2016年3月号』の柳田和久氏の論文によりますと、応永十一年(1404)に結ばれた『国人一揆契状』つまり地方における動乱への対応,また領主権確保を目的とし、互いに契約を結び、地域的に連合したものの中に、『伊東下野(しもつけ)七郎・藤原祐時(すけとき)』という名があるのですが、この人の居住する所の地名の記載がないそうです、しかし柳田氏は、この祐時の居住地を郡山村と考えておられます。理由として、『国人一揆契状』にある伊東下野七郎・藤原祐時の名の右に『佐々川(笹川)』・藤原満祐(みちすけ)、祐時の左に『窪田(久保田)』・修理亮祐守であることから、そう推定されているとのことです。しかしこれもまた推定なのです。 またこの頃に結ばれた『石河一族等傘連判(からかされんばん)』、傘連判とは、対等の権利・義務を持つ署名者によって結ばれた国人一揆契状で、署名の序列を隠すために編みだされ,円形になるように放射状に署名したものですが、この傘連判(からかされんばん)に、『神山・沙弥祐金(すけがね)』の署名があるのです。歴史家の高橋明氏はこの神山について、郡山の誤記と考えておられます。もし誤記が証明されれば、郡山という呼称の最初かと思われるのですが、これにも『郡山』という具体的な地名の記載がなされていないのです。これもやはり、推測の域にあるようにも思われます。 正確に『郡山』という文字が出て来るのは、『相楽半右衞門伝』に出てくる、永享十一年(1439)の『安積郡南・中・北郷三郷田地(でんち)注文』という文書のようです。ただしここには、郡山という地名は出ているのですが、郡山そのものの所在地までは書いてありません。 天文十二年(1543)、三春の領主・田村隆顕が安積郡に攻め入り、下飯津(下伊豆島)、前田沢、小荒田(小原田)、郡山、荒井、名倉の六城を落とすという記述が、観集直山章跋という文書に出ています。ただしここでも、郡山の位置が不明なのです。そこでこの城の書かれている順序に何か意味が隠されているのではないかと思い、この小原田から名倉までを1つのブロックと考えてみました。すると郡山は、小原田と安積町荒井の間ではないかと想像されるのです。ところが、その郡山ではないかと想像される地点に、荒井猫田遺跡があったのです。いまのビックパレットです。 荒井猫田遺跡は、郡山の古い名である『蘆屋』とも考えられる所であることから、郡山がここにあったと考えてもいいのではないかと思っています。そして天文十五年(1546)には、三春の領主の田村隆顕が、名倉の地を郡山又五郎に与えたという証文が残されています。この天文十五年は、『三郷田地注文』が書かれた永享十一年から100年以上も後のことになります。ですからこの時点で、『郡山』という姓が使われたということは、『郡山』という地名が確定してから後のことだと考えられます。 今のところ私は、『郡山』という最初の地名の実在は、永享十一年(1439)の『安積郡南・中・北郷三郷田地注文』であろうと考えています。しかしながら、地名嘉字使用令が出されたのは、西暦713年であり、『安積郡南・中・北郷三郷田地注文』が書かれたのは、1439年でした。するとこの間は、726年ということになり、これではちょっと長すぎると思うのです。するともっと以前から、郡山という地名が使われていたのではないかと思われます。それでもどうやら、郡山の地名について、おぼろげながら分かってきたのですが、推測ではなく、郡山という地名がいつから文字として使いはじめられたのかの調べを続けています、ご存知の方がおられましたら、是非ご教示をお願いしたいと思っています。 <font size="4">ブログランキングです。 <a href="http://blog.with2.net/link.php?643399"><img src="http://image.space.rakuten.co.jp/lg01/72/0000599372/67/img25855a93zik8zj.gif" alt=バナー" height="15" border="0" width="80"></a>←ここにクリックをお願いします。</font>
2020.12.20
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安積(あさか)の地名のはじめ ある時、安積町に住む、親戚の安積中学校の生徒に聞かれました。「おじさん。どうして安積町でない所に、安積高校や安積黎明高校があるの?」「おほっ。それは面白いことに気がついたね。だけどそれを言うなら、帝京安積高校、それに平仮名だけど『あさか開成高校』が桃見台にあるよ」「ああ本当だ。変だね」「変なことはないさ。明治のはじめ、郡山はまだ村だった。そして郡山村も、安積町の前身の笹川村も、安積郡の中にあった。明治二十二年、郡山村が郡山町になったとき、安積町は安積郡永盛村って言っていたんだよ」「ふ〜ん」「その後、郡山が周りの村を合併して市になったんだが、昭和二十九年に、永盛村は安積町になった」「ああ、それでJRの駅が、安積永盛なのか」「そうだね。そして昭和四十年に、郡山市は安積郡全部と田村郡の一部を合併した。それで安積郡がなくなってしまった。もともとあった安積郡に造られた学校だから、安積高校や安積黎明高校になったんだ。」 さて私もそうですが、福島県に住まわれているほとんどの方は、今使われている安積という文字をアサカと読むことに、違和感を感じられないのではないか、と思っています。ところがこの安積という地名は、難読地名の一つなのです。難読地名とは、常用漢字で表記されていても、音訓として制定されていない読みとなっている地名のことです。例えば、いまTBSーBSで放映されている刑事物も、ハンチョウ 神南署安積班(じんなんしょ あづみはん)となっています。そのため県外の人は、この文字を、アズミとか読む方が多いのです。では何故ここに、わざわざ、このような難しい読みのアサカという地名が付けられたのでしょうか。それについて、平成十六年に出版された『郡山の歴史』には、こう出ていました。 阿尺国は、大化の改新を経て、安積評(あさかのこおり)と呼ばれていた。しかし大宝元年(701)の発布された大宝律令によって、国・郡・里制が実施され、その後の霊亀元年(715)には、里を郷に改めた国・郡・郷制になると、ここは陸奥国安積郡と呼ばれた。和銅三年(710)、陸奥の国衙が現在の宮城県多賀城市に造られ、中央の上級役人が国司、『くにのつかさ』として派遣された。その下部組織となる安積郡の役所である安積郡衙が清水台に置かれ、安積郡の長となる郡司は、地元の有力な豪族から選ばれた。 私は、この阿尺を便宜上アサカと読んでみましたが、皆さんはどう読まれますか? 私は、『あしゃく』がいいのかなとも思うのですがどうでしょう。その上この記述から、阿尺国から文字違いの安積評となった経緯が読み取れません。続日本紀には、和銅六年(713)五月二日の条で、『畿内、七道の諸国は、郡、郷の名に、漢字二字の嘉き字を著(つ)けよ』と命じる地名嘉字使用令が出されたことが記録されています。地名嘉字使用令は、これまで使われていた国や郡の名、それに郷名の多くが、大和言葉に漢字を当てはめたものでしたから、その当てはめ方は、必ずしも一定していませんでした。そこで地名の表記を統一しようとしたのがこの法令でした。この適用範囲は、小さな地名や山や川、そして湖や沼にも及んだのです。恐らくこの地名嘉字使用令が出された時点で、阿尺の文字は、安積という文字に変えられたものと思われます。ちなみに、いまでも全国的に使われている地名は、この時の法令に従い、二つの文字となっているものが多いと思われます。さてこれで、文字が変えられた事情は想像できました。 次の問題は、阿尺が安積という文字に変わった理由であり、そして安積がアサカと呼ばれるようになった理由です。辞書で積という文字には、サカという読みがないのです。すると阿尺は、アシャクの読みでよかったのではないか、とも思えるのです。そこで気がついたのが、現在、JR東北本線宇都宮駅の二つ北、鴉山線と分岐する地点にあるJRの宝積寺(ほうしゃくじ)駅です。積が『しゃく』なのです。さらに調べてみましたら、宝積寺(ほうしゃくじ)という同じ読み方の寺が、京都府大山崎町の天王山中腹にある真言宗智山派の寺にありました。そしてこの宝積寺と同じ読みの寺が、福島県にも4ヶ寺あったのです。伊達政宗の祖父である伊達晴宗の墓がある福島市舟場の宝積寺。それから会津若松市小田山の麓にある宝積寺。その他にも、同じ文字と読み方の寺が、喜多方市と伊達郡桑折町にもありました。私はこの阿尺国の阿尺、これらのお寺の名からして、やはりアシャクと読んでよかったのではないかと思いました。しかし、当時この阿尺の読み方は、アサカであったのかアシャカであったのかは分かりません。この阿尺のシャクと安積のサカとの間には、どのような関係があったのでしょうか。考えられることは、もしアシャカと読むなら安積(アサカ)につながると思えるのですが、アシャクではちょっとつながりにくいな、と思っていました。 問題は、尺の字がシャクかサカかの読み方です。尺はサカとは読めないものでしょうか? ところで、三種の神器の一つである八尺瓊勾玉(やさかにの まがたま)の中の「尺」の字が、「さか」と読まれていました。その他にも、万葉集の巻十三 3344 にある『杖(つゑ)足らず 八尺(やさか)の嘆き 嘆けども』などという歌でも、『尺』という文字を『さか』と読んでいました。さらに、この尺という字を、『さか』と読むことを補完する有力な事柄に気がつきました。それは、日本神話にある神武東征の話に、八咫鴉(やたがらす)が出てくることです。 八咫鴉は神武天皇が、熊野国から大和国へ攻め込む際に道案内をしてくれたとされるカラスで、三本足のカラスとして知られています。八咫鴉の『咫(あた)』は長さの単位で、手の親指と中指を広げた幅とあります。ですから『八咫』は、『あた』の八倍の長さであると考えられます。すると『一あた』は15センチ位ですから、これの8倍、約1メートル20センチの大きさのカラスということになります。このように大きなカラスは、実在しません。普通の大きさのカラスではないのです。それはともあれ、尺という字は現在でも使われる長さの単位であり、『咫(あた)』もまた長さの単位であることから、『あた』と『さか』の間には、なんらかの関連があったと、読み取れるように思われます。ちなみに八咫鴉は、日本のサッカーチームのシンボルマークとされています。 この八咫鴉の『咫』の文字は、動詞の『あつ』、つまり当然の当という文字を、手を当てるというような意味で名詞化したもので、『咫』は『さか』とも読むとあります。すると阿尺国(あしゃくのくに)は、もともと『あさかのくに』と呼ばれていたものを安積と当て字をしたと考えられるのです。さてこうなると、アシャクの尺を『さか』と読んでもいいのではないかと思われます。そこで私は、この他にも尺を『さか』と呼ぶ例がないかを調べてみました。そこで日本書芸院名誉顧問・宮本竹逕(ちくけい)氏の論文、『表音文字を書く』を参考にしました。 この宮本竹逕氏の論文から推測を延長してみると、そこには万葉集がありました。というのは、嘉字二字令が出された約七年後に万葉集が出されていることから、すでにこの時点で、漢字が表音だけではなく表意文字としても使われていたことが分かります。ところでこのシャク、つまり『さか』ですが、愛媛県八幡浜市の八代と大平、そして同じ愛媛県の伊方町に、八尺(はっしゃく)と書いて八尺(やさか)と読む神社がありました。それらの神社の由緒によりますと、奈良時代の創建とされていますから、和銅三年(710)から延暦十三年(794)の間に勧請されたことになります。ということは、嘉字二字令が和銅六年(713)ですから、すでにこの時点で、シャクがサカと読まれていた有力な傍証になろうかと思われます。ここでまた想像を逞しくすると、各地にある八坂神社の坂は、もともと尺であったものが、いつの間にか坂に変わっていったとも考えられます。 さてここまで調べてきて、『尺』という字が『さか』と読まれたことで『あさか』に続くというおおよその経緯は分かりました。そして安積の安には、『やすらか』の意味があることから、私は、地名嘉字使用令に基づき、『安らかを積む』、つまり安積という文字が使われたのではないかと憶測しています。 <font size="4">ブログランキングです。 <a href="http://blog.with2.net/link.php?643399"><img src="http://image.space.rakuten.co.jp/lg01/72/0000599372/67/img25855a93zik8zj.gif" alt=バナー" height="15" border="0" width="80"></a>←ここにクリックをお願いします。</font>
2020.12.01
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荒覇吐と瀬織津姫(3) 日本神話において、死人の世界から帰った伊奘諾命(いざなぎのみこと)が禊(みそぎ)を行って穢れを祓ったときに、その穢れから大禍津日神(おおまがつひのかみ)またの名を八十禍津日神(やそまがつひめのかみ)、そしてもう一つの別の名の、禍津日神(まがつひめかみ)が生まれたとされています。この名に共通して出てくる『まがつ』とは、大いなる災いのことです。伊勢神宮には、波波木(ははき)という神が祀られているそうですが、その祀られている場所は内宮の東南、つまり辰巳の方角だそうです。辰は竜を表し、巳は蛇をあらわしますから、波波木の神は、竜や蛇と深い関わりがあると容易に想像がつきます。後に、「波波木の神」の頭に「顕(あらわ)れる」という接頭語が付いて、「顕波波木(アラハバキ・荒覇吐)姫神」になったといわれています。しかもこの荒々しい名の荒覇吐姫は、時に激しく怒って世に汚(けが)らわしい出来事を起こし、凄まじい悪いことをなす神とされてきたのです。荒覇吐姫神は、いつしかこのような形で大和に取り入れられ、細々とその命脈を保っていました。 伊勢国度会郡(わたらいぐん)の『子持山縁起』の冒頭にある荒人神、荒い人の神と書きますが、この部分にも、『荒覇吐姫』と記され、終わりの部分に『伊勢神宮の荒垣の内におはします、即ちあらはばき是なり』とあるそうです。 建長三年(1251)から53年間、伊勢外宮の禰宜を務めた度会行忠(わたらい ゆきただ)の著作、『天照坐伊勢二所皇太神宮御鎮座次第記(あまてらします・いせ・にしょ・こうたいじんぐう・ごちんざ・しだいき)によりますと、伊勢神宮は、天照大神を主祭神としているのですが、荒覇吐姫が瀬織津姫と名を変え、この伊勢神宮の境内にある別宮の荒祭宮(あらまつりのみや)の祭神とされ、天照大神の荒御魂神(あらみたまのかみ)として祀られ、天照大神の守護神になっているそうです。しかも瀬織津姫は、この別宮で、穂乃子という名が付いており、瀬織津姫穂乃子が正式名称とされているようなのです。しかしこの瀬織津姫という名は一般には公表されず、今も極秘とされているのだそうです。それなのに、われわれにまでにそれがわれわれにまでにそれが知られているというのは、変な話ですね! ところでこの優しい名の瀬織津姫は、天照大神が実は女性ではなく男神アマテルであり、その妃であったともされる神なのです。例えば、江戸時代に流行した鯰絵には天照大神が男神として描かれているものもあるそうです。なお荒御魂とは、丁度我々人間にも表裏があるように、瀬織津姫神は、天照大神怒りの面を担当する裏の神とされているというのです。そのほかにも、『瀬織津姫命が3分割されて宗像三神となった。瀬織津姫命は菊理媛神、水波能売命、市杵島姫命、弁財天である。大山祇神が瀬織津姫命で、その娘である木花咲耶姫命と磐長姫命は瀬織津姫の2面性を表す。』などの説もあります。 では何故、悪の権化であった荒覇吐姫が、天照大神の荒御魂神としてではあっても、瀬織津姫として、伊勢神宮の別宮の荒祭宮に祀られるようになったのでしょうか。ひとつは、禍を起こす八十禍津日神(悪神)として生き残った荒覇吐姫が、瀬織津姫という清らかな名に変わるのですが、これは蝦夷の人を追って北日本へ進出しようとした大和が、荒覇吐姫を信仰する蝦夷の人々に、瀬織津姫と名を変え、水の神として、稲作を奨励するための道具としたのではないかとも考えられます。このようにして、蝦夷の人々を支配下においた大和は、土着の悪い神としてこの男神・荒覇吐の方を封印したのでしょう。そのために神として残されたのが、瀬織津姫という名の女神であったのかも知れません。 古事記によりますと、この荒覇吐姫がもたらす禍を直すために生まれたのが神直毘(かみなおび)神と大直毘(おおなおび)神であるとしています。また民俗学者の折口信夫氏は、「直毘神は荒覇吐姫との対句として発生した表裏一体の神である。」としています。このように八十禍津日神が祓戸神となって復活するのは、折口信夫氏の言う「直毘神は禍津日神と表裏一体の神」というところにあると思われます。祓とは、罪や穢れ、災厄などの不浄を心身から取り除くための神事・呪術です。悪神である八十禍津日神が善神の行うべきお祓いをするようになったのは、大祓詞後釈(おおはらいのことばごしゃく・著者 本居宣長)に、『深き理(ことわり)ある事なりける』つまり深い理由があるからだ」と記述されているといわれますが、その理由の記述はないそうです。 しばらく前に、私は神社の狛犬の現況を知るべく、郡山市内の全神社と思われる377社を巡ったことがありました。その時、舞木地内に直毘という神社があるのを知ったのです。私はその神社の名を見て、古事記と折口信夫氏の説を思い出したのです。しかし、まさかまさか、ここの直毘神社で、荒覇吐姫が瀬織津姫に変わったということはないでしょうがね。ところでこの直毘神社の社頭に、この神社の由来が掲げられていたのです。それには、こう書いてありました。 『磐城に入られた四道将軍(しどうしょうぐん)の一人である武渟川別命(たてぬまかわのわけのみこと)の一隊は、夏井川の南西の山道より陸奥の真冬を田村郡(たむらこおり)の山奥に進まれた(想像するに小野新町方面から中郷、芦沢を経て中郷村の北部、中妻村の北部をと、山の峰道をぬって巌井村上舞木の東部に来られたものと思われる)。御一隊は道がますます険しくなるばかりか寒さが一段と厳しく、さらに連日の吹雪で疲労と凍傷に悩まされた。阿武隈川の流れを渡り、氷雪の安積平野を横切って、奥羽山脈を越すことは情けにおいても偲びず、部下思いの命は、『朝日さし夕日なお照る』向きの良い場所を選んで一隊を休めることにした。これが直毘神社の周辺であったとされる。さて命は手頃な櫟(くぬぎ)の木を求めて幣を結んで四柱の神をお祀りし、草ぐさのお供えものを捧げた。この四柱の神を二つの社(やしろ)に祀ったので二社権現と称した。直毘神社と改称したのは、明治六年(1873)である。そして、凍傷や病気に悩む兵の平癒を祈願したのが、現在の直毘神社であるとされている』残念ながら、ここに出てきた直毘神社の由来に、瀬織津姫の話はありませんでした。 郡山市西田町土棚内出の見渡神社は、通称水分社(みまくりしゃ)と呼ばれますが、この見渡神社社伝によりますと、寛永元年(1624)の三月、河内国の水分社をこの地に勧請したとあります。河内国の水分社は、大阪府南河内郡千早赤坂村水分にある建水分(たけみまくり)神社のことと推定されるのですが、同社の祭神名の中にも瀬織津姫の名が含まれているそうです。現在福島県には、瀬織津姫が関係するとされる県内の見渡神社の数は30社にもおよびます。この瀬織津姫は、水神や祓戸神、瀧神、川神とされ、九州以南では海の神ともされています。なお祓戸大神(はらえどのおおかみ)とは、神道において祓を司る神のことで、人の穢れを早川の瀬で浄めるとあり、これは治水神としての特性をあらわしています。この水を分けるということから、稲作の神ともされています。そのため瀬織津姫は、水神の一種である竜神であるとされ、魔除けの意味もある竜をイメージした渓流や滝とも関係し、滝・桜などが絡む地域に祀られているケースが多いという特異な存在です。しかも滝の名は不動滝という名が普遍的なのです。例えば三春の滝桜の近くには不動滝があり、滝不動尊と瀬織津姫を祀った柴原神社(三渡神社)があることにも興味をそそられます。 瀬織津姫神を祀る神社岩手県 6 宮城県 1 福島県 1 茨城県 1 群馬県 1 東京都 3 神奈川県 3 新潟県 1 富山県 3 長野県 1 静岡県 1 三重県 1 滋賀県 2 京都府 1 兵庫県 2 奈良県 1 鳥取県 1 島根県 2 広島県 1 香川県 2 愛媛県 1 福岡県 1 鹿児島県 1 <font size="4">ブログランキングです。 <a href="http://blog.with2.net/link.php?643399"><img src="http://image.space.rakuten.co.jp/lg01/72/0000599372/67/img25855a93zik8zj.gif" alt=バナー" height="15" border="0" width="80"></a>←ここにクリックをお願いします。</font>
2020.11.20
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荒覇吐と瀬織津姫(2) 荒覇吐信仰は、古事記や日本書紀の影響や仏教による変容ですっかり影をひそめ、江戸時代になると何の神であるか分からなくなってしまいました。それもあって、多くの神社や寺院から荒覇吐神の名は消えていってしまったと言われます。しかもその残された多くも、神社の本殿や本堂にではなく、末社・摂社に追いやられているのです。末社・摂社とは、神社本宮とは別に、その神社の境内または神社の附近の境内の外にある小規模な祠に祀られ、しかも神社本宮の管理に属したもののことです。その上、荒覇吐神は、門客神(かどきゃくじん)として祀られている場合が多いようです。門客神とは、神社の門に置かれた「客人神(まろうどがみ)」のことで、主神のまつられている拝殿の一隅に祀られたりして、独立の祠をもっていないことが特徴です。また客人神とは、『神社の主神に対してほぼ対等、或いはやや低い地位にあり曖昧な関係にある神格』の神です。客神はちょうど人間社会におけるお客の扱いと同じで、外界からきた来訪神(らいほうしん)を、土地の神が招き入れて、丁重にもてなしている形です。現在この北方の神、荒覇吐神を祀った神社が、全国各地、28都道府県に広く散在していることから、荒覇吐一族の生活の場の広がりを示していたのではないかと想像できます。 ふつう、神社の境内にまつられている境内社には,摂社(せっしゃ)と末社(まっしゃ)とがあります。摂社には、主神と縁故関係が深い神がまつられており、末社は、主神に従属する小祠である場合が多いのです。客神の場合は,この両者とも異なり、主神のまつられている拝殿の一隅に祀られたり、『門(かど)客神』と称されて随神のような所にまつられ、まだ独立の祠をもっていないことが特徴です。東北・関東の荒脛巾(あらはばき)神、南九州の門守(かどもり)神などはその一例ですが、なかには普通の境内社より大きな一社を別個に建ててまつる例もあります。客神が,けっして排除されることがないのは、外から来た神が霊力をもち、土地の氏神の力をいっそう強化してくれるという信仰があったためと考えられています。現在、荒覇吐神は、次のように崇(あが)められています。 1.足腰の神、旅の神。脛巾(はばき)と呼ばれる足に巻く脚絆をつけることで旅行の無事を祈る道祖神的信仰があるといわれ、靴が奉納されることもあります。 2製鉄の神。製鉄作業で目を傷めることが多かったためか、荒覇吐神が片目で描写されることが多いそうですが、しかし必ずしも、荒覇吐神が鎮座しているすべての神社でそうであるわけではありません。 3.守護神。荒覇吐神は、大きなカテゴリでいえば民間信仰の神です。しかし本来は守護神として祀られていたものとも考えられており、中世では城の近くに荒覇吐神を祀った場合が多くありました。 4.外来の神を祀る客人神。荒脛巾(あらはばき)神社には男根が奉納されており、子孫繁栄を主とした村の守り神としての一面を見ることが出来ます。ちなみに私の調べた範囲では、福島県に、荒覇吐の神を祀る、次の三つの神社がありました。 会津若松市北町・・・・・荒鎺神社(あらはばき) 会津若松市湊町赤井・・・荒脛巾神社 田村郡三春町・・・・・・田村大元神社 さてここに出てくる三春町の田村大元神社は、三春舞鶴城三の丸の下にあることから、前出3のカテゴリーに属するものと思われます。青山正の『仙道田村荘史』に、『永正之子年、義顕公三春舞鶴城江御入城・・・』とあることから、この年あたりに、守山(いまの郡山市田村町守山)の田村大元神社から三春へ勧請したものと考えられています。しかし守山の田村大元神社は、その場にそのまま祀られています。ところがこれらの二社は、正式には大元帥明王と言われていました。三春の田村大元神社の禰宜によれば、祭神は国之常立神(くにのとこたちのかみ)であり、国之常立神は、伊勢神道において天之御中主神、豊受大神とともに根源神とられています。そして、その影響を受けている吉田神道では、国之常立神を天之御中主神と同一神とし、大元尊神(だいげんそんしん)に位置附けられるという。大元尊神は「大元」の御名のとおり、万神に先駆けて存在する「神のはじめの神」であり、宇宙世界、大自然の形成、摂理、天地万物を造化育成される最も尊い根源神であるというのです。なるほど、これで大元神社命名の趣旨は理解できたのですが、なおかつこの神社には、荒覇吐神が祀られているというのです。さらに私が驚いたのは、三春の田村大元神社には、田村麻呂が祀られていないということでした。三春生まれの私は、田村大元帥明王という名から、てっきり征夷大将軍・坂上田村麻呂が主祭神とばかり思っていたのです。この私の勘違いの理由は、 1 田村大元神社は田村大元帥明王と呼ばれていたこと 2 田村大元帥明王は、征夷大将軍・坂上田村麻呂を想起させていたこと。 3 坂上田村麻呂の末裔を称する田村氏が、守山から三春に移る際に田村大元神社を三春に遷宮したこと。 4 遷宮した三春での祭地の名を、守山と同じ山中(さんちゅう)とし、田村氏の氏神としたこと。 以上のことなどから、私は、大元帥は田村麻呂の別名であると思い込んでいたことにあったのです。 そこで私は、守山の田村大元神社に行ってみました。私はここも、田村麻呂が主祭神であると思っていたのです。神社の氏子が数人が、注連縄を作ったりして正月の準備をしていました。遠藤昌弘宮司が自宅にいるというので、住所を聞いて車を走らせました。生憎留守であったがすぐに帰るという。縁側でしばらく待たせて貰いましたがそう待つこともなく、運よく宮司が戻って来ました。そこで聞かされた話に、また驚かされたのです。ここには、確かに田村麻呂が祀られていたのですが、なんと主祭神ではなく、摂社となって祀られていると言うのです。守山の田村大元神社の御祭神は、天照大神・日本武尊・天之御中主神・および国之常立命であるというのです。しかも、「この神社の本殿とは別に坂上神社というのがあり、禅宗仏殿形式で桃山時代に作られたと言われる厨子が納められていますが、そこには後で、はめ込んだ形跡があるのです。ただしこの厨子が、他所から運ばれてきたものかまたは別棟にあったものを移したのかは、はっきりしません。このことは、以前に日本大学の先生方が調査した時の結論でした。この坂上神社は養蚕神社とも言われ、蚕飼様とも呼ばれています。そしてこの厨子には、田村麻呂の木像が祀られています。」という話でした。 厨子は、仏像・仏舎利・教典・位牌などを中に安置する仏具の一種です。その厨子に、田村麻呂の木像が安置されているというのです。これではどう見ても、田村麻呂は仏様になってしまいます。しかし田村麻呂は、ここに限らず、各地で神として祀られているのです。これは一体、どういうことなのでしょうか。田村大元神社、旧称・田村大元帥明王社の主神は、その名から言っても『坂上田村麻呂』、つまり戦いの神だと思い込んでいたのに、それが平和な養蚕の神、つまりおカイコ様の神になっていたのです。それにしても、田村大元神社の境内に、しかも従の位置に坂上神社があるとはどういうことなのでしょうか。田村大元神社は、明治時代の廃仏毀釈以前は、鎮守山泰平寺という天台宗の寺でもあったのです。すると田村麻呂は、いつから、仏様から神様になったのでしょうか。勿論この厨子と田村麻呂の木像がここへ運び込まれたのは、神仏混淆時代ですから、仏として運び込まれたものが明治の神仏分離令により神とされたものとも思われます。しかしこの守山の大元神社には、三春の大元神社には祀られている荒覇吐神は、祀られていないというのです。何故そうなったかは、分かりませんでした。 『客神社と荒波々幾神を祀る神社』誌は、荒覇吐を祀る神社が次のように分布していると記しています。この分布の範囲は、濃淡の差はあっても、神武東征以前の蝦夷人、もしくは『アラハバキカムイ』の生存圏であったようにも思われます。 北海道 5 青森 5 岩 手 2 宮城 3 秋田 5 福島 3 茨城 3 栃木 1 埼玉 22 千 葉 2 東京 9 神奈川 1 山梨 1 新潟 2 静岡 2 滋賀 3 愛知 6 三重 3 大 阪 1 兵庫 1 和歌山 1 鳥取 1 島根 35 広島 7 山口 8 愛媛 23 高知 2 長 崎 2 <font size="4">ブログランキングです。 <a href="http://blog.with2.net/link.php?643399"><img src="http://image.space.rakuten.co.jp/lg01/72/0000599372/67/img25855a93zik8zj.gif" alt=バナー" height="15" border="0" width="80"></a>←ここにクリックをお願いします。</font>
2020.11.01
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荒覇吐と瀬織津姫(1) 考古学者で言語学者の川崎真治氏は、1991年に、六興出版より出版された『謎の神アラハバキ』で次のように述べておられます。「アラハバキ神は、父が天の神で、母が地の神である。これらの神のつながりこそ、『東日流(つがる)外三郡誌』の神髄であったのである。問題は、上古の日本に、アラハバキ神という『神』が実在したか否かにある。存在証明が言語学的に、神話学的に、文化人類学的に、民俗学的に、はたまた考古学的になされれば 『東日流外三郡誌』の記事のかなりの部分が『真の歴史』といえるのである」 東日流外三郡誌によりますと、津軽には阿曽辺族という種族が平和に暮らしていたのですが、岩木山が噴火して絶滅しかかったところに津保化族というツングース系の種族が海からやってきて阿曽辺族を虐殺し、津軽は津保化族の天下となりました。その後、中国の晋では恵王(けいおう)帝の公子が殺されるといった内紛が生じ、晋に追われて公子の一族がやってきて津保化族を平定したのですが、その頃神武天皇に追われた長髄彦の一族もやってきたのです。長髄彦はこの公子の娘を娶り、両民族は混血融和して「荒覇吐族」と言うようになったというのです。ところで荒覇吐とは、もともとは民族の名『アラハバキカムイ』であって神の名ではなかったのですが、『荒覇吐族が信奉する神』ということから後に神の名に転じたという認識になっています。この神は伊勢神宮だけでなく、出雲大社の摂社や美保神社、武蔵国一の宮・氷川神社、武蔵国総社・大国魂神社など、日本な重要な神社に『隠れ神』として祀られています。特に東京都や埼玉県にはたくさん祀られていた伝承があり、江戸城内にもあったようです。荒覇吐は、日本神話最初の神である天之御中主神と同一神であるともされています。 ところで蝦夷(えみし)という呼び方は大和朝廷による蔑称であり、自称は『荒覇吐族』であるとしています。ところが、この荒覇吐の原点は、今のアラビア半島のイエメンにあり、しかも古代アラビア語でのアラハバキは、最高の神の意味であったというのです。そのアラハバキが古代インドに渡ると、弱者を襲って喰らう悪鬼神とされました。中国に渡ったアラハバキは道教と習合し、日本に入ってきたのは弥生時代であろうと推定されています。日本に入った荒覇吐は、密教と関連することで大日如来の功徳を得て善の神へと生まれ変わり、大日如来の強大な力をそのままに、国家を守護する神に変えられていったとされます。荒覇吐族は、荒覇吐神と荒覇吐姫神の二神を信仰していたのですが、その荒覇吐神のビジュアルイメージとして、いつしか遮光器土偶ではないかとされていったのです。現在、青森県つがる市、JR五能線の木造駅は、亀ヶ岡石器時代遺跡から出土した遮光器土偶の形をした迫力ある駅です。 当時の東北地方に住んでいたとされる蝦夷の人たちは、今の関西から山陰地方にまで勢力を伸ばしていたようです。それの傍証として、神話ではありますが、蝦夷人のリーダーとされた長髄彦が神武天皇と戦って敗れ、津軽に逃亡していることが挙げられます。しかし長髄彦が津軽に逃亡したとはありますが、どうもその時点で、蝦夷の人全員が津軽に行ったのではないようです。畿内に残った蝦夷人の多くは大和人に追われ、じわじわと関東、そして東北地方に逃れて行ったようなのです。彼らが信仰していたらしい荒覇吐神や荒覇吐姫神は、その名から言っても夫婦神であろうと考えられています。しかもこの二柱の神は、古事記や日本書紀以前にその名がみられるという、古い神なのです。その上この神は、皇祖神である天照大神の先祖の神の一柱ともされているのです。ところで、日本神話の神武東征と東日流外三郡誌に、次の同じような記述が見られます。つまり東日流外三郡誌には、畿内で神武天皇軍に敗れて津軽へ逃亡した安日王・長髄彦の後裔が、荒覇吐神と荒覇吐姫神になったと言われ。出雲や陸奥には鉄鉱石があったことから、荒覇吐神は産鉄の神(荒吐=アラフキ神、金屎の神)とされたというのです。これについて、三春町史に、『安日彦に続くのが荒覇吐の神々(五代)であった』という記述があります。ここでは、安日王・長髄彦の後の神が、荒覇吐神と荒覇吐姫神であったと説明しているのです。しかし東日流外三郡誌では、安日王・長髄彦が荒覇吐神と荒覇吐姫神を祀っていたとしていますから、これは明らかに矛盾しています。ただ日本神話によると、長脛彦は神倭伊波礼昆古命(カムヤマトイワレヒコノミコト)、のちの神武天皇という神と戦っているのですから、両者ともに神であること自体は不自然ではないのかも知れません。しかしこのように東日流外三郡誌と三春町史の間に矛盾があっても、神であることでは一致している、と考えるべきなのかも知れません。このように長脛彦は荒覇吐神と密接な関係があるとされることから、長脛彦の住んでいた跡、つまり長脛彦一族の生活の地を示唆するのが、今も残されてる荒覇吐神を祀った神社であると考えてもよいのではないかと思います。 その後の遣唐使が、改めて荒覇吐神を日本へ持ち帰ったとき、荒覇吐神は大元帥明王とされたそうです。この大元帥明王は、全ての明王の総帥であることから大元帥の名を冠したと言われます。ちなみにこの大元帥の『すい』を読まず、単に大元(たいげん)や大元(おうもと)神社と呼ばれるのが普通です。京都の吉田神社(京都市左京区吉田神楽町三〇)と同じ場所に、大元宮という名で大元神社の本宮があります。ただし吉田神社本宮の第一殿には健御賀豆知命(たけみかづちのみこと)が、第二殿には伊波比主命(いはいぬしのみこと)が、第三殿には天之子八根命(あめのこやねのみこと)が第四殿には比売神が祀られており、荒覇吐神は祀られておりません。また一方の荒覇吐姫神は、後にその名を瀬織津姫という美しい名に変えられ、天照大神の荒御魂として伊勢神宮での一柱の神とされています。なおこの2柱の神は、夫婦神と考えられながらも、同一の行動をとった様子がありません。そのためにまず荒覇吐神について述べ、しかるのちに荒覇吐姫神について述べたいと思います。ちなみに、幕末まで続いた三春藩秋田氏は、その先祖を長髄彦としており、その菩提寺が高乾院ですが、その山号を安日山としたことから、このことを誇りとしていたことが感じられます。 <font size="4">ブログランキングです。 <a href="http://blog.with2.net/link.php?643399"><img src="http://image.space.rakuten.co.jp/lg01/72/0000599372/67/img25855a93zik8zj.gif" alt=バナー" height="15" border="0" width="80"></a>←ここにクリックをお願いします。</font>
2020.10.20
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記憶された田村麻呂 江戸時代に書かれた仙道田村兵軍記という本があります。平氏田村氏の始祖といわれる三春の領主、田村清顕の一代記として書かれたもので、延暦十三年(794)の田村麻呂の征夷から始まり、古くからこの地に定着していた田村氏に結び付けて自らの出自を貴い種族とする物語です。なお、ここに出てくる 平氏とは、皇族が臣下に下る際に名乗る氏の一つです。ところでこの仙道田村兵軍記では、田村麻呂は奥州の生まれで、胆沢の高丸と悪路王阿弖流為、母礼らを征伐したが、阿弖流為と母礼は深山に逃走したとあります。ここで田村麻呂が阿弖流為と母礼を殺さなかったのは、江戸期、一ノ関に再興された田村氏が、三春で勢力を振るっていた時代を回顧して書かれたものであるからとも言われています。一ノ関は胆沢城の南にあり、阿弖流為と母礼の勇敢な戦闘の歴史が残されている場所です。 この田村麻呂が戦ったという達谷窟に伝わる籠姫や姫待瀧、鬘石などの伝説では、悪路王に苦しめられていた民草を救ったのが田村麻呂であったとされています。田村麻呂は、戦勝を毘沙門天の御加護と信じ、その御礼に京の清水の舞台を真似て九間四面の精舎を建て、108躰の毘沙門天を祀って、国を鎮める祈願所としたのが、達窟毘沙門堂、別名をいわや窟堂と名付けたとされます。そして延暦二十一年(802)には達谷西光寺を創建し、東西三〇余里、南北二〇余里の広大な寺領を定めたと言われます。昔から苦しめられる側であった民草は救ってくれる人に心を寄せ、田村麻呂を毘沙門天王の化身として信仰して来たとされています。 田村麻呂伝説にはもう一つ重要な要素があります。それは、『えみし』が持っていたという狩猟文化を封じ込めようとするための伝承であるというのです。仏教文化の普及が動物を殺す狩猟を非とし、農耕を是とする精神風土を強化しようとしたことのようです。室町時代に多く書かれた仏教説話をもとにした草子ものには、観音の慈悲のありがたさを説くことを主眼にしていますが、 その例として語られるのは『殺生の戒め』です。征夷大将軍近衛中将・陸奥出羽按察使従四位上・陸奥守・兼鎮守府将軍として、当時の陸奥・出羽の要職のすべてを兼任した田村麻呂の『えみし』の地における風聞は、実に好意的なのです。平安の都とは趣が違っているものの、奥羽においては田村麻呂を賞賛する史跡や伝承が殆どであり、田村麻呂が遠征しなかった地方にも色濃くその伝承は残されているのです。『えみし』は記録を持たなかったし、偶像を作りませんでしたから、意識の確証を歴史に残せませんでしたが、被征服者の歴史は陰に隠されるのは世の常です。田村麻呂は、このような英雄として記憶されてきたのです。 ところで日本列島を俯瞰してみれば、その『中央』にあたるのは、およそ長野県あたりと考えるのが普通でしょう。ところが昭和二十四年、青森県・東北町の赤川上流域で、『日本中央』と彫られた巨石が見つかり、大きな話題を呼んだのです。なぜなら、この地域には、古くから坂上田村麻呂が遺した『壺の碑(つぼのいしぶみ)』が眠っているとの伝承が残されていたからです。かの源頼朝までもが、『陸奥の磐手忍はえそ知ぬ 書尽してよつぼのいしぶみ』と詠んでいるのです。 坂上田村麻呂といえば、平安時代に征夷大将軍を2度も務めた武官です。その田村麻呂は東征に向かう道中、傍らにあった大きな石に弓のはず(弦をかける部分)で『日本中央』と彫ったと伝えられているのです。数々の和歌に登場する、『壺の碑(つぼのいしぶみ)』は、『行方の知れないもの』、あるいは『はるか遠くにあるもの』という意味を込めて用いられる歌枕ですが、12世紀末の歌学者・藤原顕昭は、『袖中抄(しゅうちゅうしょう)』の中で次のように綴っています。『いしぶみとは陸奥の奥につぼいしぶみあり、日本の果てといへり。但、田村将軍征夷の時、弓のはずにて石の面に日本の中央のよしを書付たれば、石文といふといへり』とあり、現代語に訳すと、日本の東の果てに『つぼのいしぶみ』というものがあり、それは平安時代に征夷大将軍を2度務めた武官・坂上田村麻呂が弓のはずを使って『日本中央』と彫ったものだというのです。 この『壺の碑』の現物はどこにあるのかが、日本史上の謎とされてきました。ところが昭和二十四年に青森県の東北町で、『日本中央』の文字が刻まれた巨石が出土した際には、これぞ『壺の碑』ではないかと歴史学者たちは色めき立ったのです。今から約70年前に発見されたこの石碑は、現在も保存、公開されており、高さ1・5メートルほどの自然石で、その表面には確かに「日本中央」の文字が見て取れるそうです。この伝承が事実なら、これが彫られたのは坂上田村麻呂の活動時期に照らし合わせて9世紀頃ということになるのです。 これを解く1つのカギは、東北町に古くから鎮座する千曳神社であろうと言われています。なぜならこの神社、大同二年(807)に坂上田村麻呂が創祀したものとされ、社の周辺には田村麻呂が遺したという石碑が埋められていると代々伝えられていたのです。創建1200年祭を催した伝統あるこの神社には、古くから『壺の碑伝説』を求めて多くの歌人が訪れ、江戸時代には幕府巡見使の参拝所としても活用されたというのです。ところが歴史を紐解いてみると、田村麻呂は現在の岩手県までしか北上した記録がありません。そのため、田村麻呂が創建したという千曳神社の由緒を疑問視する声があるのです。その一方で、田村麻呂の後を継いで征夷大将軍になった文室綿麻呂は、この地に到達した明確な記録があるから、千曳神社は、文室綿麻呂が田村麻呂の遺志を継いで創建したものとも言われています。しかしもし、そうであるとすれば、千曳神社の近隣から出土した「日本中央の碑」の信憑性はいっそう増すことになります。また明治九年、明治天皇の東北巡幸を前に、宮内庁から『壺の碑』を捜索するよう指令がくだり、神社の付近を徹底的に掘り返したという記録もあるそうですが、それらしい石碑は発見されなかったと言われます。 この碑が発見された経緯は、昭和二十四年六月二十一日、現在は故人である川村種吉が、馬頭観音に祀る石を運ぶため、小雨がそぼ降る中、朝から親族数名と共に赤川沿いの雑木林へ馬そりを引いて向かいました。種吉は以前から、そこに転がっていた巨石に目をつけていたというのです。それは高さ1.5メートルほどの自然石で、少し地面に埋まった状態で放置されていたと言います。数人がかりで土砂を取り除き、そりに運び込む際、親族の1人が「何か書いてあるぞ」と声を上げたので、そばに落ちていた木の葉で泥を拭ってみると、そこにはうっすらと『日本中央』の文字列があったというのです。となると、最大の謎は、田村麻呂がなぜ青森を日本の中央と記したのか、ということです。これについては諸説あるのですが、ひとつの考証として、日本を「にほん」でも「にっぽん」でもなく、「ひのもと」としたと時代があったという説があるのです。そのことから一部の研究家の間では、千島列島までを「ひのもと」と解釈すれば、ここを日本列島の中央と捉えることは可能との意見もあるのです。しかし、この意見はどうでしょうかね。なお、この碑の発見されたポイントには、現在、『日本中央の碑』と記された案内板が立てられているのですが、今なお結論は出されていません。 さてこの日本中央の碑ですが、これが本当に伝説とされた『壺の碑』なのでしょうか。調査によると、青森県上北郡と近隣の十和田市、および三沢市を含めたエリアを「上十三地方」と称していたというのですが、ここがかつて、都母村(つもむら)と呼ばれていたというのです。ここには、『千曳集落』と『石文集落』があります。もしも、田村麻呂が遺したという碑の名『石文』がここの地名からの由来であるなら、『都母の石文』、つまり『つぼのいしぶみ』ではないかとされるのです。東北町ではこの『壺の碑』と思しき巨石を保存し、有形文化財に指定して町内の保存館で展示公開しています。 ところで『壺の碑』の候補がもうひとつ、宮城県の多賀城市に多賀城碑があります。これは奈良時代に、かつて存在した多賀城の敷地内に据えられていたということから、この石碑もまた、『壺の碑』として議論されてきたのです。東北町で日本中央の碑が出土するまでは、こちらが本命だったとされていました。通称『多賀城碑』と呼ばれるこの石碑は、江戸時代初期に発見されたもので、高さ約1・8メートルの花崗砂岩製で、表面には多賀城の創建の724年と、762年の改修を伝える140字ほどの文字が刻まれています。青森県と異なり、この地には田村麻呂が到達した記録があるため、これが「壺の碑」ではないかとされていたのです。かの松尾芭蕉もわざわざこの石碑を見にやって来たというから、当時の注目度の高さが窺えます。 田村麻呂は、このような形でも、記憶されてきたのです。 <font size="4">ブログランキングです。 <a href="http://blog.with2.net/link.php?643399"><img src="http://image.space.rakuten.co.jp/lg01/72/0000599372/67/img25855a93zik8zj.gif" alt=バナー" height="15" border="0" width="80"></a>←ここにクリックをお願いします。</font>
2020.10.01
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足摺岬田村家のルーツ 足摺岬田村家のルーツ(9)- 北総文学 - Yahoo!というブログを見つけました。それによりますと、土佐の足摺岬の田村家のルーツは、田村麻呂であったのでする。という。田村麻呂については、多くの文献、そして伝説が残されています。しかもそれは、全国各地に伝えられているのですが、その例のひとつが、土佐の田村氏であるというのです。『田村氏はなぜ足摺岬に来たのか。』というセンセーショナルな表題が、私を惹きつけました。 このブログによりますと、『鎌倉の初期、源頼朝の東北征伐の功で、大友能直(よしなお)が陸奥田村庄(福島県田村市・三春町)を領した。能直(よしなお)はその後、いまの福岡県と大分県にかけての豊前、豊後二国の守護となって領地が増えたので、建久五年(1194)、能直(よしなお)と同じく鎌倉幕府の官僚である中原親能(ちかよし)の養子であり、大江広元の妹婿でもあった藤原仲教が田村庄の領地を譲り受け、初代の田村姓を名乗った』とありました。平安時代初期、すでに久満荘(くまのしょう・高知市)や田村荘(南国市)などが、荘園化されていました。ところでwikiによりますと、藤原(田村)仲教は、田村仲能の父とされていますが、これは田村荘司刑部大輔仲能であるかと推測できます。とすると、仲教は、『足摺岬田村家のルーツ』のブログにあるように、福島県の田村郡と関係のある人ということになります。ではどうして、そうなったのでしょうか。 これに関連した記録が、吾妻鏡に残されています。吾妻鏡は、鎌倉時代に成立したもので、鎌倉幕府の初代将軍・源頼朝から第六代将軍の宗尊(むねたか)親王までの六代の将軍記という構成で、治承四年(1180)から文永三年(1266)までの幕府の事績を年を追って記したものです。頼朝はこの中で、大友能直(まさなお)について、『並ぶ者のないお気に入り。』と記しています。文治五年(1189)、能直(まさなお)は奥州合戦に従軍、頼朝の近習を務めました。建久四年(1193)の曾我兄弟の仇討ちでは、兄の曽我時致(ときむね)の襲撃を受けた頼朝が太刀を抜こうとした所を、能直が押し止めて身辺を守りました。 私は『足摺岬田村家のルーツ』の文章の中で、『藤原仲教が田村庄の領地を譲り受け、初代の田村姓を名乗った。』という部分に疑問を感じました。三春町史のどこにも、それに関する記述がないのです。そこで私は、三春歴史民俗資料館に問い合わせてみました。早速、返事がきました。 『ご無沙汰をしております。さて、土佐田村氏に関係する記載についてのお問合せですが、ウィキペディアの記事かと思いますので、同ページで参考文献とされている『姓氏家系大辞典』を確認してみました。同辞典は、各種系図を引用・編纂したものです。「田村」の項に「藤姓大友氏族」の田村氏について等記載がありますが、「大友能直が陸奥田村庄を領し」という記載が確認できませんでした。ご質問の記載は、おそらく、各種田村氏の系図を混交して書いたものではないかと思います。精査の上でのお返事ではありませんので、その点ご了解ください。』 さてこうなると、土佐の田村氏が三春と関係があったかどうかはわかりませんが、土佐に田村氏がいたことは、事実のようです。Wikiに、土佐田村氏の項がありました。この記述を引用してみます。 『鎌倉初期、源頼朝の東北征伐の功で大友能直が陸奥田村庄(福島県田村市・三春町)を領し、能直はその後九州の豊前、豊後2国の守護となり領地が増えたので、建久五年(1194)、能直と同じく中原親能の養子となっており、大江広元の妹婿でもあった藤原仲教が田村庄の領地を譲り受け初代の田村姓を名乗った(『姓氏家系大辞典』[要文献特定詳細情報])。その子である田村(藤原)仲能は鎌倉幕府評定衆になり、陸奥守、伊賀守、能登守を務め、建長四年(1252)、宗孝親王が十一歳の若さで鎌倉に下って征夷大将軍になると、その後見役を務めた。神奈川県鎌倉市扇ガ谷にある海蔵寺は仲能の建立によるものと、寺のパンフレットに書かれています。仲能の墓は、鎌倉の源氏山にあり、葛原岡神社の前に墓碑が立っている。田村氏は鎌倉幕府とともに一度は滅んだが、その後同じ一族の室町幕府評定衆の摂津氏を頼って再興したようだ[要出典]。室町時代は幕府の奉公衆、御番衆を務め、近江野路村(草津市)の地頭となった。摂津氏領であった土佐田村庄は天授六年/康歴二年(1380)ころに守護の細川氏に占領されたが、永正四年(1507)に細川政元が暗殺されると土佐の細川氏は京都に引き上げてしまった。摂津氏は、いつも行動を共にしていた田村氏を土佐田村庄に派遣して旧領の回復を図ったようだ。土佐に入った田村氏は時を経て長宗我部氏の家臣となり、田村忠重など一族の活躍が多くの郷土史料に記されている[要出典]。江戸時代には山内氏に仕官し、下茅村(土佐清水市下ノ加江)の大庄屋となったり、宿毛領(高知県宿毛市)にて武士になったりした。現在、土佐清水市などの幡多地方には多くの田村姓の人たちが暮らしている[要出典]。土佐清水市下ノ加江に田村氏の祖先を祀った『田村神社』がある。(『田村氏はなぜ足摺岬に来たのか』[要文献特定詳細情報]エリート情報社を参照)』 海蔵寺は臨済宗建長寺派の寺である。この寺は、建長五年(1253)に鎌倉幕府六代将軍宗尊親王の命によって、藤原仲能が願主となって、七堂伽藍の大寺を建立したが元弘三年(1333)5月、鎌倉滅亡の際の兵火によって全焼してしまった。藤原仲能は、第6代将軍宗尊親王の命を受けて、鎌倉扇ガ谷の海蔵寺を創建したと海蔵寺略縁起にある人物ですが、建長八年(1256)に亡くなった。 どうも私の推測では、福島県の田村荘の領主は、藤原仲能系と考えられている田村庄司家であったことから、どこかの時点からか土佐の田村庄と結びつけられたとも思える。しかも実際に残されているとされる藤原仲能の墓跡の石碑と位牌がある場所が、土佐からは遠い。仲能の墓が、いまの鎌倉市扇ガ谷の海蔵寺にあるということと、Wikiにある『藤原仲教が田村庄の領地を譲り受け、初代の田村姓を名乗った。』という部分に、疑問を感じさせられる。 <font size="4">ブログランキングです。 <a href="http://blog.with2.net/link.php?643399"><img src="http://image.space.rakuten.co.jp/lg01/72/0000599372/67/img25855a93zik8zj.gif" alt=バナー" height="15" border="0" width="80"></a>←ここにクリックをお願いします。</font>
2020.09.20
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皇室の紋 そもそも皇室の紋として使われるようになった植物の菊は、中国から渡来した花で、第16代・仁徳天皇の時代に入って来たそうです。最初は薬草という意味合いが強かったようで、不老長寿を願うという意味もあり、旧暦九月九日の重陽の節句には、杯に菊の花びらを浮かべて楽しんだと言われます。このようなことから、菊は花の王として重用されました。平安時代には古今和歌集にも多く詠まれていますし、菊の花自体も200種類以上あったということです。ちなみに菊の花言葉は、『高貴』です。この菊が皇室で菊の紋として使われるようになったのは、第82代・後鳥羽天皇が大変菊の花がお好きで身の回りのものに多く使われ、その後の天皇も菊の模様を愛でられたことから、次第に一般の者は使うのを遠慮するようになり、自然に皇室だけの模様として認知されるようになっていったのだそうです。 現在の皇室の紋は『十六弁八重表の菊』、簡単に言うと16枚の菊の花ですが、昔の天皇家の紋は片方が金、片方が銀の菊の円が二つ並んだ紋で、日月(じつげつ)紋と言われました。これは皇室の紋の一つであり、太陽と月を形象化したものです。その由来はきわめて古く、古事記や日本書紀にも、皇室の先祖である天照大神は太陽の神であり、その系譜にある神武天皇は太陽の御子としていたということに由来します。正面に鳥形の旗を、左右に日月紋(じつげつもん)の旗を立てるようになったのは、大宝元年(701)正月一日、42代文武天皇が朝賀の礼を受けた時からであると伝えられ、また錦の御旗として日月(じつげつ)紋を使うようになったのは、82代の後鳥羽天皇から96代の後醍醐天皇の間であると言われています。 明治になってから、菊の紋は正式に皇室の紋として太政官布告によって決められ、一般人が使うことが禁じられました。このように皇室が菊を紋として使うようになってからはなおさら、菊紋は高貴なものという印象が強くなり、草木の中の君子として称えられた蘭、菊,梅,竹の一つでもあることから、吉祥模様としても使われるようになっていきました。このように菊の紋は、皇室が使うものとされていったのですが、その他にも桐竹鳳凰紋は庶民がつけてはいけない模様でした。桐竹鳳凰紋は、君主が善政を施したときだけにこの世に現れるとされる鳳凰が桐の木に宿り、竹のみを食べるという中国からの言い伝えによるもので、皇室も桐紋を替え紋として使っています。なお桐紋は、菊紋とともに皇室専用の紋でしたが、後に皇室以外の戦国大名も用いるようになり、皇室は専ら菊紋のみを用いるようになりました。今でもこの五七の桐は、日本政府や内閣のシンボルとして使われています。『菊の模様 銀座泰三/ウェブリブログ』より 話が変わりますが、郡山市内の清水台から、清水台郡衙の遺物とされる『素弁蓮華文軒丸瓦』が出土しています。しかし清水台地域は明治の頃から市街化が早かったため、発掘は遅々として進んでいません。ところが郡山以外の土地からも、百済様式の八葉復弁蓮華文瓦やそれによく似た六葉復弁蓮華文が発掘されています。なお、これらと同じような蓮華の花びらの瓦が、奈良の東大寺や奈良・明日香村の寺々より、さらには熊本県山鹿市の鞠智城跡(きくちじょうあと)からも、7世紀後半の百済人が作ったと思われる八角形の建物の跡から発掘されています。この八角形というのは、八枚の蓮華の花びらを表したものかも知れません。 清水台で見つかっている瓦の模様は八葉の蓮華文ですが、時代が下がるにつれて単純化され、結果として飛鳥寺のものとほぼ同じ16枚のはなびらの蓮華文に戻ったようです、不思議な巡り合わせと思っていますが、清水台遺跡から発掘された素弁蓮華文軒丸瓦の現物は、公会堂の前の、郡山歴史資料館に展示されています、ところで皇室の菊の紋のような紋が、二本松市岩代町、田村市都路町、双葉郡葛尾村などの寺や墓石に数多く見ることが出来ます。私は、南北朝最後の戦いとなった宇津峰山で敗れた兵士たちが逃げた跡だから、と考えたのですが、皆さんはどう思われますか? さて日本で最初の瓦葺建物とされているのは、588年に建立された奈良県明日香村の飛鳥寺です。飛鳥寺では、朝鮮半島の百済より『瓦博士』を招き、瓦製造の技術の導入を図ったのです。飛鳥寺の軒丸瓦の模様は、清水台遺跡の軒丸瓦とまったく同じで、しかも百済の模様と非常によく似ているのです。百済と飛鳥寺と清水台遺跡の瓦紋が非常に似ているということは、驚きです。 西暦596年、日本最初の本格的な寺院である飛鳥の四大官寺、つまり国立の四ツの寺のうちの川原寺や飛鳥寺,さらには薬師寺からも、百済様式の八葉復弁蓮華文瓦が出土しています。八葉復弁ということから、倍の16枚の蓮華の花びらと考えられます。ということは、現在の皇室の菊の紋の花びらの数と、同じということになります。 ところで、旧田村郡都路村史に、次のような記述を見つけました。 長岩寺 都路村岩井沢字中ノ作106『同寺本堂正面には十六弁の菊花文様が画かれているが、いつの時代かこれを隠蔽するため塗りつぶした形跡がある。この裏山に熊野権現が祀られている。墓地には十六弁の菊花文様のついている石井七五さん一家の墓があり、また台石に菊花の紋が刻まれている松本家の墓がある。』 大槻観音堂『この堂の仏像の台座の中に、菊花文様のある観音像が一体ある。この旧墓地付近の小高い丘に瓦小社が三体あり、菊花紋章の他に葉菊、左三ツ巴の紋章がある。吉田文雄さんの裏山にも菊花紋章のある小さな瓦の社があり、そのそばに地域に異変が起こる時唸り声を出すという『うなり地蔵』がある』 そこで、現地へ行ってみましたら、この阿武隈川の東の阿武隈高地に、変形および飾り付きのものを含みますが、複数の菊の紋が残されているという不思議なことが分かったのです。「これらの菊の紋は、何をあらわしているのであろうか?」そう思った私は、菊の紋があるという都路の長岩寺に行ってみました。住職に聞いてみたのですが、「自分は坊主になるのが嫌で、東京で就職した。父が急逝したので急遽帰郷、寺を継いだばかりでそれについては何も知りません」と言うのです。「それでは松本家の法事などで、何か菊の紋に関わる話が出たことがありませんでしたか?」と聞いてみたのですが、「そのようなことは、聞いたことがない」と言われたのです。ただこの近くに、天皇山(てんのうざん)という山があります。その山の通称は日山ですが、安達郡岩代町と双葉郡浪江町との境にあります」その話を聞いた私は、天皇山という名の山があるというのも、不思議な話だと思いました。 二本松市東和町針道出身で仙台に住んでおられる佐藤さんという方から、「あなたの書いた田村太平記を読んだ。わが家の家紋は陰五瓜(かげごか)に十六葉菊であり、南朝の末裔との伝説が伝えられている。何かこれについて、知ることがないでしょうか?」という問い合わせの手紙が旧安達郡東和町史のコピーと一緒に届きました。 その東和町史資料編と佐藤さんの話から、東和町に現存する善導寺と最勝寺と愛蔵寺の名が、菊となにかが関係する寺として浮かんできたのです。善導寺は、佐藤さんの菩提寺であり、その寺では菊の紋が使われているのです。また最勝寺にある菊池家の家紋は陰五瓜(かげごか)に十六葉菊で、佐藤さんの家紋と同じなのです。これらの寺のある広い森の西側の地域には、多くの南朝の伝説が残されています。そして愛蔵寺には、京都市伏見区醍醐東大路町にある醍醐寺報恩院より下賜されたという、菊の紋章入りの九條袈裟が保存されているのです。醍醐寺と言えば、後醍醐天皇の信仰していた寺ですから、この地方と南朝との結びつきを、強く感じたのです。ところがその後、また情報が入りました。「双葉郡葛尾村にも菊の紋のある墓地がある。」というのです。葛尾村は都路町の隣です。そこで私は、「もしかして、やはりこの辺り一帯は、敗れた南朝側の兵士たちが隠れ住んだ所ではあるまいか?」と想像しています。 私は、三春町の法蔵寺に、菊の紋のある墓石があったことを思い出しました。私の本家にあたる、三春町中町の故橋本孫十郎さんの先祖の墓にです。彼は常々、私に、「家の先祖の墓石に、菊の紋が彫ってある。」と言っていたのです。私はその言葉を頼りに、墓参り方々、カメラを持って行ってみました。その墓の一番古い墓石は、文禄四年(1595)に亡くなった橋本刑部少輔貞綱のものです。ただその菊の紋章は円形ではなく、若干潰れたような菱形に近い形でした。これは、南朝の忠臣・楠木正成の菊水の紋から水の部分を取り去ったようにも見え、その菊の部分が蓮華の花びらのようにも見えるのです。家紋図鑑で調べてみたのですが、そのような菊の紋は記載されていませんでした。「これは本当に菊の紋なのであろうか?」疑問は残ったのですが、孫十郎さんは菊の紋を主張していました。 たしかに南朝の忠臣であった橋本正茂が、本家の孫十郎さんが言うように、橋本刑部少輔貞綱の先祖であるとすれば、橋本家の先祖の墓に菊の紋があってもおかしくはないなと思いました。大正七年十一月十八日に故橋本正茂が宮内省から正五位を贈位されています。そしてその年、私の祖父が中心となって、三春大神宮の一角に橋本神社を建立したのですが、その時の記念写真が残されています。このことは、本家の先祖の墓石に彫られたものが菊の紋である、ということの傍証になるのかも知れません。話が大分脱線してしまいましたが、何れにしても、この地方の広い範囲で菊の紋が使われていたことは、不思議なことだと思っています。 <font size="4">ブログランキングです。 <a href="http://blog.with2.net/link.php?643399"><img src="http://image.space.rakuten.co.jp/lg01/72/0000599372/67/img25855a93zik8zj.gif" alt=バナー" height="15" border="0" width="80"></a>←ここにクリックをお願いしま
2020.09.01
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戸来村(へらいむら)のキリストの墓 昭和三十年に周辺の村が合併、新しく新郷村が誕生し、旧来の戸来村は青森県三戸郡新郷村大字戸来となった。この戸来には不思議な場所がある。キリストとその弟イスキリの墓とされた二つの墓である。国道454号線沿いの小高い丘の最も高い場所には十字架が立てられ、二つの丸い塚が並んでいる。この墓の周囲は綺麗に整備されており、『キリストの里公園』と名づけられていた。公園の説明板によると、『イエス・キリストは21歳の時に来日し、神学修行を重ねた。33歳の時にユダヤに戻って伝道を行ったが受け入れられず、十字架刑に処されそうになったのだが、弟のイスキリが身代わりとなって死に、キリスト本人はシベリア経由で日本に戻り、現在は新郷村の一部となっている戸来村で106歳まで生きた。』とある。この二つの墓のうち、一つはキリストを埋葬したもので、もう一つはイスキリの遺髪を納めた墓だという。墓のそばには、イスラエル大使がこの地を訪れたことを記念する石碑がある。また新郷村の村長もイスラエルを訪問したとき、現地で新郷村とそっくりの風景を見たと話していたそうである。 エルサレムにキリストの墓と信じられているところが二つある。 一つはエルサレムにある聖墳墓教会であり、もう一つは旧城壁外にある『園の墓』であると伝えられている。しかしこのどちらにもキリストの遺骸は無い。キリストは十字架上で死に、葬られたが復活し、40日後に天に昇ったとされている。したがって、いったん葬られた場所は存在するが、遺骸は地上には残されていないことになる。ところで戸来の墓のそばには、『キリストの里伝承館』という資料館がある。ここにはかって、村で使われていた農耕具や衣服と並んで、今も戸来に暮らしている『キリストの末裔の写真』とか、戸来とユダヤのつながりを示すという証拠の品、それに日本語で書かれた『キリストの遺言書』などというものが展示されている。それらによれば、十字架刑を逃れたキリストは戸来に逃れ、名前を十来太郎大天空(とらいたろうだいてんくう)と変えて戸来の女性と結婚し、3人の娘を育てたとされる。またこの戸来の地名は、ヘブライが訛ったものと言われ、父親を「アヤー。」、母親を「アッパー。」と呼ぶのも、イスラエルでの呼び方と似ているという。そのほかにも、キリスト教などにまつわるという風習も残されているという。 例えば戸来には、生まれた子供を初めて屋外に出す時、その額に墨で十字を書く風習があり、足が痺れた時には、人差し指に『つば』をたっぷり付けて足に十字を三回書くという。また亡くなった人を埋葬した場合、墓の上に3年間は十字の木を立てるという風習もあり、『ダビデの星』を家紋としている家もある。この墓のある場所は、もともと戸来の旧家である沢口家代々の墓所の一角であったという。村役場の話によると、キリストの子孫とされる沢口家には、目が青く鼻が高い日本人離れをした風貌の人物がおり、村人の間では、「天狗が住んでいる。」と言っていたという。ところが、キリストの墓を守り続けてきたという沢口家に、キリスト教徒はいない。 キリストの墓として整備される以前からここにあった二つの土まんじゅうについて、戸来では古くから、「偉い侍の墓。」と語り継がれてきたが、本当は誰の墓であるかは分かっていなかった。それが『キリストの墓』と断定されたのは、昭和十年(1935)のことであった。茨城県磯原町(現北茨城市)にある皇祖皇大神宮の竹内家に伝わる『竹内文書』という古文書に、キリストの日本渡来について記されていたというのである。この皇祖皇太神宮は、はるかな昔、日本の天皇(スメラミコト)の祖先が地球に降り立ったころの天神七代、二十六朝六十八代、そして神武朝から現代までの代々の天皇、皇后を合祀したお宮であり、すべての神々を祀る神宮(たまや)であり、ユダヤ教、道教、儒教、キリスト教、仏教、イスラム教すべてを包括する神宮とされ、『竹内文書』は、世界最古の歴史を記録したものと言われている。 この竹内文書は、古事記や日本書紀以前の日本古来の文字であるということから、神代文字(かみよもじ)と言われる。そのうちの一つ、阿比留文字は、対馬の阿比留家で発見されたものと言われ、竹内巨麿(おおまろ)の『竹内文書』や『九鬼文書』に使われていたとされている。江戸時代からその真贋について議論の対象となっていたが、偽作と主張しているものが多く、特に阿比留文字で書かれていた『竹内文書』は偽の文書ではないかと言われ、最高裁判所でもその真偽が争われた謎の文書である。しかし原典は、東京大空襲によって焼失した。 この竹内文書の中に、『ゴルゴダの丘で磔刑となったのは、実はキリストではなく弟のイスキリであった。キリストは弟子と日本に逃れ、青森県において十来太郎大天空(とらいたろうだいてんくう)と名を改め、後にユミ子という名の女性と結婚して三人の女の子をもうけ、106歳の天寿を全うしてこの地に葬られた。』とあるという。『キリストの里公園』の案内板は、ここから取られたら文と思われる。竹内巨麿がこの記述を頼りにこの地へ訪ねて来て、墓をキリストのものと断定したのである。翌・昭和十一年には考古学者の一団が『キリストの遺書』なるものを発見するなどして以来、戸来は一躍世間の注目を集めるようになった。また、次のような話がある。それは、日本の皇室の菊の花弁が16枚なのは、今のイスラエルの地域に16の種族が住んでいたからである、というものである。 キリストの伝承は、戸来の集落の中で受け継がれてきたものではなく、周囲から騒がれて浮かび上がってきたものである。ある村職員によると、村起しのために、キリスト伝承に関わる物品の提供を住民に頼んで回ったが、戦前戦中を集落で過ごした人の中には、「キリストの墓がある村の者」ということで嫌な目にあったせいか、一切関わりを持とうとしなかった人もいたという。敗戦後、この墓は、忘れられた場所になっていた。 新郷村として、キリスト渡来説をどう捉えているのであろうか。ある関係者は「村の人たちで本気にしている人はあまりいないかもしれない。」と明かすが、同村企画商工観光課の堀合真帆主事は「私自身は、キリストの墓が本物である可能性はあると思っています。本当だったらいいなという感じです。」と期待を寄せている。村起しのこともあってか、昭和三十八年に、第一回キリスト祭が開かれた。神父が招かれ、みんなで賛美歌を合唱したが。これが村民たちの間では、「祭りにはなじまない。」と不評であった。そのため翌年からは、地元神社の神主が墓前で祝詞を上げる形式になったという。新郷村役場によると、「村にはクリスチャンは一人もおらず、キリスト教会もありません。」とのことでありこの地が隠れキリシタンの里だったというような話もないという。 それでも昭和三十九年(1964)からは、毎年六月の第一日曜日に、キリスト祭が開催されている。当初は村の商工会、その後は観光協会を中心に運営されているが、キリスト祭というにもかかわらず、祭りは神道式で行われている。神主が墓に向かって祝詞をあげ、来賓が玉串奉奠を行う。そしてそのフィナーレは、出席者全員がエルサレムの方角を向き、ナニャドヤラワインで乾杯をするという。その後は墓を囲んで、集落に伝わる盆踊り『ナニャドヤラ』が奉納されて、祭りはクライマックスに達する。この踊りの唄の文句が、次の様なものである。 ナーニャード ヤラヨウ ナーナャード ナアサアレ ダハアデ サーエ ナーニャード ヤラヨ 岩手県出身の神学者・川守田英二博士は、「この唄は、古代イスラエルのヘブライ語で書かれたもので、イスラエル軍の進軍歌である。」と言っている。この意味は、 御前に聖名をほめ讃えん 御前に異教徒を討伐して 御前に聖名をほめ讃えん という意味であると言う。しかし民俗学者の柳田国男氏はヘブライ語説を否定し、『なにヤとやーれ なにヤとなされのう』が訛ったものであり、 『なんなりとおやりなさい なんなりとなされませんか なんなりとおやりなさい』と訳している。これは祭りという特別な日に、女が男に向かって呼びかけた恋の歌であるとしておられます。土地の老若男女が夜を徹して踊りながら歌い、この晩だけは普段思い合っている男女が夜陰にまぎれて思いを遂げることを許されていたというのです。このことは、この地方でも踊られていた盆踊りと、一脈、相通づるものがあると思っています。 この祭が奇祭として再び脚光を浴びるのは、昭和四十五年(1970)代のオカルト・ブームとは無縁ではないと言われます。オカルト雑誌や伝奇小説で、この『キリストの墓』はたびたび取り上げられ、高橋克彦氏や斎藤栄といった著名な作家たちも、これを創作に用いています。大きな十字架の周りで着物姿の女性たちが踊るこの踊りは、かなりのインパクトがあると言われます。ここのキリスト祭は、テレビやガイドブックで日本有数の奇祭として取り上げられたこともあり、特に平成十年代以降はSNSで拡散されたこともあり、新郷村はB級観光地として全国的に知られるようになりました。この祭りには、毎年数百人の観光客が詰めかけると言いますから、人口2500人程度の村にとっては、かなり効果のあった祭りのようです。 このナニャドヤラは、一音一音をはっきり発音しないと、地元の人でも噛んでしまうと言われ、言いづらいことでも有名のようです。ナニャドヤラの踊りは、太鼓の音に合わせて流れるように踊るのですが道具などは持たず、『日本最古の盆踊り』であるとも言われます。踊りに定型はなく、地域によって、あるいはひとつの地域に何種類も伝わっており、南部地方以外の人にはニャンニャンと聞こえるため、『南部の猫唄』と呼ばれていたと言われます。現在でもこの踊りは、岩手県洋野町大野の『北奥羽ナニャドヤラ大会』や青森県新郷村の『キリスト祭り』でも踊られているそうです。 ところでこの墓を本物だと信じる村人はいないという。むしろ、外からやってくる観光客の中には、墓を本物だと信じている人がいるという。それでは、村人にとってこの墓は、年に一度のイベントを行うための観光資源に過ぎないのであろうか? キリスト祭を司式する神主によれば、「埋葬されているのが誰であれ慰霊は大切だ。そして万が一、墓の主がキリストであっても、八百万の神を祀る神道にとって何ら問題ない。」という。祭りのスタッフとして働く村職員も、葬られている人は村の先祖であり、古くからある墓の一つである、という認識のようで、少なくとも戸来集落に住む人たちにとって『キリストの墓』とは、墓の中身にではなく、自分たちが続けてきた供養を大切にしようとしていることなのかもしれない。 この話は、『むかし昔、ヘライの村というところに、キリストという神様が住んでいました。』とでもいうお伽話として読んでいただければいいな、と思っています。 <font size="4">ブログランキングです。 <a href="http://blog.with2.net/link.php?643399"><img src="http://image.space.rakuten.co.jp/lg01/72/0000599372/67/img25855a93zik8zj.gif" alt=バナー" height="15" border="0" width="80"></a>←ここにクリックをお願いします。</font>
2020.08.15
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妙見山と高籏山 郡山市三穂田の妙見山や多田野の高籏山に、不思議な話があった。実は私、今から約10年ほど以前、別件の取材で、三穂田町史探会長の吉川さんのお宅にお伺いしたことがあった。その時に吉川さんが声を潜めて、こんな話をしてくれたのである。 「実は妙見山は光るのです。」「えっ? 光る? 山が光るのですか?」「いや、実は私はまだ見たことはないのですが、昔からの話によると、狐火のような冷たい光が、妙見山のあちこちで燃えるのだそうです。」「それは・・・、いわゆる狐の嫁入りですか?」「いや、そうではないようですね。それにその光はあの山ばかりではなく、そう遠くない北東にある高籏山でも、霧の濃い夜に山全体が光るのだそうです。地元の人たちは御霊光と言って気味悪がっていますがね。」「それは、今でも光るのですか?」「いや、この頃は聞きませんがね。」「しかし山全体が光るということは、狐火のような点々とした光の列ではないということですね?」「いや、そういうのもあるそうですが、山全体が光ったり、後光のように、山の後ろが光ったりするのだそうです。」 それを聞いた私の背中は、思わずゾクッとしました。「ところで高籏山が光ると言えば、あの山では昔、金が掘られていた山だと聞いていましたが?」「そうです、その通りです。それで妙見山からも金が出るのではないかという噂が大分ありましたが、気味悪がって、誰も掘る人はいませんでした。それにむしろ私が不思議だと思っていたのは、花火のことです。」「花火ですか・・・。」「そうです。実は私たちの編集した『郷土乃歴史』にも書いておきましたが、寛永十三年(1636)に、妙見山にあった飯豊和気神社の本殿や拝殿、それに神社の宝物などを焼失する火災があったと伝えられているのですが、その後神社を再建した時にお祝いの花火を上げたのですが、それから悪い病気が流行ったというのです。」「え〜っ、そうですか。悪い病気といえば、妙見山にある神社に、昔、二本松藩の御典医だったという人の、何か記念碑みたいなものがあると聞いていましたが?」「ええ、ありますよ。熊田文儀という人のものです。その人は天保の頃、守山からこの辺りにかけて疱瘡が流行ったときこれを治療して、多くの村人に感謝されました。それで飯豊和気神社の境内に、お礼の意味で記念碑が建てられたのです。」「疱瘡が・・・、ですか?」「ええ、天然痘のことですね。それもあってか熊田文儀は、山の下にある飯豊和気神社の遥拝所である八雲神社に、石灯篭を一基納めています。ただし花火と病気の因果関係が分からないのです。ひょっとして、御霊光と関係があるのかも知れません。」「で、その後、熊田文儀は、どうなったのですか?」「さあ〜、それは聞いていません。ただ聞くところによりますと、昔から妙見山や高籏山は光っていたそうです。何れにしても昔から、妙見山には飯豊和気神社が、高籏山には宇奈巳呂和気神社が祀られていたと聞いています。」 吉川氏は、いかにも不思議だというような顔をして教えてくれた。 私は早速、帰りがけに妙見山に登ってみた。ローギアで登る軽四輪のエンジン音は、悲鳴にも近い唸り声を立てていた。狭い山の道幅は狭く急になり、車が交差できる程度に小さく膨らんだ部分から、もう、しばらくの距離を走っていた。 ︱︱どうもこの道の具合では先が心配だ。次に広い所が見つかったら、そこに車を置いて歩いて登ってみよう。 そう胸の中で言いながら登っては来たのであるが、なかなか、その広い所が見つからず、またバックするには遠くなりすぎ、心ならずも前進していた。大雨が降った時にでも土砂が流れたのであろう、道が斜めに深くえぐられていた。そんな所を、すでに何回も通っていた。 ︱︱それにしても、小さい車で来てよかったな。 そう思った。 すると急に明るい所へ出た。道は相変わらず狭かったが、そこは両側が急峻な崖になっている尾根の道であった。そのために光が差し込んでいたのである。ようやく道幅の広い所に辿りついたのは、それからしばらくしてからであった。しかもそこは、広場のような行き止まりの場所であった。ハンドルの切り替えをしなくても充分に方向転換が可能なことを確認すると、私は車を降りた。その広場の先へ歩いて行くと、丸太で作られた、それでいて大分古くなった鳥居が見えてきた。 ︱︱これが飯豊和気神社の鳥居だな。 そう思って先を見ると、今までより急な坂であった。 ︱︱どっちにしても、これ以上車で登るのは無理だ。 そう思いながら私は鳥居をくぐった。しかしその先もまた、急な山道であった。息を切らしながら登る道は、意外に遠かった。つづら折れのその道は、今度かと思えばまた戻るかのように曲がり、今度は? と思えば、また曲がって登っていた。途中で息を荒げては休み、歌を歌って元気をつけて歩いた。 ようやく神社の建物が見えてきた。しかしその神社にたどりつくには、さらに十段くらいの石段を登らなければならなかった。 ︱︱これだけ高い山にこれほどの石段を作るとなれば、材料を運び上げるのだけでも大変だったろうな。 自分一人の身体を持ち上げるのにさえ容易ではなかった私は、昔の人々の信仰心の強さに驚きを感じていた。ここが目標の飯豊和気神社であった。私はようやくの思いで最後の石段を登ると、境内に足を踏み入れた。そして周囲を見回した。手水鉢らしきものが左側にあった。しかし聞いて来た『熊田文儀の顕彰碑』と思われるものは、なかった。 ︱︱あるはずだが︰︰。 そう思って探してみたが、神社の左手奥に小さな祠が二つあるだけであった。手水鉢ある所まで戻ってよくよく見てみると、気のせいか手水鉢にしては掘りが浅く、荒く思えた。 ︱︱これは手水鉢ではなく顕彰碑を取り外した痕ではないのかな。『熊田文儀の顕彰碑』は、ここにあったということかな? 釈然としないままでそれだけを確認すると私は車に戻って山を下り、吉川さんに聞いていた麓の飯豊和気神社の遙拝所になっている八雲神社に行ってみた。宮司が丁寧に対応してくれた。その話によると、『熊田文儀の顕彰碑』は、あの石段の登り口の左側にある筈だということ、それから郡山市堂前の如宝寺にある『熊田文儀の墓』が参考になる、と教えてくれた。 私は後日、如宝寺に行ってみた。もう一度あの妙見山に登る気力が失われていたからでもあった。 <font size="4">ブログランキングです。 <a href="http://blog.with2.net/link.php?643399"><img src="http://image.space.rakuten.co.jp/lg01/72/0000599372/67/img25855a93zik8zj.gif" alt=バナー" height="15" border="0" width="80"></a>←ここにクリックをお願いします。</font>
2020.08.01
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日本の神様と仏様 さて皆さんのお宅には、神棚と仏壇がありませんか? 実は私の家には、仏壇がありますが神棚はありません。ここに越してきたとき、神棚は神社に納めてきたのです。なぜ神棚も移さなかったのか、と問われれば、半分冗談ですが、『触らぬ神に祟りなし。』と思ったからです。では神様とは、どんなものなのでしょうか。俗に日本では、ヤオヨロズノカミと言って、八百万の神様がいることになっています。ところで一万五千年前の縄文時代に、火焔土器が作られていました。その形が火の炎に似ていることからそう名付けられたのです。ところがこの形の土器は、日本独特だったというのです。恐らくこれは、なんらかの祭に使われたものと考えられていますが、ただしこれが、いわゆる神に捧げられたものか、それとも身内の弔いのために使われたのかは分かっていません。 日本においては古くから山を神聖化し、崇拝の対象とする山岳信仰が存在していました。富士山をはじめとして多くの山が御神体とされてきましたが、福島県でも磐梯山、安達太良山、蓬田岳などがあり、郡山でも三穂田の妙見山、多田野の高籏山など、山そのものが御神体とされてきました。また大きな岩の前で巫女を中心にして祈り、岩は磐座(いわくら)と呼ばれて神が宿る神聖な所、とされたのです。巫女とは、神に仕える未婚の女性であり。神楽や祈禱を行い、また、神のお告げを伝える女性のことです。邪馬台国の女王・卑弥呼も鬼道をよくした巫女とされていますから、このような女性であったと思われますし、また田村町の大安場古墳も邪馬台国と関係があるようです。なお鬼道とは、霊術の一つで、言葉に宿ると信じられた霊的な力のある決まった言霊(ことだま)を詠んだのち、その術名を叫ぶことにより、神のお告げが知らされるものとされています。しかし古墳時代になっても神社という社はありませんでした。 この時代の人々これらの山や磐座に、何を祈っていたのでしょうか。民俗学者の吉野裕子(ひろこ)さんは、かつての日本では、蛇を霊とする信仰が取り入れられていたと言うのです。では蛇は、何故信仰の対象になったのでしょうか。それは、蛇の形が男性の象徴を思はせ、縄文人の性に対する憧れ、崇拝、畏怖、歓喜が凝縮されて象徴になったというのです。また毒蛇、蝮などのもつ強烈な生命力と、その毒で相手を一撃の下に倒す、これらのことが相乗効果となって、蛇を神にまで高めていったものと考えられています。蛇を神としてあがめ、そして命の再生を祈る。しかも蛇の脱皮は、生命再生の象徴であったのではないか、と言うのです。吉野さんによれば、古代、津軽の人たちが信仰した神に荒吐覇(あらはばき)があるのですが、『アラハバキ』の『ハハ』は、蛇の古語であり、直立する樹木は蛇に見立てられて、祭りの中枢にあったと言われます。伊勢神宮には『波波木(ははき)神』が祀られていますが、その場所は、伊勢神宮内宮の東南、つまり『辰巳』の方角にあります。それは『辰』から『竜』、『巳』から『蛇』となって深い関わりがあるとされます。このように日本原始の神の形の蛇を祀るのが巫女であったということは、邪馬台国の女王・卑弥呼につながるとも考えられます。しかし畏敬と嫌悪の二つの要素のために、蛇信仰は次第に埋没して行きました。 ところで仏教は、552年もしくは558年に日本に伝来しました。ところが日本神話の原典とされる712年に作られた古事記、そして720年に作られた日本書紀は、年代から言って、仏教伝来以後に作られたことが分かります。そしてこの時代が、古墳時代の終わりとされているのです。これ以後、日本の宗教が二つの流れになって行きます。しかし神に対しての仏教の影響は、少なかったと思われます。これはまだ、その時点において、仏教が強い力を及ぼしていなかったからではないか、と考えられます。ところで素人の考えですが、この新しい宗教である仏教の伝来が、古墳の築造を、そして古墳時代を終わらせたのではないかと思われます。日本はこの時点から、神とホトケが並立する時代に入って行ったと考えられるのですが、いつしか日本古来の神が、後から渡って来た仏教に帰依するという形をとり、神は寺の守護神となっていったのです。ホトケが神の上位になったと考えてもいいのかも知れません。 明治元年三月二十八日、天皇を日本の中枢に置こうとした明治新政府は、『王政復古』『祭政一致』という新たな理想を実現するため、神道の国教化の方針を打ち出しました。それまで広く行われてきた同一の堂宇での神仏の混交を廃止し、神仏分離令を発したのです。この神仏分離令は、仏教排斥を意図したものではなかったのですが、これをきっかけに全国各地で廃仏運動がおこり、各地の寺院や仏具の破壊が行なわれました。このため、歴史的・文化的に価値のある多くの文物が失われてしまいました。しかもこれは、神仏の分離のみならず、修験道・陰陽道の廃止を始め、日常の伝統的習俗の禁止と連動したので、一般人も含めて、宗教界は大混乱となりました。郡山の修験寺として残されているものに小原田の延命寺がありますが、ただしここは今、民家となっています。 この神仏分離令により、神社は『八紘一宇』などのスローガンのもとに、国家神道の役割を果たしていくことになります。八紘一宇とは、天下・全世界を一つの家とする考えの思想で、『日本書紀』の「八紘(あめのした)を掩(おお)ひて宇(いえ)にせむ」という文言から、日本を中心にして、全世界を一つの家にすると解釈したものです。考えてみれば、日本も随分身勝手な主張をしたものです。しかし第二次世界大戦での日本の降伏後、GHQの指令により、国家神道・軍国主義・過激な国家主義を連想させるものとして、公文書で八紘一宇の語の使用が禁止されました。現在、日本の国語辞典では、八紘一宇は『第二次大戦中、日本の海外侵略を正当化するスローガンとして用いられた』と説明しています。このような歴史の中で、今は何となく、神は功徳を与え、仏は死者の霊を祀るものとされていったようです。 <font size="4">ブログランキングです。 <a href="http://blog.with2.net/link.php?643399"><img src="http://image.space.rakuten.co.jp/lg01/72/0000599372/67/img25855a93zik8zj.gif" alt=バナー" height="15" border="0" width="80"></a>←ここにクリックをお願いします。</font>
2020.07.15
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邪馬台国連合(ユナイテッド クニズ オブ ヤマタイ)と郡山 邪馬台国の女王・卑弥呼の生まれた年は分かりませんが、卑弥呼は、約30ヶ国の王が連合して立てたいわゆる王の中の王で、宗教的儀式を司り重要な政治的決定を行っていました。卑弥呼には夫がなく、卑弥呼の弟が助けて国を治めていました。ところが卑弥呼が女王として即位する直前の2世紀後半、倭国内で争乱がありました。日本史上最初の大規模な内戦だとする意見もあります。倭国の大乱と言われていますが日本では記録がなく、中国の複数の史書にその記述が見られます。魏志倭人伝は、男子王の系統が71〜80年経過した後に争乱が起こったとしていますが、『後漢書』は、桓帝と霊帝の間(146年〜 189年)に大乱が起こったと、大まかですが時期が指定されています。 卑弥呼が王として立てられたのは西暦188年とされますから、これは朝鮮半島から稲作文化が伝えられた弥生時代の後期ということになります。稲作はそれまでの狩猟や採集より生産性が上がり、より多くの人の生活が可能となりました。卑弥呼はこれら30の国々をまとめるために、大きな力が必要でした。その大きな力の一つが、稲作の普及であったのかも知れません。卑弥呼は、西暦239年に魏に使節を派遣し、魏と同盟を結ぶのに成功したのです。しかしその同盟の成果を、具体的にあらわす必要がありました。それが三角縁神獣鏡でした。卑弥呼は、「魏が後ろ楯になっていることを知らしめよ」言われて授かった三角縁神獣鏡100枚を各地の豪族に分与したと言われます。ところが全国で発掘されている三角縁神獣鏡の総量が300枚を越えていることから、その越えた分は国産の複製品で補ったと考えられています。この三角縁神獣鏡の一枚が、会津若松市の大塚山古墳から発掘されています。また中国の魏の前の前漢の時代(紀元前202年〜紀元8年)に作られた前漢鏡の拓本が、三春町実沢の高木神社で採取されていますが、三春町史によると、現物は國學院大學に保存されているそうです。ということは、この時期この地方が、すでに邪馬台国連合、つまりユナイテッド ステーツ オブ アメリカならぬ、ユナイテッド クニズ オブ ヤマタイであったのかも知れません。 卑弥呼は晩年、この約30ヶ国の一つ、邪馬台国連合の狗奴国と戦っています。狗奴国(くなこく)は、現在の岐阜県・愛知県・三重県にある濃尾平野を中心にしていたと考えられています。この地域から考えてみると、神武東征の神話と重なります。しかし開戦間もなく、卑弥呼は亡くなりました。その卑弥呼の死後、内乱が起きました。卑弥呼の時代前後から気象の長周期変動で寒冷期に入っていました。この農耕の不振は、隣人と隣人、つまりクニとクニの損益がぶつかることになったと考えられています。邪馬台国連合と連合内の狗奴国との内戦は、このような天候による不作にあったとも考えられ、それはまた、農耕地を巡って対立であったのかも知れません。 さて郡山市田村町にある大安場古墳は、東北地方最大の『前方後方墳』です。 これの築造時期は、4世紀後半と推定されています。大安場古墳は、平成十二年(2000)に国指定史跡となりました。『前方後方墳』は、全国的には約500例が確認されていますが、それでも『前方後円墳』の約十分の一以下です。中通りに限ってみても、19を超える前方後円墳に対し、前方後方墳は大安場と田村町正直の2基と須賀川の2基、合計で5基しかありません。 邪馬台国連合と狗奴国との戦いの結果がどうなったかは諸説あるのですが、大安場古墳が東北最大の前方後方墳であるということは、周辺の邪馬台国派(前方後円墳)のクニに対して少数派である狗奴国派(前方後方墳)の存在を誇示するために、出来るだけ大きく作ったものとも考えられます。つまり『前方後円墳形の墓』は邪馬台国を中心とした連合の墓であり、『前方後方墳形の墓』は濃尾平野を中心として形成された狗奴国のものであったと考えられているからです。なお前方後円墳は、鍵穴のような形をしたものであり、前方後方墳は、鍵穴の丸い部分が四角になっているものを言います。 新潟大学名誉教授の甘粕健氏は、「古墳の形式は二種類あるが、古い時代には同一の氏族であったのではないか。」という説を唱えておられますが、それも十分に解明された訳ではありません。また愛知県埋蔵文化財センターの赤塚次郎氏は、「狗奴国は戦いに敗れたかもしれないが、無条件降伏ではなかった。」と推測し、大安場古墳の主は地元の豪族とも想像しています。ちなみに卑弥呼は、狗奴国との戦いの最中に死んだとされていますが、卑弥呼の死は、暗殺を意味すると作家の松本清張が書いています。理由として、魏志倭人伝にある文字『以死』を『もって死』と読まず、『よって死』と読み、卑弥呼が狗奴国に敗れて責任をとらされたと解釈しています。 では実際に大安場に葬られたのは、どのような人物だったのでしょうか? 想像出来ることは、あれだけ壮大な前方後方墳が造られたのは、それに見合うだけの強大な権力があった人物ということになります。そしてその人物が特定されていない現在、2つのことが考えられると思います。1つは、狗奴国から派遣されて来た豪族であったということです。そうすれば、この巨大な前方後方墳を造るための技術者つまり設計者や監督を一緒に連れて来て築造したという可能性が高いと思われます。しかし大安場に葬られたのが地元の豪族であったとしたら、狗奴国に対し、特別な貢献をした人物だったと考えられます。その貢献に対するお礼として、狗奴国が墳墓築造技術者を提供したとも考えられるのですが、どんなものでしょうか。いずれこの問題に対しての結論は、まだ出ていません。なお縄文人の寿命は、約30歳であったと想定されています。邪馬台国連合と郡山の間には、このような歴史もありました。 <font size="4">ブログランキングです。 <a href="http://blog.with2.net/link.php?643399"><img src="http://image.space.rakuten.co.jp/lg01/72/0000599372/67/img25855a93zik8zj.gif" alt=バナー" height="15" border="0" width="80"></a>←ここにクリックをお願いします。</font>
2020.07.01
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邪馬台国は何処? 西暦280年から297年の間に、魏の官僚の陳寿が書いた魏志倭人伝という文献があります。この魏志倭人伝は、中国の歴史書『三国志』の中の『魏書』、さらにその一部の『東夷伝』です。ここでちょっと、状況を整理してみましょう。 まず中国です。紀元前202年から西暦8年までは前漢、184までは後漢、そして220までは魏という国でした。三国志とは、当時覇を競っていた魏・蜀・呉の三國の歴史書です。そしてこれら中国の国々では、当時の日本を『東夷・ひがしのえびす』、つまり中国から見て東の方に住む野蛮人と見ていたのです。そして日本です。当時日本では倭と言っていました。なぜ倭と言ったのでしょう。それは日本列島の原住民が中国の原住民に国の名を問われ、ワ(我)と言ったからと考えられています。それを中国人は倭という文字で表したのではないかというのです。 この倭について中国の正史にはじめて書かれたのは、後漢時代の初頭の『漢書』であり、『論衡』でした。この『漢書』において倭は、朝鮮半島の南の海のかなたにあると書いてあり、『論衡』では、倭はいまの中国の上海の南付近にあるとしていました。さらに、倭の国は現在の韓国ソウルより東南の大海の中の山島に依って国を作っているとあり、昔は100余国あったとされていました。しかしその後に書かれた魏志倭人伝には、30余国であると記されています。この魏志倭人伝に書いてある倭についてのボリュームは、文字数約2000字、現在の400字詰め原稿用紙2枚半に過ぎません。しかもその内容は、倭の約30の国名の他は、倭に住む人たちの風俗習慣などで、地誌、つまり旅行記程度のものでした。ところが驚いたことに、この魏志倭人伝を書いたと言われる陳寿は、日本に来ていないのです。実際は日本に来たことのある人の話を聞き、それをまとめたとされていますから、大雑把過ぎるところがあっても仕方がないのかも知れません。 この邪馬台国がどこにあったかという問題は、魏志倭人伝に書かれている順序になぞることから始まります。ところが文面の通りになぞっていくと、なんと邪馬台国は、沖縄近辺の海の中になってしまうのです。このこともあって、邪馬台国は沖縄にあったという説もあるのです。しかしそれでも邪馬台国が沖縄ではなく陸上にあったとすれば、それを証明する何かがなければなりません。そのことを証明するのではないかというものに、『混一彊理歴代国都之図 (こんいちきょうりれきだいこくとのづ)』という地図が残されています。この地図は、明の建文四年(1402)、朝鮮で作成されたもので、現存最古の世界地図とされています。 この『混一彊理歴代国都之図』の下段に記されている由来によりますと、朝鮮使として明に派遣された倭の官僚が、1399年に2種類の地図を中国から持ち帰ったとされていますが、この地図は、西を上方にして描かれています。現在この地図は、京都の龍谷大学に収蔵されています。ところがなんと、この地図には、日本列島が朝鮮半島から伸びる形で、南北に長く描かれているのです。もしこの地図に従えば、邪馬台国があったとされる沖縄近海も陸地であることになり、この地図の上では、問題の一つが解決することになります。つまりこの地図を正しいものとして南に進むと、畿内方面に至ることになるからです。これが、「邪馬台国畿内説」の論拠の一つとなっています。魏志倭人伝が、この誤った方向認識で記述されているからとして、魏志倭人伝に示されている方角の記述の「南」を、「東」に修正するべきとの論もあるのです。 この魏志倭人伝については、古事記や日本書紀にも出てきます。しかしこの記述は、魏志倭人伝が編纂されてから約400年以上経ってからということになります。この長いブランクが、魏志倭人伝の解釈の、特に地名については、大きな障害になったであろうことが想像されます。その後も、南北朝時代の北畠親房、江戸時代前期の松下見林、また江戸時代中期の新井白石らが「邪馬台国大和説」を主張していました。そして彼らは皆、女王・卑弥呼が、天皇の先祖である『神功皇后』と考えていたようです。 この邪馬台国がどこにあったのか? という疑問は、多くの説もあって、現在に至るも解決を見ていません。特に主張されているのが、邪馬台国畿内説と九州説です。邪馬台国畿内説は、奈良県桜井市の三輪山の北西麓一帯にある、弥生時代末期から古墳時代前期にかけての集落遺跡のひとつの纏向遺跡を邪馬台国の都に比定する説で、国の史跡に指定されています。また邪馬台国九州説では、福岡県糸島市を中心とした北部九州広域説など複数の説がありますが、特に、佐賀県神埼郡吉野ヶ里町と神埼市にまたがる吉野ヶ里遺跡が、昭和六十一年からの発掘調査によって発見されてからは、ここが邪馬台国の都に比定する説が唱えられています。ここも国の、特別史跡に指定されています。 そしてもうひとつは、邪馬台国が九州から畿内に移ったとする説です。この東遷説は、神武東征や天孫降臨などの神話に結びつけられています。ですから邪馬台国は、九州と畿内の二ヶ所にあったという説です。私は、この説をとりたいと思っています。理由として、稲作文化がこの時代に朝鮮から九州に渡来したとされています。そして私が神武天皇を卑弥呼と想像するのは、神武天皇による各地での戦いを、卑弥呼による稲作文化の伝播と考えていることからです。神話において、神武天皇が豊国(大分県)の宇佐で1年、阿岐国(広島県)で7年、吉備国(岡山県)に8年滞在したとあるのは、まさに卑弥呼による稲作技術の指導のための期間であったのではないかと思えるからです。このように神話は、想像だけで書かれたのではなく、邪馬台国が九州から畿内に移ったというような事実が神話になった、と考えているからです。しかも九州と畿内に同じ地名、『笠置山・田原・朝倉・三輪』などが残されているのです。 そしてこの頃私は、一つ気になっていることがあります。それは、これら卑弥呼、邪馬台国の名をはじめとして、これら多くの国々の文字を、当時の中国人はどう発音していたかということです。なぜなら文字のなかったとされる当時、中国人は日本人の発音を元にして文字にしたと考えられるからです。それを今、私たちは現代の日本語で読んでいるのではないかという疑問です。どなたか教えて頂けないでしょうか。 <font size="4">ブログランキングです。 <a href="http://blog.with2.net/link.php?643399"><img src="http://image.space.rakuten.co.jp/lg01/72/0000599372/67/img25855a93zik8zj.gif" alt=バナー" height="15" border="0" width="80"></a>←ここにクリックをお願いします。</font>
2020.06.15
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日本神話と邪馬台国 日本の神話のほとんどは、『古事記』や『日本書紀』および各地の『風土記』の記述によるものです。古事記は語り部によって言い伝えられた『皇位継承』の伝承を忠実にほぼそのまま記述したもので、要は、天皇家が、この国を歴代統治してゆくことの正当性を述べようとしたものです。また日本書紀は白村江の大敗により失われた我が国の主体性を再構築するため、中国風の史書を作ることを目的としたものです。そのため王権にとって都合の悪いことを隠そうとして、意図的な取捨・改竄が随所に行われているといわれます。しかもそのことから、神話はこの時代に『創作』されたものではなく、それまでに起きてきた何かの事実を基礎に編まれたものではないかと想像しています。それはともあれ、日本の神話もまた他所の国の神話と同じく膨大で、しかも天地創造から始まっています。そこで日本神話と古代日本・邪馬台国の出来事を、対比してみました。 神代 世界の初めに、天上にある高天原で神世七代と言われる多くの神々が誕生、これらの神々の最後に生まれてきた神が伊邪那岐命と伊邪那美命で、神武天皇の7代前の先祖とされます。古代の日本においても、朝鮮などとの文化交流がありましたから、当然ながら神話伝説の類の交渉もあったと考えられます。日本の神話にかかわる遺跡などが朝鮮にもあると言われますから、簡単にどちらからどちらに影響を与えたということは出来ないと思いますが、互いに関係する話があったと想像することはできると思います。中国の古書、魏志倭人伝によりますと、当時の倭国には、30余国による連合国家である『邪馬台国』があったとされます。 天の岩戸 皇室の祖神とされる天照大神は、弟の素戔嗚尊の荒々しい所業に怒り、岩屋に隠れてしまいました。このため世の中は真っ暗になったのですが、八百万の神々の機転によって、『天の岩戸』を開けて出てきたのは、天照大神自身ではなく、輝くばかりの若い女神でした。この若い女神が岩屋から出たので、天地に光が戻りました。弟の素戔嗚尊は、高天原から追放されました。さて邪馬台国の女王の卑弥呼には夫がなく、卑弥呼の弟が助けて国を治めていました。ところが、この弟が乱暴で困り果てた卑弥呼は、この弟を追放したのです。そして卑弥呼は西暦248年に亡くなっていますが、古天文学によりますと、この年に皆既日食があったとされるのです。さらに気になるのは、この卑弥呼の死後、邪馬台国連合の内部で抗争が起きるのですが、卑弥呼の一族である十三歳の壱与が新しい女王となることで収まりました。『天の岩戸神話』は、『(天照大神自身ではなく)輝くばかりの若い女神』と記しています。ここなども、『天の岩戸神話』とまったく同じです。それから『皆既日食』の年に卑弥呼が死んだという記述も、神話の『天の岩戸』の話と重なります。 天孫降臨 日本の国土を生んだのは、伊邪那岐命と伊邪那美命でしたが、その国土を整備して作り上げたのは大国主命でした。天照大神は、その大国主命から自分の孫の瓊瓊杵尊に地上世界を譲らせました。瓊瓊杵尊は筑紫の日向の高千穂のクジフル嶺に降りました。クジフル嶺とは、九州最高峰の久住山であり、久住(クジ)にフル(降る)を表しているのではないかとされます。 このような山上降臨型の神話は、古代朝鮮半島など北方系の建国神話に広く見られるものです。この神話が、日本の『天孫降臨』の神話になったと思われます。 神武東征 のちに神武天皇となる神倭伊波礼毘古命(かむやまといわれびこのみこと)は高千穂峰を出発、宇佐(大分県)を経て岡田宮(福岡県)で1年、多祁理宮(たけりのみや・広島県)で7年、高島宮(岡山県)で8年滞在したのち畿内に攻め入り、畝傍(うねび・橿原市)の橿原宮で即位しました。どうでしょうかこの神武東征神話、私はこれもまた、邪馬台国の卑弥呼の話と思っています。なぜなら、稲作文化はこの時代に朝鮮から九州に渡来しています。私が神武天皇を卑弥呼と想像するのは、神武天皇による各地での戦いを、卑弥呼による稲作文化の伝播と考えていることからです。それはまた、神武天皇が大分の宇佐で1年、広島県で7年、岡山県に8年滞在したというのは、まさに稲作技術の指導のための期間であったのではないかと思えるからです。これが、私が、邪馬台国が九州と畿内の2ヶ所あったのではないかと思う理由です。 平成元年(1989)3月11日、兵庫県たつの市御津町中島の権現山古墳群51号墳から、5面の三角縁神獣鏡が発掘されました。神話に出てくる高島宮は、いまは聖蹟伝説地とされている岡山市南区宮浦とされていますが、この権現山古墳群とは近い距離にあります。ここに神武天皇の行在所があったと考えれば、卑弥呼との関係が裏付けられるのではないかと思われます。 このように、神話と邪馬台国との間に共通する部分があるのですが、神武天皇も邪馬台国も九州から畿内に行っています。その理由を敢えて考えれば、西は海なのですが、東の濃尾平野には、卑弥呼と敵対する狗奴国があったからかも知れません。 <font size="4">ブログランキングです。 <a href="http://blog.with2.net/link.php?643399"><img src="http://image.space.rakuten.co.jp/lg01/72/0000599372/67/img25855a93zik8zj.gif" alt=バ
2020.06.01
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ドンカラック男声合唱団 太平洋戦争で爆撃を受け、街の荒れ果てていた戦後間もない当時、郡山市民たちの間でよく口にされていたのは、『東北のシカゴ』から『東北のウィーン』へというスローガンでした。暴力団が街を闊歩し、ピストルなどでの発砲や殺人事件が起きていたからです。そのような昭和二十年代の郡山市に、一般人による文化運動が澎湃として起こりました。その一環としての国鉄郡山工場男声合唱団は、ソ連、いまのロシアの男声合唱団『ドンコザック』を郡山に迎えたコンサートを機に、これを目標とし、職場の合唱団として研修に励んでいたのです。もっとも当時の郡山には、音楽会の会場となるような広い建物もなく、国鉄郡山工場の食堂が唯一の場所であったということもありました。この国鉄郡山工場男声合唱団は各地の大会にも積極的に参加し、全国的にも名を知られるようになったのです。 ドンカラック男声合唱団は、平成十一年(1999)に、この国鉄郡山工場男声合唱団のOBと有志らが『お父さんコーラス』として発足していたのですが、この団員や新たなメンバーを募って立ち上げたものです。この名は、『ドンコザック』の名に因み、『呑・歌・楽』、ドンカラックとしたと聞いています。ドンカラックは、今年(2019年)創立15周年を迎えました。そしてこの合唱団は、アメリカ・ロスアンゼルス市の男声合唱団(L. A. Men's Glee Club)ともコンサートを互いの都市で開くなど、国際親善の実を挙げつつあります。今年は創立15周年を記念した『ご声援ありがとうコンサート』が、三月十四日、郡山市民文化センターで開かれています。 ドンカラックは、今年の七月、ホノルル マキキの末日聖徒イエスキリスト教会タバナクル聖堂で演奏会を開きました。その目的は、『東日本大震災と東京電力福島原発事故復興支援御礼と勝沼富造の足跡を訪ねて』というものでした。郡山の末日聖徒イエスキリスト教会とホノルル・マキキの教会、さらにはホノルル福島県人会挙げての協力で、無事、盛会のうちに終えることができました。ただしこの演奏会には、岩手大学合唱団および郡山在住の辻恵子(えいこ)さんによるフラダンスの共演もあったのです。 2年ほどさかのぼった2017年7月、福島民報創刊125周年記念事業『日系ハワイ移民写真展〜ハワイ日系人の歩み』展においての記念講演会で、私は、『ハワイと福島の物語』と題して、『ハワイ移民の父・勝沼富造』についての話をしたことがありました。それが終わったとき、話を聞いていたドンカラックの会長の佐藤文吉さんが来られたのです。そして東日本大震災と、東京電力福島第一原子力発電所の放射能事故の際、多くの援助をして頂いたハワイで、お礼の演奏会をしたいが何か方法はないか、というものだったのです。その時期は、2年後の2019年ということでした。さて2年後と時間はありましたが、私のハワイでのチャンネルに芸術のものはありませんでした。福島市在住でハワイ出身の森口マリアンさんに問い合わせましたが、直前に「福島市のお母さん合唱団を連れて行ったが、大変苦労をした。」と言うのです。考えてみれば、ドンカラック合唱団のハワイ演奏会と言っても、会場の設営、聴衆への周知など、日本に住む私たちには手に負えない難問が立ちはだかっていたのです。私は、『マウナケアの雪』という勝沼富造の生涯の小説を書く時にお世話になった、仙台大学の高橋亮さんを思い出しました。彼はユタ州のブリガムヤング大学の卒業生であり、そこの世界的に名の知られた合唱団のメンバーでもあったのです。そしてブリガムヤング大学は、ホノルルのあるオアフ島のカフクにもキャンパスがあったのです。私は、彼に頼りました。 彼は早速動いてくれました。しかし事は、そう簡単には行かないようでした。アッという間に時間だけが経っていきました。しかし勝沼富造が、末日聖徒イエスキリスト教にユタ州のソルトレークで入った最初の日本人であったこと、ハワイや日本で教会の活動をしたこと、そして彼の葬儀がホノルル・マキキの末日聖徒イエスキリスト教会で行われたことなどを縁として、演奏会が、ここの末日聖徒イエスキリスト教会タバナクル聖堂での開催が内定したのです。早速、ドンカラックの会長の佐藤文吉さんが何度もハワイに行き、教会とも打合せの上、ホノルル福島県人会の協力を取り付けてきました。 2019年7月8日、ドンカラック合唱団は、マウラナニ・ナーシング&リハビリテーション・センターで慰問訪問演奏会を開き、入園者を楽しませました。そして翌9日、いよいよマキキの末日聖徒イエスキリスト教会タバナクル聖堂での演奏会となったのです。地元のハワイ報知新聞には、『東日本から合唱団・ハワイに感謝の歌声』、そして『福島県郡山のドンカラック・慰問で歌声披露』と2度にわたって、またハワイ パシフィック プレス誌にも、『大震災復興支援ありがとう・福島県人が感謝コンサートを開く』という記事が載りました。そして9月15日の紙面では、『勝沼富造・福島県ハワイ移民の父・日本の作家橋本捨五郎氏が講演』として、演奏会に先立って行われた私の講演の全文が載せられたのです。誠に、光栄の至りです。それにしても、このような機会を作ってくださったドンカラック男声合唱団の皆さんには、感謝の言葉も見つかりません。ありがとうございました。 <font size="4">ブログランキングです。 <a href="http://blog.with2.net/link.php?643399"><img src="http://image.space.rakuten.co.jp/lg01/72/0000599372/67/img25855a93zik8zj.gif" alt=バナー" height="15" border="0" width="80"></a>←ここにクリックをお願いします。</font>
2020.05.15
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ハワイのボンダンス 2017年7月は、福島市の市制110年、福島民報が創刊125周年にあたりました。福島市はその記念事業の一環として、ハワイからホノルル・ボンダンス・クラブの約30名と『琉球国祭り太鼓ハワイ支部』の10名を招き、7月22日には、福島市荒井の四季の里でそのイベントが開かれました。ボンダンスは、福島県からの移民とともに海を渡った『盆踊り』がボンダンスとして、ハワイで踊り続けられているものです。第二次大戦後、ハワイのマウイ島に住む日系四世のケイ・フクモトがハワイでの『盆踊り』の復興に力を注ぎ、『マウイ太鼓』というグループを主催して何度も福島県を訪れ、毎年、郡山市熱海町の湯ラックスで開かれる『ふくしま太鼓フェスティバル』にも出演しています。 マウイ太鼓は、ケイ・フクモトが、福島県から移民した曾祖父のトミジロウ・ワタナベから受け継いだ福島盆踊りの太鼓を次世代に伝えるため、16年前に始めた太鼓の会です。現在、8歳から60代まで、約40名のメンバーがいます。しかしこうなるまでには、50年以上の歳月が必要でした。戦争に負けた日本の血を引く日系人としての後ろめたさが、「なかなか積極的に社会にとけ込めなかった。」と言っていました。「最初は周囲に気を遣い、小さな音で練習をしていたのです。」とケイは笑いながら話してくれました。今でも使われている太鼓は、グループの人たちによる手作りのもので、太鼓の胴にワインの樽を利用したものだそうです。しかしそれらの困難を乗り越え、公開の場での活動にするのには、多くの時間を費やしたということです。 彼等の十八番は『フクシマ・オンド』というタイトルのものです。太鼓のリズムや盆唄のメロディーは、相馬盆歌とも三春盆踊りとも、そして振り付けもまた、そのどちらにも似ているのです。日系人が多いハワイにはたくさんのお寺があり、6月から8月にかけて、毎週末のようにどこかのお寺でボン・ダンスが開催されます。マウイ太鼓もマウイ島各地のお寺をまわり、ワインの樽からつくった手作りの太鼓で踊りを盛り上げています。お盆には、日系人だけでなく、地元の人や観光客など、たくさんの人たちが集まります。ボン・ダンスは地域のお祭りとして、日系人や仏教徒以外の人にも親しまれているのです。そして驚いたことは、老若男女はもちろん、ポリネシアの人や白人そして黒人などを問わず、しっかりとボン・ダンスを踊っているのです。ハワイのボン・ダンス。それは、日系のみならず、サトウキビ農場の労働者としてやってきた、さまざまな国からの移民が多く暮らすハワイでの、共通の文化となっています。ボン・ダンスは、己の民族の文化を大事にし、他の文化を尊重するという、ハワイの暮らしや歴史から生まれてきたのではないかと思っています。 七月、そして八月にかけて、ハワイの仏教寺院の境内は連日ボン・ダンスで賑わいます。今の日本で盆踊りは、仏教寺院との関係を特に意識されませんが、ハワイでのボン・ダンスは、お盆の先祖供養行事の一環としても行なわれているのです。各寺院でのボン・ダンスの日程が重ならないようにと、時期を少しずつずらしてやるので、この二ヶ月間は、ほとんど毎日のように、どこかのお寺でボン・ダンスの太鼓が鳴り響いているのです。 やぐらの上からは威勢のいい太鼓が鳴り響き、日本のリズムが流れます。ところでボン・ダンスと一言で言いますが、踊りは『フクシマ・オンド』だけではありません。見ていると炭坑節になったり、私の知らない踊りになったりします。しかも歌がなんとビューティフル・サンデーに変わったりするのですが、踊り手はそれに合わせて上手に踊っているのです。いろいろな人種の人たちも踊りの輪に加わってくるのですが、『踊る』ということが、格好いいとされているようなのです。私は踊りを見ながら、日本でも方言というものがありますが、踊りにもハワイ方言があるのだなと、一人でガッテンしていました。それにしても、フクシマ・オンドの本拠地である福島県で、盆踊りが廃れつつあることは、寂しいことです。 ボン・ダンス、餅つき、七五三、ひな祭り。日本の伝統文化に、ハワイアンカルチャーが少しずつミックスしながらも、私たち日本人が現代になって忘れてしまった行事や習慣を、大切に次の世代に伝える彼等の姿と、私と話をした多くの福島県出身者を先祖に持つ3〜4世が、「私は、自分の先祖が福島県から来たことを、大変名誉であると思っている。」と話してくれるのです。私は福島に生を受け、生活しているにも関わらず、そのようなことを考えたことは、一度もありませでした。大体、ここに住んでいることが、当たり前だったのです。世代が変わっても、祖先の出身地・福島への思いは強いのだなと思っています。 福島民報創刊125周年のイベントである『日系ハワイ移民写真展〜ハワイ日系人の歩み』に合わせて福島市を訪れたのは、ホノルル福島県人会の36名でした。彼らはフォーラム福島で同時に開催された関連映画特別上映や四季の里でのイベントにも出席しました。ホノルル福島県人会の旅のタイトルは、『ふるさとツアー2017』でした。この『ふるさとツアー』は時折開かれており、2012年の6月には、ケイ・フクモトが、郡山のコミュニティ放送・ココラジで、その経緯を生で放送をしています。 ホノルル福島県人会は、2018年、創立95周年になりました。ところがハワイ島ヒロにあるハワイ島福島県人同志会は、今年で118年になります。どのような理由でこの2つの県人会の間で、23年という差がついたのかは分かりませんが、元ホノルル福島県人会長のロイ・トミナガさんによると、「第二次大戦前後の相当な期間を休止したため、ホノルル福島県人会は短くなったのではないか。」と言っていました。いずれにしてもハワイでの県人会は、100年にも及ぶ年月、多くの会員たちによる努力によって続いているものであることは、間違いのない事実です。 実は2018年、『KIPUKA』及び写真展『FUKUSHIMA ONDO』で、2019年の第44回木村伊兵衛写真賞を受賞した写真家の岩根愛さんがいます。この賞は、写真界の芥川賞と言われるものです。彼女は、ハワイで踊られるボンダンスを足がかりに、12年間もの時間をかけ、ハワイへ渡った日系移民のルーツを探っていたのですが、私もハワイに取材に行っていたときに知り合いとなりました。 2011年、東日本大震災とそれに伴う東京電力の原子力発電所の事故の際には、ハワイ州の各県人会には特に多大な援助をいただいているのですが、ハワイの福島県人会では、2度に渡って福島に来られて、募金を福島県庁に届けられました。しかもこの時、マウイ島のキース・リン レーガン夫妻がアロハ・イニシャテイブを立ち上げ、ほぼ100人の幼児を含む罹災者の費用全額をアロハ・イニシャテイブで負担、3ケ月、ハワイでの癒しの宿を提供してくれました。郡山からも、ほぼ30人の高校生が参加しました。その後も、ケイ・フクモトの主宰するマウイ太鼓の演奏会を郡山や三春で開いたり、それが縁で三春中町若連がマウイで演奏会を開いたりしたのですが、その橋渡しを彼女がしてくれています。 岩根愛さんは、移民を通じてハワイと福島の関連をテーマに制作を続けている若手の写真家で、2013年より三春町に拠点を構え、双葉町などを中心に撮影を続けていましたが、このほど(2019年)中江裕司監督のもと、映画『盆唄』を完成、上映に漕ぎつけています。彼女が私に、「わたし(愛さん)が三春に来たのは、橋本さんのお陰です。」と言われたことが、私の宝物になっています。 済みません。この稿は、私の自慢話になってしまいました。 <font size="4">ブログランキングです。 <a href="http://blog.with2.net/link.php?643399"><img src="http://image.space.rakuten.co.jp/lg01/72/0000599372/67/img25855a93zik8zj.gif" alt=バナー" height="15" border="0" width="80"></a>←ここにクリックをお願いします。</font>
2020.05.01
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ウォルター タチバナさん 私が取材のため足繁くハワイ島を訪問していた時、当地の『ハワイ島福島県人同志会』の会長をしていたウォルター タチバナさんと知り合いになりました。彼は当時、90歳に近かったと思います。そして私は、橘という苗字に吸い寄せられるようにして尋ねたのです。「あなたのおじいさんは、福島県のどちらから来られましたか?」「はい。私のおじいさんは、北海道から来たと聞いていました。」「えっ、北海道? 福島県ではなかったのですか?」「はい。よく分からないのですが、おじいさんは、会津藩の侍だったと言っていました。ですから自分でも、なぜ北海道から来たのかが分かりません。今になると、おじいさんに聞いておけばよかったと思っています。」「そうですか。それは残念でしたね。ただ私はね、あなたの橘という苗字が、古い時代から、日本では源平藤橘と言って貴重な苗字とされていたのです。それで気になって、お聞きしてみたのです。」「私も自分のルーツを知りたいと思っていました。橘は花の名前だとは知っていましたが、なにかそのような意味があったのですか? 是非教えてください。」「私は『安積親王と葛城王』という本を出版したのですが、その中で、橘氏について詳細に記述していました。家に帰ったら、その本を送ります。」 そう言って私は帰国しました。そして思い切って文章を短くし、次のような大意で英文に直し、送ってみたのです。 葛城王は684年に、敏達天皇の曾孫の美努王(みぬおう)と県犬養広刀自三千代(あがたいぬかいのひろとじみちよ)間に生まれた。 注 第三十代・敏達天皇—難波皇子—栗隈王—美努王—葛城王 和銅元年(708)、県犬養広刀自三千代は、元明上皇より橘宿禰(たちばなのすくね)の姓を賜わり、橘氏の始祖となった。このとき首皇子(おびとおうじ)、のちの第45代聖武天皇が詠んだ歌が万葉集に残されている。 橘は 実さへ花さへ その葉さへ 枝に霜置けど いや常葉の木 (橘は 実まで花まで その葉まで 枝に霜が置いても いよいよ栄 える木である) (万葉集 06/1009) この和銅元年が、橘の姓の最初となる。そして天平四年(732)、葛城王は弟の佐為王と共に、臣籍降下をし、母・三千代の姓氏である橘宿禰を継ぐことを願い許可され、橘諸兄(たちばなのもろえ)と称した。この王の位を捨て、わざわざ下の宿禰の姓を授かると言う一見不可思議な行為は、 藤原氏に対しての処世術ではなかったかと推測されている。元正上皇は葛城王が橘の氏を賜与された宴会で、橘をことほぐ歌を作った。 橘の とをの橘 八つ代にも 我れは忘れじ この橘を (めでたい橘の中でも とくに枝もたわわに実ったこの橘 いつの代 までも私は忘れはしない この橘を) (万葉集 18/4058) しかしこれだけでは、橘の姓のはじめについて分かっても、タチバナさんの祖父が、北海道からハワイに来たいきさつが分かりません。そこで私はその辺りのことを、調べてみました。頃は、戊辰戦争後のことになります。賊軍とされて敗れた会津藩二十三万石は、今の青森県下北半島に移され、斗南藩三万石に減らされました。斗南とは、『北斗以南皆帝州』、つまり北斗七星を仰ぎ見るこの場所は、皆大日本帝国だ。そんな意味でした。しかし寒冷地のため、実質七千石であったと言われます。会津藩家老・北原采女の家臣、荒川類右衛門勝茂の日記には、「主食はヒエと昆布をまぜたもの。開拓地では大根、芋、それに豆類きり採れない。稲は育たず、米のメシは病人に与える分しかなかった。海岸で押目(おしめ・粗悪な昆布)を集めて食うことが多く、開拓しても作物は育たず、人々は飢えに直面した。実質七千石の収穫で、二十八万石の藩士、その家族を養うのはとうてい無理であり、ひと冬越すごとに続々と餓死者が出た。」とあります。 『みちのくの 斗南いかにと 人問わば 神代のままの 国と答えよ。』 斗南藩権大参事の山川浩の歌です。また彼は、『落城後、俘虜となり、下北半島の火山灰地に移封されてのちは、着のみ着のまま、日々の糧にも窮し、伏するに褥(しとね)なく、耕すに鍬なく、まこと乞食にも劣る有様にて、草の根を噛み、氷点下二十度の寒風に蓆(むしろ)を張りて生きながらえし辛酸の年月、いつしか歴史の流れに消え失せて、いまは知る人もまれとなれり。』とも記しています。結果として斗南藩は、威勢のよいのは名前だけという悲惨な場所となったのです。 明治六年、斗南藩の開拓は、失敗しました。『開拓は中止、生計を求めて出立するなど勝手たるべし』という解散布告が出た。手当として一人当たり三円、米五俵が支給された。斗南に移住した会津の人々のうち、3分の2は開拓失敗のあと、この地を去った。北海道へ渡って再び開拓にあたった人も多い。これら斗南藩の人たちの多くは、太櫓郡(ふとろぐん)、瀬棚郡 歌棄郡 山越郡に移り住んだ。しかしここも、安住の地とはならなかった。ここの寒さに追われ、さらに他の移住地を探す人も少なくなかったという。 この事実を基にしての、私の想像です。 『これではとても生きられないと考えたあなたのおじいさんは、会津の地に戻ろうかとも考えたかも知れません。しかし頼るべき会津藩が無くなった今、失敗者として会津には戻れないと思ったのかも知れません。ところが風の便りで、あなたのおじいさんは、福島県で勝沼富造という人がハワイ移民を募集していることを知ったのだと思います。そこで福島県に戻ったあなたのおじいさんは、この募集に応じ、ハワイに渡ったのではないかと考えています。その理由の一つとして、あなたは日系三世です。すると今、勝沼富造の孫のトーマス カツヌマが、あなたと同じヒロの街に住んでいるのですが、年齢的にも、あなたと似た年なのです。どうでしょうか、この推測。お役に立てばいいな、と思っています。またお会いしましょう。』 ところが1年以上も経ったある日、タチバナさんから次のメールが来たのです。抄訳しましょう。『祖父の名前は、Shingo Tachibanaです。福島県伊達郡梁川町関本の出身で、北海道には行っていません。北海道に住んでいたのは、祖母のSameでした。恐らく彼女は、戊辰戦争の後に行ったと思われます。 祖父は1901年か1902年に2人の従兄弟と一緒にハワイに来ました。祖父はハワイ島のハカラウに住んでいたと思います。乗って来た船の名前はわかりません。』 ーーう〜ん。私の貧しい英語力の所為で、間違ったメッセージを送ってしまったな! 大いに反省をしながら、いま懸命に、英語で返事を考えています。 <font size="4">ブログランキングです。 <a href="http://blog.with2.net/link.php?643399"><img src="http://image.space.rakuten.co.jp/lg01/72/0000599372/67/img25855a93zik8zj.gif" alt=バナー" height="15" border="0" width="80"></a>←ここにクリックをお願いします。</font>
2020.04.15
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カンボジア王国の勲章 ホノルル福島県人会85周年 ハワイ島のヒロ市で、『ハワイ島福島県人同志会』の創立110周年に招かれたのは、2008年の6月のことであった。私の書いた小説、『マウナケアの雪』の縁での招きであった。110年前は、『マウナケアの雪』の主人公・故勝沼富造が福島県から多くの移民を連れて行った年であった。その式典の帰途、ホノルルに立ち寄った私たちに、ホノルル福島県人会長のロイ・トミナガさんから、この年の10月に開かれる予定の『ホノルル福島県人会85周年』への出席を依頼されたのである。 「えっ。またハワイかい?」 ホテルで妻からそれを聞いた私は、驚いて言った。私にとって、ハワイは決して近い所ではない。むしろ遠い所である。しかしロイさんをはじめ、ジョージさん、トーマスさん、ウォルターさんなどなど、ハワイで知り合った多くの人たちの顔を思い浮かべれば、むげにも断れないなと思った。「しかし三ヶ後で、しかも遠いな。」そう困惑して言う私に、妻は、「それはあなたの決めることよ。」と言って笑った。その笑顔の裏には「私は何度付いて来てもいいわよ。」という意味が隠されていた。 帰国してからもロイさんとのメールが頻繁に往復していた。彼が特に気にしていたのは、招待状は出したが、福島県知事がこの祝典に出席してくれるであろうか、ということであった。それには次のような事情があった。 昨年、ブラジルで開かれた『ブラジル福島県人会100周年』に皇太子殿下が出席されたが、ハワイを代表してロイさんも参加した。そのとき福島県知事と同じテーブルになったのを幸いに、ロイさんが県知事に、『ホノルル福島県人会創立85周年記念式典』への出席を依頼したが、感触としては80%なので、どうにか100%にしたいということであった。それにはもう一つ、6月に行われた『ハワイ島福島県人同志会創立110周年』に福島県知事の出席を依頼したが不調に終っていることから、代りに私が知事の祝辞を持参したという事があったからである。「知事出席を100%になるよう協力して貰いたい」 そうは言われても、私にそのような政治力はない。福島県の国際交流協会を通じて、それなりのプッシュをした。しかしそれでも、県知事の出席は実現出来なかったが、副知事の出席が実現した。それでもロイさんは、大いに喜んでくれた。 ところがその頃、大分県別府市におられる無着成恭先生から手紙が届いた。カンボジアとタイの旅行に、一緒に行こうというのである。それが10月、日程として、ハワイと完全にガチンコしてしまったのである。 実は先生とは大学時代に知り合って親交を重ねており、先生のカンボジアに学校を贈る運動などにも少々協力していた経緯もあって、先生を通じてではあるが、『カンボジア王国国家建設功労勲一等章』なるものも頂いている。また先生はいろんな所でも私を『弟』などと紹介してくれている方のお誘いであるから、断る訳にも行かず、これをどう調整するか、大いに悩んでしまった。 それでも私たち夫婦が無着先生とカンボジアへ旅立ったのは、10月18日であった。この旅行以前にホノルル福島県人会に招かれていた私は、カンボジア旅行の後半とのダブりを解消するため早めに切り上げることでの予定を了承してもらっていた。しかし出発前にタイ・カンボジア国境で起きた小競り合いで、デモ隊がバンコク空港を占拠、一時閉鎖された事件があった。もしまた不測の事態が発生したら、ホノルルへ行くのが間に合わなくなると心配したが、カンボジアでの旅行は、どうやら順調に進んだ。その後、無着先生たちとも別れて成田に着き、そこで一泊したのち、ホノルルに出発した。 ホノルルの国際空港に着いたとき、空はどんよりと曇っていた。何度か取材などで訪れていた私は、珍しいなと思った。いつ来たときも『ハワイ晴れ?』であったからである。ホテルへ行く途中の車のフロントガラスには、パラパラと雨があたりはじめた。 ーー雨になったな。 私はそう思った。ホテルの部屋に落ち着いてから海を見ると、鉛色の波がゆったりと揺れていたが、水平線は煙って見えなかった。私は同行していた妻に声を掛けた。「ハワイで雨とはめずらしいな」「そうね。折角の85周年の記念日なのに残念ね」「うーん、しかし日本では、雨降って地固まる、という諺があるが、ハワイではどうかな?」 当日、私たちを車で迎えに来てくれたジョージさんと雨の諺の話になった。「そうですか。ハワイでも、雨には幸せの意味があります」彼はそう言った。 式典は順調に進んでいった。その式典の中で、不肖、私が、ハワイ移民に関連した著書、『マウナケアの雪』とその後にまとめた『我ら同胞のために〜日系二世アメリカ兵』が、ハワイ州日系人会とホノルル福島県人会の連名によって表彰されたのである。私にとっては突然の、そして思いもかけぬ光栄なことであった。お礼の挨拶に、壇上に立とうしたとき、テッドさんの奥さんが私にこう耳打ちしてくれた。「昨夜、マウナケア山に雪が降りました」「そうですか。それはいいニュースを、ありがとう」 私には、『マウナケアの雪』の主人公・故勝沼富造が、私に声を掛けてくれたと思えるようなこの偶然に驚き、急遽このエピソードを挨拶に付け加えた。ホノルルに着いたときに降っていた雨が、ハワイ島のマウナケア山では雪に変わったのであろうと思っていたからである。 ホノルルでの行事は無事に進んだ。ところがホノルル最後の日、ヒロのトーマス・カツヌマさんから電話があった。「来月(11月)15日、家族六人で日本へ行きます。」ただ、それだけの通話であった。その翌日、私たちは半月に及ぶ海外の旅を終えて家に戻った。早速確認した予定表の15日には安積高校での講演が、18日には三春観光協会で、20日は郡山自由大学でと講演予定が続いていた。 トーマス一家は自力で郡山まで来られるのだろうか? 臨月に入った娘を預かっている女房を、成田空港にまで迎えにやる訳にはいかない。そう心配する中の17日の夕方、彼らは自分たちだけで郡山に到着した。ところが18日は私の講演の日と見事にガチンコ、トーマスさんの遠縁にあたる湊さんに案内をお願いした。 19日、いわき市にあるカツヌマ家の墓参りを済ませから、彼らにも『いわきハワイ交流協会』の懇談会に出席してもらい、20日の朝、郡山駅で見送った私はその足で郡山自由大学での講演会場に駆けつけた。 24日の夕方、娘夫婦が訪ねて来て「義父が岳温泉で倒れ、救急車で二本松の病院に運ばれた。」と言う。駆けつけた病院で案内されたのは地下の霊安室であった。それから行われた弔いの一切が終わった12月4日の朝、タイに向かったと思われるころから音信不通となっていたトーマスさんから電話が入った。連日のニュースで流れていたバンコク空港の騒動に、巻き込まれていたというのである。「バンコクからクアラルンプールに脱出、いま成田に着いた。」と電話をくれた。大きく安堵しながらも、あとは娘の出産まで何事も起こらないようにと願うのみであった。 <font size="4">ブログランキングです。 <a href="http://blog.with2.net/link.php?643399"><img src="http://image.space.rakuten.co.jp/lg01/72/0000599372/67/img25855a93zik8zj.gif" alt=バナー" height="15" border="0" width="80"></a>←ここにクリックをお願いします。</font>
2020.04.01
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ハワイ島移民福島県人同志会創立110周年 ハワイ島ヒロ市のハワイ州立大学教授・本田正文教授から電話が来たのは、2001年に出版した小説、『マウナケアの雪』の取材のとき以来であるから、7年ぶりであった。 私が彼のハワイからの電話料を心配しながらの会話であったが、彼は気にすることもなく、ヒロに日系人会館を造り、そこへ移民資料館を併設したこと、『ハワイ島福島県人同志会・創立110周年記念式典』を開催すること、そのイベントに福島県民謡界の重鎮である原田直之氏を招いたこと、そしてハワイの4〜5世の青少年たちに日本の、特に先祖のルーツである福島県の歴史、文化、伝統を知って貰うことで交流を深めたいということなどを熱っぽく語って約一時間、電話はようやく終わった。 ただその電話の内容から彼が残念に感じていることは、この110周年記念式典に福島県知事の出席を要請したが、福島県議会開催中のため出席できないということにあった。それと彼の頼み難くそうな言葉の端々から感じられたことは、できれば私に10人くらいの参加者を募ってヒロに来て貰いたいということであった。そうは言われたものの、私は戸惑っていた。仮にこれが5000円とか1万円で協力を頼むのなら、何人かの友人がいないでもないが、ハワイ、それも1週間も潰してとなると、事はそう簡単ではない。彼はその私の気持ちを察したのか、それが無理なら、せめてこの記念式典が開かれることを地元の新聞やTVで報道して貰えないか、ということであった。それなら可能かも知れないからと言って、『ハワイ島福島県人同志会創立110周年ポスター』を送ってくれるように依頼した。そしてそれは、すぐにEメールで送られてきた。 私は、ハワイ島で福島県人会が開かれることをPRして、何人かでも行く人を集めようと思い、そのポスターをプリントして、新聞各社やTVに声をかけてみたが、残念ながら取り上げて貰えなかった。考えてみれば、もし報道されたとしても、ハワイ島福島県人同志会110周年記念式典のためだけに、行く人のあろう筈はないと思われた。 やむなく、自分のこのブログでもPRし、友人のHPにも協力してもらったが、参加希望者はなかった。万策が尽き、せめて私たち夫婦だけでも参加するより他ないということになったが、2人だけでは何とも本田教授の希望に沿えることができるとも思えなかった。どうにかならないかと思っていて愚妻(決して愚かな訳ではではありません、言葉のアヤです)が、「それなら福島県知事からお祝いのメッセージを預かって行ったら喜ぶのではないか。」などと、とんでもない提案をしてくれたのである。もちろん私たちには、知事との間に、そのようなことを頼めるほどの面識はない。そう思うのは簡単だが、どう実現するかはこれまた困難な問題である。しかしそうなれば、あとは『当たって砕ける』のみである。知り合いの市会議員の某氏に相談すると、彼は県会議員の某氏を紹介してくれた。早速事務所にお伺いして事情を説明すると、彼は直ぐに動いてくれ、トントンと話をまとめてしまったのである。県の側としても、行けない事情があって断ったものの「どう対応すべきか。」というところであったので、「それなら、行く人に託した方がよい。」ということになったというのである。 ようやくこれで気も晴れて、ハワイ行きが楽しくなってきた。それに丁度、私が書いて出版したばかりの『我ら同胞のために〜日系二世アメリカ兵』を持って、これの取材先でもあった第100大隊記念館とホノルルの日本文化会館を訪問し、寄贈する計画を付け加えた。こうなってくると、旅行への気持ちは高揚する一方である。そこで旅行会社に予約を入れ、準備に入った。 ところがある日、鳴りを潜めていたギックリ腰に突然襲われたのである。その痛いこと痛いこと、医者に行ったが痛みが収まらず、それでも『早く治さないと。』と気が急いで、近所の整骨院に行った。『折角、知事からのメーセージも預かったことだし、車椅子に乗ってでも。』と悲壮なことを考えたが、今度は痛みのために旅行に行く気が萎えてしまったのである。行きたいと思う気持ちもあったが、本田教授に渡布を伝える前であったことを幸いに、『早い内にキャンセルして行かないことを連絡した方が良いのではないか。』という考えが交錯した。思い余って整骨院に相談をした。彼が言うには、「旅行までに2週間ありますから、それまでには治ります。しばらく通って見て下さい。大丈夫です。」と言うのです。それで、『行く』ことを決めたが、体のことを考えて、荷物は軽くする必要があった。関係先に贈る予定であった重い本は、ホノルルに住むジョージ・スズキさん宅とヒロ市に住むトーマス・カツヌマさん宅に分散して送付し、最悪、旅行のキャンセルで費用の戻らないのを覚悟の上で支払いを済ませ、接骨院に通っていたところ、どうにか痛みが取れ、ハワイに出発することができたのである。 ホノルルで乗り継ぎ、夕方着いたヒロ空港には、本田教授とトーマスさんが迎えに来てくれていた。日本とは時差が大きいことと腰の具合が心配なので、『この日はホテルに直行する』とメールを入れていたにもかかわらず、すぐ未完の日系人会館に案内され、説明と計画を聞かされる羽目になってしまったのである。 翌日の午前中、日系人会館敷地の入り口に建立された『日系人会館』の碑のそばで、桜の木で記念植樹が行われた。予定地にはすでに穴が掘られて桜の苗が傍にあり、後はスコップで根を埋めるだけの準備ができていた。関係者共々私たち夫婦がその植樹に参加した。その後。トーマス夫妻の車で、会場のハワイ大学講堂に入った。式典は、ハワイ島福島県同志会々長のウォルター・タチバナさんによる、佐藤雄平知事の祝辞の代読からはじまり、ヒロ市長ハリー・キム氏の祝辞へと続いた。その傍には私から贈られた白黒一対の三春駒が飾られていた。原田直之さんが、私と三春駒を前に、仙台の木下駒、八戸の八幡駒と並ぶ、日本三駒の一つであることを説明してくれた。 次いで私は、この福島県人同志会と故勝沼富造との関係を会場の皆さんに話し、勝沼富造の孫であり、ヒロ市在住のトーマス・カツヌマ夫妻を紹介した。会場には、小さなどよめきが起きたような気がする。ともかくトーマスさんをみなさんに紹介できたことは、よかったと思っている。「そのような関係の人が、私たちの住むヒロにおられたことを、知らなかった。」という声が多かったのである。その後メーンイベントである原田直之一行の民謡コンサートが開かれた。この福島県を中心とした民謡の数々に対するハワイの人たちの反応に、日本とは違った深いものがあるように感じられた。 その晩の打ち上げパーティで、隣に座ったホノルル福島県人会長のロイ・トミナガさんから、「ハワイはすでに3〜4世の時代に入っているが、代を重ねるにともない、日本との関係が疎遠になって来ている。なんとかこれを修復できないかと思っている。ハワイと福島県の間で、青少年を中心とした架け橋が作れないであろうか?」との提案を受けた。そこで、それについてお互いに考え、実行に向けて連絡し合うことになった。なおこの時の記念式典の運営において、90歳を超えるご婦人がボランティアに参加するなど、福島県に対する並々ならぬ郷愁と熱意を感じさせられた。 翌日の午前中、午後のホノルルへのフライトを待つ間に、トーマスさんはホテル近くのリリウオカラニ公園に私たちを連れていった。ハワイ王朝の最後の女王の名を冠した広い公園のそこここに、石灯籠が建てられていた。これは日本から移民を送り出した各県が、自分の県の名を入れて1つずつ寄贈したものだという、前日も彼は私たちにそれを見せたくて探したのであるが、日本語が読めないので分からなかったという。今度は私たちが一緒だったので、苦もなく見つけ出すことができた。「場所を憶えた。」トーマスさんはそう言って喜んでくれた。 帰国の中継地になるホノルルに着いたこの日は、日曜であった。ホテルでのんびり一泊した翌朝、ジョージさんが迎えに来てくれた車で、第100大隊記念館を訪れた。『我ら同胞のために〜日系二世アメリカ兵』を書くときに、大変お世話になった所である。除隊兵会長のロバート・アラカキさん、そしてこの本の主人公でもある90歳を超えたロバート・サトウさん、それに事務局長のアマンダ・ステーブンさんの出迎えを受けて暫し歓談。帰り際に第100大隊のメダルなどの記念品を頂いて、ここを辞した。 その日の夕方、ジョージさんの設営により、ワイキキの一流ホテルでお別れの夕食会を開いてくれた。ジョージ夫妻、ロイ・トミナガ夫妻、テッド・ツキヤマ夫妻、それに私たちの8人であった。テッド・ツキヤマさんは、『我ら同胞のために〜日系二世アメリカ兵』のもう一人の主人公であり、MSIのアーネスト・トヨハラのモデルになって頂いた方である。私たちにとっては旧知の間柄なので、気の置けない、楽しい夕食会となった。このとき私は、皆さんに『マウナケアの雪』と『我ら同胞のために〜日系二世アメリカ兵』を贈った。この『我ら同胞のために』に目を通していたツキヤマさんが、15頁にあった写真を指し示しながら驚いたように言った。 「橋本さん。この写真(陣地構築に汗を流すROTC)はどこにありましたか?」「この写真は、昨年ハワイに来たとき『第442連隊創立第64回記念パーティ』に招かれました。そのとき、『USサムライ・イン・ブリュエール』の著者でフランス人のピエール・モーリン氏を紹介されたとき、その著書を頂き、写真の転載の引用の許可を得たものです」「そうですか。この中に私がいました、この写真は、実は私が撮ったものです」「えーっ」 その奇遇に、みんなが目を丸くした。 その後、ハワイと福島県との交流が話題となった。すると今度は、ロイさんが話をはじめた。「8月になると、私の親戚の子が英語の教師として福島県の郡山高校に赴任することになりました」 それを聞いて私たちは、またも「えーっ」であった。ロイさんの話によると、今回ハワイから三人が、郡山、会津、相馬の3校の英語教師として赴任して行くという、それなのに彼の親戚の子が郡山に行くという奇跡に、ひとしきり話が盛り上がった。私は郡山に来たら、是非、私に連絡をくれるようにと言って名刺を渡した。 翌日の朝、ホテルを通じて空港までタクシーを手配してもらった。迎えに来てくれたタクシーを見て驚いた。TVで見たことのあるあの大きいリムジンが来たのである。慌ててホテルのフロントデスクに掛けあった。「あんな大きな、しかも高い運賃のリムジンのタクシーを頼んだ憶えはない!」 彼女がにこりとして言った。「ダイジョウブ、ネダン オナジネ」 帰国してからも、結構忙しい日が続いていた。先ず知事へのお礼があった。ハワイ島福島県人同志会から預かってきた記念品やパンフレットなどを、お世話になった市議の某氏と県議の某氏に寄託した。ハワイでの様子を報告したとき、お世話になった市議の孫が、郡山高校の英語科に通っていることが分かった。ここにも不思議な縁があった。これらのことがハワイと福島県の架け橋になればと、私は秘かに期待している。そしてハワイへ行く前に私を襲っていたあのぎっくり腰の強烈な痛みは、嘘のように治まっていた。 <font size="4">ブログランキングです。 <a href="http://blog.with2.net/link.php?643399"><img src="http://image.space.rakuten.co.jp/lg01/72/0000599372/67/img25855a93zik8zj.gif" alt="バナー" height="15" border="0" width="80"></a>←ここにクリックをお願いします。</font>
2020.03.15
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未来への架け橋 2013年10月、福島県知事を招いて、ホノルル福島県人会創立九十周年式典がアラモアナホテルで開かれた。そして年が変わって間もなく、ロイさんからメールが届いた。『九十周年式典に参加した有志・約四十人で、福島県知事へのお礼を兼ねて福島県を旅行したいので・・・』という協力要請であった。 ——さあ大変! 急遽私と、福島市に住みホノルル福島県人会会員でもある森口マリアンさんと、『いわきハワイ交流会』の鈴木常雄さんの3人とで連絡を取り合い、計画を立てはじめた。そして翌年の四月、ハワイから県人会のメンバー約40名が、十日間の日程で福島県へやって来たのである。 4月11日、彼らは県庁で佐藤知事と会見、次のような話を頂いた。「ハワイから三十人以上のグループで、しかも十日間も福島県に滞在されるのを歓迎します。放射線被害を受けた福島県ですが、あなたがたが来られたそのことだけで、農産物など食物についても安全だと世界に知らせることになります。福島県に対しての風評払拭に大きな力になるあなた方のふるさと訪問旅行に感謝します」 さらには、行く先々で、次の方々に歓迎して頂いた。松本友作 前福島県副知事。南相馬市副市長。伊達市副市長。郡山市市長夫人。三春町長。いわき市副市長。 この十日に渡る旅行の間には、いくつかの行事があった。福島県知事を表敬訪問し、郡山の県農業センターで放射能の勉強をし、福島市の桜の聖母女子短大やいわき市の『いわき海星高校』を訪問して寄付をしてくれた。ちなみに桜の聖母女子短大は、太平洋戦争開始時に、敵性外国人とされたアメリカ人などを収容する施設とされた所であり、また県内唯一の水産高校である『いわき海星高校』は、漁業実習のため毎年訪れるホノルルで、福島県人会の温かい歓迎を受けている学校です。それにこの学校は、東日本大震災の大津波で、甚大な被害を受けていたのです。その他にも私たちは、来日前に依頼のあったメンバーのルーツ探しに奔走、依頼のあった次の四人全員を捜し当てることができた。そのうちの三人をそれらの親戚に会わせ、墓参りなどしていただけたが、残念ながら日本側の一人だけは都合が悪く、会わせることができなった。 Kenneth Akasaka 桑折町 赤坂恒雄 Dave Sharon Ansai 三春町 安斉芳夫 Mel Yvonne Watarai 三春町 (渡会)松井邦雄 Aurleen Kumasaka 二本松市 (熊坂)山本正一 今回のツアーには、帰布二世でホノルルでの取材にも応じてくれたヒロシ・ヨシダが、彼の息子のロナルドと一緒に参加していた。帰布後はじめての福島訪問であったと言う。彼らは、森口マリアンの父と弟である。 会津芦の牧温泉の和室に一泊したとき、私は彼らとロイさんと5人の相部屋となった。ヒロシさんはその旅行の間中、、ハワイで私の取材に応じていたにも関わらず、『帰米二世』であった時代の話を一切しなかった。私もまたそのことを口にしなかった。そして彼は何十年かぶりの帰郷であったにも関わらず、日本が、そして福島が変わったという話もしなかった。したのは、子どものころの話だけであった。それは故郷の川の話であり山の話であった。彼は私に同じ話を何度もするので、娘のマリアンが「それは先程、橋本さんに話したでしょう!」と言って止めさせようしたのですが、私はそれを手で遮った。私は彼の表情に、厳しさを感じたからである、その厳しさは、『帰布二世』として、そしてあの戦争を差別の中で耐え抜き、そして生き抜いた者のみが持つ、厳しさであったのかも知れない。この旅は、帰布二世の芯の強さ、そしてそれを受け継ぐ三世や四世たちの愛郷心の強さを改めて感じさせられる旅でもあった。 最近そのヒロシさんから、嬉しいメールが届いた。それには、ホノルルに住んでいる孫娘に赤ん坊が生まれて自分は曾祖父になったこと。彼が中心になって、福島旅行の際に三春デコ屋敷で習い覚えたあのユーモラスな『ひょっとこ踊り』をみんなで楽しんでいるということなどが書いてあった。戦後70年にして、ようやく彼は帰布二世としての心の葛藤から解放されたのであろうか。私は、そうであって欲しいと願っている。そして彼ら帰布二世に限らず、このように行動力のあるハワイの日系人を見て、日本に住む我々も、彼らが望む福島との絆を、大事に繋ぎ止めなければならないのではないかと考えている。 近年、三春国際交流協会・通称ライスレークの家の庭に、ハワイ移民の父と言われた勝沼富造の記念碑が建立された。三春町役場の左隣である。これはハワイの人たちとのつながりを大事にしようと考えた交流協会長の石川直子さんの発案によるものである。ただしこれには、伏線があった。明治時代、すでに富造の父・直親の記念碑が三春大神宮の境内に建立されており、大正になってからではあるが、富造の兄の重親の記念碑が、北野神社の境内に建てられていたのである。今回、富造の記念碑が建てられたことで、親と二人の息子の記念碑が同じ町に建てられたことに、強い縁(えにし)を感じている。 <font size="4">ブログランキングです。 <a href="http://blog.with2.net/link.php?643399"><img src="http://image.space.rakuten.co.jp/lg01/72/0000599372/67/img25855a93zik8zj.gif" alt="バナー" height="15" border="0" width="80"></a>←ここにクリックをお願いします。</font>
2020.03.01
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第100歩兵大隊記念館にて 平成十九年三月、私は取材のため再びホノルルを訪れた。当日は時差の関係があったので、予定を入れずホテルでゆっくり過ごしていた。ベランダへ出て行った娘が、驚いたように声をかけてきた。「お父さん、虹よ。虹!」「ふーん」ベッドで横になったまま、私は気のない返事をした。「しかも二重の虹よ!」私は、のそのそと起き出した。ダイヤモンドヘッドをバックに、それは鮮やかに出ていた。「ほお、案外低い所に架かるんだな。まるで触れるかのようだ。歓迎の印かな。」「そうよ、家の家族は日頃の行いがいいから。」 私は軽口を言う妻と娘に、カメラのレンズを向けた。ベランダから目を下にやると、水泳やサーフィンを楽しんでいる人たちの姿が見えていた。「日本人の観光客も多いし言葉も通じて・・・。老後はこんな所に住めるといいわね。」 そう妻が言った。「そうか、それならジョージさんにいい家を探してもらうか。」 辛酸をなめつくしたハワイの日系人のことを考慮すれば、観光に来る日本人はもう少し謙虚であるべきと思っていた私は、冗談で応じた。 翌日の約束の時間に、私たちは、ホノルルのカモク・ストリートの第100歩兵大隊資料館を訪ねた。すでにホールには、十五人位の人が待っていてくれた。除隊兵たちばかりではなく、戦争でご主人を亡くされた婦人たちもいた。「あなた方のためにみんなで作ったのよ。食べなさい。」 そう言ってくれる小さなホールのそこここで笑い声が起き、同窓会のような雰囲気であった。私たちは、丸い大きなテーブルを囲んだ。 R 僕は野戦病院で治療を受けた後、北アフリカの病院にヘリコプターで運ばれ、一ヶ月程病院生活を送ったが、本格的治療を受けるために軍用船でアメリカ本土に帰された。約十一ヶ月の間病院生活を送ったが、それが辛かった。入院している間にもハワイから一緒に出征した友だちが敵の銃弾の下をかいくぐって戦っているのを考えると、本当に気がもめた。「早く直してみんなの所へ戻り一緒に戦いたい」と思いながら安全な病院のベッドに横たわっているのが何とも切なかった。そのようなとき、何気なく窓から外を見ていると、雀が数羽、忙しげに餌をついばんでいたそんなとき作った短歌が、これです。 ふと見れば翼濡れいる雀の子恋い来たりしか一人居の窓——戦争が終わって、ハワイに帰ったときの様子を教えてください。W みんな別々に帰った。——えっ、別々って・・・バラバラで? 個人個人で?W そう。——では第522野砲大隊は?W それもバラバラ。——それではハワイに帰ったとき、凱旋帰国の歓迎式はなかった?W なかった。第442連隊は、ワーって帰ってなかった。——それでは第100大隊はハワイから行くときそーっと行って、こんなに沢山手柄を立てて、帰ったときもまたそーっと?W そう、可哀想ね。 このようにイタリアで、フランスで。ドイツで、そしてアジアで戦ったどの日系人部隊からも、自らの戦功を誇る言葉を話す者は誰一人としてなかった。それは日本人特有とされる『謙譲の美徳』からなされたとされる考えもあろうがそればかりではなく、日本人への人種差別、それに基づく強制収容などへの反発が、『アメリカ国のため』という一事に昇華したためであったのかも知れない。彼らがあの激烈な戦いを通じて体験したのは、多くの友人の戦死と戦傷の実態であった。矛を収めてはじめて知った第100歩兵大隊の死傷率314%という数字に愕然としたのは、おそらく彼等自身であったのではあるまいか。彼らがハワイに戻ったとき、何の凱旋帰国のセレモニーもなかったという。このことは何を意味するのであろうか? そしてここで言う314%という死傷率は、31・4%の間違いではない。最初に第100大隊が編成されたときの全隊員の三倍以上の死傷者が出た、という意味である。 ある除隊兵が言った。「我々は原爆を落とした側だ。今でも日系アメリカ人としての気持ちを聞かれることがあるが、答えるのは本当に難しい。日本では女性までもが竹槍で特攻攻撃をすると噂されていた。それが恐怖であったとしても、自分たち日系人が日本の破壊に加わったという罪悪感から逃れられないでいる。」 ——あなたは何のために戦ったと思いますか? アメリカ? 家族? それとも日系人のため?H 日系人だろうね。100大隊帰米が多かったから・・・。帰米二世は日本語も英語も半端だ。可哀想だよ。それで(日本に)帰った人がいる。みんな死んでしもうた日本で、日本の戦争日本の 兵隊・・・。それで日本は何のために戦ったのですか?——・・・。(戦後の日本を知っている私は、返事に窮していた)G 橋本さんの質問は、ハワイの一世と二世は戦争の時から今までいつも考えています。一世と二世は、日本がアメリカを攻撃することはほとんどしまい、出来ない、不可能なことと思っていまし た。何故そう思ったかは、小さい、資源のない、中国での戦争に疲れた国は、アメリカみたいな大きい天然資源が余るほど多い国に勝つことは不可能と思っていました。山本五十六大将もアメリカを見学して、同じ結論でした。二世は日本、祖先の国を愛していました。その代わりアメリ カは自分が生まれた国、食べさせてくれる国、そして教育してくれた国には、愛の上に恩と義理がありました。日本人はこの概念をよく理解すると思います。でも一世も、養ってくれている国 アメリカ、そして子供が生まれた国アメリカを、傷つけることは絶対出来ないことでした。日本人は一番これを理解する人々です。 しかし日本で生まれて教育を受けた一世は、日本が戦争に 負けると信じませんでした。信じたくない状態でした。日系人たちは、アメリカと日本が戦争をするのは本当に嫌なアイデアでしかないと思っていました。 なおこのジョージ・スズキはハワイの医師である。彼は戦後長期間にわたって、祖父母の国・日本の広島原爆病院に関わって貢献し、平成十七年の秋の叙勲において『旭日双光章』を受けられた。 ——それから私はいま、日本に住んでいるウィスコンシン州ライスレーク市出身のジーナ シーファーに、第100大隊の歌を知っているか聞いてみましたが、分かりませんでした。◯ バトルフィールドではあまり日本の歌を歌いませんでした。ハワイの日系兵隊は、ウクレレ、ギター、ハーモニカを戦争に持って行って、ハワイの歌を歌いました。◯ ハワイが懐かしくなりましたから。流行っていたアメリカのフォークソングも、歌っていました。 ——第100大隊の歌はいつ頃作られたものですか?○ あれは戦争が終わってからかな・・・。——えっ、戦争が終わってから作られた? あれは戦争中に士気を鼓舞するために歌われたのとは違いますか?◯ いや、歌わなかった。——じゃ、第442連隊の歌は?◯ あれもそうだと思いますよ。——へーえ、驚いたな・・・。そうだったのですか。◯ 歌わなかったけど、ゴーフォーブロークという言葉はありました。(見せてもらった歌詞は、第100大隊、第442連隊とも、よく似ていた)◯ ギャンブルのダイスゲームからゴーフォーブロークの言葉がとられた。——それにしても、詩も詩の流れも似ていますね。◯ メロディも同じだよ。——えっ、メロディもですか? ここでその歌を、みんなで歌ってみてくれませんか? 誰かがウクレレを持ち出し、みんなで第100大隊の歌を歌ってくれた。◯ 戦後は日本の歌がとても流行った。◯ 『美空ひばり』が来たしね。◯ ボンダンスの太鼓の音はいいね、ノスタルジーを感じる。D 橋本さん、これ(第100歩兵大隊資料館のバッチ)を記念に差し上げます。◯ おー・・・。(拍手が起きた)——あぁ、これにもリメンバー・パールハーバーと書いてありますね。ところでこのリメンバーという単語はアメリカの歴史に何度か出てきますね。例えば対スペイン戦争の時のリメンバー・メイ ンとか戦争に関して使われたと思うのですが?R そうですね。リメンバー・ザ・アラモとか・・・。リメンバーには、単に『記憶する』という意味ばかりではなく、復讐という意味が隠されています。——復讐?・・・ですか。なるほどね。それでアメリカが日本に対してその単語を使った理由が分かったような気がします。R メイン号は当時のアメリカが建造した最大の戦艦で、海軍の象徴でした。一八九八年にハバナ港に入港したこの船が爆発し、スペインに攻撃されたとして戦争になりました。リメンバー・ザ・ アラモもそうです。西部劇のアラモの砦やデビー・クロケットで有名です。——するとリメンバー・パールハーバーも同じ流れに・・・?R そうです。我々は日本に復讐をしたいという意志を、アメリカという国に知らせる必要がありました。S 僕は第46師団に入って、アメリカの命令でスパイの立場だったの。こんなに年が過ぎて、はじめて言うの。僕は辛い立場でしたの。 サブロウ・ニシメは皆の前で立ち上がり、60年ぶりの朴訥な日本語でこう言った。S やっぱりこういう風な日本人の大和魂を思っている連中の間で、このような仕事やってきた。これは今60年以上過ぎているから言うが、友だち、誰も知らないよ。はじめて今、話してる。 一瞬、周囲の空気が固まったかに見えた。その微妙な雰囲気の中で、私はスパイの意を問えないでいた。同じ部隊の彼らは当時知っていたのであろうかそれともはじめて知ったのであろうか。しかし日本に戻ってから調べてみると、ニシメの言う第46師団は第二次世界大戦時の欺瞞用の師団で、その実体はなかったと言う。彼は憲兵の役ででもあったのであろうか?——ツキヤマさん、失礼ですが、あなたがビルマにいたとき、東京ローズの放送を聞いたことがありましたか? それを聞いてどう感じましたか?T 兵役についていた間、私は東京ローズの放送について何も知りませんでした。我々のラジオは厳密に軍の公式の機能しか含まれていませんでしたから受信周波数がまったく違っていたのです。——すると一般兵士がラジオを携行していたとは考えられませんから、日本軍部の思惑はまったく外れていたことになりますね。T そうなります。——ところでツキヤマさんは『ワン プカ プカ に敬礼を』という文を『Japanese Eyes American Heart 』に書いていますね。 ギニーピッグ・バタリアンは挫けない 祖国の愛と恩恵を 深い感謝に包み込む。 心からの敬礼を ワン プカ プカ のこの旗に。 このギニーピッグの意味が分からないのですが。T ああそれについて我々は、『捨て石部隊』という意味で用いました。 (注)Guinea Pig =テンジクネズミ。モルモットと思われているが 全く別の実験用動物。 ワン プカ プカ=プカはハワイ語で穴。0を塹壕にかけた表 現。○ 日本は戦争に負けて勝った。——そうかも知れません。◯ しかし考えてみると、日本の教育程度は高いのに、なぜ戦争に踏み切ったのですか?——当時の日本では、外国からの放送を聞くことや新聞を見ることを禁じられていました。外国からの短波放送を聞くと、逮捕されました。ですから政府や軍部からの情報しかありませんし、「勝った勝った」と報道されましたから、そうだと思っていました。戦争中、私は国民学校(小学校)三年生でしたが、先生に「この戦争は百年戦争だ、お前らが天皇陛下の御為に命を捨てる時 間の余裕は充分にある。しっかり勉強しろ!」と教育されていました。◯ なるほどね。——国民に本当のことを知られて戦争に反対されるのを恐れた日本は、負けても勝ったと放送していたから、国民は本当のことを知りませんでした。政府を批判する人は、すべてアカ(共産主義者)と呼ばれて検挙拘束され、拷問を受けました。◯ あー、困ったもんだね。——それに兵隊たちも負けたことは「軍事機密だから家族にも言うな」と命令され、場合によっては、隔離収容されていました。ですから国民の誰もが、本当のことを知りませんでした。◯ 恥ずかしいが私の親も『日本が勝った組』だった。四〜五人寄って毛布をかぶって日本のレディオ聞いて、「なんで勝っている日本が負けた?」と言っていた。——一方的な情報とは、そういうものかも知れません。◯ 僕がユニフォーム(軍服)着ていたのに親父が引っ張られて・・・、そういうこともあったんだ。◯ 日本ってどう書くか? 日の元だ。日の元の国のお日様がなくなったらどうなるか? 親父さんのいない家庭はあり得ない。日本のない世界の存在はあり得ないって教えられた。——なるほどね。日本で私たちも、同じような教育を受けていました。「天皇は現人神である。神様の統治する神の国だから負ける訳がない」(笑)と・・・。ひどい教育ですね。でも私たち子どもは、そんなものだと素直に受け入れていました。(爆笑)◯ そうか。しかし我々も覚えさせられたな。神武、綏靖、安寧、懿徳・・・。 私は彼らが延々と続ける天皇の諡号の記憶に、ハワイにおける戦前の教育を隙間見る思いであった。——ブラジルでは『勝ち組と負け組』が喧嘩をして、殺人事件まで起きたそうです。◯ それは知らなかったね。ハワイではそれはなかった、しかしホノルルのアレワの丘に『日本が勝った組』が毎日のように集まって、日本の軍艦が自分たちを迎えに来るのを見ようとして待っていた。——そうですか。日本では八月十五日に天皇が「耐え難きを耐え、忍び難きを忍び」と放送したので負けたと分かった人は多かったのですが、「耐え難きを耐え、忍び難きを忍」んで戦えと解釈した人もいました。◯ 僕は戦後の日本の町で「お前は日系人か?」と聞かれ「そうだ」と答えると、「敵として戦ったあげく負けた国にやってきて、お前は楽しいのか」と責められた。何とも答えられなかった若き日の自分が、今も情けないよ。 彼は寂しそうにそう言って、肩をすくめた。◯ しかし我々は祖国のために戦うことができたのを誇りに思う。R 我々は見かけこそ日本人だが、れっきとしたアメリカ人だ。忠誠心を持ち、祖国を守るという義務を果たしただけだ。戦後しばらくしてから、二世という単語は、我々に誇りを与えてくれる単語となった。すなわち、彼らが、我々がアメリカの地で生まれたアメリカ人であるということを認めてくれるようになったからです。 (D ドロシーラ・タナカ。 G ジョージ・スズキ。 H ヒデオ トウカイリン。R ロバート・サトウ。 S サブロウ・ニシメ。 T テッド・ツキヤマ。 W ウォーレン イワイ。 なお○印は、資料館での会合の話であったので、発言者が特定できなかったことによる) 私が第100大隊資料館を辞する際、彼らから「いつ、本が出来る?」と尋ねられた。返事に窮したが、彼らの年齢はすでに八〇歳を超えている。「ハワイは虹のきれいな所です。本の題に虹を使うといいよ」そう言ってくれる人もいた。 その後テッド・ツキヤマから、あのとき言い足りなかったからとして、彼の話が載った新聞、Hawaii Pacific Pressが送られてきました。抄訳します。 『オアフ島のノースショアにあった機関銃陣地での話です。第298歩兵隊の兵士2人が守備についており、一人はハワイ人、もう一人は二世でした。日本軍の攻撃に備え、今か今かと待つこと何週間。依然として敵は現れません。そこで、ハワイ人の兵士はずっと頭を離れなかった疑問を二世兵士にぶつけます。「おい、もしあいつらが来たら、おまえはどっちを撃つ?あいつらか?それとも、おれか?」 それに対し、日系兵は全二世を代弁し、憤然として答えます。「馬鹿か、お前は。おれもお前と同じアメリカ人だぞ!」 この逸話で重要なのは、二世の答えではなく、ハワイ人兵士の質問の方です。なぜなら、これは、真珠湾攻撃後、日系人以外の多くの人々がたとえ口には出さずとも、ずっと抱き続けていた疑問だからです。「おまえたちは、どっちの味方なんだ? 何に向かって、誰に向かって忠誠を誓うのか? おまえたちは信頼できるアメリカ人なのか?」第二次世界大戦中の忠実で勇敢な働きと忠誠心の記録、それが「おまえはどちらを撃つのか?」という問いに対する二世兵士たちの明確で断固とした回答であり、これが今回の私の話のテーマでもあります。 MIS(陸軍情報部)については、対日戦争時の諜報機関ということでずっと秘密にされ、公に語られることはありませんでした。私たちは海外に送られる際に、「君たちが何者で、どこへ行って何をするか、誰にも言ってはならない。」と命令されました。しかもなぜか、二世がMISで働いていたことは、戦後長い間秘密にされました。ジョセフ・ハリントンの『ヤンキー・サムライ』の出版によって、初めて日系二世のMISにおける活躍が明らかにされたのです。 <font size="4">ブログランキングです。 <a href="http://blog.with2.net/link.php?643399"><img src="http://image.space.rakuten.co.jp/lg01/72/0000599372/67/img25855a93zik8zj.gif" alt="バナー" height="15" border="0" width="80"></a>←ここにクリックをお願いします。</font>
2020.02.15
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戦後のハワイ 「今でも100隊の寡婦で、週に二回欠かさずお参りに来る人がいます。ここにはホノルル出身者が多く、祀られているのです。それぞれの島にも国立墓地があります。親がお参りし易いように、出身地の島に祀った人も多いのです。」 (ドロシーラ・タナカ) 戦死者の親たちの言葉が残されています。 ホノルルの自宅で次男の戦死を知らされた父親が「死にゃせん、死にゃせん。」と繰り返しながら、台所の丸テーブルの周りを何時間も回り続けていた。 (L中隊・ノゴル・フジナカ軍曹の父) コナのゴロウ・マツダ一等兵の遺族からは、丸い黄銅の壺に入って五男が戻った時、山口県大島出身の今は亡き母が「これが五郎ちゃんか?」と絶句した話を聞いた。母は息子の骨の一片を、つかれたごとく口にすると、いとおしげに噛み、呑み下したという。 同じコナの故ツヨシ・イワモト伍長の母ミサオは、「やはり早く亡くなる子だった。」と思えるほど優しい長男だったと語る。 アイダホからの故キヨシ・ムラカミ一等兵の母・家野(やの)は、本人が行きたくて志願しての戦死だからと自分に言い聞かせてきた。「正直な話、いまだに諦めきれん。20歳でしたがなあ。」そう語った時、いまだに声をひそめて回りを見回したのが印象に強く残っている。 沖縄からの移民であったシンエイ・ナカミネ二等兵の命日は6月2日、連合軍がローマに入城の二日前、第100歩兵大隊がついに第5軍にローマへの引導を渡す戦闘での死であった。DSC(殊勲十字章)を、シンエイの形見として残している。小さい時から文句一つ言うことなく働いてくれた孝行息子の軍服姿の写真の額を母のウシは、胸にかき抱くようにしてから私をじっと見た。 「お国のためじゃけに・・・」 喉にからむような小さな声で一言そう言った。涙がにじんでいた。沖縄に住んでいた家族は、アメリカ軍の沖縄上陸作戦で全滅した。まだ元気だったウシの老母も、姉とその子供たちも皆、アメリカ軍の沖縄上陸作戦に巻き込まれての犠牲であった。日本帝国陸軍の最後のあがきは住民を戦禍に巻き込み、死者十数万人を出すに至っている。米軍の集中砲爆を逃げ切れなかったのか、壕の中で自決したのか、故国の家族の最後を、仲嶺ウシは知らない。 (ブリエアの解放者たち) 亡き人の かたみとなりて 朝夕に 我が眼に触るる ものみな悲し 一区 岡田文枝 ハートマウンテン収容所新聞 1945/3/10 戦後になって、イタリア語で書かれた手紙が、リチャード ホンダの妻に届けられた。 『優しいご夫人。八日以前、山を登っての戦いで塹壕が見つけられました。その土砂を取り除いた塹壕の中に、あなたの夫のご遺体がありました。認識番号・#30,100,958,T-43 リチャード ホンダでした。 決まり言葉ですが、私はローマでアメリカのコマンドに知らせました、そして彼らはすぐにご遺体をアメリカの墓地に持って行きました。 私はイタリアからあなたに弔辞を送っています。 ポターニ アントニッチオ』 その後の平成十八年八月十五日、福島民報紙上の『語り継ぐ平和』に、私がハワイで取材した『日系人部隊』が掲載された。そして何日か後に、福島市の佐藤ムツ子さんという方から電話が入った。「私の叔父が第100歩兵大隊に参加していてイタリアで戦死しました。あなたの書いた本(マウナケアの雪)を譲って頂きたいのですが・・・」私は、当時執筆中であることを話しながら様子をお聞きしたところ、「知らされた昭和二十五年頃、私は小学校低学年でよく憶えていないのですが、イタリアの農夫が農作業中に遺体を見つけ、残されていた認識票で叔父だと分かったそうです。そのことをハワイに住んでいた叔父の父・清三郎が知らせてくれました。叔父の名は佐藤実です。」 私はその話をホノルルの第100歩兵大隊資料館に問い合わせをしたが要領を得なかった。メールの遣り取りをしている間に、佐藤ムツ子さんからパンチボウルに埋葬されたときの古い写真のコピーが届き、裏をみると本田実と書いてあった。「アッ、ご自分の姓の佐藤と間違えられたか。」と思った瞬間、私はロバート・サトウの話していたリチャード ホンダの名を思い出した。佐藤ムツ子さんに確認したところ、「英語名は、まさしくリチャードでした。リチャード ホンダでした。」ということであった。その後、第100歩兵大隊資料館から送られてきた資料とロバート・サトウ氏からの手紙を和訳し、福島市のお宅まで届けに行ってきた。福島市には、彼の墓が作られていた。戒名は『勇秀院義豊良稔居士』であった。送られてきた遺髪を祀ったという。 平成十九年三月、取材のため再び渡布した際、私はロバート・サトウに古い写真を見てもらった。彼が言った。「そうですか。リチャード ホンダはイタリアに埋葬されたとばかり思っていました。それで、彼の遺骨は福島に運ばれたのですか?」「いいえ、そうではないようです。佐藤ムツ子さんの話によると、遺髪を祀ったと言っていました。それでお墓を作ったのだと思います。このようなとき、日本の習慣として、魂が家に戻ってくるという考え方があるのです。太平洋戦争で多くの日本人が死にましたが、遺骨の回収もされないまま、このようにして祀られた方が大勢います。」 ロバート サトウが、その時の様子を話してくれた。「われわれは小さな崖の下に小さな塹壕を掘った。しかしそれは、安全なものでものではなかった。リチャードと私は銃撃にさらされていたので、小さくしか掘れなかった。しかし彼は速く疲れたようでした。そこで私は彼に『もう一つの塹壕を掘り終えるまで、私の塹壕に横たわって休むように』と言いました。午後の三時か四時の間でした。敵の砲弾がわれわれの背後の小さな崖に着弾して爆発し、崖を崩しました。ホンダと私は、瓦礫と石と泥の塊に覆われました。それでも私が埋まったのは首まででしたが、リチャードは完全に埋まっていた。私は彼の足の動くのを感じたが、すぐに動かなくなった。リチャードは、微笑みを絶やさない優しい心根のいい奴だった。君のとてつもなく大きな業績は、われわれすべての高い賞賛と深い愛情とともに、長く記憶されることになるであろう。」 1943年5月以降、第100歩兵大隊や第442歩兵連隊の訓練を受けたキャンプ マッコイは日本兵の捕虜収容所になった。そこには真珠湾攻撃のとき捕虜となった特殊潜航艇の酒巻少尉の他、約50人の日本兵が収容されていた。ちなみにこの施設は、現在はまったく使用されていない。なお、『ウィスコンシン〜第二次世界大戦の内幕〜戦争の囚人キャンプ』(著者 ベティ・コーレイ)によると、ウィスコンシン州内には三十八ヶ所の囚人キャンプがあり、そこの捕虜たちの大部分が農場に入ってエンドウ豆や他の農作物耕作の支援をさせられていた。これら捕虜の多くは居酒屋にも出入りが許され、ときにドイツの捕虜は地元の若い女性たちとデートさえして地元と溶け合っていた。しかしこのようなドイツの捕虜と一般住民の親密さは、ヨーロッパやアジアで戦っていた兵士をもつ家族や他の住民との間に、悶着を引き起こすことにもなったという。 戦後、日本本土空襲の指揮官であったカーチス ルメイ大将は、回想記のなかで次のように述べている。「私は日本の民間人を殺したのではない。日本の軍需工場を破壊していたのだ。日本の都市の民家は全て軍需工場だった。ある家がボルトを作り、隣の家がナットを作り、向かいの家がワッシャを作っていた。木と紙でできた民家の一軒一軒が、全て我々を攻撃する武器の工場になっていたのだ。これをやっつけて何が悪いのか・・。」 私はのちになって、ロバート サトウに、戦後に作った歌を聞けばよかったと思った。しかしそれを思ったとき、彼はすでに、鬼籍に入っていた。 そして忘れてはならない人に、ダニエル イノウエがいる。ハワイの日系二世であった彼は、第100大隊で従軍し、イタリアにおいてドイツ軍と戦った。そのドイツ軍のトーチカ群を攻撃した際、手榴弾を投げ込もうとして右腕を振りかぶったところへ、ドイツ軍兵士が発射した小銃弾がその右腕に命中して切断した。イノウエは足にも負傷したが数多くの栄誉を受けた。アメリカ陸軍での最終階級は陸軍大尉であった。戦後、彼は1963年から50年近くにわたってアメリカ上院議員に在任、2010年、上院仮議長に選出され、亡くなるまでこの職にあった。その彼を顕彰して、それまでのホノルル国際空港が、『ダニエル K イノウエ国際空港』と変更になった。 <font size="4">ブログランキングです。 <a href="http://blog.with2.net/link.php?643399"><img src="http://image.space.rakuten.co.jp/lg01/72/0000599372/67/img25855a93zik8zj.gif" alt="バナー" height="15" border="0" width="80"></a>←ここにクリックをお願いします。</font>
2020.02.01
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太平洋の諜報戦 アメリカ陸軍情報部(Military Intelligence Service, MIS)は、日本の敵意を予想して設立されたMISLS(軍事情報サービス語学学校)が前身である。それが真珠湾の攻撃直前の1941年11月1日に、アメリカ第4軍の管轄下のMISとしてカリフォルニア州のプレシデオに設立され、開戦と同時に戦争省の直轄となってミネソタ州ミネアポリスに移されたものである。 MISへ入ったのは、帰米二世が多かった。彼らが日本で受けていた教育と、堪能な日本語が利用されたのである。それでもMISに入るには、テストがあった。それは日本軍から鹵獲した、『作戦要務令』の英訳であった。作戦要務令は、大日本帝国陸軍の軍令として、陣中勤務や諸兵科の戦闘について、訓練方法等を示した戦術学の教範であった。MISでの授業は、軍事専門語、地理学、地図の判読、無線の監視、暗号解読、通信機の使用法と修理、日本軍の戦力組成、捕獲書類の分析、捕虜尋問の仕方、調書の書き方、さらにはハーグ陸戦条約、捕虜の扱いを定めたジュネーブ条約など国際法、その他にも日本の社会、政治、経済、文化、教育、習慣などにも及ぶ多岐なものであった。MISでは午前中は授業、午後は歩兵としての戦闘訓練に当てられた。戦闘訓練は、最前線で戦うためではなく、基地が日本軍の攻撃を受けた際に身を守るため、と説明された。 しかし彼ら日系二世に対するMISの対応は、甘いものではなかった。白人兵のガードがついたのである。指揮官のなかには情報兵を信用せず、言語能力を活かす任務に付けること拒んだり、日系人への嫌悪をあらわにする同僚兵士もいたからであった。トイレに行く時までも付いてきた。日系二世の情報兵を、味方であるアメリカ兵から守るという皮肉な形であった。 太平洋戦線には、MISの日系二世の兵士で編成された語学要員部隊が派遣され、翻訳や情報収集、文書の分析、投降の呼びかけ、捕虜の尋問といった任務に従事した。1943年1月には、陸海軍合同で、秘密のうちにサンフランシスコ州トレイシーに秘密捕虜尋問所が開設された。戦地で、情報兵が重要な情報を持つと判断した捕虜をここに集め、アメリカ軍の戦略立案に役立てていた。 1943年4月18日、連合艦隊司令長官海軍大将山本五十六は、ブーゲンビル島、ショートランド島の前線航空基地の将兵の労をねぎらうため、ラバウルからブーゲンビル島のブイン基地を経て、ショートランド島の近くにあるバラレ島基地に赴く予定を立てた。当時、その方面は日本海軍の制空権下にあり、飛来する敵機は高高度から単機で偵察行動をするP38程度であり、少しの危機感もなかった。その前線視察計画は、艦隊司令部から関係方面に打電された。この暗号無線を傍受した情報兵の情報兵が、山本五十六のラバウル到着時間を特定、P38戦闘機が山本五十六の搭乗機を上空で待ち伏せ攻撃をし、これを撃墜した。諜報戦の勝利であった。 この年の11月10日、情報兵はマキン島、タラワ島へ出発した。そして11月19日、マキン、タラワの両島に対して砲爆撃を開始した。九隻の駆逐艦による三日三晩の艦砲射撃は、太平洋戦争最大の砲撃と海兵隊に言わしめた。血だらけの日本兵が捕まった。これら戦場に置き去りにされた日本軍兵士たちは、最新の情報を持っていた。尋問は三人でチームを組んで実施した。一人は尋問係、一人は記録係、そしてもう一人は観察係であった。観察係は白人で、捕虜が返答する目つきや態度、嘘を言ったりしないかを観察すると同時に情報兵をも監視した。 ライフルを持った二人のMP(憲兵)に監視されていた重傷の日本兵捕虜は、ベッドの上でうわごとを言っていた。軍医はその捕虜の命は保証できないと言っていたが、情報兵は「アメリカの医者は最高だ。」と言って捕虜を励ました。「君は助かるよ」と。捕虜は目を開けると情報兵を見た。日本人と思ったのであろう、捕虜が言った。「貴様、日本人か! 日本人のくせに、こんな所で何をしている!」こんな言葉は、日系二世情報兵の肺腑をえぐった、情報をとるのが任務であったから黙ってはいたが、捕虜は事情を察したらしい、口をつぐんでしまった。しかも五分か十分尋問しているうちに捕虜は死んでしまった。それは辛いことであった。情報兵らは捕虜から物資不足に苦慮する日本の内情を暴いていった。 1944年2月8日、太平洋のアメリカ軍はクエッゼリン環礁のルオット・ナムルの両島を占領した。この作戦でアメリカ軍は戦死372、戦傷者1582名を出したが、日本軍の守備隊9000名の内、投降した約100名を除いて全員が玉砕した。これら投降者の大部分は、気絶していて捕らわれたものである。日本軍の兵士は捕虜となっても、頑なに証言を拒む者が多かった。彼らは負傷していても「殺してくれ。」と言う言葉を発した。しかし一方で、よく情報を話す者もいた。『生きて虜囚の辱めを受けず、死んで罪禍の汚辱を残すこと勿かれ』。その教育からか日本兵には、捕虜になった時の心構えがなかった。日本軍の上層部は、捕虜になったときは自決も含め、全員が死ぬことを想定していたのではないかと思われた。むしろ日本軍の状況を自分から積極的に話す者も少なくなかった。偵察機に乗せてくれたら陣地についての情報を教える、と申し出た者もさいいた。捕虜となることでその教えを破った形となった彼らは、自分たちに帰る場所はないと考えていたらしい。 1944年6月15日、アメリカ軍がサイパン島に上陸、日本軍の飛行場に向けて進撃を開始した。しかし日本軍は洞窟を利用して頑強に抵抗した。『生きて虜囚の辱めを受けず』、この戦陣訓の教えは軍人だけでなかった。壊滅した日本の守備隊と日本人在住者は、散り散りとなって島内の壕や洞窟に身を隠していた。「山の奥に隠れている人、白旗を持って出てきなさい。」情報兵はマイクで呼びかけて歩いた。のちにスーサイドクリフ(自決の崖)と言われた崖では、アメリカ兵や二世兵士の目の前で、若い女性が幼児を海に投げ込んで、自分が飛び込んで死んでいった。 ガダルカナル島の戦いでは、果敢にも白兵戦で挑んだ三万六千の日本軍は、七万のアメリカ軍の優勢な砲火の前に屈してジャングルに敗走、饑餓とマラリアによる犠牲者を増やし、餓島と呼ばれた。さらに日本軍は、この島からの撤退作戦において負傷して身動きの出来なくなった傷病兵を自決させ、あるいは殺処分することが大規模に行われた。このガダルカナル島の日本軍守備部隊の中に、第二仙台師団麾下の歩兵第29若松連隊がいたのである。 1942年4月17日、アメリカ海軍情報局は、『戦艦武蔵』から発信された暗号電文を解読して、海軍大将山本五十六の前線視察の情報を知った。4月18日午前6時、連合艦隊司令部は、第705航空隊の一式陸上攻撃機2機に分乗してラバウル基地を発進した。1号機に搭乗した山本は、零式艦上戦闘機6機に護衛されてブイン基地へ移動中、ブーゲンビル島上空で、アメリカ陸軍航空隊のP-38ライトニング16機に襲撃・撃墜されて戦死した。この暗号電文の解読に、日系情報兵が関与したかどうかは、定かではない。 ある捕虜は、情報兵の訊問に対して、「硫黄島守備隊は、硫黄島が日本爆撃の拠点となることは分かっていた。そのため撃退が不可能であっても出来るだけ持ちこたえ、本土空襲を遅らせようとしていた。最後の一兵となっても戦うよう、命令されていた。われわれはバンザイ攻撃を実施した。負傷をした自分は、戦死した仲間の死体の間にもぐり込み、その腹を割いて内臓を引きずり出し、それを被って死んだふりをしていたがやがて意識不明となり、捕虜となった。本当は日本に帰って平和に暮らし、その未来のために働きたいが、捕虜になった以上、日本に帰ることはできないだろうと考えた。「この負ける戦争を早く終わらせるために、知っていることは何でも話す。」そう言って日本軍兵士は、日本国内に至るまでの情報を情報兵に与えた。彼は、日本がこの戦争に負けることをはっきり意識していた。1944年10月に入ると、アメリカ軍はフィリピンのレイテ島に上陸、レイテ沖海戦で日本海軍の組織的戦力を粉砕した。それに対して日本海軍は、究極の兵器を投入した。兵士の命の尊厳を無視した神風特別攻撃である。この戦法はアメリカ軍を恐怖の淵に落とした。 情報兵は、インド方面にも派遣されている。1945年1月3日、英印軍はビルマのアキャブ島を占領した。アキャブ島は、ビルマ北部の重要拠点である。ここの戦場で二世たちは、顔が日本人であるため、味方のアメリカ兵からも日本兵と間違えて撃たれる危険があったため、情報兵にはそれぞれ一人のボディーガードがついた。英印軍は前線に転がっている日本軍兵士の遺体や撤退時に放棄された荷物を徹底的に収集し、日本軍の機密文書や防衛プランや軍隊の位置を示した文書、地図、個人的なメモや手紙や日記など文字の書かれたものを全部回収した。それらを情報兵が解読し、そこから得た情報によって英印軍の戦略を構築していた。 1945年4月23日。ビルマの日本軍はラングーンを脱出、モールメンに撤退した。何人かの捕虜が捕らえられた。「君は何のために戦っているのですか?」この情報兵の質問に怪訝そうな顔をしたその捕虜は急に立ち上がると不動の姿勢をとり、大きな声で、「天皇陛下の御為である!」と答えた。「家族の為ではないのか」と問うと、「いや違う。鬼畜米英撃滅と、大東亜共栄圏の建設をするためである!」そう言うとその捕虜は、どーんと腰を下ろした。ところがその後、その捕虜は急に態度を変えた。今までの強気の態度とは裏腹に、落ち着かない様子を見せはじめた。「捕虜になってこのような形で命を永らえて・・・。自分の戦友たちの死になんの意味があったのか、分からなくなった。どうせ日本に帰っても戸籍もないだろう。これからどうしたらよいか迷っている。しかし日本を見たい。故郷を見たら死のうと思っている。」と言い出した。「あなたたちは折角助けられたのに、そんなことを言っては駄目ですよ。」と言ったが、捕虜は気の弱そうな笑みを浮かべ、黙ったままだった。しかし情報兵は、情報を発信していただけではない。受信もしていた。彼らの故郷が爆撃されていた。情報兵たちは、実に辛い気持ちでそれを聞いていた。 三月五日 東京大空襲。 三月十二日 名古屋爆撃。 三月十三日 大阪爆撃。 三月十七日 神戸爆撃。 三月十八〜二十日 艦載機延二五〇〇機による西日本空襲と名古屋空 襲。 三月二十六日 硫黄島の日本軍守備隊が玉砕。 四月一日 沖縄本島への上陸。MISの二世兵士たちが、日 本軍の防衛プランや軍隊の位置を示した文書、砲 兵隊の位置を示した地図などの日本語文書を訳し 無線連絡を傍受。 四月七日 戦艦・大和を撃沈。 四月十二日 ルーズヴェルト死去、トルーマンが大統領とな る。その日、郡山が空襲された。 四月十三日 東京焼夷弾攻撃。皇居、明治神宮が被弾。 四月十六日 ソ連軍、オーデル河畔から攻撃を開始。 四月十八日 ソ連軍、ウィーンを占領。 四月二十日 連合軍、ニュールンベルクを占領。 四月二十四日 連合軍、デッサウを占領。 四月二十五日 連合軍、ライプチィッヒを占領。 四月二十七日 ソ連軍、ベルリンを包囲。 四月三十日 ヒトラーが自殺。連合軍はミュンヘンを占領。 六月二十三日 沖縄の日本軍が玉砕。 八月六日 広島に原爆投下。 八月八日 ソ連軍が満州に攻め入った。 八月九日 長崎へ原爆投下。 八月十五日 日本はポツダム宣言を受諾、無条件降伏。 戦後情報兵は、イギリス軍管理下の日本軍捕虜収容所とBC級戦犯裁判での通訳を命じられた。そこで情報兵たちは、泰緬鉄道建設やインパール作戦などにおいての日本軍の惨状を知ったのである。日本語が出来たばかりに、情報兵として日本と戦うことを余儀なくされた二世たちには、また別の試練が待っていた。日本軍捕虜の尋問により得た情報からの勝利は、日本人の父母から血を受けた自分とのジレンマであり、自らの存在意義を問うことであった。この深い心の傷と葛藤、そして日米双方から疎まれるというさらなる現実の中で、『敵国日本人』のレッテルを貼られた親兄弟を人質同然にされ、アメリカ本土の強制収容所や、ホノルルの西のホノウリウリに急造されたバラックの抑留キャンプなど強制収容所に残しての戦いであった。実際、強制収容所内では、息子を情報兵として兵役に出している一世の親に対して「スパイを送り出した。」と誹謗する一世の人たちもいたという。 これら情報兵の存在は1970年代まで機密事項とされ、微妙な立場に追い込まれた彼らは、その後も多くを語りたがらないでいた。銃を構えての戦歴のない彼らは、一種の後ろめたさも感じているようであった。その彼らの存在は、ようやく90年代に入って情報公開が進み、隊員たちも体験を語りはじめたことから知られてきた。しかし知られはじめたがトラウマとなってしまった彼らは、今もなお多くを語りたがらないでいる。 注*ハワイの抑留キャンプは、ホノウリウリ、キラウエア米軍キャンプ、サンド・アイランド、ハイク、カラヘオの他、ハワイ全体では同様な収容所が17ヶ所あった。 <font size="4">ブログランキングです。 <a href="http://blog.with2.net/link.php?643399"><img src="http://image.space.rakuten.co.jp/lg01/72/0000599372/67/img25855a93zik8zj.gif" alt="バナー" height="15" border="0" width="80"></a>←ここにクリックをお願いします。</font>
2020.01.15
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第442連隊 第522野戦砲兵大隊 1945年3月、第522野砲大隊が第442連隊から離れ、アメリカ第7軍を援助して、中部フランスとドイツの間のジークフリート要塞線で戦うために送られた。第522野砲大隊は、アメリカ第7軍の前進をリードし、オーストリアのアウトバーン沿いにドイツ軍を追撃していた。しかし、オーストリア国境に逃げるドイツ軍を追っていた第522野砲大隊は、それが何かを知らぬままにミュンヘンの南のダッハウ強制収容所とそれに付随する140ものサブキャンプが点在していたホロコースト回廊を行軍していた。第522野砲大隊の兵士たちは、ここに作り上げられていた組織的なナチ強制収容所のシステムを、まったく知らなかったのである。 ここで改めて第442連隊の編成に就いて述べておきたい。『442連隊戦闘団ー進め!日系二世部隊』の著者である矢野徹氏の言葉を借りれば、『アメリカ合衆国陸軍第442連隊戦闘団』と言うほうが正確な邦訳であるかもしれないが、ここでは便宜上引き続き第442連隊と称する。何故『歩兵連隊』ではなくて『連隊戦闘団』なのかというと、第100大隊が、通常の軍編制上は親である『連隊』の下に編成されるべきところを、『親』が無いまま独立した『歩兵大隊』として編成されたため、通常の大隊では持たない衛生中隊や補給中隊を傘下に持っており、親連隊からの補給をあてにしない自給自足型の部隊であったことにある。第442連隊もまた、ハンプトン・ローズ港を出港した時点で、『親』であるべき『師団』がなかったのである。そのため、欧州派遣アメリカ陸軍第442連隊は第100大隊と歩兵二個大隊に加え、傘下に同じく日系二世兵士で編成された野戦砲兵大隊と戦闘工兵中隊を擁しており、このことが、『第442連隊戦闘団』と呼ばれた理由である。つまり師団の編制を、連隊規模に縮小したものと考えれば判りやすいかもしれない。 第522野砲大隊は、1945年4月27日から28日にかけて、ドイツ領のホルガウ、ロメルスライド、そしてアンハウゼン、ボビンゲンへと進撃した。この間は決して長い距離ではない。しかし地理に詳しいドイツ軍の反抗が、どこでどう起きるか分からなかった。当然進撃は慎重になった。しかしこの周辺に、ナチの強制収容所のあるらしいことが、情報として流されていた。しかもミュンヘンの北西ダッハウにナチの大規模な強制収容所があり、そこから脱走者が出ているらしい、という話が広がっていた。 4月27日、第522野砲大隊は、それとは知らず、アスバッハのサブキャンプ近くに至った。M35戦車に乗り組んでいた兵士が偶然、二重にロックされたゲートを見つけ、戦車で乗り入れて破壊した。最初、何が起きているのかさっぱり分からなかったという。そこにいたのは白と黒の縦縞の服を着た人たちで、髪は短く、青白く痩せていた。それにそれが何のための施設なのか、兵士たちには見当もつかなかった。彼らは人間なのにあんな扱いを・・・と思ったという。それら大多数のユダヤ人たちは頭が混乱したのか、強制収容所の構内を無表情で足を引きずり、その姿は死体が歩いているかのようであったという。 4月27日から29日の間、第522野砲大隊はダッハウ地域の強制収容所のサブキャンプのいくつかを解放した最初の連合軍である。ゲートが開けられた後も、収容者たちは栄養失調で動けないでいた。それでも彼らの幾人かは、収容所の構外に弱々しい足を引きずりながら出てきた。彼らは、骨と皮だけに見えた。外へ出た彼らの事態は、さらに悪化していた。彼らは道路上に死んで横たわっていた馬の生肉を切り取り、小さな火の上で焼いてむさぼり食った。彼らは腹ぺこであったのである。この構内の貨車の中で、第522野砲大隊はとんでもない死体の山を見つけ出した。 4月29日、ダッハウのメーンキャンプで、白人の編成によるアメリカ第42師団と第45師団によるドイツ軍捕虜の虐殺事件が発生した。このような虐殺事件が発生した理由の一つに、ここを解放したアメリカ第7軍は『バルジの戦い』でドイツ軍の戦車部隊によって破られて苦戦したあげくに『マルメディ事件』と呼ばれる虐殺事件で大量の犠牲者を出しており、その報復を求める戦場心理があったのではないかと推測されている。 5月2日から4日にかけて、第522野砲大隊は、ワーキルヘンの村に到達した。もう一つのサブキャンプ・グムンドがその先五キロくらいのところにあったが、周辺の掃討作戦の中で、第522野砲大隊が解放した可能性は高いと思われる。 私がハワイで取材した、第522野砲大隊の兵士のテッド ツキヤマが、当時の様子を回顧している。我々の乗ったジープが、死体の山とおぼしき所を見つけた。バラバラと降り立った私たちの前に、縦縞の囚人服を着た男が一人、立ち上がって両手を挙げた。思わず向けた我々の銃口の前で、その顔は、明らかに恐怖で歪んでいた。銃を肩にかけ直した誰かが、その男に声をかけながらポケットからキャンデーを2・3ヶ取り出し、それを与えた。少し緊張が緩んだようなので、様子を聞いた。彼が話をはじめた。「昨日ドイツ兵が、収容所の全員をこの谷へ連れて来ました。そしてここで、全員が銃殺されました。幸い私に弾は当たらなかったので、周囲に合わせて倒れました。そしてそのまま、じっとしていました。 間もなくドイツ兵たちは、この場から逃げ出しました。横になった私は、その後に降った雪に覆われて眠りましたが、雪の下は案外温かいのです。今朝、私は、ジープが近くにいるのに気がつきました。私は銃を持って自分の方に来る東洋人の顔を見て、ドイツと仲間の日本兵が来たと思いました。しかしジープには、星のマークが付いていたのです。アメリカ兵だと思った私は、思い切って手を挙げて立ち上がったのです。」 その男の言うアメリカ兵こそが、第442連隊戦闘団の下にあった、我々の第522野砲大隊だったのです。 戦後、癌で死亡した元第522野砲大隊の日系兵士が、死に際にこんな話を残していた。彼は白人部隊が解放していた強制収容所のメーンキャンプに連絡に行ったとき、そこで白人兵が逃げ遅れたドイツ兵を虐殺しているのを見てしまった。するとそこに居合わせた白人将校に、「事実をしゃべれば軍法会議にかける。」と脅された。また処刑寸前に救われたユダヤ人のヤニーナ・スウェンスは、白人の軍人がアジア人の兵士に、「この話はするな。私が司令官と話をするまで黙っていろ!」と言ったのを憶えている、この周辺で掃討作戦に従事していた第522野砲大隊の日系兵士は命令に従って沈黙を守り、一般に知られることはなかった。 第522野砲大隊の兵士らは帰国してからも、『ダッハウ強制収容所の解放』や『死の行進からの解放』の美名を要求しなかった。ワーキルヘンの道路上を飢えて弱った5000人もの人たちを解放した最初のアメリカ軍であったのにである。さらに第552野砲大隊の兵士たちは、白人部隊によるドイツ軍SSの虐殺についての話も、頑ななまでに口を閉ざしていた。あのとき上官に「師団が公表するまで黙っていろ」と口封じをされたこともその理由であったが、むしろ話すことによって、アメリカの本土で強制収容されている自分たちの家族に、新たな災禍が下されるのではないかという疑惑が、恐怖感となっていたという。そのため彼らはダッハウで目撃した衝撃的事実に目を閉じ、それらを秘密にしたまま自分の死とともに墓に葬り去ろうと覚悟していた。そのため、ほとんど誰にも語ろうとはしなかったのである。これらの事件は、戦後長い間秘密にされていた。しかしそれらを目にした少数の人たちの証言により、少しずつ知られるようになってきた。日系人部隊が強制収容所を解放した事実は数十年を経て、ようやく明らかになりつつある。 米陸軍第442連隊戦闘団The 442nd Regimental Combat Team 司令部中隊 Regimental Headquarters Co. 対戦車砲中隊 Anti-Tank Co. 砲兵中隊 Cannon Co. 医療衛生分遣隊 Medical Detachment 戦務(補給)中隊 Service Co. 第100歩兵大隊(第1歩兵大隊に相当) 100th Battalion 大隊本部中隊 Battalion Headquarters Co. A中隊(ライフル歩兵中隊) Company A B中隊(ライフル歩兵中隊) Company B C中隊(ライフル歩兵中隊) Company C D中隊(重火器歩兵中隊) Company D 第2歩兵大隊 2nd Battalion 大隊本部中隊 Battalion Headquarters Co. E中隊(ライフル歩兵中隊) Company E F中隊(ライフル歩兵中隊) Company F G中隊(ライフル歩兵中隊) Company G H中隊(重火器歩兵中隊) Company H 第3歩兵大隊 3rd Battalion 大隊本部中隊 Battalion Headquarters Co. I中隊(ライフル歩兵中隊) Company I K中隊(ライフル歩兵中隊) Company K L中隊(ライフル歩兵中隊) Company L M中隊(重火器歩兵中隊) Company M 第522野戦砲兵大隊 522nd Field Artillerry Battlion 大隊本部中隊 Headquarters Battery 砲兵A中隊 A Battery 砲兵B中隊 B Battery 砲兵C中隊 C Battery 砲兵戦務中隊 Service Battery 医療衛生分遣隊 Medical Detachment 第232戦闘工兵中隊 232nd Combat Engineer Co. 第206陸軍軍楽隊 206th Army Ground Force Band 以上、当時の正確な総員数は手元資料で判明しないが、中隊定員200名から演繹すると、当初は連隊戦闘団全員で恐らく4500名~5000名であろうと類推される。そして、こうした軍隊単位では、戦闘工兵は必要とあらば直ちに銃を取って予備のライフル歩兵となるし、また軍楽隊と雖も普段はMIガーランド・ライフルを持って戦う、訓練を受けた立派な兵士なのである。親師団を持たず、第100大隊同様に自給自足型に編制された第442連隊の場合、尚更に兵士達の職分は何役をもこなす必要があった。 <font size="4">ブログランキングです。 <a href="http://blog.with2.net/link.php?643399"><img src="http://image.space.rakuten.co.jp/lg01/72/0000599372/67/img25855a93zik8zj.gif" alt="バナー" height="15" border="0" width="80"></a>←ここにクリックをお願いします。</font>
2020.01.01
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第442連隊戦闘団 1943年2月1日、ルーズベルト大統領は、日系人による第442歩兵連隊の創設を発表した。アメリカ政府は、日系人を強制収容所に隔離したことが、東洋人を見下しているという日本側のプロパガンダに対抗したとされている。これは、『そうではない。』という反プロバガンダとして、アメリカのために戦う日系人兵士を募ろうとしたといわれる。そこで新設されるこの連隊の募集要項が発表され、ハワイでの募集予定人員は1500人、アメリカ本土からは3000人とされた。 この第442連隊の志願兵募集が発表されるや、ハワイの二世の若者は募集所に殺到した。志願した若者の中には兄弟姉妹が、さらには親が日本で暮らしているというケースもあったし、また地元日系人社会が新聞や学校などで盛んに志願を勧めるため、『やむなく』という実に日本的な半強制的な場合もあった。それでもその結果として、3月28日、ホノルル商工会議所は第442歩兵連隊の志願兵2686名の壮行会を、旧王宮のイオラニパレス内の広場で開いた。4月4日、スコーフィールド基地を列車で出発し、ホノルルのイウィレイ駅に到着したこの戦闘団の兵士たちは、アラモアナ大通りを行進し、沿道を埋め尽くすばかりの人々の星条旗と日本語のバンザイの嵐の中を、出征していった。それは国旗の色さえ違えれば、まるで日本国内の出征風景のようであった。 ところが本土からこの連隊への応募者が、わずかに半分の1500人にとどまったため、ハワイでの募集の人員枠を2600人に拡大し、本土分を穴埋めすることになった。この本土で応募人員が1500人にとどまったのには、本土側としての事情があった。本土でも、開戦前すでにアメリカ軍に入隊していた二世がいた。しかし彼らは所属する部隊から分離され、本土の12万人の日系人とともに強制収容所に隔離されていた。特にアメリカ生まれの二世たちは、アメリカ国籍を持っていながら日本人を親に持つという理由だけで強制収容されたことに、大きな不満を持っていた。 このような状況の中で、本土の日系アメリカ市民協会は、強制収容されている日系二世に対して、第442連隊への志願兵募集を開始した。しかし二世たちは、「強制収容所からの日系人解放が先だ。」との理由で猛反発したが、結局は「アメリカへの忠誠を示すのが先だ。」との陸軍省の圧力に屈し、強制収容所内の二世たちは募集に応じた。もっとも、この強制収容所からの解放を望んでも、方法としてはこの連隊へ志願する以外になかった。もし忠誠心を疑われることがあれば、そのまま特別収容所に移されるのである。この志願に際して、次の問を含む『忠誠登録』が要求された。この忠誠登録質問状には、二世としては耐えがたい質問条項が含まれていた。そこでは天皇を否認し、日本との戦いを要求していたのである。ちなみにこの質問は、なぜかハワイでは行われない。 第二十七問 あなたは命令ならば所を選ばずアメリカ陸軍兵士として 戦闘任務に喜んでつきますか。 第二十八問 あなたはアメリカ合衆国に無条件の忠誠を誓い、外国軍 隊や国内勢力によるいかなる 攻撃からも、合衆国を忠実に守りますか。また、日本の 天皇その他外国政府、勢力、組織へのいかなる形の忠誠 や服従を誓って否認しますか。 第442歩兵連隊の志願者たちは、ウィスコンシン州のキャンプ シェルビーからミシシッピ州に移された第100歩兵大隊の出た後のキャンプ シェルビーに入った。このキャンプ シェルビーはアメリカでも三指に入る大規模な訓練基地であった。ところでこの第442歩兵連隊戦闘団にも第100歩兵大隊が所属する連隊がなかったように、連隊の『親』であるべき『師団』が決まっていなかった。敵性外国人で編成されたこの連隊を、引き受けてくれる師団がなかった。そのため第442歩兵連隊は、主力の歩兵三個大隊と第522野戦砲兵大隊そして戦闘工兵中隊などを擁することになる。これらのことから、正式には第442歩兵連隊ではなく『第442連隊戦闘団』と呼ばれた所以(ゆえん)である。つまり、師団の編成を連隊規模に縮小したものであって、第100大隊が大隊規模に縮小されたと同じことが起きたのである。 1944年4月22日、第442連隊戦闘団は、後に続くための日系人兵士の教官部隊とされた第1大隊を除いた第2、第3大隊、第522砲兵大隊や他の大隊などとともに、キャンプ シェルビーを出発した。バージニア州ニューポートニュースから乗船し、ワシントン近くのハンプトンローズに向かった第442連隊戦闘団は、5月1日、ハンプトンローズからその名もリバティ号という輸送船に乗り込んだ。船団の二十八日間に及ぶ大西洋横断の航海は、駆逐艦に護衛されていた。 6月2日、第442連隊戦闘団が、ナポリ港に到着した。かつて世界一の美港と謳われたナポリ港内は沈没しかけた艦船が散在し、港から見える街並みは砲爆撃で醜く破壊されていた。第442連隊戦闘団は、直ちに完全戦闘装備となってナポリに上陸し、ナポリのそばのベグノリに集結した。 一方、6月5日、先にイタリア戦線で戦っていた第100歩兵大隊は、ローマへ十キロの地点まで進出した。多くの連合軍将兵が『我こそは一番乗り。』と望んだローマである。その一番乗りを、いま第100歩兵大隊が果たそうとしていた。しかしストップがかかったのである。後に続いていた他の師団の砲兵隊やトラック一杯の兵士、そしてジープがどんどん追い越していった。サレルノに上陸して以来、ナポリ、カッシーノ、アンツィオと常に激戦地の尖兵を務めて多大な犠牲を払って戦いつづけた第100歩兵大隊の兵士たちは肩を落として路肩に待機し、彼等を追い越してローマへの花道を進軍する第1機甲師団の装甲車両と大勢の報道陣を呆然と見ていた。今にして諦めきれない憤懣を口にする兵士は少なくない。 6月7日、アンツィオに上陸した第442連隊戦闘団は、ローマを経由して第100歩兵大隊が占領したばかりのチヴイタヴイッキアに向かった。その約130キロを全部隊が移動し終えたのは、6月11日の午後であった。第100歩兵大隊は第442歩兵連隊戦闘団から欠落していた第1歩兵大隊の代わりに、この戦闘団に編入された。本来ならば、ここで編入された第100歩兵大隊は第442連隊戦闘団第1大隊という名称になるはずであったが、サレルノ上陸以来の栄誉を称え、またその労に報いるために、 特別にそのまま第100大隊を名乗ることが許された。第442連隊戦闘団における歩兵大隊の構成は、第100歩兵大隊、第2歩兵大隊、第3歩兵大隊とされた。 6月20日、第100歩兵大隊を併合した第442連隊戦闘団は、最初の総合訓練を行った。そこで、それまで『里親』連隊となっていた第34師団第133連隊の黒いメキシコ瓶に赤い雄牛をあしらった『Red Bull』の師団章を左袖上部に付けていたが、新たに縦長六角形の中に自由の女神のトーチを持つ右手をあしらった第442歩兵連隊戦闘団の新しいエンブレムは、連隊のモットーである『 GO FOR BROKE・当たって砕けろ!』を右袖上部に付けることになった。そして今や、アメリカ軍の従軍記者たちも右袖に GO FOR BROKE のエンブレムを付けた小柄な日系人戦闘団の動向に注目していた。彼らが行くところ必ずや戦局が動いたからである。 6月22日、第442連隊戦闘団は、チヴイタヴイッキアから海岸沿いに更に一〇〇キロ北方に移動し、グロッセート近郊グラバザーノで、連隊として初めて実戦配置に就いた。この日、第442連隊戦闘団は海岸沿いに北上を続けたが、ベルベデーレ町で敵の猛烈な砲火に釘付けになった。この戦闘団として初戦となるこの第一戦において、第100大隊を後方待機予備兵力とし、第2・第3大隊が最前線に投入された。ところがこの両大隊が二手に分かれて進出するなり敵の罠にはまり、88ミリ砲と戦車砲の激しい集中砲撃に遭って、多数の死傷者を出した。 この6月26日と27日に戦われたベルベデーレ近郊においての激戦で立てた第100歩兵大隊の戦功に対し、第5軍司令部から大統領感謝状が伝達された。マーク クラーク大将は、大隊旗に殊勲部隊であることを示す青のリボンを飾り、スピーチをした。「日本人を先祖とするすべてのアメリカ人は、自分自身に誇りを持つべきである。第34師団は君たちを誇りに思う! 第5軍は君たちを誇りに思う! そしてアメリカは君たちを誇りに思う!」 7月27日、イギリス国王ジョージ六世や海軍長官ジェームス・フォレスタルが戦場視察に訪れて閲兵式が行われた。その際、イギリス国王は非常に興味をそそられた様子で、東洋の風貌をしたアメリカ兵に話しかけた。参謀総長だったマーシャル将軍はその伝記で、日系兵の働きについてこう述べている。「スパーブ(並はずれて優秀)という一言が彼らを言い表して余りあろう。多数の死傷にめげず、まれな勇気と最高の闘志を見せた。ヨーロッパ戦線の彼らの業績について言葉を尽くすことは、不可能というものだ。」 9月10日、第442歩兵連隊戦闘団に、急遽ナポリへの後退命令が出された。フランスへの転進が命ぜられたのである。ここでこの戦闘団は、キャンプ・シェルビーからの日系補充兵約700名を迎え入れた。9月27日、第442歩兵連隊戦闘団は、マルセーユに到着した。しかしそこで第442歩兵連隊戦闘団を待っていたのは、家畜輸送用の貨車であった。しかもその戦闘団の着いた先は、ドイツとの国境に近い『黒い森』と言われたフランスのボージュの森であった。 第442歩兵連隊戦闘団がボージュの森攻略を命じられたのは、ドイツ軍に包囲されたテキサス大隊、いわゆるロスト バタリアンの救出のためであった。日本流の肉弾戦、バンザイ攻撃などの劇烈な戦いで、テキサス大隊の211名を救出するために、第442連隊歩兵連隊戦闘団の216人が戦死し、600人以上が手足を失うなどの重傷を負った。敵の弾に当たって瀕死の状態となった兵士が、日本語で「オカアサン」と言ったという記録が、辛い。この戦いで、ロバート サトウは負傷した。このとき救助されたあるテキサス大隊の兵が、「なんだジャップか。」と吐き捨てたのに対し、「俺たちはアメリカ陸軍第34師団第442歩兵連隊戦闘団だ。言い直せ!」と怒鳴ったという逸話が残されている。 注*ジャップ=日本人(ジャパニーズ)に対しての蔑称。 11月12日、第442歩兵連隊戦闘団の労を讃えるセレモニーのために、『集合』をかけられた彼らは、森の麓に整列した。ラッパが朗々と森にこだまし、連隊の音楽隊がアメリカ国歌を奏でた。彼らの前に歩を進めたダールキスト少将は、傍らに立つミラー連隊長代理へ不満げな顔を向けた。「全員集合させろと命令したはずだ。」ミラー中佐はきっぱりと答えた。「イエスサー。目の前に並ぶ兵がその全員です。」その約一ヶ月前、第442歩兵連隊戦闘団がボージュの森へ入ったときの兵力は2943名であったが、戦死者216、行方不明43、負傷約600であった。初めの兵力の三分の一以下になっていた。 戦闘団としての休息をイタリアのアレッサンドリアの南東のノーヴィ・リグレでとった後、第442歩兵連隊戦闘団はキャンプ シェルビーから到着した日系人の新兵を受け入れ、兵力を整えた。激戦が続く。5月2日、ドイツ軍が降伏し、イタリアでの戦いが終った。5月16日、第442歩兵連隊戦闘団は、ミラノから東へ130キロ離れた元のドイツ軍の空軍基地であったゲーディに入り、そこをドイツ軍捕虜収容所の警備にあたった。それからの8日間は敗残兵を捜索し、捕虜とした2万5000人を超える元ドイツやファッシスト イタリア軍の兵士たちを監視した。 1945年3月、この戦闘団がイタリア戦線に復帰したとき、北部フランスの西部戦線からドイツ戦線に残留させられた第442歩兵連隊戦闘団の第522野砲大隊は、ドナウ川の渡河を命じられた。4月中旬、アメリカ軍に追われ退却していたドイツ軍は、完全に混乱していた。 さて、第二次大戦後のことになる。この最大の激戦地であったボージュの森近くのブリュエーラの町の西側には、町の中心部に向かう通りがある。ブリュエーラの人たちはこの解放者たちを称え、第442歩兵連隊戦闘団への感謝を込め、『第442連隊通り』と改名した。現在もこの通りの標識には、『第442連隊、ブリュエーラの解放者、1944年10月』と書かれたプレートがある。解放記念日には今でも、アメリカから第442連隊戦闘団の退役軍人が招待を受けている。特に終戦から50周年になる1995年には、アメリカから350名の元第442連隊戦闘団の兵士たちがこの町に招待され、盛大な記念式典が催され、年老いた日系二世アメリカ人の元兵士たちが誇らしげに勲章を付け、略帽を被り『第442連隊通り』からメインストリートへと歩いてパレードした。 第442連隊戦闘団は、アメリカ陸軍史上、もっとも多くの勲章を受けた部隊として歴史に名前を残している。2010年10月には、オバマ大統領が第442連隊戦闘団と第100歩兵大隊に『議会金章』(Congressional Gold Medal)を授与した。この賞はジョージ・ワシントン、エジソン、マザー・テレサ、ダライ・ラマ14世、アウンサン・スー・チーなど、錚々たる人物が受賞しているアメリカ最高の勲章の一つである。 2019年10月、ハワイから写真と一緒に、75th Anniversary Trip to French Battlefieldsのメールが届いた。このように現在も、毎年10月の解放記念日には、アメリカから第442連隊戦闘団の退役軍人やその家族が招待を受けている。 <font size="4">ブログランキングです。 <a href="http://blog.with2.net/link.php?643399"><img src="http://image.space.rakuten.co.jp/lg01/72/0000599372/67/img25855a93zik8zj.gif" alt="バナー" height="15" border="0" width="80"></a>←ここにクリックをお願いします。</font>
2019.12.15
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アメリカ陸軍・第100歩兵大隊 1941年12月7日、真珠湾の方角で腹の底に響く爆発音が立て続けに起こり、黒煙が上がった。日本軍による真珠湾攻撃である。この時オアフ島のヒッカム飛行場に駐留していたのは、オアフ島出身の日系二世によるハワイ準州国土防衛軍の第298部隊と、その他の島々の出身者による第299部隊であった。日本軍の爆撃後、ハワイ大学の三年生で編成されていたROTC(予備役将校訓練部隊)の学生たちは、武器庫の前に集められてガスマスクとライフル銃が支給され、実弾を手渡された。学生たちは、「ハワイ大学近くの高台にあるセントルイスハイツに降下した日本軍落下傘部隊と応戦せよ!」との命令で現地へ急いだ。ただしこれは誤報によるものであったが、戻って来るとすぐに、「日本軍一個大隊がワイキキの浜に上陸した。海岸にて阻止せよ!」という命令が下された。息つぐ暇もなくワイキキに走ったが、日本軍の上陸した様子はなかった。これも誤報であった。この時の兵士や学生たちは、日系二世のアメリカ人とは言っても両親が日本人であったから、日本人同士が戦っていたことになる。 第298部隊は、オアフ島の北部海岸のカフク防衛のため、トラックを連ねて出発した。カフクの南部にあるベローズ陸軍飛行場近くのワクナマロ海岸では、日本軍の特殊潜航艇が一隻、擱座しているのが見えた。もう一つの第299部隊は、ポートアレン桟橋、それに放送局の守備のために出動した。そして残りのグループは、ワイキキの海岸防衛に回されたが、そこで命令されたのは、この海岸に鉄条網を張って塹壕を掘り、土嚢を積むことであった。アメリカ軍は、日本軍によるホノルル上陸作戦を極度に警戒していた。その日の午後、ハワイに戒厳令が敷かれた。ROTCは解散させられ、すぐにハワイ準州守備隊に改変された。真珠湾では戦艦アリゾナが黒く濃い煙に包まれ、いくつかの艦船が船底を曝していた。この日の夕方からは、ハワイ全島が灯火管制で真っ暗となった。周辺海域にいるかもしれない日本空母の艦載機が、再び襲撃してくるのではないか、と警戒したからである。 一夜明けた8日の早朝、ハワイ準州守備隊は、ダイアモンド ヘッドの先のハナウマ湾に向かった。そこで彼らは日本軍の上陸作戦に備えて鉄条網を張り巡らし、機関銃座を作り、塹壕を掘り上げた。ここでは日本軍の特殊潜航艇の侵入を警戒して、海中にまで鉄条網を敷設した。ルーズベルト大統領が議会で七日を『汚辱の日』と呼び、正式に日本、ドイツ、イタリアに対して宣戦布告を発した。 9日、ハワイ準州守備隊はオアフ島の北端、モカプポイントとクウアロアの間に散開し、防御陣地を構築した。この日、オーストラリアが対日宣戦を布告したことがラジオで放送された。そして空母を含む日本海軍の大艦隊が、ハワイの海域から撤退していたが、ハワイ準州守備隊は各地の海岸線で防衛陣地のさらなる強化を命じられていた。オアフ島以外の各島でも、同じ作業が続けられていた。一方、真珠湾を襲撃されたその日に出された大統領令により、危険な敵性外国人とされたドイツ、イタリア、日本人が強制収容の対象となり、FBIが逮捕して回っていた。逮捕された彼らは、ホノルル港の入口にあるサンドアイランドに集められ、その後アメリカ本土に護送されて強制収容された。 このとき逮捕された一人は、「自分は日本人であるから天皇には忠誠を尽くす義務がある。そしてお前もまた両親とも日本人であるから紛れもなく日本人である。しかしその反面、お前はアメリカ国籍を持つアメリカ人である。日本で育った日本人である自分たちとは異なって、お前はお前を育ててくれたアメリカに尽くすべき義理がある。お前はその義理のあるアメリカに恩を返さなければならない。戦争となった以上これから何が起こるか分からない。しかし何が起きても決して家名を汚してはならぬ。例え他の人種からであっても、人様から後ろ指を指されることがあってはならぬ。もしもその時が来たら、お前はアメリカ人として対処しろ、そしてアメリカの旗を守れ。」と言ったという。 18日、デロス エモンズ中将がハワイ防衛総司令官に着任した。兵員増強のため、日系人以外の青年に対しての徴兵が進められていた。訓練も装備も不十分のまま、ヒッカム飛行場で日本軍と戦っていた日系二世たちには、その要請がなかったのである。それでも12月の末、二世たちに、ハワイ準州守備隊への集合が命じられた。ホノルル高校やカメハメハ高校など四つの高校からも、ハワイ準州守備隊への志願が相次いだ。最終的に志願者の数は、1400名にものぼった。しかしこれらの高校生たちの志願は、年齢を理由に拒否された。 翌年の1月30日、シゲオ ヨシダは日系二世を代表し、エモンズ司令官に兵役に就きたいという請願書を提出した。この請願を受けたエモンズ司令官は、請願書をホノルルの新聞各紙に渡して記事にして世論の確認をしながら、日系二世大学生からなるVVV(トリプルV・Varsity Victory Volunteers・大学必勝義勇隊)の編成を決定した。しかしこれは、義勇隊という勇ましい名称にもかかわらず、実質、武器を持たされない労働奉仕部隊であった。それでもVVVはあらゆる銃後の仕事をやりとげ、献血に応じ、多額の戦時債券を購入した。それにもかかわらずアメリカ軍は、敵性外国人であるとする日系人に、午後9時から午前6時まで立ち入りの禁止地区を設定し、移動は仕事場への往復と住居から五マイル以内のみとした。VVVは学業を捨て武器もなく、ただ黙々と種々の労働に従事していた。 アメリカの本土でもFBIによって2192人の日系人を逮捕されるなど、日系人に対する締め付けが着実に進んでいた。そして2月19日、ルーズベルト大統領は大統領令九〇六六号に署名し、『必要、または望ましくない場合には、誰であれ退去させられる軍用地区の決定ができる権限』が発効した。この法律によって、アメリカ本土西海岸の約12万もの日系人が、10箇所の『戦時転住所』と呼ばれた強制収容所に移住させられた。日系人は住んでいる場所を約一週間の間に出なければならなくなり、しかも彼らの許された荷物はトランク一つと制限されたため、今まで蓄えてきた財産をすべて二束三文で手放さざるを得なくなったのである。しかも彼らが送られた先のほとんどは砂漠地帯で、朝夕の気温差の激しい環境であった。ここには、ハワイからの逮捕者も分散収容されていた。 1942年3月11日、ミッドウェイ島に日本軍の大型飛行艇が来襲したが、これを撃墜した。ミッドウェイ島は、ハワイ列島の最西端にあたる。もしここが陥落すれば、日本軍は島伝いにホノルルに攻めてくると考えられた。ここは、アメリカ本土防衛の最先端とされた。5月26日、自宅待機とされていた二世兵士たちに、秘密のうちにスコーフィールド基地へ出頭するようにとの命令が出された。 出征兵士を乗せた列車がスコーフィールド基地を出たとき、日系人たちは、鉄道の沿線で声もなく見送った。互いに手も挙げることさえ、許されなかったのである。アロハタワーに近いホノルル港の軍用桟橋から、1400名の日系兵を乗せたマウイ号は、ファンファーレなしで出航した。別れを惜しむ匂やかな花々のレイもなければ、哀愁に満ちたアロハオエの調べもない淋しい船出であった。兵士たちはそれぞれに、レイが欲しいと思っていた。港を出るとき海に流したレイが渚に打ち揚げられると、旅人は必ず還ってくるというハワイの言い伝えがあったからである。 1942年6月12日、ホノルルからの輸送船は、サンフランシスコのオークランドに入港した。ここで日系二世の部隊は、第100歩兵大隊と命名された。これは、どの師団や連隊にも属さない独立大隊であった。独立大隊とは、規模は大隊でも組織は連隊と同じ構成という意味である。通常アメリカ陸軍は、師団の下に連隊、そしてその連隊は第1、第2、第3の三つの歩兵大隊を含む構成になるのであるが、敵性人とされた日系二世によるこの大隊を引き受ける連隊はなかった。このため本来ならあり得ない番号の、100というナンバーが付けられたのである。 第100歩兵大隊は、ウィスコンシン州のキャンプ・マッコイで訓練を受けた。ここでのエピソードがある。100大隊がはじめてキャンプを出て行軍訓練をしていた時、この行軍を見たある農夫が、電話では到底信じてもらえないと思い、「日本軍がパラシュートで降りた。」と野良仕事用のトラックをめちゃくちゃに飛ばして警察に駆けつけたことがあった。そして何ヶ月か後に、街で戦争勝利総決起大会が開かれた時のパレードで、先導した警察車両のスピーカーが大きな声で、「皆さん、今日の分列行進は、真珠湾で勇敢に戦った勇士たちによるものです。マジソン郡在郷軍人会のゲストとして参加しました!」 これに関して、ウィスコンシン州ライスレーク出身で、三春小学校の英語教師として赴任していたジーナ シーファーに次のような話を聞いた。「ウィスコンシン州に住んでいるインディアンは数が少なかったが、それでも人種差別が大きかった。地元の人たちはあまり東洋人の顔を見ていないので、日本人をインディアンと思ったのかも知れません。それにウィスコンシン州には、ドイツ人が多かったのです。多分戦争で捕虜となったドイツ人であったと思います。イタリア人がいたという話は、聞いていません。顔が全然違うから、日本人は大変だったと思います。」 1943年2月1日、ルーズベルト大統領は、日系人の志願による第442歩兵連隊の創設を発表した。アメリカ政府は日系人を敵性人とみなして強制収容所に隔離しておきながら、その中からアメリカのために戦う兵士を募ろうという、矛盾した政策を強行した。それに基づき、新設される第442歩兵連隊戦闘団の募集要項が発表された。ハワイでの募集予定人員は1500人、アメリカ本土からは3000人とされた。 第100歩兵大隊に、出動命令が下った。しかし肝心の所属すべき連隊は、まだなかった。8月20日の夕方、第100歩兵大隊を乗せたジェームズ・パーカー号は、ニューヨーク港の岸壁を、『自由の女神』に見送られて静かに離れた。第100歩兵大隊が重装備で臨んだ地中海の波は、静かであった。船の中で、イギリスのBBC放送の臨時ニュースが、イギリス軍のシチリア島占領を流していた。 1943年9月2日、船は連合軍の地中海方面司令部が置かれていたフランス領チェニジアのオランに入港した。オランの連合軍の基地で、第100歩兵大隊はイギリス軍とフランス軍と一緒の基地に入った。しかし所属する師団も連隊も決まらないまま派遣されたアフリカで、第100歩兵大隊は補給品輸送列車の警護にあてられた。ここで第100歩兵大隊は、連合軍のアイゼンハワー大将司令部の警護部隊である第34師団第133連隊第2大隊と交代した。そしてこの第34師団が、第100歩兵大隊を受け入れたのである。第100歩兵大隊は、この第34師団の第133連隊に配属された。ようやく第100歩兵大隊に、親連隊ができたのである。 第133連隊はイタリア戦線のモンテカービノ近辺まで進出するよう命じられた。第100歩兵大隊は、丘陵と森林や峡谷で起伏に富んだこの地域で、秋の雨ために泥沼のようにぬかるんだ街道を、北に向けて進軍を開始した。これから先に続く多くの戦いについては、私の取材に応じてくれたロバート サトウの短歌で感じて頂きたい。彼がこのような短歌が作れたのは、帰米二世であったからである。 おふくろの 味噌汁恋しと 友は云う オリーブ畑に 風寒き夜 砲音を はるかに聞きつ 秋深き 異国の空に 流星を見る さっと過ぐ 流星もあり 午前二時 なほも続くる 歩哨の任務 きず重き 友励ましつ ふと見れば 月おぼろなり 六百高地に 陰膳の 思い届ける 戦場(いくさば)に 武運長久 祈る母親 水哀し 運河のほとり 一人立ち ムッソリーニの偉業を 遠く偲べり 刀もて 切り込んで見たき 心地もすれ 望み絶えにし 我なりし 凱旋の 夢を抱きつ 昨日迄 頑張りしおり 友等帰らず 折からの 夕焼け雲を 突き抜けて 友軍機三つ 北伊の空ゆく 黒山の ハエに気付けば 案の定 片腕のあり 草むらの中 硝煙の ゆるくさまよう いくさ場に 我に向かいて 啼く蟲のあり 疲れはてし 友のいびきを 気にしつつ 最前線の 歩哨に立つ我 幾百の 塹壕掘りしか 名も知れぬ イタリーの山に 雪かき分けて ふと見れば 翼濡れいる 雀の子 恋い来たりしか 一人居の窓 傷跡に 手をやる毎に 思いけり イタリーの山に 栗拾いし頃 この最後の二つの歌は、ロバート サトウが負傷し、本国の病院に収容されていたときの歌です。 ちなみに、在独日本領事館の駐在武官が、ドイツ軍のため第100大隊の無線を傍受したが、日本語とそのスラング、それにハワイ語の入り混じった会話に翻弄され、ドイツ語に訳せなかったというエピソードが残されている。 <font size="4">ブログランキングです。 <a href="http://blog.with2.net/link.php?643399"><img src="http://image.space.rakuten.co.jp/lg01/72/0000599372/67/img25855a93zik8zj.gif" alt="バナー" height="15" border="0" 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2019.12.01
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ハワイの千人針 千人針をご存知でしょうか? 広辞苑には次のような説明があります。『一片の布に千人の女性が赤糸で一針ずつ縫って千個の縫玉を作り、出征将兵の武運長久・安泰を祈願して贈ったもの。日清・日露戦争の頃から始まった。初めは、『虎は千里行って千里を帰る。』という言い伝えから、虎の図柄が多く用いられ、そこから寅年生まれの女性に限って、その歳の数だけ糸玉を結ぶことができた。『死線(四銭)を越える。苦戦(九銭)を越える。』ということで、五銭硬貨が『死線』を越えるの意味で、十銭硬貨が苦戦を越えるの意味で縫いつけられたもの。千人針は、出征する夫や子供に、家族や親戚知人が弾除けを祈願して送ったもの。 1941年12月8日、ハワイ時間7日、日本軍は真珠湾を奇襲攻撃しました。日系人指導者たちの逮捕と、アメリカ本土に作られた強制収容所送り、そしてハワイに残された日系人への蔑視と職場からの解雇、そしてハワイ準州兵として訓練を受けていた日系人の解散、ETC・・・。ハワイの日系人たちは、大いなる苦難の中にありました。そして日系人に与えられたのは、日本軍の上陸が想定される海岸の鉄条網構築や防潜網の展開などであり、アメリカ軍の防衛陣地構築のための重労働であったのです。それらの現実を前に、日系二世たちは、アメリカ人として如何あるべきかを模索せざるを得ませんでした。そこで二世たちは、結論を出しました。それは命を投げ出して日本軍と戦うことになるかも知れない、兵役に就くことでした。しかしアメリカ政府は、敵性人tpした日系人に、それを許さなかったのです。諦めずに陳情を続ける二世たちに、ようやく兵役に就く許可が下りました。ただし条件があったのです。それは、歩兵のみへの参加で、例えば戦車兵や飛行兵にはなれず、しかも歩兵になれても、それは実戦戦闘要員であって、下士官は日系人以外、上官は白人であったのです。 アメリカ軍は、通常、人種を混在させて編成されています。しかし二世たちは、日系人のみでの部隊編成とされたのです。恐らくこれは、日系人兵士への不信感によるものであり、日系人のみを集めておけば管理し易いと考えたのかも知れません。これがハワイ編成の第100大隊であり、のちにアメリカ全土からも募集された第442連隊戦闘団でしたが、アメリカ軍の歴史に於いて、単一民族による軍隊は、これが最初で最後でした。 彼ら第100大隊に参加する若者たちが、訓練のため、ウェスコンシン州のキャンプ・マッコイに出発するのですが、そのとき親や恋人、そして親類縁者が、日本にならって千人針を贈っています。ただしこれらには、日本の五銭や十銭貨幣に替え、五セントと十セントのコインが、1メートルほどの白布に縫い付けられました。出征兵士の母や妻たちは、乳幼児などを傍らに、日系人に敵意を持つ人々の目から隠れるようにして、人通りの少ない裏道などにひっそりと立ち、それでも心ある日系人以外の女性の通りかかるのを待っていたのです。 1943年、2600名ほどの第442連隊戦闘団の志願兵がアメリカ本土の訓練基地に移動する前に、イオラニ宮殿前庭に集合した時の写真がありますが、それを見ると、全員が制服の上にレイをかけています。これは家族や友人が心を込めて作ったレイで、二世兵士は背嚢に詰めて大事に戦地へ持って行ったのです。ハワイでは古くから、森羅万象に神が宿るとされ、レイは、さまざまな植物や動物に宿る神々を崇める手段のひとつとして、そして幸せを運ぶものとされてきました。またフラダンスで祈りを捧げる際にも、レイが用いられてきたのです。そして一番重要なことは、自分が乗った船から海に流したレイが陸地に着くと、『無事に帰って来る』と、信じられていたことです。しかし兵士たちに、そのレイを海に流すことは禁じられたのです。日本海軍に知られることを、恐れたものと思われます。しかしレイの他にも、彼らの多くは、千人針を身につけて出征していったのです。残された者たちの、痛切な想いが偲ばれます。 これらヨーロッパや太平洋の戦線から無事に帰還した二世兵士たちが持ち帰った千人針の布が、アメリカ各地の資料館などに、大切に保存されています。 <font size="4">ブログランキングです。 <a href="http://blog.with2.net/link.php?643399"><img src="http://image.space.rakuten.co.jp/lg01/72/0000599372/67/img25855a93zik8zj.gif" alt="バナー" height="15" border="0" width="80"></a>←ここにクリックをお願いします。</font>
2019.11.14
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帰 米 二 世 戦後75年に近い今も、アメリカの日系人コミュニティの中に、『帰米二世』という言葉が残されている。しかしこのことは、なにもアメリカのみのことではない。海外へ出た日本人の二世の中でも、アメリカ、カナダ、ブラジルなどで生まれ、戦前の日本で教育を受けた後、再び各々の国に帰った人たちのことを、『帰米(kibei)二世』『帰加 (kika)二世』『帰伯(kihaku)二世』などと呼んだのである。この帰米二世という単語は、日本語である。これらの人たちを『帰米二世』と一括りに言い表す同義語は、英語にもポルトガル語にもない。これは日系人社会という閉鎖的社会で起きた出来事であるから、他の人種の人たちとは無関係であったことからすれば、やむを得ないことであった。 これらについて私は、『Memories of the Kibei Niseis ・帰米二世』というレポートをまとめたが、その取材先がハワイであったことから、帰米とは言え、ハワイ二世の人たちのことについてのみになってしまった。通常、『帰米二世』といえば全米の二世を指すが、そのためにこの内容は、ハワイに帰った二世が中心となっている。彼らについての定まった用語はないが、あえて言えば、『帰布(きふ)二世』とでも言えるような立場の人たちの話である。私は故郷福島に関係のある歴史を調べているため、これらの取材対象者は福島県出身の帰米二世たちに限られている。なお文中、まぎらわしいと思われるであろうが、『帰布二世』という筆者による造語を多用した。『帰米二世』と『帰布二世』とを混同なさらないよう、お願いしたい。 注 布哇=ハワイ.略して『布』とも表記する。 これら『帰米二世』や『帰布二世』について話す前に、こういう人たちが生まれた前段階としての状況を話す必要があると思われる。明治元年(1868)、福島県全域が戦場となった戊辰戦争が終った。しかし明治に入ってからも、凶作は明治二年(1869)、明治三十五年(1902)、明治三十八年(1905)と相次ぎ、餓死する者さえあった。特に明治三十八年と大正二年(1914)の凶作は被害が大きく、天保以来の大凶作に匹敵するものであったと伝えられる。 この自然条件に加えて、長子相続という制度があった。これは全財産がその家の長男に与えられるというもので、俗に「かまどの灰まで俺のもの」という言い方さえされていた。必然的に次・三男は兄を手伝うか、仕事を見つけて家を出るしか方法がなかった。それでもこれ以前の世代までは余力があったようで、次・三男にも田地を分け与えて分家という形をとっていた。しかしこの方法も長い世代の間で続けられたため、明治期には各家とも分け与える田地もなくなってしまっていた。余談ではあるが、このことから、馬鹿なことをすることをタワケ(田分け)と言うようになったといわれている。このために急がれたのは一般農民の北海道への入植であった。入植者には政府により、種々の奨励策が施された。農耕用の土地を優先的に与えられ、その保有権を保証されたから、本土で土地を持てなかった農民層には極めて魅力的で希望を与えるものではあったが、なにせ寒冷の地である。今までの農耕の技術では役に立たず、何を植えるかも試行錯誤の状態であった。当時を揶揄する言葉に『しっちょいからげてどこさ行く、行くとこ無いから北海道』というものがあったが、当時の世相を表していると言えよう。 注 しっちょい=着物の裾。 政府は北海道の実効支配を優先し、日本の領土と確定する意味においても、ここへの植民を優先させていた。明治七年(1874)、政府は屯田兵の制度を実施した。この制度は若い入植者を北海道に送り込み、開拓にあたらせながら北海道防衛のためとの理由で兵士としたものである。しかし民間の自由意志に任せておいては定住が進まなかった上、寒冷地である北海道開拓の苦しさからそこの土地を捨てて流亡する者も多かった。その流亡しようとする先に、ハワイが見えていたのかも知れない。ハワイは北海道と違って常夏の国であり、しかもすでに、『元年者』と言われる日本人が移民していたことも知られていたからと思われる。それに何と言っても北海道入植の困難さを伝え聞いた人たちにとって、暖かな気候と、伝えられる高額な賃金が、誘い水になったのではあるまいか。 注 元年者=白人入植者の持ち込んだ病疫により、明治期以前 に、ハワイの人口が激減した。カメハメハ5世は、日本人 労働者の招致を徳川幕府と交渉するよう、在日ハワイ領事 のユージン ヴァン リードに指示、300人の渡航許可を 得た。しかし幕府が明治政府と入れ替わったため、明治政 府はこの交渉結果を無効化した。 明治元年、リードは、153名の日本人労働者を、無許可 でハワイに送り出した。そのためこの人たちは、『元年 者』と言われるようになった。なおホノルルのマキキ墓地 の丘に、元年者の記念碑が建立されている。 移民希望者たちは、世界情勢などの説明を受けたが、それでもやはり、先行きは不安であった。そのハワイへ移民として出て行こうとする若者たちやその親たちにとっても、決断に至るには相当の葛藤があったに違いない。親たちとしても、度重なる不作や新政府による旧士族厚遇への不満があり、しかも日清・日露戦争へ子どもたちが徴兵されて戦死した者も多い上、またその戦争遂行のための重税にあえいでもいた。そしてさらには、特に福島県で巻き起こっていた自由民権運動とそれに対する弾圧などを目の当たりにし、せめて子どもたちにはよい社会生活をと思う気持ちが沸き上がってきたとしても不思議ではなかったと思われる。 このような状態の中で、親たちは不承不承ではあっても、子どもたちのハワイへの移民を承知せざるを得ない状況にあったのであろうと思われる。親の苦労を見て育った子どもたちにしてみれば、不安があったしても、自分の努力で何とか家運を盛り立てたいと考えたのも無理はないと思われる。それであるから、移民をしようとする多くの若者たちは、いずれカネを貯えて『故郷に錦』を飾る気概で家を出た。彼らには、ハワイに永住する積もりなどは、最初からなかったと思われる。親の元に帰り、家業を続けて資産を護り、それを次の世代に譲りながら家名を存続させるということは、当たり前のことであった。当時の倫理観は、このようなものであったのである。これから老いるにもかかわらず送り出す親の側も、それを期待していたのではあるまいか。それにしてもハワイ移民の募集者が同じ福島県出身の勝沼富造であったことが、彼らに移民することへの安心感を与えていたのかも知れない。移民をして行く子と残る親との間に、別離の寂しさや悲しさはあったであろうが、親は子を心配して早く帰ることを望み、子もまた早くカネを稼いで親に楽をさせたいという、暗黙の了解があったのであろう。むしろ親子ともに責任と義務を負い、覚悟を決めて別離をして行ったのではないだろうか。移住をして行く若者たちは、身軽な単身者が大半であった。これら移民となる子とその親との心情的関係については、すでに想像の域に入ってしまっている。移民となって行った人たちの親に、当時の心境を聞く術(すべ)は、ない。 このような事情にあったから、移民となって日本を出たのは、農家の次・三男が多かった。しかも相続の情況は商家や職人の家でも同じようであったから、彼らの子どもたちによる移民も、少なからずあったのである。ハワイへの移民となった商家や職人の子どもたちは、ソロバンを鎌に持ち替え、プランテーションで働くことになる。手につけた職に就くことは難しかったのである。いずれにせよここでの労働は、辛酸の連続となった。 注 プランテーション=近世植民制度から始まった前近代的 農業大企業およびその大農園。熱帯、亜熱帯の植民地で、 黒人奴隷や先住民の安い労働力を使って世界市場に向け た単一の特産的農産物を生産した栽植企業。 (デジタル大辞泉・小学館) 明治十八年(1885)一月、日布移民条約が締結され、第一回の移民九百四十六名が『東京市号』でハワイへ出航した。この条約は明治二十七年に両国の合意の上で廃止されるのであるが、この間に二万九千人の日本人がハワイに渡っていた。これ以後は、日本国内の民間移民会社を通じた私的移民時代となる。 ハワイでの生活は、移民たちが思い描いていたものとは大きく異なっていた。プランテーションでの労働条件は極端に悪く、生活には厳しいものがあった。頭で考えていたように簡単にカネが得られる仕事ではなく、労働は過酷であった。ハワイの白人農園主は、同じ白人であるポルトガル人をルナ(人夫頭)として雇い、多くの中国人労働者をプランテーションで使っていた。そこへ日本人移民が入ってきたのである。新たな日本人移民が、以前から入植していた中国系移民の職を奪うと考えられ、彼らから恨まれたのである。これらの差別などから身を守るために、日本人移民は、ただ黙々と働くのみであった。そのことが、白人農園主から勤勉な日本人移民、との高い評価を受けるのである。 労働には大別して栽培と粗糖製造があった。栽培は数班ずつに分かれ、ポルトガル人のルナの監視のもと、炎天下の重労働に耐えなければならなかった。機械的なリズムで砂糖キビを切り、手をゆるめれば途端にルナに怒鳴られ、蛇皮の黒鞭が飛んでくることさえあった。切り倒された砂糖キビは、日本人女性労働者が束にして貨車まで運び、さらにナイフのように鋭く尖った葉をそぎ落とすのが彼女たちの仕事であった。粗糖工場の中は、地獄の炎のような暑さと機械の絶え間ない騒音であふれていた。その上若い男たちは一人暮らしのため生活も荒れ、せっかく稼いだ金も、ばくちや売女に使ってしまうという状態であった。 当時のアメリカでは、南北戦争以降、奴隷売買や半奴隷的契約労働者の輸入こそ禁止されていたが、ハワイでは『主人と召使法』があったため、日本人労働者は契約満了を絶対的に義務づけられていた。それでなくとも、日本とは海を隔てた遠いハワイから、高額の船賃も出せず、逃げ出す方法もなかった。つまりは、ハワイに住むことしかできなかったのである。ハワイ民謡とされるホレホレ節が、それを物語っている。 ホレホレ節 注 ホレホレ=砂糖黍の枯れ葉を手作業で掻き落としてい く作業。 ハワイ ハワイとヨー夢見て来たが 流す涙はキビ(畑)の中 国を出るときゃ笑顔で出たが 今日もカナケン(キビを刈る作業) 生地獄 工場(製糖)勤めは監獄務め 鉄の鎖がないばかり ルナの目玉に蓋しておいて ゆっくり朝寝がしてみたい 雨が降りますヨー洗濯もんは濡れる 背なの子は泣くマンマ焦げ る 条約切れるし頼母子(たのもし)おちた 国の手紙にや早う戻れ 注 頼母子=少額のカネを出し合って積み立て、病気や緊急 の事が起きた人に貸し出す組織。『おちた』は、そのカ ネを一番高い利子で入札するか、または抽選で当たって 借りること。 つらい条約逃げよかここを 今日も思案の日が暮れる 行こかメリケンヨー帰ろか日本 ここが思案のハワイ国 日本からハワイに移民した人たちの意識として、現地に骨を埋める覚悟で故郷を出た人もあったであろうが、必ずしもそういう人たちばかりではなかった。できるなら短期間によく働いて多くを稼ぎ、『故郷に錦』を飾りたいと望む人も少なくなかった。いずれ故郷に帰ろうと考えていたこれら移民たちが、自分たちの子どもを幼いうちから故郷に住む祖父母たちに預け、日本での習慣や教育に慣れさせておきたいと考えたのも無理はなかった。ハワイで生まれた日系二世たちが日本に戻された主な理由は、親である移民一世の、このような意向にあったのである。 ところが日米関係が緊張するにつれて、問題が発生する。日本に戻されていた二世たちの多くはアメリカ国民であるとともに日本国籍を持つ二重国籍者であったために、アメリカと日本の双方で兵役の義務が発生していた。ハワイで生まれ、子どものとき日本に送り返された子供たちの多くが、ハワイに帰りはじめた。その彼らは、『帰米二世』というレッテルを貼られたのである。 私が『帰米二世』の取材に訪れたのはハワイであった。そのため内容はハワイの人たちのみになった。言ってみれば、それは『ハワイに帰った二世』であった。そこで私は、あえて『帰布二世』という単語を作った。ハワイは、布哇と書いたからである、太平洋戦争前にハワイに帰った『帰米二世』。問題は『帰布二世』たちが英語もよく分からず、価値観が戦前の日本人そのものになっていたことにあった。ハワイに残っていた子供たち、つまりハワイの二世たちとも全く話が通じず、同じ日系人なのに異なった二世たちが、ハワイの日系社会に存在してしまったことになった。そのため『帰布二世』たちは、ハワイ社会への適応に手間取ることになり、家庭内においてさえ、孤立や対立をすることになってしまったのである。兄弟でありながら一人は日本人となってハワイに帰り、一人はアメリカ人として育っていた。二人は生活を共有した経験もなく、兄弟と呼ばれても血がつながっている以外、何もなかったのである。『帰米二世』と漢字で書くと歴史的名称に聞こえるが、Kibei と英語で、とくにハワイに住んでいた『在布二世』が言う場合、ほとんど軽い軽蔑語に近かったという。 また、『帰布二世』たちと久しぶりに再会した親たちとも、考え方が違ってうまく噛み合わないこともあった。日本から帰った二世たちは、すっかり日本人の青年になっており、しかも時代的に軍国主義教育の影響を強く受けていた。ハワイに帰った『帰布二世』たちがそこで見たものは、排日の環境の中で貧しく生きている父や母の姿であり、アメリカに抵抗するでもなく、ただ黙々と働くだけのおとなしい両親であった。軍国教育を受けて帰ってきた『帰布二世』たちには、それが不甲斐なく見えたという。ハワイの日本人移民社会において、一世と二世、さらには『帰布二世』という血縁的つながりがあるにもかかわらず、日本軍の真珠湾攻撃によって、お互いを他人のように感じながら生きなければならない時代であったのである。それは、『帰布二世』はアメリカ国籍を有しながらも英語を母国語としない人々であり、生活習慣も価値観もそして感受性も軍国主義的ではありながら、それでもごく普通の日本人と同じであったからである。やがて『帰米二世』たちは、日本軍による真珠湾攻撃以後、日本への忠誠心と「自分はアメリカ人である」というアイデンティティの間に板挟みになるのである。 それにしてもこの取材の過程で、幼児期、それも一歳に満たない子も日本に戻っていたことを知って驚かされた。この一歳に満たない子を日本へ連れて来て養育を依頼してハワイへ帰っていった親たちの心情は、どんなにか切ないものであったろう。恐らく過酷な労働に従事し、貧しい生活をしながら子育てが可能かという疑問、そして我が子の幸せを祈る願いがこのような選択を迫ったのではあるまいか。それでも、子どもの養育のために実家が受けることになる負担の大きさを思い、子どもの兄弟全部を戻す家庭は少なかった。掘っ立て小屋の住居に住み、アメリカとしては低賃金でしかも長時間の過酷な労働ではあったが、そこには日本では得られない安定した収入があった。そして移民たちは、その収入から爪に火をともすようにして実家へ仕送りを続けていたのである。 多分、昭和二十六年か、現在の福島県立福島商業高校の卒業生名簿の中に『斉藤誠 アメリカ』とあるのを見つけた。ただしそれ以上の詳細は分からず、正確に『帰米二世』であったとは断定出来ない。それから当時、棚倉国民学校に通っていた橋本敏雄さんが、ハワイから来たという男児と同級であったという。名は忘れたが、クラスのボスに対抗して勝ち、以後いじめられることはなかったという。その後間もなく敏雄さんは転校しているので、その後どうなったかは、知らないという。 私の取材を受けてくれた人の中には、いまだにトラウマとしてショックを感じている人たち、また逆に明るく振る舞おうとする人たちがいる。その姿勢はいろいろであるが、どちらの人たちも平静に過ごそうとしているのが感じられた。 <font size="4">ブログランキングです。 <font size="4">ブログランキングです。 <a href="http://blog.with2.net/link.php?643399"><img src="http://image.space.rakuten.co.jp/lg01/72/0000599372/67/img25855a93zik8zj.gif" alt="バナー" height="15" border="0" width="80"></a>←ここにクリックをお願いします。</font>
2019.11.01
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アロハオエ ハワイの歌といえば、多くの人はこの歌を真っ先に思い浮かべるのではないでしょうか? アロハオエは、『わが愛をあなたに』の意味で、詞の内容は、恋人との悲しい別れを歌った歌です。しかもこれを作ったのがハワイ王国最後の女王リリオカラニで、アメリカによるハワイ統合後、軟禁状態に置かれていたときに書かれた歌だという説もあるくらいですから、穿った聴き方をすれば独立国ハワイのレクイエムとして聴けないこともないという悲しい歌です。 ハワイ王国は、1795年にカメハメハ一世が白人たちの持ち込んだ銃器により全島を統一して成立しました。それもあって早くから欧米の影響を受け、1840年にはカメハメハ三世により憲法を制定し、立憲君主制となって近代国家の体制を固めようとしていました。その一方でアメリカは、米墨戦争(1846〜1848)や南北戦争(1861〜1865)を経て、世界列強の帝国主義による領土獲得競争へと参入して行ったのです。そのアメリカが、1898年に米西戦争の勝利でキューバ、フィリピン、グアムを獲得する中で、ハワイの戦略的重要性も高まっていきました。またハワイでは、この頃から、サトウキビの大規模なプランテーションが急増し、砂糖貴族と呼ばれる白人経営者が発言力を増していたのです。 1887年、リリウオカラニは、イギリス女王ヴィクトリアの在位50周年祝典への招待を受けたハワイ王妃と共に、国王の名代としてヴィクトリア女王に謁見しています。しかし、この留守中に起こされた、王政を打倒しアメリカへの併合を目指す砂糖貴族らを中心にした共和制派のクーデターにより、ハワイ第七代の国王カラカウアは、その武力での脅しによって新憲法草稿に署名させられ、ハワイ史上、悪名高い銃剣憲法が発足しました。それは国王の権力を全て奪い取るような屈辱的な憲法で、たとえば参政権に収入制限を課したため、ほとんどのハワイ人そしてアジア人が投票の権利を喪失し、結果として白人の帰化市民がハワイ王国を牛耳るきっかけになった憲法でした。しかも、ハワイ人による王政の強化を求める王政派のギブソン首相も、国外追放となったのです。そして1891年、カラカウア王は実質的な権力の多くを失ったのです。 1890年、カラカウア王はアルコール依存症によって体調を崩し、医者の薦めでサンフランシスコへ移ったのですが、1891年に亡くなりました。その後を継いだのが、リリウオカラニ女王でしたが、民族意識の高まりの中で、王政派と共和制派の対立が深まっていきました。ここで危機感を募らせた共和制派は、アメリカのスティーブンス公使の要請により、アメリカ海兵隊がイオラニ宮殿を包囲し、翌日には共和制派が政庁舎を占拠して王政廃止と臨時政府樹立を宣言したのです。ハワイ革命と言われます。 王政派による反対集会が繰り返される中、1894年、臨時政府はサンフォード・ドールを大統領として共和国の独立宣言を行ないました。翌1895年、王政派が反乱を起こしたのですが、数日の銃撃戦の後に、海兵隊を主力とする共和制派に鎮圧されてしまいました。その際、リリウオカラニの私邸より、あるいはイオラニ宮殿の庭からたくさんの銃器が見つかったとして、リリウオカラニは反乱の首謀者の容疑で逮捕され、イオラニ宮殿に幽閉されたのです。そして間もなく、反乱で捕らえられた約200人ほどの命と引き換えに、リリウオカラニは女王廃位の署名を強制され、ハワイ王国は滅亡したのです。 1898年、ハワイ共和国はアメリカに併合され、ハワイ準州(Territory of Hawaii)となりました。これは米自治領という側面も持っており、完全に米領になったわけではなかったのですが、やがて準州知事が設置され、さらに真珠湾などに米軍施設が多数建設されると、名実ともにアメリカ領と化していったのです。 ところで歴史家のラヒラヒ・ウェッブの記録によりますと、アロハオエは、まだ若い王女であったリリウオカラニが、オアフ島北部のマウナヴィリという場所で、ある少女と軍人との別れの光景を目にして書いた詞であるとされており、一般的にはこれが定説となっています。しかし歌詞の中の雨を、共和制実現を目指す白人勢力と考え、花を国民とたとえれば、王国の滅亡が目前となった当時の状況や女王の心情に符合することから、この歌に滅びゆく祖国の悲哀を重ね合わせ、国民への感謝と惜別、あるいは再決起や支持を求める思いを込めていたであろうと想像されています。リリウオカラニの悲しみは、恐らく張り裂けるほどの思いだったに違いないと思われます。歌詞は次のようなものでした。 Ha'aheo ka ua i na paliKe nihi a'ela i ka naheleE hahai ana paha i ka likoPua 'ahihi lehua o uka 谷に降り注ぐ大粒の雨森の中を流れゆく谷の花アヒヒ・レフアのつぼみを探して Aloha 'oe, aloha 'oeE ke onaona noho i ka lipoA fond embrace a ho'i a'e auUntil we meet again さようなら貴方 さようなら貴方木陰にたたずむ素敵な人別れの前に優しい抱擁をまた会えるその時まで ハワイの人びとは、心から王族の人々を愛し信頼していました。しかしこのような経緯の中で、アメリカの統治の下で、ハワイ独自の文化も次第にあるいは急激に失われていったのです。リリウオカラニの愛、そして悲しみが込められたアロハ・オエは、ハワイの人々の心のうちを静かに流れていったのです。このアロハ・オエのメロディーは、後に、キリストの再臨による平和の回復を待望するという内容の歌詞が新たに付けられ、讃美歌としても使用されているそうです。この歌が日本に入ってきたのは、昭和の初め頃でした。この曲をハワイ音楽の代表格と意識して、いろいろな人が取り上げていたのです。 私がハワイへ最初の取材に行って帰国する前の晩、何人かの協力者がお別れ会を開いてくれました。そして宴が終った時、皆んながアロハオエを歌ってくれたのです。このアロハオエが『別れの歌』であったとは知らなかった私は、英語では歌えないので、自分としては、気持ちよく一緒にハミングしたのです。いま思い返すと、恥ずかしい思いでいっぱいです。 <font size="4">ブログランキングです。 <a href="http://blog.with2.net/link.php?643399"><img src="http://image.space.rakuten.co.jp/lg01/72/0000599372/67/img25855a93zik8zj.gif" alt="バナー" height="15" border="0" width="80"></a>←ここにクリックをお願いします。</font>
2019.10.15
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ハワイへの移民以前 日本人のハワイ上陸の歴史は、自分の意思で移民をした人たちではなく、漂流民から始まりました。記録に残る最初のハワイへの漂流民は、カメハメハ大王がハワイ王国を創り上げた後の1806年のことで日本では文化三年、十一代将軍徳川家斉の時代にあたります。それ以前にも漂流してハワイにたどり着いた日本人が居た可能性はありますが、それは想像の域を脱しません。 安芸国の稲若丸は大坂から伊勢に向かう途中の1月、暴風雨に遭い漂流、幸いにも3月になって米国の捕鯨船に助けられ、乗組んでいた8名全員が1806年4月にオアフ島に上陸して、カメハメハ大王に謁見をしました。しかし鎖国をしている母国に直接帰ることは叶わず、翌年2名が長崎に上陸して、生き残った平原善松のみが取調べに対してハワイについて口述しています。 天保九年(18389)、富山の運搬船・長者丸が、三陸の釜石のあたりで西風にあおられて漂流、五ヵ月後にアメリカの捕鯨船、ジェームスローパー号に救助され、10名の乗組み員の内、生存していた7名がハワイ島ヒロに到着した後、カムチャッカ経由で、天保十四年(1843)に帰国を果たしています。 ハワイに到達した漂流民の中で、最も名が知られているのは、ジョン万次郎です。天保十二年(1841)、他の4人と共に鳥島に流れ着いた後、アメリカの捕鯨船・ジョン ハウランド号に救助され、ホノルルに上陸しています。国外の事情は、公式には長崎のオランダ商館経由でしか知り得るルートの無かった徳川時代の後期、漂流民からの聞き取りは、開国派と攘夷派のせめぎ合いの中、非公式ながらも大変有益な国外情報となったのです。これは後に元年者と称されるようになる移民が、1868年・明治元年五月に149人の日本人移民が、ハワイに到着する前のことでした。 ちなみに、元年者という名は、彼らが明治元年に日本を出発し、ハワイの地を踏んだことに由来しています。1835年当時、ハワイのカウアイ島ではにサトウキビのプランテーションが始まり、中国人労働者が最初の移民として活躍活動していました。その後、ハワイ王国政府は他人種の労働力も必要と判断し、その一環として日本人の移民を徳川幕府に打診したのです。 この最初の移民を送り出すにあたってはさまざまな問題がありました。当時、徳川幕府は開国直後でしたので、外国公使はまだ少なく、ハワイの公使もおりませんでした。そこでハワイ王国政府は、当時神奈川県に住んでいたアメリカ人の商人・ユージン・M・ヴァンリードをハワイ総領事に任命したのです。そこでヴァンリードは徳川幕府に対し、350人の移民希望者に対しての旅券を求めたのですが、180名の許可しか下りませんでした。ところがその年、江戸は無血開城によって新政府の支配下に入ったため、徳川幕府の発給した旅券はすべて新政府の旅券と交換するという名目で全員の旅券を取り上げられました。ところが新政府からの旅券は、発給されないままとされました。そこでやむを得ないと考えたヴァンリードは、五月二十二日、自らの判断でイギリスの船サイオト号を雇い、移民希望者を旅券がないまま出航させたのです。 これが新政府での問題とされ、ヴァンリードは人身売買を行ったという罪で訴えられます。紆余曲折ののち、彼の罪は不問に問われましたが、以後にしこりを残すことになりました。そこで翌・明治二年(1869)十月、新政府は移民者全員を帰国させるべく公使をハワイへ送りました。移住者たちが、さまざまな苦情を訴えたことに端を発するこの問題は、本土のサンフランシスコで過大に取り上げられることで、新政府としても無視することができなくなったためです。 移民たちのサトウキビ畑での仕事はたしかに大変なものでしたが、ハワイ王国ではそれまでの中国人労働者の仕事を通して可能な労働量を見きわめていなかったことと、肥大化する一途のサトウ産業を支えるために、より多くの労働力を必要としていました。そのための日本人移民でしたから、新政府特使による帰国の呼びかけに対し、戻ってきたのは結局43名にすぎなかったのです。 元年者の契約は3年間だったため、契約終了後は大半が帰国したということになっていますが、実際は残った100名以上のうち、契約終了後に帰国したのは11人にすぎませんでした。残りのほとんどはアメリカ本土への移住を許可されたので、約半数がサンフランシスコに移り住みました。しかし彼らの、その後の動向は杳としてわかりません。元年者のうち、最終的にハワイに残ったのは25名で、その大半はハワイの女性と結婚した男たちでした。この25名が、今日に至る日系ハワイ人の大本となる元年者となったのです。 明治十八年(1885)、日布移民条約が結ばれ、官約移民として多数の人々が続々とハワイへとやって来ました。主に広島や山口、熊本、そして福島などの農村から、より良い生活を夢見て、いくつかの行李に身の回りのものだけを詰めて、ハワイへ渡ったのです。これらの移民一世たちが働いたのは、ハワイ各地のプランテーションと呼ばれたサトウキビ農場でした。彼らは出身地ごとに分けられ、様々なプランテーション・キャンプに居住したのです。そこでは個人名ではなく、番号で名前を呼ばれながら、農場での過酷な労働に耐え忍び、故郷へ送金を続けたのです。当事日本では年収が十円だったところ、ハワイでは212円が稼げたのです。移民達はできるだけ節約をし、日本の家族へ送金したのです。 現在ホノルルにある日本文化会館のギャラリーの入り口には、ずらりと石の柱が並んでいます。そのひとつひとつに、日本語で言葉が刻まれています。孝行、恩、我慢、頑張り、仕方がない、感謝、忠義、責任、恥、誇り、名誉、義理、犠牲。これらは、日系一世の人々が大事にしてきた価値観です。より良い生活を求めてハワイに渡り、大変な困難の中、汗にまみれて働きぬいた1世の人々の、つつましいながらも誇りある生き方がじわじわと胸に迫ります。特に「仕方がない」という言葉は、当事の大変な暮らしを思い起こさせるものです。ハワイは移民一世にとって、決して夢の国、楽園ではなかったのです。 <font size="4">ブログランキングです。 <a href="http://blog.with2.net/link.php?643399"><img src="http://image.space.rakuten.co.jp/lg01/72/0000599372/67/img25855a93zik8zj.gif" alt="バナー" height="15" border="0" width="80"></a>←ここにクリックをお願いします。</font>
2019.10.11
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ユキ ミワ キタオカよりの手紙。 私、ユキ ミワ キタオカ は、大正二年(1913)に生まれました。そして私の両親、 ハルエイとタリ ミワは、福島県三春町の出身です。私の父方の祖父は、三春藩の医者でした。私は祖父が、サムライと考えられたかどうかは、わかりません。父の姉妹は8人か9人でしたが、父はただ一人の息子でした。私は、父がどのような教育を受けたかなどについて、本当に知りません。私が知る限りにおいて、父は学校を卒業してから、三春で学校の教師になりました。そして母は、父の教える生徒になりました。私は彼らの間には、およそ5または6歳の差があったと思います。また母の生い立ちがどうであったか、これも私はわかりません。しかし母は、遊び以外の何もしないで育ったので、ハワイに来たとき、家事について何も知らなかったと言っていました。母は、裕福な家庭で育ったようでした。 父と勝沼富造は従兄弟で、同じ町の出身でした。それもあって、私の父と彼とは、非常に親しくしていました。はじめ富造は、サンフランシスコに渡り、それからユタのソルトレークの大学に入学して獣医の資格を得ました。その後に彼はハワイに来て、ハワイ王国移民官になったのです。ですから、勝沼富造が、ハワイでこの仕事を得たとき、勝沼は父がハワイに移民するのを奨励したのです。勝沼は父に、ハワイに来てください、ハワイの学校に行ってください、そして、父がしたいことは何でもしてください、と言ったのです。それで父は移民に興味を持ち、ハワイへの移民を決意したのです 父がハワイに来ることを決心するとき、私は父が、しばらく三春の勝沼家に泊まったと聞いています。そしてハワイに来た父は、マウイ島のハマクアポコに移住し、ハマクアポコの英語学校に入りました。その後、父は日本にいる母にラブコールの電話をすることに決めました。彼らは、その時まだ結婚していませんでした。それから母は、ハワイに来、そして二人は結婚し、二人はハマクアポコに住みました。私は父が、非常に心のしっかりした人であったことを覚えています。ミワ家は、ハマクアポコで、3人の子どもたちが、そしてカウアイ島のリフエで他の3人が生まれました。私は、ハマクアポコで生まれました。 私は日本軍の役員であった一人の兄がいましたが、母は日本に住んでいた自分の妹への手紙で、妹がこのことについて、他に決して話さないようにと伝えていました。私は、母とその妹との間で多くの手紙の遣り取りがあり、その手紙で箱が一杯になったのですが、私は日本語を知らないのでそれらを読みませんでした。母は常に上品で、最も素晴らしい女性でした。私の夫は私に、最も素敵な、そしてとても穏やかな日本の女性の一人として彼女を覚えている、と言います。 ハワイの初期の生活については、父が決して話さなかったので、私は本当のことは知りません。しかも私はハワイ生まれでしたので、日本語があまり得意でありませんでした。しかし私は、日本語学校で日本語を学びましたので、片仮名は少し書けます。しかし今になると、日本語を読むことさえできません。少し話をすることができる程度です。しかし我々家族は、英語と簡単な日本語の半分半分で話しをしました。母は、英語で話すことを好みませんでした。誰かと話すときは、日本語で話しをしたのです。母は、ハワイに来てから一年は、泣いて暮らしたということでした。住んでいた場所がとても原始的だったので、母は日本に戻りたかったです。プランテーションでの生活は、何もなく、贅沢などできなかったのです。 私には、姉がいました。姉は隣の人と日本に行ったのですが、戻って来ませんでした。それで私は、写真を通して以外は、姉のことを知りません。私は、親たちが喜んで姉を日本へ行かせたかどうか、また、隣の人と姉が全く戻って来なかったかどうかを尋ねましたが、常に話しをはぐらかされてしまいました。結局姉は、帰って来なかったのです。 私たちがハマクアポコにいたときのことは、私は小さかったので、ほとんど覚えていません。しかし私は、私の2人の姉の間に生まれた兄が、わずか2才で亡くなったと聞いています。私が生まれる前に死んだので、私はまったく兄を覚えていません。一方の姉は、よく、「私は、あなたにおしめを当てたものですよ。」と言って私をからかっていました。 なぜかわかりませんが、私の家に、一人の日系の男の子が来ました。明らかに彼は、貧しい家族の出身でした。彼は、私の家族と一緒に暮らして、家などのまわりでの仕事を手伝っていたのですが、私はまったく、わが家と彼との関係を知りませんでした。彼はその後、ここに住んでいたのち大学へ行ったと聞いています。私が彼について覚えているのは、これだけです。 その後家族は、ホノルルへ引っ越しました、そして私は、家族がどのくらいここにいたか、わかりません。しかしホノルルにいたとき、私は父が、ホノルルのマノア日本語学校で教えるよう頼まれて行ったと教えられました。父は英語を本当に読むことができました。しかし、彼は決して英語を話そうとしませんでした。 話しは、ここで終わっています。私のつたない翻訳によるものですが、当時のハワイ移民の生活の一端を知って頂けたらいいな、と思っています。なおこの文を送ってくれたトーマス カツヌマは、文中に出てくる勝沼富造の孫で、今年(2019)76歳になります。また富造は、ハワイ移民の間でダクターカツヌマと呼ばれ、慕われていました。 <font size="4">ブログランキングです。 <a href="http://blog.with2.net/link.php?643399"><img src="http://image.space.rakuten.co.jp/lg01/72/0000599372/67/img25855a93zik8zj.gif" alt="バナー" height="15" border="0" width="80"></a>←ここにクリックをお願いします。</font>
2019.09.15
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ハワイ移民の父〜勝沼富造 文久三年(1863)、福島県三春町に生を受けた加藤木富造は、戊辰戦争後、三春藩校の明徳堂に入りましたが間もなく行われた学制改革により、明徳堂は三春小学校となりました。その間に富造は、三春に開設された聖ヤコブ教会のカナダ人宣教師に、次兄の重教(しげのり)とともに英語を習いはじめました。三春藩の柔術師範であった父の加藤木重親は、武士としての資格を失っていました。その父の意向により、長男の周太郎が家を継ぎ、次兄の重教は電気技師に、三男の富造は学校の教師になるようにと指示されました。 それに従って富造は三春師範学校に入学したのですが、間もなく三春師範学校は福島師範学校に吸収されたので福島町へ行くべきでしたが、当時、三春で澎湃として起こっていた自由民権運動という不逞な運動に若い富造がかぶれるのではないかと怖れた父の重親により、富造は仙台の英学校に転校させられたのです。しかしこの学校で富造は、自由民権運動家でもあった菅原伝や小野目文一郎と、共に学ぶことになったのです。その頃富造は、勝沼家の養子となり、姓が加藤木から勝沼に変わっています。 仙台から三春に戻った富造は、今の郡山市田村町下道渡にあった田村郡道渡村の小学校長に任命されたのですが、間もなく田村中学校の教師に招かれ、そしてこの頃に結婚しました。このような時、富造はアメリカへ渡る決心をしたのです。それには次兄の重教が、電話研究のため渡米することになったのがキッカケでした。富造は重教と一緒に渡米、重教はニューヨークへ、そして富造はサンフランシスコに留まったのです。サンフランシスコには、仙台英学校の同級生の、菅原伝がいたのです。富造はそこで自由民権運動のための機関紙を印刷し、日本に送っていたのですが、日本での自由民権運動の終焉と共にその仕事を失い、鉄道建設に職を変えました。それから富造は、アメリカ各地を転々とすることになります。 ユタ州のソルトレークで仕事をしていた時、地元の有力者のアムッセンと知り合い、その信頼を得た富造は、鉄道建設の仕事を辞めました。そして富造はアムッセンの援助で、ブリガムヤングカレッジの獣医学部を卒業し、アメリカでの獣医の資格を取得したのです。ところが日本で養蚕の経験のあった富造は、ビーハイブ扶助協会(教会婦人会)で、養蚕について教えることになったり、ユタ州オグデンの矯正学校で、養蚕を教えるようになったのです。その上、富造は、アムッセンに教えられてユタの州兵となってアメリカ国籍を得、末日聖徒イエス キリスト教に改宗したのです。日本人最初の教徒とされています。富造のアメリカでの生活は、順調でした。いずれ富造は、三春に残してきた妻子を、呼び寄せる積もりでした。 そのような時、富造は、在サンフランシスコの日本領事館から、呼び出しを受けました。ハワイ共和国の移民官にならないかというものでした。当時ハワイには白人が進出し、彼らが持ち込んだ病気で、ハワイの人口が激減していたのです。その労働力の不足を、ハワイは移民で補おうとしていたのです。富造はこの申し出を受け入れました。そしてハワイに赴任した富造は、移民募集のため、故郷の福島県に戻り、募集活動をはじめました。しかもそれにはまた、あの菅原伝の協力を得たのです。菅原伝は、熊本移民会社に関わっていたので、その会社の福島出張所ということで活動をはじめたのですが、思ったようには進みませんでした。 多くの努力を続けながら勧誘に回っていた福島の町で、ようやく一人の男が手を挙げました。伊達崎村宮北(いまの伊達郡桑折町)の岡崎音治でした。やがてそれが突破口となって、次々と移住希望者が応じてきたのです。しかし移民となる彼らは、送り出す親との間で、大いなる葛藤が生まれたことは、想像に難くありません。ともあれ音治の参加で喜んだ富造は、彼とは大親友となり、ハワイに渡ってからですが、どちらか後に死んだ方が先に死んだ者の面倒を見るという約束を交わします。この約束を交わしたのち、岡崎音治が先に亡くなりました。富造は音治の生まれ故郷の霊山から石を運び、ホノルルのマキキ墓地の『明治元年者渡航者之碑』に並べて、立派な墓を作っています。 富造の努力もあり、ハワイには多くの福島県民が渡りました。『ハワイ移民の父』と称えられた理由です。富造が移民を送り出した初期は、ハワイは共和国として独立していました。ところが時を経ずして、アメリカのテリトリーとなったのです。そのためハワイ共和国の法律は停止され、アメリカの法律が施行されたのです。ハワイの社会は、大きな混乱に見舞われました。ところで私が富造の取材のためハワイを訪れたとき、富造の孫のトーマス カツヌマとジョージ スズキが言っていたことを思い出します。「おじいちゃんは、金持ちだったのです。しかし移民の福祉のために多くのおカネを使い、亡くなったとき、私たちに何も残しませんでした。」それは富造が移民たちの側に立ち、アメリカ、つまりハワイの政府官庁と日本政府の間に立って、苦労をしていたということでしょう。 大正四年(1915)、富造はホノルルロータリークラブ27人のチャーターメンバーの一人でした。東京のロータリークラブ の発足が大正九年(1920)でしたから、それより5年も前のことになります。当然日本においては、この年以前には、ロータリアンはいなかったことになります。すると富造は、日本人最初のロータリアンであった、と考えられます。富造が人望、資産ともに有していたことを、示唆するものと思われます。ここ他にも富造は、大きな仕事を手がけています。それは日本人移民に対する、アメリカ国籍の問題でした。 アメリカのテリトリーとなったハワイでは、ハワイで生まれた子供は親の国籍とは関係なしにアメリカ国籍が与えられました。そして日本人以外の移民一世にも、アメリカの国籍が与えられていたのです。しかし何故か、日本人一世には与えられていなかったのです。富造は高知県出身の奥村多喜衛らとともに、『日系一世にもアメリカ国籍を与えよ』という運動をはじめました。勿論この間には、日本人に限らず、アジア人に対しての差別があり、多くの問題や衝突がありました。しかしこの運動は、簡単には進みませんでした。立ちふさがったのは、人種偏見という壁でした。ハワイの移民たちは、人種偏見とも戦わなければならなかったのです。これら多くの出来事につきましては、割愛させて頂きます。ハワイで作られた日本語の民謡にホレホレ節がありますので、この歌から、当時の様子が感じられると思います。 『 ハワイ ハワイとよー 夢見てきたが 流す涙は 甘藷(きび) の中 雨は降り出すよー 洗濯もんは濡れる 背中(せな)の子は泣く 飯(まんま)焦げる 行こかメリケンよ〜帰ろかジャパン ここが思案のハワイ国』 昭和十六年(1941)十二月八日(ハワイ時間七日、日曜日)、日本は真珠湾を攻撃しました。多くの指導的立場の日系人がアメリカ本土の強制収容所へ送られて行きました。ただ富造は老齢を理由に送られないで済んだのですが、これらハワイでの問題は、富造ら残された者たちの肩に背負わされたのです。そしてこの『日系一世にもアメリカ国籍を与えよ』運動は、日本のパールハーバー攻撃により、挫折することになります。その他にも、帰米二世の問題、ハワイ州立大学学生によるVVV(学生勝利部隊)の結成、ハワイの日系二世によるアメリカ陸軍第100大隊のヨーロッパ戦線への派兵、全米の日系二世による第442連隊が創設され、イタリア、フランス、そしてドイツで戦っています。ハワイに残された者には残された者の苦悩がありました。しかしこれらに対して、富造は何も語ってはいません。これらのことについても、割愛せざるを得ません。なおこの割愛した部分については、項を改めたいと思っています。 そしてようやく迎えた終戦。戦後になっても富造は、日本人として「日系一世にもアメリカ国籍を!」の運動もならず、後ろめたい気持で過ごしていたのですが、しかも富造は、重い病の床にあったのです。ところが一方アメリカ本土では、ネバダ州選出の上院議員パトリック マッカランとペンシルベニア州選出の下院議員フランシス ウォルター ジャッドが中心となり、日系二世部隊の活躍を背景にして、『日系一世にもアメリカ国籍を!』の法案成立に尽力し、活動をしていたのです。しかしこの法律の元となる『移民帰化法』の改正は、以前から何度となく試みられていたのですが、国会では「何故交戦国の日系人に?」という反対論が強く、実を結ぶには至らなかったのです。昭和二十四年(1949)には、ジャッド議員の提出した法案が下院において圧倒的多数で可決されていたのにも拘らず、上院では南部を代表する議員の反対に会い、棚上げされていました。病に倒れた富造は、すがるような気持で、ジャッド議員のような人々の努力、そして日系アメリカ市民協会による議会、世論への積極的な働きかけなどのニュースを聞いていたと思われます。 昭和二十五年(1950)九月十一日、富造はこの大きな仕事をやり残し、老衰のため亡くなりました。そして彼の死亡記事が略歴とともに載ったハワイタイムスの第一面トップが、次の記事でした。 『大統領の裁可拒否を覆すことが出来る ウォルター議員が豫言 明後日再通過動議を提出せん そして九月十三日、富造の葬儀の記事の載った新聞の一面には、次の記事が載せられていました。 『ウォルター歸化案 けふ下院を再通過 大統領の裁可覆へさる 上院で同様の措置をとれば立法化』 注=ウォルター歸化案。1952年に上院を通過して施行されたが、策定者の名前からマッカ ラン=ウォルター法とも言われる。それはこの下院通過2年後のことであった。 私はもしあと二日、富造が生きていたら、どんなにか喜んだであろうと想像し、この事実こそが、富造の自伝的な小説、『マウナケアの雪』を書く理由であり、顕彰碑を建立する気持ちとなったのです。ちなみにハワイ島のマウナケア山には雪が降りますし、この山の頂上には、日本の天文台、スバルが活動しています。 この取材にハワイに行ったとき、富造の孫にあたるトーマス カツヌマとジョージ スズキがこう言って苦笑いをしていました。「おじいちゃんは、金持ちだったのです。しかし移民の福祉のために多くのおカネを使い、亡くなったとき、私たちに何も残しませんでした。」それは富造が移民たちの側に立ち、ハワイの政府と日本政府の間に立って、苦労をしていた結果であったのかも知れません。なお富造の孫のジョージ スズキは、戦後、広島の原爆病院に関与し、日本政府から旭日双光章の表彰を受けています。三春から出た勝沼富造の孫もまた、日本に多大な貢献をしていたのです。 平成二十九年七月十九日、ハワイよりトーマス カツヌマ一家7人、ホノルル福島県人会、ホノルル ボンダンス クラブ、琉球国祭り太鼓ハワイ支部合計約40人が、三春国際交流協会(ライスレークの家)の庭で、勝沼富造顕彰碑の除幕式に参加してくれました。福島民報、福島民友、朝日新聞、読売新聞にそしてHawaii Pacific Pressに大きく取り上げられました。ところで2011年の東日本大震災、そして付随して起きた東京電力福島第一原子力発電所の放射能事故に際して、福島県にハワイから多額の募金と協力がありました。県としてはそれなりのお礼をしたとは思いますが、民間としてはありませんでした。それらを踏まえ、今年2019年7月、郡山のドンカラック男声合唱団がお礼の演奏会をホノルルで開きました。これにはドンカラック合唱団員間に勝沼富造を見直そうという動きもあり、それに私も同道し、演奏会に先立って勝沼富造についての講演をしました。これらの活動が、勝沼富造について多くの人に知られる機会になればいいな、と思っています。 <font size="4">ブログランキングです。 <a href="http://blog.with2.net/link.php?643399"><img src="http://image.space.rakuten.co.jp/lg01/72/0000599372/67/img25855a93zik8zj.gif" alt="バナー" height="15" border="0" width="80"></a>←ここにクリックをお願いします。</font>
2019.09.01
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ハワイ最初の移民団・元年者(がんねんもの) 1810年、日本流に言うと文化七年のカメハメハ一世による建国から、1895年、明治二十八年まで八代にわたり続いたハワイ王国。そのハワイでは、1850年、嘉永三年から外国人による土地の私有が認められるようになりました。そのため白人の投資家たちの手によって、ハワイ各地にサトウキビ農場が設立され、一大産業へと急成長したのですが、その反面、白人たちが持ち込んだ病疫により、人口が激減してしまったのです。 この増加する農場に対し、ハワイ王国内のハワイ人のみでは労働力を確保することが難しくなり、天保の頃の1830年代より国外の労働力を輸入する方策が模索されはじめ、嘉永五年、1852年、三年間という契約で、中国より最初の契約労働者がハワイへ来島しました。以後も中国より多数の労働移民がやってきたのですが、中国人らは定着率が悪く、契約終了後、独自に別の商売を始めたりするなどしたことにより彼らに対する風当たりが強くなったことから、ハワイ政府は中国人移民の数を制限し、他の国から労働力を輸入するようになりました。そのためハワイでは、勤勉な日本人の移民を求める気運が高まっていました。万延元年、1860年、カメハメハ四世は、福沢諭吉や勝海舟が参加していた遣米使節団がハワイに立ち寄った際に、また慶応三年(1867)にはカメハメハ五世が、日本に移民要請の親書を寄せていたのですが、戊辰戦争に向かう混迷下にあった日本には、残念ながら、そんな余裕がありませんでした。 そこでハワイ王国政府は、アメリカ人貿易商で在日ハワイ国総領事を兼ねていたユージン・ヴァン・リードに江戸幕府と交渉させ、ようやく移民三〇〇人分のパスポートを発行させたのです。ところが、移民が出港する前に戊辰戦争が起き、新政府が発足してしまったため、出航目前のすべての計画が、立ち消えとされてしまったのです。ところがなんと、リードは日本政府の許可を得ぬまま、その153名の日本人をホノルルへ向けて出航させてしまったのです。この最初の日本人移民は明治元年(1868)にハワイに渡ったことから、元年者と呼ばれるようになりました。翌明治二年、日本政府は自国民を奪われたとして使節団をハワイに送り、抗議を行いました。その結果、契約と異なる過酷な労働に不満を持つ40人を即時帰国させ、残留者には待遇改善を約束させることで両国間の悶着は一応の決着をみることとなりました。 しかし、ふれこみとは違う砂糖キビ農園における過酷な労働は、元年者移民の中から三名もの自殺者を出しました。もちろんそれは酷暑と失望という、自然、精神状況もあったのですが、酷使と苦痛という人為的問題も絡んでいました。そのため元年者と呼ばれた153人の内少なくとも男性50人、女性6人は、契約と実際の状況が違うと年季を待たずに帰国しています。明治五年(1871)、日布修好通商条約が調印されました。しかし元年者の中には、リーダーとなった牧野富三郎、最年少13歳の石村市五郎、本当の意味での元年者ではありませんが、マウイ島で102歳の生涯を終えた石井千太郎、ハワイ人女性と結婚してワイピオ渓谷に住んで子孫を残した佐藤徳次郎、それから明治十九年、1886年に初の在ハワイ王国総領事となった安東太郎など、後の日系移民の語り草になった人たちがいたのです。 一方で、ハワイ王国のデイヴィッド・カラカウア王は、1874年、明治七年の二月に即位、ハワイ経済の振興のために自らアメリカに出向いて砂糖キビなど島の特産品の輸入自由化を進めるなど、積極的な外交策を展開した国王です。そのカラカウア王が、移民問題、及び外交関係の改善を目的としてサンフランシスコに立ち寄った後、アメリカには秘密にして太平洋を横断し、日本にやって来たのです。 明治十四年(1881)、初の外国元首の来日となった日本では赤坂離宮で王を歓待、明治天皇と会談した際に、王は幾つかの提案をしました。その一つが日本政府公認の移民の要請であり、さらには王の姪で五歳のカイウラニ王女と、十三歳であった山階宮定麿王、後の東伏見宮依仁親王(よりひとしんのう)との縁談であり、日本とハワイの連邦構想であり、日本・ハワイ間の海底ケーブルの敷設であり、さらに日本主導によるアジア連邦の実現を提案したのです。しかし明治天皇は「国力増強に努めている日本政府には、そこまでの余力はない」として断っています。 カラカウア王がこのような提案を行ったのは、ハワイ王国の存亡がかかっていたからです。その原因の一つは、欧米人が持ち込んだ病気によるハワイ原住民の急激な人口減少でした。加えて、ハワイをアメリカの属州にしようというアメリカの影が、刻々と忍び寄っていました。王は、なんとしてもハワイ王国を存続させなければとの思いの中で、移民により、すでにハワイの人口の四割を占めながら、基幹産業であるサトウキビ農業の働き手として白人にこき使われ、奴隷同然に搾取され続けていた日本人に注目していたのです。結果として、これらの提案のうち、移民政策以外は実現に至りませんでした。確かに当時の日本としては、急激な西洋化の波に揉まれている最中にあったため、海外にまで目を向ける余裕もなかったと思われますが、仮に結婚やハワイとの連邦結成が実現していたら、太平洋の地図が今とは違うものになっていたかも知れません。 明治十年、1885年、日布移民条約が結ばれ、ハワイへの移民が公式に許可されるようになりました。政府の斡旋した移民は官約移民と呼ばれ、明治二十五年、1894年に民間に委託されるまで、約二万九千人がハワイへ渡りました。この官約移民は、「三年間で四百万円稼げる」といったことを謳い文句に盛大に募集が行われたのですが、その実態は人身売買に近く、半ば奴隷に近かったようです。労働は過酷で、ハワイ語でルナと言われた現場監督の、鞭で殴るなどの酷使や虐待が行われ、一日十時間の労働で休みは週一日、給与は月額10ドルから諸経費を差し引かれた金額でした。これは労働者が契約を満了することを義務付けられたハワイの法律、通称・主人と召使法に縛られ、仕事を中途で辞めることが認められていなかったのです。 明治二十五年、1894年に官約移民が廃止され、以後は日本の民間会社を通した私約移民つまり斡旋によるものが行われるようになりました。これら移民事業を行う会社が30社以上設立され、特に広島海外渡航会社、森岡商会、熊本移民会社、東京移民会社、日本移民会社は五大移民会社と呼ばれました。このような明治三十一年、1896年、福島県三春町出身の勝沼富造は日本政府の要請を受け、ハワイ共和国移民官としてホノルルに赴任しました。そしてその直後、熊本移民会社の協力を受け、ハワイへの移民募集のため福島県に戻りました。富造は多くの移民を集めてハワイへ連れて行きよく面倒を見たため、『ハワイ移民の父』と賞賛されました。そして時が経ちます。大正十年、1921年三月二十六日、ホノルル市ワイキキ海岸の塩湯において、有志の主催による草分け同胞の親睦会が開催されました。この時の模様を勝沼富造は、元年者およびその子孫に会って、深い感動と様々な教訓を得たと、その著、『甘藷のしぼり滓』で述べています。 『三月二十六日ホノルル市ワイキキ塩湯の勇公(東京人)方に於いて、草分け同胞の親睦会を催しました。マウイ島キバフル耕地耕地の石井仙太郎翁(八九)カウアイ島リフエ耕地の佐久間米吉翁(八二)ホノルルの谷川(棚川)半蔵翁(八二)同棚田(吉田)勝三郎翁(七六)の四氏、及び其の子孫などに面会し、深き感銘と色々の教訓を得ました。再び、かかる会合に出会うことは、難しいことと考えています』 草分け同胞の親睦会を、1921年に催しましたが、結局その後、この会合は開かれないでいました。しかしその五年後に、元年者の偉業をたたえる『明治元年渡航者之碑』が、ホノルル市マキキ墓地内の小高い地に建立することになったのです。これらについて、『ハワイ日本人移民史』より転載します。 『元年者及びそれに続く第一回船同胞のハワイに渡来して以来、各島耕地及びホノルルの墓地には、年月を経ると共に、いつとなく誰訪う人もなき無縁塚が多くなってきた。せめて元年渡航者の記念碑を建立し、二世以下の子孫のため、後世に伝えたいとの希望が有志の間に起こっていた。 元年者の一人である吉田勝三郎翁が大正十四年、1925年十二月に死去し、その一周忌の前後から、右の記念碑の建立が実現のはこびとなり、そのための委員会が発足することになった。委員には、喜多鶴松、喜多捨松、本庄大二、三樹七之輔、黒田重三郎、勝沼富造、古川茂生、相賀安太郎の各氏が選ばれた。これらの諸氏は、昭和二年、1927年二月に日布時事社に集まって碑の建立についての打ち合せ会を開きその設立にとりかかった。 こうした有志の働きは各方面から多大の賛同を寄せられ、ついに元年者の遣業をたたえる「明治元年渡航者之碑」の完成をみたのである。 昭和二年(1927)五月八日午前十時、およそ六十名の参加者を得て、記念の除幕式を厳粛のうちにも盛大に行なわれた。 式の模様を相賀安太郎氏は、初めに司会者たる筆者(注、相賀安太郎)の挨拶と報告に続き、当日特に列席せる元年者中の生存者九十四歳の石井仙太郎翁(注、明治元年以前の渡航著で本当の元年者ではない)と、八十九歳の棚川半造翁両人の手にて除幕式を行い、出雲大社宮司宮王、三上両氏の祭式、一同の玉くし捧呈を終り、勝沼富造ドクトル、桑島総額事、原田博士の所感談後、石井、棚川両翁へ各コァ製ステッキを贈呈し、石井翁より感慨無量なる謝辞があり、式終って参列者一同碑前にて記念の撮影を為した。』 元年者の記念碑は約一トンもある自然石で、オアフ島ハレイワ大正学校内より掘り出されたものを譲り受けたという。碑面の文字『明治元年渡航者之碑』は総領事桑島主計の筆によるものでした。また碑の台石には日本語の碑文が銅版に刻まれており、碑銘のすぐ下には英語による碑文が同じく銅板に彫刻されてはめ込まれました。この元年者の碑は、明治元年(1827)から約60年後になって、建立されたのですが、この建立には、福島県出身の勝沼富造が深く関わっていたのです。 <font size="4">ブログランキングです。 <a href="http://blog.with2.net/link.php?643399"><img src="http://image.space.rakuten.co.jp/lg01/72/0000599372/67/img25855a93zik8zj.gif" alt="バナー" height="15" border="0" width="80"></a>←ここにクリックをお願いします。</font>
2019.08.15
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