三春化け猫騒動(抄) 2005/7 歴史読本 0
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帰米二世=あとがきと参考文献 あとがき この話を書くキッカケは、本文にも書きましたが、2011年6月にロイ トミナガさんから受けた示唆によるものでした。早く書き上げたいと思いながら、ようやく2017年にもなってから刊行準備に入りました。この間ほぼ5年という年月を要してしまったのです。この長い期間の間に、取材に応じてくれた人のうちの1名が亡くなっています。時間は、本の完成を待っていてくれなかったのです。このように長期に渡った筆の遅れは、ひとえに私の不勉強によるものです。決して明るくはないこの話を、何とかいい形で終わらせたいという気持ちが、先行していたからです。 それでもようやく出版に漕ぎつけたのですが、今度は具体的な形を持たない話のために、表紙のデザインに悩まされました。しかしそれは、不二印刷さんのご提案により、難なく解決していただきました。ありがとうございました。はじめ、本のタイトルの予定は、『帰米二世〜二つの祖国の狭間で』でした。ところが出版社との間で、初校・2校とチエックを重ねているうちに、大事なことに気がついたのです。 もともと私は、この本が仕上がったら、ハワイの協力者たちに贈ろうと考えていました。そのため、せめてサブタイトルは、英文にしようと思っていました。そこでメーンタイトルの『帰米二世』大きくし、サブタイトルの『二つの祖国の狭間で』を二行目に小さく、その下に『Memories of the Kibei Niseis』と入れようと考えたのです。しかしそれは、我ながら納得できる文字の配列ではなかったのです。そこで思い切って、この表紙にしたのです。 書店の店頭に並べた場合、英文のタイトルが大きいので奇異に感じる方がおられるかも知れませんが、このような理由からでした。言い訳はともかく、この話をまとめるについては、取材に応じてくださった方々や多くの方々のご協力がありました。 この場をお借りして、心よりお礼を申し上げます。 ありがとうございました。 参考文献1958 福島移民史 高橋莞治 福島ハワイ会1971 A History of Japanese in Hawaii The United Japanese Scciety of Hawaii1982 ある二世の轍 比嘉太郎 ハワイ報知社1985 海を渡った日本宗教 〜 移民社会の内と外 井上順孝 弘文社1995 帰米二世 山城正雄 五月書房1998 ハワイ・さまよえる楽園 中嶋弓子 東京書籍2004 マウナケアの雪〜勝沼富造の生涯 橋本捨五郎 福島民報社2008 我ら同胞のために〜日系二世アメリカ兵 橋本捨五郎 福島民報社 水土の礎 http://suido-ishizue.jp/index.html ノーノー・ボーイの世界を探る http://www.discovernikkei.org/en/journal/2016/1/22/no-no-boy-1/ 取材協力者 (敬称略) キヌ スズキ。ジェーン アキタ。フミコ カメダ。ヒデオ トウカイリン。 ヒロシ ヨシダ。ミツエ タカハシ。イチコ ワタナベ。シツコ アベ。 ウェリアム ゴトウ。イサム アベ。トーマス カツヌマ。ジョージ スズキ。 ロイ トミナガ。リン レーガン。ブライアン モト。ウォルター タチバナ。 森口マリアン。橋本敏雄。吉田恭亮。ブログランキングです。 ←ここにクリックをお願いします。
2017.03.21
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未来への架け橋 七月、そして八月にかけて、ハワイの仏教寺院の境内は連日『ボン・ダンス』で賑わう。ボン・ダンスとは盆踊りのことである。日本では、盆踊りはとくに仏教寺院との関係を意識されないが、ハワイでの盆踊りは、お盆の先祖供養行事の一環として行なわれている。各寺院でのボン・ダンスの日程が重ならないようにと時期を少しずつずらしてやるから、この二ヶ月間は、ほとんど毎日のように、どこかでボン・ダンスが行なわれていることになる。 ボン・ダンスには若者もやってくる。日系人ばかりではなく、いろいろな人種の人たちも踊りの輪に加わってくる。やぐらの上からは威勢のいい太鼓が鳴り響き、日本のリズムが流れる。祖父そして父親から見習ったというフクシマ音頭はマウイ島のケイ フクモトさんが中心となって復興、盛んになった。グループの名を、『マウイ太鼓』という。戦争に負けた日本の血を引く日系人の心の復興を願い、戦後間もなく復活したという。そのリズムは、相馬盆歌とも三春盆踊りとも似ている。「それも最初は周囲に気を遣い、小さな音で練習をしていた」とケイは笑いながら話してくれた。やはり日本が敗戦国だということが、頭にあったという。現在はハワイと福島県の各種の団体とも、広く交流を重ねている。 2013年10月、福島県知事を招いて、ホノルル福島県人会創立九十周年式典がアラモアナホテルで開かれた。そして年が変わって間もなく、ロイさんからメールが届いた。『九十周年式典に参加した有志・約四十人で、福島県知事へのお礼を兼ねて福島県を旅行したいので・・・』という協力要請であった。 ——さあ大変! 急遽私と、福島市に住みホノルル福島県人会会員でもある森口マリアンさんと、『いわきハワイ交流会』の鈴木常雄氏の3人とで連絡を取り合い、計画を立てはじめた。そして翌年の四月、ハワイから県人会のメンバー約40名が、十日間の日程で福島県へやって来たのである。 四月十一日、彼らは県庁で佐藤知事と会見、次のような話を頂いた。「ハワイから三十人以上のグループで、しかも十日間も福島県に滞在されるのを歓迎します。放射線被害を受けた福島県ですが、あなたがたが来られたそのことだけで、農産物など食物についても安全だと世界に知らせることになります。福島県に対しての風評払拭に大きな力になるあなた方のふるさと訪問旅行に感謝します」 さらには、行く先々で、次の方々のご挨拶を頂いた。松本友作 前福島県副知事。南相馬市副市長。伊達市副市長。郡山市市長夫人。三春町長。いわき市副市長。 この十日に渡る旅行の間には、若干の行事があった。福島県知事を表敬訪問し、郡山の県農業センターで放射能の勉強をし、福島市の桜の聖母女子短大やいわき市の『いわき海星高校』を訪問して寄付をしてくれた。その他にも、来日前に依頼のあったメンバーのルーツ探しに協力、依頼のあった次の四人全員を捜し当てることができた。そのうちの三人を親戚に会わせ、墓参りなどしていただけたが、残念ながら日本側の一人だけは都合が悪く、会わせることができなった。 Kenneth Akasaka 桑折町 赤坂恒雄 Dave Sharon Ansai 三春町 安斉芳夫 Mel Yvonne Watarai 三春町 (渡会)松井邦雄 Aurleen Kumasaka 二本松市 (熊坂)山本正一 今回のツアーには、帰布二世でホノルルでの取材にも応じてくれたヒロシ ヨシダが、彼の息子のロナルドと一緒に参加していた。帰布後はじめての福島訪問であったと言う。彼らは、森口マリアンの父と弟である。 会津芦の牧温泉の和室に一泊したとき、私は彼らとロイさんと5人の相部屋になった。ヒロシはその旅行の間、ハワイで私の取材に応じていたにも関わらず、『帰米二世』の話を一切しなかった。私もまたそのことを口にしなかった。そして彼は何十年ぶりの帰郷であるのに、日本が、福島が変わったという話もしなかった。したのは、子どものときの話だけであった。それは故郷の川の話であり山の話であった。彼は私に同じ話を何度もするので、娘のマリアンが「それは先程、橋本さんに話したでしょう!」と言って止めさせようしたが、私はそれを手で遮った。私は彼の表情に、厳しさを感じたからである、その厳しさは、『帰布二世』として、そしてあの戦争を差別の中で耐え抜き、そして生き抜いた者のみが持つ、厳しさであったのかも知れない。この旅は、帰布二世の芯の強さ、そしてそれを受け継ぐ三世や四世たちの愛郷心の強さを改めて感じさせられる旅でもあった。 最近そのヒロシから、嬉しいメールが届いた。それには、『ホノルルに住んでいる孫娘に赤ん坊が生まれて自分は曾祖父になったこと。彼が中心になって、福島旅行の際に三春デコ屋敷で習い覚えたあのユーモラスな「ひょっとこ踊り」をみんなで楽しんでいる』ということなどが書いてあった。戦後70年にして、ようやく彼は帰布二世としての心の葛藤から解放されたのであろうか。私は、そうであって欲しいと願っている。そして彼ら帰布二世に限らず、このように行動力のあるハワイの日系人を見て、日本に住む我々も、彼らが望む絆を大事に繋ぎ止めなければならないのではないかと考えている。 終 ブログランキングです。 ←ここにクリックをお願いします。
2017.03.11
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対極にある者 これらの取材中、私は帰布二世との対極にある人たちのいたことを知った。日本からハワイに帰らなかった二世たちであり、帰れなかった二世たちである。このうちハワイに帰らなかった二世たちの理由は分からないが、自分の意志として日本に永住を決めたものと思われる。また帰れなかった二世たちは、ハワイに帰ろうと思いながら果たせなかった人たちである。帰れなかった理由で特に多かったのは、年老いた祖父母などの病気やその介助のためであったことが多い。 私はハワイで、帰米二世がどう定義付けがされているか知りたかった。そのためホノルル図書館を訪ねた。図書館では、『帰米二世とは、幼少期に日本に戻り、太平洋戦争前にハワイへ帰って来た人たち』であったということが確認できた。しかし現実には、ハワイに帰ったのが戦後、それも十年を超えての帰布者も多かったという。しかし戦後の帰布ともなれば、日系二世による第100大隊や第442連隊の輝かしい戦歴がアメリカ中に知られた後のことであり、日系人に対する評価が大分好転してからのことになる。それもあってか、定義付けは、次のように変わっていた。 狭義の定義=幼少期もしくは太平洋戦争前に離米、国民学校もしくはさらに上位 の学校で軍国主義的皇民教育を受け、太平洋戦争前に帰米した者。 広義の定義=離米の時期等すべてが同じであるが、太平洋戦争終結後の1948 年から52年にかけて帰った者。戦後帰米と呼ばれる。 この定義は、私が予想していた年齢、つまり旧制中学入学時点の年齢での来日者で、太平洋戦争開始以前にアメリカへ帰った人たちであるとしていたイメージの修正には役立った。図書館では、こんなことを話してくれた。「当時、アメリカ側に情報を内報する日系二世がいましてね。私たちは、そういう二世を『アメリカ政府に協力する裏切り者』という意味で、『イヌ』という隠語で呼んでいました」 明治期以来のハワイにおける日本人移民たちは、より関係の深い組織、県人会を組織するようになる。1920年代に発足したハワイ各地の福島県人会も、この例に漏れない。ハワイ州最古のハワイ島福島県人同志会の設立は、明治三十一年(1898)であるから、すでに百十年を越えている。彼らは常に祖国日本の動静を注視してきた。時にそれは、日系人たちを巻き込む事件にもなりかねなかったからである。 日本は戦争をすることで、海外に住む日系人、そしてそれらの二世たちに多大な犠牲を与えた。そして日本の敗戦は、さらなる犠牲者を生むことになる。それは間もなく消えたが、ハワイで景気のいい日本の謀略放送を聞いて信じていた人たちが作った『勝った組』の派生である。『必勝組』、あるいは『布哇大勝利同志会』などと称される人々が各島にいたのである。しかもハワイ島のヒロでは、1970年代後半まで、「必勝会」なるものがあったそうであるから、その根深さには驚かされる。 戦争により日本全土は焦土と化し、敗戦後の再興もおぼつかない中、これを救ったのが敵国であった連合国、特にアメリカからの援助であった。それでもこの敗れた国を祖国と考える多くの国の日系人たちも、自分たちの苦衷を顧みず多くの寄付をした。それにはハワイの日本語新聞によるキャンペーンの効果も大きかった。細々と再起をはじめた日系人団体が募金などの活動をはじめ、それに応じた。それはまたこのような組織としての他に、個人による協力や援助も相次いだのである。「日本から明るいニュースが届けば誇らしい気分になるし、悪いニュースであると辛い気持になる。どうか日本は、よい国であって欲しい」 この表現は、数代にもわたったハワイの移民たちの、偽らざる心情であろう。日本が苦しいとき、これら各地の県人会は、全力を上げてそのときどきに起きた祖国日本の受けた苦衷を援助・協力してきた。大正十二年(1923)の関東大震災のときの義捐金募金など、その活動には刮目すべきものがある。この援助活動の実践のために組織され、これら活動の拠点となったホノルル福島県人会の設立は、関東大震災のあった年であった。 ホノルル福島県人会は戦争で一時中断したが、日系二世による第100大隊や第442連隊のイタリア、ドイツ戦線での多くの命を失う戦闘などもあり、日系人の地位の向上が見られるなかで、1949年の再興につながった。2011年の東日本大震災への支援や募金活動は、福島県に対する愛情の最たるものであろう。これらハワイ各地の福島県人会の活動には、帰布二世を含む二世たちの次の世代の力も大きかった。つまり三世や四世たちの力である。現在の福島県人会員の多くは二世の子どもや孫たちである。その二世たちも高齢化し、各家庭とも曾孫(五世)がいる時代となった。祖父や親たちが戦争に行くなどしてどんな苦労をしたかを尋ねても、その口は重かった。重かったと言うより、知らされていなかったというのが本当かもしれない。だからなのか、その口の重さと反比例して、その態度は明るかった。 戦後70年、日本でこそ第二次世界大戦後に戦争はないが、アメリカでは二十回以上の戦争や武力行使を行っている。二世の子や孫は、祖国日本に深い思いを抱きながらも、これらの戦争などにどう対処してきたのであろうか。ハワイでは今でも、『辛抱人』というハワイ製の日本語の造語が残されている。いまはあまり使われなくなったが、意味は『我慢して勤倹節約してカネを貯める人、苦労の多い人』という意味である。ハワイの移民となった日本人は、入植以来幾世代にもわたって多くの苦難を舐めさせられてきた。そのような中、無意識のうちに祖国日本を慕うのか、日本人同士の結婚が多い。彼らはすでに、五世、つまり玄孫の時代なのにである。その彼らが日本のため、母県のためにと協力してくれているのである。ブログランキングです。 ←ここにクリックをお願いします。
2017.02.21
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『 帰 布 二 世 』 の 証 言(10) このアメリカ政府の不当な扱いに対し、抵抗する術さえ分からぬ日本からやってきた一世たち。しかしこうした移民を親にもつ日系の二世たちは、親たちに抵抗している。そして自らのふがいなさに嘆きつつ、時として子供たちにまでなじられる一世の親たち。彼らの苦悩は計り知れないものがあったと思われる。 いずれにしても、ハワイにおいての帰布二世たちは少数派であった。言葉も不自由であったから、むしろいじめの対象になったようである。そのことはさらに、小さくなって生きざるを得なかったのではあるまいか。すでに帰布二世の世代そのものが少なくなってしまった今、その親たちは皆無である。その時の親たちの苦しい気持を聞く方法は、永遠に失われてしまった。 この取材のまとめの意味で、『ある二世の轍』より次の文章を引用してみる。起きた時期は不明であるが、内容から言って1930年代の後半かと推測できる。いずれにしても、米国籍を有する成人に近い日系人にとって、日本は住み難い国になっていたのは間違いない。 非国民 大事な頭をボールと間違えられる 東京留学時代のことである。私は特許局に数種の登録をしていた。そのことで米国市民である証明書を必要としたので、アメリカ大使館に出入りしていた。 ある日の午後、同僚とともにいつものように、牛込区を歩いていると、「君、ちょっと」と呼び止められた。何事かと、その男に問い返すと、その男はポケットから身分証明書を取り出した。男は私が虫けらより嫌いな特高警察の者であった。次に男はつっけんどんに、「ちょっと来い」と言うと、もう自分はドンドン先に歩き始めた。私らも仕方なく、その男に従って行った。私の同僚はというと、特高と知っただけで青くなっている。私と同道したことを後悔しているかも知れぬという考えが頭をかすめた。しかし私はなぜか落ち着いていた。それが特高の気に障ったのか、しばらく行ってとある交番の裏側に連行された。 そこには、私服が二人と制服が二人いて、それに私を連行した男が加わって計五人となった。 「君はどんな目的で日本に来たのか。何のためにアメリカ大使館に出入りするのだ。大体に見当はついているんだ。電機製作所で働くように見せかけ、実は電機館や特許局に出入りして、日本の発展、研究状況を逐一メモしているんだろう。日本人の顔をしながら、この非常時(一九三九年末)に時局も憂えず、毎日学校や製作所を巡り歩くとは何事だ。その目的を話してみよ」 と詰問してきた。 「私はけっしてあやしい者ではないから心配はいりません」 と、平気で答えると、声を一段と荒らげ、 「何を目的で日本へやって来たんだ。怪しいかどうかを聞いているのではない。まともに返事しろ。正直に返事しないとためにならないぞ」 と大声で怒鳴りつけるのみでなく、凄みさえ加えてたたみかけてきた。わたしはありのまま、日本には勉学のために来たこと、特許局へは新案を登録するため出入りしていること、そのためには米国市民の証明を必要とすること、それは法律で決められていることであり、特許局へ行って出願中のもの、登録済みのものなど調べてほしいと言った。「なまいきなことをいうな。正直に答えろ」 と怒鳴りつけるや、尋問している奴が私のアゴを横にグイと押した。すると左側の私服がわたしの頭を右に押しやった。右側の奴が頭を後方に、後方の奴が力まかせに前方に、その間にもポカリポカリ、前のやつがまた後方にポカリ、口を開くすきを与えず、私の頭はボールのように前後左右に押しやられ殴られっぱなしである。重心を失い、意識さえ朦朧として、失神しそうになり、彼らが手を休めると前のめりに倒れかかった。 「オイ、コラッ、日本人なら日本人らしく直立せよ」 と頭上から怒鳴りつけてきた。けれど、直立などできるはずがない。さんざん頭をいたぶられ、殴られたのである。 「それ見ろ。貴様は日本人ではない。日本人はこれくらいのことでへたばらないぞ。非国民め、しっかりしろ」 私は完全に参ってしまった。弁解しようと口をあけかけると「非国民め」と怒鳴られ、「ちょっと待ってくれ」と哀願するとまたポカリ。「日本では問答無用だ」と、答えては殴られ、黙してもポカリとやられ詰めであった。しばらくして「悪かったと謝ったら、今日のところは返してやる」と言ったので、私は不本意ながら悪かったと詫びた。そのあと再び二つ三つポカリとやられて、やっと解放された。日本の特高はアメリカのリンチ(私刑)を思わせる惨いものであったのだ。 同道した同僚出雲勇次郎君は外で待ってくれていた。私が解放され出て来たのを見てすぐにも私の手を握らんとしたが、特高の眼に威圧されそれもなしえず、しばらく歩いてのち初めて口を開いた。かなり殴られたものの鼻血程度で解放されたのは幸運だった、と話合い足早に帰途についた。 それからは、行動範囲を制限し、身の安全を期し、やがて機を見てハワイへ逃げ帰ったのである。ブログランキングです。 ←ここにクリックをお願いします。
2017.02.11
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『 帰 布 二 世 』 の 証 言(9) 多分、昭和二十六年か、現在の福島県立福島商業高校の卒業生名簿の中に『斉藤誠 アメリカ』とあるのを見つけた。ただしそれ以上の詳細は分からず、正確に『帰米二世』であったとは断定出来ない。 それから当時、棚倉国民学校に通っていた橋本敏雄氏が、ハワイから来たという男児と同級であったという。名は忘れたが、クラスのボスに対抗して勝ち、以後いじめられることはなかったという。その後間もなく敏雄氏は転校しているので、その後どうなったかは、知らないという。 私の取材を受けてくれた人の中には、いまだにトラウマとしてショックを感じている人たち、また逆に明るく振る舞おうとする人たちがいる。その姿勢はいろいろであるが、どちらの人たちも平静に過ごそうとしているのが感じられた。ブログランキングです。 ←ここにクリックをお願いします。
2017.01.21
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『 帰 布 二 世 』 の 証 言(8) ハワイ島オラアで生まれたイサム アベ氏の場合、彼は五歳のとき母親に連れられて福島に戻った。「五歳のときというと、少なくともハワイの生活の少しは、覚えていましたね?」「はい、そうですね。ですから、国民学校で教えられた『八紘一宇』や『鬼畜米英』などという言葉には、口には出しませんでしたが抵抗感がありました。「そうですか。実は私もあなたと同じ世代でしたから、似たような教育を受けていました。『欲しがりません 勝つまでは』とか『進め一億 火の玉だ』とかね。しかし私の記憶では、それらは何か当たり前のことのように思っていましたね.いま考えてみると、日本という国にドップリと浸かっていたからでしょうか」「さあ。そこのところは良く分かりませんが、私は、国民学校を卒業したのち日本の士官学校に入ろうとしましたが、祖父に『日本にいてもどうなるか分からない。早くハワイに帰った方がいい』と言われて結局ハワイに帰りました」「お爺さんは、日本とアメリカが戦争になると予想していたのでしょうか?」「それは分かりません。とにかく祖父にそう言われたとき、祖父は私を当てにしないのかと思い、本当に切なかった。しかし両親はハワイに住んでいるのですから、それを考えることは、とても辛いことだったのです」「・・・」「戦時中はね、自分たち帰米二世の立場からすれば、一世の親たちの考え方に腹が立ったものです。何せ突然退去命令ですから,うろたえるのは分かるが、何にも抵抗しないのです。ゴタゴタは困ると言ってね。仕方がない、としか言わないのです。頼りにならないと思いましたね。それに私が悔しいのは、敵は日本人だけじゃない。ドイツもイタリーもそうなに、何故、日本人だけに退去命令かってね。それでも私は、幸せな方だったと思います。ハワイで同じ帰米二世であったトシコと結婚できたのですから」 匿名を希望された男性の場合、彼はあまり語りたがらなかった。彼は1932年に生まれて日本の父方の実家に預けられている。福島では国民学校二年生か三年生に編入されたが間もなく親に連れられてハワイに帰ったという。ハワイでは小学校に入ると、毎朝教室の中で星条旗に向かい、忠誠を誓った。「大和魂、大和魂とばかり言っていたよ。それしか知らないのだから。そして家族とは喧嘩ばかり」と言う。「真珠湾攻撃の数時間後に家にやってきたアメリカ人は、『少し話があるから来い』と父を手招きしたのです。父が言われたとおり車に乗ると、いきなりピストルをつきつけられて、そのままどこかへ連れて行かれました。母は、気狂いのようになっていました」 それでも彼は、最後には100大隊に入隊、アメリカのために戦う道を選んだ。しかし彼はそこに至るまでの苦悩、激しい葛藤を語ってはくれなかった。 戦後になって帰って来た父は、スパイ容疑で逮捕され、『サンド・アイランド(ホノルル港内の無人島)へ連れて行かれたのち、本土の強制収容所に送られた』と言っていました。「結局は親不孝をした」と寂しそうに語っていた。ブログランキングです。 ←ここにクリックをお願いします。
2017.01.11
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『 帰 布 二 世 』 の 証 言(7) ウェリアム ゴトウ氏の場合、彼の父が余目村で生まれた後、祖父が単身でハワイに渡っている。「お爺さんが先に一人でハワイに来たというケースは珍しいですね」「そうですか。父は小学校卒業後にハワイに呼び寄せられました。その後父は余目村近くの黒岩村出身の母とハワイで結婚しました」「ピクチャーブライドだったのですか?」「いいえ。福島の親同士で決めた結婚だったと聞いていますが・・・、まあピクチャーブライドと同じようなものだったのかも知れません」「で、あなたが生まれたのは?」「私は1920年に五人兄弟の三人目として生まれました。後藤家は一家をあげてプランテーションで働き、百万長者と言われるほど豊かになったそうです。そのため余目村では後藤家への仕送りの多さに驚き、ハウオリ(幸福)後藤と噂されていたそうです」「それじゃ生活は楽だったのですね?」「それは子どもの時でしたからよく分かりません。しかし好事魔多しで、1925年、私が五歳の時、父が亡くなってしまい、そのために家族全員で余目村に戻りました。帰国に際しては、相当の資産を持って来たと言われています」「それはよかったですね。帰国したのが五歳の時と言いますから学校はどうされました?」「私は1927年に福島師範付属小学校に入学し、1933年に卒業しました。その後の1938年、福島中学を卒業しました。ハワイに帰ったのは1949年、戦争が終わってからです」「福島中学を卒業したのが十八歳のようですが、日本軍に徴兵されなかったのですか?」「それがどうしてであったかはよく分かりませんでしたが、徴兵はされませんでした。多分、アメリカ国籍であったということが関係したのでしょうか。とにかく人口希薄の土地でしたから、兵隊に行かない若い男の私に対する周囲の目は、厳しかったような気がしました。人の目が気になって、農作業だけに没頭していました」「それからハワイに帰られた?」「そうです。私は帰れたのですが、何も知らないで日本の国政選挙をした二人の姉は、そのためにアメリカ国籍を失ってしまったのです。一人でハワイに帰って来た私は、夜学で英語を必死になって学びました。結局姉たちは、日本で生活することになってしまったのです」「姉弟はバラバラになってしまったのですね。それでハワイでの生活はどうなりました?」「私は1952年にアメリカ軍に徴兵され、情報部へ配属されました。そして1954年、勃発した朝鮮戦争に従軍しました」「ああ。朝鮮戦争に行かれたんですか?」「はい。通訳兵となったのですが、それが面白いのですよ。当時の韓国軍は旧日本軍の焼き直しのようなところがあったのですが、韓国語から日本語に訳す韓国兵通訳と組み、日本語から英語に私が訳したのです。除隊後は以前勤めていたアロハシャツファクトリーに勤めたのですが倒産してしまい、農業を手伝いながら阪急トラベルに再就職しました」ブログランキングです。 ←ここにクリックをお願いします。
2016.12.21
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『 帰 布 二 世 』 の 証 言(6) イチコ ワタナベさんとシツコ アベさんとの取材は、ホノルル近郊ワイパフのファミリーレストラン ジッピイで行われた。一人で会うのは恥ずかしいということから、二人一緒の取材となった。窓からはシュガーミルだったという工場の煙突が見えていた。「私(イチコ)の父は伊達郡茂庭村の農家出身でした。十九歳でハワイに行っていた叔父の呼び寄せ移民となり、キビプランテーションで働いたそうです。同じ村で生まれた母は、そのような父のピクチャーブライドとなり、一人でハワイに渡って来ました。母は日本語しか分からず、黙って出来る仕事を選んだと言っていました。1917年、私はオアフ島エワで生まれ、エワ エレメンタリースクールの三年、十歳のとき祖母危篤の電報を受け、両親と弟の四人で茂庭の実家へ戻ったのです。そのとき母は身重の身体でした。福島には祖母の亡くなる三日前に着きました」「それでは間に合ったのですね?」「はい。三月七日に祖母が死亡したのですが、四月十日、私が三歳のとき弟の次男が生まれました」「それは大変でしたね」「ええ。それからしばらくして母は父と離婚し、私と直ぐ下の弟の二人を残してハワイの知人を頼って帰っていきました」「それは寂しかったでしょうね」「ええ。何とも言えぬ寂しさでした。とにかく十歳だったのですから・・・。しかし弟は三歳でしたからよく覚えていなかったようです。しかし夜には母親を慕って、よく泣いていたそうです」「そうですか・・・。それであなたがエレメンタリースクール三年の時ということは、日本でも三年生に編入になったのですか?」「いいえ、一年遅れて長岡国民学校に入りました。それから高等国民学校を卒業して福島市瀬の上にあった実践女学校に入りました。その後研究科(裁縫)に二年通いました」「すると随分長く福島にいたことになりますね」「そうですね。私は学校を卒業したらハワイの母の元へ帰る積もりでいましたが、私の家(吉田家)の跡取りとなる弟が重い病気のため、周囲に帰らないように説得されたのです」「それで長くなった・・・」「はい。1941年の7月になってハワイへ行く手配をしましたが、日米関係の悪化で船がストップしてしまいました。そして12月、日米開戦のためハワイへ行けなくなってしまったのです。なんとも言えない惨めな気持ちでした。それにハワイの母からは何も送られて来なくなり、音信も不通となってしまったのです」「そうですか。それは辛い立場になりましたね」「それでも戦争開始後に日米交換船が第一次(1942年6月から8月)と第二次(1943年9月から11月)の二度実施されました。第一次の帰還者は千四百二十一人、第二次帰還者は千五百十七人にもなったそうです。私は二回目の交換船に乗ろうとしたのですが弟の病気が今か今かの状態となってしまい、横浜にまで行ったのですが結局は福島に戻ってしまったのです」「・・・」「祖父は私の弟が亡くなると私だけを頼りとしましたので、結局、私は祖父の世話を続けることになってしまったのです。しかし母の姉が父と再婚したので、四人で生活を続けたのです。辛いことも多かったのですが、それでも親類がいっぱいいたから助けられました」「そうですか。そうするとハワイに帰ったのはいつになりますか?」「戦争後の四年後になります。五歳年下で八歳であった下の弟を福島に残してハワイに帰りました。現在、その弟が福島市太田町に住み、吉田家の当主となっています。今年六十九歳になります」「そうですか。弟さんが福島にね」「私ね、時々ここのレストランで日本食を食べるのね。日本食を食べるということは、私にとって日本人としての血を確かめるということなの」 シツコ アベさんの父は松川町の農家の出身であった。「父が先にハワイへ来た後、祖父と叔父を呼び寄せました」「そうですか。子が父を呼び寄せたというのでは、普通の人と逆のケースになりますね」「ええ、そうですね。私は1920年1月にハワイで生まれました。二歳の時、四歳の姉と父母、それに祖母とで福島に行っているのですが、その辺りの記憶はまったくありません。幼いときのことでしたから・・・。まもなく父母は私と姉を置いてハワイに帰っていきました。ですから私は、日本生まれの日本人とまったく同じに成長しました」「学校はどうされました?」「1932年、私が十二歳の時、両親が福島に一度戻ってきました。この年私は、水原小学校を卒業しました。その後の一年、渡利にあった家政女学校へ通い、その後二年制の養蚕学校へ通いました。このようなこともあって移民二世にはお婆ちゃんっ子が多かったのです。私もそのまま、福島で暮らすものと思っていました」「それが違った?」「実は後に私の夫となる人は、二〜三年の出稼ぎで日本へ戻るつもりでハワイに来たのです。ところが戦争が始まって戻ることができなくなってしまったのです。パールハーバーのことはラジオで聞いて、はじめて知ったと言っていました。戦争中はハワイの電気会社に勤務するかたわら農業(花を作っていた)をしていました。日本語の使用が禁止されたので、話をしないでもできる仕事を選んだらこうなったそうです。そこでアメリカの兵隊検査を受けましたが国籍が日本であったし、英語ができなかったので第100大隊に入隊することができなかったそうです。とにかく一般人との接触は極力避けていたそうです」「そうですか。あなたのご主人は一世だったわけですから、また別の意味で苦労があったのですね」「私は戦争の終わった翌年の1946年、この人と結婚するために一人でハワイへ渡りました」「その後の生活はどうでしたか?」「日系人に対する態度は、第100大隊の活躍もあって、よほどよくなったと夫が言っていました。そういった意味では、私はいい時期にハワイに帰って来たのかも知れません」ブログランキングです。 ←ここにクリックをお願いします。
2016.12.11
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『 帰 布 二 世 』 の 証 言(5) ミツエ タカハシさんの父母は福島市出身である。彼女は姉のシズエ、兄のタダオ 次兄のタダヒロの四人兄弟の末っ子として、1923年にハワイで生まれた。ミツエさんが四歳か五歳のころ、家族全員で福島に戻ったという。「家族全員ということは、何か理由があったのですか?」「私は直接親に聞いていませんでしたが、後で姉や兄に聞いたのは、両親は日本に戻ってそのまま生活する積もりだったらしいということでした」「ハワイでの生活が大変だったのでしょうかね?」「私にそれは分かりませんでしたが、両親は実家の農業を手伝って生活をしていました。ですから子どもたち全員が佐倉国民学校を卒業し、私は福島成蹊女学校に通いました。姉のシズエと日本の兵役を逃れようとした二人の兄は、両親と一緒に私と別れてハワイへ帰って行きました。ハワイでは叔父の世話になったのです」「それではあなたは、福島で一人になった訳ですね?」「はい。私は十八歳まで福島にいました。だから福島弁なんか上手ですよ。『おらぁ、シンニェ(私は知りません)』『しょうしくて(恥ずかしくて)』(笑)「十八歳ということは、1941年ということになりますね それでどうなされていました?」「それから私はハワイに帰りました。日本の学校の卒業は三月でしたから、帰ったのは戦争のはじまる前でした。ハワイで花作りを始めていた姉や兄たちが、一人で福島にいる妹の私を呼び寄せてくれたのです」「よくお爺ちゃんたちが許してくれましたね」「ええそうですね。とにかく姉や兄たちがハワイに行っているのだから、仕方がないと思ったのかも知れません。まさか日本とアメリカが戦争をするとは思いもしなかったでしょうからね」「ハワイでの生活に、何か不都合なことはありませんでしたか?」「そうですね。ハワイに帰った私は、ハワイ報知新聞の文選工として働きました。ここは誰かに話しかけさえしなければ、黙っていても出来る仕事だったからです。私は日本語で成長しましたから英語が話せませんでしたし、何か地元の人と話をしても不愉快なことが多かったからです。しかしハワイには多くの人種がいましたから、特にそれで困ることはありませんでした」「ミツエさんはホノルルに住んでいたのですよね。戦争がはじまった時のことを覚えていますか?」「そうね。真珠湾が攻撃された時、私は家の庭にいました。そうしたら、低空で飛行機が飛ぶのよね。それで、『ママ(叔母をママと呼んでいた)、今日はどうしてこんなに低く飛行機が飛ぶの?』そう聞きながら空を見たら日の丸が付いていたのです。『あっ、日本から来た飛行機だ!』と近くにいた叔父と叔母に言ったら、『なーに日の丸など来るはずがない。星(アメリカ軍機のマーク)でも見間違いたんだろう』と気にもしなかった。そしたらね、港の方で爆発音はするし、ヒッカム飛行場ね。あの方向から煙があがるのね。あとで叔父と叔母に聞いたら、ドリル(訓練)だと思ったと言っていました」「じゃ、本当に突然の出来事だったのですね」「そうね。多くの日系人は日本が攻めて来るなどとは考えられませんでしたから、本当のこととは思えなかったようです。それにしても、戦争中はやはり大変でした。まるで息を殺すような生活でした」 取材に同席していたミツエさんの息子の嫁が言った。「母は面白いの。とにかく誰とでも仲良くしなければと言って、いろんな亀の置物などを集めて玄関に置いていたのね。分かる? そう、誰でも家へいらっしゃいって。そう、Come in 。つまり亀よ」「とにかく大変だったから、私は敵国人だと思われたくなかったし、誰とでも仲良くしなければと思っていましたからね」ブログランキングです。 ←ここにクリックをお願いします。
2016.11.21
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『 帰 布 二 世 』 の 証 言(4) ヒロシ ヨシダ氏は1924年の生れである。弟が幼くして亡くなったので一人っ子となった。二歳のとき両親に連れられて日本に渡った。間もなく両親はハワイに戻ったが、その頃の記憶はないと言う。「叔父夫婦に育てられていましたが、幼い頃は本当の親だと思っていました。そう教えられていました」「では当然、日本人だと思っていましたよね?」「はい。そんなこと(人種とか国籍)は考えてもみませんでした。日本人であることが当然のことだと思っていましたから」「学校はどうしました?」「1936年に長岡国民学校を卒業した後、伊達農学校へ入りました。小さいときから叔父夫婦に育てられていましたから、日本での生活上の苦労は、何もありませんでした。しかし学校で強制される軍事教練は馬鹿らしかったですね。逃げ出したいようでした」「他の生徒もそうでしたか?」「そういう生徒は少なくなかったと思いますが、誰も口には出しませんでした。そんなことを言ったら、『非国民』と言われましたからね」「では学校は中退したのですか?」「いいえ。何とか卒業しました。私も軍事教練は嫌だなどと口にしたら叔父夫婦にも怒られたと思います」「そうですね。そのような嫌な時代でした」「私は中学校を卒業した後の1940年に、ハワイに帰りました」「戦争一年前ですね。ハワイではどうなさいました?」。「とにかく日本とハワイの教育には、大きな差がありました。例えば日本で私たちは、天皇は神であり国民は陛下の赤子(子ども)であると教えられましたが、それを言うとハワイで育った皆に笑われました。あれは屈辱でした。ようやくのことで日本との貿易会社に勤めたのですが、戦争がはじまったため日本からの輸入が止まり、会社が駄目になりました。私が日本との貿易会社に勤めていたので日本側のスパイと思われたのか、オアフ島の一部屋四十人も押し込まれたセナラ収容所に入れられ、後、ユタ州のトパーズ強制収容所に移されました。私がアメリカの忠誠申告にノーと記載すると、カルフォルニア州ツール レーク強制収容所に移されました。それでも親より先に死ぬのは一番の親不孝との教えを守り、苦しみに耐えました。 戦争が終わると、多くの日本人が強制収容所から直接日本に帰って行きました。やはりアメリカに幻滅を感じた人も多かったのです。しかし理由が分かりませんが、私はテキサス州クリスタルシティ収容所に移されました。その間にメーンランド(本土)の強制収容所で会った日系人は、ハワイの日系人とは考え方が少し違っていました。メーンランドで育った日系人は、われわれとは違う人種のようにも思えたのです。ともかく英語を勉強しなければならないと思いました」「いつハワイに帰れましたか?」。「私はクリスタルシティ収容所で解放されました。しかしここからハワイは遠いのです。途中のサンフランシスコで知人の世話になり、1948年になってやっとハワイにたどり着きました。戦後が終わって三年も後のことでした。ハワイに戻ったとき、ベーカリーに勤めていた父母が迎えに来てくれました。あのときは生きていてよかったと、本当に思いました」「そうでしょうね。強制収容所暮らし、しかも忠誠申告で『ノー』に記載したのですから、苦労は多かったと思いますよ」「私はアメリカで生まれたからアメリカ人、しかし心は日本人です。だから私は、『ノー』に記載したのです。とにかく一生懸命だったよ。どこでも差別されるものだから頑張るしかなくてね」「・・・」「しかし私は、父の実家はともかく、日本の教育については恨みがありました。だから私は、戦争が終ってからも、日本を訪問する気がしなかったのです」 私は彼の気持をおもんばかって、何も言えませんでした。ちょっとの間を置いて、彼が言いました。「しかし歳のせいかな、(2011年の)福島県が大震災で受けた大津波や放射線の被害を受けた報道を見たとき、私もホノルル福島県人会と一緒に募金集めに随分奔走したものです」「あぁ、そうだったんですか。それはありがとうございました。そのような皆さんの努力があったのですね。その義捐金をロイさんやジェームスさんが福島県知事に手渡したとき、私も傍にいました。皆さん、感謝しておりました」「そうか、それはよかった」ブログランキングです。 ←ここにクリックをお願いします。
2016.11.11
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『 帰 布 二 世 』 の 証 言(3) ヒデオ トウカイリン氏は、フミコさんの父がアーカンソー州ジェロームの強制収容所に収容されていたとき、彼の元を訪れている。彼はハワイの日系二世で編成された第100大隊の兵士であったのである。私は今回、彼に取材をしていない。二年ほど前に亡くなったからである。であるからこれは、福島中央TVが2006年に放映した『虹の彼方でアロハ〜勝沼富造の生涯』の取材テープに入っていたものの抜き書きである。 注 「大」は、福島中央TVアナウンサーの大野修氏が 勝沼富造に扮したセミドキュメンタリー番組で取材 録画されたもので、「ヒ」はヒデオ トウカイリン氏。 大「あなたは二世になりますか?」 ヒ「父は1907年、十九歳の時伊達郡掛田町から移民して いますから、僕は二世になります」 大「何年の生まれで何歳のとき日本に来られましたか?」 ヒ「1926年、僕が米国籍の三歳、弟のマサオが一歳の とき父親に連れられ、父の出身地の伊達郡掛田町に戻り ました。僕は九人兄弟の長男でしたから、三男以下の弟 や妹はハワイで生まれハワイで育ったことになります。 しかしその後、両親が離婚しました。父は子どもたちを 育てながらハワイに残りました。僕は父の実家で祖母に 育てられましたが、父からの経済的援助はなかったと聞 いています」 大「すると学校はどうされましたか?」 ヒ「僕とマサオは掛田尋常国民学校を卒業しましたが、そ の後、僕は保原中学に、マサオは掛田高等国民学校に進 学、そこを卒業してから青年学校へ進学しました」 注 当初、青年学校は、高等小学校、中学校、実業学校 などの中等教育に進学をせず、勤労に従事する青少 年の教育機関として設けられた。しかし戦時色を強 める中で軍需品生産力の増強に向け、制度上は教育 機関であったが、その実は戦時下の動員体制に組み 込まれたまま敗戦を迎えた。 大「学校の様子はどうでした?」 ヒ「当時は保原中学だけではなく、県内の中学にも軍事教練 が課されていました。保原中学でも週に三、四回は、重点 的に軍事教練が行われるようになっていました」 大「軍事教練ではどんなことをさせられましたか?」 ヒ「陸軍の現役将校が配属将校として学校に派遣され、生徒 たちに軍事教練を教えました。やがて三八式歩兵銃の操作 を教わるようになり、陸軍練習場で実弾射撃も行いました」 大「え〜。実弾で射撃訓練もしたのですか?」 ヒ「そうです。実弾射撃は距離200メートル先にある2メートル四方の 標的に向かって五発ずつ撃ち、その訓練が終わると薬莢拾 いをやらされました。人数×五ですから撃った数ははっき りしています。しかしそのうちの幾つかが見つからないと、 夜を徹してでも探させられました。この使用済みの薬莢は 仙台の師団本部に戻され、再利用されるのだと説明されま した。一発一発を大事に撃つよう命令されました。実戦を 想定した様々な訓練をさせられ、東西両軍に分かれて戦闘 訓練が行われました。傘型散開の隊形を取りながら、匍匐 前進をして敵陣に突入したところで訓練が終るのです。最 後は全校生徒の閲兵で、隊伍整然と行進し、視察官の前で 『かしら〜右』をして通り抜ける。これが終わってはじめ て本日の講評となるのです」 大「うわー。大変ですね」 ヒ「それ以上大変だったのは、学校のグラウンドで実施され た軍の査閲でした。これまでの成果発表が仙台から数名の 査閲官と監視官の前で行われたのです。これは緊張しまし た。それから、こんなことを知っていますか? 軍隊の起 床ラッパと就寝ラッパです」 大「あっ。それ、私も憶えています」 ヒ「起床ラッパは、『起きろよ起きろよ皆起きろ 起きないと 大将さんに𠮟られる』。就寝ラッパは、『新兵さんは可哀想 だね〜 また寝て泣くのかね〜』でした」 大「そうでしたね。私は子どもの時だったので、ラッパのメ ロディの真似をして遊んでいました。それでも大きくなっ てから、軍隊生活は大変だったと、本などで知りました。 ところでトウカイリンさんは、いつ頃ハワイに帰りました か?」 ヒ「1941年(開戦の年)十五歳の春、弟と一緒でした。 ハワイで父が死亡したので僕たちは厄介者扱いをされたの です。しかしハワイに帰っても英語が出来ないことで、嫌 な目に会いました。それは弟も同じことでした。話をしな いで出来る仕事として、弟はハワイ報知新聞の文選工の仕 事に就きました。弟の給料は月30ドル、内15ドルを下 宿代に払い、10ドルを育てて頂いたお礼ということで掛 田への仕送りとし、5ドルで生活しました。税金は1ドル の人頭税がありました」 大「あなたはどうなさいましたか?」 ヒ「僕は日本で軍事教練の経験もあったので軍隊に入りまし た」 大「よく入れましたね」 ヒ「太平洋戦争前のハワイには、オアフ島出身の日系二世に より編成されたナショナルガード第298歩兵部隊とそれ 以外の島の出身者の299歩兵部隊がありました。僕はホ ノルル出身でしたから第298部隊に入隊しました。ここ で使った小銃は日本の小銃より軽く、口径が大きかった。 そして戦闘訓練で日本と決定的に違ったのは、敵のいる方 角に頭の上から(自分の身を隠す意味で)闇雲にでもいい からと言われて撃たされたことでした。上官は、『いいか! 命が大事だ! 弾は幾らでもある。遠慮せずに撃ちまくれ!』 と命令されたのです。この考え方の違いには驚かされました」 大「なるほど。私もそれらのことは聞いていたので、よく分 かります」 ヒ「それに日本の中学では、誰か一人が失敗しても、『連帯責 任』と言われて全員が殴られた。あれは辛かった。それに比 べると、アメリカの方はピクニック並みだった」 大「そうですか。アメリカとでは、考え方がまったく違って いたのですね。それはまた、国力の差であったのかも知れ ません。それで真珠湾が襲撃された時、あなたはどこで、 何をしていましたか?」 ヒ「その日は日曜で休みだったので、朝から酒に酔って家で 寝ていました。エレメンタリースクールの妹に『おい、兄 さん起きろ! お前兵隊だろ。早く兵舎に戻れ』と起こさ れ、外に出たら港が燃えていました」 大「その煙を見たのですか?」 ヒ「そう、軍艦も港でひっくり返っていました。間もなく日 系人のナショナルガードが解散されて軍人の職を失いまし た。その後大変な苦労をして、ハワイの日系二世だけの第 100大隊が作られ、ウェスコンシン州のキャンプ・マッ コイで訓練を受けてイタリアで戦いましたが、僕はここで 負傷しました。第100大隊には英語もよく分からない 『帰米二世』が多かった。バカバカしかったな戦争。大分 死んだっけね。・・・かわいそうに」 後日談1 ヒデオがフミコの父にルイジアナで会っ たのは、米本土で訓練中の頃である。 後日談2 ヨーロッパ戦線に日系二世の大隊が投入 されたことを知ったドイツ軍は、在独日 本大使館員に100大隊での連絡通話を ドイツ語に訳すことを命じた。しかし、 第100大隊での会話は、日本各地の方 言、それにスラングとハワイ語がゴッチ ャになっていたから、通訳は四苦八苦し たという。ブログランキングです。 ←ここにクリックをお願いします。
2016.10.21
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『 帰 布 二 世 』 の 証 言(2) ほとんどの帰布二世が幼少期に日本に戻ったのに対し、例外もあった。フミコ カメダさんの例である。「私は1921年4月16日にホノルルで生まれました。小さい頃、近くにあったお寺に行ってよく遊びました。それもあって、今もお寺のご詠歌などの集まりにもよく行きます」「それでは今の日本よりよほど日本的生活ですね」「白人は日本人を陰に陽に差別していましたから、私にとってお寺は、白人たちの目から逃れるのにいい場所だったのです。それにここは、日本の文化に触れるためにもいい所でしたからね」 日本刺繍、茶道、華道、作法もみんな、お寺で習ったという。「昔の日本の教育は良かったと思います。食事は家族みんなで一緒に摂りました。食事中に話をしないように仕付けられました。今は違いますね。そして今になって日本語学校で習った『父の恩は山より高く、母の恩は海より深い』という修身の教育が、よく分かるようになりました」 フミコさんの父親は、ホノルルで日本式旅館や東北温泉という名の旅館の事業などで成功し、家庭環境は裕福であったという。父はその裕福さからハワイに永住すると決めていたようで、幼いフミコさんに日本の教育を施そうとしただけで、日本に戻すという道はとらなかったようである。フミコさんはエレメンタリースクールを卒業してから、セントラル インターミデァ ミドルスクールを卒業したというから、中学校までの間、ハワイから離れなかったことになる。「私が日本に行ったのはミドルスクールを卒業した年でしたから、1938年で十六歳の時でした」「そうですか。大分大きくなってから行ったのですね。どなたか・・・、親ごさんとでも行かれたのですか?」「はい、父親が連れて行ってくれました。ですから入学する学校の選択などの全部を、父がやってくれたのです。私は東京市四ッ谷六丁目にあったカトリック系国際女子学院へ入学し、そこの寄宿舎に入りました」「親戚のお家などの世話にはならなかったのですか?」「はい。そこは全寮制の学校でしたから大丈夫だったのです。寄宿舎での生活を二年しました」「二年ということは、1940年、戦争の前の年になりますね。その学校は普通の日本人の学校だったのですか?」「いいえ。ほとんどが海外から戻ってきた人たちが通っていた学校でした。ですから生徒同士が使う言葉もスペイン語やイタリア語の人がいました。当然、共通語は日本語とされましたが日本語を使うのが難しい人もいましたので、英語が多く使われました。しかし授業は日本語でした」「なるほど、お父さんは言葉の壁もあって親戚に頼らなかったのでしょうか?」「それは私も分かりません。とにかく日本に行ってから連れて行かれた所がその学校だったのです」「生活の費用はどうしていました?」「父が毎月30ドル送金してくれていました。その頃の30ドルは今と違って価値がありました。ですから生活には余裕があり、日本での生活は恵まれていた方だと思います」「それはよかったですね」「私たちは、よく友だちと四ッ谷の寄宿舎から新宿へ歩いて遊びに行きました。それは、おもしろかったですよ。私たちは友だち同士で遊びに行く時間などを決めておいて寄宿舎を出るのですが、必ず私服の巡査が『女の子に何か悪いことが起こると困る』と言って警護に付いてくれるのです。まるで屈強な男性を、お供にして歩いているお嬢様のような気分でした。それにしても、私たちが出掛ける時間をどうして知っていたのでしょうね?」「・・・」「日本人はなんて親切なのと思い、日本に対しては今でもいい印象が残っています」「その学校は、女の子だけでしたか?」「いいえ。男女共学でした。しかし寄宿舎は別でした。卒業の半年前、学校が小田原の学校と合併したので、私たちも小田原に移りました。ここでも私たちが授業を終わってから町に出掛けたりすると、私服のお巡りさんが寄宿舎に戻るまで付いてきてくれました。本当に日本人は親切だと思っていました」「そうですか・・・。実は夢を壊すようで申し訳ありませんが、多分それは、特別高等警察が、あなた方がアメリカ側のスパイ行為をするのではないかと思って監視していたのだと思いますよ。ですから恐らく、あなた方が出掛けるのを知って声をかけたのではなく、見張っていたところに出て来たから声をかけたのだと思います」 私が、特別高等警察とは、第二次世界大戦以前から日本において設置されていた警察で、各県の警察部長を経由して地方長官の指揮を受ける一般の警察と異なり、内務省から直接に指揮を受ける強い権力を持つ警察組織であったこと、さらには被疑者の自白を引き出すために暴力を伴う過酷な尋問、拷問を加えた記録が数多く残されるなど、当時から一般での略称、特高警察や特高の名は畏怖の対象であったなどということを説明すると、フミコさんは「七十二年後の今になって、初めて知った」と言って驚いていた。「私は1940年にハワイに帰りました。戦争が始まる一年前でした。その頃、東京から三人の紳士が来て、父の経営する東北温泉に泊まりました。父は、彼らがパールハーバーの写真を撮っていると言っていました。今になって、私は彼が日本のスパイだったのではないか、と思っています」「う〜ん。多分、そうだったのかも知れません」「パールハーバーが襲撃された日の夜、私の家に数人で来たFBIは、わが家の銀行預金や財産などを調べ,その上徹底的に家宅捜索をしました。タンスの引き出しはすべて開けられ、母や私の下着まで調べられました。あれは屈辱的でした」「お父さんはどうなりました?」「父は家宅捜査の間中FBIの車に乗せられていましたが、家から持ち出された幾つもの大きな段ボール箱と一緒に、着の身着のままで連れて行かれました。怖かった・・・」「お父さんはどこへ連れて行かれましたか?」「最初はサンド アイランドでした。ホノルル港内の・・・。それからメーンランド(本土)の強制収容所に連れて行かれました」 注・強制収容所=日本軍のアメリカ本土上陸を恐れたアメリカは、大統領令により十二万人 (うちハワイから千人以上)を辺地の強制収容所に送った。 ・マンザナー、カリフォルニア州(Manzanar、1942年6月開設) ・ツール・レイク、カリフォルニア州(Tule Lake、1942年5月開設) ・ポストン、アリゾナ州(Poston、1942年5月開設) ・ヒラ・リバー、アリゾナ州(Gila River、1942年7月開設) ・ハート・マウンテン、ワイオミング州(Heart Mountain. 1942年8月開設) ・ミニドカ、アイダホ州(Minidoka、1942年8月開設) ・トパーズ、ユタ州(Topaz、1942年9月開設) ・ローワー、アーカンソー州(Rohwer、1942年9月開設) ・ジェローム、アーカンソー州(Jerome、1942年10月開設) ・アマチ、コロラド州(Amache、1942年8月開設) ・クリスタル・シティー、テキサス州(Crystal City、1942年11月開設/ 司法省が管轄する拘置所)「どこの強制収容所でしたか?」「父は二ヶ月おきに各地を転々と移されていたと言っていましたから、私たちとは連絡が取れませんでした。ですからどこにどう動いていたかは、分かりませんでした。ただ父がアーカンソー州ジェロームの強制収容所にいたとき、ヒデオ トウカイリン(後述)が第100大隊の制服を着て面会に行ってくれたそうです。ヒデオの軍服姿が眩しく見え、自分の囚人服での姿を曝すのがとても惨めであった。ただ、これが最後の別れになるかも知れないと思うと涙が先にたち、両手で彼の手を握りしめるのが精一杯だった。と言っていました」「東北温泉に泊まっていた三人の紳士は、どうしていましたか?」「よく憶えてはいませんが、その時はもう居なかったように思います」「そうですか。やはり日本のスパイだったのかも知れません。アメリカ海軍の軍艦の動静などを、報告していたのかも知れませんね」「そうですね。危険を感じて、逃げ出したのかも知れません」「このことに関して、お父さんは厳しく調べられたのでしょうか。何か聞いていませんでしたか?」「ええ、そのことについては聞いていませんが、父はこの戦争で、『日本が勝った方がいいと思うか、アメリカが勝った方がいいと思うか』、などとFBIにしつこく聞かれた上、アメリカへの忠誠を確かめるため、天皇陛下の写真を踏ませるということもあったようです」「え〜っ。そんなこともあったのですか? まるで江戸時代のキリシタン弾圧のようでしたね。それでは、戦争中のあなたがたの生活はどうだったのですか?」「それでも父はいくつかの会社を持っていたからか、そう生活に困った記憶はありませんでした。ただ戦争中は日本語の使用が禁止され、日本の教科書を使っていた日本語学校も閉鎖されました。とにかく生きるために、日本的な神様も仏様も、そして長押(なげし)に飾っておいた天皇陛下のご真影から日本語の本までのあらゆるものの一切を投げ捨てました。私たちが持っていた日本の全部を捨てたのです。とても辛い思い出です。食べなければ明日はないと思い、何でも食べました。もう後へは戻れないと思っていました」「後へは戻れない?」「はい。私はとにかく一生懸命だったよ。どこでも差別されるものだから頑張るしかなくてね。自分に言い聞かすの、私もアメリカ人じゃないかとね。でもパパは言うの、おまえは日本人だとね。それで私は、このハワイの海の先に日本がある、そう思って毎日のように西の海を見に行っていました。行けるか行けないかは問題ではありませんでした。それは強い望郷の念でした。ただそれだけだったのです。日本に行けば、こんなことは起きないだろうと・・・」「そうですか。それは辛く、寂しい気持だったでしょうね」「それでも私は、1944年に山口県の人と結婚しました。まだ戦争中でした。戦後になってからようやく父が帰り、営業を再開しました。戦後のことですが、父の旅館には長谷川一夫や京マチ子などが宿泊しました。父は失った物を取り返そうとするかのように、皇室と名の付く写真は何でも集めて保存しようとしていました」「今までで一番嬉しかったことは何ですか?」 この質問に時間を置いて、彼女が答えた。「悪いことは何もなかった、いいことばかり・・・」 しかし私は、彼女が周囲の人に気遣ってそう言ったのではないかと思った。ハワイでの日系移民の様子を知れば、そのようなことはあり得ないことだし、彼女の生活もまた大変であったからである。「私は、祖国を失った日系人でした。しかし私は大ファミリー(多くの子どもたち)を育て上げました」 彼女の自負の言葉を聞きながら、ハワイでは何も悪いことは起こらなかったと言わざるを得ないようなハワイの社会状況の中での日系人の本心の底を、垣間見たような気がした。確かに彼女が日本に戻った年齢が他の帰布二世と同じ幼児期ではなかったが、紛れもなく、帰布二世の一人であると感じた。ブログランキングです。 ←ここにクリックをお願いします。
2016.10.11
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『帰 布 二 世』 の 証 言 (1) 『帰米二世』とは、『二世』の名の通り日本人移民一世の子どもたちである。彼らは親の意向で日本に一度は戻っていながら、戦争の影に怯えながら再びアメリカに帰って行った(帰米)子どもたちのことである。その帰米二世たちの年齢がすでに八十歳代に入っている現在、『帰米二世』という言葉そのものが死語になりつつある。その帰米二世の各家庭とも、曾孫(五世)がいる時代となった。三世、四世にもなるとほとんど日本語を話せない。もっとも戦中は敵性人として見られ、戦後も小さく生きてきたこともあって、堂々と日本語を学べる事情にはなかったこともあったと思われる。それでも何とか日本語学校に通った者が、どうやら祖父母とコミュニケーションができる位である。要するに彼らにとって、日本語は外国語なのである。ロイさんが『帰米二世』のことを私に書くよう依頼したのは、このような心配とハワイでの記録を残したいと思ったためからかも知れない。私が取材のためハワイを訪れたいとの申し入れをした時、ロイさんとジェームスさん(現ホノルル福島県人会長)は残り少ない帰米二世の幾人かを探し出し、待ってくれていた。しかし取材を重ねるうち、『帰米二世』と言うより、『帰布二世』呼んだ方が妥当なのではないか、と思えるようになって来たのである. 2012年、3月の初めとは言えハワイは日本でいう初夏の気候であった。郡山を出るとき雪が積もっていたのが、不思議なようであった。取材に応じてくれたキヌ スズキさんは、暖かな日差しを浴びながら、アベロン ケア センターの玄関前のポーチで、車椅子に乗って娘のジェーン アキタさんと一緒に待っていてくれた。彼女は心なしか、明るく見える顔で取材に応じてくれた。「キヌさんは何年のお生まれですか?」「1937年です」「ああ、私は1936年ですから、私より一つ若いことになりますね」「そうですか。あなたは元気でいい」「いやいや、それほどでもありません。結構あっちが痛い、こっちが痛いってね。困っています。ところでキヌさんは、いくつの時、日本に行かれましたか?」「1937年です」「えーっ?」「私はまだ一歳にならないうち両親に連れられて日本へ帰りました」「そうですか。そんなに幼いときに・・・、驚きました。するとまだ乳飲み子だったのですよね?」「そうです。両親は一ヶ月ほど福島にいてハワイに帰ったそうです」「そうですか。それでは連れられてきたときの記憶も、ご両親とのことについてもご記憶はありませんね?」「はい。そこで私は、従兄弟たちと一緒に祖母に育てられました」「それじゃぁ勿論、英語などは知らなかったわけですよね?」「そう、私は完全に日本語で育ちましたし、ハワイで生まれたということも、子どもの時は知らされなかったから、小さいときはまったく意識していませんでした」「それでは戦争中など、特に『ハワイ帰り』と言って差別されたことはなかったのでしょうね?」「それはありませんでした。近所にもそういう子がいたらしく、祖父母同士が暗黙のうちに内緒にしていたようです。それから当時珍しかった洋裁を学びました。あるとき私は、出征兵士の母に頼まれて真綿の綿入れチョッキを縫ったところ、敵の銃弾に当たっても助かったとの手紙が実家に届いて評判になり、注文が殺到しました。随分縫いました」「へ〜え。そんな小さいときにね」「私は佐倉国民学校(現・福島市)を卒業したらハワイの親元に帰れるはずでしたが、十七歳まで祖母の元にいました」「それはまたどうして?」「老衰した曾祖母の看病のためでした。国民学校を卒業してから、曾祖母を何年か看病をしました」「十七歳というと1954年のことですよね。戦後になってからハワイに帰ったことになりますか?」「そうです。その後曾祖母が亡くなり、ハワイへの家族の元に帰りました。戦争が終わってから大体五年後ですから、ハワイの日本人も大分落ち着いてきていたと聞いています」「ハワイでの生活はどうでした?」「そういう訳で、英語がまったく駄目でしたから、しばらくヌアヌの英語学校で習いました。戦争は国民学校二年生のころ終りました。その頃日本の国民学校も小学校に戻り、その教育もアメリカ化されていました。ですから学校の教育については、あまりハワイと違いはなかったように思います」 キヌさんは、私が取材を終えて立ちかけたとき、車椅子の上から私の目を見詰めながらポツリと言った。「今までこのことは、子どもたちにも言わず黙っていました。言うことではないし言うべきではないと思っていました。しかし今日はあなたに話して、ホッとした気がします」「・・・」「ただあれね。今の日本には昔がなくなって、寂しい思いがします」 それを聞いて、私は今の日本の社会状況などを思い、言葉が詰まった。彼女の、『日本は良い国であって欲しい』という気持ちが、よく理解できたからである。私を見送ってくれた娘のジェーンは、「母は英語学校に通ったのに、日本語しか話しませんでした。だから今日は、あなたと日本語で昔の話ができて嬉しかったようです」と話してくれた。 私は、戦後五年も経てからハワイに帰った彼女のケースは、『戦後帰米二世』にあたるのであろうと思っていた。ブログランキングです。 ←ここにクリックをお願いします。
2016.09.21
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帰米二世 学齢期に日本にいて、そののちハワイに帰った帰米二世たちは、日本語で戦前の神国日本・皇民・軍国的教育を受けその正当性と倫理観を叩き込まれていた。これら帰米二世たちの帰りを待ちわびていた弟妹たちは、ハワイで英語に慣れ親しんで育ち、民主・自由主義的アメリカの文化とその価値観で育っていた。そのため両者の間に起こったのが文化の衝突であった。このお互いが受けたカルチャーショックのため、実の兄弟間でも対立が起きた。帰米二世たちは社会的孤立と同時に、家庭内でも孤立せざるを得ない状況に立ち至るのである。そのような状況の中でのパールハーバー攻撃。日系二世のうち、帰米二世たちは敵国の出身であるとして、ハワイでも不審者として扱われるようになっていた。彼らには、居場所がなくなってしまったのである。 ハワイにおいては、『悪い日本精神の根源地は布哇(ハワイ)大神宮にある』とFBIに決めつけられ、大神宮の建物はすぐさま接収されてしまった。その上、大神宮の文字すら良くないということで、門に刻んである『布哇大神宮』の文字を「布で隠せ」と命じてきた。ところが雨の多いハワイでは、布で隠した筈の文字が雨で濡れると文字が見えてしまったので、あわてて次には「木の板で囲え」と命令してきた。また神社に寄付した人々は直ちに逮捕されたりしていたので、神社側は関係者の名前が分からないようにと、泣く泣く寄進物をことごとく焼却している。 同様な状況が、各家庭でも起きていた。仏壇の上などに飾っておいた皇室関係の肖像画をはじめとして、日本語の本や手紙など、とにかく日本的と思われるものすべてを、FBIに疑われないようにと焼き尽くしたのである。このことは帰米二世に限らず、すべての日系人に重くのしかかることとなった。「日本人でもなくアメリカ人でもない自分はいったい何者なのか。これからどう生きたらいいのか。」彼らはこれによって、日系人としてのアイデンティティを、まったく喪失してしまったのである。これらのことは、帰米二世たちにも、自分の日系人としてのルーツをどう考えるかという根本を揺るがす大問題として突きつけられることになる。 この問題について、移民一世は法的にも日本人であり、基本的に日本志向であった。また在米二世はアメリカ人であろうとし、そのための努力もしてきた。しかし帰米二世は、法的にはアメリカ人でありながら、日本で生活してきたこともあって日本志向が強かった。それがまた同世代の二世間での対立を増幅することになった。帰米二世たちは、神の国である大日本帝国によりこの戦いの正当性を指導されていたし、天皇は神の子であり国民は陛下の赤子として叩き込まれていたのである。 しかしそうは言っても、ハワイに生まれ育ち、住み、英語を自由自在に繰つることができた在米二世と、日本語しか話せないという言語的ハンデイキャップを持つ帰米二世とが、ハワイで共生していかなければならなかった。共生とは言っても、帰米二世たちは、在米二世たちと異なり、庭師か洗濯屋、メイドといった英語を話さないで済む職業にしか就けなかったから、彼ら二世同士の対立には相当根強いものがあったという。それに加えて、日系人の社会からも、帰米二世を葬り去ろうとした政治力があったという。どちらの二世たちも、親から受け継いだ日本人の血と同様、二世たちにとっては選択する余地のなかったそれぞれが受けた教育に翻弄されることになったのである。 このようなとき、日本の親戚に預けたものの帰って来なかった我が子を持っている移民一世の親たちは、『これからどうしたら、ハワイでの日系人家族として元の生活に戻れるか?』という難題に突き当たっていた。日本に住む子どものためにも、ハワイに住む日本人の親たちはどんなことをしてでも生き延び、やがては家族一緒の生活をしなければならないという強い命題につき動かされていった。それは、明治期日本人の特性であったのかも知れない。一世の親たちは、ただこのことだけを考えていた。この時期の日系人たちにとっては、日本に住む子もハワイに住む親も、言いようもない孤独の中にあったのである。そう、それは家族を守らなければならないという強い意志であった。 幼い頃の二世たちにとっての生活の場は、日本でもアメリカでもそう違いはなかったであろうが、中学生くらいにまで成長していた二世たちにとっては、自分にとってそして家族にとって最善の道は何なのかを考えざるを得なかった。ただここで、理由はどうあれ、日本に残った二世たちは、単にハワイに行ったことがあったという淡い記憶だけとなっていく。彼らはあまりにも日本の社会に馴染んでしまい、まったくアメリカ国民である二世としてのアイデンティティは、なくなってしまったのである。このアメリカと日本という二つの祖国を持ちながら、その二つの拠り所を失ってしまった日系二世たちの人生は、不条理なものであったと言わざるを得ない。そして帰米二世の悲劇は、日本がアメリカの敵国となる異常な状況で起きたものであって、帰米二世自らが選択したことで起こったものではなかった。 このような状況下で、帰米二世たちの大部分は、ただ引きこもっていた訳ではない。中には英語学校に通うなど、アメリカ化への地道な努力をする者もいた。しかし日本がアメリカの敵であった時代、そのアメリカを敵とする軍国主義に染め上げられた帰米二世たちの存在は、ハワイの社会や日系人社会にとっても、決して好ましいものではなかった。彼らは日系人社会からも、コミュニティの恥として黙殺、封印されることもあった。その上、アメリカ政府によって実施された敵性日系人の強制収容(ハワイを含む)と忠誠登録質問という政治的手段によって、帰米二世とアメリカで生活していた二世との感覚的差は、決定的となった。理由が何であれ、忠誠登録質問を拒否した人々は、アメリカ政府からは敵国人という政治的レッテルを貼られたのである。帰米二世たちは、自分が下した判断について、常に悩み続けることとなった。 ところで、帰米二世とは言えども、当初は二重国籍者であった。同じアメリカ国籍を持つ二世たちが対立をさせられた決定的理由は、戦争にあった。今までなら、単に親の生まれた国と自分の生まれた国という関係だけの日米が、お互いに敵となってしまったからである。そのため、どちらの国に忠誠を示すのかという二者択一の状況に追い込まれてしまったのである。そのことは、帰米二世自身の中においても激しい葛藤を生むことになる。このような中で、アメリカ本土においても、帰米二世たちは二つに分かれた。対決派は頑なに大日本帝国を信じた組であり、もう一つは懸命に英語を学び、アメリカに同化しようとした組である。 「第100大隊の兵士たちには、英語もよく分からない『帰米二世』が多かった。バカバカしかったな戦争。大分死んだっけね。・・・かわいそうに」 これは、後述する故・ヒデオ トウカイリン氏の述懐である。これは命を投げ出してもアメリカ人であろうとし、かつアメリカ本土に作られた強制収容所から親たちを解放しようとして多くの帰米二世が選んだ道の一つであったと言える。 1945年8月15日、海外に住む日系人たちに多大な犠牲を強いた戦いは、日本が連合国に無条件降伏をすることでその幕を閉じた。しかしハワイにも日本の敗けを信じない「勝った組」、「必勝組」、あるいは「布哇大勝利同志会」などと称される人々が各島にいた。もっとも、時間の流れと共にこれらの人々の主張にも変化が見られるが、当初は文字通り、日本の勝利を唱える活動であった。しかし実情を知るなかで、戦後の日本の経済的繁栄をもって勝利の証としたり、精神的な勝利を説くような者もあらわれた。やがてこの運動も「勝った」とばかり言えず、次第に質的変化が生じていく。この運動をしていた人々の多くがどのような人たちであったのか? 必勝組の人たちもその他の人たちも互いにおもんばかってか、それを語る口は重く、多くを知ることはできなかった。 日系人社会に大きな混乱を巻き起こした太平洋戦争後の1948年から52年にかけて、太平洋を渡った在日二世は、約2万人とも言われている。これらの人々は、『戦後帰米』と呼ばれる。しかし大戦中に市民権を凍結されていたため、旅券入手には種々の困難を極めたという。例えば在日アメリカ領事館で、「君は祖国に銃を向けた人間ではないか。そのアメリカに帰りたいなどとよく言えたものだ」などという激しい言葉を浴びた者もいたという。そして続く長い戦後・・・。またハワイの側でも戦争の期間中に故郷との間との連絡ができなくなってしまい、福島県出身というだけでそれ以上の住所を知らない人も多くなってしまっていた。しかも戦争中、お互いの間でも転居などもあり、互いの住所を忘れてしまったこともあった。 戦後は三世、さらには四世が登場する。彼らはもうほとんど日本語を話せない。真面目に日本語学校に通った者が、何とか祖父母との間で日本語によるコミュニケーションできる位である。要するに彼らにとって日本語は外国語になってしまったのである。彼らの顔は日本人であっても、頭脳はすっかりアメリカ人なのである。それでも、四世、五世にあたる人たちが、しかも他の人種と結婚して生まれた日系人たちを含めて、祖国を日本と考え、故郷の福島を心のよりどころにしている福島県人会員は多い。その多くの人が、「私の先祖が福島県から来たことを誇りに思う」と話してくれるのである。 2001年4月、私が最初に『マウナケアの雪』の取材のためハワイを訪問したとき、多くの県人会の方々のお世話になった。その方々は、故郷福島への思いを、私に次のように話してくれていた。彼らの心の一端を次に紹介してみたい。「福島県人の子孫としてハワイにいるのですが、(福島県は)大変美しい郷土であり人の心も温かく、その親切な福島県人の血を引いている私としては大変誇りに思います。 (ジョージ スズキ・勝沼富造の孫・三世)「福島で一番好きなものは血です。日本人としての血です」 傍らから新一世である妻のサニーさんが説明してくれた。「要するに彼は、自分が日本人であることの誇りを説明したいのですが、日本語で上手に言えないのでああ表現するのです」 ロイさんが続けた。「もしカネが問題でなかったら、ハワイの福島県人の子どもたちを福島県に連れて行きたいです。その気持ちがあるとつながるわけね、福島県との橋が・・・。それが私の夢です」 (ロイ トミナガ・前ホノルル福島県人会々長三世) 注 新一世=ほぼ戦後になってからハワイに移住した日本人。「福島県人の多いマウイ郡は、福島県と文化や経済の交流をしたいと思っています。私は父母や祖父母が苦労して働いたことで今の自分があると思うと、とても感情が高ぶります。(涙ぐむ)その先祖に貰った愛情を、自分の子どもにも伝えていきたいと思います。 (リン レーガン・マウイ郡経済開発担当・四世) 注 彼女は自分の一人息子のライリーを、エレメンタリ スクールに入った1913年から日本語学校に通わ せている。 「どうか遊びに来てください。私たちは遠い遠い親戚です。私たちも福島に必ず行きますから、どうか私たちを忘れないでください。もしかしたら見た目も違うかも知れません。話す言葉も違うし考え方も違うかも知れません。しかし私たちは、皆さんと同じように福島県人としての誇りを持っています」 (ブライアン テツオ モト マウイ福島県人会々長・四世)「福島県人であることを誇りに思います。これからも、もっともっと会のために協力援助したいと思っています」 (ウォルター タチバナ・ハワイ島前福島県人同志会々長・三世) 今は、日本側も世代が代わっており、親戚がハワイにいるとは親に聞いて知っていたが、通常の生活ではまったく意識していないという人が多い。その中の一人、ホノルルで取材に応じてくれたヒロシ ヨシダさんの親戚の家が伊達市にあった。当主の吉田恭亮氏にお会いすることができた。ヒロシから見て従妹の子にあたるという。すでに世代が一代下がり、年齢的にも若く、ヒロシに対する記憶はまったくないと言う。ただ戦後の物資不足の中、ヒロシから時折、生活物資(砂糖、チョコレート、農耕具、大工道具、デニムの衣類など)が送られてきて、鼻が高かったという。すでに、そのような時代になってしまったのである。 私が帰米二世について取材に応じてくれた人のうち二人ほどから、出身地の福島県での住所を聞いたので訪ねて行った。福島市に住んでいる一人を訪ねたとき、愕然としたのである。何と私が訪ねた女性はその前日に亡くなり、伺った日は通夜の日であったのである。家族によると、戦後の一時期、ハワイからいろいろな援助物資が送られて来ていたと言う。 ——ああ、もう少し早く来れば良かった・・・。 悔いが先に立った。彼女だったら、ハワイへ戻らなかった事情が聞けたかも知れない。八十八歳であったという。彼女の年齢が、私を待っていてはくれなかった。ブログランキングです。 ←ここにクリックをお願いします。
2016.09.11
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ハワイ移民一世(2) 1898年、アメリカによるハワイ併合とそれに伴う新法の施行により、農場に残った日本人労働者の脱走とか不服従による牢獄送りといった心配事は軽減された。そのために移民たちは農作業や生活改善に前向きに取り組めるようにはなったが、法的規制によって改善された。しかし日本人移民に対しての労働条件の実態は、契約を交わしたときの名残が随所に残されていた。例えば鞭で労働者を叩くなど、ルナによる職権乱用が相変わらず続いていた。これなどは、日本人移民に対しての差別的行為であったのかも知れない。 この半奴隷的労働と低賃金に対して、日本人移民たちは命令不服従と脱走で対抗した。農場で馬に乗って鞭を振って労働者を虐待するルナに対し、マウイ島のウルパラクア農園では移民二十名余りで大ルナ(総監督)を殴り倒すという集団暴行事件も発生した。その後も日本人移民たちは多くの抗議行動を起こした。彼らは集団で、あるいは代表を立てて、農場からホノルルまで行進し、日本総領事館やハワイ政府移民局に不当な扱いを改善するよう訴えた。それはさながら、江戸時代の百姓一揆のようであったという。 移民して暫くたつと、単身で移民した多くは、生活の安定を求めて結婚を望んだ。しかし アメリカのハワイ併合後に日米間で締結された条約により、日本からの新たな移民が禁止されたが、それでも、辛うじてハワイから日本の家族を呼び寄せるという移民は許されたので、彼らは故郷の両親や親戚を頼って花嫁候補とされた女性と写真や履歴書を交換して結婚を決め、日本で入籍させた上でハワイへ呼び寄せた。いわゆるピクチャーブライド(写真結婚)である。しかし日本型社会がハワイに定着するにつれ、反日ムードが広がっていった。例えば、結婚は個人と個人の意志に基づいて行なわれるものだと考えているアメリカ人にとって、一度も直接的に意志の交換がなされずに行なわれる写真だけの結婚形態は、理不尽な風習に見えたらしい。だが意志を交わそうにも日本に戻る金銭的な余裕のない移民にとって、これは最も都合のよいやり方であったのである。裏には、『結婚は親が決める』とした日本の古い風習も支えとなっていたのかも知れない。しかしアメリカ人が好まない形式の結婚ではあっても、家庭を持つことのできた男性が増えていくことで日系人社会は次第に落ち着いてくるのである。そこで増えてきたのが次の世代である子どもたちの誕生である。いわゆる日系二世である。これら二世の場合、ハワイに住んではいたが、両親は日本人であったから、当然、日本人としての血統を引いていた。 一方、アメリカの国籍法では、アメリカ領土内で生まれた者はアメリカ国籍が与えられたが、日本の国籍法では血統主義、つまり父親の国の国籍を継承させていたため、両方の国籍を持つ日系二世が急増することになった。例えば、ハワイに住む二世であっても、日本の国民皆兵の兵役法により、満二十歳から三十五歳までは日本兵として徴兵の義務を負わされていた。この国籍法の問題を避けるため、日本政府はどちらかの国籍を選べるよう、国籍法の一部を改正した。これに伴い、アメリカ生まれの多くの日系二世は、日本に戻らない選択として日本国籍を離脱、その国籍をアメリカに一本化した。これら二世たちは、たいてい学校に行くまでは家庭で両親の日本語を聞いて育ったが、学校に行くようになると英語が主体となった。彼らの多くは放課後日本語学校に通ったが、それでも日本語は苦手となっていった。 明治三十三年(1900)、ホノルルでペストが発生、流行した。醜悪な住環境に住む移民たちが原因とされ、病原菌駆除のためとして病人のいた家に火が放たれた。その火が燃え広がり、移民たちの住んでいた集落と隣接した白人の住宅地も焼いてしまった。政府はこの対処法として白人にはホテルを提供したが、アジア系移民にはバラックを準備した。しかしこのことから差別が表面化し、不満が爆発した。そしてこれを機に、ハワイに於ける日本人社会は、『アメリカ化』を進める同化派と日本人への差別や圧力をはね除けようとする対決派に分裂しはじめた。アメリカ式教育は同化派の、日本語学校の開設は対決派のそれぞれの基盤となったのである。 大正九年(1920)1月19日、フィリッピン人労働組合の約三千人がオアフ島のアイエア、ワイパフ、エワ、ワイアルア、カフクの各農場でストライキに入った。当初、日本人移民は様子を窺っていたがスト協力を要請されて応ぜざるを得なくなり、2月2日、オアフ島の各地でストに突入した。このストライキは六ヶ月続き五割の賃上げや社会福祉の進展などを獲得したが、プランテーションでの重労働に嫌気をさした多くの日本人労働者が、農場から離れて町に出たり、アメリカ本土へ移ったりすることになる。これがホレホレ節でうたわれた、『行こかメリケンヨー帰ろか日本 ここが思案のハワイ国』を表現したのではないだろうか。 大正十三年(1924)、アメリカは移民の絶対数を十五万人に制限し、明治二十三年(1890)当時の移民実績をもって各国への割当て基準とした。その結果、イギリス系をはじめ北欧系には有利になったが、南欧、東欧諸国系を含むその他の外国人には不利となった。その上この法律は、合衆国市民になることのできない外国人の入国を禁止するとしたため、アジア系の移民は全面禁止となってしまった。そのためこの移民法は、俗に排日移民法と呼ばれた。この法律により、富造が推進していた『写真花嫁』の入国も禁止されてしまったのである。 このような状況の中で、何とかカネを貯めて日本に戻ろうとしていた日本人移民は多かった。一世たちには、「出来るだけ早く家に帰る」という親との約束があったからでもあるし、『故郷に錦』を飾りたいという気持ちもあった。しかもそれは年を経るごとに、強まるばかりであった。一世は当然のことながら、ハワイに渡った後、日本人移民のコミュニティを形成したため、日本語だけで毎日を過ごすことが出来たから、日々の生活に特別の不自由を感じることもなかったという。そのため多くの一世は、ほとんどまともに英語を習得することなく生涯を終えている。もしかすると彼らには、異文化の中で生活しているというような感覚は乏しかったのかも知れない。 ーーいつかは家に帰ろう。 その感覚の方が、強かったのである。 その思いからか、移民たちは二世である子どもたちを故郷へ戻しはじめた。ハワイで生まれた子どものうち、せめて長男か長女だけでも日本の教育を受けさせようとして日本の親元や親戚などに預けた家庭は少なくない。親戚などに預けられた子どもたちは、いずれ戻って来るはずの親たちを待って、けなげにも、日本で親と離れて過ごすことになる。もちろん子どもたちの生まれた年にはバラツキがあるし、日本に戻って来た時期にもバラツキがある。しかし親たちにしてみれば、やがては自分たちも日本へ戻るのであるから、子どもたちを先に日本に戻して日本人として日本の教育を受けさせておき、いずれそこへ自分たちも戻って行けばいいと考えたのも無理はないと思われる。しかし子どもたちの受け止め方は違っていた。未知の世界の福島に行かされるという感覚だったのである。 それにしても取材の過程で、幼児期、それも一歳に満たない子も日本に戻っていたことを知って驚かされた。この一歳に満たない子を日本へ連れて来て養育を依頼してハワイへ帰っていった親たちの心情は、どんなにか切ないものであったろう。恐らく過酷な労働に従事し、貧しい生活をしながら子育てが可能かという疑問、そして我が子の幸せを祈る願いがこのような選択を迫ったのではあるまいか。それにもう一つの理由として、「米国籍を有しているわが子には日本に住んでも日本の国籍法が及ばず、日本政府による徴兵を合法的に免れることができる」と考えたこともあるようである。それでも、子どもの養育のために実家が受けることになる負担の大きさを思い、子どもの兄弟全部を戻す家庭は少なかった。掘っ立て小屋の住居に住み、アメリカとしては低賃金でしかも長時間の過酷な労働ではあったが、そこには日本では得られない安定した収入があった。そして移民たちは、その収入から爪に火をともすようにして実家へ仕送りを続けていたのである。 注 当時は、アメリカでも徴兵制をしいていた。 ハワイで生活を続けている移民一世の親と二世の子どもたち、そして日本の親戚などに預けられた二世の兄姉たち。この分裂した家族をまとめる方法は、唯一、ハワイで稼いでカネを貯め、早く故郷に戻ることしか考えられなかった。そのために彼らは、必死になって働いた。しかし逆にそのことは、雇用する側の目に、良質の労働力と映ったのかも知れない。日本人は差別を受けながらも自己主張をすることも少なく、黙々と働いていたのである。聖徳太子の言う、『以和為貴(わをもってたっとしとなす)』の思想が根付いていたからかも知れない。 ところで世界の情勢は、日本人移民たちの思惑を遙かに越えた動きをしていた。軍国主義日本によるアジアでの戦火拡大を恐れた一世の親たちは、日本に預けていた子どもたちの将来を憂いた。このまま子どもたちを日本に留めておけば、日本軍兵士として戦線に送り出されるかも知れないと心配したのである。日本の親戚に預けた子どもたちを、戻すべきかそのまま留めるべきか、その対応は別れた。しかし子どもたちを呼び帰すことは、全体的潮流とはならなかった。それはそのまま、親の迷いを表していた。 日系二世は外見こそ日本人であるがアメリカ国籍を有し、法的には白人のアメリカ人と同じであった。彼らは、ハワイに住む自分たちはアメリカ人である、という気概を持とうとしていた。移民一世も、そのことは認めていながらも、気持の半分は『故郷に錦を飾る』という夢を捨て切れないでいた。この移民一世の夢を打ち破ったのが日米開戦であった。ハワイの日系人が目の前で見せつけられた日本海軍による真珠湾攻撃は、彼らの日本人としてのプライドをズタズタに切り裂いてしまったのである。それは戦争が単なる抽象的な概念としてではなく、実質的に日系人の存在そのものを大きく脅かす事実として立ちはだかったのである。ブログランキングです。 ←ここにクリックをお願いします。
2016.08.21
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ハワイ移民一世(1) ハワイでの生活は、移民たちが思い描いていたものとは大きく異なっていた。それはまた、富造が思い描いていたものとも違っていたのかも知れない。プランテーションでの労働条件は極端に悪く、生活には厳しいものがあった。頭で考えていたように簡単にカネが得られる仕事ではなく、労働は過酷であった。ハワイの白人農園主は、白人であるポルトガル人をルナ(人夫頭)として雇い、多くの中国人労働者をプランテーションで使っていた。そこへ日本人移民が入ってきたのである。新たな日本人移民が、以前から入植していた中国系移民の職を奪うと考えられ、彼らからねたまれたのである。これらの差別などから身を守るために、日本人移民は、ただただ、黙々と働くのみであった。そのことが、白人農園主から勤勉な日本人移民、との高い評価を受けるのである。 労働には大別して栽培と粗糖製造があった。栽培は数班ずつに分かれ、ポルトガル人のルナの監視のもと、炎天下の重労働に耐えなければならなかった。機械的なリズムで砂糖キビを切り、手をゆるめれば途端にルナに怒鳴られ、蛇皮の黒鞭が飛んでくることさえあった。切り倒された砂糖キビは、日本人女性労働者が束にして貨車まで運び、さらにナイフのように鋭く尖った葉をそぎ落とすのが彼女たちの仕事であった。粗糖工場の中は、地獄の炎のような暑さと機械の絶え間ない騒音であふれていた。その上若い男たちは一人暮らしのため生活も荒れ、せっかく稼いだ金も、ばくちや売女に使ってしまうという状態であった。 それから何年かが過ぎて、富造が連れて行った最初の移民団の一人、伊達崎(だんざき)村宮北(いまの伊達郡桑折町)出身の岡崎音治氏が、プランテーションでの苦しい生活を嫌い、思い切ってホノルルに出て独立、洋服屋として大成功した話が福島にも伝わってきた。彼の成功話が刺激となったのか、県内にはハワイ移民の機運が高まっていった。岡崎音次氏の成功を知ったこともあってか、福島県からハワイへ移民して行った人たちは"農家の出身者ばかりではなかった。商工業関係の人たちの多くも参加するようになったのである。彼らはインテリとまでは言わないが、肉体労働にそぐわないような身体の人たちであった。しかし彼らもまた、新天地ハワイでの成功を夢見たのである。「天竺(ハワイ)でひと儲けしよう」 この高まるムードのもとで、仕事と未来を求めてハワイに多くの日本人が移民となって渡って行った。しかし移民たちにとってのこの夢は、すぐに破れた。特に商工業関係者移民は、ハワイで独立営業をするための資金も無かったし新規営業そのものも難しかった。結局すべての人が不慣れなプランテーションに行かざるを得なかったのである。 当時のアメリカでは、南北戦争以降、奴隷売買や半奴隷的契約労働者の輸入こそ禁止されていたが、ハワイでは『主人と召使法』があったため、日本人労働者は契約満了を絶対的に義務づけられていた。それでなくとも、日本とは海を隔てた遠いハワイから、高額の船賃も出せなかったので、逃げ出す方法もなかった。つまりは、ハワイに住むことしかできなかったのである。ハワイ民謡とされるホレホレ節が、それを物語っている。 注 ホレホレ=砂糖黍の枯れ葉を手作業で掻き落としていく 作業 国を出るときゃ笑顔で出たが 今日もカナケン(黍を刈る作業)生地獄 ハワイ ハワイとヨー夢見て来たが 流す涙はキビ(畑)の中 ハワイハワイと来てみりゃ地獄 ボース(英語のBoss)は悪魔でルナは鬼 地震雷恐くはないが ルナの声聞きゃぞっとする 雨がショボ降るカンカン出鐘 追い立てルナの靴が鳴る ゴーへゴーへとせき立てられて ルナを殴った夢を見た ルナの目玉に蓋しておいて ゆっくり朝寝がしてみたい 工場(製糖)勤めは監獄務め 鉄の鎖がないばかり 雨が降りますヨー洗濯もんは濡れる 背なの子は泣くマンマ焦 げる 一回二回でヨー帰らぬ者は 末はハワイでポイ(タロ芋)の肥え 注 『1回、二回』は、三年契約を一回とするその回数、 つまり六年。 醤油飲んだが待つ間に覚めた 果てはコロコロ(裁判) カラボーシ(牢獄) 注 醤油を呑むと発熱するとの事から、体調が悪くて休み たい時に飲んだりしていた。 つらい条約逃げよかここを 今日も思案の日が暮れる 条約切れるし頼母子(たのもし)おちた 国の手紙にや早う戻れ 注 頼母子=少額のカネを出し合って積み立て、病気や 緊急の事が起きた人に貸し出す組織。『おちた』は、 そのカネを一番高い利子で入札するか、または抽選 で当たって借りること。 行こかメリケンヨー帰ろか日本 ここが思案のハワイ国 ♢ ♢ ♢ 今日のホレホレ辛くはないよ 夕べ届いた里便り ハヤシ=そのわきチャッチャでヌイヌイハナハナ (以下同じ) 花嫁御料でヨー呼び寄せられて 指折り数えて五〇年 頼母子落として妻呼び寄せて 年子年子で苦労する 自由になるなら今宵の月に 故郷の便り頼みたい 横浜出るときゃ涙で出たが 今は子もある孫もある 雨が降りゃ寝るヨー日和なら休む 空が曇れば酒を飲む 旅行免状のヨー裏書き見たが 間夫をするなと書いちゃない 明日はサンデーじゃヨー遊びにおいで カネ(夫)はハナワイ(黍畑仕事) わしゃ家に 宅で朝から首尾してお待ち きっとバンバイ(その内)行くわいな 頼母子落としてワヒネ(女)を呼んで 人に取られてベソをかく ぶらぶら育ちのパパイヤさえも 色づく頃には売られ行く しかしこの歌詩でも分かるように、初期のホレホレ節は労働の辛さ生活の苦しさを歌っていたが、年月を経るに連れて、後半の唄のように娯楽的になっていく。これは本当の意味での労働歌が、生活が落ち着くにつれお座敷などの酒宴の唄に変わっていったことを意味している。 注 たまたま車を運転中に聞いたこの歌の合いの手に、 「烏なぜ泣くの」のメロディが入っていた。ただ歌い継 がれる間に、歌詞ともども変化して行った部分かとも思 われる。ただ私には、ホレホレ節が群馬県草津温泉で歌 われる『湯もみ唄(高温の湯を板でかき回して適温にす る共同作業で歌われる作業唄)』に似ていると思えるので あるがどうであろうか。 すでに亡くなられたが、ハワイ島ヒロ市の移民資料館長をされていた一世の大久保清氏は「昔はどこに行っても日本語で用事が済んだのに、この頃は日本語が通じないことがあって困るなどと言う一世がいた。彼らは確かに海を渡っては来たが周囲は日本人ばかりで日本語が話され、日本的感覚のみで事が済むとなれば、それを捨てろと言っても無理な話だとは思う。しかし彼らは、ハワイへの移民が貧乏な日本を救うための民族の大移動であったということを理解すべきであった。『郷に入らば郷に従え』という諺がある。ここに来た以上、英語を学ぶべきであった」と語っておられた。新潟県出身であった彼は、「ここではタガイニ(新潟の逆さ読み)助け合って生活することが大事だ」と話していた。 注 大久保清氏は、2003年に九十八歳で亡くなった。 そのハワイでの劣悪な労働条件の中にあっても、カネを貯めて日本へ戻って行った者も少なからずあった。その反面、彼らが自分たちの苦労を隠して話す成功談を聞いて、新しくハワイへ移民をしようとする者も少なくなかった。最終的に、移民会社の斡旋で四万人あまりの日本人が移民したのであるが、やがて時が経つに連れ、帰国せずにハワイに留まる者も増えていった。日本の郷里で仕送りを待つ親や小さな兄弟のためを思い、あるいは郷里での困窮した生活に比べれば、ここでの苦労は仕方が無いと諦めて働き続けた者も多かった。しかし戻らなかったのはそれだけの理由だけではなく、悪質な移民会社もあったため、労賃を搾取された上に半奴隷的労働に荷担されて身動きできない状況の者も多かったのである。 注 日本人移民4万=当時のハワイの総人口は、白人入植者 の持ち込んだ病疫のため、約15万4千人に激減してい た。 2010年現在のハワイの総人口、約136万人。ハワ イ系約8万人。白人36万人。日系19万人。ヒスパニ ック12万人。上記混血32万人。ブログランキングです。 ←ここにクリックをお願いします。
2016.08.10
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移 民 の 親 富造の生まれた幕末は、移民となって北海道や国外に出る世代の親たちが幼児期を過ごした時期である。ではこれらの親の次の世代が、何故、移民という手段をとるようになったのであろうか? 私は、社会的理由と環境的理由の二つがあったのではないかと思う。彼らの生活の地であった福島県域は東北地方の南端とはいえ、冷害、凶作が常習的に襲う寒冷山間地の多い土地柄であった。江戸期にも天明、天保の大凶作をはじめとして中小規模の風水害が毎年のように続き、寛延一揆や浅川騒動のような一揆も相次いでいた。 明治元年(1868)、福島県全域が戦場となった戊辰戦争が終った。しかし明治に入ってからも、凶作は明治二年(1869)、明治三十五年(1902)、明治三十八年(1905)と相次ぎ、餓死する者さえあった。特に明治三十八年と大正二年(1914)の凶作は被害が大きく、天保以来の大凶作に匹敵するものであったと伝えられる。 この自然条件に加えて、長子相続という制度があった。これは全財産がその家の長男に与えられるというもので、俗に「かまどの灰まで俺のもの」という言い方さえされていた。必然的に次・三男は兄を手伝うか、仕事を見つけて家を出るしか方法がなかった。それでもこれ以前の世代までは余力があったようで、次・三男にも田地を分け与えて分家という形をとっていた。しかしこの方法も長い世代間で続けられたため、明治期には各家とも分け与える田地もなくなってしまっていた。余談ではあるが、このことから、馬鹿なことをすることをタワケ(田分け)と言うようになったといわれている。 このために急がれたのは一般農民の北海道への入植であった。入植者には政府により、種々の奨励策が施された。農耕用の土地を優先的に与えられ、その保有権を保証されたから、本土で土地を持てなかった農民層には極めて魅力的で希望を与えるものではあったが、なにせ寒冷の地である。今までの農耕の技術では役に立たず、何を植えるかも試行錯誤の状態であった。当時を揶揄する言葉に『しっちょいからげてどこさ行(ゆ)く、行くとこ無いから北海道』というものがあったが、当時の世相を表していると言えよう。 注 しっちょい=着物の裾。 政府は他国へ移民させるよりも、北海道を実効支配し、日本の領土と確定する意味においても、ここへの植民を優先させていた。明治七年(1874)、政府は屯田兵の制度を実施した。この制度は若い入植者を北海道に送り込み、開拓にあたらせながら北海道防衛のためとの理由で兵士としたものである。しかし民間の自由意志に任せておいては定住が進まなかった上、寒冷地である北海道開拓の苦しさからそこの土地を捨てて流亡する者も多かった。その流亡しようとする先に、ハワイが見えていたのかも知れない。ハワイは北海道と違って常夏の国であり、しかもすでに、『元年者』と言われる日本人が移民していたことも知られていたからと思われる。それに何と言っても北海道入植の困難さを伝え聞いた人たちにとって、暖かな気候と、伝えられる高額な賃金が、誘い水になったのではあるまいか。 注 元年者=白人入植者の持ち込んだ病疫により、明治 期以前に、ハワイの人口が激減した。カメハメハ5 世は、日本人労働者の招致を徳川幕府と交渉するよ う、在日ハワイ領事のユージン ヴァン リードに指 示、300人の渡航許可を得た。しかし幕府が明治 政府と入れ替わったため、明治政府はこの交渉結果 を無効化した。明治元年、リードは、153名の日 本人労働者を、無許可でハワイに送り出した。その ためこの人たちは、『元年者』と言われるようにな った。なおホノルルのマキキ墓地の丘に、元年者の 記念碑が建立されている。 このような事情にあったから、移民となって日本を出たのは、農家の次・三男が多かった。しかも相続の情況は商家や職人の家でも同じであったから、彼らの子どもたちによる移民も、少なからずあったのである。ハワイへの移民となった商家や職人の子どもたちは、ソロバンを鎌に持ち替え、プランテーションで働くことになる。手につけた職に就くことは難しかった。いずれにせよここでの労働は、辛酸の連続となった。 注 プランテーション=近世植民制度から始まった前近 代的農業大企業およびその大農園。熱帯、亜熱帯の 植民地で、黒人奴隷や先住民の安い労働力を使って 世界市場に向けた単一の特産的農産物を生産した栽 植企業。(デジタル大辞泉・小学館) 明治十八年(1885)一月、日布移民条約が締結され、第一回の移民九百四十六名が『東京市号』でハワイへ出航した。この条約は1894年に両国の合意の上で廃止されるのであるが、この間に二万九千人の日本人がハワイに渡っていた。これ以後は、日本国内の民間移民会社を通じた私的移民時代となる。 明治三十一年(1898)二月、キューバの暴動に備えて派遣されていたアメリカの戦艦メイン号が、ハバナ港で突然爆発炎上して沈没し、二百六十名もの水兵の犠牲者を出す事件が起こった。「リメンバー メイン」のスローガンの下、アメリカはスペインと戦うことになった。米西戦争である。 注 戦争に入る前のアメリカでは、何故か『リメンバー』 という言葉を使う。『リメンバー パールハーバー』も そうであった。 そして将にその年の五月、ハワイ共和国移民官となっていた勝沼富造が三春へ戻り、熊本移民会社の支店を福島市の稲荷神社の傍に開設して県内でのハワイ移民の募集をはじめた。これをはじめとして勝沼富造は、その後も何度かに分けて福島県から多くの移民を連れて行くことになる。しかし米西戦争は、ハワイから遠い大西洋での戦いであったにもかかわらず、当時、一般の人が持っていた稚拙な地理感覚では、それがよく分かっていなかった。移民希望者たちは、富造に世界情勢の説明を受けたが、それでもやはり、先行きは不安であった。そのハワイへ移民として出て行こうとする若者たちやその親たちにとっても、決断に至るには相当の葛藤があったに違いない。親たちとしても、度重なる不作や新政府による旧士族厚遇への不満があり、しかも日清・日露戦争へ子どもたちが徴兵されて戦死した者も多い上、またその戦争遂行のための重税にあえいでもいた。そしてさらには、特に福島県で巻き起こっていた自由民権運動とそれに対する弾圧などを目の当たりにし、せめて子どもたちにはよい社会生活をと思う気持ちが沸き上がってきたとしても不思議ではなかったと思われる。 このような状態の中で、親たちは不承不承ではあっても、子どもたちのハワイへの移民を承知せざるを得ない状況にあったのであろうと思われるし、親の苦労を見て育った子どもたちにしてみれば、不安があったしても自分の努力で何とか家運を盛り立てたいと考えたのも無理はないと思われる。それであるから、移民をしようとする多くの若者たちは、いずれカネを貯えて『故郷に錦』を飾る気概で家を出た。彼らには、ハワイに永住する積もりなどは、最初からなかったと思われる。親の元に帰り、家業を続けて資産を護り、それを次の世代に譲りながら家名を存続させるということは、当たり前のことであった。当時の倫理観は、このようなものであったのである。これから老いるにもかかわらず送り出す親の側も、それを期待していたのではあるまいか。それにしてもハワイ移民の募集者が同じ福島県出身の勝沼富造であったことが、移民することへの安心感を与えていたのかも知れない。移住をして行く子と残る親との間に、別離の寂しさはあったであろうが、親は子を心配して早く帰ることを望み、子もまた早くカネを稼いで親に楽をさせたいという、暗黙の了解があったのであろう。むしろ親子ともに責任と義務を負い、悲壮な覚悟で別離をして行ったのではないだろうか。移住をして行く若者たちは、身軽な単身者が大半であった。これら移民一世とその親との心情的関係については、すでに想像の域に入ってしまっている。移民となって行った人たちの親に、当時の心境を聞く術(すべ)は、ない。ブログランキングです。 ←ここにクリックをお願いします。
2016.07.21
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ハ ワ イ と の 接 点 私がハワイに足繁く行くようになり、ハワイの人たちとこのような関係になったのには理由があった。 以前に私は、郡山図書館で『三百藩家臣人名事典2 三春藩』に目を通していた。そこにあった加藤木直親(なおちか)の項に『三男富造は獣医学を修めてホノルルにわたり、移民局に勤め、ハワイ移民の父と称された。菩提寺不明』とあったのである。興味を引かれた私は、彼についての資料がないかと三春図書館の担当者に聞いたが、知らないと言う。次いで行ったのが三春歴史民俗資料館であった。しかしそこにも資料がなかった。ところがそこの藤井典子学芸員が、次のようなことを話してくれた。 「私、この休みにハワイに行って来たのですが、空港で住所氏名を書くようにいわれました。傍で見ていた現地の添乗員に、『あなたは三春の出身ですか? ハワイの日系人の多くが彼の世話になりました。ありがとう』と言われたのです。そのとき私、何も知らなかったので何も言えなかったのですが、この方だったのですか」 そんなとき、私たちの話を隣の部屋で聞いていたのか佐久間誠資料館長が現れ、「実は私の隣家が富造の自宅だった。もしよかったら、彼の兄の重教(しげのり)が書いた本をもっているから、貸してあげよう。それから富造の姉が三春の湊家に嫁いでいるから、湊家を訪ねてみたらいい」と教えてくれた。 私は早速、湊家を訪ね、富造についての小冊子と、彼の死去の際の記事の載ったホノルルの新聞を借りることができた。それによると、富造はユタ州のソルトレイクで末日聖徒イエスキリスト教(通称・モルモン教)に入信している。私はそこから何かのキッカケが見つかるのではないかと思い、郡山にある末日聖徒イエスキリスト教教会に行ってみた。応対してくれた教会員の高橋亮さんは、「残念ながら、彼については何も知らない」と言う。ただ富造が郡山の隣町の三春出身であったということについては、大分興味をそそられたようであった。しばらくして、彼から電話があった。富造の孫のトーマス カツヌマさんがハワイ島ヒロに住んでいるという。どうしてそれを知ったのかと聞いてみると、「自分はユタ州ソルトレイクにある末日聖徒イエスキリスト教のブリガムヤング大学(BYU)を卒業していたことから、恐らく富造が日本人最初の教会員であったのではないかと推測し、『それなら』とBYUハワイ校に連絡を取り、ハワイの電話帳からカツヌマ姓を選び出して片っ端から電話をし、トーマスさんを探し当てたのだという。そのトーマスは、ユナイテッド航空の乗務員なので「毎月二度、成田〜ホノルル間を飛んでおり、彼とは成田で会える」ということであった。私はその話に飛びついた。ハワイとの関係は、このような協力を得たことからはじまったのである。 成田で会った時のトーマスさんとの通訳は、高橋亮さんがしてくれた。しかし残念ながら、トーマスさんには祖父・富造の記憶があまりなかった。その代わり素晴らしい話がもたらされた。トーマスの父の姉、つまり富造の娘のキヨミ スズキさんが、いま100歳を超えてホノルルに住んでいるというのである。私は富造の詳細を知る最後のチャンスと確信し、考えてもいなかったホノルル行きを決行した。これがハワイへ行く最初となった。妻と娘を連れての先の分からない三人での旅であった。しかし高橋亮さんがBYUハワイ校東アジア史のグレッグ グブラー教授を紹介してくれていたので、まったく当てのない話ではなかった。ホノルルでは、ハワイ島ヒロからわざわざ来てくれたトーマスさんの運転で、オアフ島カフクにあるBYUを訪問し、富造に関する多くの資料の提供を受けたのである。 残念ながら、病床にあったキヨミさんに会うことはできなかったが、私はキヨミさんの長男 ジョージ スズキさんからも多くの資料を得ることができた。別れの晩に、富造がよく使っていたという『柳亭』という料亭での夕餉に招かれた。私はこの料亭の名前から言って、てっきり日本式料亭と思っていたが、今はウィローズ(柳)というハワイ式のレストランになっていた。多分この時に、ホノルル福島県人会長であったロイさんの紹介を受けたのであったのではなかろうか。その後は彼から、大きな協力を得ることになる。 その後も富造の足跡を追って、取材の旅を続けた。サンフランシスコ、ソルトレイク、デンバー。行く先々で、多くの方々の協力を得ることができた。特にソルトレイクは末日聖徒イエスキリスト教の総本山であり、またBYUの本校がある。そこの日本学のバン ゲッセル教授、それに大学付属の家族系図博物館には特にお世話になった。それらのことがあって、勝沼富造を主人公とした小説、『マウナケアの雪』を出版できたのは2004年12月のことであった。 この本の出版後も、私は『郡山の種痘事始』、『小ぬかの雨』、『寂滅』、『大義の名分』、『遠い海鳴り』、『源頼朝に郡山を貰った男』など、私の住む地方を取材して書き続けていたが、実は、『マウナケアの雪』を書いたときから気になっていたことがあった。それは、太平洋戦争中ハワイで結成された日系人部隊第100大隊でありアメリカ陸軍第442連隊であった。それらを追って、2001年、私は再びハワイを訪れることになる。今度もロイさんとホノルル福島県人会が動いてくれた。第100大隊記念館、日本文化会館。第100大隊記念館ではイタリア戦線で戦い、生き残りの中の25人ほどの勇士たちに会わせてくれたのである。すでに彼らは、80歳を超えていた。長い取材を終えると、そのうちの一人が私に聞いてきた。「その本、いつ出来る?」「えっ!」 私は絶句した。今、取材をはじめたばかりなのである。ゴールなど見えるはずがなかった。彼は真面目な顔で私の目を見ながら続けた。「もう我々には先がない。退役兵たちも少なくなった。是非、生きているうちに読みたい」 注 第100大隊は、300%を超える戦死、戦傷者を出 した。これは30%の間違いではない。最初の隊員数 への補充を次々に行った結果、その三倍の数字になっ たのである。彼らはその功績により、アメリカ軍最多 の報賞を受け、トルーマン大統領から直接授与された 栄誉を持つ。第442連隊(第100大隊および 第522砲兵大隊)は日系二世のみで構成された アメリカ陸軍部隊で、アメリカ軍史上、唯一、単一の 民族で構成された部隊であった。アメリカに於いて、 同一民族による部隊は、これが最初で最後である。 私には返す言葉がなかった。ただ書くことへの責任感だけは、ズシリと肩にのしかかってきた。ともかく彼らの悲劇は、日系二世であったというだけのポジションによるものであった。このときの小説『我ら同胞のために〜日系二世アメリカ兵』を書き上げたのは2008年5月のことであった。 ところで、2011年に、ロイさんにキベイニセイの執筆を要請されて日本に帰った私は、ネットなどでキベイニセイについて調べはじめた。しかし調べるにつれ、それについての著述の例が、非常に少ないことが分かった。知り合い(日本人)に聞いてもキベイニセイについて知っている人は全くいなかった。しかも私の言うキベイニセイを、日本語ではないと思ったという人も少なくなかった。これが帰米二世を、あえてキベイニセイとカタカナで書いてきた理由である。 ーーこれは何らかの形で記録しておくこと自体に意味があるのかも知れない。 そうは思ったが、書く切り口が見つからないでいた。しかもどう考えてみても、その内容から言って、暗い結末になることは分かり切っていた。 ーーどうしたものか・・・。 あと考えられるのは、直接取材をしてみることのみであった。取材を重ねる中で切り口が見つかるかも知れないと思ったからである。しかし国内ならともかく、事はハワイである。すぐ取材に飛び出すには余りにも遠すぎた。 2012年になってチャンスが訪れた。三月二〜四日に開かれるホノルル フェスティバルに来ないかとの誘いを受けたからである。私はそれに合わせて、アロハ イニシャティブに対するお礼と、富造の孫のジョージ スズキさんの病気見舞いと『帰米二世』の取材の四つを兼ねることにして妻の美智子とホノルルに向かった。 ホノルルに着いた私と妻は、ロイ夫妻と一緒にジョージさんの病気を見舞った。重い病のため自宅で闘病生活をしていた彼であったが、私たちのために、何事もないかのようにキチンと服装を整え、彼の妻のエスターさんとともに応接室で待っていてくれた。その応接間の壁には、日本政府からジョージさんに贈られた表彰状と勲章が飾られていた。彼は医師として、広島の原爆病院に長年に渡り、深く関与していたのである。彼は私たちと話すのさえ辛い身体であったと思えるのに、第二次大戦後、日本がソ連の進駐を受けなかった理由など、大戦後のアメリカの日本に対する対応について静かに話してくれた。 その後に予定していた帰米二世たちへのインタビューにおいて、英語が得意ではない私はどう取材したら良いだろうかと言葉について心配していた。しかし、ロイさんと現ホノルル福島県人会会長のジェームスさんが通訳をしてくれたのでその心配はなくなった。しかも帰米二世たちと会ってみると、私の取材に応じてくれた全ての人が、英単語を加えながらも、流暢な日本語で私の相手をしてくれた。彼らのほとんどが幼児期に来日、日本の国民学校を卒業し、さらには中学校など上級の学校で学んだということを考えれば、このような日本語を話せたのは当然のように思われる。しかし戦後も70年、しかもハワイの英語社会に溶け込もうと努力をしながらの生活により、ある程度の日本語の忘却は、やむを得ないことなのかも知れないが、その正確な日本語に驚かされた。むしろ取材に同席してくれた子(三世)や孫(四世)との会話で、本人自身が通訳の労をとってくれていたのである。 注 国民学校=昭和16(1941)年に設立され、6年 の初等科と2年の高等科からなり、初等科はそれまで の尋常小学校などを母体とし、高等科は高等小学校な どを母体としていた。国民学校は同盟国であるナチス 党政権以降のドイツの初等教育に起源をもつと言わ れ、「子供が鍛錬をする場」と位置づけられ、国に対 する奉仕の心を持った「少国民」の育成が目指されて いたともいわれている。兵士の数が不足するにつれ、 国民学校の子どもたちも、訓練という形で戦争に参加 させられ子どもたちに兵士になるための訓練が行われ るようになった。名称は同盟国であるドイツの初等教 育に起源をもつと言われ、ドイツ語のVolksschule (Volks・フォルクスが「国民・民族」、schuleシュ ーレ)が「学校」)からの翻訳であった。 (NHK・For schoolより) 取材中、私は帰米二世という歴史の証人が、自ら声を上げなかったのは何故だったのであろうかと考えていた。答えは出なかったが、彼ら帰米二世たちが、自分たちの生まれたアメリカで、『敵性日系人』として悩み抜いたあげく自らの選択を信じ、あの時代を懸命に生きようとしたことは間違いのない事実である。この国籍の選択が二世たちの明暗を分けることになり、結果とて、戦争と国家に翻弄されたことになる。そして彼らが選んだどの道も『いばらの道』であったことに、変わりはなかった。 私たちが帰国して間もなく、重い癌に侵されていたジョージさんは、八十三歳で亡くなった。彼の死は、ハワイの各紙に大きく報道された。 ——ああ、あのときお見舞いに行っていてよかった。 私たちは本当にそう思った。見舞いに行ってから、わずか一ヶ月後の別れであった。ブログランキングです。 ←ここにクリックをお願いします。
2016.07.11
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大地震 大津波 放射線被害 (2)『東北を救え、頑張れ日本! ハワイ州あげて日本救援に立ち上 がる』『アロハ・フォー・ジャパン設立。各団体、企業が義援金募集。 全銀行が協力義援金を受け付ける』『募金活動は超順調〜菅直人首相が謝意』『日本を救え運動最高潮に。義援金700万ドル突破の勢い』『「ハワイに避難しませんか」マウイで被災者招致運動。』『「ハワイに避難しませんか運動」反響大。オアフでも関心高まる』『ハワイ日米協会頑張る、募金額296万ドルに』『義援金4月末で600万ドル突破』『日本のためにもう少し頑張ろう〜プリンス リゾート ハワイ・27日に豪華ディナー パーティ』『日本救援運動、5月も活発に続く』 このような時期、前ホノルル福島県人会長のロイ トミナガさんから、福島県を救うための募金活動を始めたとメールで知らせてきた。私は以前に県人会の会員が口々に言う言葉を思い出していた。「私は、自分の先祖が福島県出身であったことを誇りに思います」 この彼らの、時には五世代や六世代後にもなっている彼らの先祖からの血が、日本の、そして福島県の人たちを襲った未曾有の困難を報道で知って立ち上がったのである。福島県に対するこのエネルギーは、どこから来るのであろうか? それから一ヶ月ほどして、ロイさんからメールが届いた。「日本赤十字に寄付をしても、必ず福島県に行く保証はない。どうしたらよいか」というものであった。県の国際課を通じて受け入れの預金口座などを知らせたがドルの両替のこともあったのか、なんと四月にロイさんが、募金活動で集めた義援金を持参して来福したのである。『ホノルル福島県人会のロイ トミナガ、見舞金四万ドルを母県に届ける』 これは佐藤雄平福島県知事に義援金を渡す写真と共に、福島県の新聞で報道された時の見出しである。その上ロイに同行して来たハワイ州マウイ郡副郡長のキース レーガン氏とマウイ郡日本文化協会長のジェフリー ソガ氏が、アロハ イニシャティブという大プロジェクトを持って来福したのである。このアロハ イニシャティブの主催者キース レーガン氏は、日本人への同情と大震災直後の行動についてこう賞賛していた。「アメリカ人は、人間を自然と対立しそれを服従させるものとして見ています。しかしそれと対照的に、日本人は人間を津波をも含めた自然の流れに従い、それに逆らわないものとして見ています。私は日本の回復力、復元力、忍耐力の中に、何か気高さ、勇気を感じます。そしてそれらは、これからも発揮され続けられるでしょう」 その上で彼は、次のようなプロジェクトの概要を表明した。『放射能から避難してきたほぼ百人の子どもたちをハワイに招き心を癒してもらう』『子どもが幼少の場合、保護者の同伴も可』『期間はビサの関係があるので、最長三ヶ月とする』『宿泊はホームステイによる』『それら費用の全額をアロハ イニシャティブが負担する』 この趣旨に添い、福島市在住でホノルル福島県人会員のマリアン森口さんが主となって参加者を募集して選考し、七月四日、乳幼児を含む六十三名が、十八日には第二グループの高校生三十名が出発した。この最初の六十三名と私は、マリアンさんとともに同行したが、ホノルル空港ではハワイ州知事、ホノルル市長、マウイ郡長、マウイ副郡長、日本総領事、そして多くのボランティアなどの手厚い歓迎を受けた。それらの様子が現地ハワイのTV,新聞などで、大きく報道された。『ハワイ避難、6月末に第一陣来布』『ファースト ハワイアン バンク、日本赤十字社に1億円渡す〜東日本大震災被災者救援の義援金』『東日本大震災の被災者68人が来布』『「夢のようなプレゼント」被災者らハワイに感謝』『JASHが更に100万ドル〜日本赤十字社、ハワイに感謝』『ハワイに避難しませんか運動大成功。マウイのイニシャティブ主催、第二陣30人も来布、震災の悲しみ癒す』『加茂日本国総領事が感謝』『ホノルル福島県人会、被災者招きピクニック』 このホノルル福島県人会の主催により、アラモアナ ビーチ パーク で行われた被災者慰問ピクニックの時に、ロイさんが私に話しかけてきた。「橋本さん、今度 キベイニセイ のことを書いてくれませんか?」「うーん。キベイニセイねぇ。・・・家に戻ってから調べてみて、よく考えてみるよ」 たしかに私は、2004年に出版した『マウナケアの雪〜勝沼富造の生涯』や2008年に出版した『我ら同胞のために〜日系二世アメリカ兵』でもキベイニセイについて若干筆が及んでいる。ただしどちらの本題からも若干離れていたため詳しく調べて述べたものでもなかったから、その記述は簡単なものであった。だから私はそう言って、即答を避けた。また言われた瞬間、どのような切り口にすべきか、皆目検討がつかなかったこともあったからである。 私はリタイアしてから、文学の素養もないまま無謀にも小説を書きはじめていた。そのスタンスは、この地方の忘れられそうな歴史上の人物、事件、出来事に特化していたから、内容はノンフィクションに近いものとなっていた。大体、忘れられそうなことを探し出そうというのだから、並大抵のことではない。それでも幾つかの話をまとめ、福島県文学賞を受けたり歴史読本に掲載されたりしていた。気は良くしたものの次の題材が見付からないでいたのは事実であった。ロイさんに声を掛けられたのは、このような時であった。そしてそう言われて考えてみれば、キベイニセイたちは、すでに85歳を過ぎていた。ということは、取材に応じてもらえる人も少なくなっているということでもある。これは最後のチャンスになるのかも知れない。私は、思い切らざるを得なかった。ブログランキングです。 ←ここにクリックをお願いします。
2016.06.21
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大地震 大津波 放射線被害 (1) 平成二十三年(2011)三月十一日午後二時四十六分、突如巨大な地震が発生し、その約一時間後、大津波が東北から関東地方を襲った。この大津波は、場所によっては波高十メートル以上、最大遡上高四十メートルにも上る巨大なもので、東北と関東地方の太平洋沿岸部に壊滅的な被害をもたらした。平成二十六年(2014)五月九日の時点で、この大災害による死者・行方不明者は一万八千五百六人、建築物の全壊・半壊は合わせて四十万四百一戸が公式に確認されている。震災発生直後のピーク時においての避難者は四十万人以上とされ、停電世帯は八百万戸以上、断水世帯は百八十万戸以上等の数値が報告されている。復興庁によると、平成二十六年三月十三日時点の避難者等の数は、福島県人口二百万強に対して約十四%の二十六万三千九百五十八人となっており、避難も長期化している。次は地震、津波、放射線汚染発生当時の、福島民報新聞の見出しの一部である。 十一日午後八時五十分 福島県は、東京電力福島第一原発 より半径二キロメートル以内の住 民に避難を呼びかけた。 午後九時二三分 首相が第一原発から半径三キロ メートル以内の住民に避難を、十 キロメートル以内には屋内退避を 指示した。 十二日午前五時 四分 非難指示区域を半径三キロメート ルから十キロメートルに拡大した。 午前七時四五分 福島第二原発にも原子力緊急事態 宣言を拡大、第二原発の半径三キ ロメートル以内の住民に避難、十 キロメートル以内に屋内退避を指 示した。(県民の誰しもが、放射 能事故の重大性に恐れおののいた) 午後三時三六分 第一原発一号機の建屋が水素爆発 起こして白煙が上がり、東電社員 ら四人が負傷し病院に運ばれた。 (目に見えぬ放射性物質の拡散が 始まった) 午後五時四五分 第一原発周辺から放射性セシウム が検出され、第二原発の半径十キ ロメートル圏内にある大熊、双葉、 富岡、浪江、楢葉の五町の住人六 万一千人に対し、避難が指示された。 この避難指示により、福島原発周辺の住民らの大脱出が始まった。しかしこの脱出は、今までに行われてきた非難訓練のような訳にはいかなかった。運転手が放射線により被曝するのではないかと危惧したバス会社が、避難用のバスの運行をさせなかったのである。その上、地震や津波の影響もあって県内の鉄道や道路などの交通網は寸断されてマヒし、新幹線、在来線の鉄道やバスなどの公共交通機関が全面的に運休、避難しようとする住民の自家用車が給油を求めてガソリンスタンドに殺到したが、そこもすでに脱出していて無人となったりしていた。被災地の相馬市の対策本部では、緊急車両や暖房用の燃料確保ができず、その機能を失っていた。一方、ハワイでは英邦字紙・ Hawaii Pacific Press は、日本での大津波とそれに付随して起きたハワイでの津波の被害を報じていた。 (前略)日本の東北地方太平洋沖でM8・9の大地震発 生の知らせを受け、エバビーチの太平洋津波警報センター が10日夜9時半(ハワイ時間、筆者注)に津波警報を 発令。海岸に近い住民に高台への移動を勧告した。昨年 のチリ地震津波に続き今回も州内のほとんどの地域は被 害を免れたが、ハワイ島コナのケエヒラグーン・マリー ナなどでは大きな被害を受けた。(中略)今回最も大き な被害を受けたコナでは、18戸の住宅やアパートが倒 壊あるいは半壊し、レストラン、ホテルなど20軒が大 きな被害を受けた。キングカメハメハホテルのロビーは 1フィート(1フィート30・48センチ)冠水し、 ケアラケクア・ビーチでは住宅1棟が沖に流された。 ナプープーでは波の高さが11フィートに達し水は海 岸から100フィートの地点に達したという。オアフ島 ではサンドアイランドに近いケイヒ・スモールボートハ ーバーで約200隻のボートが大波に煽られて漂流した り衝突したりして損傷した。 マウイ島のマラエアハーバーでは2隻が沈没し1隻が 転覆した。(後略) 日本では連日、大地震、大津波、そして福島県の放射線の被害について、大きく報道されていたが十四日午前十一時一分、福島第一原発では三号機も水素爆発を起こし、自衛隊員を含む十一人が負傷した。 注 東京電力福島原子力発電所は、第一発電所(楢葉 町)1〜3号機と第二発電所(大熊町)1〜4号 機で構成されている。福島県を襲ったこの放射線 被害は、程度の差はあれ、青森、岩手、宮城、山 形、茨城、栃木、群馬、埼玉、千葉、東京、神奈 川、山梨、長野、静岡、三重、兵庫、香川の各都 県に及んだ。 避難した住民らは口々に、「原発の事故による放射線からの避難勧告が出て驚き、着のみ着のまま夢中で逃げてきた」と言う。これが多くの避難者たちの、偽らざる心情であった。避難する住民にしてみれば、何が起きたか分からないなかでの原発の爆発であり、広島や長崎に落とされた原子爆弾のような大爆発があると想像し、「ああ、死ぬんだな・・・」と思った人の多かったのも、無理のないことであった。それが住民たちの間に避難のパニックを生み、さらに福島県民の恐怖心を煽り、増大させていった。TVに映し出される避難民の車列は、あたかも戦乱などを逃れる難民の姿を彷彿とさせた。この原発周辺の被災者のうち八千六百人余が郡山市に、二千人超が川俣町に、六千八百人超が田村市に、その他の多くが人々沖縄県などを含む全国各地に避難して行った。しかしこれらの避難民を受け入れる近隣の地域でも大地震で建物の損壊などにより無傷ではなかった。郡山市でも五階建てのビルが斜めになったり、一階が潰れてしまったビルや陥没した道路など、至る所が交通止めになっていた。 大地震や大津波で壊滅的被害を受けた県内では、中通りや浜通りの十二万二千二百十六戸に停電が発生し、また断水のため各地に給水所が設けられた。その上、食料品を買い求める人たちが、損壊したスーパーなどに群がった。県内には新潟、群馬など全国の県、そして遠く海外からも救援隊が続々と入ってきた。しかし報道で見る限り、それらの救援隊は放射能を恐れてか、福島県に入ったのはわずかに思えた。それがまた、県民の不安材料となっていた。この国難とまで称された大災害に、海外のメデアも敏感に反応していた。 ホノルルの Hawaii Pacific Press 誌には、何日にもわたって、大きな見出しの記事が掲載されていた。
2016.06.11
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二つの祖国の狭間で は じ め に 戦後70年を経た今も、アメリカの日系人コミュニティの中に、『帰米二世』という言葉が残されている。しかしこのことは、アメリカのみのことではない。海外へ出た日本人の二世の中でも、アメリカ、カナダ、ブラジルで生まれ、日本で教育を受けた後、再び各々の国に帰った人たちのことを、『帰米(kibei)二世』『帰加 (kika)二世』『帰伯(kihaku)二世』などと呼んだのである。この帰米二世という単語は、日本語である。これらの人たちを『帰米二世』と一括りに言い表す同義語は、英語にもハワイ語にもない。これは日系人社会という閉鎖的社会で起きた出来事であり、他の人種の人たちとは無関係であったことからすれば、やむを得ないことであった。 このレポートは、福島県からハワイに移民(一世)をした子どもたち(二世)についてまとめたものである。概説的には帰米二世と言えば全アメリカ指すが、この内容はハワイに帰った二世が中心となっている。彼らについての定まった用語はないが、あえて言えば、『帰布(きふ)二世』とでも言えるような立場の人たちの話である。私は故郷に関係のある歴史を調べているため、取材対象者は福島県出身の帰米二世たちに限られている。なお文中、まぎらわしいと思われるであろうが、『帰布二世』という筆者による造語を多用した。『帰米二世』と『帰布二世』とを混同なさらないよう、お願いしたい。 注 布哇=ハワイ.略して『布』とも表記する。 日本からハワイに移民した人たちの意識として、現地に骨を埋める覚悟で故郷を出た人も多かったであろうが、必ずしもそういう人たちばかりではなかった。できるなら短期間によく働いて多くを稼ぎ、『故郷に錦』を飾りたいと望む人も少なくなかった。いずれ故郷に帰ろうと考えていたこれら移民たちが、二世である子どもを幼いうちから故郷に住む祖父母たちに預け、日本での習慣や教育に慣れさせておきたいと考えたのも無理はなかった。ハワイに住んでいた二世たちが日本に戻された主な理由は、親である移民一世の、このような意向にあったのである。ところが日米関係が緊張するにつれて、問題が発生する。日本に戻されていた二世たちの多くはアメリカ市民であるとともに日本国籍を持つ二重国籍者であったために、アメリカと日本の双方で兵役義務が発生していた。アメリカで生まれ、子どものとき日本に送り返された日本国籍の多くが、アメリカに戻りはじめた。その彼らは、『帰米二世』というレッテルを貼られたのである。 問題は、太平洋戦争前にハワイに帰った帰布二世たちが英語もよく分からず、価値観が戦前の日本人そのものになっていたので、ハワイに残っていた二世たちと全く話が通じず、異なった二世たちが日系社会に存在してしまったことである。そのため帰布二世たちは、ハワイ社会への適応に手間取ることになり、家庭内においても孤立(対立)してしまったのである。兄弟でありながら一人は日本人となってハワイに帰国し、一人はアメリカ人として育っていた。二人は生活を共有した経験もなく、兄弟と呼ばれても血がつながっている以外、何もなかったのである。『帰米二世』と漢字で書くと歴史的名称に聞こえるが、Kibei と英語で、とくにハワイに住んでいた在布二世が言う場合、ほとんど軽い軽蔑語に近かったという。 その他にも、帰布二世たちと久しぶりに再会した親たちとの考え方がうまく噛み合わないことがあった。日本から帰った二世たちは、すっかり日本人の青年になっており、しかも時代的に軍国主義教育の影響を強く受けていた。そこで帰布二世たちが見たものは、排日の中で貧しく生きている父や母の姿であり、アメリカに抵抗するでもなく、ただ黙々と働くだけのおとなしい両親であった。軍国教育を受けて帰ってきた帰布二世たちには、それが不甲斐なく見えたという。ハワイの日本人移民社会において、一世と二世、さらには帰布二世いう血縁的つながりがあるにもかかわらず、戦争によってお互いを他人のようにと感じながら生きなければならない時代であったのである。それは、帰布二世は二代目でありながら英語を母国語としない人々であり、生活習慣も価値観もそして感受性も軍国主義的ごく普通の日本人と同じであったからである。 やがて帰米二世たちは、日本への忠誠心と、「自分はアメリカ人である」というアイデンティティの間に板挟みになるのである。その例として、アメリカへの忠誠登録の核となった質問27・28に帰米二世たちが「No-No」と答えた割合が、アメリカで生まれ育った二世に比べて、かなり多かったという。この二つの質問に対して「No-No」と答えた者がのちにノーノー・ボーイと呼ばれるようになる。ハワイの日系二世の社会においてもノーノー・ボーイは少数派ではあったが、「No-No」と答えた理由は単純ではなかった。しかしYesと答えた多くの日系二世がアメリカ兵としてイタリア・ドイツの戦場で戦い、多大な犠牲者を出した日系人社会のなかで、出兵しなかったノーノー・ボーイに対して偏見や差別が生まれた。 注 忠誠登録質問=帰米二世たちをアメリカ政府は特に警 戒し、質問形式で問う忠誠審査が行われた。この審査 の中で日系人の誰をも困惑させたのが、質問27と質 問28であった。 質問27 アメリカ軍に入隊の意志があるか。 質問28 アメリカ合衆国に忠誠を誓い、日本国天皇へ の忠誠を「破棄」するか。 その一方、日本語が得意でないかった在米二世の中で、日本で教育を受けた帰米二世たちは、難読漢字の入り混じった軍事文書を読むなど、帰米二世ならではの高い日本語能力が重宝され、MIS (Military Intelligence Service・アメリカ陸軍情報部)に日本語教員や翻訳兵として配属されたというケースも多かったという。しかしながら、様々な理由で日米開戦後も日本に残り続けた二世たちは、学徒出陣などによって日本兵とされ、彼自身のもう一つの祖国であるアメリカと戦わざるを得ない状況に置かれてしまうこととなった。MISのメンバーの中にも「兄弟が日米に別れ、互いに敵として戦った」という者もいたという。日本に残った二世たちも、そしてハワイに帰って行った帰布二世たちも、共に二世であることから、戦争によって大きな苦悩のなかに投げ出されていった。ブログランキングです。 ←ここにクリックをお願いします。
2016.03.16
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