三春化け猫騒動(抄) 2005/7 歴史読本 0
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14 鉄道よもやま話② 列車の運賃はヨーロッパに倣って三等級制が採用され、大人一人が全区間を乗車した場合、上等が一円十二銭五厘。中等が七十五銭、下等が三十七銭というように設定されていた。なんだか妙に半端な値段であるが、なぜもっとキリの良い価格設定にできなかったのであろうか。この頃は時間の問題だけでなく、多くの日本人がまだ江戸時代を引きずっていた。鉄道開業の当時、駅に貼り出された汽車の出発時刻および賃金表には、江戸時代からの貨幣単位である両・分・朱で表示したものと、新貨幣単位の円・銭・厘に換算したものが並んでいたという。このようなことは、当時の庶民が、両・分・朱の旧単位の方が円などの新単位よりはるかに理解しやすかったため生じたものだと言われている。この傾向は明治十年代ぐらいまで続いたようで、地方ではその頃まで天保銭などが流通していたという。 東京以北に初めて特急列車が誕生したのは、昭和三十三年十月のことである。上野・青森間に一往復設定された『はつかり』がそれです。もちろんその使命は、東京と東北本線沿線の都市と直結すること以上に、北海道への連絡が大きなウエイトを占めていた。この特急『はつかり』の運転開始当初は、上野〜青森間のうち日暮里・岩沼間は常磐線経由とされ、ルートから外れる東北本線沿線の宇都宮、郡山、福島などの都市は全く無視された格好となっていた。これはなにも『はつかり』に限った話ではなく、この頃はなぜか、上野から仙台へ、そして仙台より先に向かう急行列車の多くが常磐線回りであった。これを見る限りでは、常磐線の方が本線で東北本線は支線といった感じがするが、なんでこんな珍妙なことが起きてしまったのであろうか。常磐線沿線にはいくら炭鉱が多かったとは言え、それほどまでに重要な都市がひしめいていたというわけでもなかった。 東北本線の上野〜青森間が全通したのは明治二十四年九月であった。これは私鉄の日本鉄道が開通させたものであるが、その線路は黒磯〜白河間、郡山〜福島間、福島〜白石間などに急勾配区間が多数存在していたのである。このことが輸送力増強とスピードアップの面でネックとなっていたのである。そんな折の明治三十一年八月、同じく日本鉄道の手により、現在の常磐線である海岸線の田端〜岩沼間が全通した。海岸線と言うだけあって、この線は勾配の少ない平坦な路線となっていた。そのため東北本線経由の列車が一部、常磐線に移ったのである。しかし、戦前はまだ東北本線の方がメインルートとされていた。それが逆転するのは戦後のことで、昭和二十年代に新たに設定された急行列車の多くが常磐線を選択したのである。これは激増する旅客需要に対応するため、一列車あたりの連結車両数が増えたことが要因のひとつと考えられるのですが、当時の動力車の主力は蒸気機関車であったから、東北本線経由とすると、勾配の関係で連結両数が制限されざるを得なかったという事情があった。ところが東北本線には福島で分岐する奥羽本線秋田方面に向かう列車を多数設定しなければならないという状況があったのである。しかしそんな東北本線であったが、昭和四十三年八月に全線複数電化が完成し、勾配自体も線路の付け替えなどで緩和されて状況はかなり変わった。『特急はつかり』は電車化されたうえで東北本線経由に改められ、以降の増発列車も東北本線経由が中心となっていった。勿論この頃には常磐線も全線電化が完成していたが、平以北はほとんどが単線だったため。全線複線の東北本線にはとてもかなわなく、だんだんその地位は低下していった。ただし、夜行列車に限って言えば東北新幹線開業まで、常磐線がメインルートとされていた。しかし東北新幹線が開通し、飛行機が長距離輸送の主役とされる今となっては、東京から東北・北海道への輸送において、両線ともほとんどその機能を果たしていない。 鉄道国有化後の明治四十五年六月十五日、従来の新橋・神戸間の『最急行』を下関まで延長し、『特別急行』と改称された。この日本最初の特急列車は新橋を八時三十分に発ち、下関には翌朝九時三十八分到着、所要時間は二十五時間八分、対となる上り列車の所有時間は二十五時間十五分で、今から見れば、ずいぶん時間がかかっているようにも感じられるが、当時としては画期的なスピードであり、しかも列車の編成も特別急行の名に恥じない豪華なものであった。まず三等車は連結されず、一等車と二等車のみで編成、座席車以外に寝台車や食堂車、そして最後部には特別室を備えた展望車まで連結された。その展望車の内部装飾には、網代天井、各天井、吊灯籠式照明、すだれ模様の窓カーテン、日本式の欄干、藤椅子などと、心にくいまでの和風趣味がふんだんに取り入れられていた。展望車特別室の書架には、日本文学全集の他に洋書も多数取り揃えられ、車掌も英語の堪能な列車長が乗務したという、まさに走るホテルであった。 ところで、この特急列車が新橋・大阪間というのであれば、政財界の要人の利用も多いわけで編成の豪華さも頷けるが、なぜ本州の西の外れの下関まで足を伸ばしていたのか。実はこの特急列車は、国際列車の性格を持ち合わせていた。下関と朝鮮半島先端の釜山との間には山陽汽船による関釜航路が開設されており、当時日本領であった朝鮮半島を北上、これを満洲、シベリアを経由してヨーロッパ諸国とを結ぶ欧亜連絡ルートの一部を形成させようとしていた。これは日本人だけでなく、ヨーロッパ諸国の要人の利用も想定して新設されたものである。日露戦争に勝利した日本は、世界の一等国の仲間入りを果たしたわけだから、それに恥じない国力の象徴としての国際列車が必要だったと考えたのでしょう。 終戦直後、多くの列車が現在の首都圏における朝の通勤電車など足下にも及ばないほどの殺人的混雑にあった。その混雑もさることながら、車両の荒廃もものすごかった。客車の窓はガラスが割れたものが多く、代わりにベニヤ板がはめ込まれていたり、あるいはそれすらなかったといった状態だった。戦時中に敵の機銃掃射を受け、車体にいくつも穴の開いている客車まで使われた。とにかく最悪の設備、車両、そして少ない列車の本数で洪水のように押し寄せる人々を運んでいたのである。そのような列車を横目に、寝台車や食堂車などが連結された豪華な列車も走っていた。そして、その列車はほかの多くの列車のように乗客が鈴なりになっていたわけではない。日本人は、これに乗ることは許されなかったのである。これらは、進駐軍専用の列車だったのである。昭和二十年八月十五日の戦争終結後、日本は進駐軍総司令部GHQの統治下に置かれた。当然、国有鉄道もGHQの管理下とされた。そして進駐軍関係の輸送は絶対輸送優先だったのである。 進駐軍は、無傷で残っていた寝台車、展望車、食堂車などの優等車を中心に状態の良い車両を五百両近く召し上げ、運輸省に整備を命じ、車体にはAllied Forces(連合軍)の文字が記された。多くの日本人を乗せた窓ガラスもろくにないようなオンボロ列車を駅に待たせておいて、この列車が颯爽と追い抜いていったのである。しかし昭和二十二年頃からは進駐軍専用車に空席がある場合に限って二等運賃を払えば日本人も乗車できるようになった。ただ、乗車券の裏には、次のような注意書が書かれていた。進駐軍専用車御乗車の方へ。乗車の際には乗車券を必ず車掌に提示すること。空席のない場合には絶対に乗車しないこと。連合軍またはその家族が後から乗車して、座席のない時には必ず席を譲って他の車両に乗り換えること。専用車内に立っていることは許されません。専用車は、昭和二十七年三月の占領終了まで存在していたのである。(この稿、所沢秀樹著『鉄道地図の歴史と謎』より。の稿、所沢秀樹著『鉄道地図の歴史と謎』より。
2024.07.01
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13 鉄道よもやま話① 日本で初めて鉄道が営業開始したのは、明治五年五月七日のことであった。明治三年に測量開始し、建設を進めていた新橋・横浜間鉄道のうち、品川・横浜(いまの桜木町)の間がこの日に開業したのである。これは外国から輸入されたレールや枕木などの資材を横浜港に陸揚げをし、そちら側から線路を敷設していた。とにもかくにもこの日から、この区間に二往復の旅客列車が運転を開始し、翌日には六往復、八月十一日には八往復に増発された。徳川幕府が滅び、明治新政府が発足してからわずか五年という短期間で日本に鉄道が開通したのだから、まさに驚異的スピードと言える。鎖国政策により欧米諸国の技術発展から取り残されていた日本は、なんとかそれに追いつこうと必死だったに違いない。そして明治五年九月十二日には、新橋(のちの汐留貨物駅)横浜間が本開業をした。当初開業日は九日を予定していたが。当日が雨のためこの日に延期された。この鉄道が一般の乗客に解放されたのは翌十三日からで、一日九往復の列車が運転を開始した。 ところで、この明治天皇のご乗車の祝賀列車を運転したのは外国人であった。運転を担当したのはイギリス人の汽車機械方(要は運転手)のトーマス・ハートであったが、この祝賀列車に限らず、すべての列車の運転手はイギリス人であった。それは運転手だけではなく、開業当時の車両は、機関車も客車も全部イギリスから輸入されたもので、さらには列車ダイヤを組むのもイギリス人ならば建設における指導を行ったのもイギリス人であった。まさにイギリス人なくして日本の鉄道は開業できなかったのである。創業当時の鉄道員は日本人が駅務を中心に配置されていたのに対し、イギリス人を中心とした外国人は高級職員だけではなく。建設部門や列車運転に関わる現業機関のほとんどの職場を独占していた。けれども、それは至極当然なことであった。この時代の日本人に鉄道に関するノウハウなどあるわけがなかったため、経営から技術、管理、車両、諸施設の供給に至るまでありとあらゆることがイギリス人の指導の下に行われていたからである。 ただし北海道開拓使が管轄した初期の北海道の鉄道では本州とは異なり、アメリカ人技師の指導のもと、アメリカ製の資材を購入して建設がすすめられた。また、私鉄の九州鉄道は、ドイツ人の指導のもとドイツ式鉄道を採用していたから、鉄道を取り巻く技術的環境が混在していたことになる。大正十四年に全国で車両の連結器が一斉に同じ物に交換されたのは、このような状況にあったからである。いずれにしても、創業期の日本の鉄道は、イギリス人を中心とした外国人が主導権を握っていた。これら外国人技術者、俗に言うお雇い外国人の数は、明治七年ごろがピークで百十五名を数えたという。ただし、それも長くは続かなかった。まず明治十二年四月には新橋鉄道局で初の日本人運転手が三名、ついで同年八月には神戸鉄道局でも三名の登用を見たと記録されている。そして同年十一月には新橋・横浜間の全列車に日本人運転手が乗務するようになったという。 さて踏切といえば、列車優先であることは言うまでもない。例えば地方のローカル線のように一日十本ぐらいしか列車が通らなくても、そして道路側の交通量が多くても、決して列車の方を遮断するということはない。ところで、鉄道創業期の踏切は現在とは異なり、列車の方を遮断していた。『踏切』は、基本的に『道』の方に焦点を当てた用語で、鉄道を踏んで横切る道、といった概念の用語である。鉄道創業期の踏切では、遮断のバーはもちろん手動で、常には線路の側を遮断していた。そして列車が接近してくると係員がバーを動かして道路側を遮断し、列車を通行させたのである。しかし明治二十年頃からは、今度は道路側を遮断するような形に変更された。ただし、現在の踏切とは異なり、常に遮断のバーを下した状態にしておいて、通行人が現われると係員は列車が来ていないことを確認した上で、線路側を遮断して通行させたというから、これまたのんびりした話である。当時の道路交通の主と言えばあくまでも人間であり、スピードが速いものと言っても、せいぜい人力車か馬くらいしか通行しなかったから、こんな方法でも特に問題は無かったのであろう。しかし、明治も終わりの頃になれば当然列車の本数も増え、スピードも向上。急行列車も走るようになったわけだから、いちいち通行人があるたびに線路側を遮断していては。危険きわまり無い。そこで現在の踏切とほぼ同じ方式になったのは、およそ明治の末から大正時代にかけてのことと推測されている。 工部省鉄道寮では、明治五年五月七日の品川・横浜間の仮開業の時点から列車の発車時刻表を駅構内に掲示した。それには品川発車午前八時、横浜到着午前八時三十五分などと書かれており、現在と同じように分刻みで列車の時刻を示されていた。さらにその下には、乗車における諸注意が掲示されていた。それには、『乗車セムと欲スル者ハ遅クトモコノ表示ノ時刻ヨリ十五分前ニ、ステーションニ来リ切符買入ソノ他の都合を成スベシ』とか、『発車時限ヲ遅ラサルタメ、時限の五分前ニステーションノ戸ヲ閉ザスベシ』といったことも書かれていた。要は発車時間の十五分前には切符を買い、その他の手続きを済ませておくこと。発車時間を厳守するため、発車五分前には駅の入り口を閉めるから注意しろ、と言っているわけで日本の鉄道は今同様、その初期から時間にはかなりうるさかったようである。しかし、ここでちょっと考えていただきたい。 当時の日本は、寺の鐘の音を聞いて暮六つとか五つ半とか言っていた江戸時代からわずか五年しか経っておらず、二時間単位の古い時間の感覚から抜け出ていない人も多かったのではないだろうか。そこへ八時というような西洋式の時間が出てきた上に、三十五分などの分単位の時間など、当時の人には感覚的に合わせることができなかったと思われる。それよりなにより、まず一般庶民では時計など持っている人などいなかったわけだから、一体どうやって発車時間の十五分前までに駅に行けたのかという疑問に突き当たる。当時の庶民が時間を正確に知る手がかりは、皇居内で発していた正午の号砲ぐらいのものだったというから、考えてみれば実に不思議な話である。この問題の解決は実のところ乗客の慣れ以外の何ものでもなかったようだ。そもそも列車に乗って旅することなど、いくら品川・横浜間の短距離とは言え、当時の庶民にとっては大旅行であり、当然それなりの緊張感が伴っていたので、中には夜明けと共に駅で待機していた人もいたという。それでもやはり乗り遅れる人はいたらしい。鉄道寮でも開業前からこの庶民の時間感覚の問題には危惧していたようで、一時は芝増上寺の大鐘を芝の愛宕山頂に移し、一時間ごとに鐘を鳴らして正確な時間を庶民に伝える計画まで立てたというが、これは寺側の反対により実現しなかったという。結果、庶民の自覚に頼るしか方法はなかったのである。新橋・横浜間の本開業に伴い、切符は十分前、駅の入り口を閉めるのは発車三分前と多少は緩和されたものの、その後も発車間際に駆け込む人や乗り遅れる人が後を絶たなかったという。(この稿、所沢秀樹著『鉄道地図の歴史と謎』より。
2024.06.20
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現在の郡山市は、隣接する須賀川市、本宮市そして三春町を含めれば、人口約50万になる県内随一の都市圏です。そうすれば仙台の半分の人口になるのですから、地下鉄は無理としても、郡山を通る鉄道網をうまく利用できないかと思っています。郡山市は、在来鉄道、国道、高速道の十字路であり、その上、新幹線そして近くには空港も擁する交通の要衝でもあります。しかしこの域内での公共交通機関を考えた場合、果たして「便利だ」と言えるでしょうか。このことは郡山を訪れる多くのビジネスマンがよく口にする、「郡山は出入りするのには便利だが、市内を移動するのには不便だね」という言葉を重く受け止めるべきではないかと思っています。そう言われるのは、50万都市圏内の交通体系が整備されていないことにあると思われます。バスも含めて、もう少し交通機関の流れを整備する必要があるのではないでしょうか。またその一方で、周辺の各市町村も、一通りの公共設備を揃えようとする意欲も大きいと思われます。それらについての経済性を考えたとき、果たしてこれは有効なことなのでしょうか? お互いの市町村の設備を利用し合うことで、それぞれの経済性を高めることが出来ないものでしょうか。そしてこのことはまた、郡山市の目指しているコンベンション・シティの主旨にも合致するものと思われます。しかしそのためには、まず50万都市圏内の交通を便利にする必要があります。ともあれ、この約50万の人口に比して、現在存在するJRの駅と、混雑する道路上のバスやマイカーによる交通は、考え直すべき時期に来ていると思われます。この不便であるという最大の理由は、現在JRでもバスでも公共性の高い乗物は、そのすべてが郡山駅を始発とし、終着としている点にあると思います。ここに問題があるのではないでしょうか。幸い郡山駅には、在来線の東北本線上下、磐越東西線、水郡線の5本の鉄道が集中しています。しかしマイカーが普及する中で、鉄道の衰退は誰の目にも明らかです。そこで考えられるのは、この集中する鉄道網を見直し、これら各線にある駅の間に、新たにミニ駅を多く作って相互乗り入れとし、鉄道と町の活性化につなげるというのはどうでしょうか。 例えば磐越西線、磐越東線、水郡線からも東北本線に乗り入れるという考え方が出来ないものしょうか。つまり今は、郡山駅に着いてからの先へは、必ず乗り換えをしなければなりません。距離的にはたいしたことがないのに、乗り換えやなんやかやで時間がかかるわけで、この時間的ロスも利用者の負担なのです。そこで、郡山駅が始発・終着ではないと考えてみればどうなるでしょうか。例えば郡山駅を山手線の上野駅や東京駅のようにスルーするという位置づけで考えられないでしょうか。現実に東京の山手線などには、2キロメートル程度の間隔にある駅の数は少なくありません。このような間隔で新しくミニ新駅を貼り付ければ、通勤、通学、買物客、そして高齢化社会にも合わせた便利な鉄道になると思われます。 (一)ミニ駅の提案 1…ミニ駅は、東京都電の停留所程度の一両分の長さ のホームとして費用を抑え、安全確保のため、 新幹線のようなホームドアを設置する。 2…ミニ駅は無人駅を原則とする。 3…水郡線は福島空港までの延伸が望ましい。しかし 無理の場合、川東駅からデユアル・モード・ビー クルを導入する。なお、デユアル・モード・ビー クル(Dual Mode Vehicle)とは、列車が走る レールと自動車が走る道路の双方を走行出来るよ うに改造されたバス車両のことで、これにより、 郡山市内より福島空港まで乗り換えなしで、 しかも交通渋滞に巻き込まれることなく、定時を 確保しての運行が可能となる。また、荒天などの 際の成田国際空港のサブ空港と しての位置付けをしたらどうか?。 4…予想図作ってみましたが、熱海3丁目ミニ新駅・ 本宮の竹花ミニ新駅・三春駅・須賀川の一里塚 ミニ新駅と川東駅には大駐車場を作り、郡山市 の中心部へ入るマイカーを規制する。 (二)運行の提案 1…郡山駅には新に通過駅の性格を持たせ、東北本 線、磐越東西線、水郡線の相互乗り入れとする。 2…現在あるJRの駅は、快速電車の停車駅と考え、 ミニ新駅には短時間の間隔で一両の鈍行として 運行する。ただしJRのダイヤには変更を加え ず、空いてる時間を利用する。 3…郡山駅周辺への通勤に電車を使う人が多くなり、 従業員のための駐車場の確保が楽になる。 4…運行主体としてはJRが理想であるが、もし無 理なら私鉄に経営を依頼したり、バス会社を含 めた新会社設立も考えられる。 (三)ミニ駅の周辺には、多くの施設が存在して いるので、少し具体的に見てみます。 1…東北本線北部には宝沢沼ニュータウン 日和田 ニュータウン 本宮高校。 2…東北本線南部には郡山東高 三菱電機 郡山警 察署 自動車街 ビックパレット 福島県郡山 合同庁舎 東都国際ビジネス専門学校 日本大 学 日大付属高 清陵情報高校 須賀川北部工 業団地 須賀川高校 須賀川桐陽高校。 3…磐越東線には南小泉ニュータウン 福島県理工 専門学校 田村高校。 4…磐越西線には富田東ニュータウン、郡山北警察 署 奥羽大学 郡山北工業高校 百合ヶ丘ニュータウン南東北 卸団地 熱海ユラックス 熱海アイスアリーナ 太田熱海病院 磐梯熱海温泉 5:水郡線には清陵情報高校・福島空港 これら実行の結果として、郡山の新市域の形成に大きなインパクトを与え、鉄道での通勤通学者が増え、なおかつ通勤者の場合などは帰りがけに映画を見たり、『赤のれん』に寄るなどで町の活性化にもつながり、域内の街自体も大きく変貌することが考えられます。私は、これらのことが議論の対象になればいいな、と思っています。
2024.06.10
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昭和二十一年二月、東北本線に進駐軍専用列車が定期的に運行されるようになりました。私はそれを郡山の駅で見たのかどうかの記憶ははっきりしませんが、満員で押し合いながら乗り、果ては客車の屋根にへばり付いて乗った列車の中から、幼稚園くらいの女の子であろうか、可愛いい服で着飾ったその子を連れたアメリカ軍人の家族三人が、客車一両を独占して楽しそうに遊んでいたのを思い出します。幼いながらも私は、駅で汽車の来るのを待つ度に、そしてこのような客車を見るたびに、敗戦国の哀れさを感じたものでした。 戦後、白河と棚倉間を走っていた白棚線の復活は検討されたものの、最終的に鉄道としての復活が断念されました。しかし線路敷を専用道路に転用し、バスによる国鉄白棚線として復活しました。現在もJR東日本により、蒸気機関車がラッピングされたバスが運行されています。評論家の戸塚文子さんが、国鉄時代の昭和三十二年六月七日の日本経済新聞の『行楽』欄に掲載された随想が残されています。『中村メイコさんの「田舎のバスはオンボロ車・タイヤはつぎだらけ・窓は閉まらない」という歌でおなじみだが、どういたしまして、ここではチョット都会でも目立つくらいのスマートな新車が走っている。続いて「デコボコ道をガタゴト走る」という文句にも例外はある。それが東北本線白河から水郡線磐城棚倉へ最近開通した国鉄バスの白棚高速線である』 この歌の内容にも、一理ありました、当時は舗装された道路が少なくそれも市街地に限られ、それこそ田舎の道には、時折、砂利が敷かれて補修はされましたが、雨が降れば泥水の池がそこここに出来、歩くのもままならぬ状態だったのです。国鉄バスが通るために舗装され、しかも直線が多いこの道は、周辺地域の垂涎の的だったのです。 国鉄以外で廃線とされたものに、伐採をした材木を運ぶ目的であった森林軌道の本宮〜大玉間、小野新町〜川内間、浪江〜葛尾間を結んでいましたが、その他にも、磐越東線の神俣駅と大滝根山からのセメントの原料となる石灰石を運んでいたロープウェイが消えていきました。戦後はマイカーの普及とそれに伴う国鉄分割民営化により、廃線が相次いでいます。 昭和二十五年六月二十五日、突如、北朝鮮が韓国に攻め入り、アメリカ軍を主体とする国連軍がこれに応戦する事態が発生しました。いわゆる朝鮮戦争です。国内では、国連軍の発注する食料や物品、そして戦いで破損した戦車や武器の修理などの仕事が増え、国内経済が潤いました。朝鮮特需と言われた好景気です。この戦いは昭和二十八年まで続いたのち、現在も休戦状態となっています。そのようななかで、国鉄も復興に取り組むことになり、東北本線も、複線化や電化への動きが加速されることになります。 郡山は、暴力団抗争などが相次いで起こることから、治安の悪い街『東北のシカゴ』という不名誉な異名が広がっていました。その悪名をなんとか払拭しようとして考えられたのが音楽であり、『東北のウェーン』を目指す運動が高まりました。昭和二十四年、郡山音楽協会が発足し、女性合唱団や男性合唱団が結成され、市民の音楽活動が活発化します。昭和二十九年には、国鉄郡山工場大食堂で『NHK交響楽団郡山公演』が開催され、その後も『ウェーン少年合唱団』や『ドンコサック合唱団』などの来演が相次ぎ、それが契機となって『十万人のコーラス運動』に発展しました。このような市民が一丸となった運動により、音楽都市が郡山の代名詞となりました。しかしこの時代、郡山には、オーケストラの演奏会ができるような大きな公共施設がありませんでした。そのため会場は、国鉄郡山工場の大食堂が使用されたのです。 昭和三十年十一月、国鉄は主要幹線を十年で電化することになり、上野駅と盛岡駅聞が、第一期計画に編入されました。そして翌年の八月三日、大宮駅と宇都宮駅間の直流電化の起工式が行われました、 昭和三十五年三月、黒磯駅を宇都宮駅までの直流とその先の駅の交流区間との接点駅として工事を進め、黒磯駅と福島駅の間が交流による電化が完成しました。さらに十一月二十二日、郡山駅と安積永盛駅の間が複線化されたのを皮切りに、県内全線の複線化工事がはじまり、七年後の昭和四十二年九月二日、県内の全てが複線化されました。 昭和四十年、郡山機関区は貨物の取扱を開始し、傘下の郡山操車場が郡山貨物ターミナル駅に昇格しました。郡山市はこれを契機に、安積郡九町村及び田村郡三町村を吸収合併、人口約二十二万人を数える全国有数の広域都市となったのです。 昭和四十二年十月、国鉄は東北本線の始発駅を東京とする時刻改正を行い、これまですべての東北本線の列車が上野止まりであったものを、二往復ではありましたが、東京駅始発としました。これにより、ようやく東北本線が東京駅始発という本来の姿に戻りはじめたのです。 昭和四十三年九月、国鉄諮問委員会が提出した意見書により、『使命を終えた』として廃止、もしくはバス転換を促す国鉄のローカル線への取組みがはじめられました。国鉄の赤字線は、昭和三十六年度に百九十六線で赤字総額が四百十四億円であったのに対して、四十一年度には二百二十八線、千三百四十七億円に膨れ上がっていたのです。この『使命を終えた』との基準により、全国で八十三線が選定され、国鉄は翌年から地元との廃止協議に入ったのですが、各地で反対運動が起こったため進捗は滞り、廃止協議すらままならない線路も多く、難航しました。県内でも、第二次特定地方交通線に指定された川俣線と日中線の廃止が決定され、会津線の西若松駅と会津滝ノ原駅の間も廃止が決まりました。しかしこの鉄道は会津鉄道株式会社の会津線に転換することで、生き残ることになります。 昭和四十七年五月、JR松川〜岩代川俣間の川俣線が廃止されました。川俣線は延伸して常磐線に接続する予定であったのですが、不発となってしまいました。そして七月一日、磐越西線の郡山駅から喜多方駅までが電化されました。 昭和四十九年十月、喜多方〜熱塩間の日中線が廃止されました。日中線は米沢まで伸ばし、会津線と東武日光線を経由して東京までつなごうとしていた鉄道だったのです。 昭和五十七年、東北新幹線が大宮駅と盛岡駅間で暫定開業をし、上野駅と大宮駅の間には新幹線リレー号が運行されました。 昭和六十年三月、東北新幹線の上野駅と大宮駅間が開業しました。これにより、大宮駅での新幹線リレー号への乗り換えが不要になったのです。 昭和六十一年七月、JR丸森線が廃止され、福島と宮城両県と沿線の市町は第三セクター鉄道への転換を選択し、丸森線を引き継ぐ阿武隈急行株式会社を設立しました。阿武隈急行線の全線開通および電化は昭和六十三年に完成し、地元では『あぶきゅう』の愛称で親しまれています。 昭和六十二年四月一日、国鉄の分割民営化が実施されました。国鉄はJapan Railway JRとして、北海道旅客鉄道・東日本旅客鉄道・東海旅客鉄道・西日本旅客鉄道・四国旅客鉄道・九州旅客鉄道・日本貨物鉄道に分割されて民営化されました。 平成三年六月、東北新幹線は東京駅と上野駅間が開業し、東京駅が東北新幹線の始発駅となりました。そしてこの七月、JR会津線を引き継いだ会津鉄道会津線、西若松〜会津高原尾瀬口駅間は、野岩鉄道鬼怒川線を経て東京の浅草へつながったのです。 平成五年十二月、郡山貨物ターミナル駅と郡山貨車区が統合され、郡山総合鉄道部が設置されました。 平成十年、郡山操車場の跡地に、福島県産業交流館、通称『ビッグパレットふくしま』が建設されました。 さて日本では、二〇二七年を目処に、品川駅と名古屋駅の間を結ぶ、リニアモーターカーによる中央新幹線の営業運転開始を目指しています。その距離286キロメートルを、40分で走るとされています。新幹線に続いてのこの鉄道は、大きな夢を描かせるものとして期待されているものです。なおリニアモーターとは、軸のない電気モーターのことで、一般的なモーターが回転運動をするのに対し、基本的に直線運動をするモーターのことです。超電導リニアの最初の開発者であり、『リニアの父』と言われた京谷好泰(きょうたによしひろ)氏が名付けたのがこの和製英語でした。
2024.06.01
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昭和十一年、郡山機関庫は、郡山機関区に改称されました。ところがその翌年の七月七日、中国北京郊外の盧溝橋で日華両軍が衝突したのです。日本政府の不拡大方針にも関わらず戦火は拡大し、やがては太平洋戦争、そして敗戦という泥沼に足を踏み入れて行くことになります。駅にも『日本精神の発揚』『撃ちてし止まん』などのスローガンが大大的に掲げられ、駅頭では『祝・出征◯◯君』という『のぼり』と日の丸の旗で送られる若者の姿が、多く見られました。国内では『石油の一滴、血の一滴』と叫ばれ、国鉄の気動車の運行にはガソリンの使用を止め、木炭を燃焼して作る木炭ガスが使用されました。しかしこれが力不足のためうまく働かず、結局は石炭を使用する蒸気機関車のみでの運行となったのです。 昭和十九年、白棚線は不要不急線として休止され、レールなどが撤去されました。このレールなどは、おそらく戦地でのレール不足、そして鉄資源として、兵器などに改鋳されたものと思われます。そしてこの年、日本海軍の大槻飛行場の工事がはじまりました。『大槻飛行場工事用軌道(http://kaido.the-orj.org/rail/otk.htm)のHPによりますと、『昭和十九年十一月に起工式が行われ建設工事がはじまったのですが、未完成のまま終戦を迎えています。この軌道は、飛行場建設の際、必要な石材を大槻町葉山の石切場から運搬するための軌道として設置されたそうですが、その痕跡は残されていないようです。しかし、この工事に伴い、石切り場となった葉山に鎮座していた葉山神社が、基地建設にあたった山谷部隊により、東に建っていた春日神社の裏に、やや大型の石造の祠に遷宮され、右側面には、「昭和二十年 山谷部隊 再建」とあります。『再建』とあるのは、おそらく葉山神社を遷宮した折、老朽化していた祠を新造したからではないかと思われます。左側面には、社司、町長、総代の名が刻まれていた。ある意味、戦争の犠牲になった神社であるが、今でも大切にされているようで、なによりであった』とありました。恐らくこの祠の右側面の文字が、唯一、飛行場工事用軌道の存在した証拠なのかも知れません。ただこの軌道の動力ですが、この石切場のあった大槻町葉山下から工事現場までは、一キロートルにも満たない近距離であったことと、敗戦直前の物資不足の時期から想像すると、内燃機関などの動力ではなく、牛か馬、もしくは人力によって運行したものと想像できます。なおこの山谷部隊は、海軍の部隊であろうとの推測はできるのですが、それ以上についての詳細は、分かりませんでした。 郡山は、昭和二十年四月十二日、そして同じ年の7月二十九日、八月九日、および八月十日の、合わせて四回の大空襲を受けています。当時の郡山市は、郊外の田村郡高瀬村に第一から第三までの海軍航空基地、、これは今の日本大学工学部と郡山工業団地になりますが、その他にも、今の希望ヶ丘に陸軍を抱えており、大槻には新たな海軍飛行場の工事がはじまっていたのです。場所は、いまの陸上自衛隊郡山駐屯地のある所です。しかも郡山は軍都と指定されており、隣の三春にも陸軍第七十二師団第百五十五連隊本部が駐屯していたのです。その他にも、エンジンのノッキングを防ぐ四エチル鉛を製造していた保土谷化学郡山工場、そして中島飛行機郡山工場、さらには軍需工場となっていた三菱電機郡山工場や日東紡績などがあり、その上、軍需工場として関東地方で操業していた親会社と共に疎開して来た下請けの工場があったのです。そのためもあってか、アメリカ軍のB29爆撃機の波状攻撃の目標にされたものと思われます。もっとも被害の大きかったのが四月十二日の空襲でした。この日、数十機からなるB29爆撃機の編隊が来襲、第二百五十二海軍航空隊所属の四機の戦闘機で迎撃に向かったのですが防ぎきれず、保土谷化学郡山工場、日東紡績富久山工場などを中心に爆撃を受け、郡山駅まで被害に遭っています。死者は学徒動員された現在の白河旭高校の生徒が十四名、郡山商業高校が六名、安積高校が五名、安積黎明高校が一名のほか周辺住民などの合計四百六十人で、堂前の如宝寺には保土谷化学郡山工場における学徒動員の死者二十六名の慰霊碑が建立され、毎年四月十二日に慰霊祭が行われています。 昭和二十年七月二十日、核物質こそ用いてはいなかったものの、模擬原爆が全国いくつかの都市に落とされました。アメリカ軍は、それによって原爆を投下するための搭乗員を訓練し、爆発時の効果を予測するためのデータを得ようとしていたようです。模擬原爆の福島県での投下は、福島と郡山と平の合わせて六弾でした。郡山に落とされた一弾は、日東紡績郡山第三工場、いまのザモール郡山店に、そしてもう一弾は、当時の郡山駅構内のトイレ前のポイントの切り替え場の付近に落とされました。なお戦後になってからですが、郡山駅を利用していた私は、この落された場所を鮮明に覚えています。話を戻しますが、この項は、 テレビ朝日の報道番組、平成十五年八月十八日に放映されたスクープスペシャル、『幻の東京・原爆投下作戦・天皇を狙った男』からの抜粋です。この番組の中で、アメリカ国立公文書館で見つかった文書が放映されていましたが、そこには間違いなくKoriyamaの文字が映し出されていました。もしこの文書が放映されることが前もって分かっていたらビデオに取っていたのにと、今でも残念に思っています。それにしてもアメリカ軍は、いつの時点かは不明ですが、戦後になってから着弾地点まで調べているのですから驚きます。また郡山への模擬原爆投下については、平成二十五年に出版された工藤洋三・金子力共著の『原爆投下部隊 第509混成軍団と原爆・パンプキン』にも記述があり、その百十三ページには郡山駅へのパンプキン投弾の損害評価と写真が載せられているそうです。 戦中は国鉄ばかりではなく、私鉄も多くの被害に見舞われました。これはアメリカ軍の爆撃によるものもありましたが、人員や資材の不足が大きな理由であったとされます。しかし戦中は報道管制が敷かれていたので、これらの詳細が一般に知られるようになったのは、戦後になってからのことでした。
2024.05.20
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9 鉄道事故 ところで、鉄道の事故は、決して少なかったわけではありません。ただそれらの全部を載せることは難しいので、いくつかを取り上げてみたいと思います。 明治四十二年六月十二日、奥羽線赤岩信号所、いまの福島市大笹生字赤岩から発車した列車が、急勾配の第十三号トンネル内において、蒸気機関車の動輪が空転を頻発していました。その際、後部補助機関車内の機関手および機関助手は蒸気により窒息し、昏倒してしまったのです。異常に気づいた本務機関車の機関手は非常制動をしようとしたのですがブレーキが効かず後退し、そのまま列車は赤岩信号所構内に入って脱線転覆したのです。木造の客貨車は粉砕され、乗客一人が死亡し、二十七人が負傷、職員は三人が死亡し三人が負傷しました。後に、米沢駅構内に、この事件の慰霊碑が建立されています。 昭和十年十月二十七日、磐越東線の川前駅と江田信号所間において、豪雨のため土砂が崩壊し、これに乗り上げた列車が転覆して落下しました。翌々日の二十九日付『常磐新聞』に、記事が記載されています。『磐越東線・開通以来の大椿事・汽車川前渓谷に転覆・死傷者数拾名を出す』『廿七日午後六時廿二分平驛着豫定の磐越東線より二〇旅客列車が約三十分遅れ川前驛を發車五時五十分ころ小川郷驛間夏井川第一鐵橋を通過して間もなく折柄の豪雨で線路が浮いている處へ爆進して来た為め機關車、郵便小荷物緩急車、二三等混合列車、三等車の四輛が脱線し折り重なって数十尺下の闇の河中へ墜落し、乗客死傷者数十名を出し小川郷驛に一先ず収容した。小野新町よりは醫師、看護婦、在郷軍人、青年團員等を乗せた救援車を出し、一方川前驛前永山徳一氏所有の別荘に死傷者を収容、應急手当を加えている。死傷者は左の如くである。(以下略)』 昭和24年7月5日に下山事件が、そして同じ月の15日に三鷹事件が、翌月の17日には松川・金谷川事件が立て続けに発生しました。この三つの事件は、国鉄三大ミステリー事件とされて、いまだにこれらの事件の真相は明らかにされていないのです。この最初に起きた下山事件は、行方不明になっていた国鉄総裁下山定則氏が常磐線綾瀬駅付近で 轢死(れきし)体となって発見されたもので、当時のGHQの指示により、下山総裁が国鉄職員の大量整理案を発表したことで、労働組合が反対闘争を盛り上げていた最中の事件でした。この事件は、他殺か自殺かの議論を巻き起こし、労働運動に大きな打撃を与えたのですが、事件の真相は不明のまま捜査が打ち切りとなっています。 次に起きたのが三鷹事件で、国鉄の中央本線三鷹駅構内で起きたもので、無人列車が暴走、脱線転覆して六人が死亡した事件です。この事件で単独犯として死刑判決が確定した運転士の竹内景助元死刑囚は、その後に無実を訴えて再審請求をしたのですが、予備審査中に病死してしまいました。遺族が申し立てた第二次再審請求で、東京高裁は令和元年七月にどの請求を退けました。弁護団は異議を申し立てたのですが棄却され、令和五年三月、最高裁に特別抗告をしている事件です。 そしてその年の八月十七日、東北本線の松川駅と金谷川駅の間で、青森発上野行列車の機関車と客車五両が脱線した列車往来妨害事件は、いわゆる松川・金屋川事件といわれるものです。現場はカーブの入口の場所で、当時は単線でした。ここで、先頭の蒸気機関車が脱線して転覆したのち、後続の荷物車二両、郵便車一両、客車二両も脱線しました。この事故により、機関車の乗務員三人が死亡しています。現場検証の結果、転覆地点付近の線路継ぎ目部のボルトおよびナットが緩められ、継ぎ目板が外されていたことが確認され、さらにレールを枕木上に固定する犬釘も多数抜かれており、長さ二十五メートル、重さ九百二十五キロのレール一本が外されており、ほとんどまっすぐなまま十三メートルも移動されていました。周辺を捜索した結果、近くの水田の中からバールとスパナがそれぞれ一本ずつ発見されたのです。明らかに人為的な事件です。この事件は、下山事件および三鷹事件に続く鉄道事件として世間の注目を集め、事件の翌日には、当時の増田甲子七内閣官房長官が「三鷹事件などと思想底流において、同じものである」との談話を発表し、政治的事件であることを示唆しています。捜査当局は、当時の大量人員整理に反対した東芝松川工場、いまの北芝電機の労働組合と国鉄労働組合構成員の共同謀議による犯行とみて捜査を行ったのです。事件発生から24日後の9月10日、元国鉄線路工の少年が傷害罪で別件逮捕され、松川・金谷川事件についての取り調べを受けました。少年は逮捕後9日目に松川・金谷川事件の犯行を自供し、その自供に基き、9月22日、国鉄労働組合構成員5名および東芝労組員2名が逮捕され、10月4日には東芝労組員5名、8日に東芝労組員1名、17日に東芝労組員2名、21日に国鉄労働組合構成員4名と、合計20名が逮捕者の自白に基づいて芋づる式に逮捕・起訴されたのですが、無実を示すアリバイなど重要な証拠が捜査機関により隠されていたことがのちに判明、死刑判決から5回の裁判を経て逆転無罪が確定し、事件そのものは闇に葬られてしまいました。なお昭和25年9月、現場近くに『殉難之碑』の除幕式が行われ、そのかたわらに、三春町の石材業・鈴木宗兵衛が地蔵尊を建立しています。 他にも当時の国鉄では松川事件と類似した列車脱線事件が発生しています。 『国鉄三大ミステリー事件』とされた事件の一年前の昭和二十三年四月二十七日、いまの福島市町庭坂の奥羽線赤岩〜庭坂間で、脱線転覆事件が起き、三名の死者が出ました。脱線現場付近の線路継目板が二枚、犬釘六本、ボルト四本が抜き取られていました。犯人は分からないまま、庭坂事件と言われました。 そして、『国鉄三大ミステリー事件』の起きた二カ月前の昭和二十四年五月九日の予讃線事件は、愛媛県難波村の、予讃線の浅海(あさみ)駅と伊予北条(ほうじょう)駅間で起きた列車転覆事件で、機関助士一名が即死、機関士二名と乗客三名が負傷しました。この年に発生した松川・金谷川事件と同様の手口であり、なんらかの意図を持って行われた鉄道テロであると言われていたのですが、これらの事件の真相は明らかにされぬまま、これまた未解決の事件となっています。 昭和二十六年五月十七日に発生した『まりも号脱線事件』は、根室本線の新得駅と落合駅間を走行中の急行列車『まりも号』が、北海道上川郡新得町郊外で脱線させられた未解決の事件です。何者かがレールを故意にずらし、脱線転覆を図った列車往来危険事件であることは間違いのない事件でした。これには専門的な知識や技術が要求される犯行であるため、当初は内部犯行の容疑が掛けられ、約六百人の国鉄および労働組合関係者が捜査対象となったのですが、これも未解決に終わっています。 このような事件が続発しながらも未解決に終わったことについては、当時の世界の情勢を見てみなければならないと思います。昭和二十四年、中国大陸においての国共内戦で、中国共産党軍の勝利が決定的となり、朝鮮半島でも三十八度線を境に親英米政権と共産政権が一触即発の緊張下で対峙していたのです。このような国際情勢の中、戦後の日本占領を行うアメリカ軍やイギリス軍を中心とした連合国軍は、対日政策をそれまでの民主化から反共の防波堤として位置付ける方向へ転換したのです。いわゆる逆コースです。いまも多くの識者の間では、これらの事件が日本の共産主義者を壊滅させるため、占領軍の関係者の陰謀による一連の事件と考えられているのです。 平成二十三年三月十一日、宮城県牡鹿半島の東南東百三十キロメートル付近を震源とする大地震が発生しました。マグニチュードは、昭和二十七年のカムチャッカ地震と同じ九・0で、日本国内観測史上最大の規模でした。しかも直後に襲った大津波、加えて東京電力福島第一原子力発電所事故による、放射能拡散の大災害が発生したのです。これにより、東北を結ぶ常磐線は、大津波に加えて放射線による大きな被害を受け、広範囲で不通となりました。しかも富岡〜浪江間は長期間にわたって帰還困難区域を含んでいたため、運転再開には至りませんでしたが、富岡町、大熊町、双葉町の一部のエリアで避難指示が解除され、令和二年三月十四日には、富岡駅〜浪江駅間が再開して全線の運転が再開されました。九年の時を経て、ようやく全線が開通したのです。しかし被害を受けた駅周辺の避難指示は解除されたものの、周辺一帯は放射線量の高い帰還困難区域のままです。 一方の東北新幹線は、福島駅と白石蔵王駅の間を走行していた十七両編成の『やまびこ223号』が脱線、この十七両編成のうち十三号車以外の十六両が脱線してレールから外れたのです。また、一部の車両がレールから大幅にずれて傾くなどの被害が確認されたほか、電柱や架線、高架橋の橋脚など約千百ヶ所が損傷しました。それでも三月十五日には東京駅と那須塩原駅間が再開、同二十二日には盛岡駅と新青森駅間が再開、四月七日には一ノ関駅と盛岡駅間が再開、四月十二日に那須塩原駅と福島駅間が再開して『なすの』が郡山駅まで延伸、山形新幹線も東京までの直通運転を再開しています。また東北本線も、これに合わせるように復旧し、四月二十九日には上野駅から本宮駅間が再開、五月五日には福島駅まで、十日には仙台駅までの運転が再開されました。これなどは、やむを得ない鉄道の事故であったのかもしれませんが、これに対応したJRおよびその社員、そして大きな被害を受けた私鉄の関係者の皆さんの努力には、頭の下がる思いがあります。
2024.05.10
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明治39年、日本鉄道が国に買収されたとき、東北に残された旅客私鉄は次の6つの馬車鉄道のみとなっていました。 1 秋田馬車鉄道 明治22年開業 秋田=土埼 2 三春馬車鉄道 明治24年開業 三春=郡山 3 釜石鉱山鉄道 明治27年開業 甲子=釜石 4 角田馬車鉄道 明治32年開業 槻木=角田 5 古川馬車鉄道 明治33年開業 小牛田=古川 6 磐城炭坑軌道 明治38年開業 湯本=小名浜 このときの奥州線に関係があったのは三春、角田、古川の馬車鉄道でした。そのいずれもが、その地方の中心地として栄えていた町だったのです。しかもそれらの町は、奥州線建設のルートにのらなかったということで共通していた鉄道でした。 この明治39年に行われた鉄道の国有化が、今まで使われていた駅の名に大きな問題を投げかけることになってしまいました。というのは、今まではそれぞれ別の会社による運営でしたから、同じ名の駅が他の会社の路線にあっても特に問題はなかったのですが、国有化で全国の線路を集中的に管理する必要が起こったため、同じ名の駅があちこちに出来てしまったのです。運営上の問題で困った国鉄は、同じ名の駅の名が付けられた時期を較べ、先に出来た駅の名はそのままとし、後から出来た駅には、旧国名を頭に付して、区別することにしたのです。例えば渋沢栄一の関係した岩越線熱海駅は、東海道線熱海駅の後に作られたため、岩代熱海駅とされました。なお岩代熱海駅は、磐梯朝日国立公園の入り口にあたるとして、昭和40年に、磐梯熱海駅と駅名を変えています。 ところで岩代熱海駅ができたころ、五百川から北、つまり熱海から中山宿あたりまでは安達郡でした。ところがこの辺りの人が二本松にある安達郡役所に行くのには、安積郡役所のある郡山駅で乗り換えて行かなければならなかったのです。これは何とも不都合、不便極わりないことだったのです。そのためここは安積郡に編入され、結局郡山市になっています。 駅名については国鉄の方式で大方は落ち着いたのですが、郡山駅が問題となりました。奈良県の郡山町から、イチャモンがついたのです。奈良県の郡山駅は、明治23年に私鉄の大阪鉄道が奈良駅と王寺駅間を開業した際に、これらの駅の間の駅として設置されたものです。ところが福島県の郡山駅は明治20年に開設していますから、国鉄のルールに従うと福島県の郡山駅はそのまま、奈良県の郡山駅は旧国名の大和を冠して、『大和郡山駅』と改名される筈だったのです。ところが奈良県の地元住民が承服せず、奈良時代より続く東大寺の古文書を持ち出して、「奈良の郡山の方が古い歴史があるから、福島県の郡山は岩代郡山駅とするように」と陳情したというのです。福島県の郡山駅がどのような対応をしたのかの詳細は分かりませんが、結果として、双方とも郡山駅のままに落ち着いたのです。しかし国鉄では、東北本線にある郡山駅と関西本線の郡山駅とを区別するため、乗車券類には『(北)郡山』と『(関)郡山』とカッコでそれぞれの線の略称が加えられ、現在に至っています。郡山駅で乗車券をお買い求めになるときにでも、確認してみられたらどうでしょうか。ところがこれには、後日談があるのです。 奈良県の郡山町は、奈良県添下郡(そえじもぐん)郡山町でした。それが明治9年に添下郡の筒井村と合併して生駒郡郡山町となり、さらに昭和28年に周辺の町村を合併しました。そして昭和29年1月1日に生駒郡郡山町が市制を施行したのですが、市名を『大和郡山市』と定めたのです。なんのことはない、あれほど大騒ぎをして『(関)郡山駅』としたのに、結局は『大和郡山市』に所在することになったのです。それなら駅の名も、『大和郡山駅』にしてくれれば、お互いに『関』と『北』が取れてスッキリするのにねェ。まあ余計なことは言わないか。 県内の駅の名ですが、例えば磐越東線には、旧国名をつけた磐城常葉駅があり、常磐線にも磐城太田駅があります。また水郡線には、磐城守山駅、磐城石川駅、磐城浅川駅、磐城棚倉駅、磐城塙駅、磐城石井駅と続くのですが、この線が茨城県に入ると、途端に常陸国ですから常陸大子駅となるのです。なお水郡線としての終着駅は安積永盛駅ですが、全線郡山駅まで乗り入れています。ちなみに安積永盛の駅名は笹川駅だったのですが、昭和6年に成田線の笹川駅開業に先立ち、安積永盛駅に改められたものです。なぜ岩代永盛駅ではなく安積永盛駅になったのかは、駅の所在地が安積郡永盛村であったので、郡名の安積を冠したものと思われます。なお岩代や磐城のつく駅の名は、このほかにもあります。私鉄になりますが、飯坂線の岩代清水駅です。そして廃線となって今はなくなりましたが、川俣線の岩代川俣駅と岩代飯野駅、さらに白棚線の磐城金山駅・磐城逆川駅などでした。しかし、岩代の名を冠した駅のある場所から考えると、岩代国と磐城国の境は、阿武隈川より東に入った箇所もあったようです。なお会津方部の駅には岩代ではなく、会津若松駅のように会津の名が冠されています。というのは、九州の筑豊本線に若松駅があったのです。当時の福岡県若松市で、現在の北九州市若松区です。それを避けるために冠した会津が、会津全域に広がったものと思われます。ところで新潟市秋葉区新津にある新津駅は信越本線に所属しており、ここは磐越西線の終点であると同時に羽越本線を加えた3路線が乗り入れています。ところが磐越西線の列車は、この信越本線を利用して新津駅から新潟駅まで乗り入れていますので、磐越西線は郡山と新潟間と思っている方が多いと思います。磐越高速道路が郡山と新潟間なのに対して、磐越西線が郡山駅と新潟駅の間でないのが不思議なようです。 話が変わりますが『東北本線』、いま私たちは何の疑問もなくこの名を使っていますが、国有化直後は旧日本鉄道、また奥州線と呼ばれていました。大正14年11月1日に神田駅と上野駅間の高架橋が竣工して東京駅までつながったのです。東北本線はこの時より『原則』として東京駅が起点となったのです。しかしこれによって、ただちに東北本線の列車が東京駅を始発駅とした訳ではありませんでした。ですから、上野駅が東北本線の起点と思っていた方は、意外に多いと思われます。これは昭和42年10月1日になってから、盛岡発の特急『やまびこ』と仙台発の特急『ひばり』が東京駅に乗り入れたのですが、それまでの東北本線の列車は、すべて上野始発、上野終着となっていたからです。また一方の常磐線は、常陸(ひたち)と磐城(いわき)の頭文字を合わせたもので、東北本線のバイパスとして機能しました。常磐線も、上野駅と仙台駅を結ぶ路線と思われがちですが、正しくは東京都側の起点が荒川区の日暮里駅で、宮城県側の終点が、宮城県の岩沼駅です。ただし実質的には、上野駅から仙台駅を結んでいます。 平成29年4月1日、郡山駅と磐越西線・喜久田駅との間に、新しい駅が開業しました。この駅の名について、仮称の段階では『郡山北駅』とされました。ところが平成27年9月5日、JR東日本は、正式名称を『郡山富田駅』と発表しました。本来の手順によれば、すでに栃木県の小山駅から群馬県前橋市の新前橋駅までを結ぶ両毛線に『富田駅』がありましたから、『岩代富田駅』となる筈でした。関係者の間でどのような話し合いがあったかは分かりませんが、この新駅は『郡山富田駅』となったのです。すでに岩代国などの旧国名が死語となってしまった現在、いまさら、岩代富田駅ではなかったのかも知れません。 ところで鉄道には、上りと下りがあります。これの基準は、鉄道の終点が東京に近いかどうかで決められます。例えば東北本線は、青森に向かって下り、青森から東京へは上りとなり、全く同じ理由で水郡線の上りは水戸であり、下りは安積永盛と決められています。それでは、磐越東線と西線はどうでしょうか。この決まりに沿うと、磐越東線は、『いわき駅』の方が郡山駅より東京に近いので、上りの終点は、『いわき駅』になります。そして同じ理由で、磐越西線は新津駅より郡山駅が東京に近いのです。従って磐越西線の上りの終点は、郡山駅ということになるのです。たまたまですが、磐越東線と西線は、新潟より郡山、そして『いわき』までの全線が、西から東へが『上り』になるのです。 昭和2年、国鉄により、西若松駅と芦ノ牧温泉駅の間が開業しました。その後に路線が延伸されていき、昭和9年12月27日、会津田島駅まで延ばされましたが、この線は、昭和62年4月の国鉄分割民営化でJR東日本の路線となった後、同年7月に第三セクター鉄道に移管され、会津鉄道となりました。実は、一部の時刻表などに表記されているのですが、会津線にはちょっと不思議なルールが残っているのです。通常の鉄道路線では、前述したように東京駅に近い駅の方が上りとなるのですが、会津線内の西若松駅と会津田島駅の間だけは、東京駅から遠くにある会津若松駅行きが上り線となっているのです。これは、栃木県との県境を越える野岩鉄道の路線がまだ出来ていない時、会津線は福島県内だけを走る行き止まり路線、つまり盲腸線だったからです。つまり盲腸線の場合は、起点側の駅へ走る列車が上りとされていたためです。福島交通飯坂線も盲腸線ですが、起点である福島駅が飯坂より東京に近いので、規定通りの上下となっています。喜多方駅と熱塩駅を結んだ日中線は計画通りに米沢に達せず、また松川駅を始発駅とし常磐線への接続を予定した川俣線も、ともに盲腸線となってしまいました。しかしここも始発駅の喜多方駅、そして松川駅が東京に近かったので、規定通りの『上りと下り』になっています。
2024.05.01
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7 陽の目を見なかった鉄道 前回までお知らせしたように、福島県でも国鉄、および私鉄でも、多くの路線が建設されました。しかし計画されながらも作られなかったり、また一時期運行されながら廃止されてしまった鉄道もありました。そのような路線のひとつに、大寺専用鉄道がありました。大寺専用鉄道は、いまの会津若松市河東町八田字大林に、猪苗代第二発電所建設のための資材輸送用の専用軌道として、磐越西線磐梯町駅と猪苗代第二発電所の間に敷設されたものです。しかし大正7年、猪苗代第二発電所の完成とともに一旦撤去されたのですが、その後、会津若松市河東町八田高塚乙の猪苗代第三発電所の建設に伴い、大寺駅と猪苗代第三発電所間に再び敷設されました。この専用軌道の途中、猪苗代第二発電所付近で軌道がスイッチバック方式となっていました。しかし大正十五年の猪苗代第三発電所完成後には撤去されています。 もうひとつは、広田専用軌道でした。広田専用軌道は、喜多方市塩川町金橋に、猪苗代第四発電所建設のための専用軌道でした。資材輸送用のもので、磐越西線広田駅より猪苗代第四発電所の間に敷設されました。大正15年の猪苗代第四発電所完成後にこの専用軌道は撤去されましたが、日橋川橋梁は道路橋に転用されて、『切立橋』として現存しています。 乗用の軌道としては、常葉軌道株式会社がありました。これは平郡西線新設の計画では、常葉町七日市場地区に駅が設けられ、同町関本地区を経由して大越駅に抜ける予定であったのですが、鉄道敷設に反対の声が上がったのです。それは常葉町から物資の輸送をしていた馬車組合と農地の解放を渋る農民たちによるものでした。また、政治的な感情も鉄道敷設問題に影響を与えました。当時、憲政会と立憲政友会の対立が強まりつつあったのですが、常葉町民は明治初期に当地の戸長を歴任した河野広中を絶対的に支持しており、河野が所属する憲政会の勢力が強い地域であったのです。そこで憲政会を支持する町民は、この鉄道敷設計画は憲政会と対立する立憲政友会の西園寺公望を総理とする政府の計画であるとして反対運動を展開した結果、計画は変更となり常葉町を避けて敷設されたのです。 常葉町の町民は、平郡西線の開業後に鉄道の利便性と重要性に気がつき、町から最短距離にある船引町今泉地区に町名を冠した駅の設置を請願したのです。その際に駅敷地を町民の寄付によって提供することを条件とし、大正10年になって開業しました。ところが常葉町の中心から磐城常葉駅までは距離があり、むしろ船引駅へ出るほうが容易であったため、常葉町民はこの駅の設置後も利便性を享受できず、町民有志による常葉軌道株式会社を設立し、磐城常葉駅より常葉町を経由し、常磐線双葉駅への接続を計画したと言われます。ところが常葉軌道は常葉町まで軌道敷が竣工し、列車の試運転を行って開業寸前だった昭和8年に、負債過多から解散してしまったのです。この歴史を語る記念碑が、いまも磐越東線の磐城常葉駅前に建立されています。 大正11年、小出〜柳津〜只見〜古町線が建設されることになりました。しかし大正12年の関東大震災によって全ての鉄道計画が止まり、そのあおりで中止となってしまいました。そのとき計画された路線は、只見駅から古町駅までの13駅で、只見・楢戸・会津福井・会津長浜・会津亀岡・明和・梁取・和泉田・界(さかい)・鴇巣(とうのす)・会津山口・木伏(きぶし)・会津古町でした。会津古町駅は旧伊南村に属していましたが、町村合併により、現在は南会津町古町となります。ここには、古町温泉があったため、ここへの運行が目的とされたものです。 さて、私は知らなかったのですが、郡山に市内電車の計画がありました。2021年12月に発刊された『明治開拓村の歴史〜福島県安積郡桑野村・安積開拓研究会・矢部洋三氏』の著書より借用させて頂きます。 『幻の市街電車 矢部洋三 大正十三年の市制施行に向けた「大郡山構想」の中で、市街電車を敷設する計画があった。市内最大企業である郡山電気(橋本万右衛門社長)が事業主体となって郡山駅を起点にして桑野村開成山を経由して郡山市街を循環して駅に戻る十五・七キロメールの市内電車であった。大正八年から計画され、大正十二年に発起人代表の橋本が郡山町会の承認を受け、福島県を通じて鉄道省・内務省に敷設許可を申請した。そして大正十四年に計画案への許可が、昭和二年には施行許可も下りた。しかし昭和五年敷設許可が失効して幻となってしまった。その理由は、① 敷設時期の昭和初期が金融恐慌、昭和大恐慌という最悪の経済状況であった こと、② 郡山電気が茨城電力との合併によって東部電力となり、本社を東京に移された こと。③ 敷設の中心人物である橋本が安積疎水疑獄事件で失脚してしまったことであっ た。 なお桑野村は、大正14年6月1日に郡山と合併し、郡山は市に昇格しました。大正13年の市街電車の計画案は、これと関係があったのかも知れません。またこの計画が、郡山電気が主体となって進められたのは、自己の発電する電力の、有効利用を考えたとも思われます。 この他にも、県内の鉄道の中には、各地域で多くの支持を得ながらも日の目を見ない鉄道がありました。それは日中線の先の米沢までであり、完成すれば野州・岩代・羽州を結ぶ野岩羽線となるはずでした。もうひとつの路線は、川俣線で、東北本線松川駅より岩代川俣駅まで開通したのですが、常磐線の浪江まで延伸する予定が中座してしまったものです。さらに計画されたものの未成となった線には、福島〜丸森〜相馬間の福相線、須賀川〜長沼の線、平〜小名浜の線、川俣〜津島の線などがありました。しかし、もしこれらの線は出来たとしても、昭和40年の国鉄民営化に伴う赤字線として、廃線となっていたかも知れません。ところが新幹線にも未成線があったのです。それは福島〜山形〜秋田を結ぶはずの奥羽新幹線です。現在ここは、ミニ新幹線として山形までは整備されましたが、未だ秋田までは通じていないのです。
2024.04.20
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明治39年、帝国議会で鉄道国有法及び帝国鉄道会計法が成立し、その年の11月、日本鉄道は青森まで開通していた路線と、岩越鉄道の開通していた部分が国に買収されました。日本鉄道会社が設立されたときの設立特許条約書の、『五十年後には、政府が会社を買収できる』という条件は、半分の25年後のこの年に実施されることになったのです。政府は、奥州線の線路の約1300キロメートル、車両7636両の他、青函連絡船としてイギリスへ注文していた船舶2隻と職員13473人を引き継いでいます。 明治40年4月1日、鉄道の国有化に伴って新たに帝国鉄道庁が設置され、東北に4ヶ所の営業事務所が置かれました。その一つであった福島事務所は、栃木県の宇都宮駅と岡本駅の中間点より、宮城県の槻木駅と岩沼駅の中間点までを担当しています。この年、岩越鉄道は、国有鉄道岩越線と名称が変更されました。一方,岩越鉄道が買収されたため工事が中断していた喜多方以西は、喜多方と新津の双方から工事がはじめられ、大正3年11月1日、野沢~津川間完成によって、郡山と新津の間が全通しました。しかし国鉄が発足したからといって、すべての鉄道が国有化されるわけではありません。国鉄として手の届かない所に敷かれたのがいわゆる私鉄でした。福島県での私鉄の最初は、明治24年に開業した三春馬車鉄道でした。 明治37年、勿来軽便馬車鉄道(勿来〜白米)を皮切りに、赤井軌道(赤井〜平)、小名浜馬車鉄道(小名浜〜泉)が開通しました。 明治41年、私鉄の信達軌道が福島〜長岡〜湯野町間に開設、その後、保原〜梁川、保原〜掛田〜川俣に延長されました。なお、信達軌道の主体となった雨宮敬次郎は、「天下の雨敬」「投機界の魔王」「明治の鉄道王」などの異名をとった人物です。大正6年には、保原〜桑折に延伸し、福島町内を走るチンチン電車として親しまれました。 明治43年4月21日より上野から郡山間に、そして大正6年6月1日より青森までの全区間に急行列車を運行しています。その停車駅は、赤羽・大宮・小山・宇都宮・黒磯・白河・郡山・福島・白石・仙台・小牛田・一ノ関・盛岡・沼宮内・尻内でした。そして大正15年11月、東北本線線の三大操車場の一つとして、郡山操車場が完成しました、ちなみに郡山操車場は、仙台の長町駅操車場、そして青森操車場と並んでの大操車場だったのです。 大正2年、日本硫黄沼尻鉱山の精錬所から『黄色いダイヤ』と呼ばれた硫黄を沼尻まで索道で運び、そこから磐越西線川桁駅まで運ぶ軌道として初めは人が押す人車軌道が、次いで馬が貨車を引いていたのですが。硫黄のほか猪苗代からの生活物資の運搬、沼尻温泉やスキー場への客を運ぶ足としても利用されていました。やがて沼尻軌道はドイツから『コッペル蒸気機関車』を導入し、運搬量もスピードも飛躍的にアップしましたが、その後も時代の変遷とともに蒸気機関車からガソリンカーと運行する車輌も変わっていきました。全長15・8キロメートルの軌道には、5つの駅と6つの停留所がありました。一時は会津樋ノ口駅より分岐し、長瀬川に沿って秋元湖へ至る裏磐梯観光開発に主眼をおいた路線の建設も計画、認可も得たのですがこちらは未完に終わっています。沼尻鉱山閉山後は観光鉄道への脱皮を図り、磐梯急行電鉄株式会社として再発足しました。観光シーズンの夏は旅行者が多く、冬はスキー客で車内は混雑しましたが地元の集客にはならず、昭和43年に倒産してしまいました。急行列車が無いのに磐梯急行、電車が無いのに電鉄、もはや伝説です。小野町出身の丘灯至夫作詞、福島市出身の古関裕而作曲で知られる歌謡曲『高原列車は行く・汽車の窓からハンケチ振れば』は、この軌道がモデルとされています。 大正3年、磐城軌道が湯本〜長橋間に、その年の7月21日には、平郡西線のうち、郡山〜三春間が開通しました。このあおりを食って、三春馬車鉄道が廃業しています。ちなみに今も、磐越東線阿武隈川橋梁の上流約100メートルの所に、三春馬車鉄道が走っていた橋の橋脚が一つ残されています。この三春馬車鉄道があったころ、日本の馬車鉄道会社は、福島・北海道・石川・静岡に各5社、福岡に4社、群馬、埼玉、山梨、佐賀に各3社など、その数は40社にも及んでいました。いま振り返ると、馬車鉄道は、時代遅れにも感じられるかも知れませんが、道路も舗装されてなく、道路事情の悪かったこのころ、揺れや振動が少なく至極快適な乗り物だったようです。しかし馬の餌や糞尿の問題もありました。それに対して、最初の路面電車は、明治28年に開業した京都電気鉄道で、京都南部の伏見から京都市内まで6、6キロメートルの区間を走ったのですが、しかしこの電車、前後についている運転席が外部に露出しており、馬車鉄道の客車の形式をそのままに残していたのです。 そしてこの年、現在の秋田市金足黒川にあった黒川油田が噴出し、年産15万キロリットルを超える大油田となり、日本有数の油田として注目を浴びました。ところが、地元の土崎製油所だけでは処理し切れず、原油のまま新潟県の沼垂、柏崎、黒井の製油所に輸送していました。しかしここで出来た石油製品は、すでに明治39年の5月より、『軽井沢ト横川間ニ、流油鉄管ニ依ル石油輸送ヲ開始ノウエ、北越鉄道線ヨリ発送シタル油槽貨車ハ、軽井沢ニ於テ流油鉄管ニ放流シ、鉄管ヲ通ジテ横川ニ於イテ流ケル油ヲ油槽貨車ニ放流セシメ、更ニ之ヲ輸送スル』という苦肉の策を講じていたのです。それでも、急勾配が続くため、アプト式鉄道での碓氷峠越えの旧信越線経由では、思うように運べなかった油なのですが、岩越線の全通によってそれが解決されたのです。岩越線は、石油輸送の隘路となっていた信越本線の補助線として距離も時間も短縮され、新潟と東京の間を結んだのです。岩越線のこうした役割が消えたのは、群馬県と新潟県の間にある清水トンネルの完成に伴うもので、上越線の宮内と高崎間が開通する昭和6年まで続いたのです。 大正4年、三春から小野新町まで平郡西線、および平郡東線の平〜小川郷間が開通し、平郡東西線の全てが開通しました。そしてこの同じ年、岩越線の『堀ノ内』駅が今の喜久田駅に改称されています。 大正5年、白河〜棚倉間に白棚軽便軌道が開通しました。そしてこの年、磐城海岸軌道は廃線になった三春馬車鉄道より不要になった車両および資材を購入し、小名浜と江名の間で開業しました。磐城海岸軌道は昭和14年に小名浜臨港鉄道と社名を変更して内燃化し、昭和42年、小名浜臨港鉄道に福島県と国鉄が出資して、第三セクターの福島臨海鉄道となりました。このような経緯をたどった磐城海岸軌道は、現在も貨物専用線となって運行されています。 大正6年、岩越線は、国鉄の磐越西線となりました。 大正8年、全列車に連結していた一等車に大整理が行われ、東北では東北本線と常磐線経由の青森行き急行の一往復のみとなりました。この一等車の整理について、東北では大きな反対論はなかったといわれますが、東海道方面では横浜や神戸あたりに住んでいた外国人から文句が出たそうです。その理由が「日本人は無作法、不規律のため、同席に耐えず」というものであったというのです。もっともこのころの日本人は汽車に乗ると旅館に着いたような気持ちになり、ステテコ一枚になったというのですから、やむを得ない抗議であったのかも知れません。ところが三等車ともなればかなりお粗末で、シートひとつとっても、一・二等車の椅子はバネ入りのクッションでしたが、三等車の椅子は茣蓙敷きだったのです。 大正10年、好間軌道(北好間〜平)が馬車鉄道で開業しています。ちなみにこの馬車鉄道、今の宮崎県西都市八重から銀鏡(しろみ)の間を運行していた銀鏡軌道が、昭和24年に解散していますから、実に67年もの間、わが国には馬車鉄道が存在していたことになります。 大正13年、福島飯坂電気軌道が、森合と花水坂の間で開業しました。 昭和2年、信達軌道は福島飯坂電気軌道を買収し、飯坂西線と改称し、従前から飯坂に乗り入れていた軌道を、飯坂東線としました。しかし昭和46年、飯坂東線が廃止されましたが、旧飯坂西線は飯坂線として現在も営業中です。 昭和13年、喜多方駅と熱塩駅の間に、日中線が開通しました。この鉄道は、栃木県今市市と山形県米沢市を結ぶ東北縦貫鉄道『野岩線』として建設されたもので、途中の駅は会津村松駅、上三宮駅の2駅でした。日中線の開業当初は、1日に6往復あったのですが漸次少なくなり、昭和23年からは1日3往復の客 貨列車混合列車に短縮されました。終点の熱塩駅には転車台があったのですが、その後に撤去され、喜多方発はバック運転、帰りは正常運転で喜多方に戻るという変則運転をとっていました。 昭和15年、国家総力戦体制を構築しようとする当時の日本政府の電力国家管理政策に基づいて作られた日本発送電会社により、秋元発電所の建設のため、沼尻鉄道名家駅より分岐する資材搬入用線を新設されました。 このように鉄道の国有化が進む中でも、多くの私鉄が活躍した様子を、垣間見ることができます。
2024.04.10
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明治20年、この奥州線の恩恵になんとか預かろうとして、若松村は郡山村までの馬車鉄道建設の計画を立てました。その概要は、次のようなものでした。『奥州線ノ線路ナル安積郡郡山ヨリ、同郡堀ノ内村、同郡安子ケ島村、安達郡玉川村、同郡高玉村、安積郡中山村ヲ経テ耶麻郡山潟村ニ至ル八里ノ間、山潟ヨリ北会津郡赤井村字戸ノ口ニ至ル間ハ湖上汽船ノ便ニヨリ、戸ノ口ヨリ若松ニ至ル四里間合計、鉄路敷設ノ里数凡ソ十二里ニシテ、追テ若松ヨリ北部耶麻郡喜多方町、西部河沼郡坂下町ニ通ズル線路ヲ選定シ、業務ヲ拡張スル目的ナレドモ、目下、工事ノ都合ニヨリ、先ヅ郡山・若松ト定ム』というものでした。しかしこの馬車鉄道は、開業するには至らなかったのですが、思わぬ副産物を産んだのです。それから4年後の明治24年、三春馬車鉄道会社の三春〜郡山間が開通したことです。新橋〜横浜間に鉄道が開通してから、実に19年後のことでした。ところが日本にも、新橋〜横浜間に鉄道が開通する以前に馬車があったのです。ちなみに馬車とは客車や貨物車を馬が曳くものであり、馬車鉄道とは、それがレールの上を走るものです。 文久元年(1861年)のころ、横浜の居留地から江戸の公使館の連絡用に使われていましたが、慶応3年には、江戸・横浜間に乗合馬車の営業がはじまりました。明治になって間もなく、東京築地居留地が開かれると横浜・築地間に外国人経営の乗合馬車が相次いで開業したのですが、日本人の利用客はまったくありませんでした。こうした外国人の乗合馬車に刺激され、日本人の経営する馬車会社が、運賃75銭、片道を4時間で営業をはじめています。こうした中で新橋・横浜間に蒸気鉄道が開通するのですが、その10年後に、わが国最初の私鉄(一般運送を目的とするもの)である東京馬車鉄道が、2頭曳きで定員が28人の31輌の客車と、約250頭の馬で新橋と日本橋間のおよそ15キロメートルで開業をしました。停留所は新橋と日本橋の終着地のみで途中に停留所は存在せず、利用者が降りたい所を車掌に言えば下車ができ、乗るときはどこであっても、手を上げれば乗れました。年間3300万人が利用したと伝えられていますから、その盛業振りには驚かされます。 森銑三著の『明治東京逸聞史』には、新聞への投書が載せられています。『鉄道馬車の車掌にも困る。昨日僕が本町から乗ろうと思って停めてくれと呼んだが、あいにく四つ角でなかったから、向こうの辻に来いと言うので半町ほど走らされた。これは馬車会社の規則であるから仕方がないが、僕が乗ってから少し行くと、路傍の家から三人連れの美人が出て来て、かわいい手で車掌を手招きしたら、車掌は四つ角でも何でもないのにすぐ車を停めた。不当である。」「馬車鉄道の駁車台に近き方に腰を掛け居りしに、駁者は鞭を振り過ぎ、革の先で窓の中の客の頭をぶんなぐり申候。」こんな不平や小言を、わざわざ新聞に投書している人があったのですが、これらの記事からも、東京での様子が垣間見ることができます。ところで日本では蒸気鉄道に至るまでの過程がなく、いきなり完成した形のレールと蒸気機関車が入ってきたために、日本では蒸気機関車が先に、逆にその後に、馬車鉄道が入ってきたことになります。そのような明治24年、郡山〜三春間に馬車鉄道が生まれました。そしてその9年後の明治33年9月2日、大阪馬車鉄道が天王寺と下住吉の間で開業しています。この間にも、多くの馬車鉄道が建設されていますが、事業社の数でいえば、地方の貨物の運送を主としたものが遥かに多かったのです。しかしその中でも、三春馬車鉄道が乗用客車での運行が主であったことは、刮目に値することであったのかもしれません。その後も東北各地に馬車鉄道が作られていきます。ところでこの馬車鉄道、奥州線との踏切は木戸と称して汽車が来ると遮断し、通り過ぎるとガチャンと開けて馬車鉄道を通しました。踏切番を常駐させていましたが、線路工夫の古い者とか夫婦者を使っていました、 話を戻します。 明治20年、郡山駅を終着駅として、郡山は上野と直接とつながりました。奥州線が青森まで全通したのは、明治24年になります。県内でも、鉄道の駅と地方の道路を結ぶ交通が盛んになってきました。例えば郡山を中心として、会津若松や平方面など東西の交通のための馬車や人力車の利用が急激に増えたのです。ところで汽車の通過する沿線の各地では、汽車の吐く火の粉による火事が頻発していました。そのため、多くの駅は、機関車の出す火の粉による火事を恐れ、集落から離れた場所に作られたのです。それは郡山も同じでした。現に茅葺き屋根の集落であった笹川駅、この駅は、昭和六年に安積永盛駅と改称されていますが、この沿線の民家が、汽車の火の粉で火災が発生していたのです。 明治26年、鉄道の所管官庁であった工部省が廃止されて逓信省鉄道局となり、鉄道敷設法が審議されました。ところがその条文にあった日本鉄道を国有化する案には反対が多く、廃案とされました。そこで政府は日本鉄道に対して、日本海側の新津と福島県中央部の日本鉄道奥羽線(現東北本線)を結ぶ路線の建設を要請したのです。しかし政府は、『新潟県下新津ヨリ福島県下若松ヲ経テ白河、本宮近傍ニ至ル鉄道』としたため問題となり、本宮、郡山、須賀川、白河が激烈な誘致合戦を演じることになったのです。この4つのいずれの町にも、会津に向かう道、つまり会津街道を有していたのです。郡山では、現在の磐越西線の路線と、長沼から猪苗代湖の南を通り、会津若松に至る路線を提示しながら、その優位性を主張していました。 この年に福島県知事に就任した日下義雄は「地域発展のため鉄道は不可欠」との強い信念のもと、郡山からの路線開通のために奔走し、東京の渋沢栄一のもとにもたびたび相談に訪れています。渋沢は日下に対して「中央からの援助を待つばかりではなく、地元の資産家も資本投入をするべきである」とアドバイスをし、自らも岩越鉄道に出資して設立すると同時に株主を募って創立委員の一員となっています。ただこの時、郡山が提出した鉄道誘致の請願書の第三項が、興味を引きます。それには、『太平洋岸に抜ける場合、三春馬車鉄道があり、平迄の延長工事が容易である』とあったのです。この請願文から指摘されることは、馬車鉄道の細いレールの上を、重量のある陸蒸気が走れるなどと思ったのかという技術的幼稚さではなく、むしろ郡山が馬車鉄道とは言え、既に鉄道の分岐点として存在しているという事実の政治的アピールの方を、高く評価すべきであると思われます。明治20年の奥州線の乗車料は、須賀川〜郡山の上等が20銭、中等が14銭、下等が5銭であったと記録されていますこの時期、郡山は安積平野という自然の好条件と、安積疏水という人工の好条件に加えて、日本鉄道の奥州線と三春馬車鉄道を擁し、更に岩越線のターミナル駅となって交通の要衝としての地位を確立していくことになるのですが、同時にこの疎水の水とこの水力による電力の利用が紡績工業の発展を促し、やがて工業都市としての性格を強めていったのです。この岩越鉄道の整備から導きだされた郡山の交通の要衝への位置確立にとって、三春馬車鉄道の存在が大きく貢献したのかもしれません。 明治29年、福沢諭吉や真中忠直(まなかただなお)らが平〜郡山間に私設鉄道の敷設を計画し、明治30年7月に仮免許状を得たのですが、着工には至りませんでした。 渋沢栄一を擁した岩越鉄道は、明治30年10月15日、郡山に建設部を置き、直ちに工事に着工しました。明治31年には郡山駅と中山宿駅の間が開通しましたが、郡山と会津若松の間は急勾配が多く、中山宿駅はスイッチバック方式を採用し、会津若松駅自体もスイッチバック方式で建設されたのです。明治32年7月26日、会津若松で開業祝賀会が開催され、駅前には杉のアーチが作られて各家では国旗や提灯が飾られ、夜遅くまで山車が練り歩きました。ちなみにこの年の4月1日、会津若松は市制を施行、福島県で最初の市となっています。この年の会津若松の人口は3万480人でした。そして明治36年、創業以来、取締役として岩越鉄道経営に関与してきた渋沢栄一が退任しました。そしてその後の明治37年1月、岩越鉄道は喜多方駅まで開通したのです。 明治33年に発表された鉄道唱歌の奥州・磐城編から、白河〜福島間を抜粋してみました。これのメロディーは、『汽笛一声新橋を』と同じです。ただし数字は、この歌の順序です。 1番*汽車は煙を吹き立てて 今ぞ上野を出(い)でて行く 行方はいずくみちのく の 青森までも一飛びに17番*東那須野の青嵐 吹くや黒磯黒田原 こゝはいずくと白河の 城の夕日は 影赤し18番*秋風吹くと詠じたる 關所の跡は此のところ 會津の兵を官軍の 討ちし 維新の古戰場19番*岩もる水の泉崎 矢吹須賀川冬の來て むすぶ氷の郡山 近き湖水は 猪苗代20番*こゝに起りて越後まで つゞく岩越線路あり 工事はいまだ半にて 今は若松會津まで21番*日和田本宮二本松 安達が原の黒塚を 見にゆく人は下車せよと 案内記にもしるしたり22番*松川過ぎてトンネルを 出(い)づれば來る福島の 町は縣廳所在の地 板倉氏の舊城下23番*しのぶもじずり摺り出(い)だす 石の名所もほど近く 米澤行きの 鐵道は 此町よりぞ分れたる24番*長岡おりて飯坂の 湯治にまはる人もあり 越河こして白石は はや陸前の國と聞く 明治30年、逓信省鉄道局は監督行政のみを受け持つことになり、現業部門は逓信省外局と鉄道作業局に分離されて移管されたのちも、鉄道敷設法及び北海道鉄道敷設法、事業公債条例などに則ってよって運営されていました。ちなみに日本鉄道の時代、駅には等級がありました。一等駅には福島駅が、二等駅には郡山駅と白河駅が、しかし三等駅はなく四等駅に本宮駅・二本松駅・松川駅・桑折駅があり、五等駅には長岡駅、いまの伊達駅と藤田駅がありました。興味深いのは、東京の新宿駅が二等駅であったということですが、今になると、それがどのような基準によるものであったのかは不明です。
2024.04.01
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西欧諸国に追いつこうとして富国強兵を掲げていた明治政府は、その具体的政策のひとつとして、全国への鉄道布設を重要課題としていました。しかしイギリスで発行した国債の返済の途上にあり、資金不足であった政府は、旧士族に与えた金禄公債や各地の資産家の資金を当てにして日本鉄道会社を設立し、その資金で全国に鉄道網を広げようとしていました。 明治14年8月、岩倉具視をはじめとする華族などが参加し、政府の保護を受けた鉄道会社である『日本鉄道株式会社』の設立が決定し、同年11月に設立特許条約書が下付されました。政府はこの『日本鉄道』に、国内の鉄道網建設を目論んだのです。この政策に従った日本鉄道は、明治16年、上野と熊谷まで開通させています。これらの建設にあたって、政府は国有地の無償貸下げ、8%の配当保証、用地の国税免除、工部省鉄道局による工事の施行や用員の訓練・補充など、手厚い保護と助成を与えています。 日本鉄道が、建設工事に入る頃の県内の様子です。 白 河 昔ながらの城下町で、人力車の継ぎ立てが多い。 郡 山 明治二十年代までは三百戸程の村。二十一年には四十八台の人力車もあり、交通の要地であ る。 二本松 人力車が百六十台もあり、各地から人力車の乗り継ぎのため人が集まり、車夫で宿泊するも のが毎日五十人以上あり、人力車の町といった感じ。 福 島 有名な生糸は、内国通運や誠一社が横浜に馬で陸送した。一頭が約百五十キログラムをび、 一日百頭を稼動した。人力車が四百五十台もあり、仙台・山形も営業範囲である。 桑 折 街道上の中継地で、宿屋十軒、人力車や馬車もあり舟運による中継地でもある。 しかしこのような状況もあって、鉄道建設反対の運動もあったのです。農民のほとんどは、「汽車の煙で稲が枯れる」「灰で桑が枯れる」というような風説によるものが大半でしたが、その他にも、「今までの宿場町が廃れる」「人力車の商売が成り立たなくなる」と言う経済的な理由のものもあったのです。 明治17年、日本鉄道会社は、第一線区とした上野から高崎までを5月に開業、次いで第二線区の大宮から白河までの工事と、第三線区である白河・仙台間の工事を開始しました。第一線区が養蚕地である群馬県であり、生糸の横浜への輸送で鉄道の経済効果を実証していたこともあって、鉄道が通ることへの福島県内の養蚕家の期待は、大きかったと思われます。この線は、『日本鉄道・奥州線』と位置付けられました。しかし日本鉄道はその建設資金獲得のため、地元に建設債券の消化を求めたのです。それは郡山だけではなく、鉄道の通らない三春でも求められたのです。三春での消化状況をみると、三春町が32人、南小泉村が1人、三丁目村が1人、木村村が1人、柴原村1人、滝村2人で総人数38人、その総株数は494株、金額2万4700円を集めました。しかし郡山村では、出資者の募集はなかなか困難であったようです。明治16年の文書にも「鉄道会社ヨリ払込之儀催促有之ドモ壱人モ出金セシ者ナク其俵打過居レリ」とまで書かれていたのですが、その後、呉服商の」橋本清左衛門など29余名の資産家が、3万円の株金を引き受け、その目的を果たしたのです。しかし日本鉄道が、鉄道が通らない三春にも建設債券の購入を要請したことは、須賀川・郡山・本宮と平坦な地を利用して鉄路を敷設しようとした日本鉄道が、三春も利用可能と考えたためと思われます。このように、日本鉄道の奥州線の開設が進む中で、奥州街道上にあった小さな宿駅は、急速に宿場町としての機能を失って衰退していったのです。 当時の郡山の町は、今の旧国道にある会津街道の分岐点が北限でした。そこには今でも、『会津道』と『三春街道』の道標があります。そして南限は今の東邦銀行郡山中町支店あたりまでの細長い集落だったのです。そして今の柏屋あたりから駅までは、畑や田んぼが続いていたのです。今でこそその後の市の発展により、駅が街に近い場所にあるように見えますが、古い絵などを見ると、郡山駅は畑に囲まれていたのです。 この奥州線開業当時の駅の様子を、『ものがたり東北本線史』から転載してみます。『奥州線が全通したころの駅は、すべてが木造平屋建てのこじんまりした建物で町外れの寂しい所にあったから、そのモダンな駅舎は人目をひいた。駅前の道路は新しく開かれた幅の広いもので、雨の日はぬかるみとなり風の日は黄色い渦が空高く舞い上がっていた。駅の出入り口には人力車が人待ち顔に並んでいたものである。夜は待合室や改札口あたりに薄暗いランプがぶら下がり、あとは信号機の青や赤のランプが見えるだけで駅の裏側は真っ暗である。番頭や車夫の提灯が駅前の通りを彩っていたものである。 待合室に入ると、時刻表、賃金表、乗客心得などがいかめしく壁にぶら下がっている。待合室と反対側の出札窓口には『切符売下所』と看板がかかっている。しかし上等切符を買う人はあまりいない。 列車到着五分前、駅長はガランガランと鐘を鳴らす。出札口の窓がパタンと閉められる。やがて白い蒸気を吐きながら列車が入ってくる。上野〜青森間の直通列車以外は、大てい貨車と一緒の混合列車である。列車の前部と後部の車掌のほか制動手も乗車している。汽車がホームに止まると、助役も駅夫も客車のドアを片端から開けて行く。旅慣れた旅客はホームの便所に駆け込む。駅夫は「小便せられたし」と触れ歩いている。こういう駅は5分くらい停車する。老人や婦人は汽車が今にも発車しそうな気がしてなかなか便所に行けない。 駅夫は大きなヤカンにお湯を入れて上等車にお湯を持っていく。冬は大きな駅の駅夫は大変である。上等・中等の旅客に湯タンポのサービスをしていたから、その湯を詰め替えなければならない。下等の旅客にはひざ掛けを貸した。しかしそれで十分でないから、自分で毛布を持って乗った。赤い毛布であったから、地方から東京へ出かける『お上さん』を『赤ゲット』などと言った。冬はよく雪害で運休するので『雪中ご旅行の方は防寒具と食糧を持参せらるべし』という掲示が駅にも車内にも貼ってあったものである。 下等の客車はマッチ箱のように小さい。ドアから入ると細長い木の椅子で車内が五つに仕切られている。客車内を縦に通り抜けることは出来ないから、一度乗ったら歩き回ることはできない。椅子には、背をもたせかける板ができる前は、一本の鉄棒が渡してあるきりであったから、長距離の汽車旅行は腰が痛く楽ではなかった。上等・中等・下等の呼び名が一等・二等・三等になったのは、明治三十年十二月からである。そのころ便所のある客車はほとんどなく、蒸気暖房もない。夜は客車の中にランプが二つ、屋根裏から吊り下げられる。座っている人が、ぼんやり見える程度である。五十銭もする特製弁当と熱いお茶などを車掌に注文しているのは、上等か中等の客であろう。この一等車の運賃は、三等車の三倍で、庶民にはまったく無縁のものである。』 いずれにしても、福島県最初の鉄道は、このようなものであったのです。
2024.03.20
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公共用の旅客運輸業の乗り合い馬車は、明治維新前より外国人の経営により運行されていました。しかし乗客のほとんどが外国人で、日本人としては乗り難くかったのです。これを見た日本人も、乗合馬車の営業を出願する者が何人も現れたので、幕府は統合を命じました。それでも開業ができたのは、維新後の明治2年であったのです。 戊辰戦争の終了とともに誕生した明治政府は、明治2年の1月、東京から京都・大阪を経て神戸までつなぐという壮大な鉄道敷設を決定しました。しかし、路線を海に近い東海道経由にするか、海から遠い中山道経由するかは軍事上の問題もあり、決定に至らなかったのです。そこで政府は、距離も近く、地形も平坦な東京と横浜の間に最初の鉄道を建設することを決定したのです。建設の資金は、イギリス東洋銀行を通じて、外債30万ポンドがロンドンで募集されました。明治3年3月、建設路線測量のため、汐留の一角に最初の杭が打たれました。この建設は、鉄道発祥の地であるイギリスから指導を受け、日本の技術を融合させてはじめられたのです。ところが、新政府が鉄道の敷設予定地とした品川近辺には、西郷隆盛のお膝元である薩摩藩の江戸屋敷などがあり、測量することさえ拒否されたのです。 ところで鉄道の輸送力の根幹となる軌道の幅は、イギリスの標準軌である狭軌の1067ミリが選ばれました。これは当時の日本の状況を考えると、妥当な選択であったとされます。すなわち軌道の幅が広いほど大きく重い列車を速く走らせることができるのですが、建設費がかさむことが欠点であり、さらに軌道の幅が大きければ曲線半径も大きく取る必要があるので、貧乏国で山がちの日本では、標準軌は贅沢であると考えられたのです。それはそれでやむを得ないと思われるのですが、薩摩藩など沿岸にあった江戸屋敷の所有藩の反対には困っていました。そこで、工事を進めるため政府が取った手段は、当時入江となっていて海であった現在の京急神奈川駅近くから桜木町駅近くをほぼ直線で結ぶために、線路部分の幅となる広さでの海面埋め立て工事をすることになったのです。 それを請け負ったのが、横浜の土木建築請負を中心に事業を営んでいた高島嘉右衛門でした。彼は鉄道建設に、強い関心を持っていたのです。その埋め立てられた土地の一部が、今の横浜市西区に高島町として、その名が残されています。明治3年3月、線路の敷設工事が、東京と横浜の双方から初められました。そして明治4年、政府は鉄道運営の所管官庁として工部省鉄道寮が立ち上げました。明治5年5月、高島嘉右衛門は東京から青森に至り、北海道開拓を支える鉄道の建設を政府に建言したのですが、これは却下されてしまいました。しかし高島は、政府要人の岩倉具視を説き、明治天皇および当時の政府に、『華族と士族の資産をもって会社を建て、東京と青森あるいは東京と新潟に鉄路を敷き、蒸気機関車を走らせる』ということを建言したのですが、直ちに取り上げられることにはならなかったのです。ところでこの鉄道で使われたレールをはじめ蒸気機関車、および客車の全てはイギリスからの輸入であり、時刻表の作成も運転士も外国人によるものでした。 明治5年5月7日、鉄道の開業に先立ち、品川から横浜の間で、1日2往復の試運転が行われました。所要時間は35分、時速およそ40キロメートルでしたが、横浜毎日新聞は、『あたかも人間に翼を付して、天を翔けるに似たり』との記事を載せています。その年の9月12日、日本最初の鉄道が、新橋駅と横浜駅とで、『新橋汽車お開き式』が行われ、諸官庁は休暇となりました。明治天皇は直垂を着して午前9時に出門、4頭立ての馬車に乗って新橋停車場にご到着、それより特別仕立ての列車に乗り、午前10時に発車、54分で横浜に着かれました。そして午前11時、横浜停車場において開業式が挙行されたのです。内外の諸賢を前にした天皇は、『東京・横浜間ノ鉄道、朕、親ラ開行ス。自今此便利ニヨリ、貿易愈繁昌、庶民益富盛ニ至ランコトヲ』の勅語を賜り、次いでイタリア公使や外国商人頭取総代のイギリス人のマーシャルが祝詞を奏した後、横浜在住の商人頭取の総代が祝詞を奏しました。それぞれに勅答があって式は終わり、天皇は横浜駅楼上の一室にて休憩されたのち再び列車に乗り、正午に横浜を発して新橋に向かったのです。そして新橋停車場においても、午後1時より同様の開業式が行われたのです。そして翌・13日より、一日に9往復の列車が運転されたのです。ところでこの開業に先立つ7月、天皇が初めて汽車に乗っておられます。中国巡幸からの帰路、暴風に遭ったため横浜に上陸、品川までをこの汽車を利用したのです。これが最初の、『お召し列車』となったのです。 この新橋と横浜間の鉄道は、大評判となりました。乗車券は、上等1円50銭、中等1円、下等50銭でした。鉄道開通の当時、米10キログラムは約65銭といわれており、現在の貨幣価値に照らしてみると、上等が1万5000円、中等が1万円、下等が5000円に相当しますから、その運賃は大変高価なものだったのです。それもあって、開業の翌年には大幅な利益を計上しています。その営業状況は、乗客が1日平均4347人、年間の旅客収入は42万円、貨物収入2万円、そこから直接経費の23万円を引いても21万円の利益となっていたのです。この結果「鉄道事業は儲かる」という認識が、実業界で広まりました。そしてそれを受けて、京阪神地区でも建設がはじめられ、明治7年には大阪駅と神戸駅間が開通し、明治10年には京都駅まで延伸しています。ちなみに、この時の新橋駅は、のちに貨物専用の汐留駅となり、現在は廃止されています。 曲がりなりにもスタートした国有の鉄道は、政府の事業として計画された中山道沿いの鉄道区間のうち、東京〜高崎間の測量がはじめられたのですが、明治10年の西南戦争による煽りを食って、着工されるには至りませんでした。鉄道発展に寄与し、のちに『日本の鉄道の父』と呼ばれた井上勝が鉄道の原則国有を主張していたこともあって、この頃までに開通していた国有の鉄道は、新橋と横浜間のほかには、北海道の幌内鉄道や岩手県の釜石鉄道、それと滋賀県の大津と神戸の間など、部分的なものに留まっていました。歳末近くで慌ただしい明治13年12月21日、在京中であった福島県令の山吉盛典、宮城県令の松平正直、岩手県令の島維精、青森県令の山田秀典、山形県少書記官深津無一らが集められ、それぞれの地域での鉄道建設の協力が要請されたのです。この会合は、表面上東北開発が強調されたのですが、国策的要素が強かったのです。例えば、渋沢栄一が明治8年2月に立案したという『奥州鉄道建設急務五ヶ条』の第一項で、『陸奥国は北海道と接している。ロシアとの境界問題は重大で、国境警備のため、北海道と結ぶ奥州道中に鉄道を作ることは大眼目である』と主張していたのです。しかし少ない国家予算と、鉄道建設の外債を発行したばかりの日本では、鉄道網の整備が進まないことが予想されたことから、岩倉具視や伊藤博文を中心とし、華族や民間の資本を用いての鉄道建設に、政策を転換することになったのです。そのことが、日本鉄道株式会社の設立に結実していったのです。 明治14年8月、岩倉具視をはじめとする華族などが参加し、その上、政府の債務保証を受けた鉄道会社である『日本鉄道株式会社』の設立が決定され、同年11月に設立特許条約書が下付されました。しかしこの設立特許条約書には、『五十年後には、政府が会社を買収できる』という付帯条件が付いていました。この『日本鉄道』という会社の名は、日本全国の鉄道をこの会社に敷設させるという目的があったのです。
2024.03.10
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中世以前の人たちの旅は、ただひたすら歩くことでした。馬に乗ることもありましたが、それには馬を飼う費用と乗る技術が必要だったのです。それでも時代が下がると、馬車が使われるようになったのですが、道路は舗装されてなく、状況が悪かったので、快適な乗り物とは言えなかったのです。1600年、女王エリザベス一世は、拝謁したフランス公使に、「数日前に、私の乗った馬車が早く走るのはよいのですが、その揺れで車の壁に体が打ちつけられ、苦痛に耐えるのが大変でした」と話したと言われています。当時の馬車とはこのような乗り物だったのです。 それでもこのような馬車が、レールの上を走ることで酷い揺れから逃れてスムースに、しかも多くの貨物を運べるようになったのが馬車鉄道でした。このような馬車鉄道は、ヨーロッパで発達をしていますが、それは人を乗せるものとしてではなく、貨物運搬用だったのです。世界で最初に作られたサリー鉄道は、イギリス、ロンドンの中心部近くのワンズワースとロンドンの南部のクロイドンを結んでいた馬車鉄道ですが、これも貨物線用だったのです。この鉄道の開業は1803年ですが、木製の軌道の上の貨車を馬が牽引するこのような貨車の軌道は、中央ヨーロッパでも15世紀までに現れています。18世紀になると、鋳鉄製のレールも用いられるようになったのですが、それでもこうした軌道は、炭鉱などの専用鉄道であり、炭鉱会社や運河会社が保有していたのです。 そうしたなか、イギリスで一連の産業の変革と石炭利用によるエネルギー革命、いわゆる産業革命が起こりました。機械化によって一気に生産性が向上し、長距離を移動する人や貨物が増加したのです。工場生産が拡大する中、大量・高速、かつ定時性の輸送の需要が増え、旧来の輸送手段に対しての不満が高まっていったのです。当時の大量輸送の手段であった馬車鉄道では、脆弱であったのです。それに対応するものとして、大型であった蒸気機関を改良し、ジョージ スチーブンソンとロバート スチーブンソン親子により蒸気機関車が開発されたのです。そして1825年9月27日、イギリスの港町ストックトンと炭鉱の町ダーリントンの間に開通したのがストックトン&ダーリントン鉄道のロコ モーション号でした。最初の頃は、ロコ モーション号は貨物用にのみ用いられ、旅客用には同じレールの上に馬車を走らせていたのです。 1830年(天保元年)、世界初の旅客鉄道となるリバプール&マンチェスター鉄道で、蒸気機関車のロコ モーション号が、一般の乗客が乗った客車を時速46・6キロメートルで走りました。このリバプール&マンチェスター鉄道の大成功によって鉄道敷設は急速に延び、イギリスでは1840年代の『鉄道狂時代』が出現したのです。『鉄道狂時代』とは、イギリスで発生した鉄道への投資熱のことを指します。バブル経済と共通のパターンをたどり、鉄道会社の株価が上昇するにつれて、投機家がさらに多くの金を注ぎ込み、不可避となる崩壊を迎えたものです。 イギリスの鉄道はいずれも私営で始まったのですが、そのゲージはかならずしも一様ではありませんでした。しかし鉄道会社の吸収や合併がくりかえされるうちに徐々に4フィート8インチ半に統一されて行き、1846年には政府がそれを標準軌にすると決定して以降、建設される鉄道はすべて標準軌とされ、既設のレールも標準軌に改築されていったのです。蒸気鉄道の建設は、直ちにイギリス以外にも広がりました。そしてイギリスの4フィート8インチ半の軌道は、世界的にも標準軌とされ、それより幅の広いゲージを広軌、狭いものを狭軌と呼んでいます。日本の鉄道の多くは狭軌であり、新幹線のみが広軌と言われています。 この蒸気鉄道が世界に普及していく過程で、馬車鉄道は、都市内の交通機関として使われるようになりました。イギリス以外で最初の馬車鉄道が走ったのは、1836年(天保7年)、ニューヨークで市内の交通機関として現れ、1854年(安政元年)にはパリ、1861年(文久元年)にロンドン、1865年(慶応元年)にベルリンと続き、その後もオーストリアのリンツやザルツブルグ、スイスのチューリッヒ、イタリアのミラノなどの世界の名だたる都市に広まっていったのです。ところで変わっていた馬車鉄道は、イギリス スコットランドのグラスゴー馬車鉄道でした。この馬車鉄道は、2階建てだったのですが、2階は椅子だけの吹きさらしだったのです。つまりご主人様は1階の客車の中に乗りましたから雨や風から守られましたが、2階に乗せられていたのはお付きの召使いたちは、冬の日などは寒さに震えながら乗っていたかもしれません。しかし考えてみれば、召使いたちはご主人様の頭の上に土足で乗っていたことになりますから変な話です。いずれにせよこの馬車鉄道は、今のロンドンの2階建バスの原型になったのかもしれません。 いま私の手元に、ニューヨークで撮られた馬車鉄道が載った本がありますが、『写真その昔』のページに、『鉄道馬車の終着駅』という写真があります。そしてその説明文には、『1893年の冬、吹雪のニューヨークの鉄道馬車の終着駅。出発しようとして湯気を出している馬車鉄道の馬が写されている。撮影者のステーグリッツは、4インチ×5インチ用のハンドカメラを使用した』とありました。ともあれ撮影された年が、1893年(明治26年)となっています。ちなみに三春馬車鉄道の運行がはじまったのは明治24年(1891年)ですから、少なくともニューヨークと同じ時期に、ここを走っていたことになります。馬車鉄道は、いま振り返ると時代遅れにも感じられますが、舗装道路もなく道路事情の悪かったこのころ、揺れや振動が少なく、至極快適な乗り物だったのです。ちなみに日本最初となる東京馬車鉄道の開業は、明治15年(1882年)でした。当時の欧米では、馬車鉄道は遠距離を走る蒸気鉄道を補完するものとなっていたのです。
2024.03.01
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車輪は重量物を乗せて運ぶ橇と、その下に敷く『ころ』からはじまりました。さらに『ころ』が固定されて車軸と回転部が分離し、現在の形となったという最古の最重要な発明とされています。その歴史は古く、その起源は紀元前3000年のメソポタミアに、人が車輪のついた乗り物を使っている様子が壁画に描かれており、今から約5000年前という大昔から使われていたことがわかります。それでも初期の車輪は、厚い板を重ねて円形にカットしただけのものでした。しかしこの車輪がどのような経緯で利用されるようになったかは、不明です。 ところで、紀元前3000年頃に作られたと思われる牛車の玩具(カラチ博物館蔵)が、現在のパキスタンのモヘンジョダロより発見されています。モヘンジョダロとは、『死者の丘』の意味ですが、ここには荒涼とした廃跡の丘が続いているといわれ、しかもこの地方の農村では、いまも全く同じ牛車が使われているそうです。そして紀元前2000年の頃、いまのトルコにあったヒッタイトの軍は、鉄製の武器と1万7000の兵を駆使して、現在のイラクあたりにあったバビロンやシリアを攻め落としました。この頃から、馬に引かせる車に人が乗ることが可能になったのかもしれません。いずれにしても、いつの時代でも、最新の技術が兵器に転用されるのを見るのは、悲しいことです。。 当時の車輪は木製のために損傷が激しく、17世紀の中頃には、鉄製の車輪が開発されました。ところが車輪は、雨が降ったときや湿った土地では土にめりこんで動かすのにも困ることがあったのです。そのために、ローマでは道路に石を敷きつめて、車が地面にめりこまないようにしていました。これがレールの原型になるのかもしれません。以後レールは、車輪と並行して発展することになります。 レールは、ドイツやイギリスの鉱山で、鉱石を運び出すのに使ったのが最初といわれます。17世紀のイギリスの鉱山では、広さ約5センチ、厚さ約4センチのカシの角材を枕木に固定し、レールとして使用していました。 しかし木材は折れやすいので、車が乗る面に細長い鉄板をはりつけるという方法が生まれました。それはやがて、車輪と同じく、鉄製のレールに変わっていきます。ヨーロッパでは、1760年代から四角形やL字形のレールが作られるようになり、それが発展して、Ⅰ字形や工字形のレールになっていきました。Ⅰ字形のレールは断面が上下とも同じ形のもので、一方がすり減ったときひっくり返して使うので『双頭レール』とも呼ばれました。日本の鉄道が最初に用いたのも、この『双頭レール』でした。しかしこれでは、枕木に固定する方法が難しいということもあって、現在のような工字形が使われるようになり、材質も鉄製から鋼鉄製へと強くて重いレールに改良されていったのです。現在のレールは平底軌条と呼ばれています 一方、レールが鉄製に変わった当時でも、車輪は木製でした。しかもレールから外れないようにするため、糸巻きのボビン型だったのです。ところで貨物を積んだ車両が勾配を下るときには、積荷を水平に保つ必要があると考えられていたために、例えば前輪の直径を後輪の直径より大きくするという奇妙な方法がとられていました。そのような配慮の必要がないことを知ってから、車輪にフランジという出っ張りをつけ、両側の車輪のフランジが、2本のレールの内側に入るようにしたことで、脱線が防げ、さらには他の路線に移動できるようになったのです。現在のようなフランジ付きの車輪は、17世紀の後半にドイツの鉱山で使われたのがその最初と言われています。そしてその鉱石などを運び出す動力が、牛や馬だったのです。 日本の鉄道が新橋-横浜間に開通した時に用いられたレールは、全て当時世界最大の製鉄国であったイギリスから輸入されました.。しかし明治34年、筑豊炭田のある北九州市の官営八幡製鉄所創業を機に国産のレールが生産されるようになりました。ところが大正時代になると,国内の鉄に対する需要が高まり、その需要に十分対応することができなくなったので、足りない分はアメリカ ドイツ フランス ベルギーなどの海外の製鉄所から輸入したレールを使用することになったのです。なお、このモニュメントの所在地が見つけられないでいるのですが、『このレール腹部の表示は、一九〇一年(明治三十四年)に操業開始した官営八幡製鐵所にて一九〇二年に製造されたレールであることを示し、これは現時点確認されている国産レールとしては最古であると言えます。』というものが建てられています。The oldest piece of Rail in JapanThe inscription on the side reveals that it was made in 1902 at the YAWATA Imperial Steel Works which began operations in 1901.This makes it one of the oldest pieces of rails as Japan made.
2024.02.20
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