泉のこと



  泉 の こ と     

1 遊び場
 わたしが子どもの頃、柿田川にプールとちょっとした遊び場がありました。誰もが自由に泉に入ることができ、友達と毎日のように遊びました。
 まず、タモを持って川に入ります。水草の茂った場所の川下にタモをおっかえ、(右手で強く握って固定する)左足で水草を踏みながら魚を追いこみます。ハヤ・カジカ・フナなどを獲ると、バケツに入れて広場に持って行きます。湧き間を利用して川や池を作り、そこに魚を放しました。歩いていて、ぬるぬるするものを踏んずけることもありました。その時は、夢中で両手を水中に入れ、全身ずぶ濡れになってそのぬるぬるを捕まえにかかります。うまくつかんで水から出したウナギを見た時は、狂喜してバケツに入れました。
 夏になると、銛を作ります。泉に生えている竹を切り、ナイフで皮を取り節の周りを滑らかにします。鉄製の先の尖った3本か4本の銛と太いゴムを買い、銛を竹の先端に、ゴムを根元の方に針金で固定すると出来上がりです。水着を着て水中眼鏡をかけ、銛を持って泉に入り、魚を突くのです。水草の下で休むアユは下流から、流れが速く深い木の根の間で休むヤマメは泳ぎながら狙いました。何度も挑戦し、見事突いた時は、心が震えました。しかし、5分も泳いでいると今度は寒さで体が震えました。そこで、コンクリートの上に寝転んで体を温めました。
アユやヤマメは草に通して家に持ち帰り、腸(ワタ)を取って塩焼きにして食べました。
 頭が痛くて早引きし、しばらく家で休んでいたらよくなったのでさっそく泉に行きました。友達がお見舞いに来てくれたのに本人は家にいません。もちろん友達も一緒に泉で魚獲りをしました。
2 なりたち
 富士山は、噴火を繰り返して今のような高く美しい姿になりましたが、噴火によって溶岩が清水町まで積もりました。
 富士山に降った雨や雪は、地下深く吸い込まれ、地下にある溶岩の層の間(水を通しにくい古富士泥流の上)を流れるうちに透明度を増し、山麓のいたるところでで湧き出します。これを湧泉と言い、主なものに富士吉田湧泉群・芝川湧泉群・吉原湧泉群・三島湧泉群があり、最も大きいものが柿田川です。
3 歴史 
 今から400年以上昔、日本は戦国時代と呼ばれ、戦に明け暮れていました。清水町は、北条氏の領土でしたが、今川氏と武田氏に何度も攻め込まれました。これらを迎え撃つため、本城山に徳倉城そして柿田川に泉頭城を築きました。しかし守備兵は3~4百人程度であったため、武田信玄の1万7千の軍に焼かれました。再建した後、豊臣秀吉の数万の兵の進軍に際して、とても守れないと判断した城主は、自ら城に火をかけ、山中城に撤退しました。
 その後畑になっていましたが、日本を統一した徳川家康が、隠居の地としてここを選びました。東海道から泉頭までの道路を作る計画を立てていましたが、家康が病に倒れたため中止になりました。東海道とは今の旧道のことで、長沢の智方神社前に松並木が、玉井寺と宝池寺に一里塚が残っています。鎌倉室町時代の東海道は、長泉町から伏見を通っていて、足柄古道と呼ばれています。また、鎌倉幕府を作った源頼朝とその弟義経(牛若丸)が再会した対面石は、八幡神社にあります。
4 利用
 6月になると、一部の用水路に柿田川の水が流れます。今では住宅地になってしまいましたが、わたしの祖母の田圃にも柿田川の水が入りました。毎年この時期になると親戚が集まり、裸足になって水田に入り、腰をかがめて一日中稲を植えました。足の指に入る泥の感触と、用水路で体を洗う爽快感は、今も体に残っています。
 夜、父とモジリに魚のあら(内臓)を入れ、懐中電灯を持って泉に行き、仕掛けました。翌朝、早くモジリを取り出すとウナギやモクズガニが入っていました。モクズガニはみそ汁に、ウナギは蒲焼きとなって食卓に上がりました。 



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