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保元の乱が終結してしばらくの間は、頼長は罪人として扱われた。頼長を罪人とする朝廷の認識は、頼長の子の師長が帰京を許され後白河院の側近になっても変わることはなかった。
u しかし21年を経た 安元 3年(1177年)、 延暦寺 の 強訴 、 安元の大火 、 鹿ケ谷の陰謀 といった大事件が都で連発するに及んで、朝廷は保元の乱の怨霊による祟りと恐怖するようになる。
u 同年8月3日、怨霊鎮魂のため、崇徳上皇の当初の追号「讃岐院」を「崇徳院」に改め、頼長には正一位・太政大臣が追贈された(『 百錬抄 』)。
u 人物
u 少年の頃は忠実の命に従わず 馬 にまたがって山野を駆け巡ったが、 落馬 して一命を失いかねないほどの目に遭い、心を入れ替えて学問に励むようになったという(『台記』康治元年12月30日条)。膨大な和漢の書を読んだ。甥にあたる慈円は『愚管抄』で「日本一の大学生(だいがくしょう)、和漢の才(ざえ)に富む」とその学識の高さを賞賛している。康治元年(1142年)10月の 大嘗祭 のときは、御禊の調査を徹夜で行い、終了後は10日間かけて膨大な式典の記録を書き残しており、事務的な能力にも優れていた。
u 儒学 を好み、誰しもが認める博識だったが、意外にも 文学 を不得手としており、「 和歌 の道に堪えず」と公言して 漢詩 も得意ではなかったという。
u 頼長の苛烈で他人に厳しい性格は、「腹黒く、よろずにきわどき人」とも評され、「悪左府」の異名で有名だが、この「悪」も現代でいう「悪い」という意味ではなく、むしろ性質・能力・行動などが型破りであることを畏怖した表現である。
u ただし私的報復の記録も多く、太政官の官人を殺害した犯人が恩赦で釈放されたことを怒り、 秦公春 に命じてこれを暗殺させ「天に代わって之を誅するなり」と自らの日記に明記することもあるほどだった(『台記』久安元年12月17日条)。
u 私生活では 男色 を好んだことがその日記『台記』に記された数多くの出来事から窺える。
u 東野治之 や 五味文彦 の研究でその詳細が明らかにされ、男色相手としては随身の秦公春・ 秦兼任 のほか、公家では 藤原忠雅 ・ 藤原為通 ・ 藤原公能 ・ 藤原隆季 ・ 藤原家明 ・ 藤原成親 ・ 源成雅 の名が特定されている。
u 五味はこのうち4名までが 院近臣 として権勢を誇った 藤原家成 の親族であることを指摘している。
u その『台記』に、少年の頃の飼い 猫 が病気になった際、 千手像 を描いて祈念して治してやったり、その猫が十歳まで長生きして死んだので、衣に包み櫃に入れて葬ってやった旨の記述がある。
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