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2024年02月06日
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カテゴリ: 中世





明応2年(1493年)、将軍義材は畠山政長と共に畠山義豊討伐のため河内国へ出兵する。


政元はこの出兵にも反対をして従軍を拒んだ。4月、京都に残留していた政元は日野富子や前政所執事・伊勢貞宗と組んで周到な根回しのもとクーデターを決行、以前将軍候補に推げた清晃を第11代将軍として擁立する(明応の政変)。興福寺の尋尊は義材は政元に政務を任せると約束しながら、その反対を無視して近江出兵と河内出兵と2度も大規模な軍事作戦を行ったこと、そして義材が自分の政策に反対する政元を討とうとしたことが原因であると記している。


この政変により、当初は畠山政長方であった赤松政則も政元に寝返り、孤立無援となった政長は自害し、大きな力を持っていた三管領畠山家の勢力は削ぎ落とされ、捕らえられた義材は京都龍安寺に幽閉されたうえ、将軍職を解任された。


明応3年(1494年)、清晃は還俗して足利義高(後に義澄に改名)と名乗り将軍に就任、政元は管領に就任して実権を握り将軍を事実上の傀儡にして幕政を掌握し、京兆専制を確立するに至った。


管領や幕臣が将軍を追放・挿げ替えるという実例は室町幕府において政元が初のことで、室町幕府将軍の権威が決定的に失墜した政変であった(ただし、管領の政治的職権の実態は既に失われており、政元の4度目にして最後の管領在任も実際には義高の元服の儀礼が行われた明応3年12月27日の1日間のみであった)。


これより後の将軍は、実権のない名ばかりの存在となっていき、この政変と応仁の乱で失われた将軍権威復活と様々な要因で衰退へと進んでいく幕府の維持を強いられていくことになる。


但し、以後も幕府権力は存続していたとする見方もあり、伊勢貞宗は日野富子の意向で将軍義澄の後見役を務め、度々政元の行動を抑止している。


また、政元の命を受け政変を主導していた政元家臣の京兆家内衆である丹波守護代・上原元秀が急死、京兆家内で政変に消極的な家臣が多数を占めるようになると、京兆家はなるべく幕府の意向を容認、前将軍義材派の巻き返しを用心する方向に切り替えたため、政変後の幕府と京兆家は協調関係に入っていたのではないかとする意見もある。


諸勢力との戦い


政変後、越中国へ亡命し、亡命政権(越中公方)を樹立していた足利義稙(義材)は、明応8年(1499年)に北陸の兵を率いて近江にまで侵攻し、比叡山延暦寺を味方に付ける。


こうした延暦寺の行動を素早く察知した政元は早速行動に移った。赤沢朝経と波々伯部宗量に命じて7月11日の早朝に延暦寺を攻撃、大規模な焼き討ちを行わせたのである。


この攻撃で根本中堂・大講堂・常行堂・法華堂・延命院・四王院・経蔵・鐘楼などの山上の主要伽藍は全焼した。


勢いに乗った朝経は続いて9月には河内で挙兵した政長の子・畠山尚順を撃ち破り、尚順が大和国に逃げ込んだ為、


月にはそのままの勢いで大和国に攻め込んだ。


そして筒井順賢・十市遠治ら尚順に与した国人衆を追討し、喜光寺・法華寺・西大寺・額安寺などを焼き討ちして大和北部を占領した。この朝経の一連の働きによって細川の版図は大幅に拡大することになった。


また政元は周辺国の国人の細川被官化も推し進め、実質的な細川領国化による支配勢力強化を図った。


一方で政元は修験道・山伏信仰に凝って、女性を近づけることなく生涯独身を通し(衆道は嗜んだようである)、普段から当時の武家の慣わしであった烏帽子を嫌って被らなかったり、空を飛び天狗の術を得ようと怪しげな修行に熱中したり、突然諸国放浪の旅に出てしまうなどの奇行があり、『足利季世記』では「京管領細川右京大夫政元ハ 四十歳ノ比マデ女人禁制ニテ 魔法飯綱ノ法 アタコ(愛宕)ノ法ヲ行ヒ サナカラ出家ノ如ク山伏ノ如シ 或時ハ経ヲヨミ陀羅尼ヲヘンシケレハ 見ル人身ノ毛モヨタチケル」とある(ただ政元は修験道を単に趣味としてだけでなく、山伏たちを諜報員のように使い各地の情報や動向を探るなどの手段ともしていた)。


また、朝廷や幕府の儀式についても、実際の威信が伴わなければどんな立派な儀式でも意味がないと考えていたとみられ、後柏原天皇の即位式の開催を無益であるとして開催を認めなかった。


政元は政務を家臣任せにしたり、出奔により幕政を混乱させることもあり、将軍義澄が自ら説得に出向くこともあった。


やがて実際の政務は、「内衆」と呼ばれた京兆家の重臣達(守護代など)による合議に重きが置かれるようになったが、文亀元年(1501年)、政元は内衆合議の規定と内衆を統制する式条を制定する。


何かと政元と将軍義澄は政治面で対立することも多々あったが、そんななか文亀2年(1502年)8月4日、突如として義澄が金龍寺に引き籠るという事件が発生した。


そして、義澄を説得しに行ったところ、御所に戻る交換条件として出された五つの条件のうちに前将軍義材の弟である実相院義忠を処刑せよ、というものがあり、翌5日に政元は義澄を見舞いに来た義忠をとらえて殺害した。


これにより、義澄は政元によって自身が将軍を解任されて追放され、代わりに義忠が新たな将軍になるという可能性がなくなった為に大いに安堵する一方、政元は義忠の殺害によって次期将軍候補を失い、かつ前将軍義材派からは完全に敵視される状況となった。


義澄を廃して新たな将軍を立てることも義材派と和解することも出来なくなった政元は、その政治的選択肢を大幅に狭めることとなった。


政元の気分屋的な傾向、そして実子が無かったことは京兆家の家督相続問題を直撃した。


同年9月、摂関家の九条家から家督相続を条件に養子として迎えていた聡明丸(のちの澄之)を正式に嫡子と定め丹波守護職を与えるも、翌文亀3年(1503年)5月、細川一門の阿波守護家(讃州家)から六郎(改め澄元)を養子として迎えて家督相続を約束したため、政元は聡明丸を廃嫡する(これより間もなく聡明丸も元服して澄之と名乗る)。






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最終更新日  2024年02月06日 05時58分15秒
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