PR
カレンダー
カテゴリ
コメント新着
キーワードサーチ
なお、義純が婚姻したのは重忠と北条時政の娘との間に生まれた女性(つまり、重保の同母姉妹)との異説もある。
子に 時麿(小太郎重行) があったと伝え、 目黒氏 を称したという。ただし目黒氏の正確な出自は不詳で、重保の子孫ではないとする説もある(『目黒区史』)。
また 父 と同じ名の 重忠 と言う子がいたとも言われている( 浄法寺氏 の祖)重保の孫である重長は同族の 武蔵江戸氏 の養子となり、七代目当主となった。
4、「奥州畠山家」
●奥州畠山家
奥州 二本松城 によったかつての 奥州四管領 の一雄・畠山家の後裔であり、二本松畠山氏、二本松氏とも呼ばれる。源姓畠山氏の祖である足利義純の嫡流は、本来この二本松の奥州畠山家であったが、 観応の擾乱 において 畠山高国 ・ 国氏 は 足利直義 方の 吉良貞家 に敗れ自害し、国氏の子 二本松国詮 は二本松に移ったが、 戦国時代 には、一 国人 にまで衰退した。
天正 13年(1585)、当時の当主・ 二本松義継 が 伊達氏 との抗争の中で討死し、まもなく国人領主としての二本松氏も滅亡する。彼の次男である 二本松義孝 は 蘆名氏 や 佐竹氏 などに仕えた後、 徳川氏 譜代大名 である 水野氏 に仕えた。 水野忠邦 の転封運動に反対して諌死(かんし)した家老・ 二本松義廉 はその子孫である。
歴代当主(源姓畠山 本宗家 :奥州畠山家)
*「二本松氏」 (にほんまつし)は、 陸奥国 安達郡 二本松城 に拠った 戦国大名 。二本松畠山氏、奥州畠山氏とも。 奥州管領 畠山国氏 の子、 国詮 を祖とする。
本姓 は 清和源氏 。 足利氏 の支流で 室町幕府 の 三管領 の一つである 畠山金吾家 の兄系にあたる。元々は 畠山氏 の嫡流筋だった
貞和 6年(1345)に 畠山高国 と 吉良貞家 が 奥州管領 に任ぜられて 陸奥国 に入ったが、 観応の擾乱 が勃発すると、 直義 派の吉良貞家に 尊氏 派の高国・ 国氏 父子が攻められて敗死し、 畠山一族の多くもこの時討死したが、安達郡二本松に逃げのびていた国氏の子・ 二本松国詮 が奥州管領を自称して挽回(ばんかい)を図り、南朝方の 北畠顕信 と手を組んで一時国府を奪回したものの、貞家の反撃に遭って再び奪い返されてしまう。
二本松氏が劣勢を挽回できない状況下で 石塔氏 も奥州管領を自称し、さらには中央から派遣された 斯波家兼 をも加えて四人の奥州管領が抗争することになった。
四者の争いが 斯波氏 の勝利に終わると高国系畠山氏の勢力は完全に零落し、奥州においてこそ格式面での厚遇を受け、名字は畠山のままであったが、 二本松城 によった国詮の子・ 満泰 は『 満済准后日記 』に「二本松。畠山修理と号す」と記されるなど、中央においては奥州在地の一 国人 として扱われるようになってしまった。
寛正 元年(1460)の 足利義政 御内書でも「二本松七郎」となっており、 永正 11年(1514)成立の『余目氏旧記』にも「二本松殿」と記されているのでこの頃に苗字を二本松としたようである。
二本松氏は 戦国時代 に入っても勢力を盛り返すことができず、周囲の 伊達氏 や 蘆名氏 などの有力な 国人 に圧迫され、第10代当主・ 義国 の頃には、古記録に「二本松畠山家、次第に衰微して、ようやく安達半郡、安積半郡を知行せられ、この節、 会津 の 蘆名盛氏 の武威輝かしかば、彼の風下にぞ属せられける」と記されるほどになっていた。
そして 天正 13年(1585)10月、義国の子・ 義継 は 伊達輝宗 拉致事件(粟之巣の変事)を起こして 伊達政宗 に殺され、天正14年(1586)7月、二本松城は無血開城する。
この時、 蘆名氏 を頼った息子の 義綱 も同氏が政宗に滅ぼされた際には、 蘆名義広 に同行して 佐竹氏 の下に逃れたが、 常陸国 江戸崎で義広に殺害され、二本松氏は滅亡した。『続群書類従』所載の「二本松系図」によれば、義綱には遺児があった( 満重 )というが、その詳細は不明である。
また、二本松氏は第 4 代満泰以来 時宗 に深く帰依しており、17世 暉幽 ・20世 一峰 ・25世 仏天 ・28世 遍円 ・20世 体光 と五人の遊行上人を輩出している。
*「足利 義純 ・ 畠山 義純」 (あしかが よしずみ / はたけやま よしずみ)は、 鎌倉時代 初期の 足利 一族の 武将 。源姓 畠山氏 ・ 岩松氏 の祖。
義兼の庶長子であるが、 遊女 の子であったとも伝えられ、大伯父の 新田義重 に 新田荘 で養育されたという。
畠山重忠 が 元久 2年(1205)6月の 畠山重忠の乱 で 北条氏 の手により滅ぼされると、義純は重忠の未亡人( 北条時政 の娘)と婚姻し、重忠の旧領と 畠山 の名跡を継承した。
異説として時政女を所生とする畠山重忠の娘と婚姻したとも考えられている。義純は元々従兄弟の 新田義兼 の娘来王姫と結婚しており、子時兼・時朝らを儲けていたが 、妻子と 義絶 しての継承であった。
ただし、義純の生涯については不明な点も多く、来王姫も畠山重忠の乱以前に既に死去していた可能性もある。
また、新田氏からも畠山氏(正確には重忠の未亡人。また、異説として時政女を所生とする畠山重忠の娘)からも義純に所領が継承された形跡はなく、岩松時兼・田中時朝・畠山泰国のいずれもが母方から直接所領を継承して各々の家の祖となったもので、義純を岩松氏や源姓畠山氏の祖とするのは正しくないとする指摘もある [2] 。さらに岩松氏の所領の中に畠山重忠の旧領由来と思われる武蔵国大里郡の所領が含まれているとの指摘がある。
「歴史の回想・応永の乱」落城。 … 2024年11月28日
「歴史の回想・応永の乱」反義満派の反撃… 2024年11月28日
「歴史の回想・応永の乱」南北朝合一後。… 2024年11月28日