歴史の回想のブログ川村一彦

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2024年08月01日
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カテゴリ: 明治維新





1、 「はじめに」・・・・・・・・・・・・・・


2、 「西園寺公望の出自」・・・・・・・・・・


3、 「生い立ち」・・・・・・・・・・・・・・


4、 「幕末時代」・・・・・・・・・・・・・・


5、 「フランス留学時代」・・・・・・・・・・


6、 「明治維新後」・・・・・・・・・・・・・


7、 「留学後の活動」・・・・・・・・・・・


8、 「伊藤博文の腹心」・・・・・・・・・・


9、 「政友会総裁」・・・・・・・・・・・・


10,「桂園時代と大正政変」・・・・・・・・


11,「元老の一人」・・・・・・・・・・・・


12,「最後の元老」・・・・・・・・・・・・


13,「憲政の常道」・・・・・・・・・・・・


14,「満州某重大事件」・・・・・・・・・・


15,「民政党内閣期」・・・・・・・・・・・・


16,「政党内閣の終焉」・・・・・・・・・・・


17,「揺らぐ権威」・・・・・・・・・・・・・


18,「二・二六事件」・・・・・・・・・・・・


19,「元老の退場」・・・・・・・・・・・・・


20、「最期」・・・・・・・・・・・・・・・・


21,「著者紹介」・・・・・・・・・・・・・・










1「はじめに」


西園寺公望(1849 1940)


近代の政治家、 元老 嘉永 2年10月23日、京都の公家、徳大寺公純の 次男 として生まれる。兄実則は長く内大臣、侍従長として明治天皇に近侍、弟友純は住友家を継ぐ。幼名美丸、3歳ごろ公望を称す。号は陶庵。4歳のとき 西園寺 家を継ぐ。孝明天皇に近侍。 王政復古 の際 参与 、その識見は岩倉具視をして賞賛せしめた。1868年(明治1)山陰道鎮撫総督となり諸藩を朝廷に帰順させ、のち北国鎮撫使、会津征討越後口大参謀などとして北陸、会津の戦争に参加した。1871年より フランス 留学 、ソルボンヌ大学に入り、法学者アコラスに師事し、クレマンソーや 中江兆民 らと交遊、自由 思想 を身につけ1880年帰国。壱八八壱年兆民らと『 東洋自由新聞 』を創刊、社長となり自由民権運動の一翼を担ったが、勅命により退職した。翌1882年 伊藤博文 の憲法調査に随行渡欧、皇室制度の調査にあたる。帰国後1884年侯爵、1885年オーストリア公使、1887年ドイツ公使兼ベルギー公使。1891年帰国し賞勲局総裁、1893年法典調査会副総裁、同年貴族院副議長、1894年枢密顧問官、賞勲局総裁。同年第二次伊藤博文内閣の 文相 、のち外相を兼ね、1898年第三次伊藤内閣の文相、1900年(明治33)10月 枢密院議長 となる。同年伊藤の 立憲政友会 創立に尽力し、10月第四次伊藤内閣成立時は首相病気のため首相臨時代理、伊藤の辞表提出後も臨時代理兼 首相、ついで伊藤から後継首班に推されたが謝絶。1903年7月伊藤が枢密院議長となると第2代政友会総裁となり、松田正久、原敬の補佐を受け、動揺する政友会の復興に努力し、ポーツマス講和条約には全国的反対に抗して賛意を表した。1906年1月と1911年8月に 桂太郎 内閣の後を受け 西園寺内閣 組織 し、いわゆる桂園 ( けいえん ) 時代を現出した。憲政擁護運動では天皇より政友会鎮撫の沙汰を受けたが成功せず、責任を感じて総裁辞任。事後復職を求められたが謝絶し、1914年(大正3)原敬を総裁に推した。総裁、首相としての西園寺は、やや党内事情に暗く、また指導力、決断力においても欠けるところがあり、門地、声望と松田正久、原敬の補佐により任務を遂行したといえよう。以後は元老の一員となり、1919年 パリ講和会議 の全権として渡欧したが、目だった活動はなかった。


 1920年公爵。山県有朋、ついで松方正義の死去により、最後の元老として後継首班奏請の全権を握った。要人が西園寺の意向を打診するため訪れた、いわゆる「西園寺(興津詣 ( もう ) で」は有名。この間1924年の護憲三派内閣以後1932年(昭和7)までいわゆる「憲政の常道」の慣行をつくり、政党内閣の黄金時代を維持した。しかし政党の権威はしだいに失墜し、五・一五事件以後 軍部 の進出に対してもその横暴を断固抑えるのではなく、一時の変調とみなし、 斎藤実 、ついでを首相としてファッショ化の波を抑え、政党内閣の復活を図ろうとしたが成功せず、逆に軍部や右翼によって宮中グループの隠然たる大御所と目された。また近衛文麿や木戸幸一 ( きどこういち ) らに希望を託したが成功せず、後継首班推薦の方式もしだいに内大臣を中心とした 重臣 との協議に切り換え、ファッショ化を憂いつつ92歳の高齢をもって昭和15年11月24日、興津の別邸で死去、国葬をもって遇せられた。娘のしん子に養嗣子として迎えた毛利家の八郎が後を継いだ。西園寺は高雅な文化人として、また桂太郎と対比して脱俗の人として知られた。静岡県興津の坐漁荘は明治村に、京都の清風荘は京都大学の管理下にある。









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最終更新日  2024年08月01日 05時34分34秒
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