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20、「最期」・・・・・・・・・・・・・・・・
21,「著者紹介」・・・・・・・・・・・・・・
1「はじめに」
西園寺公望(1849 ― 1940)
近代の政治家、 元老 。 嘉永 2年10月23日、京都の公家、徳大寺公純の 次男 として生まれる。兄実則は長く内大臣、侍従長として明治天皇に近侍、弟友純は住友家を継ぐ。幼名美丸、3歳ごろ公望を称す。号は陶庵。4歳のとき 西園寺 家を継ぐ。孝明天皇に近侍。 王政復古 の際 参与 、その識見は岩倉具視をして賞賛せしめた。1868年(明治1)山陰道鎮撫総督となり諸藩を朝廷に帰順させ、のち北国鎮撫使、会津征討越後口大参謀などとして北陸、会津の戦争に参加した。1871年より フランス に 留学 、ソルボンヌ大学に入り、法学者アコラスに師事し、クレマンソーや 中江兆民 らと交遊、自由 思想 を身につけ1880年帰国。壱八八壱年兆民らと『 東洋自由新聞 』を創刊、社長となり自由民権運動の一翼を担ったが、勅命により退職した。翌1882年 伊藤博文 の憲法調査に随行渡欧、皇室制度の調査にあたる。帰国後1884年侯爵、1885年オーストリア公使、1887年ドイツ公使兼ベルギー公使。1891年帰国し賞勲局総裁、1893年法典調査会副総裁、同年貴族院副議長、1894年枢密顧問官、賞勲局総裁。同年第二次伊藤博文内閣の 文相 、のち外相を兼ね、1898年第三次伊藤内閣の文相、1900年(明治33)10月 枢密院議長 となる。同年伊藤の 立憲政友会 創立に尽力し、10月第四次伊藤内閣成立時は首相病気のため首相臨時代理、伊藤の辞表提出後も臨時代理兼 任 首相、ついで伊藤から後継首班に推されたが謝絶。1903年7月伊藤が枢密院議長となると第2代政友会総裁となり、松田正久、原敬の補佐を受け、動揺する政友会の復興に努力し、ポーツマス講和条約には全国的反対に抗して賛意を表した。1906年1月と1911年8月に 桂太郎 内閣の後を受け 西園寺内閣 を 組織 し、いわゆる桂園 ( けいえん ) 時代を現出した。憲政擁護運動では天皇より政友会鎮撫の沙汰を受けたが成功せず、責任を感じて総裁辞任。事後復職を求められたが謝絶し、1914年(大正3)原敬を総裁に推した。総裁、首相としての西園寺は、やや党内事情に暗く、また指導力、決断力においても欠けるところがあり、門地、声望と松田正久、原敬の補佐により任務を遂行したといえよう。以後は元老の一員となり、1919年 パリ講和会議 の全権として渡欧したが、目だった活動はなかった。
1920年公爵。山県有朋、ついで松方正義の死去により、最後の元老として後継首班奏請の全権を握った。要人が西園寺の意向を打診するため訪れた、いわゆる「西園寺(興津詣 ( もう ) で」は有名。この間1924年の護憲三派内閣以後1932年(昭和7)までいわゆる「憲政の常道」の慣行をつくり、政党内閣の黄金時代を維持した。しかし政党の権威はしだいに失墜し、五・一五事件以後 軍部 の進出に対してもその横暴を断固抑えるのではなく、一時の変調とみなし、 斎藤実 、ついでを首相としてファッショ化の波を抑え、政党内閣の復活を図ろうとしたが成功せず、逆に軍部や右翼によって宮中グループの隠然たる大御所と目された。また近衛文麿や木戸幸一 ( きどこういち ) らに希望を託したが成功せず、後継首班推薦の方式もしだいに内大臣を中心とした 重臣 との協議に切り換え、ファッショ化を憂いつつ92歳の高齢をもって昭和15年11月24日、興津の別邸で死去、国葬をもって遇せられた。娘のしん子に養嗣子として迎えた毛利家の八郎が後を継いだ。西園寺は高雅な文化人として、また桂太郎と対比して脱俗の人として知られた。静岡県興津の坐漁荘は明治村に、京都の清風荘は京都大学の管理下にある。
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