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は、
池田恒興
の代に織田家重臣となり
清洲会議
に出席し、その子
池田輝政
は
徳川家康
の愛娘
督姫
を後妻にし松平姓を許され、一族で播磨、備前、淡路、因幡に計100万石近い諸藩を有し「播磨宰相」「姫路宰相」「西国将軍」などと称された。
複数の分家(支藩)が改易になったが、他の分家である 備前国 岡山藩 、 因幡国 鳥取藩 は 明治時代 まで続き、子孫は侯爵に列せられた。
「池田 恒興」 (いけだ つねおき)は、 戦国時代 から 安土桃山時代 にかけての 武将 、 大名 。 清洲会議 に出席した 4 人の織田家重臣の一人。 池田恒利 の子。子に 元助 、 輝政 など。
尾張 犬山城 主、 摂津 兵庫城 主、 美濃 大垣城 主。 通称 は 勝三郎 。紀伊守を自称、晩年に入道し 勝入 と号した。 諱 を信輝としている 軍記物 もあるが、信頼できる同時代史料には見当たらない。
天文 5年( 1536 年 )、尾張織田氏家臣・池田恒利の子として誕生。母は 養徳院 。出身地は 尾張国 ・ 美濃国 ・ 摂津国 [3] ・ 近江国 など諸説あるが、『信長公記』に恒興の与力として尾張国 海東郡 一色村の者がおり、その付近が有力である。
父の恒利は早くに死去したとされる。母の養徳院は 織田信長 の乳母であり、後に信長の父の 織田信秀 の側室となっている。
幼少の頃から 小姓 として織田氏に仕え、 桶狭間の戦い 、美濃攻略 [5] などで戦い、 元亀 元年( 1570 年 )の 姉川の戦い で活躍し、 犬山城 主となり 1 万貫を与えられた。
以後も 比叡山焼き討ち 、 長島一向一揆 、 槙島城の戦い などに参陣、天正2年( 1574 年 )には 武田勝頼 に奪われた 明智城 の押さえとして、東濃の 小里城 に入った。
恒興はそのまま 織田信忠 の付属であったが、天正8年( 1580 年 )に、信長に抵抗し摂津 花隈城 に籠もる 荒木村重 を破り( 花隈城の戦い )、その旧領を領した。
天正10年( 1582 年 )3月、織田・徳川連合軍による 甲州征伐 では二人の息子を出陣させ、本人は摂津の留守を守るよう信長から命令された [5] 。
同年 6 月 2 日 、 本能寺の変 にて信長が家臣の 明智光秀 に討たれると、 中国攻め から引き返した 羽柴秀吉 に合流し、 山崎の戦い では兵5000を率いて右翼先鋒を務めて光秀を破り、織田家の宿老に列した。
織田家の後継を巡る 清洲会議 では、 柴田勝家 らに対抗して、秀吉・ 丹羽長秀 と共に信長嫡孫の三法師( 織田秀信 )を擁立し、領地の再分配では摂津国の内 大坂 ・ 尼崎 ・ 兵庫 において12万石を領有した。
翌天正11年( 1583 年 )の 賤ヶ岳の戦い には参戦していないが、美濃国内にて13万石を拝領し 大垣城 に入り、 岐阜城 に池田元助が入った。
天正12年( 1584 年 )、 徳川家康 ・ 織田信雄 との 小牧・長久手の戦い では、去就が注目されたが結局は秀吉方として参戦した。勝利が成った際には尾張 1 国を約束されていたという。
緒戦で犬山城を攻略した後、途中で 上条城 に立ち寄り、 三好信吉 ・ 森長可 (恒興の婿)・ 堀秀政 と共に家康の本拠 三河国 を攻めようとしたが、合戦の前半で鞍に銃弾を受け落馬したことが災いとなり、長久手(勝入塚)にて長可と共に戦死。戦死の状況は、 永井直勝 の槍を受けてのものだといわれている。
享年 49。嫡男の元助も共に討ち死にしたため、 家督 は次男の 輝政 が相続した。
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