歴史の回想のブログ川村一彦

歴史の回想のブログ川村一彦

PR

プロフィール

歴史の回想・川村一彦

歴史の回想・川村一彦

カレンダー

コメント新着

キーワードサーチ

▼キーワード検索

2024年10月31日
XML
カテゴリ: 戦国




〇「清水 宗治」 (しみず むねはる)は、戦国時代の武将。備中高松城主。三村氏、毛利氏に仕えた。三村氏の有力配下・石川久智の娘婿となった。


天文6年(1537年)、備中国賀陽郡清水村(現在の岡山県総社市井手)に生まれる(誕生月日は不詳)。幼名は才太郎といった。


備中国の一豪族の家臣の身分で備中清水城の城主を務め、のちに備中高松城の城主となる。この経緯については諸説あるが、一般的には天正の備中兵乱の際、三村氏譜代・石川氏の娘婿・重臣の立場にでありながら毛利氏に加担し、高松城主の地位を得たとされる。


この備中兵乱は文字通り備中一円を舞台とした三村氏対毛利氏の一大戦で、三村氏家臣の立場でありながら毛利方についた者は他にもおり、状況判断の問題であった(三村親成など三村姓を名乗る三村一門でさえ、毛利方についた者がいる)。


また、永禄8年(1565年)に三村氏譜代の石川氏を裏切って高松城を奪取し、直接毛利氏に臣従して城主となったとの説もあるが、当時の毛利氏は備中を三村氏に任せる間接支配の体制を採っていたため、この説は信じ難い(備中方の資料にあたっても挙証に足るものはない)。


いずれにせよ、毛利氏の家臣となって以後は小早川隆景の配下として毛利氏の中国路の平定に従軍し、忠誠心厚く精励し、隆景をはじめとする毛利氏の首脳陣から深く信頼された。


天正10年(1582年)4月、統一政策を進める織田信長の家臣・羽柴秀吉が中国攻めを行うと、宗治は高松城に籠城して抗戦する(備中高松城の戦い)。秀吉は降伏すれば備中・備後2カ国を与えるという条件を出したが、宗治は応じず、信長からの誓詞をそのまま主君・毛利輝元のもとに届けて忠義を示した。


そのため、黒田孝高が策した水攻めにあって城は落城寸前に追い込まれたが、輝元自らが吉川元春・小早川隆景とともに救援に赴いたため、戦線は膠着状態となった。


この水攻めの最中の6月2日に京都で本能寺の変が起こって信長が死去し、その報を知った秀吉は信長の死を伏せて、宗治の命を条件に城兵を助命する講和を呼びかけた。


結局、宗治は信長の死を知らぬまま、その2日後の6月4日に兄の清水宗知(月清入道)、弟の難波宗忠(伝兵衛)、援将の末近信賀らとともに水上の舟において切腹した。享年46。辞世は「浮世をば 今こそ渡れ 武士()の 名を高松の 苔に残して」。


墓所は山口県光市の清鏡寺にある。



備中高松城の戦いは 忍城の戦い、太田城 ( 紀伊国 ) の戦い、ととも日本三大水攻めのひとつに数えられる



〇「忍城の戦い」 (おしじょうのたたかい)は、成田氏の本拠である武蔵国の忍城(後の埼玉県行田市)を巡って発生した戦いである。


この城を巡っては、忍氏との文明年間(1469年から1487年。または延徳元年(1489年))の戦い、古河公方・足利政氏との享禄年間頃(1531年以前)の戦い、関東地方において勢力を拡大しつつあった後北条氏と関東管領・上杉氏との対立抗争に伴い発生した天文22年(1553年)と永禄2年(1559年)の戦い、豊臣秀吉の小田原征伐に伴い発生した天正18年(1590年)の戦いなど、数度にわたって攻城戦が繰り広げられたが、本項目では、天正18年(1590年)6月16日から7月16日にかけて行われた戦いについて詳述する。


忍城の水攻めは備中高松城の戦い、太田城 ( 紀伊国 ) の戦いととも日本三大水攻めのひとつに数えられる。


成田氏代々の居城であった忍城はその周囲に元荒川・星川が流れていて自然の堀をなし、関東七名城の一つに数えられていた。豊臣秀吉は四国征伐や九州征伐で長宗我部氏や島津氏を配下とすると、天下統一に向け今度は関東平野に広大な領土を獲得していた後北条氏に目を付けた。


秀吉は徳川家康を介して上洛を促すが北条氏政は拒否し、小田原攻めが決定した。この報を聞いて成田氏当主・成田氏長と成田泰親は小田原城に籠城していたため、忍城には成田泰季と成田長親、甲斐姫らが籠城することになった。


水攻め前


豊臣軍は館林城・忍城を攻略するために、6月5日頃に石田三成・大谷吉継・長束正家を派遣した。6月4日に三成は館林から忍へ移動し、城の大宮口に本営を設け攻撃をしたが、城の守りが固く容易に陥らなかった。


当初は6月8日頃に前田利家・上杉景勝・真田昌幸ら北国勢と、浅野長政や木村重茲・徳川勢の浅野隊が合流し、彼ら主導で忍城攻撃が行われたが、忍城は沼や河川を堀として効果的に利用した堅城であり、豊臣軍は攻めあぐねた。6月12日に秀吉から石田三成に水攻めをするように指示があり、翌13日、北国勢と浅野隊は離脱し鉢形城攻めに向かった。石田は浅野長政と木村重茲両名に、忍城攻撃の指図を仰いでいる。


鉢形城は6月14日に降伏開城し、浅野長政と真田昌幸は忍城包囲軍に戻った。


6月17日に三成は丸墓山古墳に陣を構え、大谷吉継・長束正家・直江兼続・佐竹義宣・宇都宮国綱など配下の軍勢により忍城を包囲した


水攻め


豊臣方の石田三成は、城攻めが上手くいかないので、近くの小山に登り地形を鳥瞰して研究し、備中高松城の戦いに倣って水攻めにしようと考え付いた、と『関八州古戦録』や『成田記』には記されている。実際には三成が水攻めに批判的で、もっと積極的な攻撃が必要とする書状を6月12日に送ったのに対し、秀吉が改めて、三成に水攻めの注意点を事細かに指示した書状を送っている。


これらの同時代史料から見る限り、水攻めを主導したのは秀吉であって、三成ではない。すなわち、秀吉は完全なる殲滅戦を意図しておらず、終始水攻めを命じ、三成はそれを実行していたに過ぎない。


さらに、6月13日に三成が浅野長政と木村重茲に出した書状を見ると、三成は具体的な戦術については、浅野の指示をたびたび仰いでいるという事実が確認される。具体的な方策として、三成は城を中心に南方に半円形の堤防を築くことにした。近辺の農民などに昼は米一升に永楽銭六十文、夜は米一升に永楽銭百文を与え昼夜を問わず工事を行い、4 ~ 5日という短期間で堤防を築いた。全長28キロメートルにもなる石田堤と呼ばれる堤防を築き、利根川の水を利用した水攻めが始まった。ところが予想に反して本丸が沈まず、まるで浮いているかの様に見えたことから 忍の浮き城 と呼ばれた。


6月18日、降り続いた豪雨の影響で本丸まで水没しそうになったが、これを防ぐ為に下忍口守備の本庄泰展は配下の脇本利助、坂本兵衛らを堤防破壊に向かわせた。二人は夜半に城を抜け出し、堤防を2箇所破壊、これにより大雨で溜まりに溜まった水が溢れ出し、豊臣軍約270人が死亡、これにより水の抜けた忍城周辺は泥沼の様になり、馬の蹄さえ立たない状況になった。


援軍の到着と総攻撃


7月はじめには浅野長政らが、7月6日頃には上杉景勝・前田利家らが攻城軍に加わったが、それでも忍城は落城しなかった。なお攻城戦終盤や戦後処理では石田三成ではなく、浅野長政が主導的な役割を果たしていくことになる。


開城


7月5日、小田原城が降伏・開城し後北条氏は滅亡、他の北条方の支城もことごとく落とされ、未落城の城は忍城のみとなっていた。成田氏長が秀吉の求めに応じて城兵に降伏をすすめたので、遂に7月16日、忍城は開城した。この戦いは軍記物では三成の築城が強調され、「石田堤」の呼称とともに攻防戦の「歴史像」を形成していったと言えると評価されている。


〇水攻めの最中に主君である 織田信長が明智光秀に討たれる本能寺の変が起きた


本能寺の変 (ほんのうじのへん)とは天正10年6月2日(1582年6月21日)早朝、京都本能寺に滞在中の織田信長を家臣・明智光秀が謀反を起こして襲撃した事件である。


信長は寝込みを襲われ、包囲されたのを悟ると、寺に火を放ち自害して果てた。信長の嫡男で織田家当主信忠は、宿泊していた妙覚寺から二条御新造に移って抗戦したが、まもなく火を放って自刃した。これにより織田政権の中心人物が失われ、6月13日の山崎の戦いで光秀を破った羽柴秀吉が豊臣政権を構築していく契機となった。


天正10年(1582年)3月11日に武田勝頼・信勝親子を天目山に追い詰めて自害させた織田信長は、3月27日、2日に名城・高遠城を攻略した信忠に、褒美と共に「天下支配の権も譲ろう」との言葉も贈って褒め称えた。信長は甲府より返礼に来た信忠を諏訪に残して軍勢を現地解散すると、僅かな供廻りだけをつれて甲斐から東海道に至る道を富士山麓を眺めながら悠々と帰国の途に就いた。4月3日には新府城の焼け跡を見物。かつての敵、信玄の居館・躑躅ヶ崎館跡の上に建てられた仮御殿にしばらく滞在し、4月10日に甲府を出立した ] 。長年の宿敵を倒し、立派な後継者の目途もついて、信長にとって大変満足な凱旋となった。


天下を展望すると、東北地方においては、伊達氏・最上氏・蘆名氏といった主な大名が信長に恭順する姿勢を見せており、関東では後北条氏がすでに天正8年(1580年)には同盟の傘下に入っていて、佐竹氏とも以前より外交関係があったので、東国で表だって信長に逆らうのは北陸の上杉氏を残すのみとなった。北条氏政・氏直親子は甲州に共同で出陣する約束をしていたが、戸倉城を攻略した後は何ら貢献できなかったので、3月21日に酒・白鳥徳利を、26日には諏訪に米俵千俵を献じ、4月2日には雉500羽、4日には馬13頭と鷹3羽と、短期間で立て続けに献上品を送って誼を厚くしようとした。


しかし、この時の馬と鷹はどれも信長が気に入らずに返却されている。他方で、信長は長年の同盟者である徳川家康には駿河1国を贈ったが、家康は領国を通過する信長一行を万全の配慮で接待し、下士に至るまで手厚くもてなしたので、信長を大いに感心させた。これら信長の同盟者はもはや次の標的とされるよりもその威に服して従属するという姿勢を鮮明にしていた。


西に目を転じると、中国地方では、毛利氏との争いが続き ] 、四国でも長宗我部氏が信長の指図を拒否したことから交戦状態に入った ] (詳細は後述)が、九州においては大友氏と信長は友好関係にあり、島津氏とも外交が持たれていて、前年6月には准三宮近衛前久を仲介者として両氏を和睦させたことで、島津義久より貢物を受けている。


信長は天正9年(1581年)8月13日、「信長自ら出陣し、東西の軍勢がぶつかって合戦を遂げ、西国勢をことごとく討ち果たし、日本全国残るところなく信長の支配下に置く決意である」と、その意向を繰り返し表明していたが、上月城での攻防の際は重臣が反対し、鳥取城攻めの際には出陣の機会がなかった。その間に伊賀平定を終えて(高野山を除く)京都を中心とした畿内全域を完全に掌握したことから、次こそ第3次信長包囲網を打倒し、西国最大の大名である毛利氏を討つという意気込みを持っていた。


「甲州征伐」、「清洲同盟」、「甲越同盟」、および「中国攻め」も参照


他方で信長は、天正6年(1578年)4月9日に右大臣・右近衛大将の官位を辞して ] 以来、無官・散位のままであった。正親町天皇とは誠仁親王への譲位を巡って意見を異にし、天正9年3月に信長は譲位を条件として左大臣の受諾を一旦は了承したが、天皇が金神を理由に譲位を中止したことで、信長の任官の話もそのまま宙に浮いていたからである。そこで朝廷は、甲州征伐の戦勝を機に祝賀の勅使として勧修寺晴豊(誠仁親王の義兄)を下し、晴豊は信長が凱旋した2日後の天正10年4月23日に安土に到着した。『晴豊公記』によれば、4月25日に信長を太政大臣か関白か征夷大将軍かに推挙するという、いわゆる「三職推任」を打診し、5月4日には誠仁親王の親書を添えた2度目の勅使が訪問したと云う。


2度の勅使に困惑した信長が、森成利(蘭丸)を晴豊のもとに遣わせて朝廷の意向を伺わせると、「信長を将軍に推任したいという勅使だ」と晴豊は答えた。しかし信長は、6日、7日と勅使を饗応したが、この件について返答をしなかった。そのうちに、5月17日、備中より待ちわびていた羽柴秀吉からの出馬要請が届いた。これを受けて信長は出陣を決意し、三職推任の問題はうやむやのまま、本能寺で受難することになった。(続き)



その報を聞いた秀吉はただちに毛利方と和睦を結んで、城主清水宗治の切腹を見届けた後、明智光秀を討つために軍を姫路へ引き返した。



戦いの経緯






お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう

最終更新日  2024年10月31日 06時02分05秒
コメント(0) | コメントを書く


【毎日開催】
15記事にいいね!で1ポイント
10秒滞在
いいね! -- / --
おめでとうございます!
ミッションを達成しました。
※「ポイントを獲得する」ボタンを押すと広告が表示されます。
x
X

© Rakuten Group, Inc.
X
Design a Mobile Website
スマートフォン版を閲覧 | PC版を閲覧
Share by: