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12「景虎の攻勢と周囲の加勢
」
Ø 工作によって諸将の旗幟が鮮明になってきた5月13日、景虎が三の丸から退去して同日のうちに御館に移り、籠城して 北条氏政 に救援を要請する一方で、配下に命じて春日山城下に放火を行うなど撹乱戦術を展開した。17日には約6000の兵で春日山城を攻め立てたが、撃退された。
Ø 景虎方は体勢を立て直し、22日にも再び春日山城を攻めたが、結果は変わらなかった。この頃になると、他方面でも景勝方・景虎方の交戦が展開されていった。中でも上野では北条高広・景広父子が中心となり、 三国峠 を守る宮野城目指して進軍を開始した。
Ø この方面では景勝方はよく持ちこたえたものの景勝には援軍を送る余裕はなく、景虎方は後詰めを得られなかった景勝方の宮野・小川等の城をことごとく奪い、小田原の北条勢を越後へ引き入れる態勢を作り上げたのである。
Ø ところが、氏政・氏照ら北条軍主力は、折しも 鬼怒川 河畔において 佐竹 ・ 宇都宮 連合軍と交戦中であり、遠方の越後に向けて早急に救援軍を派遣できる状況では無かったので、当面の策として同盟国の 武田勝頼 に景虎への助勢を要請した。
Ø これを受けて勝頼は、5月下旬に 武田信豊 を先鋒とする2万の大軍を 信濃 経由で越後に送り込み、5月29日頃に信越国境付近に到着した。
武田 信豊 (たけだ のぶとよ)は、 戦国時代 の 武将 。 甲斐武田氏 の親族衆で庶流の吉田氏を継いだ 武田信繁 の次男。
信豊は 武田信玄 の甥で、 武田勝頼 の従弟に当たる。父・信繁が 第 4 次川中島の戦い で戦死し、望月家に養子に入っていた兄・義勝( 望月信頼 )も父の死の直後に早世したため、信豊が跡を継ぐ。『甲陽軍鑑』に拠れば幼名は「長老」、 諱 は当初は「信元」で後に「信豊」に改名したとされるが確認されない。正室は西上野の 国衆 ・ 小幡憲重 の娘。
出生から家督相続 [ 編集 ]
天文18年( 1549 年 )、武田氏の当主・武田信玄の実弟である信繁の次男として生まれる。母は不詳であるが法名が「養周院日藤尼」で、天正10年(1582年)3月16日に信豊とともに信濃 小諸城 で自害している。信豊の生年は『 当代記 』に記される「享年34」より逆算 。
系図類に拠れば信繁には3人の男子があるが、長兄の 信頼 は『高野山引導院過去帳』に拠れば天文16年( 1547 年 )出生で、 信濃国 佐久郡 の 国衆 ・ 望月氏 を継承し「望月三郎」を称した。
このため、信豊は早くから信繁の嫡男として扱われており、生母が信繁の正室であったとも考えられている。『武田源氏一統系図』によれば信頼は永禄7年( 1564 年 )に病死しており、望月氏は弟の 信永 (実名を「義勝」とする史料もあるが未詳)が継承し、信永は天正3年(1575年)の長篠の戦いで戦死している 。信永の戦死後は信豊の娘婿が望月氏を継承する。
永禄元年(1558年)には信豊にあたる「長老」に対して「武田信繁家訓」を授けている。これは九十九か条の 家訓 で、『 群書類従 』巻403に収録されている。
『群書類従』では「信玄家法下」と呼称されているが、これは甲府の 長禅寺 二世・龍山子( 春国光新 )による序文の位置の誤りから生じた呼称とされ、現在では古写本の堀田本に基づき「武田信繁家訓」と称されている。
永禄 4年( 1561 年 )9月、 第 4 次川中島の戦い において父の信繁が戦死し、信豊は後を継いで親族衆に列する。
『甲陽軍鑑』に拠れば信豊は200騎を指揮したという。『 甲陽軍鑑 』によれば信豊は武田家臣団において親族衆の 穴山信君 とともに勝頼を補佐する立場にあったという。
信玄期の活動
永禄10年( 1567 年 )8月、武田家では信玄の嫡男である 義信 が廃嫡される義信事件が起こる。これに際して家臣団の動揺を統制するため行われた 生島足島神社 への 起請文 があり(下之郷起請文)、「六郎次郎」の 仮名 が見られ、これが信豊の初見文書となっている。この時点で信豊は信濃諏訪衆を同心としている。なお、親族衆では信豊と叔父にあたる 信廉 のみが起請文を提出している。
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