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2024年11月26日
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カテゴリ: 古代史




〇「城柵」 (じょうさく)は、7世紀から11世紀までの古代日本において大和朝廷(ヤマト王権、中央政権)が、本州北東部を征服する事業の拠点として築いた施設である。城柵は朝廷が蝦夷の居住地域に支配を及ぼすための拠点となる官衙であると同時に、柵戸と呼ばれる住民を付随する施設でもあり、兵を駐屯させる軍事的拠点でもあるという複合的な性格を有していた。


現代の歴史学では特に東北地方及び新潟県(陸奥国、出羽国、越後国)に置かれた政治行政機能を併せ持つものに限って言うことが多い。城柵は軍事拠点としての性格を有する一方で、中国地方や九州地方に築かれた古代山城と比べると防備が弱く、官衙としての性格が強いのが特徴である。


なお、前九年の役、後三年の役で安倍氏や清原氏が軍事拠点として設置した柵(沼柵、金沢柵、贄柵など)は成り立ちや性格が異なるので、一般的にはここで言う「城柵」に含めない。


城柵は朝廷が本州北東部に支配域を拡げていく中で、その拠点として造営した施設である。20世紀半ばまでは蝦夷との戦争に備えた軍事施設として、城柵を最前線の砦と見る説が強かったが、1960年代以降の発掘調査で城柵に官衙が置かれていたことがはっきりすると、軍事・防衛機能を専一とする旧来のイメージは次第に改められていった。


特に発掘調査の進展は、城柵の重要な構成要素が政庁を中心とした官衙であることを示している。しかし、城柵には軍団兵や鎮兵などの軍事力が常駐していたのも事実であり、官衙のみを重視する一面的な理解もまた適切でない。城柵の性格について政治的拠点と軍事的拠点のどちらを重視すべきかについての議論はあるにせよ、城柵とは律令国家の北方経営において軍政・民政の両面を執行した行政機関であり、西国の古代山城とはその性質を異にする。


一方、発掘調査の進展により、多賀城に代表されるような方形の外郭を持つ官衙的な城柵だけがその全てではないことも明らかになりつつあり、従来の官衙対軍事施設とは異なる別の視座からの対立軸を見出すこともできる。


すなわち、形成史上は多賀城、胆沢城、城輪柵跡などに代表される王権の出先機関として築かれた官衙的な城柵及びその発展形の城柵と、桃生城や伊治城といった移民が集住する拠点であった囲郭集落に起源を持つとみられる城柵という 2 つの流れを見ることもできるのである。



城柵をめぐる人びと


城柵と公民(柵戸)


律令国家では基本的に郡(大宝律令以前は評を用いた)を基本単位とする国郡制によって地域を支配した。しかし、現在の東北地方北部にあたる蝦夷の居住地域では国郡制が及んでおらず、城柵はこれらの地域に朝廷による支配を及ぼしていくために造営された。


城柵の多くが国郡制未施行、すなわち朝廷の支配がまだ及んでいない地域に造営されたということは、当初城柵の周囲にそれを維持するための経済的な背景が乏しかったことを意味する。したがって通常は城柵の設置と前後してその地域に郡を置き、他地域から柵戸と呼ばれる移民を集住させて、城柵を維持するための人的・物的な基盤とした。


柵戸の移住は城柵の中でも初期に設置された渟足柵、磐舟柵において既に行われており、以降も踏襲され城柵設置時の基本政策となった。郡の設置は朝廷の支配域を城柵という「点」から、「面」に拡げるものであり、柵戸の存在は城柵の維持にとって政策上一体不可分の関係であったと言える。


移民である柵戸は城柵の周辺に出身地域ごとに居住地を定められ、周辺を開墾したとみられている。それを示すように、古代東北の郷名には坂東と共通するものがみられる。同様に越後においても、渟足柵・磐舟柵の周辺で越前国・越中国と共通する郷名がみられた。しかし、柵戸の生活は厳しく、逃亡するものも多かった。移住後定着のために1 ~ 3年間調庸などの租税を免除されたが、その後は公民として租庸調、兵士役、雑徭、公出挙などの諸負担を負った。


一方で、城柵が必要とする物資は膨大であり、柵戸の生産力だけで負担できるものでなかった。陸奥国、出羽国が他の令制国と異なる長大な領域を持つのも、北方に支配域を拡げる上で、人的・物的資源を供給するための基盤が必要だったからであり、城柵を拠点とした朝廷による征服事業は、陸奥・出羽のみならず関東地方を中心とする東山道及び北陸道諸国にも多大な負担を強いたのである


城柵と蝦夷(俘囚)


城柵とは柵戸の拠点であるのみならず、蝦夷の支配という役割も担っていた。これもまた、他の国衙にはみられない城柵固有の役割である。朝廷と蝦夷の関係は端的に言えば朝貢関係をとるものであり、城柵を通じた蝦夷との関係は「饗給(撫慰)」、「征討」、「斥候」の3つの様態に集約された。これは、蝦夷支配のために辺遠国(辺要国とも)である陸奥・出羽・越後の3か国の国司にのみ付与された権限である。城柵をめぐる政策にとって、柵戸の移住と郡設置による「面」的な支配は一体的に遂行されたものだが、同時に城柵を拠点として個別の蝦夷集団と朝貢関係を結ぶ「点」的な支配政策もまた、継続して行われていたのである。


朝廷が本州北東部への征服事業を進める中で、蝦夷とは時に激しい対立をもたらし、最終的に「三十八年戦争」を惹起していくことになるが、その間常に対立関係にあった訳でなく、また軍事的な緊張期にあっても全ての蝦夷と対立した訳ではなかった。


したがって朝廷側に帰属を求める蝦夷の集団も少なくなかったのである。彼らは産物を貢納する見返りとして饗宴を受け、鉄器や布などの産物、あるいは食糧を得たり、朝廷の政策に協力して位階や姓を授かるなどの対価を得た。このような朝貢によるゆるやかな支配は、政治的な上下関係が規定されるものの、両者を一種の経済的な交易関係に結び付けるものであると言えた。


しかし、このような関係は流動的で、いったん利害が対立すると容易に敵対状態にも転じうる不安定なものでもあった。また、経済的な「交易」と表現したものの、両者の関係が対等でない以上、時に略奪に近いものでもあったようである。しかしながら饗給の実施は、朝廷による硬軟織り交ぜた蝦夷支配政策の「軟」の性格をあらわしたものであると言える。


なお、「俘囚」とは朝廷に帰服した蝦夷全般を指す場合もあるが、より狭義には個別に朝廷と服属する関係を結んだ蝦夷のことであり、部姓を与えられて多くは城柵の周囲に居住した。集団で朝廷に服属したものは「蝦夷」という身分として、本拠地の地名 + 「君」(あるいは「公」)の姓を得(例:伊治公呰麻呂、大墓公阿弖利爲(アテルイ)と盤具公母禮(モレ))、多くは従来からの居住地に留まった。


城柵の設置は、本州北東部における在地社会の再編ももたらしたのである。また、服属した蝦夷の軍は「 俘軍 」として、しばしば朝廷側の武力として活動したが、前述の通り朝廷と蝦夷の利害関係は流動的であったため、時に敵対する諸刃の刃ともなった。


一方、饗給の実施は、その物資を供給しなければならない諸地域にとって莫大な負担を強いるものであった。養老6年(722年 )、朝廷は饗給に用いる布を調達するため、陸奥按察使管内(石背国・石城国再併合後の陸奥国と出羽国)を対象に、調・庸を停止して、代わりに一人あたり長さ一丈三尺、幅一尺八寸の布(それまで調庸として貢納していた布の4分の1の面積)を納めさせることとした。これは両国の住民にとって調庸の負担を大幅に軽減させる民力休養策であると同時に、徴発した布は蝦夷に支給する「夷禄」として用いられた。この政策変更の背景には、養老4年(720年)に起きた蝦夷の大反乱(海道の蝦夷が反乱し、按察使の上毛野広人が殺害された。


同年には九州で隼人の反乱も起きている)が挙げられる。史上初めて蝦夷の大反乱として記録されたこの出来事は、朝廷に大きな衝撃を与え、これまで進めてきた征服事業に抜本的な見直しを迫ることとなった。すなわち、それまで中央政府が収奪してきた調庸を放棄し、新たに管内で納めさせた布を全て蝦夷への饗給に充ててまでも、支配の安定を目指したのである。


城柵に駐屯した軍事力


冒頭で記したように、城柵に対する考古学調査の進展は、その基本的な構成要素が官衙にあるとする知見をもたらした。一方で城柵が朝廷による本州北東部征服事業の拠点であり、蝦夷を支配する場としての機能も担った以上、その軍事的な性格も決して軽視できないものである。


律令国家の地方軍制は、軍団を基本とし、それは辺遠国である陸奥国(及び石城国・石背国)においても例外でなかった。軍団に務める兵士は、当該令制国内の公民の中から徴募され、同じく国内の営に配された。養老4年(720年)当時、陸奥国には名取団・丹取団の2団が、石城国には行方団が、石背国には安積団があったと推測され、4個軍団を合わせると4,000人の常備兵がいたことになる。しかしながら、軍団制は交代で勤務(番上)するものであるため、実質的な兵力はその6分の1の670人程度に過ぎなかった。


前掲の養老4年の蝦夷の大反乱は、このような従前の軍団では兵力が全く不足していたことを露呈させ、さらに按察使を介して陸奥・石城・石背の3か国を連携させるプランにも問題があることを明らかにした。したがって、軍団の兵力をより弾力的に運用できるようにするとともに、令外の全く新しい兵制として 鎮兵制 を導入し、それを統括する機関として、 鎮守府 を置くことになったのである。


鎮兵制の成立は、神亀元年(724年)頃とみられている。養老4年の蝦夷の大反乱を受けた一連の支配体制の立て直しは、 神亀元年体制 とも称され、その要旨は前掲の税制の見直しや、石城・石背国の陸奥国への再併合、鎮兵制と鎮守府の創設、黒川以北十郡の設置、玉造柵や牡鹿柵等五柵の設置と、国府と鎮守府を兼ねた陸奥国の新たな拠点としての 多賀城 造営等からなる。


多賀城は政庁による内郭と、それを取り囲む外郭という以降の城柵の基本構造(二重構造城柵)を決定づけたものであり、政庁の規格化や屋根瓦の統一など、その後各地に展開される城郭のモデルとなった。なお、設置当初の多賀城は多賀柵と称しており、城の文字が使われるのは多賀城碑が初出である。他の城柵においても、8世紀末には「城」の表記が一般化する。


鎮兵制の創設に先立つ養老6年(722年)の政策見直しでは、陸奥国の「鎮所」に穀物の献上を募っており、これは兵力の駐屯に先立って軍糧を備蓄する目的で行われたものとみられている。国内から徴兵される軍団と異なり、鎮兵は主として坂東を中心とした東国の兵士が派遣され、専門の兵士として城柵に常勤(長上)した。


東国の兵を陸奥国に常駐させる制度である鎮兵の性格は、征夷軍の常設化と言えるものであった。また、その人的な基盤を東国の兵士に求める鎮兵の性格は、九州北部に置かれた防人と類似するものである。これはまさに、朝廷が東国の軍事力を九州北部と東北で必要に応じて配置転換していたことを意味していた。


九州で防人が停止された天平2年(730年)は、陸奥で鎮兵が実施された時期にあたっている。鎮兵は天平18年(746年)、軍団を6,000人規模に拡充した際に一度全廃されたが、天平宝字元年(757年)桃生城・雄勝城の造営にあたって復活した。


天平宝字元年もまた、九州で復活させた東国防人の制度が再び停止され、九州北部の防衛を西海道出身の兵士に切り替える決定がなされている。九州ではその後東国出身者による防人は復活せず、逆に陸奥の鎮兵は「三十八年戦争」が終結する9世紀初頭まで廃止されることはなかった。鎮兵が全廃されるのは弘仁6年(815年)のことである。


石城国・石背国の2国は、養老2年(718年)に陸奥国の一部を分割して設置したものだが、その存続期間は短く、養老5年(721年)の8月から10月までの約2カ月の時期に、陸奥国に再併合されたものとみられている。


これも、養老4年の蝦夷の大反乱を受けた朝廷の政策見直しの一環として、石城・石背両国の軍団を陸奥国の有事に動員しやすくする目的で行われたと考えられており、これにより陸奥国司は自らの権限で動員できる兵力が増大した。


また、両国の再併合は多賀城造営の費用負担を求める理由もあったと思われ、多賀城創建期の瓦には磐城郡進と記されたものが見つかっている。


なお、鎮兵制の創設と軍団制度の再編により、城柵に駐屯する軍事力は、軍団と鎮兵の二本立てとなったが、前者が基幹的、後者が補完的な制度である。


このように城柵に駐屯する軍事力は朝廷の征服事業の遂行過程で次第に増強されていったが、それは在地の蝦夷社会にとって大きな脅威となっていった。






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最終更新日  2024年11月26日 06時15分44秒
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