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2024年11月26日
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カテゴリ: 古代史



〇「大伴 益立」 (おおとも の ますたて)は、奈良時代の貴族。大和守・大伴古慈悲の子。官位は正五位上・兵部大輔、贈従四位下。


淳仁朝にて蝦夷征討事業に従事し、天平宝字4年(760年)陸奥国の雄勝城と桃生柵の築城が賞され際、鎮守軍監として艱苦を顧みず再征したとして特に褒賞され従六位上から三階の昇叙を受け従五位下に叙爵される。天平宝字5年(761年)陸奥鎮守副将軍兼鎮国驍騎将軍(中衛少将)に任ぜられ、天平宝字6年(762年)陸奥介を兼ねた。


神護景雲元年(767年)正月に2階昇進して正五位下に、10月には伊治城築城の功労により正五位上に叙せられる。


のち、称徳朝後半は兵部大輔・式部大輔など一時京官を歴任する。称徳朝末の神護景雲4年(770年) 5 月に肥後守と再び地方官に転じると、宝亀2年(771年)大宰少弐に任ぜられるなど、光仁朝初頭は九州地方の地方官を務める。


宝亀6年(775年)遣唐副使に任ぜられるが、翌宝亀7年(776年)11月に遣唐大使・佐伯今毛人が唐への出発時機を逸し帰京して節刀を返上した際に、益立は遣唐判官・海上三狩と共に大宰府に留まって出発の時機を待つこととした。


この対応は世間の人々に称賛されたというが、結局同年12月には遣唐副使を解任され、小野石根・大神末足に取って代わられた。


益立は遣唐副使を解任されて間もない、宝亀8年(777年)正月に権左中弁、宝亀9年(778年)右兵衛督と京官に復帰した一方、小野石根は益立に代わって宝亀 8年(777年)に唐に渡るが、唐からの帰途で遭難し没している。


宝亀11年(780年)伊治呰麻呂の乱が発生すると、従四位下・征東副使兼陸奥守に叙任され、乱の平定のため遠征するが、駐留したまま進軍せず戦機を逸してしまう。


さらに新たに征東大使に任ぜられた藤原小黒麻呂が、陸奥国に到着後速やかに進軍して奪われた諸城塞を回復したことから、益立は進軍しなかったことを譴責され、天応元年(781年)に従四位下の位階を剥奪され正五位上に落とされた。延暦2年(783年)再び兵部大輔に任ぜられるが、その後の消息は不明。


承和4年(837年)になって、益立が讒訴を受けて位階を剥奪されたとして、子の野継が冤罪を訴えたところ認められ、益立は50年以上ぶりに本位である従四位下の贈位を受けた。



〇「紀 古佐美」 (き の こさみ)は、奈良時代後期から平安時代初期にかけての公卿。大納言・紀麻呂の孫。正六位上・紀宿奈麻呂の子。官位は正三位・大納言、贈従二位。勲等は勲四等。


天平宝字8年(764年)藤原仲麻呂の乱終結後に従五位下に叙爵し、天平神護3年(767年)丹後守に任ぜられる。


光仁朝では、兵部少輔・式部少輔・伊勢介・右少弁を歴任する。宝亀11年(780年)正月に従五位上に叙せられるが、同年3月に陸奥国で伊治呰麻呂が宝亀の乱を起こすと征東副使に任ぜられ、同じく副使の大伴益立と共に東国へ赴いた。翌天応元年(781年)5月陸奥守に任じられ、同年9月には乱鎮圧の功労により、三階昇進して従四位下に叙せられ、勲四等の叙勲を受けた。


桓武朝に入ると、左兵衛督・中衛中将と武官を務めると共に、左中弁・式部大輔を兼ね、延暦4年(785年)には従四位上・参議に叙任されて公卿に列した。同年11月安殿親王(のち平城天皇)の立太子に伴いその春宮大夫に、翌延暦 5 年(786年)右大弁次いで左大弁と、これまでの中衛中将と合わせて議政官として文武の要職を兼帯している。延暦6年(787年)正四位下。


延暦7年(788年)7月に征東大将軍に任じられ、12月に節刀を受けて蝦夷の征討に赴く。翌延暦8年(789年)3月末に衣川(現在の岩手県西磐井郡平泉町付近)に陣を敷くが、1ヶ月以上に亘り軍を動かさなかったことから、 5 月中旬に桓武天皇の叱責を受ける。


これを受けて古佐美は5月末に大規模な渡河を伴う軍事行動を起こすが、蝦夷の族長であるアテルイの反撃に遭い、別将の丈部善理ら戦死25人、溺死1036人もの損害を出して大敗した(巣伏の戦い)。


6月に入ると古佐美は進軍に当たっての兵站の困難さと、軍を維持するために大量の兵糧が必要であることを理由に朝廷の許可を得ずに征東軍を解散し、桓武天皇から再度の叱責を受けた。


9月に帰京して節刀を進上、大納言・藤原継縄、中納言・藤原小黒麻呂らから進軍せずに大敗した状況の取り調べを受けて征東事業失敗の責任を承服する。副将軍の池田真枚と安倍猨嶋墨縄が官職や位階を剥奪された一方で、古佐美は敗戦の責任により処断されるべきところ、これまで朝廷に仕えてきた功績を勘案され罪を免じられている。


以後も、延暦9年(790年)正四位上、延暦12年(793年)従三位、延暦13年(794年)には正三位・中納言と順調に昇進する。延暦15年(796年)には右大臣・藤原継縄の薨去に伴い、大納言に任ぜられて太政官の首班を占めた。


またこの間の延暦12年(793年)には平安京遷都のために、大納言・藤原小黒麻呂と共に山背国葛野郡宇太村の土地を視察している。


延暦16年(797年)4月4日薨去。享年65。最終官位は大納言正三位兼行東宮傅。没後に従二位の位階を贈られた。



しかし、 藤原継縄は当初より現地に下向しようとしなかった。代わって軍を率いることになったのが、征東副使であった大伴益立である



〇「安倍 家麻呂」 (あべ の やかまろ)は、奈良時代後期の貴族。大納言・阿倍宿奈麻呂の孫。式部少輔・阿倍子島の子。官位は正五位上・石見守。


光仁朝の宝亀3年(772年)従五位下・兵部少輔に叙任。宝亀10年(779年)従五位上に叙せられる。翌宝亀11年(780年)3月に陸奥国で宝亀の乱が起こると、中納言・藤原継縄が征東大使に任ぜられるなどの乱追討関連の任官に伴い、家麻呂は出羽鎮狄将軍に任じられ出羽国に赴く。


同年8月には二階の昇進により正五位上に叙せられると共に、蝦夷の攻撃にさらされて維持が難しくなっていた秋田城の存廃に関連して、帰属して城下に居住していた俘囚が動揺している旨を上奏。これを受けて朝廷では秋田城の防衛強化が図られ、専使あるいは専当の国司による鎮守方式を採ることになり [1] 、これが後の秋田城介の起源になったとされている [2]


天応元年(781年)桓武天皇の即位後まもなく上野守に任ぜられる。その後、延暦4年(785年)左兵衛督、翌延暦5年(786年)左大舎人頭と京官を務めるが、延暦8年(789年)石見守として再び地方官に転じた。


それ以降六国史に叙位任官記載がなく、動静は不明。一説では大同元年(806年)10月24日に享年71で卒去したともされる [3]



益立は天平宝字年間に 雄勝城・桃生城を造営した際に鎮守軍監を務めており、現地経験も豊富であった


雄勝城 (おかちじょう / おかちのき)は、出羽国雄勝郡(現在の秋田県雄物川流域地方)にあった日本の古代城柵。藤原朝狩が天平宝字3年(759年)に築造したとされる。


現在の雄勝郡域内に、雄勝城と同時代の遺構は見つかっておらず、その造営地は現在も不明である。記紀から推定されている雄勝城の造営地は、「雄物川流域沿岸地で、出羽柵と多賀城の経路上にあり、かつ出羽柵より2驛手前の距離の土地」である。現時点で発見されている城柵遺跡でこの条件に一致するものは払田柵跡のみである。


現在、横手市雄物川町での発掘調査が進められており、払田柵から出土したものと同等のものが出土している。今後、これらの雄勝村周辺遺跡の発掘調査が進むにつれ、古代雄勝城造営地が徐々に明らかにされていくものと期待されている。


払田柵と雄勝城


記紀から推定される造営地は、雄勝城と同じ奈良時代の城柵遺跡である払田柵跡付近が妥当であるため、払田柵が雄勝城であろうとの説が提唱された時期もあったが、年輪年代法による分析結果では払田柵の造営時期は9世紀初頭と推定されたため、払田柵を天平宝字年間に造営された雄勝城とする説には無理が生じた。しかしながら、払田柵の遺構はその規模において陸奥国府が置かれたとされる多賀城を遥かに凌ぐものであることから、払田柵が記紀にある出羽国に設置された1府2城のうちの1城である雄勝城であろうとの見方は尚且つ妥当と認められており、また記紀にも時折郡里が賊に襲われて郡府の再建が行われた記録も見られることから、現在では雄勝城は当初の造営地から9世紀初頭に払田柵跡の地に移設されたとの推定に至っている。



〇「桃生城」 (ものうじょう)は、古代の朝廷が陸奥国桃生郡(現・宮城県石巻市)に築いた城柵。


『続日本紀』によれば、桃生城は天平宝字2年(758年)に造営が始まり、翌3年(759年)に完成した。翌年正月にはその功績によって按察使の藤原朝狩に従四位下が授与され、以下の者にも叙位叙勲が行われた。その後、桃生城は宝亀5年(774年)7月には海道蝦夷によってその西郭が敗(やぶ)られた(桃生城襲撃事件)。翌宝亀6年(775年)11月には、陸奥国按察使兼鎮守府将軍の大伴駿河麻呂以下1,790余人が、桃生城を侵した叛賊を討治、懐柔帰服した功績によって叙位叙勲を受けた。


しかし、桃生城に関する記述はそれ以降史料上に見えず、奪還後の様相については不明である。石巻市太田地区には、かつて「上郡山」という地名が存在しており [1] 、少なくとも桃生郡家はこの地で存続した可能性が高い。また、叛乱を起こした海道蝦夷の拠点となった遠山村は、「登米(とよま)郡」として建郡されている。



調査・研究


桃生城の所在地については、明治28年(1895年)に桃生郡中津山村の熊谷眞弓が同郡北端にある「茶臼山」(標高159m)説を唱え、これが最有力視されて昭和30年代まではほぼ定説とされていた。ただし、茶臼山からは古瓦などの考古学的な確証を得ることができず、再検討の余地を残していた。


一方で、喜田貞吉は大正12年(1923年)に延喜式内社の「飯野山神社の向う側の山の上に平地があって、字長者森と云ひ、布目瓦を出すといふ」ことから、「古い寺でもあったものらしい」と後の桃生城長者森説の原形となる説を提唱していた [6] 。喜田の論考と同年に発行された『桃生郡誌』(桃生郡教育会)では、『続日本紀』中の「跨大河」の記述と茶臼山付近の北上川の河道変遷に齟齬があり、「史筆の虚飾にて小流を大河と記したるものか」「疑存して後考を待つ」とされた。


昭和38年(1963年)、高橋富雄は、「丘陵台地の突端、大谷地飯野新田の台上」から「奈良時代末期と推定されるところの各種の瓦」「土師器・須恵器をともない、大きな施設があったことが確認できる」とし、「桃生町太田地区と河北町大谷地地区の接壌地帯」を最も有力な桃生城擬定地とした。


昭和44年(1969年)、地元の宮城県河南高等学校教諭(当時)の小野寺正人は、長者森には土塁等が存在すること、奈良時代末期と推定される布目瓦や土師器・須恵器が出土することから、桃生城跡として有力な推定地であることを述べている。


桃生城の範囲は、東は桃生町太田越路から飯野本地に至る線、西は桃生町袖沢から小池を通り河北町新田にいたる線、北は桃生町九郎沢から南は河北町飯野新田に至るとしており、宗全山(愛宕山)を頂点とする丘陵全域を桃生城とし、長者森の方形土郭を桃生城の中心施設と位置づけている。


小野寺の示した桃生城の範囲は、地形的にもまとまりのある一帯地を指しており、太田・飯野地区には、延喜式内社の日高見神社・飯野山神社が所在し、日高見神社からは古瓦も出土することから、桃生城擬定地のひとつとされたこともある。また、太田地区の九郎沢・入沢・拾貫には、年代不詳ながら「金を採掘した跡が無数」(みよし掘り跡)に残され、太田金山跡とされている。


昭和49年(1974年)から平成13年(2001年)までの、宮城県多賀城跡調査研究所による通算10次に及ぶ発掘調査の結果、桃生城域は東西二郭構造から構成されるとの見解が出された。


平成13年(2001年)から始まった三陸自動車道建設に伴う発掘調査では、角山遺跡の丘陵尾根に沿って柵列跡が検出され、この柵列は調査範囲を超えて延びており、桃生城の一番外側の外郭線の一部であったと考えられている。また、細谷B遺跡第2号住居の暗渠には桃生城の瓦が用いられており、同城との直接的な関連が窺われた。これらは小野寺が提唱した太田・飯野全域に及ぶ「広域桃生城説」を裏付ける証左のひとつと考えられる。


桃生城の隣接地の調査では、桃生城とされた範囲の東側から土塁(SⅩ03)や大溝(SD02・04・05)が確認され、同城の規模と構造・変遷については今後の課題とされた。桃生城の東に接する新田東遺跡からは、掘立柱建物跡や竪穴住居跡が発見され、これらの中には焼失遺構が含まれていることや、天平宝字8年(v年)に反乱を起こして戦死した藤原仲麻呂(恵美押勝)・藤原朝狩らの菩提を弔うために称徳天皇が発願した百万塔を模して作った「三重小塔」が出土していること、遺跡の東縁辺には二重の土塁状の高まりが認められることから、桃生城の東郭ないしは一部を構成すると考える説が有力となっている。


このため副将軍にして異例の 節刀を授けられて赴任する ことになったのである。






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最終更新日  2024年11月26日 07時45分41秒
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