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〇「多治比 宇美」
(たじひ の うみ /
うさみ)は、奈良時代から平安時代初期にかけての貴族。名は 海
、 宇佐美
とも記される。右大弁・多治比国人の子。官位は従四位上・右中弁。
宝亀11年(780年)4月に従五位下に叙爵し、6月には陸奥介に任ぜられて、同時に陸奥鎮守副将軍になった百済王俊哲らと共に宝亀の乱の鎮圧に当たる。
翌天応元年(781年)9月に乱鎮圧の功労者に対する叙位が行われ従五位上に叙せられている。延暦2年(783年)民部少輔ついで同大輔と一時京官に復す。
延暦4年(785年)正五位下・陸奥守に叙任されると、陸奥按察使と鎮守副将軍を兼ねて、再び蝦夷征討の任にあたる。延暦7年(788年)鎮守将軍。なお、この間の延暦 8 年(789年)には征東将軍・紀古佐美による大規模な遠征が行われるも、巣伏の戦いで蝦夷に大敗しているが、宇美の動静は明らかでない。
延暦9年(790年)右中弁に任ぜられて京官に復し、延暦10年(791年)には武蔵守に任ぜられている。延暦16年(797年)従四位上に至る。
〇「百済王 英孫」 (くだらのこにきし えいそん)は、奈良時代後期から平安時代初期にかけての貴族・武人。宮内大輔・百済王慈敬の子。官位は従四位下・右衛士督。
宝亀11年(780年)に発生した宝亀の乱の鎮圧のための遠征軍に従軍したらしく、天応元年(781年)に乱鎮圧の功労に対する叙位・叙勲が行われた際、同族の百済王俊哲が正五位上・勲四等に、英孫も従五位下に叙爵する。その後も、延暦4年(785年)5月に鎮守府権副将軍、次いで10月には出羽守に任ぜられるなど、引き続き蝦夷征討に従事した。
延暦10年(791年)従五位上に叙せられる。その後、時期は不明ながら従四位下まで進むなど桓武朝中盤は順調に昇進しており、延暦12年(793年)から延暦13年(794年)にかけて行われ、征夷副使・坂上田村麻呂らが戦果を挙げた蝦夷遠征に従軍したか。
桓武朝後半は、延暦16年(797年)右兵衛督、延暦18年(799年)右衛士督と京官の武官を歴任した。
〇「安倍猨嶋 墨縄」 (あべのさしま の すみなわ / すみただ、生没年不詳)は、奈良時代の貴族。姓は臣。官位は外従五位下・鎮守府副将軍。勲等は勲五等。
下総国猿島郡出身。桓武朝初頭の天応元年(781年)征夷事業の功績により、外従五位下に叙せられるとともに勲五等の叙勲を受ける。
陸奥按察使・大伴家持の下で、延暦元年(782年)鎮守権副将軍、延暦3年(784年)征東軍監に任ぜられ、蝦夷征討にあたる。延暦7年(788年)には蝦夷の地への赴任経験と戦場経験の豊富さを買われ、鎮守副将軍に任ぜられる。
延暦8年(789年)6月に征東大使・紀古佐美の下で、征東副使・入間広成と鎮守府副将軍・池田真枚とともに陸奥国胆沢(現在の岩手県奥州市)へ侵攻するために、北上川の渡河を伴う大規模な軍事作戦を実行したが、蝦夷のアテルイらの軍勢の挟み撃ちに逢って大敗する(巣伏の戦い)。墨縄は自らは陣営の中に留まって部下の補佐官のみを出撃させ大敗を招いたとして、朝廷から広成とともに批判され、9月には大納言・藤原継縄らからの取り調べを受ける。
その結果、愚かで頑固かつ臆病で拙劣であり、兵士を進退させる際に平静を失って軍機を逸したことから斬刑に該当するところ、長く辺境の守備を務めた功労により減刑され、官位剥奪に処された。
〇「入間 広成」 (いるま の ひろなり)は、奈良時代から平安時代初期にかけての貴族。官位は従五位下・造東大寺次官
物部氏(物部直)は出雲氏族に属する天孫系氏族。
武蔵国入間郡の人。天平宝字8年(764年)に発生した藤原仲麻呂の乱において、藤原仲麻呂軍が越前国へ逃れるために愛発関に入ろうとしたところを拒みこれを退却させる(このときの官職は授刀舎人)など、乱での功労により勲五等の叙勲を受ける。
神護景雲2年(768年)広成以下一族6人が物部直から入間宿禰に改姓する(このときの位階は正六位上)。
桓武朝初頭の天応元年(781年)征夷の功労により外従五位下に叙せられ、翌延暦元年(782年)陸奥介に任ぜられる。征東軍監を経て、延暦7年(788年)には蝦夷の地への赴任経験と戦場経験の豊富さを買われ、多治比浜成・紀真人・佐伯葛城と共に征東副使(副将軍)に任ぜられ蝦夷征討にあたる。
延暦8年(789年)6月に鎮守府副将軍の池田真枚・安倍猨嶋墨縄と共に陸奥国胆沢(現在の岩手県奥州市)へ侵攻するために、北上川の渡河を伴う大規模な軍事作戦を実行したが、蝦夷の軍勢の挟み撃ちに逢って大敗する。
広成は自らは陣営の中に留まって部下の補佐官のみを出撃させ大敗を招いたとして朝廷から批判を受け、9月には大納言・藤原継縄らから取り調べを受けて敗戦の責任を承服している。しかし、具体的な処罰は受けなかったらしく、翌延暦9年(790年)には従五位下・常陸介に叙任されている。
延暦18年(799年)造東大寺次官に任ぜられた。
ひとり大伴益立が従四位下の剥奪処分に至ったのは前述のとおりである。征夷が遅れた原因を大伴益立一人の罪に帰したものと考えられる。
一方、先に挙げられた「伊佐西古・諸絞・八十嶋・乙代」はいずれも有力な蝦夷の族長であり、中でも伊佐西古は宝亀9年(778年)、呰麻呂とともに外従五位下を授かった吉弥侯部伊佐西古その人である。このことはすなわち、呰麻呂が乱を起こすとともに従来政府側に協力してきた蝦夷たちまでもが離反したことを示す。これまで政府側に帰属してきた蝦夷は、「俘軍」として政府側の武力として活動することもあったが、桓武天皇の治世の下行われた 3 回に渡る征夷では、俘軍の政府軍への参加はみられない。ここに至り征夷は律令国家と蝦夷の全面対決の局面に突入し、 坂上田村麻呂がアテルイらの軍勢に勝利して胆沢地方を平定するまで、大規模な戦乱の時代が続くこととなる。
〇「坂上 田村麻呂」 (さかのうえ の たむらまろ)は、平安時代の公卿、武官。名は 田村麿 とも書く。
姓は忌寸のち大忌寸、大宿禰。父は左京大夫・坂上苅田麻呂。
官位は大納言正三位兼右近衛大将兵部卿。勲二等。贈従二位。
4代の天皇に仕えて忠臣として名高く、桓武天皇の軍事と造作を支えた一人であり、二度にわたり征夷大将軍を勤めて蝦夷征討に功績を残した。
薬子の変では大納言へと昇進して政変を鎮圧するなど活躍。死後は嵯峨天皇の勅命により平安京の東に向かい、立ったまま柩に納めて埋葬され、「王城鎮護」「平安京の守護神」「将軍家の祖神」と称えられて武神や軍神として信仰の対象となる。現在は武芸の神や厄除の大神として親しまれ、後世に多くの田村語り並びに坂上田村麻呂伝説が創出された。
※ 日付は和暦による旧暦。西暦表記の部分はユリウス暦とする。
出生から征夷大将軍まで
天平宝字2年(758年)、坂上苅田麻呂の次男、または三男として誕生。生年は田村麻呂の薨伝に記録された没年からの逆算。母のことは一切不明。父の苅田麻呂は31歳、生まれた場所についてもあきらかにされていない(出生節も参照)。
田村麻呂の生まれた「坂上忌寸」は、後漢霊帝の曽孫阿智王を祖とする漢系渡来系氏族の東漢氏と同族を称し、代々弓馬や鷹の道を世職として馳射(走る馬からの弓を射ること)などの武芸を得意とする家系として、数朝に渡り宮廷に宿衛して守護したことから武門の誉れ高く天皇の信頼も厚い家柄であった。
曽祖父の坂上大国は右衛士大尉として武官にあり、祖父の坂上犬養は少年期から武人の才能を讃えられて聖武天皇から寵愛されると左衛士督に昇り、父の苅田麻呂は武芸によって公卿待遇を与えられた。
しかしながら、この頃の坂上氏は地方的豪族な存在にすぎなかった。そのため大国から苅田麻呂までの3代は氏族の没落を防ぐ試みに全力を尽くし、武人の供給源という特性を坂上氏の特徴にまで育てあげると「将種坂上氏」として武芸絶倫という家風を確立し、田村麻呂とその兄弟は幼少期から武芸を好むよう教育された。
幼少期の田村麻呂については史料こそないものの、宝亀元年(770年)に称徳天皇が崩御して光仁天皇が即位すると、父・苅田麻呂が道鏡の姦計を告げて排斥した功績により同年9月16日(770年10月9日)に陸奥鎮守将軍に叙任されている(宇佐八幡宮神託事件)。
宝亀2年閏3月1日(771年4月20日)に佐伯美濃が陸奥守兼鎮守将軍となり、苅田麻呂が安芸守となるまで半年ほどの在職期間ではあったが、その間は鎮守府のある多賀城に赴任していたものと思われる。律令では21歳未満であれば同道出来ることから、13歳前後であった田村麻呂は父とともに、道嶋氏が凋落して桃生城襲撃事件が起こる三十八年騒乱直前の比較的平和な時代の陸奥国で幼少期を過ごしていた可能性もある。
宝亀 3 年(772年)、大和国高市郡の郡司職に関して、代々郡司職にあった檜前忌寸ではなく、ここ数代は蔵垣忌寸・蚊帳忌寸・文山口忌寸が郡司職に任ぜられていることを父・苅田麻呂が上奏し、今後は譜第である檜前氏を郡司職に任じる旨の勅を得ている。
出仕
田村麻呂が蔭位の制を適用される21歳に達した宝亀9年(778年)に父の苅田麻呂は正四位下であったため、田村麻呂が庶子の場合は従七位上が叙位されるが、次男もしくは三男でも正室の長男であれば嫡子のため正七位下が叙位される。
しかし田村麻呂が嫡子もしくは庶子のどちらであったかを判断する決め手になる史料はない。いずれにせよ宝亀 9 年に出仕している場合は七位の官人として出発した。
宝亀11年(780年)、田村麻呂は23歳で近衛府の将監として将種を輩出する坂上氏らしく武官からの出仕であった。
天応元年4月3日(781年1月30日)、光仁天皇は山部親王に譲位して桓武天皇が即位した。桓武の生母である高野新笠は武寧王を祖とする百済系渡来系氏族の和氏出身で、帰化人の血を引く桓武の登場によって渡来系氏族は優遇措置がなされることもあった。
延暦元年(782年)閏1月に起きた氷上川継の乱では父・苅田麻呂が事件に連座したとして解官されているが、わずか4ヶ月後には再び右衛士督に復職している。また苅田麻呂は延暦4年(785年)6月に後漢の霊帝の子孫である坂上氏が忌寸の卑姓を帯びていることを理由に宿禰姓を賜りたいと上表し許され、同族11姓16名が忌寸姓から宿禰姓へ改姓、嫡流の坂上氏は大忌寸であったため大宿禰と称した。
延暦4年 (785年12月31日)、安殿親王(後の平城天皇)が立太子すると、田村麻呂は 28 歳で正六位上から従五位下へと昇進した。
外位の五位を通らずに従五位下へと昇進しているため、この頃には坂上氏が地方的豪族から中央貴族へと転身していた証左となる。延暦 5 年1月7日(786年2月10日)に父・苅田麻呂が薨去すると田村麻呂は一年間喪に服した。
延暦6年(787年)早々に喪があけると近衛将監へと復帰した。3月22日(787年4月14日)に内匠助を兼任、9月17日(787年11月1日)には近衛少将へと進んだ。
延暦7年6月26日(788年8月2日)に近衛少将と内匠助のまま越後介を兼任、延暦9年(790年)には越後守へと昇格した。
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