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日本の使節としての支倉一行がローマに入府した際は、白馬に乗った豪華絢爛なパレードだったそう。沿道はローマ市民で埋め尽くされ、スイス衛兵が祝砲を打ち鳴らす。テベレ川の橋の上では楽団が音楽を奏で、広場には騎士や貴族が待ち受けて、最高の盛儀で迎えられたとのことです。その後、紆余曲折を経て7年後に帰国。支倉常長のその後の人生を思うと、ローマでの華麗なパレードは彼らにとって一世一代の檜舞台だったわけです‥※写真後方がバチカン。 支倉一行のパレードはこの大通りを通って。
2005年12月11日
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スペインに上陸した支倉一行は、滞在中にバチカンを訪問して、ローマ法王にも謁見しています。スペイン国王から伊達藩への色良い返書を心待ちしていた支倉は、ローマ法王の力添えも欲しかったようです。それに、支倉と随員の数名は洗礼も受けたキリスト教徒。バチカンに続く道は、彼らにとっても外すことが出来ない巡礼の道だったと思われます。のちに法王庁から「ローマ市公民権証書」まで貰っています。※写真は法王身辺と法王室を守るスイス衛兵たち。 人口約800人の小さな独立国バチカンに軍は存在しません。 この衛兵の他に市国警察が警備に当たっています。 (公用語はラテン語、業務用語はイタリア語とのこと)
2005年12月11日
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太平洋を渡り、アカプルコからメキシコ横断しその後、迎えの船に乗り換えて、大西洋を渡り、イベリア半島に上陸した支倉常長の一行。アンダルシアを流れるグァダルキビール川が大西洋に注ぐ河口の町「サンルーカル・デ・バラメーダ」に辿り着いたのは、出航からおよそ一年後のことです。近くの「コリア・デル・リオ村」には、今でもハポン(日本)さんの姓を名乗る人たちが大勢住んでいて、彼等は、日本に帰らなかった支倉一行の末裔だと言われています。ついでに、私の好きなシェリー酒は、この町と「ヘレス・デラ・フロンテーラ」それに「プエルト・デ・サンタマリア」の三つの町を結んだ三角地帯で作られたものだけをシェリー(ヘレス)と呼ぶことが許されているのです。あのヘレスの人々と出逢ってしまったら、日本に帰らなかった人たちの気持ちがほんの少し分かるような気がして‥近いうち、この「コリア・デル・リオ村」を訪ねる予定です。※写真は仙台にある「支倉常長の銅像」「コリア・デル・リオ」にも同じものを贈ったそうです。
2005年12月10日
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「月の浦」から目立たないように、ひっそりと乗り出して行った「サン・ファン・バウティスタ号」見送りの人影も無い静かな船出だったそうです。青い満月が照し出す夜の海に浮かぶ帆船が、黒いシルエットになって、だんだん小さくやがて点になる‥こんな情景が目に浮かびます。遠ざかる故国を見つめた男たちの胸の内にどんな思いが去来したのでしょう‥※写真は宮城県「月の浦」の夕暮れです。
2005年12月10日
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今から400年くらい前のことですが‥。宮城県の牡鹿半島「月の浦」からスペインに向かって出航した500トンの帆船がありました。「サン・ファン・バウティスタ号」です。乗っているのは、伊達政宗が送り出した、世に言う「慶長遣欧使節団」の一行で、仙台藩・支倉常長を団長に総勢およそ200人の乗組員たち。1613年といいますから、「関が原の戦い」から13年くらい後の話しです。正確な航海計器もなく、羅針盤、天測儀、砂時計くらい。あとは船乗りたちの観察と経験だけが頼りのこの時代に、はるか「日の沈む国」スペインを目指した男たちの勇気に、心底、感服してしまいます!※写真は平成5年に宮城県と仙台市が中心になって 復元した当時と同寸の 「サン・ファン・バウティスタ号」
2005年12月10日
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