道端の雑草

道端の雑草

哲学? のレポート



 たとえば、テレビゲームのプレーヤーは「主観の視点」がプレーヤーキャラクターである。まさに「もし私がゲーム内のキャラクターだったら」という視点だ。
 さらに、勤務シフトを決めるときの責任者も、「主観の視点」は営業所にあり、身体・精神とは異なる所在だ。つまり「営業所はどのように従業員を動かせば機能するか」という考え方である。
 同様に、作家は歴史を作る神様のような視点で「キャラクターをどう動かすか」を考え、編集者は読者の視点で「どうすれば面白くなるか」を考える。1人で両方やる人もいる。
 そればかりか、かつて「主観の視点」を精神・身体からズラすことは、美徳のための方法として積極的に推奨されてきた。「相手の立場に立って考えよ」という事だ。しかしこれは、判断基準の指標であって、人格の本質を決めたものではない。

 生命倫理について考えれば、「主観の視点」を「人格の本質」とは、断じて認められない。

 その理由は、第1に、「人格は外見によって変化する」という性質があるからだ。
 MMORPG(オンラインゲーム)では、外見の異なるプレーヤーキャラクターが数種類あり、自由に選べるようになっている事が多い。そして同一のプレーヤーでありながら、操作するキャラクターを変えると態度がその外見に合わせて変化することがよくある。
 可愛らしいキャラクターを動かしている時は可愛らしい態度になり、ごついキャラクターを動かしている時にはおっさん臭い態度になる。もちろん、まったく変化しない事もあるが、それは周囲とのつきあいによって「自己」の性質が固定化されているためである事が多い。
 従って、オンラインゲームやブログでは「自己」を見失いやすく、またゲーム上での友人(周囲とのつきあい)が少ないプレーヤーほど、この影響を強く受ける。いずれにせよ、ある程度の割合が一様にそうした変化を見せることを考えると、全体が1人の例外もなく多かれ少なかれ影響を受けている可能性もある。
 人格の同一性を保障できないのだから、主観の視点を人格の本質として、別の肉体・精神へ移してしまうような事は、生命倫理の上では認めがたいだろう。

 第2に、もし主観の視点を人格の本質と認めても、人格の全体は「本質」のみで構成されるものではない。
 勤務シフトを決めるときの責任者は、往々にして従業員の個人の事情をできるだけ無視したがる。しかし従業員の人格は、従業員たることが本質であったとしても、それが全部ではない。家族もいれば友人とのつきあいもある「人間」である。
 これを、「主観の視点が人格の本質だから、それ以外の部分は無視してよい」と考えると、最悪の場合には、家庭崩壊や友人との絶縁など、人間性を保障する膨大な要素を失う。
 生存だけしておればよい、というのではないから「生命倫理」という概念が存在する事を考えれば、絶対に認められない。

 以上のことから、ネット上での人とのふれあいが多い人は、二極化される。
 一方は、マナーを重視する人だ。彼ら自身は、周囲に対しての気遣いであると主張するだろうが、社会契約論的に言い換えれば、こうした人たちは、「自己」を見失わないために、現実よりも多少厳しいマナーによって、「自己」の変質に対して、一定の制限を加える事を試みている。
 他方は、マナーのない人だ。他人を不快にさせることを何とも思わず、自分本位に振る舞う。複数で集まって行動する事もあるようだが、その場合はパーフィット的な「自己」の広がりが生じているものと思われる。つまりその集団が、1つの「自己」で──平たく言い換えれば、「仲間意識」である。ただし彼らは、社会契約論でいう「自然状態」にあるとも考えられる。
 現実には、その両方の性質が、1人の人間に備わっていて、時と場合によって、どちらが優先されるかが決定する。ただネット上では、そのような渾然とした「自己」は崩壊しやすい。

 従って、「主観の視点」は「人格の本質」というよりは、ただの「核」に過ぎず、「それを包むもの」がマナーをどう扱うかによって「人格」が決定し、「包むもの」こそが「人格の本質」であると思われる。
 キャラ(態度)が違っても、マナーの具体的内容をどう考えるかは、変わらないからだ。「主観の視点」はただのアカウントであって、それ自体が「人格」の同一性を決定づけるものではない。

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