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教育基本法の改正案が新聞に載っていた。落ち着いて読んでみると、憲法の本に制定する、と言う部分が省略されていたり、必要な法の制定が「必要ならば」できる、から、単に「できる」という表現に変わっている。うがって言うなら、必要でなくてもできる、ということか。
気になるのは、この法律の推進者が、ほとんど戦前教育の申し子である事だ。「戦前には戦前の良さがあった」という人、その人たちは今以上の格差があったはずだが下層部分の生活が分かってそう言っているのだろうか。討ちてしやまむ等と乱暴な事、大和魂という空虚な神経、精神力等という目には見えないものに踊らされ、あるいは踊らせた時代。精神力というのはこの世代の好きな言葉だ。愛国という言葉に踊った末が、戦争による焦土、汚れた川と空気、そして海、荒廃した山ではなかったのか。伝統行事ができない状態に人口の移動を行ってきたのではなかったのか。
教育の荒廃を招いた政治家が改正を叫ぶ法律って・・・という疑問がどうもすっきりしないのだ。不当な介入と言うのは自分たちがやった事ではないのか?未来の国家を作る能力のある人づくりと言うよりは自分の言う事を聞く人づくりのように読めてしまう。国と自治体がこの目的のために策を講じる事が義務づけてある。しかし金のでない事業がないとしたら、その言葉とは裏腹に「気持ちは分かりますが財源が・・」という現在の状況とどれだけ違うのだろう。
例えば、合唱コンサートを「生涯教育」の中でやろうとするなら、まず認可を得るのに上申書を書き、実施計画案と予算書を書き、実施して報告書と決算書を書き・・・なのだろう。書く事だらけで、実際の運営側はそんな暇にはできないのだ。一般の合唱団の実体が分かっているのだろうか。現場の教師だって、えらく違わないのではと思う。手続き、手続きとやられて疲れてしまうなら、それは教育の支援といえるのだろうか。制度自体を作るばかりで、実体の伴わない、まさに法律のハコモノ行政になりはしないか、いや、なってしまったのに輪をかけているような気さえする。
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