古墳時代 0
奈良時代 0
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1977年4月25日、トロール船「瑞洋丸」がニュージーランド沖で操業していたところ、網に巨大な生物の腐乱死体が引っ掛かり、引き揚げたところ、その姿は首長竜のように首が長く、まさに古代に生存した恐竜プレシオサウルスのような姿であり、このニュースとその写真は当時大きな話題となったそうです。結局その死体は腐乱臭がすごいこともあり、日本に持ち帰ることはできず、その場で再び海中に遺棄されました。この生物は当時いろいろと話題に上っていたネス湖の謎の生物ネッシーにたとえられ、ニューネッシーと名付けられました。その後その死体について様々な論争が持ち上がりましたが、持ち帰られた成分の分析から、この死体はウバザメの死体であると結論づけられました。ウバザメの死体は、体の一部が抜け落ち、その姿は首長竜のように見えるそうです。一応ウバザメであるという結論に落ち着きましたが、当時船に乗り合わせた人は、その腐乱臭はいかなる生物の物とも異なっていたとも言っており、まだ謎は残っています。現在でも世界中の湖などで、未知の生物の目撃談などがあり、日本では屈斜路湖のクッシーや池田湖のイッシーが有名ですが、環境や餌などの条件から湖に古代の恐竜が生き残っている可能性はないと思われます。大部分は流木などの見間違えや波形や時には捏造も多いといわれています。また例えば、チョウザメなどが水中の環境により変異し、倍数体になり巨大化した可能性もあるといわれています。しかし、海のような広大な場所では我々の知らないこともまだ多く(むしろ知らないことの方が多い)あるといわれ、解明されていないことも数多いです。そういった海には、まだ古代の首長竜のような生物や未知の生物が潜んでいても、なんら不思議なことではありませんね~ ブログランキングに参加しております。よろしければクリックお願いいたしますm(_ _)m
2009.06.06
サメと言えば、映画‘ジョーズ’や‘DEEP BLUE SEA’での人喰いサメのように怖い印象をお持ちの方も多いと思われます。ただ実際のサメは、映画のようにやみくもに人を襲うわけではないらしいですが、第2次世界大戦中などに戦闘機が海中に墜落した場合などは、サメに襲われることも稀ではなく、世界各国はその対策には頭を悩ませていたそうです。そして終戦も間直に控えた1945年7月末日、その数日後に日本に投下される原爆の材料などをテニアンに運び終え、次の目的地に向かう途中であったアメリカの軍艦インディアナポリス号が艦長橋本以行率いる日本の潜水艦伊58に撃沈され、沈没しました。乗組員は1199名でしたが、その時の攻撃で死亡した人はおよそ300名で、残りの人達およそ900名は、救命用のいかだに乗り脱出できたか、そうでない人たちは救命胴衣を着けたまま海面に漂流しながら救助を待ちました。そのうちにサメの大群が海中に出現し始め、その後救助が来る4日後までに、サメに襲われたり、いつサメに襲われるかもしれないという恐怖による幻覚や体力低下などにより死亡し、生存者はわずか316名でした。その後生存した艦長は軍法会議にかけられ有罪とされ、その後も遺族の人達からの非難にさらされ、約20年後に自殺しました。しかし、その後の調査から艦長の責任はないことが証明され、艦長の名誉は正式に回復されました。普通に生活していれば人喰いサメのようなサメに出くわす可能性は、宝くじに当たる確率よりも低いそうですが、戦時中では大きな問題となっていたんですね。 【七夕セール!】 ディスカバリーチャンネル 地獄の漂流4日間 インディアナポリス号の最期(DVD) ...ブログランキングに参加しております。よろしければクリックお願いいたしますm(_ _)m
2009.05.30
様々な手を使い収監中の刑務所を脱獄し続け‘昭和の脱獄王’として知られたが白鳥由栄です。白鳥は、強盗目的で盗みに入った家で見つかってしまい、殺人を犯してしまします。犯行は白鳥とその仲間の2人で犯し、その後は別々に逃亡しますが、仲間が捕まったことを知ると自ら警察に出頭し自首し、無期懲役の判決を受けます。当時(戦前)は受刑者の人権などはほぼないものとして扱われていたので、刑務所内での白鳥の扱いは相当ひどかったらしいです。そのために白鳥は最初の収監場所である青森刑務所を脱獄します。その時は自分で合鍵を作り脱獄したそうです。その後3日で捕まりますが、移送先の東京の刑務所では所長である小林氏が人間らしく扱ってくれたおかげで静かに暮らしますが、戦争の影響により秋田刑務所に移送されます。秋田刑務所では再びひどく扱われ、刑務所内の囚人の人権改善を求め、以前人間らしく扱ってくれた小林氏に訴えるために脱獄を決意します。部屋の中は天窓が開いているだけでしたが、白鳥は腹筋などの筋トレを密かに行い、なんと両足のみで壁を伝い脱獄に成功します。そして、小林氏を探し当て、刑務所における囚人の待遇改善を訴え、それを遂げると小林氏と共に自首します。しかし今度の収監先である網走刑務所でも待遇は改善されず再び脱獄を決意します。今度は入口の窓しかあいておらず、白鳥は食事の味噌汁を口に含み、それを窓の釘に流し込むことにより釘を錆びつかせ窓を開けることに成功し、脱獄に成功します。そして逃亡中戦争が終わったことを知ります。しかし農家で畑泥棒と間違われ、滅多打ちにあっているところを反撃し逆にその人を殺してしまいます。そして捕まり死刑判決を受け札幌刑務所に収監されますが、そこでも桶についている金属製の金具を使い、自分で鋸を作り床を切り取り土を掘り、脱獄に成功します。そして逃亡中、職務質問を受けますが、その警官の態度に感服した白鳥は自らを名乗り捕まり府中刑務所に収監されます。死刑判決は減刑され傷害致死とされ、逃亡の罪も加えて懲役20年の判決を受けますが、今度の府中刑務所では待遇もよく、模範囚として刑期を全うし、1961年に仮出所を果たし、1979年に病気で亡くなります。盗みに入った家で殺人を犯すことなど論外であり、また逃走中に畑泥棒と間違われ逆にその人を殺してしまったことも、身から出た錆であり同情の余地は全くありません。それでも、自分をまともに扱かってくれた人に対しては義理堅い面を見せるなど、人柄的にはそんなに悪い印象は感じないような気がします。それだけ戦前の囚人に対する扱いは相当ひどかったんでしょうね。ただやはり、犯した罪は相当重いことを忘れてはいけないと思います。 <NHK DVD>[DVDソフト] 破獄ブログランキングに参加しております。よろしければクリックお願いいたしますm(_ _)m
2009.04.12
私がまだ小学生だった頃、当時住んでいた北海道から関東に行く時はフェリーに乗って行きました。船での旅はなかなか楽しく、時にはデッキに出て海上を進んでいく様子を見たり、時には船中で遊んだりして、なんともいえないゆったりとした雰囲気が好きでしたね。また、北海道と本州は津軽海峡を隔てているので、当時は青函連絡船にも乗ったこともありました。これはそんなに長い時間の乗船ではありませんでしたが、船での旅は結構好きですね。ところで函館と青森間を結ぶ世界最長の海底トンネルである青函トンネルが1988年に開業しました。着工から実におよそ24年後のことでしたこの長い期間を得て開通した青函トンネルに、私は中学の修学旅行時に初めて乗ったのですが、感想は‘いつの間にやらあっけなく青森に着いちゃったな’という感じでしたね。それでもやはりトンネル内に入る時はわくわくしましたね現在では貨物輸送に大きな役割を果たしているらしく、今後も日本の産業界において大きな役割を果たし続けていくことになるでしょう↓のアドレスの青函トンネル記念館には青函トンネルに関する様々なものなどが展示されていて、青函トンネルを知るにはよいと思いますよ。http://seikan-tunnel-museum.com/index.htmlところで北海道に特有の疾患であるエキノコックスが近年本州などでも発見されているそうです。北海道にいるキタキツネに寄生していることが多いので、本州では見られないはずだったのですが、キタキツネがなんと青函トンネルを通り本州まで移動してきたことが原因の一つらしいのですこれにはびっくりしましたね [DVDソフト] 海峡プロジェクトX 挑戦者たち DVD-BOX1(DVD) ◆20%OFF!青函トンネル・瀬戸大橋開通記念ブログランキングに参加しております。よろしければクリックお願いいたしますm(_ _)m
2008.12.06
昭和7年、血盟団事件が発生しました。この事件は、井上日召により結成された右翼団体血盟団が、日本の政治家や財界の人物を標的に定め、一人一殺を掲げ暗殺を決行した事件です。犠牲になったのは、元大蔵大臣・井上準之助、三井財閥の総帥・団琢磨両名でした。いずれも血盟団に、日本の混乱させた張本人とみなされ標的になったわけです。他にも血盟団は大物政治家を標的にしてたと言われていますが、警察の捜索により井上日召が首謀者であると突き止められ、血盟団員は逮捕されました。裁判では井上ら4名に無期懲役の判決が下りましたが、後に恩赦により釈放され、その一人である四元義隆はその後政界に関わり大きな力を持ち、2004年に96歳で死去しました。ついこの前日本で発生した厚生労働省の元事務次官殺害事件は、この血盟団事件を思わせるような事件でした。容疑者である小泉容疑者には黒幕がいるのでないかとかいろいろ噂が流れていますが、真実はどうなのでしょうか? 血盟団事件近代日本における転換期の思想近代日本の政治精神権藤成卿ブログランキングに参加しております。よろしければクリックお願いいたしますm(_ _)m
2008.11.26
1945年の日本の敗戦により、1910年の韓国併合によりはじまった日本による韓国統治は終わりを告げ、朝鮮半島は独立するかに思われました。しかしそこにアメリカ、ソ連両国による政治的思惑なども絡み、朝鮮戦争が始まり、結果的に朝鮮半島は南北に分断されることになりました。当時南側の大韓民国を支持していたのがアメリカで、日本は戦争当時アメリカ軍の朝鮮半島における軍事的物資などを生産したり調達する場として重要な位置を占め、そのため日本の工業生産は飛躍的に伸び、戦後日本の復興に大きな影響を与えたと言われています。もちろんそれに対する反対意見もあり、朝鮮戦争がなくても、もともと持っていた潜在能力から、いずれ日本は現在のような先進国になったであろうという意見もありますが、いずれにしても、このことは朝鮮特需と言われます。確かに戦後の日本が大きく復興したことは非常に喜ばしいことですが、そのきっかけとなった出来事が戦争と言われると、あまりイイ感じはしませんね。この戦争により、親族が南北に分断され離れ離れになった人達もいますし、やっと独立できる思っていた人々も再びその道が閉ざされたわけです。また、今もなかなか解決しない拉致問題も朝鮮半島が南北に分断されたことにより生じたことですし・・・このことに限らず、何かを成し遂げるために何か別のことが犠牲になるということに、何かやりきれない思いがしますね。 ブログランキングに参加しております。よろしければクリックお願いいたしますm(_ _)m
2008.11.19
何をやっても絵になる男、それが日本プロ野球界のスーパースター長嶋茂雄です。プロ野球界のみならず国民的英雄と言っても過言ではないと思います。1959年6月25日の巨人対阪神戦で、天皇陛下と皇后が観戦の天覧試合で、長嶋茂雄は阪神の村山実投手からサヨナラホームランを放ちました。よく比較されるのが王貞治選手であり、放った本塁打の数では長嶋の444本に対し、王は868本の世界第一位であり、生涯成績でも王の方が上です。しかしスター性でいうと、世界のホームラン王も日本のミスタープロ野球にはなれなかった、とよく言われるように長嶋の方が光っていました。いわゆる‘華のある男’と言われます。1945年の敗戦から、朝鮮戦争による特需により日本の経済は徐々に復活し、60年代頃から高度経済成長の時期に突入します。まさにその頃登場したヒーローといえば長嶋茂雄でした。戦後日本の急速な成長は、スーパースター長嶋茂雄とともに歩んでいったといっても過言ではないと思います。そして、当時の人々の心のよりどころにもなったに違いありませんね 桂米助の野球落語3 天覧試合(DVD) ◆20%OFF!さらばミスタージャイアンツ 長嶋茂雄全記録 1958~2001(DVD) ◆20%OFF!昭和天覧試合ブログランキングに参加しております。よろしければクリックお願いいたしますm(_ _)m
2008.11.18
現在日本のプロ野球にはシーズン終了後、ファンを魅了する投球をし優れた成績を残した投手に対して‘沢村賞’という賞が与えられます。選考基準もいろいろあるのですが主に本格派の速球投手に贈られることが多いです。この‘沢村賞’のもとになった投手が沢村栄治です。桂米助(ヨネスケ)の野球落語 VOL.2 沢村栄治物語(DVD) ◆20%OFF!彼は日本のプロ野球が始まった戦前数年前から投手として活躍し、伝説の速球派投手として知られています。その球速は現在では調べることはできませんが、一説によると160キロ近かったとも言われています。その彼も太平洋戦争で徴集され、ついには帰らぬ人となってしまいました。実際、戦死以前の徴兵により徐々にその実力も衰えていきましたが、もし戦争がなかったらと思われるほどの実力を持った投手ですね。ちなみに沢村とよくバッテリーを組んだキャッチャーは吉原正喜という人物です。彼ものちに戦死しますが、1991年に巨人に吉原孝介というキャッチャーが入団した時に、同じ吉原という名前でありしかも同じ俊足であったため、彼のことを思い出したのをよく覚えていますね巨人軍最強の捕手ブログランキングに参加しております。よろしければクリックお願いいたしますm(_ _)m
2008.09.19
約3年前にフィリピンで旧日本兵の生き残りが見つかったという誤報ニュースがあったのを覚えていますか。戦後60年後の現在でも、そのような方々が生き残っていることに非常にびっくりしたのを覚えています。結局誤報でしたが、1970年代前半には横井庄一さんのように実際終戦を知らずに終戦後ずっとジャングルで暮らしていた方が発見されました。終戦後たった一人で異国のしかもジャングルで暮らすおよそ28年間も暮らしていける精神力は凄いと思います。並大抵のことではないと思います。もし自分だったら孤独感と不安感から生き延びることは絶対できないと思いました。当時の人達は、平和な現代の人達からは想像もできないような苛酷な状況で生きてきて体力的にも精神的にも、ちょっとやそっとのことでは負けないような忍耐力が身についていたのではないでしょうか。自分もそのような強靭な精神力を持てればなあ~と思いました。それには何事にも最後まで諦めず努力する姿勢が必要だと思いました。がんばるぞ現代の偉人・達人から学ぶ人間力ブログランキングに参加しております。よろしければクリックお願いいたしますm(_ _)m
2008.08.29
私は現在名古屋に住んでいるので、豊田市はけっこう近くに位置し、そこに現在日本の自動車業界を大きく支えるトヨタ自動車の本社があります。トヨタの創業者は豊田佐吉であり、彼は自動織機を完成させ世界に大きく羽ばたきましたが、その子の豊田喜一郎は自動車を日本で生産することに着手し、今日の日本の自動車業界の基盤を作りました。3ヶ月ほど前、豊田市のトヨタ鞍ヶ池記念館に行きました。トヨタ鞍ヶ池記念館ここの創業展示室では、当時外国から輸入していた自動車を自国で生産しようと決意した豊田喜一郎の道のりを描いた映像を見ることができます。また創業期のシーンをジオラマにして再現しラジオ風に解説したラジオラマや、当時日本で始めて作られた自動車一貫生産工業である挙母工業の400分の一のジオラマ、そして終戦前のおよそ10年間に作られたトヨタ自動車の5分の1の模型が展示してあります。外国に頼らず自らの力で自動車を作り上げようとした豊田喜一郎の意気込みや苦労などがこの記念館を見学して感じられました。当時難しいと言われてた事にも積極的に取り組み精一杯努力して、その信念を成し遂げた彼の心意気を自分も見習いたいと思いましたトヨタを創った男豊田喜一郎ブログランキングに参加しております。よろしければクリックお願いいたしますm(_ _)m
2008.08.25
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