日本史雑学発掘の館

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2008.11.02
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カテゴリ: 江戸時代前期
関ヶ原の合戦 福島正則 ですが、自分を見出してくれた豊臣家への恩は忘れず、豊臣家への忠義も尽くしていました。

しかし、同じく豊臣家への忠義を忘れなかった 加藤清正 浅野長政 が亡くなります。
そして、その後ついに豊臣家と徳川家の合戦が避けられない状況になり、豊臣家からも味方につくように打診されますが断り、大坂にあった8万石の米を自由に使ってもいいと許可したのみで、とうとう豊臣家へ味方することはなく、 大坂夏の陣 で豊臣家は滅びることになります。

正則は確かに豊臣家への恩は忘れていなかったと思います。しかしあまりに強大になりすぎた徳川の力の前には、もはやどうすることもできない状態だったに違いありません。
たとえ自分が味方しても負けることを悟っていたに違いなく、また 賤ヶ岳の七本槍
それほど徳川の力は誰の目に見ても大きく、とても崩せる牙城ではなかったのです。

豊臣家が滅んでから5年も経たないうちに、正則は自分の居城であるを幕府に無断で修復したことで咎められ、50万石を没収され信濃国に移封されます。

そしてその後死去します。
いろいろ死因は言われていますが、自害したという説もありますね。
豊臣も滅び、豊臣家に見いだされた自分はもはや徳川にとって邪魔者であるということは分かっていたのかもしれません。
このような自分の末路も、正則は前々から薄々気付いていたのかもしれませんね。






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最終更新日  2008.11.02 22:40:37
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