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1878年、西南戦争の翌年、大久保利通が暗殺されました。この事件は紀尾井坂の変といわれています。以前は人通りの多い道を通り出勤していた大久保でしたが、かっての宿敵江藤新平の弟の姿を目撃して以来、人通りの少ない道を通っていたことで刺客達にも狙われやすくなったとも言われています。ところでこの事件で、ある人物が大久保と共に命を落としています。その人物の名前は、中村太郎といいます。孤児でいたところを大久保に召し抱えられたそうです。事件当日馬車を運転していて、島田一郎率いる刺客達に大久保ともども暗殺されてしまいます。刺客たちが現れた時、大久保を守ろうとして大久保が乗っている馬車に近づこうとして切られたとも云われています。事件当時まだ25,6歳ほどであったといわれています。現在大久保利通の墓の傍らに、彼の墓もおかれています。佐賀の乱での江藤に対する処遇や、西南戦争で地元鹿児島を攻め立てた張本人として、どこか冷酷なイメージがあるせいか、地元でも英雄西郷隆盛に比べ、あまり評価が高くない大久保ですが、プライベートでは孤児を養うなど、政治面で見せたイメージとは異なる、人情味ある一面も持ち合わせていたんですね。中村太郎もそのような大久保の一面に惹かれて仕えていたのかもしれませね。 【送料無料】 NHK大河ドラマ 西田敏行 「翔ぶが如く 完全版」 全巻(第壱集+第弐集) DVD...ブログランキングに参加しております。よろしければクリックお願いいたしますm(_ _)m
2010.03.27
明治7年に起こった佐賀の乱について、当時の英国駐日公使が母国に送った報告書が英国に存在します。http://www.saga-s.co.jp/news/saga.0.1455771.article.htmlそれによると、この乱の原因や乱後の処置に対してやはり、過去の政府内での対立が大きく影響していると書かれています。征韓論に起因する明治6年の政変や、江藤新平に対する大久保利通の憎しみなどが挙げられると思います。英国駐日公使の客観的視点から見ても、この乱の背後には様々な因縁が潜んでいることは明らかだったんですね。ちなみに岩倉使節団の一員として通訳を務めた香月経五郎は英国のオックスフォード大学で学んでいます。帰国後は江藤の下野とともに帰国し、佐賀の乱では中心人物として処刑されてしまいます。有能な人物だっただけに惜しまれますね。 ブログランキングに参加しております。よろしければクリックお願いいたしますm(_ _)m
2010.03.21
島原の乱において原城が落城した時、1名を除いて全員が幕府軍により殺害されたといわれています。その助かった1名は、山田右衛門作という人物でした。彼はもともと一揆勢に参加する事に気乗りがしなかったそうですが、妻子が人質にとられたため、仕方なしに参加したそうです。ちなみに彼は南蛮絵師でもあり、有名な一揆軍の旗も彼が書いたそうです。しかしもともと一揆軍に参加することを本望としていなかった彼は、幕府側に内通し、矢文により一揆軍の内情を幕府側に知らせる役目を担うことになります。ところが、ある時矢文が幕府側に届かず、一揆側の知るところになり、右衛門作は捕らえられ、妻子は処刑され、彼自身も処刑されることになってしまいます。しかし、その後幕府軍の原城総攻撃が始まり、一揆軍は皆殺しにされ、右衛門作も殺されかかりますが、矢文を見せ、なんとか助かることになります。その後は江戸に行き、隠れキリシタンの探索をする密偵のような仕事をしたといわれていますが、その後再びキリシタンに戻ったともいわれています。その後の足取りはよくわかっていません。彼の内通理由に、後世に一揆側の資料を残すために、あえてその役目をしたという説もあります。真偽のほどはわかりませんが、つい最近、寺田屋事件で坂本龍馬が幕府の捕吏に襲撃された事件の幕府側の資料が見つかったように、どちらか一方のみではなく、勝者敗者など、両方のそれぞれの立場から見たそれぞれの見解や資料は、非常に貴重な物です。彼の残した資料は、島原の乱における一揆側から見た‘島原の乱’として現在でも非常に価値あるものとなっています。島原の星ー悲劇の絵師ー山田右衛門作ブログランキングに参加しております。よろしければクリックお願いいたしますm(_ _)m
2009.12.23
1637年末から1638年にかけて発生した大規模な内戦である島原の乱は、キリシタン弾圧に対する面と、地元の領主に対する不満からなる百姓一揆の面があり、それらが絡んで発生したといわれています。ところで何事に対してもそうですが、このような大きな事を起こす時に必要になってくるのがいわゆるカリスマ的な指導者という存在です。このような戦いは心身的にも辛く、その心のよりどころになるべき人物はやはり必要になってきます。そこでその存在として、天草四郎時貞という人物が一揆軍の象徴として立てられました。四郎は関ヶ原の合戦で敗れ処刑された小西行長の家臣・益田甚兵衛の子として生まれたとされ、その容姿や様々な奇跡的なことを成し遂げたことから、その役目に選ばれたと思われます。しかし乱の実質の指導は行っておらず、それは小西や有馬の遺臣などがおこなっていたと言われています。ところが後に一揆軍が原城に籠城し、一揆軍の疲労も出始めた頃にひとつの事件が起こります。四郎とその側近の近くに幕府方から放たれた石矢が命中し、側近数名が死亡し四郎自身も怪我を負ったのでした。それを見た一揆軍の人々は、不死身であると信じていた四郎が怪我をしたということに衝撃を受け、大いに動揺したといわれています。その後原城は幕府軍に責め立てられ落城し、内通者の山田右衛門作を除く全員が皆殺しにされたそうです。四郎のカリスマ性が崩れた時、その運命は決まったのかもしれませんね。 【東映まつり】 ★ 天草四郎時貞(DVD) ◆25%OFF!【20%OFF!】魔界転生 (1981年度製作版)(DVD)ブログランキングに参加しております。よろしければクリックお願いいたしますm(_ _)m
2009.11.07
現在、親子鑑定や犯罪の調査のためにDNA鑑定が行われることが多くなってきています。DNA鑑定で今年有名になった事件として足利事件がありますね。昔行われたDNA鑑定に結果が誤ったものであると判断され、長年冤罪を訴えてきた菅家利和さんが釈放されました。一歩間違えばこのような危険性もあるDNA鑑定ですが、近年は精度もかなり高くなってきており有用価値も高く、血縁関係のDNA鑑定は、今では主として民間企業で行われています。ところでDNA鑑定といえば、以前、伊達氏3代の伊達政宗・忠宗・綱宗の毛髪などを元にDNA鑑定が行われ、本当に親子関係であることが証明されたそうです。昔はDNA鑑定や血液型による鑑定などあるわけがなく、本当の親子関係であるかなど証明する術もなかったわけで、親に似ているかどうかで判断するしかなかったんでしょうね。有名な話として、豊臣秀吉の子である豊臣秀頼が本当に秀吉の子であったかどうかという話がありますね。これは当時から噂されてきたことであり、実の父親は大野治長ではないかという話が今でも囁かれていることがあります。以前、大阪城三ノ丸跡地を発掘したところ、一つの頭蓋骨とその近くに馬の骨が見つかり、この頭蓋骨の顎には介錯の際についたものと思われる打撃の跡が確認され、この頭蓋骨は秀頼公のものではないかということになり、この頭蓋骨は清涼寺に埋葬され、秀頼公の首塚として残っています。ちなみに近くから発見された馬の骨は殉死させられた秀頼公の愛馬ではないかといわれています。実際この発見された頭蓋骨が秀頼公のものであるかはわかりませんが、もし秀吉のDNAが見つかれば、鑑定ができるかもしれませんね。 渡辺謙主演・豪華スター競演!全話収録のおトクなセットNHK大河ドラマ 独眼竜政宗完全版 第壱... NHK大河ドラマ「おんな太閤記」DVD-BOX1&DVD-BOX2セット【送料無料】ブログランキングに参加しております。よろしければクリックお願いいたしますm(_ _)m
2009.10.09
明治初期、佐賀士族には3つの党がありました。当時征韓論争が日本国内で沸騰しており、もし朝鮮に出兵するなら進んでその兵に加わろうとする征韓党、これは明治新政府でも参議にまで昇った江藤新平を党首に掲げていました。さらに、江戸時代のような国家体制を理想としており、明治新政府の体制には不満を持つ憂国党があり、これは北海道開拓で有名な島義勇を盟主と掲げていました。そして前山清一郎を中心とする中立派の中立党という3つの党があり、それぞれの党は互いに対立している状態でした。しかし佐賀の乱の折には、政府軍から佐賀を守ろうと征韓党、憂国党が手を組みましたが、中立党は政府軍に味方し、佐賀軍と対決しました。征韓党は佐賀軍が敗色濃厚になると、江藤により解散命令が下され、江藤は西郷隆盛に援軍を求めて鹿児島に逃亡します。一方の憂国党の島義勇は最後まで徹底抗戦し討ち死にを主張しますが、再起を促され逃亡しますが後に捕縛されます。一方中立党の人たちは、乱の後も元江藤や島派の士族たちとは対立したり、地元佐賀を攻めた政府軍に協力したとして責められたりし、佐賀にも居ずらくなり、その地を去った人も多かったらしいですね。 ブログランキングに参加しております。よろしければクリックお願いいたしますm(_ _)m
2009.09.30
北海道の歴史の授業の中で出てくる人物とし、‘北海道開拓の父’ともいわれる島義勇、札幌に流れる創成川の基盤を作った大友亀太郎、そして初代北海道庁長官となった岩村通俊などが挙げられますです。その岩村通俊には弟がいて、ひとりは林家に養子に出た林有造であり、この人物は西南戦争勃発時に、それに応じ土佐でも挙兵しようとしましたが露見し、捕縛された人物です。出所後は政治家として活躍しました。そしてもう一人は、岩村高俊であり、この人物は戊辰戦争時に長岡藩の河井継之助との会談において強硬姿勢を示し、北陸戦争の発端を作った人物として知られています。そして明治7年佐賀で不平士族の不満が高まっている中に、大久保利通はこの強硬派で有名な岩村高俊を佐賀県令に任じ、それを鎮撫すべく帰郷した島義勇とたまたま船上で会い、島は岩村から佐賀士族を打倒する旨を聞き、佐賀の乱勃発の発端をつくったとも言われています。こういうことからも近年、佐賀の乱は大久保利通による陰謀により勃発したという説も出てきていますね。http://www.saga-s.co.jp/news/saga.0.1304945.article.html年末大型時代劇 河井継之助~駆け抜けた蒼龍~ / 中村勘三郎【秋の決算セール】 NHK大河ドラマ総集編 DVDシリーズ 花神 DVD-BOX(DVD) ◆25%OFF!ブログランキングに参加しております。よろしければクリックお願いいたしますm(_ _)m
2009.09.20
札幌市の地下鉄東西線・円山公園駅の周りには、その名の通り円山公園があり、さらに円山動物園、そしてかってはよくプロ野球の試合が行われた円山球場や、その裏には円山競技場などがあり、大きな憩いの場となっています。円山球場の外野は芝となっているので、のんびり解放感に浸りながら試合を観戦することができましたね。ところで花見の季節となると、公園に見事な満開の桜が咲き誇ります。この桜は、明治もまだ初期の1875年、北海道開拓の神と呼ばれた島義勇を偲び、その付き人であった福玉仙吉が植えたことに由来します。北海道では有名な島義勇ですが、1874年に佐賀で起こった不平士族による佐賀の乱に江藤新平と共に首領に担ぎあげられ、乱後に捕縛され刑死しました。その島の霊を供養するために福玉は桜を植えたんですね。毎年花見の季節になると賑わう円山公園とその桜の花は、過去の悲しい出来事にまつわる話に由来してたんですね。 ブログランキングに参加しております。よろしければクリックお願いいたしますm(_ _)m
2009.09.13
幕末の長州藩では、幕府に恭順を示す椋梨藤太を中心とする俗論派と、幕府に対抗することを主張する正義派が対立し、武備恭順を主張する井上聞多(馨)は会議の後帰宅する途中に、暗闇の中、刺客数名に襲撃され、瀕死の重傷を負います。暗闇の中必死に逃げ、なんとか刺客達から行方をくらました井上ですが、あまりの傷の深さに兄に介錯を頼むほどであったといわれています。しかし、名医所郁太郎により50針以上縫う大手術により一命を取りとめます。その後高杉晋作率いる正義派が挙兵し、長州藩から俗論派を一掃し、長州藩は幕府に対抗する方針を固め、薩摩藩と共に幕府を倒す原動力になります。ところで時代は明治になり井上は新政府でも重要なポストに就き日本の政治を動かしていくことになるのですが、井上を襲った刺客たちの正体は長い間不明なままでした。しかし、井上が襲撃されてから約30年後、刺客の一人児玉愛二郎が自分たちがやったと告白をしました。襲撃犯は児玉愛二郎・中井栄治郎・周布藤吾の3名であり、中井はかって俗論派の中心でもあった椋梨藤太の次男であり、高杉晋作らにより正義派が藩の実権を握った後、逃亡中捕らえられ、父と共に処刑されました。周布藤吾はかって俗論派により切腹に追い込まれた周布政之助の長男であり、第二次長州征伐の時に井上の配下として参戦し討ち死にしています。そして児玉愛二郎は、新政府で井上のはからいもあって出世していた人物でした。中井はともかく、周布と児玉が襲撃犯であったとは井上は夢にも思わなかったでしょう。児玉は後に井上を襲撃した時に使った刀を贈呈しています。幕末という激動の時代と、明治という近代国家の、まさに急激な時代の変化を感じさせる話ですね。 長州ファイブ五十嵐匠ブログランキングに参加しております。よろしければクリックお願いいたしますm(_ _)m
2009.08.06
関ヶ原の合戦において、西軍小早川秀秋の裏切りを察知していた大谷吉継はあらかじめ小早川軍が布陣していた松尾山に向けて兵を配備しており、小早川が裏切ると配備しておいた兵で小早川軍を押し返すことに成功しますが、全く予想していなかった自軍に属していた脇坂・小川・朽木・赤座勢までもが裏切り、大谷軍は総崩れとなり、吉継は自害を決意します。実は吉継はハンセン病を患っており、目もほとんど見えず、立つこともできず御輿に乗り采配をふるっていたと言われています。そのため自分の顔を敵にさらしたくないという思いから、家臣の湯浅五助に介錯を頼みその首を関ヶ原の土中に埋めるよう指示します。五助はその指示通りに吉継を介錯し、その首級を土中に埋めようとしますが、その現場を敵将の藤堂高刑に見つかってしまいます。その様子から吉継の首級を埋めていると察知した高刑に対して、五助は自らの首を差し出す代わりに主君吉継の首級のことは見逃してほしいと頼みます。その心意気に打たれた高刑は五助との約束を守り、五助の首級を持ち徳川家康の首実検の場に臨みます。家康は五助ほどの重臣なら吉継の首のありかを知っているであろうと高刑に尋ねますが、高刑は、確かに知っているが五助との約束なので教えることはできないと家康に答えます。家康は高刑のことを誠にあっぱれと思い、褒美を授けます。自らの首を差し出すことで主君を守った五助、そしてその約束を守った高刑、そしてその高刑をあっぱれと思い褒美を与えた家康、まさに武将としての資質の高さを表している秘話ではないでしょうか。 大谷家紋対い蝶をアレンジした美しくも流動的な完全手描き戦国Tシャツ!【兜】手描き大谷吉継T...(R41) バンダイ戦国絢爛チョコ 激突!関ヶ原編★ノーマル30種セットブログランキングに参加しております。よろしければクリックお願いいたしますm(_ _)m
2009.08.03
石田三成の居城であった佐和山城跡から、家臣の武家屋敷の堀跡などが発見されたそうです。京都新聞http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20090723-00000037-kyt-l25石田三成の居城であった佐和山城は、かって‘三成に過ぎたるものが二つあり 島の左近に 佐和山の城’と言われたほどの名城であり、関ヶ原の合戦時には、三成の父石田正継と兄の石田正澄が守備していましたが、関ヶ原で西軍が敗れると、家康は小早川秀秋や田中吉政らに佐和山城攻略を命じ、佐和山城は落ち、正継・正澄は討ち死にしました。その後は井伊直政がその地を治め、新たな彦根城の築城を始めましたが、関ヶ原の合戦で撃たれた傷が原因で起こった破傷風により死去し、その子の真継が治めましたが、別の地に配属になったので廃城になりました。その跡から、歴史の資料にも合致する屋敷跡が見つかったこともあり、当時を知る貴重な手がかりの一つになりそうですね。 NHK大河ドラマ 葵 徳川三代DVD-BOXセット【送料無料】【送料無料選択可!】関ヶ原 / TVドラマブログランキングに参加しております。よろしければクリックお願いいたしますm(_ _)m
2009.07.27
下総流山で兵を集め再起を図っていたいた新撰組局長近藤勇でしたが、新政府軍にみつかり尋問のため新政府軍の陣に連行される時、ひとりの隊士も近藤と共に同行しました。その隊士の名は、野村利三郎といい、大久保大和と名乗っていた近藤勇の正体が見破られ処刑されることが決定すると、野村も、後に幕府側からの除名嘆願書を持ってきた新撰組最後の隊長相馬主計と共に、近藤と一緒に処刑されることが決まります。しかし、近藤の助命の願いもあって野村も相馬も助命され釈放されます。その後野村は幕府脱走軍と合流し、北海道の地で蝦夷共和国を立ち上げた榎本武揚の下で陸軍奉行添役という役職に就任します。そして蝦夷の旧幕府軍は、自軍の海軍力を高め新政府軍の力を落とすために、新政府軍の軍艦甲鉄を、自軍の軍艦回天で接近させ海上で奪取するという作戦を立案し、野村もその部隊に加わります。この時の海戦を宮古湾海戦といいます。しかし作戦は失敗に終わり、野村も甲鉄に真っ先に乗り入れ奮闘しますが、やがて討ち死にします。あわただしい撤退の中、野村の遺体は旧幕府側は回収できず、新政府軍により海中に投げ捨てられたといわれています。新撰組隊士として近藤勇に命を助けられ、その近藤も亡くなった今、副長土方のように死に場所を求め蝦夷に行ったのかもしれませんね。その勇敢ぶりは敵味方問わず賞賛され、現在でも慕われている新撰組隊士の一人です。 新選組!! 土方歳三 最期の一日 / 山本耕史ブログランキングに参加しております。よろしければクリックお願いいたしますm(_ _)m
2009.07.25
時代劇などを見ていると、幕末戊辰戦争時に、官軍の司令官らしき人物が、赤や白、黒の髪の長い被り物をしているのをよく見かけますね。あれは一体何かというと舎熊といわれる物で、江戸城が無血開城された時に、城の中に保管されていた物を、いわば戦利品として持ち帰り、薩摩、長州、土佐の司令官に自分がどこの藩の司令官かどうか味方にわかりやすいように、薩摩藩は黒、長州藩は白、土佐藩は赤というように分けて被らせたそうです。もちろん江戸城を開城したという事実を旧幕府軍に示すための象徴としての意味合いもあったそうです。チベットなどに生息するヤクの毛から作られたもので、輸入品です。江戸時代にはほとんど使われず、いわば秘蔵入りしていたものだそうです。旧幕府軍側からみれば普段見慣れていないので、戦場ではちょっとびっくりしたかもしれませんね。 ブログランキングに参加しております。よろしければクリックお願いいたしますm(_ _)m
2009.07.23
大正2年5月22日、もう70歳を超え北海道に在住していた元新撰組隊士永倉新八のもとに山田音羽という女性が訪ねてきたそうです。彼女が言うには、自分は元新撰組局長近藤勇の娘であり、永倉が父近藤勇の写真を持っているという話を聞きつけ、訪問したそうです。そして、彼女は永倉から写真を借り受け、複写したそうです。50年ほど前、近藤は新撰組局長として、そして永倉はその片腕として信頼されており重要な地位を占めていました。新撰組が結成される以前からの知り合いであり、新撰組の前身である浪士組からの参加者でした。しかし戊辰戦争が勃発し、甲陽鎮撫隊として官軍と交戦しましたが、先に甲府城を奪われるなど敗北を喫し、永倉はその後意見の対立から新撰組を脱退しました。近藤はその後流山で正体を見破られ処刑されてしまいますが、永倉は近藤と別れた後も生き延び、維新後は北海道に渡り松前藩医の養子となり、おもに小樽で暮らしていたそうです。明治も最初の頃は新撰組といえば、官軍に逆らった暗殺集団として認知されており、元新撰組隊士への風当たりは良くなかったそうです。しかし維新から時も経ち、永倉も自らの新撰組時代の記憶を新聞記者に口述した新選組顛末記が新聞で連載されるなど、新撰組に対する世間の認識もかなり変化してきたそうです。山田音羽はその記事から永倉の存在を知り永倉を訪ねてきたそうです。彼女が本当に近藤の娘かどうかは不明だそうですが、彼女の写真を見てみると実によく近藤に似ており、本当の娘と言われても何ら不思議はありませんでしたね。かって苦楽を共にしながら最後には対立してしまった永倉と近藤ですが、彼女を見た永倉は、はるか昔の良き記憶を思い出したのかもしれませんね。 新撰組二番隊組長、永倉新八が佩刀し刀居合刀 手柄山氏繁【てがらやまうじしげ】永倉新八【送料無料選択可!】新選組! 完全版 第弐集 DVD-BOX / TVドラマブログランキングに参加しております。よろしければクリックお願いいたしますm(_ _)m
2009.07.20
写真が日本に登場したのは江戸時代も後半の頃であり、当時は写真を写すのに10分くらいじっとしていなくてはならず、なかなか大変なものでした。しかし写真の登場により、当時の日本の景観や人間模様、そして幕末明治という激動の時代を記録に残すことができ、貴重な資料となっております。そしてその幕末明治期の数多くの古写真を、ネットで見ることができます。それは長崎大学付属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベースです。(以下のアドレス参照)http://oldphoto.lb.nagasaki-u.ac.jp/jp/index.htmlこのホームページには、幕末日本の非常に多くの写真が載っており、当時を正に実体験できるかのような気持ちになります。一度ご覧になってみてはいかがでしょうかブログランキングに参加しております。よろしければクリックお願いいたしますm(_ _)m
2009.07.03
甲陽鎮撫隊を率いて新政府軍と対決した新撰組局長近藤勇でしたが戦いに敗れ、再起を期すために下総流山で再び兵を集め戦いの準備を始めました。しかしその場所もやがて新政府軍に包囲され近藤勇は尋問のために新政府軍の本営に連行されました。連行された時はまだ新政府軍側もその人物が近藤勇とは確信は持てず、近藤も変名‘大久保大和’を名乗り新政府に対抗するための兵集めではないことを主張します。ところがこの‘大久保大和’を近藤勇だと見破った人物がいました。それは加納鷲雄という人物です。加納は元新撰組隊士であり、かっては近藤の部下でした。しかし主張の違いなどから、新撰組を脱退し伊東甲子太郎率いる御陵衛士に入隊しました。近藤は御陵衛士を粛清するために伊東を暗殺し、その遺体を引き取りにきた加納たちも、待ち伏せしていた新撰組隊士達と切り合いになり、加納はなんとかその場から逃げ切り薩摩藩邸に保護されます。その後生き残った仲間と共に伏見街道で近藤を狙撃し右肩に重傷を負わせます。そして新政府軍に加わった加納は、たまたま近藤を包囲した部隊にいて、近藤の芝居を暴くことになります。加納を見た近藤は、青ざめたといわれています。まさか近藤もこのような場所で、かっての部下に遭遇し正体を暴かれるなど夢にも思っていなかったことでしょう。その後、近藤は処刑されることになってしまいます。 新選組事典ブログランキングに参加しております。よろしければクリックお願いいたしますm(_ _)m
2009.07.01
江藤新平率いる佐賀の不平士族による佐賀の乱がおこると、大久保利通は乱に関する全権を掌握して鎮圧にあたり、首謀者である江藤新平と島義勇を‘除族の上梟首’という極刑に処し、新政府に対して反乱をおこそうとする者に対して見せしめを示しました。元々大久保と江藤は新政府内でも対立することが多く、江藤が征韓論の問題で起こった明治6年の政変で新政府を去ると、不穏の動きの高かった佐賀士族に対して鎮圧命令を下しました。もともと江藤は不平士族達を抑えるために帰郷する予定でしたが、江藤が佐賀に着く前に鎮圧命令を下したことで、江藤はもはや反乱を防ぐことはできない状況に追い込まれました。その後1878年、大久保利通は石川県の士族である島田一郎ら6名により暗殺されてしまいます。この事件を紀尾井坂の変といいますが、本来この紀尾井坂は大久保がよく利用する通りではなく人通りも少ない道でした。ではなぜ、この道を通ったのかというと、江藤の弟が自分の兄を死に追いやった大久保の顔を一度見てみたいということで上京し、いつも通る道で待ち伏せていました。そして大久保と目があったのです。大久保は弟に江藤の面影を見たのか、あるいはその眼光に恐怖したのか、その後は普段は人通りの多いその道を通ることをやめたのです。大久保と江藤の対立は江藤の死後も続き、その運命を翻弄したとも言えるのではないでしょうか。【送料無料】 NHK大河ドラマ 西田敏行 「翔ぶが如く 完全版」 全巻(第壱集+第弐集) DVD...<大河ドラマ総集編 得得キャンペーン><NHK大河ドラマ 総集編>[DVDソフト] 翔ぶが如く 3枚組...精町から佐賀の乱を読む江藤の首を晒せブログランキングに参加しております。よろしければクリックお願いいたしますm(_ _)m
2009.06.24
豊臣秀吉は脚気が原因により死亡したとする新説がでました。http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20090608-00000025-maip-soci毎日新聞秀吉の死因については現在までいろいろと推測されてきてましたが、いまだ原因ははっきりせず、この新説はなかなか説得力があると思います。ビタミンB1の摂取不足により、末梢神経(運動・知覚神経)が障害され脚気になりやすいといわれています。かって日清戦争や日露戦争でも兵士たちに大量の脚気患者が出たとされ、またカップラーメンが世に出回った時にも、当時のカップラーメンにはビタミンB1が含まれておらず、それを毎日のように食した人達に脚気が発症しました。それにより、現在のカップラーメンにはビタミンB1が含まれるようになりました。この説によると秀吉の末期症状は、脚気の症状と類似する点が多く、今後注目される説となるでしょうね。 ブログランキングに参加しております。よろしければクリックお願いいたしますm(_ _)m
2009.06.11
1977年4月25日、トロール船「瑞洋丸」がニュージーランド沖で操業していたところ、網に巨大な生物の腐乱死体が引っ掛かり、引き揚げたところ、その姿は首長竜のように首が長く、まさに古代に生存した恐竜プレシオサウルスのような姿であり、このニュースとその写真は当時大きな話題となったそうです。結局その死体は腐乱臭がすごいこともあり、日本に持ち帰ることはできず、その場で再び海中に遺棄されました。この生物は当時いろいろと話題に上っていたネス湖の謎の生物ネッシーにたとえられ、ニューネッシーと名付けられました。その後その死体について様々な論争が持ち上がりましたが、持ち帰られた成分の分析から、この死体はウバザメの死体であると結論づけられました。ウバザメの死体は、体の一部が抜け落ち、その姿は首長竜のように見えるそうです。一応ウバザメであるという結論に落ち着きましたが、当時船に乗り合わせた人は、その腐乱臭はいかなる生物の物とも異なっていたとも言っており、まだ謎は残っています。現在でも世界中の湖などで、未知の生物の目撃談などがあり、日本では屈斜路湖のクッシーや池田湖のイッシーが有名ですが、環境や餌などの条件から湖に古代の恐竜が生き残っている可能性はないと思われます。大部分は流木などの見間違えや波形や時には捏造も多いといわれています。また例えば、チョウザメなどが水中の環境により変異し、倍数体になり巨大化した可能性もあるといわれています。しかし、海のような広大な場所では我々の知らないこともまだ多く(むしろ知らないことの方が多い)あるといわれ、解明されていないことも数多いです。そういった海には、まだ古代の首長竜のような生物や未知の生物が潜んでいても、なんら不思議なことではありませんね~ ブログランキングに参加しております。よろしければクリックお願いいたしますm(_ _)m
2009.06.06
1993年はいろいろな出来事があった年でした。スポーツ界で云うと、プロのサッカーリーグであるJリーグが開幕した記念すべき年であり、プロ野球界でも、前年オフに日本のミスタープロ野球長嶋茂雄が巨人軍の監督に就任し、この年のシーズンから監督として指揮をとりました。戦後日本のスポーツ界を代表するスーパースターの復帰に、当時を知るお父さん世代の人々は大いに喜びましたそしてプロ野球中継である日本テレビ系の劇空間プロ野球93のテーマ曲‘果てしない夢を’にゲストボーカルとして起用されるほどの盛り上がりぶりでした。果てしない夢を/雨に濡れてまたこの年は、皇太子徳仁親王が小和田雅子さんとご結婚され、日本中が大いに盛り上がりました。また、大正時代にあった米騒動を思い出させるかのような平成米騒動も起こりましたね。そして政治界では、戦後1955年からの自由民主党・日本社会党による2大政党による権力争い(実際は自由民主党が政権を持ち続けており、日本社会党がそれに次ぐ野党第2政党として君臨していましたが、政権を担うことはありませんでした)が終わりを告げ、連立政権である細川内閣が誕生しました。ここにいわゆる55年体制は崩壊に至ったわけです。ちなみに当時の音楽界はB'zやWANDS、T-BOLAN、ZARDなどのいわゆるビーイング勢が全盛期であり、ふと何かのきっかけで曲を耳にすると、当時のことがよく思いだされてきますね。細川内閣と政界再編’9455年体制成立と女たち再軍備と55年体制ブログランキングに参加しております。よろしければクリックお願いいたしますm(_ _)m
2009.06.03
写真の残っていない幕末・維新の有名人といえば、真っ先に浮かぶ人物として西郷隆盛が挙げられるでしょう。西郷の写真嫌いは有名であり、明治天皇に勧められても撮らなかったくらいでした。また、実は撮っていたが、西南戦争時に暗殺を防ぐために処分してしまったという説もあります。当時は実際会ったことがないと、まだよくわからない時代でしたからね。現在でも何枚かの写真が候補として挙げられていますが、明らかに否定されているものも多く、多分実際に写真は撮っていないのではないかと思われます。江戸幕府14代将軍である徳川家茂も写真が残されていません。彼は皇女和宮との婚礼で有名ですが、将軍としての才も高く評価されていました。しかし、第2次長州征伐の時に病により21歳という若さで死去し、幕府にとっても大きな痛手となりました。後に和宮の墓石を調査したところ、一人の男性の写真が見つかり、実はこの人物こそが徳川家茂ではいかと思われましたが、翌日にはその写真像が消えてしまったそうです。後に明治政府で活躍する政治家たちを数多く養成した松下村塾の吉田松陰については、松陰の写真ではないかと云われている写真が残っています。肖像画と比べると、雰囲気は異なりますが、顔のつくりは非常に似通っており本物の可能性もあります。しかし、松下村塾で学んだ松陰の弟子でもっと長生きをし、昭和14年に97歳で亡くなった渡辺蒿蔵によると、別人ということらしく真相はまだわかっていません。今では当たり前になっている写真も、当時はなかなか撮れない貴重なものだったんですね。 ブログランキングに参加しております。よろしければクリックお願いいたしますm(_ _)m
2009.05.31
サメと言えば、映画‘ジョーズ’や‘DEEP BLUE SEA’での人喰いサメのように怖い印象をお持ちの方も多いと思われます。ただ実際のサメは、映画のようにやみくもに人を襲うわけではないらしいですが、第2次世界大戦中などに戦闘機が海中に墜落した場合などは、サメに襲われることも稀ではなく、世界各国はその対策には頭を悩ませていたそうです。そして終戦も間直に控えた1945年7月末日、その数日後に日本に投下される原爆の材料などをテニアンに運び終え、次の目的地に向かう途中であったアメリカの軍艦インディアナポリス号が艦長橋本以行率いる日本の潜水艦伊58に撃沈され、沈没しました。乗組員は1199名でしたが、その時の攻撃で死亡した人はおよそ300名で、残りの人達およそ900名は、救命用のいかだに乗り脱出できたか、そうでない人たちは救命胴衣を着けたまま海面に漂流しながら救助を待ちました。そのうちにサメの大群が海中に出現し始め、その後救助が来る4日後までに、サメに襲われたり、いつサメに襲われるかもしれないという恐怖による幻覚や体力低下などにより死亡し、生存者はわずか316名でした。その後生存した艦長は軍法会議にかけられ有罪とされ、その後も遺族の人達からの非難にさらされ、約20年後に自殺しました。しかし、その後の調査から艦長の責任はないことが証明され、艦長の名誉は正式に回復されました。普通に生活していれば人喰いサメのようなサメに出くわす可能性は、宝くじに当たる確率よりも低いそうですが、戦時中では大きな問題となっていたんですね。 【七夕セール!】 ディスカバリーチャンネル 地獄の漂流4日間 インディアナポリス号の最期(DVD) ...ブログランキングに参加しております。よろしければクリックお願いいたしますm(_ _)m
2009.05.30
中尊寺金色堂には3体のミイラが保存されており、それはかって栄華を誇った奥州藤原氏をつくりあげた初代藤原清衡、2代目基衡、3代目秀衡のものです。そして、ひとつ首が入った首桶が残されており、それは長年の間、4代目藤原泰衡の弟である忠衡のものであると考えられていました。秀衡は死の間際、泰衡ら息子たちに、もし頼朝が奥州に攻め入るようなことがあれば義経を大将にして鎌倉軍と戦えという遺言を残し亡くなります。史実では頼朝に恐れをなした泰衡はその遺言を無視し、義経を討つことで奥州の安定を図ろうとし、義経側についていた弟の忠衡を殺し、義経を襲い自害に追い込みます。しかし、頼朝には受け入れられずに、逆に頼朝に滅ぼされてしまいます。そのため泰衡は、偉大な父秀衡の遺言を守らずに奥州藤原氏を滅ぼした張本人として評判がよくありません。そのために中尊寺に納められていた首は、父秀衡の遺言を忠実に守り義経と共に奥州藤原氏を守ろうとした忠衡のものであると考えられていました。しかし昭和25年の調査によると、その頭蓋骨には吾妻鏡に記述されていた泰衡の梟首痕と一致する傷が残されており、実はその首は泰衡のものであることが確認されました。はたして奥州藤原氏を滅ぼした張本人の首を、奥州藤原氏を築きあげ繁栄をもたらした初代清衡、2代目基衡、3代目秀衡の遺体と共に手厚く保管することはあり得るのでしょか・・・?この事実は、実は泰衡は史実とは異なり、義経をかばい奥州を守ろうとた忠義者ではないかという説にもつながり、それは実は義経は平泉で死亡しておらず、鎌倉に送った首は影武者ではないかという説にもつながり、さらには義経北方逃避行の伝説や義経はチンギスハンではないかという説にまで発展していくこともできます。しかし義経が北方に逃げたという伝説は、江戸時代における幕府の北方政策の一環として作られた可能性が高く、また義経チンギスハン説も近年のチンギスハンに対する研究からほぼ可能性がないことが確かめられています。そうなると泰衡が中尊寺に手厚く葬られている理由とは・・・?歴史は謎が多いですね~、それがまた面白いところでもあるのですがね。 NHK大河ドラマ「炎立つ」DVD-BOX1&DVD-BOX2セット【送料無料】ブログランキングに参加しております。よろしければクリックお願いいたしますm(_ _)m
2009.04.23
戦後間もない昭和25年、平安時代末期に奥州に一大勢力を築いた奥州藤原氏の象徴でもある中尊寺金色堂の発掘調査が行われました。そして源頼朝に討たれた藤原泰衡の首が納められていた首桶の中から蓮の種を発見しました。その種はまさにその当時のものであり、発見当時は発芽しませんでしたが、その後平成時代に発芽させることに成功し見事な花を咲かせました。実に約800年後に開花したわけです。その800年もの間に歴史は大きく変わり、文明も進化し、様々な人間模様が繰り広げられました。多くの戦いがあり多くの人々が亡くなりました。しかし蓮の種は、その当時のまま800年もの間生き続け、あたかもその歴史を観察し続けたかのようです。人の一生に比べれば花の命はわずかですが、ある意味800年もの間、当時の姿のまま生き続けたその蓮の種は、800年もの間変化し続けた人よりも、根本的に強い力を持った存在に感じましたね。 ふるさと東北版「東北6県の名勝地」7種セットブログランキングに参加しております。よろしければクリックお願いいたしますm(_ _)m
2009.04.21
様々な手を使い収監中の刑務所を脱獄し続け‘昭和の脱獄王’として知られたが白鳥由栄です。白鳥は、強盗目的で盗みに入った家で見つかってしまい、殺人を犯してしまします。犯行は白鳥とその仲間の2人で犯し、その後は別々に逃亡しますが、仲間が捕まったことを知ると自ら警察に出頭し自首し、無期懲役の判決を受けます。当時(戦前)は受刑者の人権などはほぼないものとして扱われていたので、刑務所内での白鳥の扱いは相当ひどかったらしいです。そのために白鳥は最初の収監場所である青森刑務所を脱獄します。その時は自分で合鍵を作り脱獄したそうです。その後3日で捕まりますが、移送先の東京の刑務所では所長である小林氏が人間らしく扱ってくれたおかげで静かに暮らしますが、戦争の影響により秋田刑務所に移送されます。秋田刑務所では再びひどく扱われ、刑務所内の囚人の人権改善を求め、以前人間らしく扱ってくれた小林氏に訴えるために脱獄を決意します。部屋の中は天窓が開いているだけでしたが、白鳥は腹筋などの筋トレを密かに行い、なんと両足のみで壁を伝い脱獄に成功します。そして、小林氏を探し当て、刑務所における囚人の待遇改善を訴え、それを遂げると小林氏と共に自首します。しかし今度の収監先である網走刑務所でも待遇は改善されず再び脱獄を決意します。今度は入口の窓しかあいておらず、白鳥は食事の味噌汁を口に含み、それを窓の釘に流し込むことにより釘を錆びつかせ窓を開けることに成功し、脱獄に成功します。そして逃亡中戦争が終わったことを知ります。しかし農家で畑泥棒と間違われ、滅多打ちにあっているところを反撃し逆にその人を殺してしまいます。そして捕まり死刑判決を受け札幌刑務所に収監されますが、そこでも桶についている金属製の金具を使い、自分で鋸を作り床を切り取り土を掘り、脱獄に成功します。そして逃亡中、職務質問を受けますが、その警官の態度に感服した白鳥は自らを名乗り捕まり府中刑務所に収監されます。死刑判決は減刑され傷害致死とされ、逃亡の罪も加えて懲役20年の判決を受けますが、今度の府中刑務所では待遇もよく、模範囚として刑期を全うし、1961年に仮出所を果たし、1979年に病気で亡くなります。盗みに入った家で殺人を犯すことなど論外であり、また逃走中に畑泥棒と間違われ逆にその人を殺してしまったことも、身から出た錆であり同情の余地は全くありません。それでも、自分をまともに扱かってくれた人に対しては義理堅い面を見せるなど、人柄的にはそんなに悪い印象は感じないような気がします。それだけ戦前の囚人に対する扱いは相当ひどかったんでしょうね。ただやはり、犯した罪は相当重いことを忘れてはいけないと思います。 <NHK DVD>[DVDソフト] 破獄ブログランキングに参加しております。よろしければクリックお願いいたしますm(_ _)m
2009.04.12
前回の続きで、幕末・明治維新期の著名人や有名な隊の関係者で、長生きをした人物として、元白虎隊隊士の飯沼貞吉と酒井峰治が挙げられます。白虎隊は会津藩の兵であり、飯盛山で若松城が落城していると思い、集団で自刃し全滅したと思っている方もいると思いますが、実際飯盛山で自刃したのは全白虎隊兵の2割弱の20名であり、そのうち一人が唯一、自刃した中で生き残った飯沼貞吉です。飯沼は飯盛山で自刃した後に、息があるところを助けられ、その後に電信技士として活躍しました。そして1931年(昭和6年)に亡くなりました。生存中はなかなか白虎隊のことは語らなかったそうで、語り始めたのは晩年からだったそうです。もう一人の酒井峰治は飯盛山で自刃した隊とは別行動をとっており、戊辰戦争では生き残り、明治維新後も彼が元白虎隊隊士であることは知られておらず、1932年(昭和7年)に亡くなりました。彼の存在が世に知れ渡ったのは、その死後61年後のことで、彼がしたためた‘戊辰戦争実歴談’が発見されてからでした。彼を主人公にしたドラマ‘白虎隊’が一昨年の新春スペシャルドラマで放送されましたね。白虎隊のドラマと言えばもうひとつ、堀内孝雄の‘愛しき日々’で有名な1986年の年末時代劇‘白虎隊’ですね。テーマ曲‘愛しき日々’が実にドラマの物悲しさにマッチしていて印象に残るドラマでした。ちなみにこの頃酒井峰治の存在は、まだ世に知れ渡っていませんでした。自刃しながらも生き残った飯沼と、別の状況にいて元隊士として生き残った酒井、共に生存中は隊のこと話すことを拒んだり、あるいは全く元隊士であることを公表しなかったそうですが、その心中はいかがなものだったのでしょうか。しかし心の中では、隊にいたことを誇りに思い、その時の苦難の道を糧に力強くその後の人生を生き続けたのかもしれませんね。 ”共に22才”勝新太郎&市川雷蔵の記念すべきデビュー作!若き命を賭して散った白虎隊士十六人...【ワゴンセールSP】 白虎隊 時代劇スペシャル(DVD) ◆25%OFF!白虎隊 DVD-BOX / 山下智久ブログランキングに参加しております。よろしければクリックお願いいたしますm(_ _)m
2009.04.06
幕末・明治維新期の著名人や有名な隊の関係者で、長生きをした人物として、元新撰組隊士の池田七三郎(稗田利八)が挙げられます。彼が新撰組に入隊した時期は、鳥羽伏見の戦いが始める前年の6月と遅い時期ですが、戊辰戦争では各地を転戦後に戦死したといわれていましたが、実は脱出に成功しておりその後新政府側に降伏しました。そして長い年月が経ち、彼が亡くなったのは1938年(昭和13年)で享年90歳という長寿を保ちました。鳥羽伏見の戦いから実に70年後のことです。彼の晩年の写真を見たことがありますが、刀を抜いているその姿に年老いてもなお貫録を保っている様子がうかがえましたね。幕末期の大老井伊直弼の四男井伊直安は1851年に生まれました。井伊直弼が大老に就任したのが1858年ですので、当時は直安氏は現在で云うと小学生低学年くらいの年ですね。その後開国問題に携わり、また安政の大獄で多くの志士たちを弾圧した直弼は1860年に桜田門外の変で暗殺されてしまします。その後幕末維新の動乱の中で彦根藩は新政府側に属し、直安氏も幕末や明治新政府においても活躍し、1935年(昭和10年)に85歳で亡くなります。写真が残っていない直弼の姿を、後年彼が幼い時の記憶をたどり描いた肖像画が残っていますね。幼い当時、国事に追われ多忙な生活を送る父親の姿や、激変する日本の情勢を彼はどうようにみていたのでしょうか。 【送料無料選択可!】NHK想い出倶楽部2~黎明期の大河ドラマ編 1 花の生涯 / TVドラマブログランキングに参加しております。よろしければクリックお願いいたしますm(_ _)m
2009.04.02
天下統一に突き進んでいた織田信長が、本能寺において家臣の明智光秀により滅ぼされた本能寺の変については、光秀単独犯行説や様々な黒幕の存在などが長い間議論されていますが、真相はいまだに分かっていません。ここでこの本能寺の変に明智方の兵として参加した人物が、後年親族に対して残した記録が存在しています。この記録を本城惣右衛門覚書といい、今までテレビドラマや映画なので描かれてきた本能寺の変とは全く異なった事件の様子が記録されています。まず、光秀が本能寺に来る前に既に他の者が到着していたという説がありますが、それに関してはこの資料では否定されており、またこの変に参加した兵は本能寺に向かうときには、その相手が信長であるとは夢にも思わずに、当時京にいた徳川家康を討つものだと思っていたそうです。そして本能寺に到着した時は、門が開いており、寺の中に入った時も、その静けさと鼠一匹もいない様子が記録されています。その後女性を一人捕らえたことが記録されていますが、侍は一人も見なかったことが記録されています。またこの時点でも兵達は誰が敵かも分かっていなかったようです。その後何人かの相手方の侍がでてきて切り捨てたことが記録されています。これらの記録からみると、よくドラマや映画などで描かれている、本能寺への大規模な突入と、そこでの戦いの様子とは全く異なるような、事件の静けさが描かれていますね。この資料に書かれてあることが事実かどうかはわかりませんが、なかなか興味深い資料であることは間違いないですね。 NHK DVD「その時歴史が動いた」本能寺の変 信長暗殺!~闇に消えた真犯人~「戦国編」ブログランキングに参加しております。よろしければクリックお願いいたしますm(_ _)m
2009.03.26
1874年、前年の征韓論の問題で新政府を去った江藤新平は、佐賀で新政府に対する不穏の空気が流れているを知ると、それを鎮めるために帰郷しましたが、逆に首領に祭り上げられてしまい佐賀の乱を起こすことになります。しかし大久保利通を中心にした新政府軍に敗れ、江藤は鹿児島まで落ちのび西郷隆盛と対面し決起を求めますが拒絶され、もし助かりたいのなら島津久光の袖にすがれと助言しますが、結局江藤は久光を頼ることはありませんでした。そして鹿児島を去る時、江藤は共に逃亡してきた二人の人物を西郷の腹心である桐野利秋に預けます。この人物の名は徳久幸次郎と石井貞興といいますが、桐野はこの二人を洞窟に匿います。後に追手の手が厳しくなり、桐野の元にも尋問が来ますが、桐野はさすがの威厳を持って捕吏を追い払ったといいます。その3年後、西南戦争がおこるとこの二人は薩摩軍と行動を共にし、最後は徳久は戦死し石井は捕えられ処刑されます。桐野利秋は幕末期には別名‘人斬り半次郎’とも呼ばれており、戊辰戦争にも従軍し功を挙げました。しかし、実際に人を切った正式な記録が残っているのは1件のみです。西郷や他の明治維新に功のあった人物が桐野という人物を評価しているように、彼には相当の器があったのではないでしょうか。その人柄に惚れ、また恩に報いようと、徳久と石井も西南戦争に従軍したのではないでしょうか。かって二人を追ってきた捕吏も、桐野の貫録に圧倒されたのではないでしょうか。 ブログランキングに参加しております。よろしければクリックお願いいたしますm(_ _)m
2009.03.19
明治維新の後、国民の努力があり国会が開設され一般の人々にも選挙権が与えられるようになりました。しかし当初は納税額15円以上、満25歳以上の男子という条件があり、一般庶民にはほとんどこの条件を満たす人々はいませんでした。その後何回か条件が改正され、1925年、ついに納税額の制限がなくなり、満25歳以上の男子全員に選挙権が与えられる普通選挙法がついに実現しました。当時は官僚や軍人たちが内閣を組閣することが多く、当時内閣を組閣していた官僚清浦圭吾に対して、野党三党である政友会・憲政会・革新倶楽部は護憲三派を結成し、普通選挙法実現を公約に掲げ、清浦内閣打倒を目指していました。その動きに対して清浦内閣は警察力や買収などを行い、選挙干渉を行いました。当時は選挙演説などを行っても政府の力により様々な妨害が入ったそうです。今の時代では考えられないことですね。そのような政府の妨害にもかかわらず、選挙結果は護憲三派の圧勝であり、首相には憲政会の加藤高明が就任し、公約通り普通選挙法を議会に提出しました。そして採決の結果、ついに普通選挙法が実現したわけです。しかしこの普通選挙法と共に治安維持法も成立しました。この法律は数年前にロシアで起こったロシア革命などにより高まりつつあった共産主義を取り締まろうとした法律です。一方では普通選挙法という飴を与えつつ、もう一方では治安維持法という鞭を与えたかのようであり、このことは飴と鞭と呼ばれました。この治安維持法はその後も厳しく改正され、様々な学者や思想家などが弾圧されました。そして次第に戦争に向かっていくことになるんですね。 ブログランキングに参加しております。よろしければクリックお願いいたしますm(_ _)m
2009.03.18
盗んだ品物や金品を、貧しい者たちのために与えたりする行為をする犯罪者を、義賊といいます。有名な義賊と言えば、鼠小僧や石川五右衛門が思い浮かびます。また、時代劇‘影の軍団2’では真田広之さん演じる‘はやて小僧’が伊賀忍者たちの協力者として義賊を演じていました。また漫画やテレビドラマルパン三世では(これは義賊とはちょっと違いますが)初代石川五右衛門の子孫である石川五ェ門がルパンや次元と共に活動していましたね。しかし、実在の鼠小僧や石川五右衛門は確かに盗人ではありますが、貧しい人たちのために活動したという事実は実際にはありませんでした。ではなぜこのような盗人たちが、いわゆる庶民の味方の‘英雄’として扱われているかというと、盗みに入った家が権力者の家であり、庶民たちをターゲットにしなかったということが挙げられると思います。鼠小僧は江戸時代後期の人物ですし、石川五右衛門は豊臣秀吉が天下を掌握していた時代の人物です。当時は現在のように三権分立制はなく、権力者の一声でどうにでもなる時代でした。そういった権力者に対する不満などが、権力者をターゲットに盗みを犯す盗人を英雄のように感じていた面があったと思います。いつの時代でも権力に対する不満は当然あるわけで、その権力が絶対的であった昔ではなおさらその思いは強かったのかもしれませんね。 2009年02月21日発売影の軍団2 COMPLETE DVD 弐巻【初回生産限定】ブログランキングに参加しております。よろしければクリックお願いいたしますm(_ _)m
2009.03.14
関が原の合戦で劣勢不利となった西軍は、石田三成らの主力が次々と戦線を離脱する中、唯一取り残された島津義弘率いる軍勢は、敵中の正面突破を図ります。そして徳川家康の本陣寸前まで迫ると、方向をかえ逃走していきます。その島津勢を追撃したのが井伊直政の部隊ですが、追撃のさなか島津軍の鉄砲に撃たれ落馬します。後に1500人にいた兵を80人余りにまで減らしながら薩摩まで帰還した島津は、徳川との和平交渉を、合戦中、島津を追撃したこの井伊直政に依頼します。直政は引受、徳川と島津との和平交渉に尽力します。しかしそのさなか直政は、死去します。その原因となったのが破傷風菌です。破傷風菌は世界中の土壌などに存在し、傷口から感染し、感染した菌が毒素を発生します。それによりまず開口障害がおこり、その後、歩行起立障害や発語障害、物を飲み込みずらくなったりし最終的には全身が硬直し、窒息死してしまう恐ろしい菌です。たぶん直政は鉄砲で撃たれた時に落馬し、その傷口から関ヶ原の土壌に存在していた破傷風菌に感染してしまったんでしょうね。医学が現在のように発達していない時代は、菌というものは非常に恐ろしいものだったんですね。戦国武将の旗をイメージ 武家ようかん 井伊直政(井) 5個入り井伊の赤備え 井伊直政 戦国武将 ARMOR SERIES フィギュア 本格的な造りです! ブログランキングに参加しております。よろしければクリックお願いいたしますm(_ _)m
2009.03.13
田沼意次失脚の後を受け政治の実権を握ったのが、徳川吉宗の孫であり白河藩の藩主まで務めた経験のある松平定信です。定信は、吉宗時代の享保の改革を目標とし、さまざまな改革に取り組みました。この松平定信による改革を寛政の改革といいます。倹約を掲げ、それは庶民や武士だけでなく大名や大奥そして皇室にまでその政策が及びました。さらに農村の復興にも力を入れ、町へ出稼ぎに行く農民を減らすために、村に戻ったり残る農民を優遇するなどの政策をとりました。そして、町人に借金するなどして生活に困窮を極めている武士たちを救うために、一定時期を過ぎた借金は帳消しにする棄捐令を発令しました。さらに田沼時代は盛んであった蘭学を禁止し、寛政異学の禁を発令し、朱子学を幕府の正規な学問とし奨励し、昌平坂学問所をつくり人材の育成にあたりました。これらの政策はまさに田沼意次の政策とは正反対の政策であり、徹底して田沼時代からの脱却を目指しました。また、文武両道を奨励するなどの政策をとりましたが、あまりにも厳格な自由の少ない政策であったので、さまざまな方面から批判を浴び、田沼時代を懐かしむ狂歌なども出され、定信の改革はうまくいかなくなり、ついには職を辞職しました。↓は当時の狂歌ですね。当時の人々の心境が実にうまく表現されていますね。世の中に蚊ほどうるさきものはなし ぶんぶというて夜も寝られず白河の清きに魚のすみかねて もとのにごりの田沼こひしき商業を活性化したりして町人文化も発展させた田沼と違って、棄捐令を出したりして武士を助けた定信は、庶民から見ても、結局武士たちの生活はよくなっても自分たちの生活は何ら変わらないと不満が多かったんでしょうね。また、文武両道は非常に良いことですが、あまりに厳しく義務的に言われると、うんざりするのもよくわかりますね。松平定信蔵書目録 ブログランキングに参加しております。よろしければクリックお願いいたしますm(_ _)m
2009.01.16
10代将軍家治の時代は側用人である田沼意次が政治の実権を握り、老中にまで上り詰めました。彼の政治方針は、商業を中心に財政を豊かにしようとする殖産興業であり、株仲間を積極的に認めたり、幕府の専売品を定めその専売権を商人たちに与え、その代りに一定の冥加金を納めさせるという冥加金制度などを設け、幕府の財政を安定させようとしました。また、商人の力をかり、新田開発を進めたり、印旛沼・手賀沼の干拓を行いました。さらに外国に対する規制を緩めたので、蘭学が盛んになり、学問も盛んになり町人を中心とする文化が盛んになりました。また、ロシアとの交易も考えたり、蝦夷地などの北方を探索することも行い、非常に広い視野を持った政治家とも言えるのではないでしょうか。一方この商業を中心とする政策は、商人と政治家との癒着を呼び賄賂が横行したとも言われています。しかし真偽は不明ですが、この賄賂政治は後の松平定信を中心とする意次反対派により作られた虚構である可能性も指摘されています。しかしこの意次の政策は、都市部の商業を発展させましたが、逆に農村の人々は都市部に流れていき農村は荒廃し、天明の飢饉なども起こり、厳しい税の取り立てに反対した百姓一揆が頻発し、都市部でも打ちこわしが起こり、次第に意次は批判を浴び、ついには失脚します。通説では田沼意次=賄賂というように悪評が高く広まっていますが、実際は政治家としての能力は非常に優れており、彼に対する評価も見直されてきており、彼を非常に高く評価する研究者もいます。 ブログランキングに参加しております。よろしければクリックお願いいたしますm(_ _)m
2009.01.11
江戸時代幕府は、幕府に対抗できる力を弱めようと、参勤交代などにより諸藩の財源を削減してきました。そして江戸時代半ばの1753年に幕府は、薩摩藩の財源を減らす目的で、薩摩藩に対して木曽三川の治水工事を命じました。この川には洪水が発生しており、それを防ぐための工事という名目でした。この工事は1755年の5月に終わりますが、幕府の監視下で行われたこの工事で、薩摩藩は多額の財源を使い、また工事にあたった薩摩藩士たちも幕府の監視下に置かれ、食事も満足に与えられず、その他必要品なども自由に扱えず、また工事した箇所が幕府の役人により破壊されるなどの嫌がらせが多発しました。そして、抗議のために自害した藩士が51名、さらに過度の労働や栄養不足、赤痢により病死した藩士が33名にものぼりました。総奉行に任じられた薩摩藩家老平田靱負も工事が終わり帰国した後に自害しました。このような自害者を報告することは幕府に対しての反抗とみなされるので、あえて自害ということは伏せて報告されました。この事件を宝暦治水事件といいます。この事件のおよそ110年後、薩摩藩は幕府を倒し、関が原の合戦と宝暦治水事件における幕府に対する雪辱を果たすことになったのです。 宝暦治水・薩摩義士箱根用水と宝暦治水物語ブログランキングに参加しております。よろしければクリックお願いいたしますm(_ _)m
2009.01.08
江戸時代には身分制度があり、身分の高い順に士農工商という順序になっており、武士の身分が最も高く、武士の下に対等にその他の職業が位置するという位置づけでした。しかし身分上はそうでありながら、経済面では圧倒的に商人が優位に立っていました。様々な商売で成功し豪商になり多くの富を得た者もいて、大坂の淀屋や江戸の紀伊国屋などが挙げられます。一方大名や武士たちは生活に困窮することが多く、商人から金を借りることが多くなり、さらに物価の上昇も伴いますます生活に困窮することになっていきました。中には火砲などを質屋に持っていき金に換える者もあり、かさはりやぬりものなどの内職をするものも多く出ました。またそれ以外にも、植木屋や金魚屋や小鳥屋などをして生活の足しにする武士もいました。しかし武士という身分上、商人のような振る舞いをすることがプライド的に許せず、なかなかうまくいかないことも多かったらしいです。また、生活の困窮のために武士の身分を売る者さえいました。身分上は上であった武士たちも表面上では商人にはかなわなかったケースも多かったんですね~ 真説淀屋辰五郎(上巻)真説淀屋辰五郎(下巻)ブログランキングに参加しております。よろしければクリックお願いいたしますm(_ _)m
2009.01.05
時代劇の‘暴れん坊将軍’で有名なのが第8代将軍徳川吉宗です。実際の吉宗は、ドラマのように悪人を退治することはないわけですが、その人物像はドラマで描かれているように非常に勇ましい人物であったといわれています。武術に長けており、冬でも薄着をし狩などをしたそうです。政治面では、幕府の財政を立て直すために倹約令を発し、ぜいたくな品物を身につけたり食べたり売買してはいけないことにしました。他にも上米の制の実施し、参勤交代で江戸にいる期間を半年に縮めるかわりに1万石につき100石の割合で幕府に米を納めさせました。また足高の制を設け、以前は役職から退いた後もその役職の給与をもらっていたのを改め、役職から退いた後は元の給与に戻すことにしました。こうした制度を実施したおかげで幕府の財政は安定しました。司法面では公事方御定書という法律を発布し、また有名な大岡越前を江戸町奉行に登用し司法面での充実を計りました。また率直な民の意見を聞くという目的で目安箱を設置し、意見があるものは箱に投書することができました。その意見を採用した例として、町の病院である小石川養成所がつくられ、町火消し制度も作られました。これら吉宗の政治改革を享保の改革といいます。この改革は非常に効果がありましたが、幕府の財政を安定させるために、農民に対して税率を上げ、そのために百姓一揆が頻発したという事実もあります。吉宗の政治は、落ちてきた将軍の権威を高めるために、幕府設立当初のような将軍権威の復活を掲げたために農民や町人の不満は多かったんでしょうね。 徳川吉宗の謎徳川吉宗徳川吉宗101の謎 NHK大河ドラマ総集編DVDシリーズ 八代将軍 吉宗 / 西田敏行ブログランキングに参加しております。よろしければクリックお願いいたしますm(_ _)m
2009.01.03
江戸幕府が成立以降、幕府は様々な理由をつけ有力大名を改易したり、領地を削減してきました。有名なところでは、豊臣恩顧の大名である福島氏や加藤氏、さらには幕府の普代の家臣である本田正純までが冤罪説の高い釣天井事件により改易させられました。こうした幕府の政治方針を武断政治と言い、およそ全国の半分にも上る大名が処分を受けました。そしてその結果、大量の浪人が溢れ、職にも就けない浪人の不満が爆発する形となって表れたのが、由井正雪の乱です。由井は幕府に不満のある浪人たちを集め幕府転覆を計画しましたが、密告により事前に露見し自害しました。またその翌年には、浪人が首謀者である承応の乱が発生し、幕府は武断政治からの転換をせざるをえなくなりました。当時は末期養子の禁といって、後継ぎを持たない当主が死の間際に、突然養子を願い出ることを禁止する定めがあり、これを緩和するなどしました。また、職のない浪人に職を与える機会を設けるなど、以前の武断政治から大きく政策を転換しました。これを文治政治といいます。確かに江戸幕府が成立して初期の頃は、豊臣に恩を感じている大名もまだいますし、幕府にとって危険だと思える大名を粛清したくなる気持ちもわからなくはないですが、改易に値しない理由で処分されると、かえって不満が増幅するのも当然でありますね。これを機に世情は安定することになります。 天下を狙った男 由井正雪ブログランキングに参加しております。よろしければクリックお願いいたしますm(_ _)m
2009.01.02
現代では旅というと、車や電車や飛行機などで目的地にはすぐ行くことができますが、江戸時代の旅というと徒歩で行くことが大半でした。江戸には日本橋には出発点として五街道が走っていて、東海道・奥州街道・中山道・日光街道・甲州街道があり、いちばん有名なのがたぶん東海道五十三次で知られる東海道だと思います。東海道は江戸の日本橋から京都までつながっていて、その街道を行けば京都までたどり着くことができました。東海道五十三次の五十三次というのはその街道の途中にある53か所の宿場のことを言います。当時旅に出る時は、通行手形という今で言うとパスポートが必要で、街道の途中にある関所で調査を受けました。ちなみに関所破りをすると死罪になりました。当然旅は徒歩で行くので、夜になる前に宿に入る時は足が非常に汚れているので宿に上がる前に足を洗うのが原則でした。よく時代劇などで足を洗う様子が描かれていますね。また、夜の街道は非常に物騒で、物取りなどが横行していることもあり、夜になる前に宿に着くようにペースを考えながら歩かなくてはいけませんでした。旅も安全ではなかったんですね~。街道の途中で籠屋もいて、それを利用することもありましたが、悪徳な業者もいて法外な値を要求する場合もあったので、安全とはいえない面もあったとおもいます。また、当時は川には橋がかけられていないことが多く、わたし船で渡りました。有名なのは大井川で、この川はわたし船がなく、業者に肩車してもらうか、自分で歩いて渡るか、れん台に乗って渡るかの選択でした。今から考えるとなかなか面倒な面もありますが、徒歩で街道を歩き、各地の様々な風景や名産などを体験しながら時間をかけ旅をするというのも、結構魅力あることだと思いますね一度経験してみたいものですが、さすがに過去にタイムスリップするのは無理ですね(笑) 歌川広重(安藤広重) 陶板東海道五十三次 日本橋・朝之景ブログランキングに参加しております。よろしければクリックお願いいたしますm(_ _)m
2008.12.30
関が原の合戦において、東軍に内通していた小早川秀秋が裏切り西軍は総崩れになりました。合戦当時、西軍でまともに戦っていたのは、石田三成・小西行長・大谷吉継・宇喜多秀家の4武将だけでしたが、形勢劣勢となった西軍の小西行長は伊吹山中に逃走します。山中をさまよっていた行長ですが、そこで林蔵主という僧に遭遇します。林を呼びとめた行長は、自らを西軍に通報し褒美を取れと伝えます。逃れよという林に対して行長は、自分はキリシタンゆえに自害したくてもできない、と伝えます。そこで仕方なく林は通報し、行長は東軍の竹中重門に捕縛されることになります。キリシタンは自らの命を自らで絶つことは禁止されているんですね。その後まもなく行長は、石田三成・安国寺恵瓊とともに西軍の首謀者として処刑されてしまいます。行長は朝鮮の役でも先鋒を務めるなど、秀吉天下統一後はいくさで出兵することが多く、キリシタンゆえにその生き方に疑問を感じていたのかもしれませんね。行長の死後、ローマ法王がその死を嘆いたという逸話も残されています。秀吉に見出され秀吉の恩に報いなければならないという使命と、キリシタンという自らの信仰とのはざまで様々な葛藤があったのかもしれませんね。 送料・代引手数料が無料!作家が語る 武将列伝ブログランキングに参加しております。よろしければクリックお願いいたしますm(_ _)m
2008.12.27
9代将軍徳川家重の側用人として幕府の実質上の実権を握った闇将軍大岡忠光は、自らの悪の実態を知った伊賀一族を抹殺しようと伊賀狩りを行った。生き残った伊賀の棟梁柘植新八とその仲間たちは、一族の復讐を誓い、大岡の手下となり動いている二十六人衆と大岡を倒すことを誓う・・・これが時代劇影の軍団2のあらすじです。ところでこの大岡忠光は実在の人物であり、実際の彼はドラマで云われているような悪人だったのでしょうか?大岡は8代将軍吉宗の死後、病弱で言葉もうまく話せなかった9代将軍家重の側用人に任ぜられます。しかし、ドラマで云われているように闇将軍として横暴な権力をふるったことはなく、将軍に忠実に仕えたそうです。実際家重は障害を患っており、そのために言葉がうまく話せなかったために、その言葉を聞き分けられた大岡が重用されたのもうなずけます。しかし、将軍の力がそのようなものであったために、重用された大岡が権力をふるったように世間からは思われていたのかもしれませんね。そのような誤ったイメージが現在まで残っているとは、大岡にとっては思ってもみないことでしょうね・・・ちなみに大岡越前と大岡忠光は遠縁の親戚にあたるそうです。2008年11月21日発売影の軍団2 COMPLETE DVD 壱巻【初回生産限定】2009年02月21日発売影の軍団 COMPLETE DVD 弐巻【初回生産限定】ブログランキングに参加しております。よろしければクリックお願いいたしますm(_ _)m
2008.12.23
南町奉行所跡から「大岡越前守」と書かれた木札が発見されたそうです。http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20081221-00000530-san-soci産経新聞大岡越前守といえば時代劇によく出てくる名奉行としても知られていますね。時代劇でしか想像できなかった有名な人物の痕跡が出土したなんて、なにか歴史が身近に感じてきちゃいますね。大岡は徳川吉宗のもとで、さまざまな政策を実施し、庶民の人気者になり最終的には大名にまで昇進した人物です。実際、物語やテレビなどで放送されている事件の全てを大岡が担当したわけではなく、創作や他の人物が担当した事件や他国の出来事などが含まれているわけですが、それもやはり大岡が庶民に慕われていたために、そのような美談や英雄伝として現代まで伝わっているんでしょうね 炎の奉行 大岡越前守(ビデオ)ブログランキングに参加しております。よろしければクリックお願いいたしますm(_ _)m
2008.12.22
まだ信長が存命だった頃、信長の世は長く続かず、後に秀吉の世になると予言した人物がいます。その人物は安国寺恵瓊といい、僧侶にして大名にまで登り詰めた人物です。安国寺恵瓊は外交術に長けており、毛利の外交僧として本能寺の変後、毛利と秀吉の和睦を取り仕切り、後に秀吉から領地を与えられ大名にまで昇進しました。直接軍を動かす才能よりも、軍師としてやその交渉術により出世した人物でした。そして、大名になりなりながらも僧という地位は保ったままでした。秀吉死後の情勢不安定の中、主君である毛利輝元をその交渉術により石田三成方の西軍の総大将に仕立てることに成功します。しかし、家康寄りであった毛利一族である吉川広家と対立し、関ヶ原の合戦では兵を率いて出陣しますが、家康と内通していた吉川広家により毛利勢を率いていた毛利秀元が戦闘に参加することができずに、安国寺自身も兵を動かすことなく、西軍の敗北が決まると逃走します。その後京都に潜伏しますが、やがて見つかり安国寺の家臣が敵の手にかかるよりもと、安国寺に切りかかりますが、逃げまどい、その家臣たちも切られついに捕まってしまいます。そして、石田三成・小西行長と共に西軍の首謀者として処刑されてしまいます。その類い稀なる外交術で、僧から大名にまで登り詰めた男も、家康の外交術には敵わなかったわけですね。 ブログランキングに参加しております。よろしければクリックお願いいたしますm(_ _)m
2008.12.21
関ヶ原の合戦で敗れた石田三成は伊吹山中に逃亡しますが、数日後、三成を探索していた東軍の田中吉政に捕えられます。三成と吉政は旧知の間柄であり、また吉政は三成に恩を受けたこともあり、三成を丁重に扱い、三成も自分の脇差を吉政に授けました。明治7年、不平士族の反乱である佐賀の乱が勃発しその首領に祭り上げられた江藤新平は反乱が失敗に終わると逃亡し、鹿児島まで行き西郷隆盛に決起を促します。しかし西郷に拒絶され、高知まで逃亡しますがそこで捕らえられ、佐賀に設けられた臨時裁判所で裁かれ、「除族の上梟首」という過酷な判決を受けることになります。その裁判の裁判長は河野敏鎌といい、かっては江藤に抜擢され新政府で働くことになった人物です。河野はかっての恩人に対して、佐賀の乱に関して全権を掌握していた大久保利通に従い極刑を言い渡しました。晩年河野はその件に関して後悔の念を漏らしたとも言われています。かっての恩人に対し恩を忘れなかった田中吉政と、それに対して感謝の意を示した石田三成。一方、かっての恩人に対し極刑を言い渡した河野敏鎌と、それに憤慨した江藤新平。田中と全く正反対の立場をとった河野ですが、当時の置かれた立場や状況などから、彼にも我々には想像もできない苦悩があったのかもしれませんね。彼の心中はいかがなものだったのでしょうか?秀吉を支えた武将田中吉政江藤新平 ブログランキングに参加しております。よろしければクリックお願いいたしますm(_ _)m
2008.12.18
箱館五稜郭に立てこもった旧幕府軍を攻撃していた新政府軍参謀黒田清隆は、新政府軍圧倒的優勢という状況の中、旧幕府軍総裁榎本武揚に降伏を勧告しますが、榎本はこれを拒否し、黒田に万国海律全書を送ります。この本には、海に関する国際法が書かれており、榎本はオランダ留学中にこれを写し取り、自ら翻訳しました。榎本はこのような大事な本が戦火により焼失してはいけないと思い、黒田に託しました。この本を受け取った黒田は榎本の人柄に感銘を受け、代わりに酒5樽を送ります。この本が後に榎本の命を救ったといわれております。その後降伏した榎本達幹部の処遇について新政府の中で激論が交わされ、助命はいかがなものかと意見する人達に対して、黒田は頭を丸めて助命を主張します。そして万国海律全書について、翻訳を依頼された福沢諭吉ですら‘榎本でしかできない’というほどの物であり、それほど才能あふれる榎本を死なせることはできず、その才能はきっとこれからの日本にとって役に立つであろうと主張し、ついには助命に成功します。敵味方を超えた、才あふれる者に対する敬意の念が間違いなく黒田に芽生えたのでしょうね。土方歳三の死に様と対照的な榎本武揚の生き様を描きながら、謎の人物・榎本の人となりを浮き彫...【いらっしゃいまセ~ル】 新選組!! 土方歳三最期の一日(DVD) ◆26%OFF!ブログランキングに参加しております。よろしければクリックお願いいたしますm(_ _)m
2008.12.16
鳥羽伏見の戦いの後、大坂から江戸に軍艦で戻った徳川慶喜は、追討令が発せられると官軍に対して恭順の意を示して、上野の寛永寺で謹慎し、江戸城が無血開城されると今後は水戸で謹慎することになります。その後謹慎がとかれると静岡に移り、明治の世では写真や狩など自らの趣味に没頭し生活することになります。明治時代の後半になると、慶喜が大政奉還したから明治維新が成立したことなど、慶喜に対する評価が高まり、明治天皇への謁見も果たし、ついには公爵にまで昇ります。徳川の世では日本を統治する将軍という身分でありながら、明治の世では、江戸時代なら自分に謁見することも叶わないような人物たちが世の中を治めていることに対してどのような気持でいたのでしょうか?政治にも興味を持たず趣味に生きていることから、自分の役割は江戸時代で終わったと考えていたのかもしれませんね。明治期は悠々自適に本来の自分の姿で生きようと思ったかも知れません。将軍時代には将軍として精一杯その職務を果たし、明治期は一人の人として生きていたように思います。いろいろ評価が分かれる人物ですが、大政奉還と新政府に対して恭順を示したことが、戦火が拡大せずにすんだ要因になっていますし、そのことで外国の干渉が起きずに他国のように日本が植民地にならなかったとの考えもあります。日本という国と人民にとってみれば、結果的に彼の決断は良かったのではないでしょうか。 【美術模造刀剣】 徳川慶喜愛刀 日光東照宮奉納モデル 掛台+お手入れ具付江戸城無血開城のとき携えた短剣を復刻【美術模造刀剣】 復刻 勝海舟 記念刀ブログランキングに参加しております。よろしければクリックお願いいたしますm(_ _)m
2008.12.14
最近スーパーではレジ袋を有料化しきてますね。去年くらいから急にそうするところが多くなってきました。1枚5円ですが、年間に換算してみると結構な額になると思います。これは地球温暖化に対する対策としてなされています。大気中の二酸化炭素の量は地球を温暖化する原因物質の一つであるとされており、産業の発達とともに化石燃料などを燃やすことにより大気中の二酸化炭素の量が増えてきます。レジ袋も燃やして処分する際に二酸化炭素が発生してしまうんですね~他にも人間の活動に伴い発生するメタンや、フロンガスなども温室効果が認められています。そうした中、1997年に京都で開かれた第3回気候変動枠組条約締約国会議において京都議定書が議決されました。この議定書は2005年2月に発効され、日本は2002年に批准しました。その内容は、地峡の温暖化を引き起こす恐れのあるガスの排出量に関して、先進国ごとに目標数値を設定したものです。2008年から2012年にかけての温室効果ガスの排出を、ちなみに日本では1990年と比較して6%減らすことを義務づけています。しかし、この京都議定書に関しては非常に多くの議論がなされており、効果の有無や、そもそも温室効果があるとされているガスは本当に温暖化を進めているのかなどです。また自国の経済への影響なども懸念されています。産業の発展にはこのようなガスの排出が必然的に伴ってきますし、人々の生活が便利になるにはやはり産業化が不可欠な部分が多いと思われます。しかし、このままではどんどん地球が温暖化して地球環境が悪化する恐れもあります。実際アメリカは経済への影響が多いと判断して脱退しています。産業の発達と地球環境の悪化という、片方が進めば片方が悪くなるというジレンマはそう簡単に解決できる問題ではない難しい問題ですね。 地球環境を守ろうVOL.1(DVD)ブログランキングに参加しております。よろしければクリックお願いいたしますm(_ _)m
2008.12.13
日本における死因の第一位はがんであり、総死亡数の約30%を占めています。以前は胃がんや肝がんが多かったですが、近年は肺がんや大腸がん、乳がんなどの割合が増えてきています。これは食生活などの生活様式が、だんだん欧米化してきたことによるといわれています。ところで、日本では江戸時代、世界初の全身麻酔による乳がんの手術を成功させた人物がいます。その人物の名前は華岡青洲といいます。華岡は、手術に有効な麻酔薬を作ることに励み、数種類の薬草に麻酔効果があることを突き止めて動物実験を試み、最終的に人の体で実験を試みたいと思い、母と妻が自ら実験台になることを申し出、彼女たちに薬を飲ませて実験を続けていきます。その結果妻は失明してしまいます。このような犠牲の結果ついに華岡は、麻酔薬である通仙散を完成させ、のちに通仙散を用いた世界初の乳がん手術に成功します。現在、外科手術には欠かすことのできない麻酔を開発した華岡青洲の功績の裏には、彼の妻による自らの身をも犠牲にした事実があったんですね。これはやはり、妻の華岡に対する尊敬の念と愛情がそうさせたに違いありませんね。 華岡青洲の妻(DVD) ◆20%OFF!DVD 華岡青洲の妻ブログランキングに参加しております。よろしければクリックお願いいたしますm(_ _)m
2008.12.10
高松塚古墳の国宝壁画「東壁女子群像」が、科学分析中に機材が誤って接触し、損傷したそうです。http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20081209-00000562-san-soci高松塚古墳については以前も、修理で使われた樹脂により劣化してきているという発表がされました。なにしろ7世紀末から8世紀という大昔の生活や様子を現在に伝える貴重な建築物ですので、取扱いには慎重を期してほしいですね。もちろん、さまざまな分析をすることにより当時の生活や様子を知ることができるという意味では、研究は非常に重要であり欠かせないことですので、できるだけ丁寧に慎重に、そして敬意をこめて扱うことが大事ですね。ところで、世界遺産であるカンボジアのアンコールワットの倒壊寸前の寺院の解体修復工事に、高松塚古墳の石室解体装置を開発したメーカー、タダノが活躍したそうです。http://sankei.jp.msn.com/culture/academic/081208/acd0812082331009-n1.htmアンコールワットと言えばカンボジアのアンコール遺跡の象徴ともいえる寺院であり、江戸時代1632年に日本人である森本右近太夫がその柱に落書きを残したことでも知られています。カンボジア アンコールワットクッキー 6箱☆カンボジアおみやげプロジェクトX 挑戦者たち DVD-BOX4(DVD) ◆20%OFF! 【中古】DVD プロジェクトX 第4期 アンコールワットに誓う師弟の絆 【中古DVD】密林の至宝:アンコールワット/その他DVDブログランキングに参加しております。よろしければクリックお願いいたしますm(_ _)m
2008.12.09
秀吉栄華の象徴である聚楽第に関するニュースが配信されました(↓のアドレス参照)http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20081207-00000514-san-soci産経新聞信長の後継者として、天下統一に突き進む秀吉が京都に造った大邸宅である聚楽第・・・。当時、宣教師も感嘆し、天皇までもが行幸した聚楽第・・・。しかしこの後わずか8年で秀吉自らの手で取り壊されることになります。原因は、秀吉の甥である秀次が切腹することになり、その住居であった聚楽第までもが秀吉の命により取り壊されてしまいます。秀次は殺生関白といわれるなどの素行の悪さや、謀反の疑いがあるという理由で高野山に追放され、切腹させられました。しかし殺生関白などは、当時の資料から真偽に値するものはなく全くのでたらめだという説も多く、また謀反の疑いなど実際はなく、秀頼が生まれたために邪魔になったために粛清されたという説も多いです。この秀次の死により、秀吉の死後、豊臣一族は秀頼のみとなり、後の豊臣家の滅亡を導いたという考えも浮かんできます。自らの栄華の象徴を自らの手で壊してしまった秀吉の姿に、後の豊臣家の破滅を感じた人もいたかもしれませんね。 豊臣秀次の研究ブログランキングに参加しております。よろしければクリックお願いいたしますm(_ _)m
2008.12.07
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