りぃ-子’s SCRAP BOOK

りぃ-子’s SCRAP BOOK

2024.07.14
XML
カテゴリ: 暮らしというもの
時々ふと思い出すのだけど、臓器提供について、以前書いた日記で、
周りが全部他人の遺伝子細胞の中で、私1人が他人であり続けるという、それからの残された人生を思うと、馴染めなかった時のやり直しの効かない孤独が怖い…みたいなことを書いたことがある。

今も、それが消えたわけではない

というのも、結局私って人の好き嫌いが激しいんだなー

嫌い、というか、態度や判断、行動に抵抗を感じる人が多いってことかな

そういう人の中に、パーツとして入ってしまったら、毎日ストレス多そうだもん。


でもー…、まてよ?
この私自身とて、私からしたらあんまり好きな人ではないんじゃない?



いろいろな面を総合的に判断すれば、おおらかで優しく周りの人に好かれ、評価された立派な人たちだったと思うけど、私に対して愛情を持っていたのか?
生まれてからずっと、愛情とまでいかなくても好意程度でいいから、与えて欲しいものだと、ずっと思っていた気がする。

でも、反対に、夫の両親は当然たっぷりの愛情なんてものを嫁に持つわけもないし、生まれ育った価値観や習慣も違うけれど、なぜか私は彼らが好きだった。

腹が立ったり、喧嘩した事も無いわけではないけど、人として好きだなと思ったし、それが伝わっていたような気がする。


今日そんなことをなんとなく考えていたら、いざそんな場面になるようなことがあれば、臓器提供への抵抗は今はもうあまりかんじなくなったなーと思った。

つて、臓器提供にも輸血みたいな年齢制限があるのかもしれないけれど。


あと、昔日記を書いた頃、私はこの地域に馴染めず精神的にとてもしんどかった事も思い出す。

伊豆も田舎なんだけども、
伊豆は観光地だし、意外と歴史も身近だし、
下田や沼津はまた御用邸もあり、東京の貴族やお金持ちのリゾートで、庶民も直に接する機会も多くて、元々おっとりしている中に、世慣れたところや、周りの大人にマナーや謙虚さを幼い頃から躾けられてきたのが身についている…

私が最初にそれを感じたのは、東京の大学から就職で地元に戻ってからだった。



そこで、誰かの寂しさや遠慮に気が付かないのは、鈍感で恥ずかしく、配慮が足りない恥ずかしい人

そういう価値観があるように思う。

東京の人も、そういうとこあると思った
ちょっとニュアンスは又違って、もっとサバサバ前向きな動きを感じる違いはあるけど

その場の、みんなが楽しくて元気なら、自分も楽しい、という、周り込の感覚。


でも、ほんとの田舎って、ちょっと違うのだ

都会の人が田舎の人はのんびりして平和というイメージ待ってるみたいだけど、それは違うことも多いと思う

多分、豊かで稼げて来た田舎は大丈夫かもしれないけど、
怖いのが、コンプレックスの強い田舎者なのだ

ここも、うちが引っ越してくる前は果てしなく見渡す限り田畑だったという。
そんなに貧しかったのか?というと、そうでもなかったみたいなんだけど、その分大地主と小作人、また小さめの地方権力者や地主の分家とかの小競り合いや見栄の張り合いが常にあったんじゃないかなー…

みたいな、全てがそんな感じの風土だったの。
だから、古くからいる人が、よそ者は発言権もないし、仲間にも入れてやらないみたいな事は実際随分口にもされてた。

それから30年以上経って、地元民より新参者の方が今や10倍以上になり、古い世代も歳をとり入れ替わりして、雰囲気は今はもうまるで違う。

そんな事にも左右されているんだろうな。





お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう

最終更新日  2024.07.14 10:40:06
コメント(0) | コメントを書く
[暮らしというもの] カテゴリの最新記事


【毎日開催】
15記事にいいね!で1ポイント
10秒滞在
いいね! -- / --
おめでとうございます!
ミッションを達成しました。
※「ポイントを獲得する」ボタンを押すと広告が表示されます。
x
X

© Rakuten Group, Inc.
X

Design a Mobile Website
スマートフォン版を閲覧 | PC版を閲覧
Share by: