みかんの木を育てる-四季の変化

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2024年09月27日
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カテゴリ: チョットひと旅

​新潟・下越地域(村上市)の旅​


新潟・下越地域(山形県境)を、9月24日-26日に旅してきました。
これは新潟在住の方が準備してくれたもので、得難い貴重な旅でした。

​新潟は、言わずと知れた米どころ、いまは、まさにお米の収穫期です。 陽にあたると黄金色に輝いて、重く垂れ下がった稲穂を、コンバインがあちこちでさかんに収穫していました。

​一、​この旅で、江戸時代の3つの身分の家を見ました
日本の江戸時代の歴史文化が、今に生きて残っているのを感じさせられました。
今回の旅で、江戸時代の3軒の住宅を訪ねました。

​1、① 村上藩の城下の商家 、2、② 隣の関川村の豪商の館、3、 中級藩士の家、です。 ​​

1、 村上藩の城下の商家の家々

​新潟県村上市では、今、「第24回城下町村上の町屋の屏風まつり」を開催しています。
9月15日から10月15日まで、ですが。
城下の町屋にある屏風を、その家のなかで見せてくれてます。
案内図によると52軒があり、それぞれ無料で見させてくれています。



私たちが見させてもらった町屋の屏風ですが、

25番 きつかわ-鮭がずらりとつる下がってましたが、サケの加工場のお店です。
​17番 木戸畳工業-お城の畳もここでつくっていたとのこと。
11番 九重園-京都の宇治茶にも学んで、江戸時代から村上茶をつくっているお店です。
8番 推朱のふじい​-木の下地に彫刻し、漆を塗って生活財をつくっている。



それが町屋にそれぞれ店を構えていて、それぞれが自慢の大きな屏風をもっている。
この屏風まつりの時には、家と屏風を一般に無料で見学させてくれるんです。
おまけに、それぞれの商家の家主さんによる家業と屏風についての歴史の解説つきです。

2、 隣の関川村の豪商の館

​​​​ 次はお隣の関川村の豪農・渡邊家の住まいです。
山里にあるんですが、それは越後米沢街道に面した3,000坪の敷地です。
もともと村上藩で郡奉行をしていたけど、藩主が姫路に国替えの時に息子に家督を譲って隠居し、
​1667年にこの地に住むようになった。
二代目は廻船業を営むようになり、酒造りまでも始めたとのこと。
三代目は米沢藩に、1726年に融資し幕末までに10万両以上を用立てた、と案内パンフにあります。​



3,000坪の敷地ですが、この家には、最盛期には75人の使用人がはたらいていたという。
1000町歩(ha)の山林と、700町歩(ha)の水田からは、約10,000俵の小作米を集めていたという。
庭園も立派だし、米蔵がいくつもあったそうで、大きな味噌蔵をみさせてもらいました。

これは、武士と商人が一体となった姿ですね。「豪農」、有力な農家といっても、3代目の経済力は、幕末の伊豆の江川太郎左衛門以上の力をもつような存在になっていたということですね。

​3、村上藩の中級藩士の家
3軒目は村上藩の中級藩士の若林家の家です。



若林氏は村上藩の分限帳では、17人くらいの家臣を束ねる物頭役で150石とり、藩士としては中級上位だったとのこと。
庭の広さのわりに、その家はかなり質素で小さなものだったので、これが組頭の人の家かと感じた。

「封建制度でチャントものを重箱のなかに詰めたように秩序だっていて、何百年たっても、ちょいとも動かぬ有様、家老の家に生まれたものは家老になり、足軽の家に生まれたものは足軽になる。先祖代々、家老は家老、足軽は足軽、この間に挟まっているものもは同様に、何年たったも変化はない。」
これは、福沢諭吉の『福翁自伝』の一節です。(日本の名著 中央公論 P238)


この3軒の住宅を見ると、
江戸時代というのは、厳しい身分制度とその秩序維持が厳しくはかられていたこと、
それにもかかわらず、経済の発展が、あらたな独自的なものをつくりだしつつあることを感じさせてくれます。
それは、江戸の街並みでは、スクラップ・アンド・ビルドで次々に消えていく。
それが東京では一般的なんですが、しかし、新潟県村上市では違っていた。

たしかに街並み、町屋の基本が、しっかり区割りに残されていました。​
しかしそれだけじゃないんです。
今回の「屏風まつり」で質疑できたことですが、
その家主さんたちが、それぞれの屏風とともに、暮らしの様について、話を弾ませて生きた解説をしてくれたんです。
これは、町屋に住んでいた職人さんたちの気持ちが、今に生きている人による紹介でして、その質疑で語られたことは、日本の歴史の具体的な証言だったんですね。
これは私などは、今の金儲けの日本の歴史において、歴史に抗いつつ、ながされ
消えゆく

いったい誰が、この歴史文化を未来に生かしてゆくんでしようか。

​​
​二、江戸時代に鮭の増殖に成功していた
今回の旅のおどろきの第二弾ですが、江戸時代に鮭の繁殖を村上藩が取り組んでいたということです。
今日、乱獲から魚の保護が、クジラにしてもマグロにしても国際的に協定議論が交わされています。

今回の旅で「イヨボヤ会館」を訪ねました。
イヨボヤは、この村上地方の方言だそうで、「鮭」(サケ)のことだそうです。




青砥武平治(あおとぶへいじ 1713-1788)、江戸時代中期の村上藩藩士です。

彼が、サケが生まれた川に帰って来る習性を生かして、産卵を保護して、稚魚を放流することを提言したんだそうです。武士がその知識により、村上藩に進言したんだそうです。放流した鮭は3年たつと、元の生まれた川に帰ってくる。とるためにはその保護が必要だと、これはすごいですね。

それに対して、村上藩の対応もすごい。その提案を採用してサケの種川をつくり、環境保護をしたというんです。これもまたすごいですね。
それが成功して、藩財政にとっては、コメともに鮭の増収が柱の一つになっていたというんです。

「新巻鮭」、サケを正月に食べるという習慣が、日本社会にはあるじゃないですか。 
江戸時代に、乱獲ではなくて、増殖することを、藩の事業としてすすめて成功したというんですね。

「イヨボヤ会館」ですが、それを鮭の博物館として、
その自然保護の経験を今に紹介してくれています。
私などは、これをはじめて知ったのですが。
今に生かせないでしょうかね。

三、日本海の穏やかさと、冬の厳しさ
今回の旅は、能登半島豪雨の直後でした。中止にすべきか幹事さんも迷ったと思います。
結果的にはさいわいでした。この旅では日本海は穏やかだったんです。




湖のように静かだったんで、宿の方に聞いたんです。
「大丈夫でしたか?」と。
すると、

『雨は昨日まで降っていた。だから幸いだった。
日本海は、夏場は比較的に穏やかなんだれど、冬場はきびしい』とのことでした。

これも知りませんでした。
当方は、相模湾ですが、太平洋にそってますから、波打ち際にはつねに寄せる波ひく波がある。
今回ほどの静かな海というのは、まるで
波打ち際が 湖のようで、こうした海は知らなかったんです。
イルカも、時々ジャンプして、右に左にと泳いでいました。
イカを追いかけているんだそうです。

北前船ですが、輸送の動脈の千石船ですが、それが日本海を基本航路としていたことが、
コメの搬送が中心だったでしょうが、日本海航路を基軸としていたことが、納得でした。

四、同窓生の交歓
​​​ ​今回の旅でも、夜遅くまで交歓がありました。
もう歳ですから、翌日もあのますから、以前のように夜中まで議論するようなことはないんですが。
各人が、この一年経験してきたこと、直面している問題、今頑張っていることなど、
語り合えば、話のネタは尽きないんですが。
それに、立憲の代表選挙での野田氏の当選、自民党の9名の総裁選挙もおこなわれているし、
それと、日々の暮らしの関わりもありますから。


しかし、次回の同窓会をどうするか、
井上揚水じゃないけど、この議論でヘトヘトとなりました。


とにかく、無事に、貴重で楽しかった、同窓会の新潟の旅を終了しました。






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Last updated  2024年09月27日 18時08分45秒
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