ACT・7... 『夕刻の中庭』


 校舎も、校庭も、薄闇に包まれていく。

 静かなたそがれを、弥生と和美は、北館と南館をつなぐ渡り廊下にある自動販売機の前で見つめていた。
 夏休みも大詰めという今日になって、突拍子もない事が起こったのだ。しばらく、二人は無言でジュースを飲んでいた。

夏見の治療をすると言って、京平は保健室へ籠もった。魔法治療でも行うのであろう、何やら大昔の錬金術士が使うような、胡散臭い道具をたくさん運び込んでいた。異次元の住人を手当てするには必要なのかもしれない。
 何だか薄気味悪くなって、弥生と和美はここへ逃げて来たのだった。先ほどは乱丸に思い出をすり取られたが、今度は京平に処女の生き血が必要だ、などと言い出されたらたまらない。
 危ない所を助けてはもらったものの、どうしても、あの生徒会長の持つ雰囲気が怖くてたまらないのである。

乱丸はというと、森から学校へは戻らず、何か手に入れるものがあるとか言って、どこかへ出掛けていった。
 そういう所は、いつもぶっきらぼうな男であった。

夕日は山の向こうへ姿を消し、東の空から、ゆっくりと夜闇が広がってきている。
 紙コップのコーラをすすりながら、二人は今日起こった事を思い出していた。
 とても現実離れしすぎていて、今思えば全て夢だったのではないかと思うくらいだ。

 しかし、と二人は思う。
 弥生の手首には、黒騎士の一撃を受け止め損なった痺れが、まだ残っているし、和美の方は最近使えなくなっていたESPが、再び覚醒したのを自覚している。
 あの、途方もない出来事は、すべて現実の事なのだ。

「あのコ、要するに夏のタマゴってことですよね」
 両手で紙コップを握り、コーラの表面を見つめながら、和美がぽつり、とつぶやいた。
――――事情は京平から説明してもらっていた。
 弥生も、半ば放心状態でうなずく。

「『夏』という季節は、ただ単純に、暦の上での七月から八月ごろの期間を差すものではない・・・・・・か」

すなわち、『夏』という空間エネルギーが存在するのだという。 毎年七月ごろに、彼女たち『夏』候補が一人選ばれ、その身をもって、夏というエネルギー場を生み出す。
 それは、核爆発よりもとてつもない力だ。それにより、『夏』という季節が生じる訳である。それが成されなければ、ただ単に気温の高いだけの時間が過ぎていく。

 中身のない、からっぽの時が。

「今年は、彼女が夏を生み出せなかったから、ヘンな八月だったんですね」
「あたしゃ、まだピンと来ないわよ」
 ぼそっ、とつぶやいて、弥生は髪をかきあげた。
 その点、目に見えない異次元の事を理解するのは、自分自身も説明のつかない四次元的な力を振るう、エスパーである和美の方が、理解が早いらしかった。

 彼女のESPが急に復活した事についても、京平が理由を説明してくれた。
 つまり、『あちら側』のエネルギーが、和美の中で塞がっていたESPエネルギーの通り道を刺激して、詰まりを取り除いたのだという。
 和美にとっては、逆にその事の方がちんぷんかんぷんであった。

「それにしても、『夏』が変身するにはタイムリミットがあるって言ってたけど、もしそれをオーバーしちゃったら・・・・・・今年は『夏』が来なかった訳じゃない? その場合、どうなるのかしら?」
「そうですよね」
 代役は立てないらしいから、あの少女が生み出さなければ、今年は『夏』がないまま、秋へ移行していくことになる。
「会長の話じゃ、それは自然界にとってとてもバランスの悪い事だから、天変地異が起こって、そのズレを矯正しようとするらしいけどねえ・・・・・・」
 まだピンと来ないらしく、人ごとのように弥生は言った。

「でも、乱丸さんがちゃんと助けるって約束してたし、何とかなるんじゃないでしょうか?」
 思いがけず、明るい声で和美が言うので、弥生は顔を上げた。
「和美ちゃん、言うようになったわねえ」
 えへ、と和美は小首を傾げて、
「男の人が、ああいう顔で言った言葉は裏切られないって、あたし知ってますから」
 弥生はどきりとした。この少女は、何といい表情をするようになったのだろう。
 転入したばかりの頃の、オドオドした暗さがすっかり無くなっていた。何だか妹の成長を目にしたようで、訳もなく弥生は和美の髪を、くしゃっと掴んでいた。

「かっこつけちゃって、このお」
 あははっ、と笑って、和美はさらに言った。

「それにね、あたし一ついい事を思いついたんですよ」
 調子に乗って、ヘッドロックにいこうとした弥生の動きが止まった。
「え、何?」
 ちび、とコーラを口に含んで、上目遣いに和美が弥生を見る。

「あの乱丸さんって、ドロボウさんだけど、人探しもすごく上手みたいですよね。だから、お願いしてみようと思うんですよ」
「まさか・・・・・・」
 はっとして、弥生の眉が上がった。

「そう、どこかで生きてるはずのお兄ちゃんを、探し出してもらうんですよ!」
「!」

 その手があった。
 手がかりのない精霊ですら、簡単に捕らえてみせた乱丸なら、あの男を必ず見つけ出してくれるのではないか。

「なるほど、いい考えかもね」
 うんうんとうなずく弥生。
 しかし、その背後から、

「やなこった!」
 という返事が返ってきて、ぶうっ、とコーラを吹き出した。

「なーんでオレが、男なんざ追っかけなきゃならねえんだよ。言っとくがな、オレは『怪盗』だ。人探し屋じゃねーんだよ」
「乱丸、びっくりさせないでよ」
 すっかり暗くなった渡り廊下に、いつの間にか、乱丸が現れていた。しかも、何やら大きな荷物を背負っている。

「それに、オレは今忙しいしな。余計なことに気をとられる訳にはいかねえ」
 ぶつぶつ言いながら、背負った荷物を足下へ下ろす。
「弥生よ、また面白いモン見せてやるぜ、楽しみにしてろよ」
「面白いモンって、あんた何持ってきたのよ?」

 にやり、と乱丸が邪悪な笑みを浮かべた。

「なあに、昼間と同じ作戦さ、今度はあのくそったれ男爵がターゲットだけどな。京平が示してくれた手がかりを元に、エサを手に入れてきたんだよ」
 言いざま、乱丸は荒っぽく荷物の包みをひっぺがしていった。

「これは!」
 和美が目を剥く。
「あ・・・・・・あんた、どっからこんなもん・・・・・・」
 弥生も、開いた口が塞がらなかった。

 包みから出てきたのは、大きな油絵だった。しかも、それはより巨大な作品の一部を、切り裂いて持ってきたようである。

『キリスト磔刑図』!

 乱丸は、イーゼンハイムの聖檀画を破壊して、盗んできたのだった。

「ば、ば、ばか!」
 乱丸の常識はずれな行動に、弥生はぐらぐらしてきた。
「美術館に展示中の名画に、あんた、何てことしたのよ!」
 食ってかかる弥生の剣幕にも、乱丸は平気な顔だった。

「ぎゃーぎゃー騒ぐな、どーせ美術館だって保険かけてんだ。盗まれて、却って儲けてるぐらいのモンだぜ」
 そう言いながら、彼は中庭に足を踏み込んで、その絵を思い切り地面に叩き落つけていた。

 切り裂いて、盗んで、この上乱丸は何をするつもりなのか?

 もう、問いただす気力もなく、弥生と和美はただ成り行きを見ているだけだった。
 険しい表情で、乱丸はポケットからタバコを取り出し、ライターで火をつけた。
「あ、未成年のクセに」
 思わず弥生が指摘したが、案の定乱丸は知らん振りした。
 暗闇に包まれた中庭で、タバコの火が蛍のように明るくなったり小さくなったりする。どうやら、少し気持ちを落ち着かせようとしているらしかった。
 昼間、化け物に殴られた恨みを思い出しているのだろう。

 一息煙を吸い、吐き出すごとに、苛立っている表情が、少しずつ柔らかくなっていく。
 ぽ、と煙で輪っかを作って見せて、乱丸はタバコをもみ消した。

「さて、おっぱじめるか」
 そうつぶやいた時には、肩から余計な力が抜けていた。

「弥生、お嬢ちゃん、精霊に捧げるキャンプファイヤーだぜ」
「え?」
 何のこと? と問う前に、乱丸は何のためらいもなく、地面に落ちたキリストの絵に火をつけた。
「乱丸っ、何するのっ!」
 めらめらと音をたてて名画は燃え始めた。
 その炎で、乱丸の強烈な笑みが暗がりの中に浮かんでいる。

「何をしているのです?」
「生徒会長っ!」
「大変よ、乱丸のヤツおかしくなっちゃったみたい・・・・・・」
 保健室から出てきた京平に、和美と弥生がおろおろしながら訴える。

「ははあ」
 仁王立ちになって、燃えさかる絵をにらみ続ける乱丸の様子を見て、京平はあきれたようにため息をついた。
「昼の出来事が、よっぽど頭にきたんですね。荒っぽいメッセージを『あちら側』の狂男爵に送っているんですよ、彼は」

「絵を燃やすことが、メッセージになるんですか?」
 ぱちくりと和美がたずねると、黙って京平はうなずいた。
「えい、もお、今日は何が起こってもあたしゃ驚かないわ、矢でも鉄砲でも持ってこいっての!」
 どうせ、相手は異次元の輩である。始めから理解の外の住人なのだ。弥生は開き直って声を張り上げた。

 その時だった。

 ずしん、と異様な音をたてて、校舎が揺れたのだ。

「きゃーっ!」
 と、隣にいた和美の鼓膜を破きそうな叫び声を上げて、弥生は飛び上がった。
「地震よ、和美ちゃん、地震!」
 揺れよりも、弥生の雄叫びの方にショックを受けて、和美は一瞬気が遠くなった。

「落ち着きなさい島村くん、地震ではありません。乱丸くんのメッセージが、あちらに届いたようですよ」
 京平の静かな声で、弥生は我に返った。が、すぐまた目を見開く事になる。

「あ、あれ何よ・・・・・・?」
 校舎の壁に、異様なものが写っていた。
「影、ですか?」
 和美も、呆然としてつぶやく。

 乱丸が、炎の前で高らかに笑い声を上げていた。

 校舎の壁に、大きくなったり小さくなったりして、人の形をした影が、ゆらゆらと蠢いているのだ。
 だが、影とは物体に光が当たった結果生じるものではないか。この影には、本体というものがなかった。
 それ自体が意志あるもののように、炎の明かりに照らされた外壁面をくるくる動いている。
 声も出さず、音もないシュールなダンス。
 それを見て、乱丸がげらげら笑う。

「あっはっはっ、ようやくオレのメッセージが届いたか。グリューネヴァルト! 大昔のネクラ画家め! 好き好んで『そっち側』に行ったくせに、まあだ『こちら側』に未練があるのかよ?」
 ぴしりと指を差して、乱丸は哄笑した。

「乱丸・・・・・・そうか!」
 合点がいったように、弥生はぽん、と手を打ち鳴らした。
「弥生さん、乱丸さんのやった事の意味、判ったんですか?」
 和美が覗き込むと、弥生はえへん、と鼻息荒くふんぞり返った。

「要するに、あいつは昼間と同じように、『あちら側』の住人が自分から姿を現すように仕向けたのよ。しかも直接狂男爵をどうこうするんじゃなく、その溺愛しているお抱え画家を狙った搦手を使う事でね。そうでしょ、会長?」
 グリューネヴァルトと狂男爵の関係は、さきほど京平から教わっている。

「ええ、その通りです。と、口で言うのは簡単ですが、驚くべきは彼の行動の早さでしょうね。今言ったことを実行するのに必要な物や条件を瞬時に判断して、短期間でお膳立てするパワーには、いつもほれぼれしますよ」
 そして、最後に彼は必ず望みを果たすのです。と、京平は口の中で付け足した。

 ずしん!

 と、またもや校舎が揺れた。
 揺れ自体は小さいのだが、その音が凄まじい。
「きゃーっ!」と悲鳴をあげ、弥生と和美は手足を突っ張って、壁にしがみついた。
 ひときわ高い笑い声を、乱丸はあげた。

「はははは、どうした? 怒ってやがるのか? そんな真似いくらしたってムダだぜ、痛くもかゆくもねえや! はははは、って言ったって、影の世界に行っちまった貴様には、どうにもならねえよなあ、自分の力じゃ『こっち側』に帰ってくることもできねえか?」 

 くやしいか? くやしいか? と、繰り返し乱丸が壁の影に問い続ける。
 くるくると影が動き回り、地団駄を踏む。
 乱丸は、なおも挑発した。

「くやしかったら、オレを殺しに来てみろ。それがムリだったら、てめえのオカマ主人に助けてもらうことだな!」
 叫びざま、なんと乱丸はまだ燃えさかる『キリスト磔刑図』を思い切り踏みつけた。
 グリューネヴァルトが、『こちら側』で残した最後の自信作であり、トラウマにもなった因縁の絵を、彼は徹底的に汚したのであった。
 ただでさえ画家は、自分の描いた絵にわが子のような愛着を持っている。
 描くことに極端な執念を持っている彼なら、怒りも並であるはずがない。ここまでした乱丸をけして許すはずがないだろう。
 何らかの手段をもって、必ず乱丸に報復をするはずである。
 しかし・・・・・・、

 その身は、影であった。

 のどから血がしぶく怒声も、寝るたび悪夢に苛まれることになる呪いの言葉も、怒りにわななく振り上げた拳も、乱丸に届くことはあり得ない。
 音もなく、ただ右に左に上に下にと、めまぐるしく二次元方向に動き回るだけで、その影から物理的に『こちら側』に届くものは何もないのだ。

 彼は別世界の住人だった。

 いくら暴れても、こちらの世界には何の影響も無い。
 哀しいほど滑稽な、怒りのパントマイムを見ているようだった。
 なんてシュールな・・・・・・。

 いつしか、乱丸もばかにした笑いを止めていた。
 京平も弥生も和美も、この寒けを覚えるような影の狂乱を見つめている。やがて、暴れ疲れたのか、ついに影もおとなしくなり、全身を小刻みに震わせた。
 弥生と和美は息を飲んだ。動きを止めた影から、じわりと赤黒い血が滲んで、校舎の壁に大きく、
「Todes urteil」
 というドイツ語が浮かび上がってきたのだ。

「とーです、うあたいる・・・・・・『死刑宣告』だと?」
 乱丸は片眉を上げて、グリューネヴァルトの必死のメッセージを読み取ると、鼻で笑い飛ばし、すぐさま、
「toi,toi,toi!」(うまくやれよ!)
 と言い返してやった。

 そのふてぶてしい顔を、ごおっ、と音をたてて生臭い風が叩いていった。
 渡り廊下にいる弥生たちの全身も叩きつつ、その風は走り抜けていく。
「来た・・・・・・」
 京平が、静かな声でつぶやいた。


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