武蔵野航海記

武蔵野航海記

ローマ史を読みました

昨年末から、雑用を片付ける合間にローマ史を読んでいます。

数え切れない人がいろいろな見方からローマ史を書いています。

キリスト教の立場から異教のローマとキリスト教の正しい信仰を得たローマという見方をしている者がたくさんいます。

「何であのように長期にわたって広大な版図を維持できたのか」という問題意識を持っている人もたくさんいます。

また、ローマは近代社会のモデルになったと考える人もいます。

「色々な見方があるのだなあ」と感心しました。

未だに読み続けているのですが、感じたことをボツボツと書いていこうかなと考えています。

ローマ史は読み出したら止まりません。

言い伝えでは紀元前753年にローマが誕生し、西の帝国が滅びたのが476年です。

ですから1200年も続いたわけでよくも続いたなという感じです。

東の方が潰れたのは1453年ですから、西の帝国が滅びてから1000年も更に余喘を保っています。

読みながら、ローマ史の方が支那史よりもはるかに面白いと感じました。

支那の場合、私が非常に面白いと感じるのは司馬遷が書いた「史記」です。

春秋戦国時代から始皇帝の秦が興亡し、劉邦と項羽の時代を経て前漢までの時代です。

しかし、それ以後の支那は過去の繰り返しだけという感じです。

私の感じたことには納得できない方も多いと思いますが、私はそう感じたのです。

支那の歴史が前漢のピーク時以後同じことの繰り返しになりつまらなくなっていった理由を、私は競争が無くなったからだと考えています。

もともと支那人という民族と支那語という言葉があったわけではありませんでした。

支那の中心部は、東夷・西戎・南蛮・北狄といった異民族が互いにテリトリーを接している場所でした。

支那の古代の国王たちもこの夷戎蛮狄のどれかの出身です。

古代の支那では、遠隔地貿易が起こり、その商社組織が国家組織だったのです。

殷王国の別名は商でしたが、まさにその実態を表した言葉です。

多くの異民族が住む広大な地域を商業ルートで結ぶには情報網が不可欠でした。

この情報網が古代の国家組織であり、情報は漢字という人工の文字で媒介されました。

漢字は特定の民族が日常使っていた言葉でなく、バーチャルなものでエスペラント語のようなものです。

統一王国の周が弱くなって、各地の異民族が自立し、お互いに競争していたのが春秋戦国時代です。

科学技術や社会科学がこの時期に非常に発展したのもこの競争のおかげです。

そして各地の民族国家を打ち破った始皇帝の秦が真っ先にやったことが、度量衡や漢字などを統一することでした。

秦を滅ぼした後の漢もこの方針を引き継ぎ、支那の価値観の統一を図りました。

そのために使われたのが儒教で、漢の時代に儒教が国教になったのです。

以後、支那を統一するために支配者が作り出した儒教が支那の表の世界を支配するようになり、各民族の個性は闇の中に押し込まれていったのです。

この支那人の体制は支那本土だけでなく、周辺の異民族もそれぞれにランク付けし、支那の価値観を受け入れた異民族には高い評価を与えるというものでした。

モンゴル人や女真人が支那に攻め込んで国を作っても、それを統一する必要から儒教を採用しました。

このようにして、東アジアではさまざまな民族の自立を抑える儒教のルールが支配するようになり競争が無くなっていったのです。

支那の発想は、その地理的特性とその中に多くの異民族が混在しているという事情から出来上がりました。

いろいろの個性的な要素を無視して、天からこの世の政治を委託された皇帝を中心にした序列で世の秩序を維持しようとしたのです。

これは世界の中心とその周囲、さらには辺境という序列で出来上がっています。

人間で言えば、中心は支那の皇帝で、周辺は官僚群、辺境は野蛮人たる異民族ということです。

地理的に言えば、中心は長安や洛陽という都、周辺は支那本土、辺境は異民族の国々です。

古代は産業による国力の差があまりつかなかったので、人口の差がそのまま国力の差になりました。

だから多くの人口を持つ支那に周辺の国は対抗できませんでした。

その結果、支那を中心とした中華思想が周辺国に重圧を与えました。

中華思想はその民族の個性を無視し、競争を抑圧する発想です。

日本人はこの支那の発想を嫌い、7世紀末に鎖国しました。

日本の王は天皇を名乗り、支那の皇帝と同格であると宣言したのですが、これは同時に中心の支那と辺境の野蛮人という発想を拒否したものです。

勿論、支那人は皇帝と同格の存在を認めませんから両者の間の国交は断絶しました。

こういう状態が7世紀末から19世紀まで1200年間続いたのです。

モンゴル高原の騎馬民族は、はるかにシルクロードからローマまで繋がるステップを行き来していましたから、支那以外にも文明が存在することを良く知っていました。

だから支那を中心とした中華思想など相手にせず、支那への侵入を繰り返していました。

ジンギスカンの孫のフビライは支那に王朝を建てましたが、その王朝の人種的序列はモンゴル人が最高で、次が他の騎馬民族、次がトルコなど西域人で最低が支那人だったのです。

支那人はこの時代を思い出すのも嫌なようで、これへの反発から出てきたのが強烈は排外主義の朱子学です。

一方、陸続きで支那に対抗できない朝鮮やベトナムは、支那の秩序を受け入れて身の安全を図りました。

支那が一番で自分たちはその次であり、支那の文明を理解しない日本人や騎馬民族は野蛮人だということになったのです。

このように支那周辺の諸民族はそれぞれの事情により、中華思想への対応が分かれました。

全てが支那中心の中華思想に対して、周辺の異民族の対応は様々でしたが、日本の場合は支那と付き合うのを止めてしまったわけです。

支那の中華思想を拒否したわけですが、そうかといってそれに対抗する独自の体系を作り上げたわけでもありません。

統一した体系を作る代わりに、人間関係で社会を運営することにしただけです。

つまり、「日本は自分でやるからほっといてくれ」ということになったのです。

そうはいっても、表面的な国家組織は支那の律令制度を導入したりして非常に中途半端なことをしました。

その結果、日本の知識人は生半可な儒教の知識を持ち、日本は儒教が行われていないことに劣等感を持つようになったのです。

この劣等感は千年以上にわたって作り上げられた非常に歴史の長いものです。

特に江戸時代になってから、幕府が自分に都合の良いように捻じ曲げた儒教を盛んに普及させました。

江戸初期にはこの劣等感が嵩じて、江戸市内で西に転居したときに「これで聖人君子のいる支那に少し近づいた」と喜んだ儒者も現れたのです。

この儒者が誰だったか忘れてしまいましたが、高名な儒者です。調べるのもめんどくさいのですが、皆さんの中にご存知の方がおられたら教えてください。

私はこの話を日本の有名な歴史学者から伺ったのですが、彼は「こんな馬鹿も現れた」という表現をしていました。

ところがちょうどその時に、支那の明王朝が野蛮人である女真族(満州族)に倒されるという大事件が起きました。

この女真族が建てたのが清です。

支那人の皇帝が殺され野蛮人が皇帝になったのを見て喜んだのが、劣等感に悩まされていた日本の儒者でした。

江戸幕府が導入してさらに日本的に捻じ曲げた儒教は朱子学という排外主義に凝り固まった一派で、野蛮人は支那の正統な皇帝にはなれないと主張していたのです。

支那の皇帝を宣言した野蛮人は正統な支配者ではないから、儒教の正統は今や日本にしかないと日本の儒者は考えたのです。

この「儒教の本場は今や日本だ」という発想がその後の日本に大きな影響を与えました。

日本が儒教の本場になったという説ほど奇妙なものはめったにありません。

江戸時代に幕府が国教にした朱子学では、支那人以外の野蛮人は儒教の正統を継げないと考えていますが、日本人は支那から見たら東夷という野蛮人なのです。

ところが江戸時代の日本の儒教では、日本こそ儒教の本場になったと考えるのが主流になったのです。

それから導き出される結論は、日本の伝統的なものは全て儒教の教えに適っているというものです。

以前に私のブログに書いたように、山崎闇斎という有名な江戸初期の儒者は、この発想から日本古来の神道は儒教の教えそのものだとしました。

そして垂下神道というものを作り上げました。

また天皇も古来から続いていて儒教のいう聖人だとしたのです。

支那の儒教では聖人とは血統ではなく道徳的な資質を備えた人をいいます。

しかし日本の天皇は血統だけを問題にするので、儒教とはまるで無関係なはずなのです。

このように、支那が野蛮人の女真族に占領されたのをきっかけに日本が儒教の本場になったと解釈し、儒教をどんどん日本的なものに変えていきました。

儒教では、皇帝は天から命令を受けて全世界(当時の支那人や日本人から見た全世界とは東アジア)を支配するものです。

全世界を支配するものには義務も生じます。

自分の支配する世界の道徳的秩序と安全を保障しなければなりません。

配下の国が外敵から攻撃されたら助けなくてはならないのです。

日本が儒教的世界の中心であれば、世界の安全を守る義務があるわけです。

江戸時代に、日本が儒教の本場であり東アジアの盟主であるという思想が出来ました。


盟主であるからには、配下の国々を守る義務があります。

18世紀までの平和な時代には、とりたてて現実の世界に影響を及ぼす思想ではありませんでした。

しかし1840年にアヘン戦争が起こり、支那がイギリスに惨敗するという事件が起きて日本でも国防の大問題となった時点から現実への影響を持ち始めます。

やはり支那などには東アジアを任しておけず、アジアの盟主たる日本が頑張って東アジア全体を防衛しなければならないという考えが起きてきたのです。

吉田松陰、勝海舟などの志士たちの考えも概ねこれです。

また薩摩藩主で江戸時代一の名君だと評判だった島津斉彬もこの考えを積極的に主張しました。

ロシア領のカムチャッカとスペイン領フィリピンを奪い、満州に軍事拠点を設けて、日本が盟主となって支那・朝鮮と同盟して攘夷を行うべしと考えたのです。

幕末に水戸藩から起きた「水戸学」という尊皇攘夷思想が大流行しましたが、島津斉彬はこの水戸学の重要なメンバーで、日本中の大名や志士に大きな影響を与えた人物です。

この路線は、明治維新後も日本人の外交の基本になっていきます。

なにしろ明治維新は日本の独立を全うするためになされたものですから、日本が東アジアの盟主となって欧米の侵略に対抗するというのが基本だったのも当然です。

特に日清・日露戦争によって強大な国になり、日本はますますこの戦略の有効性を疑るものはいなくなっていきます。

日本が積極的に推進した「大東亜共栄圏」も幕末の志士の考え通りのもので、日本が盟主となってアジアの安全を守るというのが基本的な発想なのです。

江戸初期に、日本こそが儒教の本場で東アジアの中心だという思想が出来、それが昭和の大東亜共栄圏まで繋がっていました。

日本の敗戦後、この発想は悪の極致とされ「帝国主義、軍国主義」だということになりました。

日本人は独自の正義の体系を持たず、その時々で支配的な思想を外部から導入し、それを自然の一部と考えて従います。

戦後は、アメリカがもたらした「民主主義」がはやりになり、「人類普遍」の原則だと考えて、学校でもそう教えています。

これに照らして、戦前の日本を全て「封建的」として否定し去ったのです。

しかし、こういう態度では「何故日本人は当時こういうことを考え、その結果として現在があるのだ」という正確な現状認識ができません。

日本人のこの奇妙な態度を見てそれを利用しているのが、現在の支那や朝鮮です。

日本人自身が「戦前の日本は帝国主義・軍国主義だった」というので、「そうだそうだ、悪いのは日本だ」と唱和し、「日本人の犯罪」を捏造しているのです。

しかし、この問題の本質は「誰が儒教の本家であり、東アジアの盟主か」ということです。

冷静に考えてみて日本が儒教の本家であるわけがありません。

儒教がどんなものか理解していないし、儒教の定める形式をまるで守っていません。

朝鮮は儒教の優等生となることで支那の圧力を緩和しようというのが伝統的な戦略ですから、日本人よりもはるかに儒教を良く知っています。

儒教の視点から見たら、日本はまさしく野蛮国なのです。

江戸時代の朝鮮通信使(幕府への朝貢使)の多くは日本への訪問記を書いていますが、これには儒教的見地からの日本の野蛮さと自国の優越を強調しています。

こんな野蛮国に膝を屈してご機嫌伺いにいかなければならない無念さがよくにじみ出ています。

日本が戦争に負け無防備になったとたんに支那や朝鮮は、日本を東アジアの辺境と位置づけしようと考えました。

その結果が今の日本への態度です。

江戸時代までの日本は中華思想を拒否して鎖国をしていましたから、今の状況は日本にとって江戸時代以前より悪くなっているのです。

日本が戦争に負けた結果、「大東亜共栄圏」という発想が侵略主義だということになってしまいました。

本当のところは、日本が儒教の本場でありアジアの盟主という資格で列強から東アジアの独立を守ろうとしたものです。

これが「侵略主義」ということになってしまったのにはいくつかの理由があります。

一つは「勝てば官軍、負ければ賊軍」ということです。

戦争に勝った方は、自分たちが正義の味方だということを主張して、その方向で世界の世論を誘導したということです。

敗戦国である日本に対しては「極東軍事裁判」というとてもまともな裁判といえないことで戦勝国の価値を強制しました。

もう一つは、支那が満州を自国の領土にしようと考えたからです。

満州は支那の領土であったことはなく、清王朝の時代は支那人が満州に移住することも禁止していたのです。

支那が満州を侵略するに当たっては、日本が侵略者だとしなければならなかったからです。

そこから様々な日本軍の犯罪が捏造されています。

また日本人に正義の概念がなく、新しい外来の思想を自然現象と考え、その中で自分の居場所を得ることが正しいという「あるべきようは」の発想も大きな役割を果たしています。

アメリカが「民主主義」という新しい自然物を持ちこみ、それを日本人が新しい「正義」だとして御輿にかついだのです。

そしてそれと反する従来の日本の思想を全て「帝国主義」「封建的」と否定しさりました。

また日本が儒教の本場だという発想が荒唐無稽であり、ただの日本人の思い込みだったことが「大東亜共栄圏」の弱点だったことも影響しています。

このようにして「日本が儒教の本場でありアジアの盟主だ」という発想は敗戦と共に消え去りました。

そして日本人は新しい外来の価値観に乗り換えると、過去をすべて否定し忘れ去りますから、自分たちが何でこのような行動をとったのかが分からなくなってしまいます。

現在は支那が「アジアの盟主」を主張し朝鮮が伝統的にそれに従っていますから、支那が満州やチベット、ウイグルを侵略していることには沈黙しています。

日本人もむやみに「反省している」という状態です。

このように東アジアは伝統的に「誰が盟主か」というのが国際関係の基本になっています。

東アジアでは「誰が盟主か」というのがいつも大問題になると書きましたが、正確にいうと「誰が全世界の盟主か」ということです。

18世紀にマッカートニーというイギリスの外交官が清と通商条約を締結しに北京に来ました。

清の官僚は、マッカートニーに九回額を床に打ちつけるお辞儀をすることを条件に彼に皇帝への拝謁を許可しようとしました。

支那の周辺の国と同じようにイギリスも支那の皇帝の配下として扱おうとしたのです。

マッカートニーは「これはイギリス国王に対する侮辱である」として激しく抵抗しました。

このように中華思想というのは、本来は全世界は皇帝の支配下にあるという発想です。

この中華思想が19世紀前半のアヘン戦争で木っ端微塵になりました。

その直後に日本が明治維新を起こし、列強への道を歩みだしました。

この時の日本は、「日本が世界の盟主だ」とはさすがに考えませんでした。東アジアの盟主となってその独立を守ろうと考えたのです。

それ以後、本家争いは全世界を対象としたものではなく東アジアに限定されたものになりました。

しかし東アジアに限定した本家争いというのはもはや無意味になっています。

軍事的には全世界が軍隊の行動範囲になっているし、経済も世界中が密接に関連しています。

この無意味になった「東アジアの盟主」に未だにこだわっている理由はいろいろあると思いますが、その一つはそれに変わる理念がないということです。

支那の中華思想はアヘン戦争でダメージを受け、共産党政権の成立で息を絶たれました。

支那共産党は儒教を禁止したのです。そしてそれに変わるものとして共産主義を掲げました。

ところが最近になって資本主義を積極的に採用し、表看板とはまるで違うことをはじめています。

しかもその内部は日本などとは比較にならない経済格差と少数民族の独立運動で、分裂の危機にさらされています。

だから中華思想という伝統的で分かり易いもので、一般の支持をつなぎとめようと考えているのです。

朝鮮は伝統的に一番強大な国の配下になってその安全を図るという戦略を採用していますが、最近まではアメリカに頼っていました。

しかし最近は、アメリカより支那とのビジネスが多くなっています。

そして支那の経済成長にのった格好で経済は順調に推移しています。

最近の南朝鮮の反米・親支那の原因はこれです。

南朝鮮も表向きは「民主主義」を掲げていて儒教は消えています。

日本は元から国民に共通の正義がなく、大東亜共栄圏も消えてしまいその残り香だけという状態です。

このように、東アジア全体で「本家争い」の思想的基盤が消えてしまい、残り香だけになっています。

東アジアでは、誰が盟主かという問題に解答を与える儒教が消えてしまい、その残り香というかイメージだけが残って本家争い・盟主争いをしている状況です。

支那は国内の分裂を回避し国民を纏めるために、東アジアの盟主であることを宣言して頑張っています。

盟主というのは実力を備えてから立候補するべきはずのものですが、支那は実力も備わっていないのに立候補したために非常な無理を重ねています。

支那の取り柄というのは人口が多いことと交渉がうまいというだけで、基礎となる社会体制や国民のレベルアップが出来ていません。

しかし盟主を宣言したために軍備の拡張や積極的な外交を展開しています。

支那人というのはもともと自己の利益をとことん追求するのですが、その性向をかろうじて抑えていた社会体制が儒教でした。

その儒教が消えそれに代わる共産主義も無くなってしまった為に、むき出しの私益追求を抑える仕組みがなくなってしまったのです。

こういう状況は近隣の諸国にも迷惑を及ぼしますが、支那本体もダメージを受けます。

南朝鮮は、経済的な理由もありその保護者をアメリカから支那に最近鞍変えしました。

南朝鮮の支那への投資は莫大で多くの朝鮮人が支那に駐在しています。

しかし朝鮮でも儒教が消えてしまった為に、自分たちのアイデンティティーが揺らいでいるような感じがします。

儒教が健在なときは支那人が一番で自分たちは二番手でしたが、そういうランク意識がなくなってきたようです。

今の南朝鮮人は支那人より豊かですから、支那人を侮っているようなところがあります。

数年前にソウルに行ったのですが、そこで国営テレビのドラマを見ました。

歴史ものだったのですが、なんと朝鮮王を皇帝と呼んでいるのです。

儒教秩序では朝鮮王は支那皇帝の家来であり、絶対に皇帝とは名乗りませんでした。

朝鮮国営テレビの社員もその程度のことは分かっているだろうと思うのですが、国民に朝鮮は支那と対等だというイメージを植え付けているような感じなのです。

朝鮮は二千年間、支那の価値観である儒教の秩序に従うことで自分たちのアイデンティティーを保ってきました。

それが消えてしまい代わりのものが無く、朝鮮人が一番というプライドだけが膨らんできたようです。

プライドだけは高くなっても実力がついていかないという意味では支那と同じなわけです。

朝鮮人の行動原則が無くなってしまったわけで、こういう心理状態で支那にくっついたということです。

どうやら今の東アジアは理念がない殺伐とした関係になってきたようです。

支那人や朝鮮人の自分たちが一番という発想はアメリカの国益に反しますが、こういう状態をアメリカはさほどあせっていないように見受けられます。

いつまで続くのだろうと静観しているように私は感じました。

今回のブログのタイトルは「ローマ史を読みました」なのに、のっけからローマと関係ない東アジアのことを延々と書いてしまいました。

まだ書くべきことはたくさんあるのですが、これではなかなかローマ史にたどり着けないので、この辺は次回に回して本題に入りたいと思います。

東アジアのことから書き始めたのには訳があります。

ローマ史を夢中になって読んでいるうちに、「何とローマ史・西洋史は東アジア史と違うのだろう」という思いがどんどん深くなっていったのです。

またヨーロッパ人が書いたローマ史と日本人が書いたローマ史も違うのです。

この違いは、関心の違いや宗教への理解の深さの違いから来るものです。

そうして思ったのは、「ローマ史を理解しようと思ったら用語や考え方から入っていかなければ全体の流れが分からなくなってしまう」ということでした。

日本人の書いたローマ史は用語の解説に多くのページを割いています。

例えば、インペラトールという言葉は、英語ならばエンペラーと訳したらさほど多くの説明を要しないのですが、日本語では皇帝と書いた後、延々とその概念の説明が続くのです。

つまりインペラトールを東アジアの概念である皇帝と理解されてはまずいのです。

インペラトールも支那の皇帝も単に最高統治者というだけの意味ではなく、その文化の価値観を濃厚に体現したものです。

ですからローマ史を理解するために支那史とはどこが違うのだろうと考え始めたのです。

そうして東アジアの長い歴史を支配しているのは「正統」ということで、これが正義であり支那国内の組織にも国際間の秩序・序列にもなっているのだと思ったのです。

ですからローマ史に関して私の感想を書く前に、私なりの東アジア史を書いたのです。

東アジアで一番偉いのは「天」で、天が地上にいろいろ介入します。

道徳に優れた聖人を選び、彼を皇帝にして、全世界を支配させます。

聖人である皇帝から同心円を描いて周辺に広がっていく序列がこの皇帝の世界支配を保障するという仕組みになっています。

そうして、日本・支那や朝鮮はこの序列の中心が自分だと主張して争っているという図式になっているのです。

こういう図式はローマ世界にはありません。

私のローマ史に関する感想はここから始まります。

お国自慢というのはたわいなくあまり根拠がないものが多いのですが、中には面白いのもあります。

いまから20年以上前のことですが、ドイツのミュンヘンに行き楽しい思いをしました。

生粋のミュンヘン人の頭のはげたおじさんは、ビールをガブ飲みしては散々にお国自慢をするのです。

彼はバイエルンはドイツではないと主張していました。

バイエルンはミュンヘンを首都とするドイツ南部の地方でオーストリア、スイス、フランスと接しています。

19世紀後半に北ドイツのプロイセン王国が、鉄血宰相ビスマルクを指導者としてドイツを統一しドイツ帝国を作り上げるまでは、バイエルン王国という独立国だったのです。

王国や王家の格は、成り上がりのプロイセン王国やその王家のホーエンツォレルン家より上なのです。

19世紀後半にプロイセン王国がドイツを統一するに当たっては、戦争を3回しています。

一回目はデンマーク王国とプロイセン王国の戦争(1864年)で、ドイツ北部のシュレスビッヒ・ホルシュタイン地方の帰属を争ったのです。

デンマークを叩きのめしたプロイセンは北部の国境を確定しました。またこの戦争はデンマークはドイツではないということを確認するための戦争でもありました。

中世以来、非常に広い範囲がドイツと考えられ、その中に小さな国が分立していて異分子も多かったのです。

余談ですが、このときのプロイセン軍の参謀総長は天才的な戦略家といわれたモルトケですが、彼はデンマーク生まれで若いときデンマーク軍の将校をしていたときもありました。

ヨーロッパ人の国家とか民族というのは日本人の感覚と大分違います。

二回目は1866年の普墺戦争です。

プロイセン王国とオーストリア帝国が戦ったのですが、多くのドイツ国内の弱小国はオーストリアに味方しました。

従来からオーストリア帝国もドイツと考えられていて、プロイセンとオーストリアがドイツの主導権を争っていました。

結局、オーストリアはこの戦争に負け、ドイツから排除されました。

この戦争でバイエルン王国はオーストリアに味方して負けました。

このときにオーストリアに味方した多くの弱小国は潰されプロイセンに併合されましたが、バイエルン王国は簡単に潰すことができる相手でもないので残され、プロイセンの同盟国となりました。

そして最後の戦争が普仏戦争(1870~1871)で、隣国が強大になるのを恐れたフランスと全ドイツ連合軍の戦争でした。

この戦争に勝ったプロイセン国王は、占領したフランスのベルサイユ宮殿でドイツ皇帝の即位式を行いました。

1871年にドイツ帝国が出来、プロイセン王がドイツ皇帝を兼ねることになりました。

そしてそれまでプロイセン王とは同格だったドイツの弱小君主はドイツ皇帝の臣下となり、それまで、各君主が持っていた外交・軍事の権限は全てドイツ皇帝一人に集中しました。

バイエルン王とドイツ皇帝との関係も同じです。

一方がプロイセン王、片方がバイエルン王ということでは同僚なのですが、同時に皇帝とその配下の国王ということでは主君と家来の関係になりました。

ただバイエルン王国は、新しく出来たドイツ帝国の領土・人口とも六分の一程度の大きな存在なので、ドイツ帝国も非常に慎重に取り扱いました。

バイエルン王国に限っては軍隊の保持を認めたのです。

このようにバイエルン王国は中途半端な状態で、この関係は50年後にドイツ帝国そのものが消えてなくなるまで続きました。

またドイツ人の多くはプロテスタントの信仰を持っていましたが、バイエルン王国ではカトリックが主流でした。

このようにバイエルン王国の半独立状態を憂慮したビスマルクは、「文化闘争」を始めました。

バイエルン王国内のカトリックの影響力を弱めようとしたのです。

これにはローマ法王も激しく反発して、ドイツだけでなくヨーロッパ中の大事件になったのです。

カトリック側の予想以上の反撃にビスマルクは苦戦し、ドイツが混乱している間隙を縫って共産主義の勢力が力を得てきました。

そこでビスマルクはカトリックと和解し、以後共産主義勢力の撲滅にエネルギーを集中するようになりました。

撲滅するといっても、共産主義者をめったやたらと逮捕するだけという頭の悪いやりかたをしたわけではありません。

労働時間の上限や最低賃金を定めた労働法を制定したり、社会保障制度を充実させたりと労働者の保護を厚くして、彼らが共産化しないようにしたのです。

ビスマルクは社会福祉政策の元祖なのです。

ドイツ帝国に組み込まれた時のバイエルンの国王がルートビッヒです。

彼は映画の主人公にもなったのでご存知の方も多いと思います。

1845年生まれで、1864年まさにドイツ統一戦が始まった年にバイエルン王に即位しています。

政治に関心を持たず、ワーグナーの曲と中世風のお城を愛して最後には精神異常になったということです。

普仏戦争に負けてプロイセンに賠償金を払い財政が苦しい時に、ノイシュバンシュタイン城やベルサイユ宮殿を真似たヘレンキムゼー城を建てて浪費しました。

もっともこのお城は建設当時は国王の道楽だと評判が悪かったのですが、最近は観光の目玉となって地元に利益をもたらしているようです。

1886年あまりの「馬鹿殿」ぶりに国民に愛想をつかされ、無理やり退位させられて、お城に閉じ込められ翌日水死体で発見されました。

ルートビッヒに言わせれば、「王位とは名ばかりでドイツ帝国の言いなりになるしかなく、私の出番はないではないか」ということになるかも知れません。

ルートビッヒ王も含めて「バイエルンはドイツの他の地方とは違う」という思いが強いのです。

私はミュンヘンのビヤホールで頭のはげたミュンヘンっ子に散々お国自慢をされました。

彼はバイエルンはドイツではないと主張しました。

ドイツはローマの版図になったことは無かったが、わがバイエルンはローマの一部だったというのがその主張の根拠です。

ミュンヘンより100キロメートルほど北をドナウ川が流れているのですが、その川岸のレーゲンスブルグという町に彼は私を連れて行きました。

そしてその町にあるローマ軍の基地を見せました。

ローマ時代、ローマの軍団6000がそこに駐屯しドナウ川の向こうから攻めてくるゲルマン人に備えていました。

確かにバイエルン地方は、ローマ時代ラエティアという名称のローマの一地方だったのです。

レーゲンスブルクからの帰り道で、レストランに入り鱒料理を食べました。

ヨーロッパの魚料理はたいていバター焼きなのでたいして変わり映えがせず、日本の塩焼きや醤油で煮たものにはかないません。

しかしここでもミュンヘンっこは、ドナウ川の鱒はライン川の鱒より美味いと強調し、アメリカや日本の鱒より良いだろうと私の同意を強要しました。

そしてバイエルンのワインは最高だと一人で喜んでいました。

確かにこのワインは美味しかったのですが、ヨーロッパに行くと必ずその土地のワインの上等さを自慢します。

そこでワインに関する本を探したら驚くほどたくさんありました。

ワインはローマの版図だった場所でしかつい最近まで作っていなかったのですね。これには驚きました。

フランス・イタリヤ・スペインがワインでは有名ですが全てローマの支配下にありました。

ドイツでワインがとれた所は、ライン川とドナウ川より内側のローマの支配下にあったところだけです。

有名なモーゼルワインはライン川の支流であるモーゼル川の沿岸でとれるのですが、ここはローマの版図でした。

スイスやオーストリアもローマの版図だったので、ワインを産します。

これらの国は山の中で気候が良いとは言えず、ここでワインがとれるなら北ドイツや東欧でも可能なはずです。

イギリスは短い間でしたがローマの版図に入っていましたから、かつてはワインを作っていました。

昔のフランスでワインの醸造所を所有できるのは貴族だけでした。

今でもワインの会社のオーナーのステータスは高く、財産を作り上げたおじさんは次にワイン製造会社を持ちたがるのです。

このようにヨーロッパではワインは文化のシンボルのようになっています。

ヨーロッパ人は、極端に言えばワインを飲んではローマを思い郷愁と文化をを感じてしまうようです。

第二次世界大戦中イギリスの首相のチャーチルは、敵であるドイツを「ローマの文明に浴さなかった野蛮国」とののしりました。

ヒットラーが「ローマ人のたしなみであるワインも作れない野蛮人め。私は毎晩ローマ人直伝のドイツワインを飲んでいるぞ」とどなりかえせば面白かったでしょうね。

ヒットラーは、酒も飲まず質素な生活をしていたので残念でした。

チャーチルの本家はマールバラ公爵家ですが、その初代は桶屋のせがれで戦争に手柄を立てて爵位を賜ったのです。

彼の場合、先祖が馬の骨であることは皆が知っていましたから家系を飾ることが出来ませんでしたが、他の古い貴族は結構家系を捏造しています。

「我が家の先祖はローマの貴族であった」と称しているのがたくさんいるのです。

ローマは征服した異民族の部族長などを元老院議員にしたり貴族にしたりしましたから、イギリスやフランスの田舎にローマ貴族の末裔がいることをいちがいに否定できないのです。

またガリア人やゲルマン人がローマ軍に勤務して将軍に出世してから故郷に帰ることもありましたから、ドイツの田舎に「ローマの貴族の子孫」がいても不思議ではないのです。

「私はユリウス・カエサル(ジュリアス・シーザー)の子孫だ」というのもいます。

カエサルはガリア(フランス)を征服し、そこをローマの領土にしました。

彼は天才的な政治家・軍人でしたが、また非常に女にもてそこらじゅうに種をばらまいています。

このように、ヨーロッパ人は「ご立派なローマ人様が、我々のような野蛮な田舎者をよくぞ征服して下された」と随喜の涙を流しているのです。

ローマ帝国は1500年前に潰れてしまったのに、ヨーロッパ人やアメリカ人はいまだに憧憬の念を持っています。

教養の基礎はラテン語であり、政治制度や法律もローマのものから来ています。

「こんなすごい国とは、いったいどんなものだったのだろう」というのが、私のローマ史への興味の出発点です。

「はるか昔のことなのでヨーロッパ人は実態を忘れてしまい、むやみに古代ローマを理想化してしまったのではないか」とも思いました。

そういう視点からローマ史を読み直してみたのです。

そうしたらこの点に関しても様々な人がいることが分かりました。

「あばたもえくぼ」という感じの人がいます。

ロボットで有名なSF作家のアシモフは歴史家でもあるのですが、彼の書いたローマ史には極悪非道なローマというイメージは全然ありません。

塩野七生の書いた「ローマ人の物語」も読みましたが、彼女もどちらかというと「あばたもえくぼ派」です。

勿論、女史は史実を忠実に描いていますが、「惚れた弱み」というのが感じられるのです。

その一方、「ローマは被征服民を力で押さえつけた」というように書いている人もいます。

聖書はどちらかというと「悪逆非道派」です。

イエス・キリストの時代のユダヤは、ローマに対してしばしば反乱を起こしています。

ローマはユダヤ地方を直轄の属領にしたり、ローマに尻尾を振っている男を国王にしたり試行錯誤していて、統治に苦労しています。

ユダヤ教の強烈な一神教がローマの原則と合わなかったためです。

イエスに死刑判決を下したポンテオ・ピラトはローマから派遣された代官でしたが、彼の事なかれ主義の官僚的態度は今でもキリスト教徒の非難の的になっています。

また歴代の皇帝はキリスト教を迫害していて、これは文学の一つのジャンルになっています。

シェンケビッチの「クオ・バディス」は、ネロ皇帝のキリスト教徒迫害をテーマにしたものでノーベル賞を受賞した作品ですが、ここではローマの支配を過酷なものと表現しています。

ローマ史家として有名なのは、イギリス人のギボンとドイツ人のモムゼンです。

ギボンは18世紀後半の人で、「ローマ帝国衰亡史」で帝政の末期のことを書いています。

彼はイギリスの下院議員でもあったので、国がどうなったら滅びるのかというのが強烈な関心事でした。

モムゼンは20世紀はじめの人で、ローマ史の研究によりノーベル文学賞を受賞しています。

彼は共和制がローマの本質だと考えていたようで、ユリウス・カエサルから始まる帝政時代の前までしか歴史を書いていません。

関心が異なる二人ですが、ローマが力で被征服民を押さえつけた事実を書いています。

いろいろ読んでみると、ローマはその力を背景に横暴な振る舞いをしたというのは事実であったようです。

ローマの元老院は名家の出身者が集まったところでしたが、元老院議員は必要に応じて軍隊の指揮官になったり、属州の長官になったりとローマの要職に就きました。

元老院議員が就任するような要職は全て無報酬だったのですが、彼らは属州の長官になりたがりました。

そこで汚職をして莫大な財産を築くことが出来たからです。

代々続いた元老院議員はとてつもない金持ちで、国家予算の何分の一という額の財産を持っていたようです。

あちこちの荘園で奴隷を働かせていましたが、ローマの本宅で召し使っていた奴隷が別に千人ぐらいいたという按配です。

属州民が総督の汚職を元老院に訴える手段もあったのですが、議員が仲間をかばって不当な判決を下すことも多く、この場合は後の復讐が大変でした。

元老院議員の下に騎士という階級がありましたが、彼らは金持ちゆえに軍隊では騎兵になったのでこういう名称になったのです。

騎士の主な仕事は属州の徴税請負人になることで、それで巨富を蓄えたのです。

ユリウス・カエサルはガリアの長官に選任される際に、選挙民であるローマ市民の歓心を買うために盛んに見世物を催しました。

そのため、ローマで一番の借金王になってしまいました。

彼がガリアに赴任する時、債権者が踏み倒しを警戒して彼の出発を阻止するという騒動まで起こったのです。

ガリアに赴任したカエサルは、短期間で借金を全部返済し、その上に1万人以上の私兵を養えるだけの財産を築き上げました。

ローマの評判がよかった一因は、その奴隷制度であったと私は考えます。

といってローマ人が奴隷を「人道的」に扱ったわけではありません。

ローマの奴隷はかなり過酷に扱われていたという記録もあります。

過酷な扱いに耐えかねて奴隷が起こした反乱も何回かありました。

その中でも有名なのが「スパルタクスの反乱」で、映画にもなりましたからご存知の方も多いと思います。

円形の劇場の中で奴隷を武装させ、死ぬまで戦わせる見世物が当時大人気でした。

この剣奴隷の一人にスパルタクスという男がいたのですが、人望に厚く反乱を起こした剣奴隷のリーダーに祭り上げられました。

剣のプロが起こした反乱ですから正規の軍隊を打ち破り、それを聞いた奴隷が集まってきて大集団になり、イタリヤ半島が大混乱しました。

結局スパルタクスの反乱は鎮圧されましたが、奴隷たちが過酷な状態にあったことを証明する出来事です。

古代ではどの社会にも奴隷がいましたから、ローマに多くの奴隷がいたからといって当時のヨーロッパ人がローマを非道な国と考えたわけではありません。

奴隷の扱い方と獲得のしかたがどうだったかという問題です。

古代では、戦いに敗れた部族は皆殺しにされるか奴隷になるかのどちらかでした。

ローマは打ち破った敵を全て奴隷にしたわけではないのです。

ローマがまだ小さな都市国家であった時は、打ち負かした部族全員をローマ市民にするというやり方をとっていたのです。

その後ローマが強大になるにつれてこのやり方を止めて、打ち負かした部族を目下の同盟国にする方法に変えていきました。

いずれにしても、敗者を全て奴隷にすることはしなかったのです。

ただし、何度もローマに逆らった場合は、見せしめのために全員を奴隷にしたこともありましたが、これはむしろ例外だったのです。

また一旦奴隷にされた者も、その主人によって解放されて「解放奴隷」となることも多かったのです。

実際にどのぐらいの確率で奴隷が解放されたのかはよく分かっていませんが、「解放奴隷」という階級がありましたから、かなり一般的なことだったようです。

このあたりがローマ人の特性のようです。

ローマ人の先輩にあたるギリシャ人は、自分たちが文明人であることを非常に誇りにしていて、ギリシャ人以外をバルバロイ(野蛮人)と呼んでいました。

では同じギリシャ人どうしなら、仲間扱いしたかというとそうでもないのです。

ギリシャ人はポリス人間で、ポリスに身も心も捧げていました。

ですから同じ言葉を話すギリシャ人でも、ポリスが違えば仲間ではなかったのです。

ポリスの市民には両親ともポリスの市民の間に生まれた子供しかなれませんでした。

父親がアテネの市民でも母親が別のポリス出身であれば、その子供はアテネ市民にはなれなかったのです。

このような閉鎖的な考え方は古代では普通のことだったと思います。

ギリシャ語のバルバロイという言葉はラテン語にもなり、最終的には英語にもなりました。

英語のバーバリアンは野蛮人という意味です。

しかしローマ人は、自分たちと野蛮人を差別する発想は受け継がなかったようです。

以前に「サビニ族の女たちの略奪」の逸話をこのブログで書きました。

建国当時のローマ人は全てが独身男だったので、他部族の娘と略奪結婚するしか国を維持する方法が無かったという話です。

この事件が実際に起こったのかどうかはわかりませんが、非常に有名な逸話で様々な画家がこれを題材にして絵を描いています。

ローマ人の基本的な性格を見事に現しているので、この逸話がよく引用されるようになりました。

自分たちが様々な部族の混血児だという認識があれば、部族や人種で差別するという発想が起きてこないのです。

ローマ人としての勤めさえ果たせばローマ人だということになります。

ラテン語を話すことは条件になっていません。その部族の固有の習慣や言語を守っていても良いのです。

ローマ人としての勤めを果たすとは、言葉を変えればローマの法律を守るということです。

ローマ人が後世に残した遺産に「ローマ法」がありますが、ローマ人の発想から出てきたものなのです。

出身の部族や人種がいかなるものでも、ローマ人としての勤めを果たせばローマ人だという発想は支那人と似ているところがあります。

古代の支那は雑多な民族が混在しているところで、民族による差別というのは無かったようです。

中華と夷狄(野蛮人)の区別は徐々に出来てきたものです。

しかしローマ人と支那人で違うところもあります。

ローマの場合は、出身部族の言語や習慣を持ったままでも、ローマのルールに従えば良いと考えていました。

しかし支那の場合は、風俗・習慣・言語が支那化しなければなりませんでした。

支那語というのは一つの民族の言葉ではなく、広大な領域を統治する必要から作り出された漢字という文字が主体となった人工の言語です。

「支那人」という概念は本来特定の民族というのではなく、広大な版図を統治する支配者の一員という意味合いです。

公式の場では支那服を着て支那語を使うというのが、支配者たる支那人の条件なのです。

ローマの場合は、ラテン語が出来なければ役人にはなれないでしょうが、ローマ市民を失格するわけではありません。

支那の場合には、風俗・習慣・言語・社会組織という生活スタイル全般を画一的に統一して、広大な版図を統治しようとしたわけです。

そしてこの生活スタイルを細かく規定したマニュアルが儒教です。

一方ローマの方は、ルールを設けてそれでヨーロッパ世界を統合しようとしました。

そしてこのルールの集大成が「ローマ法」です。

この両者の性格がその後の歴史の歩みを決定することになります。

ローマ人が自分たちの言語・習慣を被征服民に押し付けなかったのは、自分たちが様々な種族の混血だという意識があったからですが、もう一つ理由があると思います。

地中海周辺には、古代から様々な偉大な文明が栄えていました。

エジプト、メソポタミア、ペルシャ、ギリシャ、フェニキア、ユダヤといったものです。

こういう文明に周囲を囲まれていれば、田舎者のローマ人が自分たちの風俗・習慣を周囲に押し付けようという厚かましい気持ちにはなれなかったでしょう。

一方、支那にはライバルがいませんでしたから唯我独尊になってしまったわけです。

古今東西、大きな国家同士も小さな部族ものべつ幕なしに戦争をしています。人間の歴史というのは戦争の歴史です。

負けた国の運命は勝者次第ですが、勝った方としても「明日はわが身」です。

勝者が戦争の当面の目的を達した後敗者をそのままに放置しておけば、やがて復讐しにきます。

だから敗者を皆殺しにするか奴隷にするかして、敗れた国を抹殺するのが後々のためには安全でした。

この方式の弱点は、勝者が自分たちの戦力を拡張することが難しいということです。

敗者を皆殺しにしてその土地を版図に加え、国民を移住させればそのうち人口が増えて戦力も増しますが時間がかかります。

版図を広げるということは、新しい敵を抱え込むということです。

新しく版図に加えた土地の向こうには別の国があり、従来は互いに無関係であったのに今度はライバルになってしまいます。

多くの戦死者を出した後にやっと勝ったという場合、戦力は低下している状態で新しい敵に直面し非常に厳しいことになります。

敗者を皆殺しにせず奴隷にした場合は、この奴隷の反乱を抑えるために絶えず軍事力で威嚇しておく必要があります。

こういう状態で新たな戦争が起きた場合、敵は相手の国の奴隷に反乱を起こさせようとします。

ですから奴隷を抱えた国は、敵に向かう外征用と奴隷を威嚇する内乱鎮圧用の二つに兵力を分散しなければなりません。

これは戦争のためには非常に効率がわるいやり方です。

ギリシャのスパルタは、新たにやってきたドーリア系のギリシャ人が市民になってポリスを作り、先住のイオニア系のギリシャ人を奴隷にした国家でした。

奴隷となったイオニア系の人口はドーリア系の20倍もありました。

ですからスパルタは市民に「スパルタ教育」をして優秀な兵士を作ることに必死になっていました。

30歳以下のスパルタ市民は全員が兵舎に寝泊りして臨戦態勢をとっていたという大変な社会で、新妻と共寝出来なかったのです。

戦場での耐乏生活に慣れるために、日常の生活は質素なものでそのうえ厳しい軍事訓練がありました。

奴隷を多数持つのは自分たちが左団扇で安逸な生活をするためだったはずですが、実際は非常に緊張した生活で妙な具合になってしまいました。

絶えず奴隷の反乱を警戒しなくてはならないスパルタは、長期間軍隊を遠隔地に派遣することができませんでした。

ですから、その軍隊は非常に強かったにもかかわらずさして版図を広げず、ラコニア盆地に蕃居していただけでした。


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