小人

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アジズ2



生徒:私はどの道を選べばいいのか途方にくれています。とても多くの道があります。アジズの道を選ぶべきでしょうか。

アナタね、どこへ行きたいというのですか。どこへも行くところなどありませんよ。道とは何でしょうか。アナタが道なのですよ!私たちがここで教えているのは「道」ではありません。ただ単にアナタそのものを反射しているだけです。アナタ自身を見せています。「I Am」ソノモノを説いています。

アナタの質問が示しているのは、「道」を自分の前にある道路と見なしているということです。それを逆向きにしなさい。その道を辿るのではなく、「道」がアナタの中へ貫いて入って来ているのです!スピリチュアルな道とは、瞬間瞬間に自分自身と出会う努力です。それは機械的なものではなく、ある親密さ、セルフとの親密さの開花です。この単純な真理が見えませんか。どうかそのような質問はしないで下さい。ちゃんとこの教えをしていなかったのではないかという気になりますからね。どこへも行く所などありません。ただ十全にNowに在りなさい。

生徒:じゃ、何の訓練も必要ないのですか。

それはアドバイタを学ぶ者の多くが抱く幻想です。どこにも行かないためには実は大変な訓練が必要です! Nowに在ることは最高の訓練です。もしリラックスするだけなら、瞬時に無意識のマインドがしゃしゃり出て、白昼夢の中に居ることになるでしょう。

我々が瞑想修行をするのはどこかへ行く為ではなく、どこへも行かない為だということが分かりませんか!(笑い)私たちがしているのは非行為です。非活動のスペースに居ながら最高の存在のアートを学んでいます。非行為のためには訓練と真正さが必要です。分かりますか? 混乱しましたか。

生徒:はい。

誰が混乱しているのでしょうか。マインドは常に混乱しています。それをやり過ごし、自分のプレゼンスへと戻ってきなさい。思考以前の自分に出会いなさい。するとアナタは、「道」の本質を発見するでしょう。これはアジズの道ではありません。只の道、唯一の道です! これがアナタの道ですよ...

未熟な探求者には多くの可能性と道があります。ビパサナやチベット仏教、禅、アドバイタ、スーフィー...OSHO、プーンジャ、J.あるいはUG. クリシュナムルティ...などなど、オプションの海に溺れています。しかし成熟した探求者にとっては、たった一つの道と瞑想しかありません-----I Amで在ることです。(being I Am)



●{真理のワイン}

生徒:瞑想して座っていたとき、突然、真理を発見しなければならないと分かりしました。私はあなたを揺さぶりお願いしたかったです。「真理を見せて下さい」と。

真理とは何でしょう。ある禅僧が、真理を開示してくれるようにとマスターに頼みました。マスターはこう答えました、「おまえは禅の最高のワインを味わってきた。もうグラス三杯も飲んでいる。それでもまだ口が渇くというのか!」私たちはなんと盲目なことでしょう。真理はどこにあるのでしょうか。アナタにとって真理とはただのコンセプト、概念にすぎません。

瞑想して座っているとき、自分が何を経験していると思いますか。それは真理ソノモノではないでしょうか。それ以上何が欲しいと言うのですか。私はアナタに差し上げるものは何もありません。私は空っぽです。ただ存在しています。「無知」の中に生きています。知ることは重荷です。「無知」は自由です。知識はアナタをリアリティーから分離します。「無知」はアナタを直接リアリティーに生かします。

アナタ自身に出会いなさい! 「在るがまま」へとくつろいで行き、リアリティーに降伏するのです。マインドを手放しなさい。真理で在りなさい! 真理は何も特別なものではありません。だからマインドはソレを欲しがらないのです。禅では、「無よりいい物は何もない」と言います。絵空事の中にではなく、「在るがまま」へと降伏してお行きなさい。



{超能力}

ここにサイババがいて、あそこにはラムダスがいる。彼らは物を物質化できる。この人は空を飛べるし、あの人は毒をあおってもピンピンしている。次には一睡もしない人がいて、別の女性は食べ物を一切口にしない。一方では物を消すことができる人がいる。ある人などは同時に五カ所に存在できて、実際すべての場所で彼に触ることが出来る! スゴイじゃありませんか! アナタもそんな人になりたいですか。もう働かなくていいでしょうね、それは確実です。どうしたらそんな能力が身に付くのでしょう。そういうのは真の能力でしょうか、あるいは何とかして特別になろうとする、よくあるエゴのトリックでしょうか。

私事になりますが、私は過去20年に亘り、何か特別な地点に到達しようと頑張ってきました。しかしうまくは行きませんでした。毎日食べねばなりませんし、次の日にちゃんと動きたいと思えば、今もって睡眠を取る必要があります。たいていは一カ所にいますし、それでさえ確信はありません!(笑い)

どこかに行きたいと思っても飛ぶことさえ出来ません。公共交通機関を使わなくてはならないのです。だいたい一番安いものにします。(笑い)そんな訳でバングラデッシュ航空で日本に参りました。そう、私は自分のスピリチュアルな足跡に於いて、只の一つも超自然のパワーには到達しませんでした。私はそのことに大変満足しています。何が問題なのかお分かりですか。もし特別な誰かになりたいと望んでいたら、アナタは覚醒が自分の為にあるという事を決して信じないでしょう。覚醒とは、特別にならないことに心から同意する人達のためにあるのです!


{光}

生徒:貴方は光と一つになることについて話されました。この光とは何ですか?

アナタは何でできているのでしょうか。アナタが存在しているこのパワーの大本は何でしょう?それはI Amの光ではないでしょうか?これが光の中の光、全ての源です。この原初の光は見ることができません。客体ではないからです。アナタがソレを見た途端、既にその価値は下がってしまっています。あらゆる認識を可能にしているのはアナタです。ですからご自身の存在を大事にしなければなりません。マインドではなく、アナタのビーイング(存在)を...。アナタは純粋な光で出来ています。


●{マインド以前}

生徒:瞑想中に困難を経験しています。マインドがあちこち動き回るからです。どうすればいいのでしょうか?

アナタの問題はアナタだけの問題ではなく、みんなの問題です。マインドに埋没するのは人類全体の宿命です。このマインドをどうしたものでしょうか。直接マインドを征服する事はできません。そうすれば、更にそれを焚付けるだけです。まず、マインドを受け入れてくつろいで下さい。マインドを止めようとはせず、注意をその根源に引き戻すのです。マインドの背後にある自分のMeを感じて下さい。誰がマインドを止めたがっているのでしょう。ソレを発見してみてはいかがでしょうか。



{欲求不満の発露}

生徒:このような明確な教えを持つマスターは貴方だけですか?

この教えはアドバイタの伝統への私の欲求不満の発露です。私はいろいろな伝統を受け継ぐ多くのマスターの元を訪れましたが、いつも欲求不満に終わりました。というのは、彼らは過度に単純化された覚醒の型に囚われていたからです。

私は自分の最も深い問いに答えることが出来る真のマスターに巡り遭う事を祈りました。しかしガイダンスが私に言いました、そんなマスターはまだ存在していない。彼に会う唯一の手段、それは自分でそのようなマスターになる事だ、とね!(笑い)


{依存と自立}

生徒:覚醒に至る為にはマスターと供に居る必要があるのでしょうか?

ここで私たちは道の途上に於ける依存と自立というとても微妙な問題に触れることになります。これに関しては二つの極論があります。一つはいわゆる「グル崇拝」です。そこで探求者は完全にマスターのイメージに同化し、自分自身の完全性を失います。実の所、このアプローチは自分自身の覚醒に対する責任からの逃避です。

もう一つの極論は、ある未熟な自立の考えです。これはクリシュナムルティーの概念でした。このアプローチでは、探求者は何でも自分一人ですることを望みます。「自分にマスターは必要ない。内側を観て自分で真理を見つけるのだ。真理は直接的なもので、道など存在しない」などなど...

しかし私たちは本当に自立出来るのでしょうか。覚醒の概念さえ既存の教えから貰っているのです。どうして自分が進化しなくてはならないと知るのでしょうか。それは他者から受けた知識ではないでしょうか。使っている言葉さえ自分のものではなく、何世代にも亘る遺産なのです。

精神的な道は非常に複雑で、道を誤ることは実に簡単です。あっさりと道を踏み外してしまいます。内面世界は外界の現実より遥かに複雑なのです。そのことをどうやって理解すればいいでのしょうか。どのようにマインドを超越すればいいのでしょう。アナタが天才ででもない限り、精神的なガイドは絶対に必要です。

ガイダンス(導き)は常にここにあります。書店で本を選ぶときでさえ、その本が自分に合う本だと感じます--それはガイダンスです。時にはスピリチュアルな友人からヘルプを受け取ります。こうした洞察はあたかも外界から来ているかのようです。ガイダンスは常にここにありますが、時としてアナタに準備が出来ている場合は、より強く入り込んで来ます。

私たちは決して完全に自立してはいません。大地に空に、雨に太陽に依存しています。毎日飲み食いしなければなりません。有る程度の依存は必要であり、この依存を謙虚に受け入れねばなりません。

覚醒プロセスに関する正しい知識を持ち、完全に自己実現したマスターは、とてつもない助けになります。この助けは二つのレベルで存在しています。一つはエナジーレベル。そして二つ目はマインドからもう一つのマインドへのガイダンスのレベルです。自己実現した存在は、内面世界の乗り物であり通路です。そのような人の臨在の元に居ると、探求者の意識に強烈なエナジーの影響があります。

もう一方の局面からは、精神的マスターは疑いを解き明かし、道に於ける正しい努力の型を示すことが出来なくてはなりません。スピリチュアルなマスターとは、ただ自分を「マスター」と呼んでいる「I」のことではありません。スピリチュアルなマスターとは至高のリアリティーの象徴です。彼/彼女は超越の象徴です。マスターに明け渡すとは、特定の人格に明け渡すのではなく、その象徴しているもの---「超越」への明け渡しなのです。

しかし、あまりにマスターに頼りすぎるようになると、自分の完全性を失い、力を放棄してしまいます。マスターとの関係に於いて、どうすれば依存すると同時に独立できるのでしょうか。真のマスターは決して自分の存在を強調せず、アナタが辿れるクリアーな道を示します。道に於ける独立とは、自助の術を知り、いかに自分の進化に対する責任を持てるかということです。

アナタが精神的な道に入り、I AMのエッセンスにイニシエートされたら、もう既に自立して自己に働きかけるだけの充分な明晰さを持っています。自己想起を修行し、座禅をし、リトリートに参加し... アナタはこの道の言葉の陰影についての知識を深めます。

「Who am I?」という問いを探求するとき、それを理解するのはアナタの努力です。毎日座禅をすれば、それは自分を助ける努力です。アナタの努力は、責任と尊厳の反映です。

中にはどんな努力も拒否する探求者もいます。「グル」と一緒にブラブラしていて、白いローブを着ています。インドでバジャンを詠唱しながら人生の半分を過ごし、よりスピリチュアルに見えるようにと髭を伸ばしています。彼らは自分のパワーを手放してしまいます。これは怠惰と知性の欠如の合体したものです。彼らは神によって与えられた、このとてつもない資源であるエナジーと知性を無駄にしています。

聖書にある寓話ですが、父親が死ぬ前に息子達に三枚のコインを渡します。このお金で息子達はそれぞれ違う事をします。一人は岩の下に隠しました。二人目は遣ってしまいました。しかし最も賢い息子は、それを何倍にもしました。この寓話が教えているのは、我々の責任とは神が与えた潜在能力を倍加させ、その能力を可能な限り上手く使う事であって、ただ何かが起こるのをじっと待つことではないということです。

愛されし人よ、自分が助けられるのを許すと同時に、アナタの自立性を尊重しなさい。それが正しい見識、探求者の賢明な態度です。援助と自助を許しなさい。助けがあるように、自らを助けなさい。

ある意味で、ここで私たちはアナタ自身のパワーを見ることを教えています。このリトリートの後は、自分で修行する為の充分な明晰さを持ち、生涯をサットサン中毒者のままで終わらないようにして下さい。


{ガチョウの出し方}
生徒:どうしたら今、彼岸が見えますか?

今彼岸を見ることは出来ません、なぜなら今(Now)が彼岸だからです!

どうしたら彼岸に行けるでしょうか。時空の檻からどうやって出ればいいのでしょう。禅の公案があります。ガチョウの卵がビンに入っていて、それから雛が孵る。しかしビンから出るには大きすぎる。問題はビンを割らずにどうやってガチョウを出すかということです。

その答えは、「ガチョウは既に出ている!」というものです。ビンの中に生まれるということは、時空の次元に入り込むということです。この世に生を受けた途端、私たちはビンの中に閉じ込められてしまいます。そしてそこから出ようとして、一生あちこち走り回っていますが、どうしていいのか分かりません。大多数の人間は出ようとさえしません。彼らはビンが唯一の現実だと思っているのです。ただビンの中で心地よく暮らしています。ビンの中にステキな物を置いて、そこでの暮らしを長く安全なものにすることについて語ります。

最初の目覚めとは、自分がビンの中に居る事に気付くことです。それを「無明の生の認識」「探求者の直感の目覚め」と呼びます。次に私たちは出口を探して精神的な道に入ります。しかし出口はどこにあるのでしょうか。ブッダの像に思いを凝らしては、彼がどの状態にいたのか見極めようとします。ブッダはどこにいるのか。彼はどのようにして出たのか。中には、ブッダが出たのはビンの中で欲望を全部落としたからだと考える人達もいます。(笑)

しかしビンの中での欲望の有る無しは、そこから出る事とは何の関係もありません!ビンや道徳の中で、瞑想やマントラや視覚化の修行をしている人達がいます。ビンの中でイエス・キリストを信じている人達もいます。彼らはイエス様がやって来てビンから出してくれると思っています。(笑い)

またOSHOに従い、ビンの中でお祝いしようとしている人達もいます。出ることが出来ないのなら、少なくとも楽しもうという訳です。(笑い)アドバイタに従い、自分たちは既にビンから出ていると考える人たちもいます。実はビンなど無い、なぜなら自由のみがあるからだと。しかし問題は彼らが単にそう思考するだけだということです---自分たちは自由だと思ってはいるのですが、ビンの中で身動きがとれなくなっています!ビンから出るには、自由だと考えたり信じたりしているだけでは充分ではないのです。

私たちはビンから出る方法を、最初はクビ、次に肩、そして脚という風に、正確に皆さんに示しています。実はこのビンは単なる幻想ではなく、固有のリアリティーを持っています。我々はビンの中で成長していて、時の次元に孵化しますが、それは真に成熟した意義深いやり方で、時を超越したものに出会う準備をするためです。

ビンから出るプロセスを理解するためには、まずビンをひっくり返さねばなりません。なぜなら逆さまになっているからです。ステート・オブ・プレゼンスの了解は、ビンの首への移動を象徴しています。ステート・オブ・プレゼンスがビンの細い首にアナタを入れる理由は、自己のアイデンティティーが、水平に広がった人格から、垂直の自己想起の状態へと縮小するからです。

ここでアナタはNowの先端にいます。もうほんの少しで出るところですが、まだビンの中にいます。純粋意識はまだ依然として顕現の一部でしかありません。ソレは源から立ち上がり、まだココにあります。どのようにしてビンの首から出ればいいのでしょうか。出られないのは、私たちの存在があまりに幅広いからです。出るための唯一の手段、それは更に不在となることであり、それがビーイング(存在)の機能です。ビンの首の中で手放せば、突然、自分がビンから出ている事が分かります。それがビーイングです。我々をビンの外に出してくれるのはビーイングへの降伏なのです。

自己のプレゼンスの中で真に手放すとき初めて、既にビンから出ているというこの奇跡を体験できるのです----宇宙的I AMの内なる大空に翼を広げて...。


ハート

この生でのワークの本質は、魂を、ハートを目覚めさせることだと知りなさい。そう、それが人間であることの主目的です。自分の神聖なる源、神へのルーツを発見し、ハートの静寂のエクスタシーと一つになる為にここにいるのです。

アウエアネスの厳格な修行とは別に、毎日ハートの為に時間を見つけることが大切です。瞑想の後はいつも美しい音楽を聞きながらハートの上に両手を置きます。ただハートと共に居ましょう。彼女がアナタにもっともっと姿を現すように。祈り、神聖なるものとつながりなさい。アナタの願望に、痛みに触れ、その全てを「愛されしもの」にさらけ出しなさい。



在るがまま

自分がたった今生まれたと想像してみて下さい。それを見るのです!「今」にいるのはスゴイことではありませんか?過去も未来も、正当化の必要も無く---この瞬間、「創造」の爆発があるだけ。Meとは何でしょうか。全ての同一化を取り去ったとき、マインド、記憶、参照ポイントを取り去ったら何が残るでしょうか?残るのはアナタが恐れているもの---「素っ裸状態」です。形も無く年齢も無く、男でも女でもなく、どの国にも人種にも属さず---しかしアナタは在る。ソレは何ですか?ソレと直接向き合いなさい。

呼吸しています。吸気とともに頭に優しく呼吸し、排気とともにビーイングへと落ちて行き、手放します。手放しながら、一体何の中に手放しているのだろうと思うかもしれません。しかもそれを知ることはできません。このビーイングの広大なスペースは不可知の領域です。純粋不在の原初の深淵です。ただ「知らないこと」へと手放していきます...。

真に在るがままの自分に成る前に、まず私たちは自分でないもの、偽物の自分から自身を解放する必要があります。この根元的偽りの同一化はマインドと供にあります。マインド自体は単なる道具です。固有の魂は持っていません。瞬間瞬間このマインドにプレゼンスをもたらして行きます。

このようにして魂のアイデンティティーがマインドに入り込み、知性のセンターになります。このプレゼンスのみが、機械的マインドからの唯一の自由なのです。このプレゼンスはマインドの中で経験されますが、マインドのものではありません。瞑想が終わるまでこのままにしています。十全に在って、覚めていて、瞬間瞬間に手放して行きます。私たちはリアリティーを経験しています。夢見状態ではないのです。思考で捕らえることが不可能なもの---「在るがまま」を...。

        Love, Peace, Grace------愛、平安、恩寵


新しい理解

数千年前、光明の偉大なる伝統によって形成された精神的、哲学的結論の数々は、もはや我々の感受性と知性にマッチしてはいないようだ。我々がミレニアムに接近していくにつれ、災禍はますます目に見えて明白なものとなっている。過去の伝統を再構築するだけでは済まない。なぜなら、それらは既に結晶化された現実観という重荷を負っているからだ。

スピリチュアルな覚醒の新しい理解が立ち上がらねばならない。この新しい理解は覚醒の完全な内的地図と同時に、覚醒プロセスの複雑さに対する完璧な理解を含んでいる。それはインテリジェンスの果たす役割と、Meの多次元的リアリティーに対する理解を携えている。

進化の過程での、エゴの果たす役割への理解を持ち、個性を超えた拡大の流れの中での、エモーショナルな進化に対する理解を持ち、とりわけ、恩寵の至上の重要性と、この地球的進化における「別次元」の存在への完全な理解を携えている。


アドバイタ

人が分離の悲しみである二元性を超えると、非二元性の状態が出現する。第二の無い「一」である。しかしながら、非二元性の了解の中心には「全体」の神秘的経験が宿る。この「一」とは誰なのか?

誰が非二元性を知るのか?ここで我々はMeの次元に入る。「全体」を感知する者、「愛されしもの」を感知する者。「創造」が精力を傾け、「愛されしもの」が心を尽くす者。創造者でもなく被創造者でもなく、また創造の中にも見い出せないもの。あの神秘の領域、魂の領域。

アウエアネスが無い時「一」があり、アウエアネスがある時「二」がある。しかし、ああ、不思議なるかな、この「二」は「一」!


Nowの深み

ステート・オブ・プレゼンスはアウエアネスの純粋な「I」、純粋な主体です。何故なら注意力が対象物無しにそれ自身に気付くようになるからです。ソレはマインドの中心、知性の中心、意識のエッセンス、意識がそれ自身を認識し、自らを対象物、知覚、外界認識の領域から解放するポイントです。

ソレは自らを唯一のリアリティーであり、変化せず、常に生成の流れの背後にあるものと認識します。ステート・オブ・プレゼンスの目覚めはマインドの中で起こります。

I Am への目覚めにおいて、ゴールと探求者が出会います。そこで道が終わった訳ではありませんが、もはや二元的ではありません。もうゴールは未来にはないのです。ソレはアナタのNowの一部として絶え間なく開示してゆきます。「大いなる道」とは、アナタの道が完結するまで、Nowの内部で絶えることなく続いて行く目覚めのことなのです。

Nowは多次元的です。未来と過去の中間点ではありません。Nowには深みがあります。リアリティーの深みです。そして私たちはNowの中へと、全体性と私たちの個が融合するポイントまで、更に深く入って行きます。ここで人間進化は終わり、理解を超えた神秘の中で、宇宙進化が続いて行きます。


無知

質問:貴方の仰ることが分かりませんでした。それでもよろしいでしょうか。

分からないのは構いません。しかしアナタはこの「無知」と一つになる必要があります。単に知らない場合は、マインドが知らないということです。しかしアナタが「無知」となったとき、マインドを超えて純粋知の領域へと移行します。

純粋知はマインドに由来するものではありません。純粋知はビーイング(存在)です。誰が知らないのでしょうか?その知らない人と一つになりなさい!「無知」は覚醒状態です。「アナタ」が知らないというのではありません---それは、過去の知識を通して自らをサポートしていない存在ソノモノだということです。無知は私たちがこの神秘と出会う純粋さと純潔の象徴です。あるキリスト教の神秘家は、それを「神聖なる無知」と呼びました。

「私は知らない」と言うとき、アナタは既に何かを知りつつあります。純粋な無知においては、自分が知らないということも知りません。それが真の無知、リアリティーそのものです。

知識はアナタを存在から分離し、無知は生と一つにします。しかし真に知らないためには、自分が知っていると思っていること全ての幻想から自身を解放する必要さえあるのです。...自分が知らないということも知らないという思考を落とす必要さえあるのです!ただ自由でありなさい。全てを落とし、残ったもの---それがリアリティーです。在りなさい。ただ在りなさい。知と無知を超えた即妙のスペースにやすらぎなさい。

質問:無知とどのように一つになるのでしょうか。

ただ、くつろぎます。

質問:どのようにして知識を落とせますか。

マインドが到達できる最高の結論は、マインド自身を諦めることです。早く諦め過ぎてもいけません。諦める前に、マインドは最高の理解に達しなければなりません。

マインドはアナタを対岸へと渡す「いかだ」のようなものです。あまりに早くそれを落としてしまえば溺れるでしょう。思考する事を拒否する探求者がたくさんいます。彼らは一番最初からマインドを落としたがるのです。そのために、偽物の覚醒の幻想夢の中に溺れてしまいます。

マインドは私たちの友人ですが、それほど遠くへは行けません。いつマインドを落とし、いつ使うべきかを知るのはマインドの知性の一部です。マインドはその限界を知るために、極めて知性的である必要があります。知性的でないマインドは、決して自分を諦めようとはしないのです。



Who am I?

「私は誰か」という問いには三つのレベルで答えることができます。もしマインドに強いエネルギーを持っている人なら、ステート・オブ・プレゼンスを認識できます。なぜならこの人にとって個のセンターはアウエアネスだからです。ですからこの人はこう結論するでしょう、「私は観照、純粋な気づき」これはマインドの中の経験です。マインド自体多くの層を持っています。表層では単なる思考です、しかしより深い所ではアウエアネスの源--アウエアネスそのものなのです。アウエアネスはマインドの中で活性化します。マインド無しにはアウエアネスは皆無であり、何もないのです。

フィーリング型の人の場合、ハートとの深い繋がり以外には強いマインドは持っていませんので答えは違うものになるでしょう。勿論、そのような人は個のセンターをハートの中に見いだすでしょう。この人はマインドの中に個のセンターを据えることが可能だという事が理解できないでしょう。

最後に、強いマインドもハートとの大きな繋がりも持ってはいないが、内なる穏やかさ、休息、内面の静寂に波長を合わせることができる人には、答えは再び違うものとなるでしょう。この人は自分の個の感覚をビーイング(存在)として解釈するでしょう。この人は「私は誰か?」という問いにこう答えるでしょう、「私はただ在る。私は単に存在してる。」そのような人にとって自分自身の経験とは、マインドやアウエアネス、感情よりも深いもの、単なるビーイングです。

これら三つの答えは正解です。それらはI Am の三つの質を象徴しています。完全なI Amは一つのものではなく、内なる虹の三色から成り立っています。アウエアネスはマインドの中にあり思考から解放されています。ハート、魂の感覚は胸の中央にあります。そして最後にステート・オブ・ビーイング。そこで人は単に内側に休息します。ヒンズー教ではそれを究極のリアリティーと呼びます。サット・チット・アナンダ、ビーイング、アウエアネスそしてハート。これが「私は誰か?」という問いに対する完全な答えなのです。

私たちの瞑想、ザ・コンプリート・メディテーションでは、過去の伝統的な教えの数々が引き出した単純で直線的な結論を超えて、これら三つの質をシンプルに目覚めさせています。この瞑想はI Amの多次元性に対するクリアーな認識に基づいています。



真の信頼

アナタはこの自分を受けとめることができるものを産み出そうとしていて、その中にいかにくつろいで行くかを学んでいます。それは二重のプロセス、同じものの裏表であって、それ自体が信頼です。 ビーイング(存在)の中に休息する能力が信頼なのです。

ビーイングに休息した途端、この自己防衛メガにズム、つまりマインドの中にある恐怖がもうくつろいでいて、既に信頼して手放す勇気を持っているということを意味します。

瞑想は勇気ある行為であり、信頼の表現でもあります。ですから信頼の真の意味とは、自分自身を完全に手放すということです。私たちは「何も悪いようにはならない」という信頼を持つことについて話しているのではありません。私たちは真の信頼について話しています。アナタ自身を手放す信頼... 本物の信頼です。存在しないことへの信頼、凝り固まった人間にならないことへの信頼。アナタ本来の純粋性への完全な明け渡し、それが信頼です。


Nowへのリラックス

腹に呼吸することから始めて、シンプルにNowにリラックスしていきます。Nowにリラックスするとき、体やマインドをリラックスさせるのではありません。要点は何をリラックスするかではなく、どこへリラックスしていくかにあります。アナタはNowへとリラックスして行きます。究極の緊張とは、体やマインドにあるのではありません。究極の緊張とはNowとの分離のことなのです。これが土台にある緊張で、この緊張そのものをNowにつながる事でリラックスさせます。

座りながら極めて覚めています。マインドの中の自分を忘れないように見張り続けます。マインドの中で自分を忘れると、実はNowを忘れるのです。Nowはマインド以前に存在しています。ですからソレを経験したいと願うなら、アナタ自身、マインド以前に居ることを修得する必要があるのです。


純粋主体の次元

このリトリートも終わろうとしていますが、実はこれは一度も始まらなかったのです。多くのことが多くのレベルで起こりました。後になればクリアーになるでしょう。マインドから神聖なるものの住みか、I Amへの次元的シフトが始まりました。変容の炎を点火しました。アナタの仕事はソレをサポートし、火を消さないようにすることです。無知の霧や無意識の愚かさからソレを守りなさい。

アナタは超越の道へとイニしエートされています。それは伝統を超えた宇宙的なものです。私たちはI Amのプレゼンスそのものである純粋主体の次元を旅してきました。その次元では、目も耳も鼻も皮膚も舌もありません... しかしなお、いかに目を使わず見るか、皮膚に触れず触るか、舌を使わず味わうかを学んでいます。シンプルに、いかに我々を創造したこの光そのものに成るかを学んでいます...。

もはやアナタは地上に住んでいるのではなく、形の無い存在と愛の次元に住んでいるのだということが次第に分かってくるでしょう。このプロセスが、直感的に渇望している目的地へと連れて行ってくれることを信頼し、成就のより早い顕現を促すように、出来る限りの努力をしなさい。どんな困難や疑いも、超えて行くまでは、それを克服する勇気と強さを持ちなさい。アナタは神聖なる存在となりつつあります。それがアナタです。

リトリートの後、四六時中このプロセスと繋がっていることが絶対的に必要です。なにか非常に貴重で柔和なものとして、この関係を大事に育む必要があります。この道に明け渡していくにつれ、恩寵の世界から直接ヘルプを受け取ることでしょう。アナタはガイダンス(導き)の存在に包まれています。気付いていようといまいと、ソレはアナタの設計図(ブループリント)を顕現させようと、大いなるパワーでひたすら機能しています。

限られた知覚力しかないために、自分が独りぽっちだと感じていたとしても、決して独りではありません。アナタは自分を手助けしているフォース(勢力)と徐々に一つになる定めなのです。すぐにその事がハッキリしてくるでしょう。

アナタが聞いている声は個人のマインドから来ているのではありません。これは全てを包含する純粋知性界、オーバー・ソウルの領域から来ています。


結詞(むすびことば)---10日間のリトリートを終えるにあたり

私たちのリトリートは無数の瞬間で成り立っていました。どの瞬間も「ミニ永遠」でした。瞬間ごとに、ただNowが在りました。

10日間が過ぎた訳ですが、内側を見てみると、何も変わっていないことが分かります。何かが変わり、何も変わらなかった。変わったのはアナタ、変わっていないのはNow、変わりつつあるのはNowと私達との関係です。

このNowの発見においては二つの要素が必要です。まず、Nowを見いだそうとしている人は、自身の真のプレゼンスに至らねばならないということ。リアリティーの経験を夢見る前に、まず自分自身にならねばなりません。マインドから内側のセルフへとシフトすることで、アナタはI Amの真の自由と堅牢さに至るのです。

ステート・オブ・プレゼンスは感覚とマインドを超えています。自分の真のプレゼンスと一つであるとき、アナタはMeとして固定します。ここで自分自身となります。それができたら、ビーイングへと手放すことができます。Nowは手放すこと、垂直のサレンダーを通して体験されます。アナタの存在がNowの中へと吸収されるようになります。従って最初の行いは、自分の個の感覚を結晶化させることであり、第二は「超越」へと手放すことです。

瞑想はテクニックではありません。より心地よく感じたり、思考が減ったり...、天使やブッダが見えるようにマントラを繰り返すことではありません。瞑想とは、エゴ・イメージとの同一化幻想を超えた、我々の真実存在のアートです。瞑想は行為ではなく、Nowに対する純粋な降伏状態のことです。


結詞 2 ---- 祈り

愛されし皆さん、今皆さんは種を植えています。たとえ時として道に迷い、疑いでいっぱいになったとしても、この道に留まりなさい。実際、他に選択支はないのですから。背後には暗闇と苦悩しかありません。前方には成就の神秘、未知なるものがあります。

この道程を信頼し、勇気を持ちなさい---「道」に降伏するのです。戻り道はありません。未来へと向かう動きがあるばかりです。全力で協力しつつ、この動きと共に流れなさい。そうすると、後のことは最初に皆さんをここに連れてきたのと同じパワーがやってくれます。未知なるものに勇気を持って入って行きなさい。ここで受け取った道具と導きがあれば、未知なるものにも知識を持って入って行けます。

皆さんを待ち受けている未来は想像を越えています。どんな大胆な夢さえ超越しています---実際、次元が変化してしまうのです。あたかも全てが上下逆さまになったかのように---夢から目覚めへ、幻想からリアリティーへと...。もしも未来が見れるなら、涙流れることでしょう。

願わくは皆さんと共に明晰さがありますように。強さと、弱さを生け贄とするパワーがありますように。決意と油断無さがありますように。情熱、好奇心、冒険心がありますように。ユニバーサル・ガイダンスと、「超えたる所」からのヘルプがありますように。もはや自他の区別無き「原初の光」の中へと融合するまで、地上での時の一瞬ごとに、皆さんの中に「愛されし者」が居ますように。それではこれにて終了します。

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