紙飛行機のように


 あの月がほしいと駄々をこねる子供が、本当に月を手にすることができると思っているのならば、その子供ははたして私かもしれない。
 私は私を表現する媒体として言語というツールを選択した。しかしそれは私の自由意志に基づく選択であったにもかかわらず、私は時折己の紡ぎ出す言葉に言い尽くせない嫌悪を覚え、嫌悪の原因たるその重みに呼吸することさえ困難になり、最後には言語というツールそのものに限界や絶望を覚え、そんな己をまた嫌悪し、それでもなぜか、書かずにはいられない。
 私の言葉は重いのだ。例えば私の中にある何らかの感情、それは「かなしい」という言葉で表現されることによって「かなしい」という感情に凝縮され、規定される。違うのだ。私はかなしいばかりではない。私の内にはもっと、もっと違う何かがたくさん存在する。そんな違和感に私は懊悩しているのに、浮かぶ言葉はただ「かなしい」で、仕方なく私は違和感を抱いたまま「かなしい」という言葉を綴る。
 こうして私は私の内の様々な感情を十把一絡げに拘束し、縛り上げたそれを「かなしい」という乗り物に乗せて読み手へと放り投げる。その「かなしい」はあらゆる感情の混合物、純然たる辞書的な「かなしい」に私というたくさんの不純物が含まれていると言い換えてもいいだろう。そのせいでずしりと重くなったそれを、不幸にも受け取ってしまった読み手が困惑しないことを、あるいは背中にのしかかる重さに苦しむことのないように望む一方で、「かなしい」だけではないのだと理解してほしいと思うのも紛れもない真実で。
 私は本当は、私を理解してくれる誰かと共に、その重さに押しつぶされることを願っている。


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