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カテドラルでの星野神父様葬儀ミサは平日午後にも関わらずほぼ満席でした。今年4月から世田谷の幼稚園の園長兼学校法人理事長として働かれていたので幼稚園児と保護者も大勢参列し、棺には子どもたちの絵や園長先生へのお手紙も入れられていました。前日まで九州の修道院で黙想指導し、東京に帰宅。翌朝幼稚園に出勤されず、ご自宅で亡くなられていたとのこと。最後まで教育職として働かれ使命を全うされたあっぱれな人生だったと大司教様の言葉。大学での長年の教育職を通じ、講話や説教が上手で、色々な場所、シスターたちに招かれることも多く大勢の人とつながりがあったという話もありました。講話のときには毎回最前列にカセットレコーダーやICレコーダーがずらっと並べられていました。参加できない人や家でもう一度聞きたい人用です。星野神父様の声を聞いていると落ち着きました。修道院での講話では、伴奏でピアノをひいてくださいました。長いきれいな指で奏でる一音一音はっきりした澄んだ音色が印象的でした。葬儀ミサでは聖歌隊はなく、入祭、閉祭、聖体拝領、献花のときはパイプオルガンの演奏でした。パイプオルガンが奏でる「ごらんよ空の鳥」「わたしをお使いください」などの親しみやすい聖歌も良かったです。聖体拝領に並ぶ人のほうが少ない、未信者が大勢集まった神父の葬儀ミサはあまりないのでは。最後まで宣教者として働かれたのだと思います。ミサでの共同祈願です。洗礼によって永遠のいのちにうまれ、叙階の秘跡によって教会に生涯をささげられたパウロ星野正道神父様が諸聖人の集いにむかえられ神の栄光にあずかることができますように。多くの苦しみに耐えながら深い信仰をもって司祭職を全うされたパウロ星野正道神父様に永遠の安らぎを与えてくださいますように。パウロ星野正道神父様が今までわたしたちに示してくださった愛とご指導に感謝します。主が豊かに神父様のお働きに報いてくださいますように。星野神父著書 「崩壊の時代に射す光 ヨブとミツの立つ世界の中で」「いのちへの答え 傷つきながらも生きる」「いのちに仕える わたしのイエス」星野神父様の声が聞こえるような文章と写真です成城教会での四旬節黙想会
2023.09.27
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白百合女子大学名誉教授星野正道神父様の訃報を知りました。社会人生涯学習講座でのわかりやすい心に沁み入る講話を楽しみにしていました。講話のまとめを、このブログに載せています。鎌倉市の修道院での講話ではピアノをひいてくださって皆で「ふるさと」を歌ったこともありました。「こころざしをはたしていつの日にか帰らん。山はあおきふるさと、水は清きふるさと」私達のふるさとは天の国。星野神父様の永遠の安息をお祈りします。葬儀ミサ26日火曜午後1時半 東京カテドラル聖マリア大聖堂https://tokyo.catholic.jp/info/diocese/48605/
2023.09.25
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4月1日は初金となりました。今日は復活の金曜日。ミサの説教で、「復活後の」金曜日ではなく、「復活の」金曜日というのはなぜかという話がありました。「復活後の」というのは、すでに復活した、過去の話。「復活の」は過去ではなく、今現在でもあるから。祭服の脱ぎ着がお一人では困難なご高齢の神父様で、周囲の人に助けてもらっていらっしゃいました。先週の聖金曜日は伊勢教会を訪れました。夜の典礼には出席できなかったので、昼間聖堂で十字架の道行きと典礼を読んで祈りました。桜は開花したけれど寒い日でした。伊勢教会は伊勢市の市役所や裁判所のすぐ裏にあります。江戸時代、教会のある場所は刑場か墓地だったので土地を入手できたと聞いたことがあります。
2016.04.01
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高松教区名誉司教であり京都望洋庵庵主であるフランシスコ・ザビエル溝部脩司教様は、原発不明癌のため、2016年2月29日午後7時40分に、京都大学付属病院で帰天されました。享年80歳でした。 京都司教区では、以下の通り仮通夜・ミサを行います。司教様の永遠の安息のために、お祈りいただきたく、ご案内いたします。2016年3月2日(水)午後18時30分カトリック河原町教会聖堂高松司教区での通夜・葬儀の日程は以下の通りです。通夜3月3日(木)午後7時葬儀・告別式3月4日(金)正午場所 : 高松市 藤塚町公益会館西館ーーー先日病気が重いというお話を伺い驚きました。今度の復活祭に若い人達が受洗するまで何とかがんばりたいとおっしゃっていたそうです。永遠の安息に入られた司教様が主の御元で憩われますように。日本の殉教者たち、高山右近の列福のためのお働き、講演会では声がかれていらっしゃいました。ありがとうございました。
2016.03.01
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いつくしみの特別聖年が始まりました。公式賛歌が世界中で歌われ、日本カトリック司教協議会の日本語訳もできました。日本語訳の楽譜はカトリック中央評議会のHPにあります。いつくしみ深く御父のように日本語訳地元の教会では1月から閉祭の歌として歌って、ラテン語でも覚えやすいきれいなメロディで口ずさんでしまいます。Misericordes sicut Pater!ラテン語の意味はmisericordes(複数・主格)慈しみ深い人々 sicutのように Pater父いつくしみを与える者となるように。私たちもいつくしみ深く生きる。御父のいつくしみがわたしたちから伝わってくるように先日の黙想会でのお話です。
2016.02.25
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四ッ谷駅の北側徒歩5分、日本酒の鈴伝ビルの並びにオープンしたかわいらしいショップに先週土曜に行ってきました。サンパウロ(聖パウロ修道会)が運営しています。国内と世界の修道院で作られた食品、雑貨、アクセサリーを扱っています。山口カルメル会修道院製の暖かいスリッパもありました。バザーで見かける日本各地の修道院のお菓子、ヨーロッパの修道院製チョコレートや、ジャム、蜂蜜、ハーブなどが並んでいます。西宮トラピスチヌ修道院のガレット菓子、十勝のカルメル会修道院のアマンドショコラを購入。フランスベネディクト会マドレーヌ修道院のオリーブオイル3種類、とイタリア修道院のオリーブオイルなどを試食させていただきました。オリーブオイル1本とイタリアシエロ修道院の有機ブラックオリーブの塩水漬けを購入。日曜、祝祭日はお休みです。四ッ谷の聖パウロ修道会修道院で、半日静修の集いがあり、カルメル会中川神父さまの講話、祈り、ミサによる半日静修の集いに参加しました。次回は10月29日土曜午後です。きれいな声で心に響く話をしてくださいます。翌朝、近所の修道院のミサの司式も同じ神父様の司式でした。
2016.02.01
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援助マリア修道会シスターEmの todonoinoriというHPのことは以前日記で紹介したことがありました。todonoinoritodonoinoriで検索してもgooブログや掲示板が読めます。ホームページには入ることができません。元気な笑顔が素敵なシスターが先週帰天されたことを知りました。このHPも読んでくださっていて、ちっとも更新しないのを気にかけてくださったりしてくださっていました。今年もお年賀状をいただいていて、お元気なのだと思い込んでいました。先月日記が更新されていたので安心していました。カテキスタとして子ども達にイエス様を伝え、ネットを通じても宣教に活躍されたシスター。シスターのHPの掲示板を通じて知り合った方達とのオフ会も楽しい思い出です。掲示板やブログを読み返しています。
2015.10.20
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30日は朝はミサ、昼は11月の荘厳司教ミサの聖歌隊練習に参加、その後、大船で母に荷物を渡し、とんぼ返りで国会議事堂前に行ってきました。デモが終わった時間帯で帰るグループや人もいますが、まだ次々と人が来ます。シールズの主催者による終了演説をスピーカーを通して聞き、12万人が集まったという号外紙をもらい帰ってきました。若者だけでなく、子連れ、中高年、あらゆる世代の人が集まっていました。白杖を持った人、ボンゴや楽器を持った人、ゼッケンや掲げる旗の文字もさまざま。残暑が厳しい日でなくてよかったです。救護所、給水、ごみもなく、機動隊の車両があちこちに停まっていたり、駅も道も柵で誘導されるので思うようには歩けませんが。小さな傘を持っていったのですが、終了後でも、やはり人が多いので傘ではなくカッパが必要でした。
2015.08.31
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東京教区ニュース8月号に告知されていました。「1日静修–講話・念祷・ミサ」8/29(土)10:00~16:00 聖パウロ修道会若葉修道院〔新宿区若葉 四ッ谷駅)指導:中川博道神父(カルメル修道会) どなたでも参加可 テーマ:「あなたは何を求めているのか」(イエスのみことば:ヨハネ1.38)―ほんとうのしあわせをさがす― 要申込 先着80名 献金有 昼食持参 主催:「詩編の会」聖堂は満員、80名近くが集まったのでしょう。完全沈黙で昼食時も1日中静かな時間を過ごしました。神父様は京都の宇治から。原稿をきちんと準備されての講話ですが、一言一言が心に響き、ミサの後の派遣の祝福の時に「派遣の祝福で黙想会は終了となりますが、皆さんで一人で帰ってはいけません。」どういう意味だろうと思ったら、続けて「イエスと一緒に帰って下さい。」来年1月末にも同じ場所で1日静修があるそうです。四ッ谷駅近くの住宅街の修道院。また行きたいと思っています。ーーー「ミサと晩の祈りをうたう集い」の案内チラシをいただきました。10月7日水曜、13時半 晩の祈りの練習14時 歌唱ミサ 引き続き 晩の祈り〔歌) 終了予定16時司式 中川神父〔カルメル会)場所 聖パウロ修道会若葉修道院〔四ッ谷)主催 詩編の会
2015.08.30
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韓国のシュヴァイツァーといわれるイ・テソク神父のことをテレビ番組で知りました。殉教者の末裔の家系に生まれ、医者として安定した生活が約束されているのに、神学院に入り司祭の道へ。そしてアフリカ南スーダンでの宣教活動。学校を作り、子ども達に教育、音楽の喜びを伝え、ブラスバンドを作ります。朝はミサ、昼はトーンズにたった一人の医者、夜はブラスバンドの指導。ブラスバンドが認められ、軌道に乗った頃、韓国に一時帰国中に癌が見つかり、48歳で帰天された神父様です。泣かないで、トーンズ神父様をとりあげたドキュメンタリー映画です。ーーーー今朝のミサは司式司祭が二人。一人は教会の神父様。もう一人の顔を見て思わず声がでそうになりました。アフリカから3年に一度の休暇で日本に一時帰国された神父様。以前と変わらないお元気な姿にお会いできて本当に嬉しかったです。教会学校の子ども達にも人気があった神父様。叙階後の初ミサで教会にいらした頃にお会いして以来です。その時は偶然駅でもお会いし、電車内でいろいろお話しました。 研修中に訪れたアフリカへ希望がかなって派遣されることになり、ビザ発給の手続きに行く宣教される国と思われている日本からの宣教師というと他国の宣教者たちに驚かれるそうです。 きらきらした目が印象的でした。アフリカで活躍されて数年後、30代はじめ(?)に突然の病で、近くの病院で手術。転移もあり、手術の後遺症の心配もあり、司祭として復帰ができないのではと教会の皆で祈っていました。大変な闘病だったはずです。無事退院されたことを聞き、療養され、その後、どうしていらっしゃるのか気になっていました。神に感謝。
2015.08.25
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「サンオブゴッド」1月10日より全国公開。聖書を描いた、映画で見る新約聖書。ポルトガル人俳優の演じるイエス。目が美しく西洋絵画のイエスよりリアルにせまってきます。予告編も繰り返し見、日本公開を楽しみに待っていました。前売り券を購入。見に行きます。
2015.01.10
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東日本大震災被災者のための祈り2父である神よすべての人に限りないいつくしみを注いでくださるあなたに希望と信頼をこめて祈ります。東日本大震災によって今もなお苦しい生活を送り、原発事故によって不安な日々を過ごす人々の心を照らし希望を失うことがないよう支えてください。また、亡くなられて人々には永遠の安らぎをお与えください。すべての人の苦しみをになわれたキリストがいつもともにいてくださることをわたしたちがあかしできますように。わたしたちの主イエス・キリストによって。アーメン南三陸を訪れ、語り部バスツアーに参加。海沿いの町は建物が解体され、更地が広がっていました。その中に建つ枠組みだけ残った南三陸町防災対策庁舎三階建ての建物の屋上まで津波は到達し、防災無線で皆に避難を呼びかけ続けた24歳の女性職員が亡くなられました。先に屋上へ避難させ、最後の呼びかけを行った上司の方はまだ行方不明です。海沿いの小学校は新しい新築校舎ができたばかり。三階建て学校屋上が避難場所だったけれど、もっと高台へ避難した方が良いと避難場所を変更し、大震災前日に避難訓練を行っていました。当日は全員が落ち着いて避難し、そこからもっと安全な高台にある神社で一晩を過ごしました。3年たち、もっと復興が進んでいると思っていました。ひっきりなしにダンプカーが行き交い、ショベルカーが盛り土の作業をしています。被災した建物が撤去され空き地が広がり、セイタカアワダチソウの黄色い花が咲いていました。高台の土地が少なく、学校のグラウンドなどに仮設住宅が建っています。海は穏やかで牡蠣などの養殖が行われています。海の幸に恵まれた町。また訪れたいと願っています。
2014.10.13
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前の日記に書いたチェレスティーノ神父様の訃報で書いたイエズス会のラッサール神父がつくられたカトリック禅道場「神冥窟」。今は上智大学のリーゼンフーバー神父が主任をつとめられています。座禅会のお知らせ
2014.04.17
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ミラノ外国宣教会、東京教区の事務局長、岡田大司教の秘書役として活躍されたチェレスティーの神父さまが帰天されました。通夜式は20日、復活祭の夜立川教会にて。告別式と葬儀ミサはカテドラルにて21日に執り行われます。東京教区からの訃報お知らせチェレさんと呼ばれ、親しみやすい優しい神父様でした。禅に造詣が深く、禅を取り入れた個人的な日帰り黙想会に参加させていただいたことがあります。司教館内で椅子に座っての禅、ゆっくり歩きながらの禅。チェレスティーノ神父様のお話聖霊の息吹をどのように意識して、導かれるままに自分の身を任せて生きることが出来るでしょうか。祈りは賛美、感謝、願い、反省であっても必ず「ことば」による祈りでなくても良いでしょう。時々そよ風の音を聞くかのように聖霊の呼吸に心を向けて、インスピレーション(文字通りの意味は吸い込む)を受けても良いです。私が日本で学んだ大事なものの一つは坐禅です。北秋川の山奥にある、イエズス会の愛宮神父が造ったカトリック禅道場「神冥窟」を訪ねて坐禅を学んだとき、「呼吸を見なさい」と言われました。静かに座って、なにも考えないで無我状態になるために工夫が必要です。自分の内を見つめながら自然に息をすることに注意します。入ってくる空気、出ていく空気を見るかのように、息一つ一つに注意します。最初はこれは体操の一種で、祈りと関係はないと疑いましたが、長い時間これを繰り返している内に不思議に心が落ち着いて、色々な考え雑念が消えていきました。自分の外のことを忘れ、体のことも忘れ、「息ている=生きている」ということを感じて、存在そのものに触れたような気がしました。神の息吹、神の命に包まれているという平穏と喜びが、その後も坐禅の道を深めるきっかけとなりました。黙想会ではご出身地のワインが最近有名になったと喜んでいらっしゃっていて、地元のワインを使用してのミサでした。お酒が好きな神父様でしたが、60歳。神様のもとへ帰られるには早すぎました。どうぞお祈りください。チェレスティーノ神父様のホームページ
2014.04.16
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春一番が吹いた暖かな午後、カテドラルで井上神父さまの葬儀ミサと告別式が執り行われました。袈裟を着たお坊様、プロテスタントの牧師先生、大勢の参列者でスチール椅子も並べられました。幸田司教さまの説教で、井上神父さまらしい晩年のエピソードでは、司教様の口調につられ、つい笑い声も。東京教区のHPに通夜と葬儀ミサでの説教がアップされています。岡田大司教通夜説教幸田司教葬儀ミサ説教告別式では参列者全員が献花した後、参列者全員が順番に棺にお花を入れてお別れ。穏やかなお顔にむけて「神父様、ありがとうございました」という声があちこちから聞こえました。86歳と11ヶ月。葬儀の日は54年前に司祭叙階された記念日でした。少し年の離れたお姉様シスター井上がお元気そうで嬉しかったです。
2014.03.20
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「風の家」の井上洋治神父様が3月8日に帰天されました。葬儀ミサの日程は3月17日(月)18:00~19:00 通夜3月18日(火)13:00~15:00 告別式於:東京カテドラル聖マリア大聖堂どうぞお祈りください。
2014.03.11
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夫が仕事でパリに行くのに同行。5日間モンマルトルのアパートを借りて過ごし、夫が仕事の昼間は、一人でパリ見物。教会と美術館巡り。夜は外出せず、夕食は近所の肉屋や惣菜屋で買ったものを調理。ワインやビールと一緒に。繁華街に面しているので、夜中の2時3時頃まで酔っぱらいの若者たちの賑やかな声が歌が聞こえていました。ノートルダム大聖堂の晩の祈りとミサ。you tubeミサの閉祭の歌はグレゴリオ聖歌、シンプレックスのサルベレジナ。これだけは歌えました。あとはそっと日本語で唱えました。パリエルサレム修道会の昼の祈りに二日。サンジェルヴェ・サンプロテ教会にて。亡くなった作家高橋たかこが一時入会していた会。ブラザー達とシスター達が典礼の時は一緒に美しい祈りの歌をささげます。CDも持っていますが、ステンドグラスの光の中で聴く祈り。至福の時間でした。映像の日、会衆席にいました。you tubeエルサレム修道会のシスターが運営する修道院工芸品の店で買い物。9.11.不思議のメダイ聖堂で巡礼グループの英語ミサに紛れ込みました。黒人の司教さまのささげるミサでした。売店のレジに日本人シスターもいらしてびっくり。メダイは日本でも手に入るものですが、ご希望の方がいらしたら、ご連絡いただければ差し上げます。あとはサンジェルマンデプレ教会、サンロック教会、サンシュルピス教会、サントトリニテ教会、サクレクール聖堂、サンピエールドモンマルトル教会、サンジャンドモンマルトル教会、サントシャペルを訪問。ほとんどの教会にあったのが聖リタ、パドヴァの聖アントニオ、幼きイエスの聖テレーズの像。大きな教会だと脇祭壇もありました。聖テレジアの像があるのが嬉しかったです。ろうそくも一番人気。レンタカーでシャンパーニュ地方へ。シャンパン醸造所が経営するB&B,ランスのホテルに泊まり、パリへ戻り帰国。ベネディクト会ドンペリニオン修道士のお墓がある修道院の教会へ。グレゴリオの昼の祈りが聞こえてきました。ランスの大聖堂、アミアンの大聖堂を訪問。台風が通過した日の午後3時、ほぼ定刻に成田に着きました。東京へ向かう高速道路では夕焼けの富士山。どうしようかと冷や汗となったことも、いくつかありましたが、恵みいっぱいの旅でした。
2013.09.17
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日記が何度も途中で消えてしまい、だんだん簡略に。娘の卒業家族旅行で屋久島を訪れたこと。穏やかな聖週間と復活祭。初めて訪れた韓国。行きは高速の事故通行止めで飛行機に乗り遅れるハプニング。釜山でバス運転手さんの、日本ではあり得ない親切に驚いたこと。明洞大聖堂での朝6時半のミサ。女性のベール率9割。若い司祭と侍者。老若男女が大勢集う活気ある教会。韓国はキリスト教徒が25%というキリスト教国。鉄道から見る沿線の街でもあちこちに教会を見かけました。テレビでもカトリック専門チャンネルがありました。フランシスコ会修道院での朝の祈りの中継、子ども達のロザリオの祈り。シスターの講演会などなど。プロテスタントチャンネル、仏教チャンネルもありました。又消えるとこわいので中途半端ですが、アップします。カチという黒と白で背中が青いきれいな鳥がいました。この鳥を見ると縁起がよいといわれているそうです。かちかちというような声で鳴きます。日本語では、かささぎ。かささぎは歌のイメージで白い鳥だと思っていました。かささぎで検索してみてください。
2013.04.20
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「富士見信者修行所」って何でしょう?信者修行所そばの修道院に宿泊し、グレゴリオ聖歌による三位一体の主日ミサに。聖歌隊として歌わせていただきました。
2012.06.30
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テレビ新聞などの報道では分からない世界のニュース中東の情勢などを「田中宇の国際ニュース解説」のサイトで知ることができます。北朝鮮のキリスト教会の話題キリスト教関連の話題だったので紹介します。第2次世界大戦前も、朝鮮半島はキリスト教の盛んな地であったことは聞いてました。日本ではプロテスタント、カトリックなどをあわせたキリスト教の人口比は1%以下ですが、韓国はキリスト教の人口比は約25%。宗教の自由がない北朝鮮は、どうなっているのかと思っていました。ソビエト連邦、共産主義国であった時代、宗教は、迫害されていました。それでもキリスト教はしっかりと根付き続け、ロシアになって、キリスト教(ロシア正教)は勢力を強めています。日本では隠れキリシタンが江戸時代の300年をこえて信仰を守り通しました。北朝鮮でも地下教会で信仰を代々守る人々がいるのではと思います。聖母月、東洋のエルサレムと言われた平壌の方達のことも祈ります。
2012.05.14
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復活祭の頃、ちょうど桜が見頃でした。いつのまにか訪問者数が200000を越えていて驚いています。『毎日の黙想』見本誌をネットで読むことができます。その日朗読される聖書の箇所にそった丁寧な黙想と祈りとなっています。ミサの前や後に読むと特に心に響きます。原文は海外のサイトTHE WORLD AMONG US毎日更新されています。
2012.04.26
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社会人生涯学習講座でのH神父様の今年度最後の講座がありました。その時、心に残った言葉をまとめたものです。ルツ記のまとめルツは、自分が嫁として生きる使命を生きた。当時の家の血筋を守るのが大事という思いからの姑のいいつけに従って、夜這い。聖書の他の箇所にはない、ボアズの紳士的行動。電話もない時代、門のところで親類を待ち、長老に証人になってもらう正式な話を経てルツを妻とするボアズの誠実さ。自分の息子の子ではない、モアブ人の嫁ルツの息子の誕生を心底喜ぶナオミ。飢饉にみまわれ、モアブへ一家で移住したナオミ。夫を失い、二人の息子を失い、ふるさとへ帰ったナオミは、ナオミ(悦び)という自分の名前で呼ばれることさえ嫌というほどうちひしがれていた。ナオミは、ベツレヘムの裕福な夫のもとへ嫁いだ当初、思い描いていた幸せは実現しなかったが、自分の息子の子ではない孫を抱き、傷だらけのままで得た幸せを喜べるように変えられた。短いルツ記の最後には、4代後、100年後にダビデへとつながることが書かれている。100年後。私たちは近視眼的にしか見えないので100年後の祝福は見えない。失意の嘆き悲しみの中でも日々の生活を大切に送る。その中で私たちは変えられていく。マザーテレサは聖テレーズから名前をもらった。小さく弱い者だからこそ神の愛に飛び込んだ聖テレーズ.観想修道会の中で、修道院から一歩も出ずに24歳で結核により亡くなった聖テレーズ。彼女の夢は宣教だった。長い航海で東洋へ宣教した聖フランシスコザビエルと並び、宣教の保護者となっている。マザーテレサは、インドカルカッタで路上で行き倒れた人を、死を待つ人の家へ運び、人間らしい手当を受けて死を迎え、その人の宗教にそって葬儀を行うようにした。マザーテレサが亡くなったのは聖テレーズ生誕100周年。100年を単位をして見ると神様の祝福が見えてくる。今日本は昨年の大震災、原発事故、不景気で苦しんでいる。キリスト者として視線を100年後にうつし、日々の日常生活を大切に生きていきたい。
2012.01.18
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■ 高山右近記念シンポジウムと列福祈願ミサ 「高山右近の列福を祈ろうー現代に響く右近の霊性ー」2012/2/5(日)シンポジウム13:30~16:30(予定)、その後ミサ大阪カテドラル聖マリア大聖堂総合司会:大塚喜直司教(京都教区)基調講演:溝部脩司教参加無料・どなたでも参加可上記シンポジウム参加を含む巡礼の詳細http://www.isa-travel.com/pilgrimage/index.html
2012.01.11
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あけましておめでとうございます。元旦は神の母聖マリアの祭日。今年は主日と重なり、どちらが優先するのか、忘れていました。司祭はマリア様をイメージしたような白地に青のラインの祭服。説教は3点ありましたが、2点しか覚えてません。☆神が主役今日はクリスマスと同じ降誕の箇所が朗読されます。クリスマスを「神が主役」という視点で見ましょう。神様の人への愛がほとばしったのがクリスマス。飼い葉桶の幼子イエスを見る時、神を主役に見てみましょう。そのことを受け入れ心にとめていたのがマリア様でした。☆包み込む愛母の愛は包み込み支える愛。マリア様は生涯包み込む愛で支えてきました。幼子イエスを育てた時だけでなく、十字架の時も。迫害を怖れ、ちりぢりになっていた弟子達をも包み込む愛で支えてきました。私たちにも包み込み支える愛の能力が与えられています。その能力を生かしきってません。1年の初めに、マリア様にならって包み込む愛の能力を活かせるように祈りましょう。ーーー今年もあごだしで、おせちを作り、新年のお祝い。1週間ごとに味が変わる「ソガぺールエフィス」というワイナリーが醸造した日本酒といつもの「大盃」家族四人のにぎやかな食卓は、あと何回。そう思うと寂しくなります。
2012.01.02
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喜びの主日、待降節第3種日も過ぎ、いよいよクリスマスも間近となりました。今週末には、あちこちでクリスマスチャリティコンサートが開催されますので、ご紹介します。詳しい情報は、をご覧下さい。東京教区情報コーナー ■ 「聖歌合唱の会」クリスマスチャリティーコンサート 12/18(日)14:30 高円寺教会主聖堂 曲目:クリスマスキャロル他 入場無料 自由献金(仙台教区に寄付) ■ クリスマス・チャリティーコンサート2011 ~東日本大震災被災者支援のために~ 12/17(土)18:00開演 目黒教会聖堂で 出演:指揮・フルート 勝俣敬二 フルート 坂井友実 ナチュラルホルン 大貫ひろし他 オルガン 米澤陽子 目良節子 合唱:目黒教会聖歌隊 聖アンセルモ・グレゴリオ聖歌隊 曲目:2本のフルートのための協奏曲ト長調(チマローザ) モテット K.165よりアレルヤ(モーツァルト) Ave verum corpus(バード) グレゴリオ聖歌 クリスマスキャロル他 入場無料(自由献金) 問合せ:チャリティーコンサート実行委員会(チャペルコンサート・プロジェクト) ■ チャリティーコンサート ~東日本大震災復興支援~ 12/18(日)13:30開場 14:00開演 世田谷聖母幼稚園2階聖堂 独唱:水野和子(M-sop)・久保雛子(Sop)・蓑口公子(Sop)・平出怜子(Sop)・杉崎竜二(Br)・後藤淳子(ピアノ)・川島和子(ピアノ)・中島裕子(ピアノ)弦楽アンサンブル:江橋美木子(Vn)・杉井晶子(Va)・宮武淳(Vc)・星早苗(Cb)・木管三重奏:宮田麻沙代(Ob)・守屋和佳子(Ci)・安室尚恵(Fg) 入場無料 自由献金 主催:三軒茶屋教会有志 後援:無原罪の聖母宣教女会
2011.12.12
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H神父様の講座に参加しました。ルツ記を題材に今回のテーマは「自立」。私の心に響いた部分をまとめたノートです。ーー今日本はひとつの喪失の時、過ぎこしの時。日本だけでなく、世界の秩序、経済的秩序も破綻があちこちにある。グローバリゼーションが進んだ世界で、先行きが見えず、辛い思いをしている人もいる。ルツ記、1章22節から.ルツとナオミは自分の国に帰っても、生活基盤はなく、社会福祉もなく、順調とはいえない。「落ち穂拾い」刈り取った後、地に落ちた穂は、誰のものでもなく、誰でも持って行って良いというのが、聖書(神の律法)。入会地のように、村人ならば誰でも入ることができるという村落共同体のきまりではなく、神の望み(律法)として 異国人であっても糧を必要とする人は落ち穂を拾うことができた。今日のテーマは「自立」ルツたちは落ち穂拾いから生活が始まった。一人の女性が自立していく場面。自立すると決心、決意するときに真実一人のペルソナとなる。逆に自立を決心しないと一人のペルソナになれない。誰かのご機嫌次第でできたり、できなかったりというのは自立していない。ナオミが行けといったのではなく、ルツが自分で言い出した。ルツの「自立」への歩み。ナオミについていくと決めたことによって、変えられた。どこかによりかからない、後ろ盾もない彼女の旅。一人のペルソナになり、精神的に成熟した女性になった。「自立」と「孤立」とは違う。ナオミとルツは連帯していた。相手が10働いたから、自分は12働く。相手が8だから自分は9働けばいいーこれは「自立」ではなく、相手に支配されている状態。お互い自分のできる精一杯働き、助け合う。外国から帰ったナオミとルツは「自立」するしかなかった。重い足取りで自立したのではない。自分たちの計画した、あたりまえの幸せができなかった人たちが自分で生きていこうという気持ちを持った。たとえ高収入を得ていても、自分で生きて行く気がない人もいる。組織の中であっても、自分が何ができるか探す。「自立」するとはどういうことかルツ記は教えている。恨み言を言わず、自分から畑に行ってみますといったルツ。私たちは自分の家、両親、地域社会、組織などの大勢の人に借りがある。でも、自分自身の管理人になりたいという心は捨ててはいけない。自分の人生の設計者は自分。もし、あなたが老人ホームに入っても、あなたの人生の設計者はあなた。たとえ車いすを押してくれるのが誰であっても。子供の自然な「自立」のエネルギ→体の成長、反抗期。「自立」へのエネルギーが成熟のためにつかっているかどうか検証する必要がある。嫌なこと、困難、悩みがあっても生き生きと取り組んでいけてるかどうか。「自立」しているから、嫌なことから逃げるというのは、「自立」といっても低レベル。たとえば子供に勉強をするチャンスを大切にという声かけ。言葉がけは大切。その子が四〇歳になった時に本当だなとわかる、今言っておくことは大事。「自立」とは、自分の好きな世界を作ることが大事ではない。自分の望み通り自分に何かを引き寄せるというのは動物的。「自立」は神学的真理。ペルソナとなるべく絶対的責任があるという自覚。自分が思ってもみない事態に出会った時にもその事態に責任を持つのがペルソナ。機械にはできないこと。ヨブの姿。ペルソナをあずかってきた責任を果たしたいという熱意。「自立」の二つの側面1.自分自身を他者にどうみせるか2.自分自身を自分でどうみるか行きすぎた自立ー自己絶対化、自分自身を神にする。自立しているように見えるが、周囲を全員抑圧する。これはペルソナをあずけた神の望みではない。過剰な依存ー永遠に幼稚なまま。むずかしい課題に挑戦することが私たちにふさわしい。自立していないのに自立した気でいる。「畑に行ってみます」成熟した人にしか出て来ない言葉。ルツはナオミに褒められたくて言ったのはない。長い時間をかけて私たちは自立。二十歳だから、結婚したら自立とはいえない。難しい課題を背負いつつ、自分自身を大切にし、神からいただいた良心に対するセンスをもって生きる。自立に含まれる自己管理、自分自身を生き生きと生きる努力をする西洋はキリスト教を土台(人間をみるまなざし)として発展。自立し、連帯する「愛」拡張的家族制度の中で寄り合うのと意識が違うルツも長い辛い旅をとおってここまできた。「自立」したペルソナとなる時、自由と責任という問題が現れる。自由の方が大きかったら間違い。責任という土壌があって自由が芽生えてくる。たとえば社長になったら、何でも出来る、自由だというのではない。責任が重いことを自覚しつつ自由に行動する。責任の方が大きく、責任を感じている人のところに自由が与えられる。ルツは畑へ行くと決めて出かけた。一粒一粒拾ったものが自分の姑の糧。日が落ちるまで太陽と競争、休むと収穫が減る。他の人もいる。社会と直面。ルツはある意味成功。自分で生きていける女性となった、姑ナオミの喜びにもなった。神の御前に自分自身を置いている。ルツは神の祝福を受けていないように見えるが、ダビデを産む家系につながる。ルツー息子ーエッサイーダビデーイエスへ。神との関係を見た時も洗礼を受けたとき、毎日ミサへ熱心に通うーいきおいにのっているだけ。難の味わいも喜びも感じられないし、よく来たと誰も褒めてくれないけど、行かなくちゃと意志の力で主日ミサにあずかる。このことの方がすごいこと。ほんとうの「自立」。ほんの少数の人しか達することができない魂の自立。目覚めていなさいと主は言われる。頑張っていなさい、無理しなさいではない。自立すると言うことは難しいことを知りつつ、生きる。自立していく中に誘惑もある。自分の裁量で動いたり、働いていい、つねに安全でいたい、他人に干渉されたくない、奉仕されたい→「してもらっていい…しなくたって良い」こういう言葉が私の中から飛び出す、私は逃げた。ーこのことに気づく。気づかないと自立していない人となる。あることから自分は逃げた。そうしたら誰かがやってくれた、誰かが補ってくれた、ありがたいことだとみる。最後に東日本大震災で被災した中学生の卒業式での感動的な答辞を紹介。今までと違った形で自立していこうという若者の姿。東日本大震災への対応ー文部科学省白書で答辞全文がcolomn3で紹介されています。「生かされた者として、顔を上げ、常に思いやりの心を持ち、強く、正しく、たくましく生きていかなければなりません。苦境にあっても、天を恨まず、運命に耐え、助け合って生きていくことが、これからの私たちの使命です。」天を恨まないと決心した。前に向かって生きるということ。自分の思い通りにならないこと(容姿、頭の良さ)どうして私だけがこんな辛い嫌なことをと思うー天を恨んでいる嫌なこと、矛盾したこと、いろいろなことが起きてくる人生『あたりまえ』私たちの力をこえている、作れないこと『自立』も神の業。時が熟したとき「畑に行ってみます」十字架の神秘人は今までどおりに何かが出来ないときに「自立」する神の神秘と十字架の神秘は重なる
2011.11.26
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NHK教育テレビ、Eテレビで「日曜美術館』という番組があります。11月6日夜8時よりやさしさ、静けさ、そして強さ 彫刻家舟越保武の世界が放送されます。カトリックの彫刻家舟越保武氏の特集です。聖書や聖人を題材にした多くの作品があります。舟越氏の彫像を見ると、心が静まります。お勧め番組です。ーーー八ヶ岳山麓富士見のベネディクト会三位一体修道院で、朝の祈りにあずかり、聖務日課とグレゴリオ聖歌についての院長による講話、ミサでグレゴリオ聖歌を奉唱させていただく機会がありました。聖堂祭壇の奥はガラス張り。外の豊かな自然を眺めながらのミサでした。修道院で静かな時間を過ごすことができました。
2011.11.04
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予約していた本が届きました。『崩壊の時代に射す光 ヨブとミツが立つ世界の中で』第一章「この世界を照らす光」は調布市での公開講座、第2章「『わたしが・棄てた・おんな』の福音」は白百合女子大社会人生涯学習講座で星野神父が話されたものです。神父様の声が聞こえてくるような本となっています。遠藤周作著『わたしが・棄てた・女』を丁寧に読み込んだお話。自分の好きな本なので読んだつもりでしたが、神父さまの講座で、もっと深く読むことができることに驚きました。講座をもう一度本で読むことができ、じっくりと味わっています。傷や悲しみによって心に刻まれるさまざまな痕跡を通して、神は私たちに語りかける。旧約聖書『ヨブ記』と遠藤周作『わたしが・棄てた・女』という文学作品を素材に、神、そして福音の意味をやさしく説き明かし、さまざまな困難に直面する現代人に寄り添う希望のメッセージ。キリスト教への道案内としても最適。『崩壊の時代に射す光 ヨブとミツが立つ世界の中で』
2011.09.29
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カトリック版you tubeです。見始めると、次々と止まらなくなります。ベネディクト会女子修道院でシスターたちが歌うグレゴリオ聖歌の動画です。修道院、鉄枠ごしにシスターたちが歌う様子など映像も美しくみごたえあります。GloriaTVグレゴリオ聖歌以外の歌も多くありますし、ニュース映像、旅の案内や、聖人の伝記映画なども見ることができます。
2011.08.18
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途中までしか参加できなかったのでアップできなかったS女子大、社会人生涯学習講座のノートです。星野神父様の著書発刊が待ち遠しいです。ーーールツ記を「変化」で読み解く☆「変化」は私たちの生活につきまとっている。人間の胎内に宿らせていただき、母胎内で育つことも変化、新しい世界への脱出=誕生も変化。私たちは、偶然、このままであって欲しい状態を手に入れていると、そのままであって変わらないで欲しいと願ってしまう。☆無意識的変化変化には、意識的変化、無意識的変化のふたつがある。「無意識的変化」ー自分がコントロールすることにできない変化が、私たちを変化させる。いいかえると無意識的変化は「霊的革命」をひきおこす。快適さ、便利さを求める文化・生活の向上の面からみると、嫌なこと、辛いことはできるだけない方が良い。しかし、魂の成長を考えると、あらゆること、望まない変化も人の魂を成長させる。その最中は辛く、嫌。後になって振り返って、そこを過ぎこして今の自分がある。それが魂の成長。私たちの社会は文化・生活の向上を目指すことばかり求めすぎる。この面が上手くいかないと全てが駄目と思ってしまう。たとえば、有名小学入試に合格、難関中学入試に合格、順調な道を歩んでいたが、高校時代に大病して長期入院し高二で留年。なんでこんなことが私たちに起きるのかと言いたくなる。これで全てが駄目になったか?その子にとって成長にどう働くか、マイナスとは誰もいえない。ここにいる皆さんがうなづいている。社会全体から見たら、体を鍛える、医療を進歩させることで、そういう挫折が起きないようにし、もっと素晴らしい人生を歩ませようとする。☆霊的革命「無意識的変化」は、不連続性の変化であり、霊的な革命を引き起こす。神は一度限り私を創造したのではない。胎内に着床させただけで終わりではない。常に私を仕上げよう、私を創造しようとしている。これが神。なぜ神なのか、私が自ら望んで起こす変化ではないから。私の力を超えているから神。そして新しい世界を持つ人へと誘導する。その人は今まで決してしたことがないことをする。見たことのない現実を見るようになる。新しいことを考え、新しい夢を自分の人生の目的とするようになる。霊的革命が起こった時、一番特徴的なことふと気づくと(すぐにではないが)あの時あんなに嘆いたのに、私は過去にしばられていない。そのことに気づく。人生に起こったことを忘れたわけではなく、自分の歴史に刻まれているが。過去に縛られていた時には決してできなかったことをする。それが新たな創造。常に神が私たちを作りだそうとしている。まったく生きる力のなかった私に新しい地平を開き、生きる力を与える。全部の人がそのようにできるわけではない。ある人は過ぎ去った過去の一隅にうずくまろうとする。そういう時間も必要な人がいる。外部の世界から身をひき、日常生活の一つ一つを過去と比較して生きる人もいる。また全ての変化が成長させるわけではない。人間は変化の時にその人がどんな人であったか明らかになる「変化」が必ずしも人間によって良いものをもたらすとは限らない。悪の方へと変わることもある。麻薬常習者、食事の悪い習慣が断ち切れない者、自分を癒すためにあらゆるものに手を伸ばす、犯罪的なものになるかもしれない。ーこれも変化がもたらしたもの。一方、ナオミやルツのように、自分を漆黒の暗闇にかけてみようという人も現れてくる。私自身と私の周りは、「変化」によってかえられてしまうが、しかし変わらないものがあることを知っている人は幸せ。私たち一人一人の小さな存在は神様のみ手の中にあり、神さまのまなざしがそそがれている。そういうことを知っている人は、悲劇的状況でも底なし沼ではない。たとえば、幼児洗礼の人で、「神はいつも共にいてくださる」と教会学校のリーダーに教わった。中学以降は部活動など忙しく友達と過ごしたいからと教会にも行かなかった。(幼児洗礼に多いパターン(^^)その人が30歳になって暗闇に入った時、かつては知識として聞いていたことばが、理屈を越えて、その人の実感となる。変わらないものに包まれているという確信。『神は共にいる』という知識は暗い体験の中で、その人のいのちを支えるものに変化していく。それが神のことば。そのようにルツ記を見る私たちはナオミ(年老いた母)墓から遠ざかり、消極的意味ではあったが旅立つオルファ(兄嫁)確実さを求めて自分の実家へ帰るルツ 漆黒への闇の未来へと旅立つ3人ともモアブの地にはとどまらなかった。表層的にみればルツだけが英雄的に見えるが、そればかりではない。兄嫁のように人生をやり直す、女性としての社会的役割を果たす、それも良い。三者三様の真実、変化がここにある。私たちはそのように生きて来たし、これからもそう生きていく一つの大きな霊的問題がある。変化が勇気を求める。勇気は変化の最中に簡単には与えられない。あのときは愚痴や泣き言ばかりをいって、なぜ、あんなにくよくよしたのだろうと思う。が、それは成長した今、振り返ってみた時に思うこと。東日本大震災後の仮設住宅に申込者が少ない。力がわいてこない。そういうときがある。変化にどう対応するか。変化が私を何処へ連れて行こうとしているか。ただ震えている自分しか見いだせないこともある。私たちが怖れているのは危機ではなく、危機の先にあるもの。起こってしまったことが私をひるませているのではなく。そこからどうやって立ち上がれるかどうかわからない不安。そこにうずくまらせるものがある。未来は予測できない。冷静に考えると過去が遮断され、なれるはずのなかった自分になれる可能性がある。変化の生活を通して、私たちは自分の深みにおいて、たったひとつのペルソナではない。私の中にいろんな人が住んでいる。私は私を知らない存在。私にとって神が未知で有るように、私にとって私は未知私たちは、「私」のペルソナの一部しかしらない。変化のなかった生活のなかでの「私」しか知らない。変化がやってきたとき、私が知らなかった、「私」も現れてくる。それも「私」だった。「私」が全面的にいのちへと開花しようとするとき、このような「変化」の時は大きな役割を果たす。一人の人は体験と能力の総合体。変化の時は大きな役割を果たす。一人の「人」は体験と能力の総合体と言えるかもしれない。私の望みと神から与えられたたくさんのたまものの集合体「人」は女性の胎内に宿った時期があった。誕生という次の次元へ。人生の出発点。胎内にいたのも「あなた」、生まれたのも、「あなた」。それが恵みの時であったように又、新しい何かに向かって「あなた」は成長している存在なのではないかと思う。今よりもっと誠実なものを求め、今よりもっと神様の奥深くに入る私たちが過ごしてきて、決して帰ることのできない年輪がある。私たち自身の中の何か新しいものを示してくれる人生のそれぞれの時期、それぞれいろいろなものに信頼して生きる自分のパーソナリティに信頼、それが自分の今日を支え未来を開くと確信、ある時期には、私のもっている能力、資格、想像力、信仰の力、を頼りに生きていく。☆第三の時「変容」「喪失」の時、「変化」の時に続く「変容」の時がくるルツ記1.8。主の御手がくだされた(夫と息子二人の死)、兄嫁も姑ナオミについて行くと言ったが、姑の勧めに従い自分の里へ帰り、新たな人生を構築し、新たな人生を決断。姑についていく、離れませんと言った時の自分と違う自分を見いだした。これも素晴らしい決断私たちの中の何かが変わり、受け入れたくない私たちの気持ちを無視し、私たちがまさかこんな自分(ペルソナ)ではないと思っていたのに、想像もつかなかったことを言い出している。ルツは、こんな風に姑ナオミについていく自分がいったいどこにいたのか。自分を発見し出会っている最中。私たち自身が変わったと気づくときー変容された時自分の意志ではない、神が私たちの中に働いていることを確かに知る貴重な瞬間変化に出会って扉ををあけて出てきたのは、私に取って見知らぬ「私」だったこの同じような体験をイエスも大切にしているヨハネ8 姦通の女の話を「変容」で見る姦通した一人の女が捕まり、広場に引きづり出された。この女は神に呪われている、神に絶対に受け入れられない存在この時,律法学者、パリサイ派の確信は、こういう女は石で打ち殺すべきだ。でもイエスはかがみ込んで字を書いていて、何もしない。「あなたたちの中で罪を犯したことのない者がまず女に石を投げなさい」年長者から去っていき、周りにいた人々がいなくなり、イエスと女だけが残された。イエスは身を起こして、婦人と会話した。確かに救われたのは婦人であったが、もっと深いところで救われたのは律法学者、パリサイ派であった。自分は石を投げることのできる罪のない人間ではないと知った。それも一つの「変容」。イエスと関わる、話すことによって律法学者、パリサイ派は変えられていった。彼らの目的はイエスを困らせ、陥れることであり、この女も石打ちも道具にすぎなかった。彼らは握りしめていた石を置いて去っていった。こんな風に変わりたいと思っていたわけではなかった。自分が想像もしない者に変えられていった。これが「変容」の瞬間。これは私たちに必ず起こってくる。人生、生活は私たちの望みに反し、必ず変化する。なのに、私たちは自分の人生を理解する上で、まちがえる。人生は、生から死へのまっすぐな道ではなく、小道に寄り道したり、袋小路もいっぱいある、脇道にそれたりする複雑な道。いろいろなことが必ず起きる。そうやって生きてきたのに、子供には人生の一直線な道を望む。複雑な道を歩むためには何が必要かという発想をした方が良い。皆、一直線が好きなので有名大学付属の幼稚園、小学校ができると殺到してしまう。私たちが出くわす現実こそ、私たちの最大の教師。その時神がいて私たちを一歩先へ連れて行ってくれる。私たちは結婚したり、安定した職業についた時、自分の将来がこれで確定した、今までより落ち着いて生きていけると考える。シスターならば修道会に受け入れられ、終生、荘厳誓願。皆におめでとう良かったねと言われるが、それ以前の方が平坦で、その後が苦労が多い。司祭も盛大な叙階式後、そこから先が大変。毎日結婚式、叙階式ではない。目的志向的型生き方が問われている時。本当の意味で人間はまだ使っていない知恵を使えということ神学生が叙階式までの知恵で、一生生きると思っても無理。当たり前のこと。大学のキャリア教育も宗教者として乱暴な言い方をすれば愚の骨頂かも。叙階式までの教育しているだけ。毎週のように会社のえらい人を呼んで講演会を開いているが…^^;;)一人一人が袋小路にぶつかって神様を頼りにしながら力をつけていく。私たちの生き方はもう少し賢くなる可能性がある。☆昨日はもう私たちの生活を測る尺度ではない。盛大な結婚式や叙階式も次の日、生きることの役にたたない。司祭は自分の頭を使い、教会と信者に向き合っていかなければならない。たくさんの人に祝ってもらった結婚式は大切で大きな意味があるが、振り返っても何も、はじまらない。大勢にお祝いしてもらったから今日の私は幸せでなければならないと考えるのはみじめ。定年後の大企業重役、あなたがたとえ何者であったとしても、今日がそうでないなら、そこから生きなくては。昨日は昨日までのこと。ルツ記の3人の女性は、そこから立ち上がって自分の道を歩き出していた。彼女たちは息子たち、夫たちと暮らした日々を憧れの対象としていつも思い出さなくても生きていけるようになった。彼女たちにとって確かな道はもうない。自分の体、能力と心を持って歩いて行かなければ道は開かれないことを彼女たちは悟った。
2011.08.09
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星野神父さまの著書が、オリエンス宗教研究所より9月末に発刊されます。『崩壊の時代に射す光 ヨブとミツが立つ世界の中で』バブル崩壊、リーマン・ショック、そして3.11の大震災を経験した今、私たちが、自分探しを超えて見つけたもの。それは、“一つだけの花”から“ぶどうの樹”という生き方。傷や悲しみによって心に刻まれるさまざまな痕跡を通して、神は私たちに語りかける。旧約聖書『ヨブ記』と遠藤周作『わたしが・棄てた・女』という文学作品を素材に、神、そして福音の意味をやさしく説き明かし、さまざまな困難に直面する現代人に寄り添う希望のメッセージ。キリスト教への道案内としても最適。目次 この世界を照らす光 1 崩壊する個人と共同体 2 聖書における「光」と現代 3 夢から覚める 4 無明に射す光 5 神の痕跡である人間『わたしが・棄てた・女』の福音 6 遠藤周作と福音 7 偶像の世界とイエスの福音 8 ミツにとっての福音 9 吉岡にとっての福音 おわりに――3・11痕跡としての東日本大震災あとがき『崩壊の時代に射す光 ヨブとミツが立つ世界の中で』
2011.08.05
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楽天ブックス: 困ってるひと - 大野更紗 : 本ミャンマー難民問題を研究テーマとしていた女子大学院生が、突然難病を発症。若い難病女性の壮絶な闘病記なのに、前向きの生き方、ユーモアいっぱいで、おもしろく読める本です。おもしろいというと不謹慎な気もしますが。困ってるひと困っている人たちと共に生きる社会に何が必要か考えさせられました。難病福祉、受けられるサービスはどこに住んでいるかで大きな差があります。東京と他の県、東京内であっても区市町村によって違いがあります。私も東京在住だったおかげで特定疾患の認定をもらっていた時期もありました。ステロイドとの相性がたまたま良かったので完全寛解。たまに再発してもすぐステロイドで寛解し、日常生活に支障なく暮らしています。以前、大学病院入院中同室には自己免疫疾患系の若い方が多くいました。17歳まで健康で高校生活を楽しめたことを感謝していると話していた新婚さん。高熱が下がらず退院の目途がたたなかった彼女の明るい笑顔を思い出しました。いただいたを無駄遣いしているなあと日々を反省。読後感も、さわやかな素敵な本で、誰かに勧めたくなりました。
2011.07.27
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ご訪問ありがとうございます。東京教区ニュース6月号などに紹介されている祈りの集い、ミサ、チャリティコンサートなどをいくつか紹介します。詳しい情報、申込先などは、教区情報コーナーをごらんください。 ■ ミサと晩の祈りをうたう集い-《預言者 聖エリアの祝日》 7/20(水)13:30~晩の祈りの練習 14:00 ~16:00歌唱ミサ・晩の祈り(歌) 上野毛教会( 上野毛駅 下車徒歩約6分) 司式:中川博道神父(カルメル修道会) 主催:「詩編の会」■ いやしのためのミサと分かち合い 6/25(第4土曜)14:00~ メルセス会本部聖堂で(杉並区高円寺南) ミサ司式:ユン・ヨハネ師(クラレチアン会) どなたでも参加可。 ミサ後にお茶と体験の分かち合い 申込・問合せ メルセス会第5修道院 ■ 祈りへのおさそい リフレッシュ―涼風と静けさをあじわう― 7/22(金)18:00~24(日)14:00 メルセス会日野修道院別館で 指導:シスター渡辺多賀子(メルセス会) 祈りたい方はどなたでも 費用¥7,000 (全日程不可能な方はご相談を) 申込締切:7/9(土) 問合せ・申込先 メルセス会第5修道院 ■ ファチマの初土 7/2(土)13:00~15:00 世田谷聖母幼稚園2階大聖堂で( 桜新町駅 徒歩8分) 司式:ペトロ神父(フランシスコ・カプチン会) 内容:ミサ、ロザリオ、赦しの秘跡、聖体賛美 持ち物:ロザリオ、上履き(スリッパ) 自由献金 静かに祈りたい方どなたでも ■ 東日本大震災 「私にもできる!?被災地ボランティア」~ボランティア体験者と希望者の出会いと交流の場~6/28(火)18:45~20:30麹町教会(聖イグナチオ教会)ヨセフホールで主催:日本CLC東日本被災地支援デスク■ 「キリスト教と日本人の心」 ―岡田武夫大司教と井上洋治神父による対談―7/9(土)16:30開演(16:15開場)麹町教会マリア聖堂で(JR・地下鉄 四ツ谷駅)入場無料(自由献金あり) 主催:東京教区アレルヤ会 講座案内 (カルメル修道会)場所:上野毛教会信徒会館担当:中川博道神父(カルメル修道会)対象:どなたでも いつからでも ◆「キリスト教の基本を学ぶ」―洗礼準備のため、 またキリスト教の基本を学びなおすために― いずれも金曜日(朝のクラス)10:30~12:00 (夜のクラス)19:30~21:00 テーマ: 6/24「あなたはだれ?」(1)-聖書の人間へのまなざし 7/8「あなたはだれ?」(2)-聖書の人間へのまなざし 7/22「人間の問題性」(1)-人間存在の根源的なずれとゆがみ 7/29「人間の問題性」(2)-兄弟聖のゆがみ「カインとアベル」 8/26「信仰を生きるとは?」-信仰の祖アブラハム ◆「カルメルの霊性に親しむ」―カルメルの霊性 をとおしてイエスとの出会いの道を探します― 6/14 7/12 朝のクラス(火)10:30~12:00 6/17 7/15 夜のクラス(金)19:15~20:45 ◆「キリストとの親しさ」―出会いの神学― 6/7 7/5 朝のクラス(火)10:30~12:00 6/3 7/1 夜のクラス(金)19:15~20:45 CWC勉強会以下共通 真生会館1階 第1会議室で 会費:¥500/回 ◆ カルメルの霊性に親しむ「完徳の道」 (※聖書深読入門を終え、新テーマになりました) 7/19 (火) 10:30~ 講師:九里彰神父 (カルメル会) ◆ 旧約聖書を読む会 6/13 7/11 (月) 10:30~ 講師:前島誠 (ユダヤ教・聖書学者) ■ 信徒の月例会 ―イエスの運命と教会の信仰―6/18 (土) 14:00~(16:00主日のミサ)麹町教会アルペホールで指導:岩島忠彦神父(イエズス会)テーマ:主の晩餐(「イエス・キリストの履歴」第14章)申込不要南無アッバの集い・井上神父の言葉に出会う6/25 7/23 8/27(土) 13:30~15:00幼きイエス会 (ニコラ・バレ) 修道院1F( 四ツ谷駅徒歩1分 )講師:平田栄一 (風編集室) 参加費:¥1,000 テキスト:「心の琴線に触れるイエス」(聖母文庫¥525) ※南無アッバのお札のお渡し有り オルガンと祈り《 Ave verum corpus を一緒に歌おう 》 6/17(金)19:00~ 麹町教会主聖堂で オルガン演奏:浅井寛子 自由献金 ■ 聖ヨハネホスピスのためのチャリティーコンサート ―茨木のり子と谷川俊太郎をうたう― 7/1(金)19:00開演(18:30開場) 武蔵野市民文化会館小ホールで メゾソプラノ:保多由子 ピアノ・作曲:寺嶋陸也 茨木のり子の詩による歌曲集「道しるべ」(東京初演)他 入場料:\2,500 (全自由席) 主催:「風の仲間」 ■ 聖歌合唱の会チャリティコンサート 6/18(土)14:00~ 高円寺教会主聖堂で(杉並区高円寺南) 入場無料、但し頂いたお志は東京教区を通じて仙台教区へ。 ◆「聖歌合唱の会」で歌いませんか ~混声4部でラテン語・日本語聖歌を歌う~ 毎週日曜日11:30~13:30 高円寺教会主聖堂(上記)で 対象:聖歌合唱に興味を持っている方どなたでも 特に男声初心者歓迎 途中参加可 会費:¥500/月 楽譜支給 ミニコンサートや国際荘厳司教ミサなどでの聖歌奉仕あり ーーーーー 今日で、東日本大震災から3ヶ月がたちました。震災前と後で、変わってしまいました。同じ風景を見ても、同じものを食べても、何かが違っています。永遠の前の一瞬にすぎないけど、ただ一度の人生。いままでにいただいた数え切れないほどの多くの恵みを思うと、申し訳ないような気持ちでいっぱいになります。これから自分に何が出来るか、何ができないか、まだ手探りの状態です。岡田大司教さまのブログがあります。http://tsurumai.cocolog-nifty.com/blog/最近、twitter(@petertakeookada)もはじめられました。具体的でひきつけられる自己紹介、プロフィールです。
2011.06.11
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一般紙にも掲載されていましたが、教皇さまの答え全文をバチカン放送日本語版が載せています。バチカン放送質問:「私の名前はエレナです。日本人で7歳です。今、私はとっても怖いです。大丈夫だと思っていた私のおうちがとても揺れたり、私と同じ年くらいの子どもがたくさん死んだり、お外の公園に遊びにいけないからです。なんで子どももこんなに悲しいことにならなくてはいけないのですか。神様とお話ができるポープ(教皇様)、教えてください。」教皇の答え:「親愛なるエレナ、心からの挨拶をおくります。私も同じように自問しています。どうしてなのか? 他の人たちが快適に暮らしている一方で、なぜ皆さんがこんなにたくさん苦しまなくてはならないのか? 私たちはこれに対する答えを持ちません。でも、イエスが皆さんのように無実でありながらも苦しんだこと、イエスにおいて示された本当の神様が、皆さんの側におられることを、私たちは知っています。たとえ私たちが答えを持ち合わせていなくても、たとえ悲しみは残っても、このことは私にはとても大事なことに思われます。神様が皆さんのそばにおられるということ、これが皆さんの助けになることはまちがいありません。いつかなぜこうだったかがわかる時さえ来るかもしれません。今、大切なことは、「神様はわたしを愛しておられる」と知ることです。それはたとえ神様が自分を知っているように見えなくてもです。いいえ、神様は私を愛してくださり、私のそばにおられるのです。そして、世界で多くの人たちが皆さんに心を寄せ、皆さんのことを思い、皆さんを助けるために、何かできる限りのことをしようとしているということを知って、心強く思って欲しいのです。そして、いつか、この苦しみが無駄ではなく、そのあとに良い計画、愛の計画があることを理解できる日が来るでしょう。安心してください。私たちは、あなたと、そしてすべての苦しむ日本の子どもたちと共にいます。私たちは、祈りと行いを通して皆さんをお助けしたいと思っています。そして、神様が皆さんを助けてくださることを信じてください。その意味で、皆さんに一刻も早く光が訪れるよう一緒にお祈りしましょう。」
2011.04.23
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レターパックは、日本全国500円、または350円で,東京から北海道の札幌でも翌日家にまでに届く速達便です。荷物の追跡調査、再配達もできます。重さは4キロまで、まちがあるので、封筒といっても小さな荷物が送れます。乾電池などの厚み、重さは大丈夫です。レターパック22日昼頃に、東京都下から仙台あてに送ったら、翌23日午後には仙台に着きました。日本の郵便配達は素晴らしいと感動しました。被災地への、ゆうぱっくや宅配便などが再開というニュースが流れても、営業所までなので、ガソリン不足の中、家から遠い営業所へ荷物を取りにいくのは大変と聞いています。大きな荷物は送れませんが、被災地に直接届くのが嬉しいです。同じ市内でも、場所によっては届かないので、郵便番号を確認する必要があります。
2011.03.24
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英神父さまのサイトに東日本大震災によせてのノベナの祈りの案内がありましたのでご紹介します。英神父のメッセージ
2011.03.19
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震災から1週間がたちました。昨日、どうしても『神々と男たち』を見たくて、再度銀座へ。落ち着いて避難誘導してくださった映画館のスタッフにもお礼が言いたかったので。1週間足らず前と比べ、街に人通りが少ないことに驚きました。あと貴金属店前の開店前に行列ができているのにはびっくり。非常時に備え、貴金属を買っておこうということでしょうか。デパートも地下食品売り場以外は、がらがらで、景気の冷え込みも心配ですが、原発の状況、余震を思うといたしかたないですね。映画館も前回立ち見だったのと比べ、がらがらでした。1996年、アルジェリア。世界大戦前からの古い修道院で、診療所を開き医療奉仕により、村人と信頼関係を築き、平和に共存。9人の修道士の共同体、自給自足の生活、労働と祈りの日々。イスラム原理主義者のテロが頻発し、外国人は標的となります。テロの脅威の中でも修道士たちの歌う聖歌と祈りの所作が凜として美しいのも印象的でした。政府の強い勧めもあり、国外退去、安全な場所への移動も考えますが、村人たちから去らないで欲しいと言われます。身に危険が迫る中で、村人を見捨てて去るか、どうするか一人一人迷いながら生き方を選択します。彼らは狂信的ではありません。殉教するためにアルジェリアに来たのではなく生きるため、おのおのの苦悩、迷いを丁寧に描きます。身に迫る死の恐怖の中で、生に執着する人間として苦しみ葛藤しながら、「自由な人間」として生きるという選択。他者に脅かされない、信仰者の自由。迷っていた皆の心が一つにまとまるシーン、晴れ晴れとした表情での最後の晩餐を思わせる食事のシーンも心に残っています。テロリストも治療し、政府軍からも、にらまれる修道士たち。修道士のうち7名がテロリストに誘拐され、声明文を読み上げさせられるまでが描かれています。テロリストさえも隣人として受け入れる姿。神がここに自分たちを派遣されたとインシャラー(神の御心のままに)自由な人間として生きる修道士たち。音楽は修道士の歌う聖歌と晩餐のシーンで流れる「白鳥の湖」のみ。静かだけど、信仰に生きるとは何なのか、自分の生き方を考えさせられる映画でした。
2011.03.19
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急に仕事がキャンセルになったので、公開前から是非見たいと思っていた映画を見にいきました。「神々と男たち」アルジェリアでシトー会修道士7名がゲリラに誘拐され殺害された事件を描いたフランス映画です。英語名は”Of Gods and Men" 。you tubeなどにアップされた映画のトレイラーなどを見ていました。映画の主題歌は修道士たちが歌うクリスマスの聖歌。テロに脅かされ不安な状況で迎えたクリスマスのシーンで静かに歌われます。その場時に地震となり、上映中止。映画館の人に誘導され、揺れる階段を下りて外へ。電柱がぐらぐら揺れていました。あちこちのビルから人がぞろぞろ出てきました。揺れがおちついたので避難場所の日比谷公園へ。緊急時は、「トイレ、携帯の充電器、飲み物、軽食」ということが頭にあったので、まず、ショッピングセンターの中でお手洗いに。日比谷公園は災害時の帰宅困難者のための物資が保管されている場所だとか。今回も「電車、地下鉄はすべて止まっています。高いビルに近づかず、公園で待機してください」という警察の放送が繰り返し流されていました。会社のおそろいのヘルメットを被った集団があちらこちらに。大きな余震があり、公園の木が根本から揺れ、大手町のビル全体が揺れました。少しでも早く家に帰りたかったので、揺れがおさまったので新宿を目指して歩きはじめました。広尾に住んでいるというおばあさまと、おしゃべりしながら一緒に途中まで歩きました。桜田門、三宅坂を通り半蔵門。そこから四ッ谷へ。途中、救急車やパトカーなどが何台も通りすぎていきました。(九段会館内で、天井が落下し大勢の方が怪我をされたり亡くなられた方もいたとか、後で知りました)道沿いのレストランは普通に営業し、工事中のビルでは工事が続けられていました。コンビニで携帯の充電器を買い、自販機で飲み物、おやつも買って一安心。四ッ谷あたりで休憩したいと思ったが、珈琲チェーン店、ファミレスはどこも満席。店を見つけ、休憩して、状況確認。四ッ谷から新宿までの4キロ。通常通り営業している店がほとんど。歩道にロープがはられ、急に狭く歩きづらい箇所があり、上を見たらガラスのない窓。ぞっとしました。新宿駅は人があふれた状態。タクシー乗り場は大行列。歩道も両方向に歩く人があふれて歩きづらかったけど、都庁を過ぎると人の流れは下り方向のみとなり、遠足状態。途中自転車屋に行列ができていました。笹塚まで歩いたら、バスが来たので乗車。大渋滞で歩くより遅いくらい。ぎゅうぎゅう詰めで乗り降りにも時間がかかり、途中で降りて歩くことに。コンビニで東京のミニ地図を買い、線路高架下の駐車場や駐輪場などを抜け、N駅へ到着。そこから遠回りだけどバスに乗り、やっと座ってほっと。K駅から、バスに乗って家の近所へ。6時間以上かかって帰宅。家の中は無事でした。もう一度『神々と男たち』を見にいきたいですが、無理ならばDVDが出るのを待ちます。パンフレットを買えただけでも良かったと思っています。
2011.03.14
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2月2日の「主の奉献の祝日」にK教会へ。まず「晩の祈り」の指導 byN神父。初め 起立して十字架のしるしをしながら歌う。十字架のしるしは「キリストの愛を身にきざむ」という意識をもつ。唱和。詩編は話すように、流れるように歌う。一つ一つの言葉を切っては、おかしい。助詞を強く歌わない。(悪い歌い方と良い歌い方の例を実演してくださいました)福音の歌 全員起立。交唱を歌い、Magnificatを十字架のしるしをしながら歌い始め、1から7と栄唱を歌い終わったら、再び交唱に戻る。典礼聖歌も、大事な言葉を皆で気持ちをそろえてはっきりと歌う。語尾や助詞を強く歌わない。Magnificat (ラテン語midi)日本語のmidiは探し中です。続いて、「主の奉献の祝日」の歌唱ミサミサ中に短い講話がありました。ーー今朝、目覚める時、ふと昔の歌謡曲が浮かんできました。「愛あなたと二人…二人のため世界はあるの…」愛がふたりで見つめ合って、二人の世界が完結すれば良いと思うといきづまります。クリスマスから40日。マリアは浄めの期間である40日がすぎて 日常生活に戻ります。浄めの期間は母体を守る知恵であったのでしょう。主に子を献げる、自分たちも主に献げられた者として歩み始めます。聖家族の歩み方の特徴は「主の律法に定められたとおり」ということ。ルカ福音書は「律法に定められたとおり」と5回も述べ、その点を強調しています。クリスマスと今日晩の祈りで同じ詩編「深い淵よりよばわる」を歌います。もがくほど、ずるずると沈む淵で主にしがみつく、惨めな現実をかかえる私に一緒にいて下さって慈しんでくださる。マリアと同じく、私と共にいてくださるイエスを受け止めます。神殿へ歩む。その道筋は律法、ルールに定められたとおり。イエスのおっしゃった「互いに愛し合いなさい」。「愛すること」が私たちのルールです。好き嫌い、フィーリングではありません。聖霊の愛はアガペー。相手に価値があってもなくても、私はあなたを選び取った、大切な者とする。隣人を自分のように愛しなさい。これが神と共に歩むルールです。愛する、自分が大切にされたように、あなたも、人を、神を大切にしなさいというよびかけです。快い、すべてが順調、喜びあふれる道ではありません。マリアへの「あなた自身も心を剣で貫かれる」という言葉。愛するがゆえに、傷つく道でもあります。私たちも愛することことによって、傷つくことがあるかもしれません。クリスマスとは、キリストのミサ。つまり、キリストは人となって私たちの現実を共有されるということ。イエスと一緒に、イエスが私たちを大切にされたように、ご大切(愛、アガペー)を大切にする生き方。イエスがナザレで育ったように、私たちもイエスにあって、愛することにおいて、たくましく知恵も又育っていきます。クリスマスから40日たち、私の中に生まれたイエス、私の中に働く神をうけとめ、今日もう一度、クリスマス(キリストのミサ)を祝います。勇気、信頼をもって、イエスと共に日常生活の一コマ一コマを愛をこめて誠実に生きる。たとえ傷つくとしても。
2011.02.12
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「風の薫り』井上洋治著、聖母文庫よりアッバ。利己主義に流されて、今日も1日人々の心を傷つけてきたことを、心からあなたの御前でお詫びいたします。そして、そのような私を、悲愛のまなざしで、あなたが暖かく見守っていてくださったことを深く感謝いたします。生きとし生けるもののやすらかないとなみにあわせて、私たちの今晩の眠りを、あなたの御手のうちにおまもりください。主キリストによって、アーメン雪が降っています。静かな昼間です。NHKテレビ「無縁社会」の再放送を見ています。自殺寸前の無縁状態から、教会での集団生活、人のつながり、自分の居場所を取り戻そうという和歌山のキリスト教会が中心となったNPO活動も紹介されています。重い内容の中で、ほっとしました。
2011.02.12
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『風の薫り』(井上洋治著 聖母の騎士社)井上神父様の著書の中でも好きな本です。2種類の「風の家の祈り」が載っています。風の家のミサで唱える「風の家の祈り」も好きですが、もうひとつの風の家の祈りも素敵なので紹介します。風の家の祈り(1)アッバ。迷ってしまった一匹の子羊をどこまでも探し求める羊飼いのように、暖かな春の日も、凍りつくような冬の日も、今日までの私の人生を、いつも暖かく見守ってきてくださったお恵みを心から感謝します。私があなたのことを、疑ったときも、また忘れていたときでさえ、たしかに、あなたは私をお忘れになりませんでした。 この日本の土地にそのあなたの悲愛の芽が育ち、一人でも多くの人が、御子イエスによる真のよろこびと自由と平安を見いだすことができますように。主キリストによって、アーメン。
2011.02.09
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寒中お見舞い申し上げます。ご訪問ありがとうございます。2月5日土曜に行きたい講演や講座、コンサートが重なりました。どれか一つしか参加できないのが残念です。☆JLMMゴスペル・チャリティコンサート ~ウタウ・ツナガル・MDGs 世界の「貧しい」を半分に。MDGsキャンペーンを呼びかけます 2/5日(土) 14:00開演築地教会聖堂(東京都中央区明石町5-26、東京メトロ日比谷線「築地駅」3・4番出口より徒歩約8分)入場無料(会場で募金をお願いします)申込み不要http://www.jlmm.net/flash_news/2011/02/jlmm-mdgs.htmlお問い合わせ:JLMM-日本カトリック信徒宣教者会事務局☆白百合女子大学(調布市仙川) 社会人生涯学習講座 福音講話 「神の恵みの福音」 講師 : 星野正道神父 2月 5日(土)14:00 ~ 15:30 受講料1000円☆進藤龍也牧師 (『罪人の友 主イエス・キリスト教会』(川口市))講演会「ヤクザから牧師へ」 2月5日(土) 14:00~17:00 カトリック『聖ペトロ・パウロ労働宣教会 エウレカの家』 埼玉県所沢市東所沢和田1-26-31参加費≫1.000円聖ペトロ・パウロ労働宣教会(MOPP)エウレカの家から徒歩5分ほどの「和田南会館」に会場が変更になりました。当日、案内の人が立つそうです。父が亡くなってまもなく1年。正月には車を運転できるほど元気だったのに、急激に悪化しました。さまざまなことを思い出してなんとなくしゅんとしています。もっと親孝行したかったです。来月は、映画『ヤコブへの手紙』3月に公開される『神々と男たち」、ヨハネパウロ2世の列福のニュースなどをアップしたいと思っています。
2011.01.22
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主のご降誕おめでとうございます。日中のミサ説教が心に残ったので思い出しながら書いてみました。ーーイエスの生涯は誕生から十字架の死、復活と時系列的に考えられていたのではなく、イエスがキリストであり、復活したということが第一でした。初代教会がクリスマスをお祝いしなかった。これは当然のこと。イエスキリストの復活があってクリスマスがあるという順番をまちがってはいけません。一つの事柄があっても、見る人によって表現、内容が違ってきます。4つの福音書が福音記者によって違っているのを、一つにそろえなかったとは素晴らしいことです。そうでなければ、こんにちの私たちはイエスの生涯について多くのことを知ることができないでしょう。私はどうも世間の風潮にのった、にぎやかなクリスマスが嫌いで、赴任した教会でもクリスマスの夜のダンスパーティや聖堂に大きな樅の木を切ってきて飾るなど、いちゃもんをつけたりしました。また、聖地巡礼にも9回行きましたが、ベツレヘムの聖誕教会で、ありがたがって皆が跪いてその場所にふれて祈ることに対しても、イエス様が本当にこの場所で生まれたのではないと批判的なことも言ったりして、周囲をがっかりさせてきました。ある日ふと気づいたのが、宇宙からみたら豆粒のような小さな地球に神の御子がお生まれになったという、すばらしさ。場所がずれていることはたいしたことではない。それならば、多くの人がそこだと信じて祈ってきた。その場で祈る大切さ。おまえは信者、神学生、神父となり、たしかに聖書の知識はふえたけど、信心、信じる心はどうだったのか、聖書学の知識をひけらかして何になるのか。そう気づいた時、今まで批判的なことを言ってきて恥ずかしいから、皆の後で外国人の巡礼団と一緒に跪き、神様イエスを地上に誕生させて下さってありがとうございますと素直に祈った。巡礼後、写真をもらったら、誰かが、その祈る姿を写していた。その姿には後光がさしていた。単に近すぎてハレーションをおこしただけですが(笑)フランス人の神父で詩人の忘れられない詩があります。クリスマスを祝い、口では平和、愛といいながら、戦争、争いをおこす人間をうたった詩。口先だけの平和を説きながら、一方に虐げられた人、貧しい人、戦争、災害、飢饉などがあるという事実に目をつむる。その2枚舌。これも昔も今もずっと変わらない人間の性だけど、せめてそのことに気づき思いをはせる、何かほんの小さなことであってもできることを考え実行する。それが真の平和への一歩。最後にクリスマスは何かといえば、神様から人への愛。人と人との愛、絆。私たちはクリスマスを大切に祝う心で日々を生きなくてはなりません。ーーーーーきちんとまとめられたお話だったのに後半部分が思い出せません。このミサの「聖書と典礼」裏表紙に載っていた「きょう、あなたは呼ばれた」というシスター牧野みどりの文章もすばらしいものでした。今年は羊の肩ロースの固まり肉で、ローストラムを焼きました。夫が、チーズと目玉焼き入りと、スモークサーモンとキノコとタマネギを入れた2種類のそば粉のクレープを作ってくれて、家族がそろっての夕食。家族がそろっての食事は次は正月でしょうか。
2010.12.26
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人は生きていてさまざまな経験をします.喜びだけでなく、悲しみ、苦しみ。ある時何かの経験をし、ひきずることがあります。忘れていても何かのきっかけにでてきて、過去をひきずってしまう。過去は変わらないことによって苦しめます。「過去と他者は変えることができない」確かに自分の人生ですが、過去は自分に属していない。「過去の他者性」過去は私たちをこえています。偶然でなく、自分で計画し、実行したことであった行為であっても、過去はその人に属することができません。その意味で、私たちの人生は他者性をおびています。時の流れは残酷なほど他者性をおびています。しかも他者であるにもかかわらず、過去は仮借なく私におそいかかってきます。これが私たちの歴史、個人、集団、国家の歴史なのかもしれません。時がたっても過ぎ去った過去は影響力をもち、私に襲いかかってきつづけます。しかし、実行した結果を変えることはできませんが、それを受け止める私は変わっていく可能性があり、「変えられる」ことができます。そのテーマでお話します。今回の聖書の箇所は「良きサマリア人のたとえ」。この箇所はこの完結しているのではないと私は思います。ルカ福音書全体と連結している、さしあたってルカ10章がどういう場面がおさえます。弟子72人を任命し、二人ずつ使わされました。天地万物の創造主、父なる神のみ心がどういうものか伝えたい、これがイエスのこの世での第一の使命。それを展開する時、まず弟子達を使わしました。狼の群れに子羊をおくりこむようなもの。使わされる弟子を子羊にたとえました、羊は自立してず、羊飼いなしに餌を探したり家に帰ることもできない無力な動物。17節は大事な箇所です。72人は喜んで帰ってきました、イエスの名前(権威)を使うと悪霊さえも屈服しました。悪霊という言葉は日常用語ではなじみがないけど、消え去ったものではありません。悪霊という言葉を使わないだけです。悪霊というのは私たちが良いことを目指そうとするときにも働きます。たとえば主日に教会へ行くのは正しいこと、だからタイムレコーダーで出席を確認というのはどうでしょう。良いことであっても、必死に良くすると新たな悪がはじまります。様々な社会的・個人的事情でミサにあずかれないこともあります。毎日ミサにあずからないとカトリック信者ではないような気がする人、クリスマスと復活祭だけでいいと思う人さまざまです。主日に教会へ行くのはそのようにして信仰心を豊かに実らせるため。行っても単にタイムレコーダーを押すだけ、あるいは毎週出席した人が欠席した人を見下す。それが悪霊的働き。一心に努力するところにも悪霊が働き出す面をもっています。弟子達が帰ってきて、悪霊が従うよりも、あなたの名(存在、生かされ生きていることの全体)が天(神)のみこころの中に置かれていることを喜びなさいとおっしゃった。イエスは続けて神に向かって祈りの言葉を言いました。そういう場面は聖書の中で多くはありません。「智恵あるものや賢い者ではなく、幼子のようなものにしめされた。これはみ心にかなうこと」☆子羊、幼子、とはどういう者か。「すべてのことは父からわたしに任されている。父がどういう方であるか子と子が示そうとする思う者しかわからない。」☆神がどういう方か、人にはわからない。これも一つのテーマ。智者、賢者、預言者、律法の専門家ーー子羊、幼子、こういう対比の中で「良きサマリア人」の話があります。この話だけを取り出すと、貧しい人、困っている人を助けましょう。これも正しいですが、10章を見渡すと、この話の中に上の答えが入っています。イエスを試そうとした、それがイエスとの出会いのきっかけでした。律法の専門家というのは、聖書が当時の国内法だったのですから、法律の専門家というようなものです。「永遠のいのち」というのはとこしえに続く命という意味ではなく、本物のいのち、本来的人生という意味。そこに想定されるのは神。神が一人一人に与えた人生を生きるにはどうしたらよいでしょうか?という問い地上を生きていく上でも大切なこと、死んでから後の話ではありません。律法に何て書いてあるか、旧約聖書です。隣人を愛しなさい。人は一人では生きられません。現代の人も電車、電気誰かに支えられて暮らしが成り立っています。2千年前の人々はなおさらのこと、身近な人々と助け合わないと暮らせませんでした。何処までが隣人か?という問い。親戚、あるいは同じ村の人、ユダヤ人…ここからが大切な話です。エルサレムから下ってきて、強盗におそわれ半死半生となった人がいました。社会において尊敬される人ー祭司(聖なる儀式を行う職)、レビ人(祭司を助ける人)「見る」という言葉に注目しましょう。私を見た者は父を見た。聖書では「見る」とは視覚でとらえるものだけでなく、経験する、体験する、ということ。見る=知る父がどういう方か知るということ。ここでは3人とも「見た」のは同じ。2人は向こう側へいってしまった。サマリア人は見て、「あわれ=はらわたがよじれるよう、突き動かされる思い)に思い」近寄って、傷に手当、介抱、宿屋へ連れて行った。このあたりは、次々と動詞を並べていくルカが得意な書き方、ドキュメンタリーを見るような感じを与える。台所で手際よく料理するような雰囲気。夜自分の部屋で介抱したが、次の朝仕事(商売?)へ出かけた。まだ半死半生の人は回復していなかったので、「この人を介抱してください」と宿の人に頼み、お金をおいていった。帰りがけにも立ち寄るので、足りなかったら払うといった。サマリア人は自分の予定を変えなかった。泊まるべき宿屋に行き、自分の部屋で一晩世話を師、朝には予定通り出発した。自分の予定は変えることが出来ない。地上を生きる私たちの宿命。その中で自分の出来る精一杯をした。自分の身分を変えたり、立ち位置を変えたのではない。現実世界を生きている。予定の遅れは許されない。祭司、レビ人、サマリア人3人とも自分の予定を変えませんでしたが、サマリア人は。はらわたがよじれる思いで近寄りました。自分のストーリーをこえるエネルギーはどこからでたか。その人の資質ではないと思います。サマリア人もホームレス、孤児をいっぱい見たでしょう。どうしてかわからないけど、このときさマリア人ははらわたがよじれるというエネルギーを与えられました。祭司やレビ人も『見た』のだから半死半生の人がよびおこしたのではない。見えない何かが働いた、すなわち、その時サマリア人に神が示されたということ。父と子がどのような方かどのように示されるかの一つの答えがここにありります。もう一つ押さえておきたい点はサマリア人が予定を変更しなかったこと。私たちが外からみて英雄的なことをしたのではありませんでした。スケジュールは何一つ変更せず仕事を終えて帰っていったので、上司に報告する必要もない、彼の心の中だけにしまわれている出来事。一晩看病しても目を覚まさなかった、半死半生の人はありがとうという言葉、友達になったわけではありません。人格的交わりもありませんでした。人格的交わりの意味が問われています。サマリア人はボランティアを一生懸命にする人ではない、こういう出来事があったからといって人助けの仕事に転職するわけではなく、今までの仕事を続けて、市民社会の中で目立たずこの世の生を終結させたでしょう。永遠のいのちー本物のいのちをいきるということと、この話がどこで関係するか?サマリア人がこの出来事をきっかけに貧しい人を助ける人になったというなら、永遠のいのちを常に生き続ける人になったということ教会の中で記念するという言葉をよく使います。これを私の記念として行いなさいーイエスキリストの十字架上の死を記念して生きなさいというのがキリスト教の中心にあります。旧約の中心はエジプト脱出を記念すること。永遠のいのちに招かれるというのは、また何かの機会に半死半生の人がいたら助ける、そういうことをやり続けるということが本物の人生に招かれるというのではないでしょう。サマリア人にとって、おそらくこの体験は一回だけだったでしょう。この時、わたしの意志をこえて、はらわたがよじれてこういうことが起こりました。だから彼は祭司やレビ人を責める気もない。それまでに多くの貧しい子供や物乞いにも出会ってきても行きすぎただろう。はらわたがよじれての一連の行動を記念し続ける。自分のストーリーをこえでていかせるエネルギーに私が出会った。人間の側からみれば偶然のように思える出来事が、神の側からみれば彼にとってもっとも最適な必然の出来事だということを忘れずに記念しつづけて生きること。それが永遠のいのちへむかうプログラム。誰が隣人になったか、友達となってはいない。半死半生の人に近づく前に神は彼にふれていた。ここが大事。それを記念し続けること。こういう出来事は死ぬまでに一生に一度かもしれない。自分の主体性、自己決定、自己責任というおのれをこえて何者かによって動かされた3日間。出会った1日目。宿屋で介抱して2日目、宿屋の主人にお金を渡して、仕事へ出かけて帰ってくる3日目。人生の中で三日間が彼にある。この三日間を記念し続けることで彼の人生の道行きが変わっていく。神の働きかけを受けてこういう風に行動した自分がいる。そういう自分が、仕事が忙しくて、次の機会では関わることができない。過去は仮借なく私たちにおそいかかる、他者である過去は変えることができない。だが、変えることのできない過去が私を育てていく。そういう自分自身と出会って、そういう自分を信頼して、希望し、愛していきなさい。だからべったりペンキを塗ったみたいにはじからはじまで聖人である必要は私たちはない。人生のたった一点にすぎないことでも忘れないで記念し忘れないようにすること。その過去が働きかけて私たちを変えていく。そのことにこの人は出会えた。これが良きサマリア人の話。これが、どうしたら永遠のいのちをいただくことができるかという人間の根源的問いへのイエスの答え。『あからはじまる贈り物』という本の一節を紹介します。「にーにげないで」少年は誰一人自分の誕生日に気づいてくれず、両親からも無視されている気がして、自殺したいと考えた。最後に中学を訪れたら、たまたま日曜なのにクラス担任の神父に出会い、「誕生日おめでとう今日は君のためにミサをささげたよ」と声をかけてもらった。彼はその時「生きよう、僕を思っていてくれる人がいたんだ。」と思った。本人達が何も了解せずにさまざまなことが起こっている。神父も少年の心に何がおこっているか知らなかっただろう。無我夢中の中でやったこと。「無心」と「一心」とは天と地ほど違う。「一心」は聖人になるために一途に頑張る、困っている人をすべて助けなくてはと、いうようなこと。人間は子羊、幼子のようにさせていただける時があります。「わたしがすてた女」の男とミッちゃんの出会いもサマリア人と重なります。「このむなしさはどこから来るのだろう」と男の感じたむなしさは、本来的いのちを感じさせられたから。そのことを記念することによって、これからの男の人生を導き続けます。人は本来的いのちを生きるようにされているのです。
2010.12.07
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第20回は、教皇のためのミサとなります。このミサの参列によって全免償を受けることができます。主司式はローマ教皇庁駐日大使のカステッロ大司教。ヨゼフ・ピタウ大司教ほかの共同司式となります。グレゴリオ聖歌しか歌ったことがなく、合唱経験もないのに、さるすべりは聖歌隊に入れて頂くことになりました。ほんと向こう見ず、おっちょこちょいだなあと我ながら思いますが、まあ130名の聖歌隊なので何とかなるかなと思ってます。楽天ブックス: グレゴリオ聖歌選集 - 十枝正子 この本の編著者のT先生が地元在住ということで、4年ほど5、6名のグループでグレゴリオ聖歌を習っています。気持ちばかりの謝礼で、くねくねした線の本来のネウマ譜を、初心者に丁寧に教えてくださいます。参加人数が少ないのが悩みです。新宿から電車で15分、駅近くという公的施設が月2回の練習会場です。メンバー探しもあって、グレゴリオを歌う場所に顔を出しています。11月13日第20回荘厳司教ミサのご案内
2010.11.12
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母と新幹線待ち合わせで大阪へ。母は小田原駅乗車。小田原駅にとまるひかり号は1日数本しかなく、箱根観光の外国人などで満席になるとか。となりはイタリア人の団体でした。大阪駅周辺は大工事中。2011年には北側に三越伊勢丹が開業し、南側に大丸。osaka station cityとして駅周辺ががらっと変わるようです。駅がドーム型で南北につながります。大阪での事務的な用事がすんなり終わり、夕方大阪駅構内のホテルに。翌朝、母は高校の同窓会旅行。三宮駅前で別れて私は神戸見物。神戸を訪れたのは学生時代従姉妹がポートピア81博覧会で働いていたのを訪ねただけ。西宮と三宮の位置関係もごっちゃになっていたくらい、まったく土地勘のない場所をガイドブック片手に街歩き。まず神戸中央教会を訪ねました。初めて入った聖堂なのに、なんだか見覚えがある感じ。聖堂内写真http://www.kobe-chuo.catholic.ne.jp/syoukai_2a.htmlイグナチオや調布と同じ設計者でした。教会の絵はがきを購入し、北野の街へ。母お勧めの北野坂にしむらコーヒー店会員制喫茶店だったが、震災の時、井戸水を使っていたので水が使えて、近隣の方に提供したことがきっかけで一般に開放したとか。落ち着いた調度品の静かな店内。コーヒーと栗と洋なしのタルトをいただきました。しっかりした味とコーヒーのバランスが良く大満足。観光ルートは嫌い。人が一人通れる幅の路地があちこちにあるのがおもしろくて、狭い路地を抜けて方角の見当をつけて山の方へ。街頭と塀の間に大きな蜘蛛の巣があったり、猫が昼寝していたり、外国人名の表札が並んでいて高級外車がある邸宅が並んでいたりsecom率が高いなあと感心しながら山の方へ歩くと整備中の北野西公園へ。神戸港の眺めを楽しみました。「風見鶏の館」を見学し、背山ハイキングコースへ。土の階段をまっすぐ下って新神戸駅へ。上りならば敬遠したい急な道でした。新神戸では教会探し。亡き父は退職後、大阪の会社へ。バブル崩壊後の不景気を無事乗り切って引退。阪神淡路大震災後、新神戸駅そばのプロテスタント教会の内装を父の会社がてがけました。献堂式には父もよばれて挨拶したとか。ミッションスクール出身の母の入れ知恵もあり、教会員の方達に喜んでいただけた挨拶、クリスチャンですか?と聞かれたとか。教会員手作りのフランス料理をごちそうになり、キリスト教のファンに(単純^^)父と教会の縁はそれだけですが、なんとなく嬉しくて写真を撮りにいきました。父が宗教嫌いで、私は学生時代,に要理は勉強したけど洗礼受けそびれたくらいだったのですが。新神戸駅すぐそば、茶色い建物で十字架が目印の教会は2軒ありました。日本キリスト教団神戸聖愛教会日本キリスト教会神戸布引教会どちらだったのかしら。両方の写真を撮って、駅で豚まんを買って新幹線で帰宅。
2010.10.28
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今回が最後の南無アッバミサとなりました。■ 南無アッバのミサ 10/16 (土) 14:00~15:00 幼きイエス会修道院聖堂で (JR・地下鉄丸の内線・南北線 四ツ谷駅徒歩 1分) 司式:井上洋治神父(東京教区) 諸事情により今回が最後となります。 申込不要 詳細は 「風(プネウマ)」 http://www.geocities.jp/kazehensusitsu/index.htm 「南無アッバミサ」 スタッフより http://namuabba.blog116.fc2.com/
2010.10.11
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今年の9月25日、フォコラーレのメンバーで、十代で帰天した若い女性が列福されました。彼女の輝くような笑顔の写真が忘れられなくて、久しぶりにブログをアップします。キアラ・ルーチェ 第2次世界大戦中に、イタリア人女性キアラ・ルービックによって始められたフォコラーレ運動。フォコラーレフォコラーレとはイタリア語で暖炉の意味です。第二次世界大戦のさなか、破壊と絶望におおわれていた時代、数人の若い女性たちが、キアラ・ルービックの周りに集いました。彼女たちは信仰によって結ばれ、神様が愛であるという経験を共有し合っていました。運動は世界中に広まり、日本でもフォコラーレ運動があります。
2010.09.28
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今日8月26日はマザーテレサの生誕100年の日。東京のカテドラルなどでマザーテレサ生誕100年を記念するミサがあげられました。マザーテレサ生誕100年にあわせて、マザーテレサの映画、写真展や講演会などが全国各地で開催されています。です。マザーテレサ映画の予告編マザーテレサの言葉は飾り気なく、当たり前のことが多いのに、一言一言が心に響きます。マザーの美しいほほえみにひかれます。日本人の暮らしを全世界の人が行うためには地球2個以上の資源が必要となるとか。当たり前のように思って入る日頃の暮らし、クーラー、冷蔵庫などの電化製品、車などなど。日本人の暮らし自分が何ができるのか考えさえられます。
2010.08.26
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今日、7月22日はマグダラの聖マリアの日です。遊女だったという説は後世言われたこと。マドレーヌというお菓子の名前の由来でもあります。実際はどういう女性だったのでしょうか。西洋絵画の題材として多く描かれています。マグダラの聖マリア
2010.07.22
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