「007 スペクター」21世紀のボンドにスペクター
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その3
――それは 4年生の夏休みに出会った 不思議な出来事――
その夏休み、直矢はお父さんの故郷にお盆の里帰りをしていました。
昔、もっと小さかった頃は一緒に遊んでくれた従兄達も、大きくなった今では家にいることも少なくて、直矢とは遊んでくれなくなっていました。
大人ばかりの中で退屈だった直矢は、そっと家の中から抜け出し、一人で散歩に出かけました。
小さい頃から毎年夏に必ず来ては、従兄達に連れ回されていたので、この辺の地理はそれなりにわかっているつもりです。
真夏の太陽があまりにも強く照りつけるので、涼しい場所を求めて直矢は森の方へふらふらと入り込んでいきました。
森の奥へ奥へと進むうち、どこからか気持ちのいい風が吹いてきて、その風に誘われるように直矢は更に森の奥へと歩いていきました。
やがて、目の前に開けた空間が現れました。
「……あぁ、こんなところに池がある」
おそらくさっきの気持ちのいい風は、ここから吹いてきたのでしょう。
しかし、この森にこんな池があるなんて、直矢は全く知りませんでした。この森へは従兄達と今まで何度も虫取りなどに来ていたというのに。
直矢は池に手を入れて、水に触れてみました。その水は、とても夏とは思えないほど冷たく、そして澄みきった水でした。
急に喉の渇きを感じて、手にすくってその水を飲んでみました。ごくごくごく、っと一気に飲んで、直矢はとても気分が良くなりました。
その水は今までに飲んだどんな水よりも、そしてどんな飲み物よりもおいしかったのです。
水を飲んで落ち着くと、直矢は池のほとりに座りました。
少し汗ばんだ体に、池の向こうから吹いてくる風が一層心地よく感じられます。森の木々は照りつける太陽をさえぎってくれ、しかしかすかに木もれ日が差し込んでいて、何とも幻想的な雰囲気です。
素敵な場所を自分の力で見つけ出したことを、直矢はとても嬉しく思いました。
そのとき、ピチャン、と水音がしました。魚が跳ねたのでしょうか?
どんな魚がいるのだろうと、直矢は池の中をのぞき込みました。
池の水はとても澄んでいましたが、底までは見通せず、魚の姿も見えません。
水面に映った自分の陰に、ふと違和感を感じました。
(これは、本当に水に映った僕なのだろうか……?)
そう思った時。
ザバッと大きな音がして、自分の影――と思っていたものが、突然水の中から現れました。
「うわっ」
直矢は驚いてひっくり返りました。すると影――いいえ、それは影ではなく少年でした――は池から上がってきて、水を滴らせながら直矢を見下ろしました。
少年の顔を見て、直矢は更にびっくりしました。
「驚かせてしまったようだね」
そう言った少年の顔は――顔だけでなく、声や体つきまで――直矢自身によく似ていたのです!
違っているのは少年がずぶ濡れなことと、着ているものが古めかしい着物であるということだけでした。
「君は誰なの?」
(まるで自分に話しかけてるみたいだ)
そう思いながら直矢は少年に問いました。
「僕は僕だよ」
少年はにっこりと笑って答えました。
「なんで僕と同じ顔をしてるの?」
「それは――」
バッシャーン!!
どうやら今度は大きな魚が跳ねたようでした。
しかし、その音で少年の言葉がかき消されてしまいました。
「え? 何て言ったの?」
「まぁ、どうでもいいじゃないか、そんなこと」
この不思議なことの真相を知りたい気持ちは強かったのですが、少年はもう教えてくれそうにありません。
直矢は仕方なく話題を違うことに向けました。
「何してたの?」
「池で泳いでたんだよ」
「服を着たまま?」
少年は自分の格好を確かめてから少し笑うと、いきなり濡れた着物を脱ぎ始めました。
「どうするの?」
「乾かすんだよ」
少年はそう言うと着物を近くの木に掛け、呆気に取られている直矢には構わず池の飛び込みました。
「一緒に泳がないか?」
少年の誘いに、直矢は小さく首を振りました。
「僕、泳ぎが苦手なんだ」
「なんだ、お前もか」
少年はゆっくりと池の中を泳ぎ始めました。その泳ぎはとても優雅で、直矢は思わず見とれてしまいました。
「上手いんだね」
少年は直矢の方に向かって泳いで来ました。
「まぁな。大きくなったら水泳の選手になろうと思ってたんだ」
「なれるよ、きっと」
直矢が素直にそう言うと、少年は曖昧に笑いました。
「お前が泳がないんだったら、上がろうかな」
陸に上がった少年は、不思議なことにすっかり乾いてしまった着物を身につけました。
「名前は?」
直矢は突然そう問いかけられました。
「え? 直矢だけど……」
直矢の答えに、少年は驚いたような顔をして急に黙ってしまいました。
「君の名前は何ていうの?」
反対に直矢がそう尋ねても答えは返ってきません。
しばらくして、ようやく少年が口を開きました。
「……素直の直に、弓矢の矢って言う字を書くのか?」
「そうだけど……」
ちょっと変わった字なのにどうしてすぐにわかったのか、直矢はちょっと不思議に思いました。
「ねぇ、どうしてわかったの? 君の名前も教えてよ」
「今、いくつだ?」
少年は直矢の問いには答えず、今度はそんなことを訊いてきました。
「10歳だけど」
「小4てとこか。俺と同い年だな」
「えっ、同い年なの? もっと大きいと思った」
直矢はびっくりしました。なんだかお兄さんのような感じがして、同い年だとは思っていませんでした。
「別にお兄ちゃんだと思ってくれてもいいぞ」
「うん、そうするよ」
直矢は嬉しそうに言いました。
それから二人は森の中でいろいろな遊びをしました。虫を探したり、葉っぱを使った数当てのゲームをしたり、草笛を作って吹いたり。全てにおいて少年の方が上手で、直矢は教えられることばかりでした。一人っ子の直矢には、本当のお兄ちゃんみたいな気がしていました。
楽しい時間は瞬く間に過ぎ、森の中が少し陰ってきました。そろそろ帰らないと、お父さん達が心配してしまうでしょう。
「もうそろそろ帰らないと。君の家はこの近くなの?」
直矢がそう切り出すと、少年は首を振りました。
「俺はもう少しここにいる」
「そう……。ねぇ、明日も一緒に遊んでくれる?」
直矢のお願いに、少年は少し考えてからうなずきました。
「じゃあ、明日もこの池に来いよ」
「どうしてこの池なの?」
聞き返すと、少年は池の方を向いて言いました。
「……この池が好きだから。直矢だってここを好きになっただろう?」
「うん。この池、なんていうの?」
「神風池。神の風の池って書くんだ」
直矢の方に向き直りながら、少年はそう教えてくれました。
「神風池かぁ……。じゃあ、明日も絶対に来るね!」
その約束を胸に、直矢は軽々とした足取りで森の外へ向かいました。
少年が、その後ろ姿をどんな気持ちで見送っていたのか、全く知らずに――
「お父さん、神風池って知ってる?」
一緒にお風呂に入りながら、直矢はお父さんにあの池のことを訊いてみました。
「……神風池?」
そう言ったお父さんの顔と声は、少し強ばっていました。
「なんでお前がその名前を知ってるんだい?」
「今日ね、行ったんだよ」
直矢の答えに、お父さんは驚いた顔をしました。
「あの池に行ったのか? ……一体誰と?」
直矢が答えると、お父さんはしばらく黙ってしまいました。
「……お父さん?」
「直矢、あの池へは行っちゃいけないよ」
お父さんは少し怒ったような声で言いました。
「でも、すごくいい所だったんだよ」
「いや、ダメだ。あそこは危ない場所だから、もう絶対に行っちゃダメだよ。いいね?」
とても強い調子でそう言われてしまい、直矢は仕方なくうなずきました。
どうして行っちゃいけないのかは、なんだか怖くて訊くことが出来ませんでした。
しかし次の日、直矢はやっぱり神風池に来てしまいました。
少年はもう先に来ていました。池の淵に座って、足を水の中で揺らしていました。着ているものは昨日と同じ着物でした。
「やぁ、来たね」
出迎えてくれた少年に、直也は昨日お父さんに言われたことを話しました。
少年はうなずきながら訊いていて、話が終わると「なるほどね」と言いました。
「でも僕、昨日約束したし、やっぱりどうしても来たかったから……」
その言葉を聞いて、少年はにっこりと笑いました。
「直矢はいつ東京に帰るんだい?」
「明日なんだよ」
少年は何か少し考えてから、一つの提案を持ち出しました。
「じゃあ、今日は森の外で遊ぶことにしよう。面白いことを考えたんだ……」
直矢はおじいちゃんちの裏手にある、物置小屋の陰に隠れていました。
その視線の先には、大きな木の下に二つの人影。大きい影はお父さん、そして小さい影は……。
少年の言い出した「面白いこと」の提案はこうでした。
直矢と少年はよく似ているので、お互いに入れ替わって、少年が直矢になりすましてお父さんをだましてみよう、ということでした。最初はだますと聞いて嫌だと思いましたが、本当によく似ているのでもしかしたらばれないかも、と思って賛成しました。お互いの服を交換してみると、本当に目の前にもう一人自分がいるみたいで変な気持ちになりました。そして、直矢は見えないところからそっと二人の様子を見ていることになったのです。
準備をしておじいちゃんちに帰って来てみると、お父さんは偶然一人で裏庭にいました。なぜか木の下に立っていて、その木をぼんやりと見上げていました。
少年は直矢にうなずくと、お父さんに近付いて行きました。
お父さんは、どうやら少年が直矢と入れ替わっていることに気が付かなかったようです。
しかし、その後の様子が少し変でした。直矢の隠れているところからは遠くてよくわからなかったのですが、もしかしたらばれてしまったのでしょうか?
(二人で何を話してるんだろう?)
直矢はハラハラしながら二人の様子を見守っていました。
やがて、少年がこちらへやって来ました。どうだったのでしょう?
お父さんは、初めと同じように木を見上げています。気のせいか、顔を手でおおっているようにも見えました。
少年は無表情で直矢に言いました。
「直矢、神風池へ帰ろう」
神風池へ行く間、少年はずっと無言でした。
しゃべってはいけないような気がして、直矢も黙ってついていきました。
池へ到着すると、二人は服を元通りに交換し、腰を下ろしました。
「……で、どうだったの? お父さんにばれちゃったの?」
「いや、わかんなかったよ」
少年はやっと口を開きました。そして少し笑って言いました。
「どうだ? 面白かったか?」
「面白かったっていうか……ドキドキしてたよ」
少年は、直矢の顔をじっと見ました。
「明日、帰るんだったな。これでもうお別れだな」
「だって、今日もまだ遊べるでしょ?」
「いや、もう遊べないんだよ。ここへ来ちゃいけないって言われたんだろ? もう帰った方がいい。そうだ、早く帰った方がいいんだよ……」
少年はなんだか淋しそうにそう言いました。
「でも……」
直也はまだ帰りたくありませんでした。少年ともっと遊びたいし、もっと話がしたいのです。何より証言の元気がなくなってしまった様子が気になって、もっと側にいてあげたい気持ちになりました。
しかしそれを少年は許してくれず、直矢は悲しい気分で帰りました。
おじいちゃんちへ着くと、お父さんはまだあの木の下にいました。
「お父さん!」
直矢は駆け寄って、お父さんに飛びつきました。
「直矢」
お父さんは直矢を自分の体から話すと、直矢の頭をポンとたたきました。
「今日も神風池に行ったね」
「……ごめんなさい」
直矢はお父さんの言い付けを破ってしまったことを思い出し、しょんぼりとうなだれました。
「もう怒らないから、顔を上げてごらん。……直矢には、話さなくていいと思ってまだ話していなかったけど、あの池に行ったんなら――あの人にあったのなら、話さなければいけないね」
直矢はお父さんの神妙な口調に緊張して、ゴクリと喉を鳴らしました。
「もしかしたら理解できないかもしれないけど、よく聞いてくれよ。――昔、お父さんが子供だった頃、お父さんにはもう一人お兄ちゃんがいたんだ……」
お父さんに話はこうでした。
お父さんには、今おじいちゃん達と一緒に住んでいる徹おじさんの他に、一つ違いのお兄ちゃんがいたのです。その人は運動がとても得意で、なかでも水泳が一番得意だったそうです。そのお兄ちゃんはよく神風池に泳ぎに行っていたのでした。
ある日、お父さんはこっそりとお兄ちゃんの後をつけて行きました。神風池は、昔々龍神様の起こした大風で大きな穴ができ、そこに湧き水が溜まってできたという言い伝えがある通り、とても深い池です。そのために泳ぎの苦手なお父さんは、神風池で泳ぐことを禁止されていました。でもどうしても神風池で泳いでみたくて、お兄ちゃんに隠れて池に入ったのです。
案の定、お父さんは溺れかけてしまいました。幸いお兄ちゃんに助けてもらったのですが、さすがに泳ぎの上手いお兄ちゃんも、弟を助けるために服を着たまま水に入ったせいで、お父さんを助けるのが精一杯。自分は溺れてしまったのだそうです……。
「……だからお兄ちゃんは、10歳の時に死んでしまったんだ」
お父さんの話に、直矢はとてもびっくりしました。そんな話は今まで一度も聞いたことがなかったのですから。
「直矢はね、そのお兄ちゃんによく似てるんだよ。お父さん、お兄ちゃんの生まれ変わりかと思ったくらいだ。ちょうど今、お兄ちゃんが亡くなった年と同じだしね。でもまさか、同じ名前にしたからってこんなに似るとは……」
「えっ!?」
「お前の名前―直矢―は、そのお兄ちゃんからもらった名前なんだ」
それを聞いて、直矢は更に驚きました。自分の名前がその人からもらったものだったなんて……。
「どうしてお前にその名前を付けたかというとね、お兄ちゃんがあの時あの池で死んでしまったことに、父さんはとても負い目を感じていたんだ。自分がお兄ちゃんを死なせてしまった、って。だからお前が―男の子が生まれた時、死んだお兄ちゃんの分まで生きて欲しいと願って、直矢という名前を付けることにしたんだ……」
「そうだったの」
直矢は、自分の名前の重みをその時初めて感じました。
「でも、今日お前の格好をしたお兄ちゃんが父さんの所に来て、こう言ったんだ。『あれはお前のせいだったんじゃない。俺が龍神様に見込まれて連れて行かれただけのことだ。俺の泳ぎがあんまり上手いんでな』……そう言ったのはお兄ちゃんの優しさだったんだろうけど、父さん涙が出てきてな……」
お父さんはそっと目頭を押さえました。
「それからこうも言ったんだよ。『直矢に俺の名前を付けてくれてありがとう。いい子に育てたな』って……」
お父さんは泣いていました。子供のように泣いていました。まるで、お兄ちゃんを亡くした当時に戻ってしまったかのように。
そんなお父さんを優しく慰めながら、直也は思いました。
(もしかしたら、お父さんは僕にお兄ちゃんを重ねているのかもしれない)
しばらくしてお父さんは涙を拭き、照れ隠しに笑いながら立ち上がって、またあの木を見上げました。
「この木は、お兄ちゃんが生まれた時に植えた木なんだ……」
次の日。おじいちゃんちを出る前に、もう一度だけ神風池に行かせてもらえるようにお父さんにお願いしました。
あそこへ行けばまた会えるに違いありません。
朝の清々しい空気の中、直矢は走って神風池に向かいました。
思った通り、そこには前の日と同じように池に足を入れた少年の姿がありました。
「直矢おじさん」
そう声を掛けると、少年はびっくりしたように振り返りました。
「お前、今日帰るんじゃ……」
「うん。その前にもう一度会いたいなと思って」
その言葉を聞いて少年は嬉しそうに笑いました。
「……『おじさん』って呼ぶの、やめろよな。この年で『おじさん』はないだろ?」
「だって、おじさんでしょ?」
直矢はしてやったりとでも言いたそうな顔でそう言いました。
「父さんから聞いたのか?」
「うん」
「そうか。びっくりしただろ?」
「・・・そりゃあ、ちょっとはびっくりしたけど」
直矢はそこで一度言葉を切りました。
「なんか、そんな気がしてた」
それを聞いて少年はおかしそうに笑いました。
「そうか、そんな気がしてたか。よしっ!」
気合いを入れるようにそう言うとすぐに、少年は着物を脱ぎ始めました。
「どうだ、直矢。泳いでいかないか? 俺が泳ぎを教えてやるからさ」
「え、でも…」
直矢は少し考えて、池の中をのぞき込みました。
池は最初に見たときと同じように澄み切っていて、木洩れ日が水面にきらきらと光っていて、なんだか直也を呼んでいるように見えました。
「さぁ」
少年に促されて、直矢は池に入ってみようと思いました。
服を脱いで池に入ると、少年が上手く水に浮く方法を教えてくれたので、今までよりずっと水の中が楽しく感じられました。
「うん、父さんよりも筋がいいかもしれないな」
直矢は褒められて尚更嬉しくなりました。
「おじさん」
「だーかーらー、おじさんて呼ぶなよなー」
少年は不服そうにぶつぶつ言っています。
「…ありがとね」
「何が?」
「…いろいろと!」
言ってしまってからなんだか恥ずかしくなって、直矢はざぶんと水の中に潜りました。
見ると少年も潜って直矢の方に近付いてきました。
そして直矢の側まで来ると、にやっと笑って親指を立てて直矢の方に差し出しました。
直矢もそれに応えて親指を立て、こぶしとこぶしを合わせました。
「ぷはぁ!」
息が苦しくなって水から顔を出すと、少年も浮き上がりました。
「そろそろ上がるか。東京に帰る時間だろ」
少年はそう言って先に岸に上がりました。
直矢はもっと泳いでいたい気持ちでしたが、そうも言っていられないので仕方なく上がりました。
服を着てすっかり支度が整うと、急に淋しい気分になりました。
「お別れだね」
「ああ。でもまた、来年会えるさ」
「絶対? 絶対会える?」
「会えるよ。だから来年まで元気でいろよ」
少年はすっと右手を差し出しました。
直矢はその手を握り、二人は固い約束を交わしました。
「ばいばーい」
帰り道、直也は何度も何度も振り返り、千切れんばかりに手を振りながら、少年と、そして神風池に別れを告げました。
この夏のこの出来事を、しっかりと胸に刻みながら……
Fin
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