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■いよいよあと一泊 波はやや高いが、天気はまずまずである。ここ数日続いた揺れも今日はおさまっている。このまま順調にいけば、明日の今頃は横浜沖で富士山を眺めているだろう。 出発時には台風6号のため相模湾で2晩漂泊、ノルウェーでは洋上給油のため1日の遅れ、ドミニカはハリケーンを避けながらの寄港。 最後の寄港地メキシコのマンサニージョではハリケーン「ジョバ」のために、アカプルコ沖で漂泊。やっと入港できたら、給油に時間がかかり、航海計画は5日間も遅れた。船旅は予定通りにはいかないのだということが体験してわかった。 旅行約款上、自然災害による航海の遅れについては顧客負担となっている。今回は旅行会社が半額を負担するということで、大部分の乗客は払ったようだ。 昨晩は社会科の会のお別れ会を開催した。誰1人知らない800人の乗客に飛び込んだのだが、この会を立ち上げて、いろんな人と知り合うきっかけができ、本当に良かった。 昨晩は、ピースボートのスタッフからの感謝のイベントがあった。クルーズディレクターの田村美和子さんをはじめとするピースボートスタッフ、GETの先生たち、C.C.の人たちが、コントや物まねなど多彩な余興で楽しませてくれた。 トラブルもあったが、この船旅も地球を一周して出発点に戻ろうとしている。11階デッキに吹く風にも、何か日本の晩秋の空気を感じるような気がする。 今日の午後、ボランティアスタッフとハウスキーパーが別送荷物を取りにきてくれた。下船後東京か大阪で1泊の可能性が高いので、船室には一泊分の手回り品だけを残しているが、ほんとうにキャビン内は淋しくなった。住めば都だったこの古い船室ともサヨナラだと思えばちょっと淋しい思いもする。「部送品3個」(オーディオの箱の発砲スチロールを捨てて、荷物箱に利用する) ハウスキーパーのフィリピン人マリアーネに自作の日本語テキストを7ページ分プレゼントする。役に立つかどうかはわからないが、せめてもの感謝の気持ちだ。
2011/10/31
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■船旅グッズあれこれ~2 今日は企画やイベントも少ない荷造りデー。というのは、スタッフも下船準備をしなければならないからである。美容室も医務室も休みである。 船旅グッズシリーズ~27 文具関係 日頃使う文具類は全部持ってきた。困ったのは旅の冒頭でボールペンを無くしたこと。寄港地でお土産を兼ねて数本買ってから不自由しなくなった。スケッチ用具は退屈しのぎによかった。また、アムステルダムのゴッホ美術館で買った水彩色鉛筆も有効だった。(実は某日本メーカー製)8 ファイル関係 様々なパンフレット整理用にファイルを持ってきていた。ほかにチケットや領収証を整理ファイルや名刺整理用ファイルも有効だった。「あと数日となったキャビン生活」(ソファの上、手前がファイル類、向こう側に寄港地土産品)9 医薬品 風邪、頭痛、腹痛などの常備薬から、日焼け止め、虫除けスプレーまで持って来た。しかし、医薬品はほとんど使用しなかった。106日間健康で過ごせたということだ。以前から肩こりがひどかったが、今はやわらいでいる。旅が一番のクスリだったのだろう。また、船内には歯科医がいないが、歯も3ヶ月間問題なかったので良かった。10 洗濯関係 液体洗剤400gと小袋の洗剤を10袋ほど持ってきていた。キャンプ用の折りたたみバケツが洗濯用バケツとして活躍した。折り畳み式の小物干しは靴下やハンカチを干すのに役立った。そのほか、プラスチックのハンガーも物干しとして役立った。11 記録用機材 デジカメ3台をTPOに応じて使った。WG1-GPS は船の位置測定に有効だった。一眼のIOS-7Dは重いのが難点。LX5の映りのよさには満足している。機能が多く操作しにくい面があるが、今回のメインカメラはLX3だった。 パソコンは、ブログ更新のために欠かせなかった。ただ、船内のネット環境が悪いので、事前に不要なメールを配信停止にするなどの対策をしておく必要があった。小型プリンターは、会合の名簿作成や知人への写真配布などに役だった。12 持ってきたが、使わなかったもの 上述しているが医薬品。それに、高度や気温、方位などが計測できるアウトドア用時計。世界各地の電波に対応し自動的に時差調整するが、船内時間では意味がなかった。マニュアルを忘れて、船内での時差に対応できずほとんど活躍の場がなかった。 13 最後に、持ってきておけばよかったもの。 アマチュア無線機。確認はしていないが、ハンディ機なら寄港地で使えただろう。それに短波ラジオがあれば、日本のニュースがリアルタイムで聞けただろう。
2011/10/30
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■船旅グッズあれこれ~1 今日は下船説明会のあと、ダンスパーティが開催された。「洋上の舞い」(みなさん、なかなかの上達でした) 旅の終わりにあたって、今回の船旅グッズについての話を書いてみたい。1 衣料品 下着3日分、ハーフパンツとジーンズ各2、簡易フォーマル1、替えズボン1、半袖シャツ2、Tシャツ4、コート1、パジャマ1、といったところである。 フォーマルディナーも数回あったが、ネクタイなしでOK。ほとんどカジュアルで過ごせるのがピースボートの良さである。衣類の洗濯はこまめに自分でした。2 飲み物関係 電熱湯沸かし器と緑茶・玄米茶・紅茶などのパックを持参。カップ類は船内ショップや寄港地でも買った。台所用洗剤を持たなかったので知人から分けてもらった。船内自販機では24時間ソフトドリンクやビールが販売されている。3 電気周り プラグアダプター、6個口2mのテーブルタップ、3口ソケットを持参した。船室内のコンセントは220Vと110Vが混在している。 220Vのコンセントはプラグアダプターが必要。110Vは日本の電化製品がそのまま使用出来る。テーブルタップは、諸機器の充電や電化製品の使用のため不可欠だった。4 電化製品 小型オーディオ、湯沸かし器、電気かみそりなどを持参した。ほとんどの機器のACアダプターは、ほとんどが100Vと220Vの両方に対応している。 湯沸かし器とオーディオがあったので、船室でいい時間を過ごせた。持ってきたかったのが短波ラジオ。日本のニュースがリアルタイムで聞けただろうと思う。5 電子機器 パソコン、小型プリンター、コンデジ2台、一眼デジ1台(交換レンズ1本・専用ストロボ)、電子辞書、ICレコーダー、携帯電話、ミュージックプレーヤーを持参した。動画はデジカメで代用した。 寄港地での盗難被害を防ぐということもあり、一眼デジカメはあまり使わなかった。電子辞書は英語の勉強に結構使った。あまり使わなかったのがICレコーダー。現地ガイドさんの解説などを録音したが、後日聞き直すことはあまりないだろう。6 書籍関係 旅の紀行文関係、英語学習関係の文庫や新書を約20冊持参した。船内の図書室やフリースペースにも本はあるが、とても古く、興味を引くものはない。 持っていた本は読んでしまった。普段から週2冊くらいののペースで読んでいるので、特にこの船旅で読書にふけっていたわけではない。 (この項、明日に続く)
2011/10/29
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荷物の整理をしよう 10月28日、我々の船旅も102日目を迎えた。昨晩から揺れが強くなり、天候も不安定である。オセアニック号は太平洋の中間点を過ぎ、現在は北緯37度付近を西南西に航行している。「太平洋上で読書」 (天気はすっきりしないが、水平線の彼方に身も心も吸い込まれていくようだ) ただどこまでも続く海の上での読書。洋上生活が3ヶ月も続くと、これが日常のこととして慣れてしまった。しかし、これはきっとすごく贅沢なことなのだ。旅程も残り少なくなった今、一人ちょっとだけ感傷に浸ってしまった。 昼食後、デッサンや水彩画を描いて過ごす。最後の寄港地(=帰港地)に向けて企画や催しも行われているが、自分は一人部屋の気楽さゆえにマイペースで過ごしている。「船室の窓側」 (丸テーブルの上にティーセット、左窓の棚に本やファイル類、右窓の棚にはCDプレイヤー) 今日は、寝不足のために頭が重い。夕方になるとうまく描けないところがあって行き詰まった。そうなると集中力が続かなくなって飽きてくる。そこで、お土産品の整理を始めた。 パッキングデーは10月30日に設定されている。4人部屋などは各自の荷物で大混乱になるのではないだろうか。その辺りの事情は知りえないが、1人部屋はマイペースで荷物の整理ができる。 まずは船室に飾っていた寄港地の土産品を片づけて段ボールに入れよう。そして、持ってきていた文庫本やファイルケースなどをスーツケースにしまう。衣類は当面不要な夏物をパッキングするのだ。「ベッドから眺めた船室」 (左ドアはトイレ、右はシャワー室、中央にデスクと鏡、右にはソファー、その手前がロッカー) 真夏の7月17日に横浜を出港し、東南アジアから西アジア、西欧までは真夏の暑さの中での旅だった。しかし、9月初旬に北欧に入ると晩秋から初冬の寒さとなった。その後9月下旬に中米に入ると夏の暑さを思い出す日射しを浴びた。そしてまもなく10月の終わり、晩秋の日本に帰るのだ。「思い出の品々」 (ソファの上は、1都市1品ということで買った様々な雑貨の置き場となっている) 帰港時の気候が想像できないが、多分長袖アンダーウェアに冬物のシャツ。下は冬用のジーンズだろう。それを想定しながら、残り日数の洗濯計画も考えてパッキングする衣類を選択する。 20時から、GETの担任Loganを招待して洋上居酒屋「波へい」でクラス会をする。11時過ぎまで、英語のゲームなどをして過ごす。しかし、つい日本語でしゃべっていたのを反省する。 GETだけでなく、様々な講座やイベントで知り合った人たちも、帰船後の生き方を考える時期になってきた。若い人たちは、学校や仕事が待っている。シニア世代には家庭や趣味、ボランティアなどが待っている。 ここ数日、「波へい」ではいろんな集まりのお別れ会が行われている。5日間船旅が延長となったことへの追加料金を払った人に「波へい」利用券が配布されていることもあり、200人は入ると思われるこの洋上居酒屋の座席はほぼ埋まっていた。 今日も時差発生。日本との時差はついにプラス1時間だけとなった。 ↓ランキングに参加しています。良かったらクリックをお願いします。 にほんブログ村
2011/10/28
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GETの卒業式、卒業パーティ 今日(10月27日)は昨日に続いて空模様があまり良くない。海はやや波高しといった程度である。 昼近くになると晴れ間が広がってきた。11階デッキに出てGPS機能付きのカメラで写真を撮ると、11時すぎの船の位置は北緯37度56分、東経178度03分だった。 船内時間はすでに10月23日の深夜に日付を進めていた。しかし、経度の上で西経から東経の範囲に入って実質的に日付変更線を越えたのはどうやら昨晩だったようだ。「日付変更線を越えて」 (曇り空のなかでオープンデッキで補修作業をしているクルー) 14時からGETの卒業式があった。160人の生徒一人一人が名前を呼ばれ、ステージで担任の先生から卒業証書をもらった。自分が生徒として卒業証書をもらうなんて何十年かぶりのことである。 証書授与のあと、学級ごとに写真を撮ったり、卒業生全員の記念写真を撮った。この日は、2回目の通知票も渡された。「GET卒業式」 (冒頭でGETの校長先生から卒業生に向けてあいさつがあった) 卒業式が終わった帰り道、8階のラッキースターバーで「歌声喫茶」が開かれていた。一緒にいたIさんMさんの2人のご婦人と、空いている席に座ったら、次の歌が「学生時代」だった。なんてぴったりのタイミング。 「自分は歌声喫茶とか知らないですよ」と言ったら、先輩のIさん(東京在住)から「田舎だからねえ」と言われた。「違いますって、私はフォークからニューミュジックの世代なんですよ」と言い返してやった。「歌声喫茶」 (アクティブな熟年世代の皆さんの元気な歌声が響いていた) 最後の歌は「若者たち」だった。歌声喫茶に集っていた人たちは団塊世代以上の、昔の「若者たち」だった。リラックスしてみんなで歌うことは「心のストレッチ」になるようで、会場はここちよく1950~60年代にタイムスリップしていた。 夕食の時横浜の人と話していたら、今も東京には歌声喫茶があり、横浜でも週に一度出張開催されているらしい。「GET卒業パーティ」 (夜は20時30分からGETの卒業パーティがあった) 横浜帰港後は、生徒も先生もみんな離ればなれになっていく。ワンドリンクフリーで、スペイン語でみんなで乾杯。その後、ゲームやカラオケでこの3ヶ月間の洋上スクールのフィナーレを祝った。 ↓ランキングに参加しています。良かったらクリックをお願いします。 にほんブログ村
2011/10/27
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消滅日ではなくて1時間あった 昨夜、1時間の時差が発生した。ということは、時計は1時間遅らせたのだ。しかし、昨夜の時差は特別だった。正確に言えば、時計を23時間進める時差調整である。 地図上ではまだ日付変更線は通過していないが、船内時間では、今日10月24日は、いきなり23時から始まり1時間で終わり、24時(0時)には25日になる。 1時間あるから、正確には消滅日ではない。でも、実質的には一晩寝たら、カレンダーを2枚めくらなくてはならないのだ。 これは、1日25時間という日があって得した分を、まとめて1日分にして、返していることになる。「貴重な1時間」(あと35分で、今日(24日)は終わる) このピースボートに乗り合わせている我々には、2011年の10月24日は1時間しかなかったのだ。 というわけで、今日(24日)は、このブログを書いているうちに終わった。 これからは、我々は日本標準時より早い時刻の中にいることになる。現時点での日本との時差はプラス3時間である。
2011/10/24
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English Speech Festival (70 people were challenged) 不思議に、昨日・今日と連続して朝食時間に間に合うように起きている。それだけ、今日のスピーチに向けて緊張感が高まっていたのだろう。 今日は、スペイン語と英語の有料講座受講者の希望者によるスピーチフェスティバルが開催された。発表者が70人と多いため、午前と午後の2部に分かれて開催された。 自分は午後の部だったので、午前中は他の人のスピーチをゆったり聴いていた。有料講座を受講していても同じクラスの人しか知らないので、各人のスピーチを聴いてその人となりが想像でき興味深かった。 発表者のほとんどがシニア世代で、仕事面でも人生においても様々なキャリアを積んできた人たちばかりである。しかし、母国語以外の言葉で、しかも大勢の前で何かを伝えるというのは、どんな人にとっても難しく緊張するものだと感じた。 昼食は普通に食べて、食後しばらく原稿覚えのおさらいをする。そして、午後の部が始まり自分の番が近まると、ここ10年間感じなかったほどの緊張感を感じていた。 午後の部は、午前の部よりも聴衆が増えている。この何倍もの人の中で話したこともあったが、そんな時でも、何か緊張感の中で語りを楽しむ気分があった。でも、今日は緊張するために緊張しているような、異様な緊張感に包まれていた。そして、与えられた2分間が終わった。「読む<話す<伝える」(やはり「伝える」ところまではいかなかった)About Anne Frank (Learning from history)I would like to talk about one of the unforgettable memories of this voyage. I visited the 'Anne Frank house' in Amsterdam on 4th Aug. 2011. It was a small common house. But it impressed me as much as the other great landscapes.Anne Frank was a Jewish girl. She was born in Frankfurt, Germany, in 1929. Presently, Adolf Hitler came into power in Germany. It was the beginning of the Holocaust. Then the Frank family immigrated from Germany to Amsterdam in Holland. But the German army occupied Holland In 1940. Therefore the family had to go into hiding. Life in the hiding place was inconvenient and anxious. But Anne didn't give up hope. She kept a diary of her hiding days. Sadly, in August 1944, Anne's family was discoverd by German officers. So, they were taken away to a concentration camp. Anne died from typhus in May 1945. She was only 15 years old. I was moved to tears by thinkig about her very short life. Now, Anne Frank's diary is published in many countries. And their hiding place is preserved in its original condition and it is called 'Anne Frank house'. We shoud not forget their cruel destiny. I think we human beings must learm from history and wish for permanent peace in the world.Sixty seven years have passed since Anne Frank died. Thank you. 話している時は、聴衆の顔を見る余裕もあったし、自分では、伝えようと思って話しているつもりだった。しかし、伝えきれなかったという思いから、自分の時間が終わった直後が一番気持ちが高揚していた。スピーチのテーマは「Learning from history」。内容は、今回の船旅の寄港地であったアムステルダムで、アンネ・フランクの隠れ家を見学したときの感想をまとめたものである。ちょっと難いテーマで、2分でまとめるにはもっと工夫が必要だったと思う。「アンネの隠れ家~Anne Frank house」(ほんの小さな家の入り口、表札に小さく「ANNE FRANK HUIS(オランダ語)」とあった) 自分としては、達成感よりも反省点が多い2分間だった。しかし、この経験がどこかで、何かの場面で、生きてくれば良しと、前向きに考えよう。 夜は、また社会科のメンバーが集まっての飲み会。いつもの居酒屋が混んでいるので、今日は「アクターズバー」に集まる。日程の遅れがあったが、洋上生活も残り1週間である。この時期になると、話題は帰ってから何をするかという話になる。 今晩また時差発生。これで7日連続である。日本との時差はマイナス21時間。
2011/10/23
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赤道直下のガラパゴス諸島を思う 今日(10月20日)、11時30分になるのを待って6階レストランに行くも、close の立て札があった。少し早すぎたかなと思っていったん自分の船室に戻った。 しかしよく考えてみたら、昨晩、時計の針を1時間戻すという時差調整を忘れていたのだ。実際の時刻はまだ10時30分だったのだ。またまた時差ボケである。 今日は14時45分からのツアー報告会「私たちが見たガラパゴス諸島」を聞きに行く。これは、バルボア(パナマ)~アカプルコ(メキシコ)間をオーバーランドして、ガラパゴス諸島に行った人たちの報告会である。自分はツアー価格の関係もあり、この間はティカル遺跡へのツアーを選んだ。「ガラパゴスツアー発表会」(ツアー価格は高いが、直接ガラパゴスに来るにはもっと高い旅費と時間がかかるだろう) チャールズ・ダーウィンは1835年、この島々を訪れ多様な固有種の動植物を調査し、後に「生物進化論」を唱えた。1978年、ガラパゴス諸島は世界自然遺産の第1号として登録された。しかし、2007年には、自然破壊が進み危機的な状況であるとして、危機遺産リストに登録された。(その後2010年に危機遺産リストからは解除された) 今日の報告によると、現在ガラパゴス諸島が抱える大きな問題点は、外来植物、外来動物、観光客の3つが増えたことだという。2007年から「ガラパゴスの森再生プロジェクト」が始まった。これは、写真家の藤原幸一さんの提唱で、NPO法人「日本ガラパゴスの会」と「ピースボート」が共同で行っている、スカレシアというの固有種の苗木を植える活動である。 今回のツアー参加者たちも、地元の高校生たちと植林活動を行ってきた。今日の報告会は、ツアー参加者が実際に撮影してきたウミイグアナやリクイグアナ、ゾウガメなどの動物の動画などを交えながらの説明で、よくまとめてあった。「沈みゆく方舟ガラパゴス」(藤原孝一さんの調査や取材結果をまとめた本~講談社α文庫~2007年9月) 今日のキャビン映画は「タッチ」の実写版。自分は、原作の、あのせりふの入らないコマの雰囲気が好きで、文庫版を全巻そろえている。実写版の映画は初めて見たが、原作(単行本)の、ちょっと甘酸っぱくて爽やかな青春の雰囲気は表現しきれていない。それでも結局、最後まで観てしまったのだが。「船室のテレビ」(ベッドの上に設置してあるが、時化で船が揺れる時などに落ちてこないか心配だ) 日本の某メーカーのロゴが誇らしげに入っているが、なんと13インチのブラウン管である。これではまるで「All Ways 3丁目の夕陽」の時代ではないか。一応カラーテレビではあるが、現在の液晶TVの鮮やかさを期待してはいけない。「太平洋からのぼり太平洋に沈む」(ただ今、北緯32度・西経138度。日の出と日没の時間帯は11階デッキは人でにぎわう) 今晩また時差発生。これで4日連続である。日本との時差はマイナス18時間となった。 ↓ランキングに参加しています。良かったらクリックをお願いします。にほんブログ村
2011/10/20
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※続けて読んで頂いている方はご存じと思いますが、本ブログは2011年の地球一周の船旅のことを書いています。旅と同時進行で船内からアップしていたものに、写真を追加して再編集して更新しています。船旅の日常を記録していますので、船旅に興味がある方には参考になるかと思います。なんと、1日1食 今日(10/18)は天候も回復し、延期が続いていたバレーボール大会が8階スポーツデッキで開催された。コートも狭いけど上部のカバーネットが低いので、普通とは違った難しさもあったようだ。 ドミニカ共和国との野球親善試合の練習もこの狭いスポーツデッキでやった。練習といっても、キャッチボールと、ゴロのノックぐらいしか出来なかったようだが。 このピースボートには、限られた時間や場所を活用することにかけては、アイデア豊かな人材がさくさん揃っている。「洋上バレーボール大会」 (様々な制約を楽しみに変えて、ボールは弾み気持ちも弾む) 一昨日接続できなかったインターネットが昨夜はつながった。衛星回線の状態が不安定なようで改善が望まれる。使用料金も高すぎる。接続速度も遅いのでせめて1時間500円程度にしてほしい。 今回の航海がおわったら、オセアニック号は点検整備のためにしばらくドック入りする。その際には、ネット環境や船室のテレビなどを改善して欲しいものだ。と言っても、この老朽船にそれだけ投資するメリットがるかはどうかは疑問だが。 20時30分から、それぞれ飲み物やつまみを持ち寄って、我が船室でパーティを開く。集まったのは社会科のメンバー4名である。「リンゴとオレンジ」 (マンサニージョのリンゴとオレンジ、小ぶりだったがうまかった) 自分が買い込んでいたオイルサーディンは、大きいサイズの缶はケチャップ味だった。小さい缶のほうが、我々が想定していた「オイルサーディン」だった。 旅も終盤のこの時期だけに、旅を振り返っての思い出話や船内の人物評などに話が盛り上がる。あっという間にビール三缶とワイン一本が空になっていた。ラム酒の残りも空にしてもらい、残るアルコールはブランデーの小瓶だけになった。 この社会科のメンバーは、今後も機会があれば再会することもあるだろう。すでに、来年の3月あたりに集まろうという話もあるが、とりあえず、各人のアドレスを集約して共有することにした。ここでも、持ち込んだプリンターが役に立つ。「今日のディナー」 (基本的に和食が多いが、今日のメインディッシュは「肉じゃが」だった) レストラン前に掲示されるメニューはほぼ毎日撮影している。テーブルの料理は撮らなくてもメニューだけは記録のために残している。品物は残るが食物は形として残らないからだ。それにしても「肉じゃが」恐るべし。ありきたりの家庭料理だが、ちゃんとメインディッシュになるのだ。 昨夜に続いて本日も時差が発生。日本との時差はマイナス16時間となった。 ↓ランキングに参加しています。よかったらクリックお願いします。にほんブログ村
2011/10/19
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※続けて読んで頂いている方はご存じと思いますが、本ブログは2011年の地球一周の船旅のことを書いています。旅と同時進行で船内からアップしていたものに、写真を追加して再編集して更新しています。船旅の日常を記録していますので、船旅に興味がある方には参考になるかと思います。先はまだまだ長いぞ太平洋 今日(10/18)は天候も回復し、延期が続いていたバレーボール大会が8階スポーツデッキで開催された。コートも狭いけど上部のカバーネットが低いので、普通とは違った難しさもあったようだ。 ドミニカ共和国との野球親善試合の練習もこの狭いスポーツデッキでやった。練習といっても、キャッチボールと、ゴロのノックぐらいしか出来なかったようだが。 このピースボートには、限られた時間や場所を活用することにかけては、アイデア豊かな人材がさくさん揃っている。「洋上バレーボール大会」(様々な制約を楽しみに変えて、ボールは弾み気持ちも弾む) 一昨日接続できなかったインターネットが昨夜はつながった。衛星回線の状態が不安定なようで改善が望まれる。使用料金も高すぎる。接続速度も遅いのでせめて1時間500円程度にしてほしい。 今回の航海がおわったら、オセアニック号は点検整備のためにしばらくドック入りする。その際には、ネット環境や船室のテレビなどを改善して欲しいものだ。と言っても、この老朽船にそれだけ投資するメリットがるかはどうかは疑問だが。 20時30分から、それぞれ飲み物やつまみを持ち寄って、我が船室でパーティを開く。集まったのは社会科のメンバー4名である。「リンゴとみかん」(メキシコのマンサニージョで買ったリンゴとみかん、大きさは小ぶりだがうまかった) 自分が買い込んでいたオイルサーディンは、大きいサイズの缶はケチャップ味だった。小さい缶のほうが、我々が想定していた「オイルサーディン」だった。 旅も終盤のこの時期だけに、旅を振り返っての思い出話や船内の人物評などに話が盛り上がる。あっという間にビール三缶とワイン一本が空になっていた。ラム酒の残りも空にしてもらい、残るアルコールはブランデーの小瓶だけになった。 この社会科のメンバーは、今後も機会があれば再会することもあるだろう。すでに、来年の3月あたりに集まろうという話もあるが、とりあえず、各人のアドレスを集約して共有することにした。ここでも、持ち込んだプリンターが役に立つ。「今日のディナーメニュー」(基本的に和食が多いが、今日のメインディッシュは「肉じゃが」だった) レストラン前に掲示されるメニューはほぼ毎日撮影している。テーブルの料理は撮らなくてもメニューだけは記録のために残している。品物は残るが食物は形として残らないからだ。それにしても「肉じゃが」恐るべし。ありきたりの家庭料理だが、ちゃんとメインディッシュになるのだ。 昨夜に続いて本日も時差が発生。日本との時差はマイナス16時間となった。 ↓ランキングに参加しています。よかったらクリックお願いします。 にほんブログ村
2011/10/18
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STAND UP TAKE ACTION 船上で開かれている講座もそれぞれその結果を発表する時期を迎え、旅の終わりを感じさせられる。午後のプールデッキでは青空のもとダンスの練習が行われていた。「洋上ダンス教室」 (北緯23度・西経118度。今ちょうど北回帰線を越え、さらに西北西に北上しているところだ) 14時からは有料英会話講座(GET)の受講者の希望者によって取り組まれた「GETプロジェクト」の発表会が行われた。ミュージックビデオや絵本つくり、写真と詩など多様な発表がなされた。 16時から10階プールデッキでは「STAND UP TAKE ACTION」が行われた。これは、途上国の貧困問題に取り組むNGOグループが行っているもので、集まった全員が「立ち上がる」という単純な行動で、世界のリーダーたちに貧困問題の解決を求めるイベントである。 代表が宣誓文を読み上げた後、集まった者全員が右手を挙げながら立ち上がった。イメージカラーの赤いシャツや赤いスカーフなどを身につけ、オセアニック号のプールデッキに集まった人数は300人は越えていたのではないだろうか。「STAND UP TAKE ACTION」 (立ち上がる。その一瞬の行動が世界を動かす力になる~STAND UP TAKE ACTION パンフより) この行動を通して、参加者それぞれが貧困の問題を自分のこととして受け止め、自分に出来ることを始めるきっかけにしようというねらいもある。だからといって、では何から始めるかとなるとそれはとても難しい。 ただ、我々一行はこの船旅の中で、一つの国の中での貧富の差や、国家間の繁栄と貧困の格差を目のあたりにしてきた。そして、我が日本での暮らしは、物質的には間違いなく豊かすぎるということを多くの人が感じただろうと思う。 今日の、「STAND UP TAKE ACTION」をきっかけに、今までの自分の生活を振り返ってみることも、世界の貧困問題を考えるための大切な一歩になるだろう。 20時30分から、8階後方のスターライトバーで開かれた「KING OF すべらない話」を見に行く。別室からの生中継方式で、18人の若者がとっておきのすべらない話を披露するイベントで、以前開催された「M1」に続くお笑い企画第2弾である。 すべらない話と言いながらも、完全にすべってしまった話もあったが、そこは「ピースボートの仲間意識」がそうさせるのか、鋭い突っ込みもない。和気あいあいに「すべる話」も楽しんでいる。 だいたいにおいて、関西人の話が多くの人にウケたように思う。関西弁の持つ独特の面白みも手伝ってのことだろう。 本日時差発生。日本との時差はマイナス15時間となる。 ↓ランキングに参加しています。よかったらクリックお願いします。にほんブログ村
2011/10/17
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いよいよ太平洋へ 10月16日、本日正午のオセアニック号の位置はカリフォルニア半島の南、東経117度、北緯23度付近。「いよいよ太平洋へ」というより、カリフォルニア半島の真南約300kmの位置にある。「長い航海の始まり」(ハリケーンのため日程は遅れたが、乗り出した太平洋は穏やかな好天気である) 結果的にはマンサニージョでは3日連続の上陸となり、船内の各種企画やGETの授業は延期となっている。でも横浜帰港も遅れるのでそんなに支障は出ないだろう。「最後の寄港地を出て」(マンサニージョからは、いわゆる大圏航路で一路横浜に向かう) 今日のメインエベントは洋上ミュージカル「コモンビート」の上演であった。この一ヶ月間練習した成果が、午後の部と夜の部の2回発表され、若者だけでなく、子どもからシニアまで幅広い世代の80名が出演した。公演を2回に分けたのも、一度に全員が出演できないことからのようだ。 色分けされた4つのグループはそれぞれ大陸を意味し、伝統や特色をもって暮らしている。その4つの大陸の歌や踊りが表現される。その後、反感、対立、争いが起こる。しかし、最後には相互が理解し合い、力を合わせていくという内容であった。 たまたまこの船に乗り合わせて、やる気のある人たちが集まって、限られた時間や場所で創りあげた、世界に一つだけの公演であった。ステージが狭くて音響も良くない中で、どれだけ意図することが観衆に伝わったか疑問もある。しかし、出演者たちの懸命さは伝わったし、ダンスや歌のレベルも素人芸のレベルは越えていた。 ただ、出演者たちが気持ちを込めて踊り・歌い・演技しているのに、その雰囲気に入っていけない観客も一部にはいた。それらの多くはシニア層なのだが、彼らがどう反応したらいいのかどまどっている様子を見ているのも、まあそれはそれで面白かった。 この日は船内からのネット接続がうまくいかなかった。最近、ブログは数日分をまとめてアップすることが多くなった。「GETの連絡ボード」(このほかに、日常使える言葉を書いた「今日の三言(みこと)」というボードもある) 自分の今の課題は、20日に予定されていたのが、ハリケーン騒動のために今のところ24日に延期されている英語スピーチフェスティバルにおけるスピーチである。原稿は出来ているが、それを記憶した上で制限時間の2分以内に話すのは難しい。 日本語なら、原稿なんぞ見なくてもいくらでも話せるのだが、英語となるとそうはいかない。大勢の人の前で外国語を話すのを「お手のもの」にするには相当の練習と度胸が必要になるようだ。 午後、大阪のAさんが船室を訪問する。19日に予定している「定年後の生き方を考える」という趣旨の会合への呼びかけの件などを打ち合わせる。 話し合った結果、自主企画としてみんなに呼びかけることになった。果たして何人集まるのか楽しみであり、「もし誰も来なかったらどうしよう」という不安もある。 ↓ランキングに参加しています。よかったらくりっくをお願いします。にほんブログ村
2011/10/16
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マンサニージョに再び上陸 昨夜半から給油が始まった。給油船がオセアニック号に横付けして給油作業が行われている。そのため、左舷側のオープンデッキは当然ながら喫煙禁止、その上に通行禁止となっていた。「真夜中の給油作業」 (寄港地での給油や食糧・水の補給が地球一周の長い航海を支えている) しかし、オセアニック号の給油はこの時だけでは終わらなかった。港外にはハリケーンを避けて漂泊していた船舶がまだほかにもたくさん入港待ちをしている。 2度目の給油は洋上給油になると聞いていたが、停泊地を移動して岸壁での給油となった。そのため、今日(10月14日)も終日メキシコの港湾都市マンサニージョに停泊することになった。 午後2時前に下船可能となり、昨夜に続いてNさんと街に出かける。天気がよく気温も高いのでビーチで海水浴をしている人もいる。地元の人に混じって、ピースボートの若者たちも泳いでいる。 10月も中旬というのに海水浴と不思議に思うだろうが、ここマンサニージョは北緯19度である。ハワイ諸島よりも南に位置するのだ。それを考えればこの時期での海水浴も納得できる。 10分ほど歩くとマンサニージョの中心広場に来た。昨夜ライトアップの中で見たカジキのモニュメントを、今日は明るい青空のもとで見る。「マンサニージョのシンボル」 (カジキマグロのモニュメントは、この地が遠洋漁業の基地として発展したことを示している) 昨日は夜歩いた道を明るい太陽の下で歩く。海岸沿いに植えられた椰子の木が、たくさん実をつけている。ハリケーン一過でいい天気である。しかし、下町の通りに入ると道路に砂がたまっていたり水たまりがあったりして、ハリケーンの大雨の痕跡が窺える。「街角の風景」 (道の向こうにカジキマグロのモニュメント。観光地でないので庶民の生活が見える) お土産を買うためにアクセサリー店を探す。女性用の衣料品や小物の店は結構あった。しかし、アクセサリー類は見た限りではほとんどがMade in china であった。 そう言えば、街を歩いていると、何度か「ニーハオ!」を声をかけられた。この街では、中国製品と中国人が多いのだろうか。我々は中国人と間違えられているようだ。「マンサニージョ2日目の買い物」 (下町の八百屋さんで買ったリンゴ4個とみかん3個は合計でたったの3ドルだった) 17時30分にターミナルのゲートに入る。ここでIDカードを見せ、型通りの荷物チェックを受ける。船は給油のために歩行禁止区域になっている別の岸壁に移動していたため、シャトルバスに乗って船のところまで行くことになっていた。 最後の寄港地マンサニージョでは、ハリケーンの被害と寄港が遅れたことで、現地で予定されていたツアーは中止になったが、思いもかけず2日間も町歩きができた。 今日買ってきたみかんはグリーンで皮は薄かった。味はほどよい甘みがあって美味しかった。 ↓ランキングに参加しています。よかったらクリックお願いします。にほんブログ村
2011/10/14
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突然の買い出しラッシュ 今日の午後、オセアニック号はマンサーニジョの市街地が遠望できるところで停泊していた。周辺には入港待ちの船舶がたくさん待機していた。 船上から見るマンサーニジョの街はハリケーンの被害の跡は見られないようだ。しかし、海岸から離れた崖の付近では土砂くずれらしい痕跡も見えた。「港外で待機」(誰もが待ちわびていた、待たされたあとのマンサニージョ港) 17時過ぎ、狭い港の入口を通って17時40分にやっとマンサニージョ港に着岸した。ここマンサニージョは漁業の基地として発展した町である。 「マンサニージョ入港」(ハリケーンの影響か人影は見えないが、最近リゾート地として発展しているそうだ) 入港前説明会ではオプショナルツアーはすべて中止して給油のみ行うということだった。乗客の下船は出来ないということだったが、夕方になって下船許可が出て、帰船リミットは24時という。 あまり時間がないので夕食を食べずに18時50分に、大学生のNさんと一緒に下船した。このあとの大平洋上での船内生活に備え、買い出しをするつもりでリュック持参である。 市街地までは歩いて20分程度。スーパーやコンビニは、突然の日本人による買い物ラッシュになって、地元の人がびっくりしていた。 メキシコの通貨はペソであるがほとんどの店で米ドルが使える。米ドルで払うと言うと、店の人は電卓で計算をしている。端数は切り上げていると思うが、それでも、絵葉書が5枚で1ドルということで物価はとても安い。 アカプルコよりずっと街は小さくて、おしゃれな店も少ない。しかし、アーケード街には、実用的な衣料品、食料品などの生活用品やお土産品店などの店が並んでいた。 夜遅くなっても、メインの通りや商店が営業している通りには、カップルや子ども連れの人たちが歩いていて、不穏な雰囲気はほとんど感じられない。ここマンサニージョの治安は良さそうである。お店の人たちは英語はよく話せないがお互いの笑顔でコミュニケーションがとれる。「今日の買い物」(買い出しでふくれあがったリュックを背負って、22時30分に帰船した) 今日の外出は、夕方から夜にかけての慌ただしかった。しかし、久し振りの上陸で洋上漂泊でたまっていたもやもやも吹き飛んだようなひとときだった。 ↓ランキングに参加しています。よかったらクリックお願いします。にほんブログ村
2011/10/13
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沖合での漂泊は続く 今朝船は大きなうねりの中で低速航行をしていたが、午前中のうちにはマンサニージョ沖に達したようだ。最初は陸地が見えていたが、午後からは雨と霧で何も見えなくなった。「雨と霧の中」(雨の11階サンデッキには誰もいない。空と陸の境さえも定かに見えない) 船内の掲示物によると、今回のハリケーンで寄港予定地のマンサニージョ地域では浸水や崖崩れが発生して死者も出ているという。港湾施設にも被害が出ているようだ。 レセプションからは「地元港湾当局から港外待機の指示が出ています。今後の予定については確定次第お知らせします」という船内放送があった。今日に延期されていた、マンサニージョでのツアーの分科会(説明会)も再延期された。現状では具体的な日程が決まらないのだろう。 明日(13日)の寄港も実現しないなら、寄港日は最短でも14日となる。当初予定から4日の遅れだ。この遅れは太平洋上で取り戻せるだろうか。横浜帰港の日程も遅れる可能性が出てきた。 今日久し振りにGETの授業が再開された。本来なら寄港地が全て終わった状態で再開だった。まだマンサニージョ寄港が終わっていないから、今後の予定もはっきりしないままの再開である。 GETのクラスメイトのうち、Mさんはメキシコのテオティワカンへのオーバーランドツアーに出かけている。マンサーニージョで合流する予定だったが、船が寄港できないからホテルに滞在中なのだろう。天災地変で日程変更のなった場合のホテル代は自己負担になるという話だ。 GETの授業が終わってから、スピーチの原稿を担当のJey先生にチェックしてもらう。内容的にはとても良いとほめてもらった。いくつかの文法上の間違いがあり訂正してもらう。定冠詞や前置詞の間違いのほか、時制もいくつか訂正された。 一人あたりのスピーチの時間は2分しかないから時間短縮が課題である。これまでの職場では10分程度で話すことに慣れていたので2分は厳しい。ブログの文章でも原稿の段階からどうスリム化するかをいつも考えているが、この英語スピーチでも言いたいことを絞ることは大切だ。 Jey先生からの指摘を受けていくらかのセンテンスを削り、難しい単語も易しく言い換えることにした。そうすることでつっかえずに話せるようになるだろう。「今日のディナー」(昨日が魚だったので今日は和風肉料理、メインは鶏の甘辛味噌炒めで「にゅーめん」つき) 海上での漂泊も3日目となれば気分も落ち込む。この間は船室から出るのもおっくうになっていた。しかし、昨晩から今日にかけスピーチに向けて英作文に取り組んだので、久し振りにクリエイティブなことをしたという達成感を味わうことができた。 今日はマンサニージョ沖合に達したこともあり、気持ちは少し前向きになったようである。
2011/10/12
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マンサニージョに向けて アカプルコ沖での漂泊を開始したのは8日の深夜だった。もう2昼夜以上も洋上に漂っていることになる。これから先どうなるのだろう。 今朝の朝食の席でもそのことが話題になった。天候のことなのでみんなあきらめているようだ。今さらあせっても仕方がないという感じである。「アカプルコを望む」(厚い雲の下ではあの美しいビーチにも人影はないだろう~午後5時30分) その朝食の席で、アカプルコの大学訪問の時のメンバーの一人と一緒になった。そこで、食後もしばらく話をした。彼は5年前の学生の時、第52回クルーズで南回りの航路に乗船したという。 その時は、ベトナム、シンガポールからセーシェル、ケニア、そして南アフリカをまわって、アルゼンチンなど南アメリカを周り、イースター島にも寄港したという。とても魅力的で興味深い航路である。機会があれば、今度はその南回りの航路をたどってみたいものだ。 彼の話では、その52回航海の時、寄港が予定されていなかったところで、給油のために寄港して乗船客の下船もできたという。今回も、マンサニージョ以外のところでの給油、補給となる可能性もあるかもしれない。 そこがハワイだったら最高だが、近年ピースボートはアメリカへの寄港をしていない。以前はニューヨークやハワイにも寄港していた。なぜ最近はアメリカ合衆国への寄港をしないのか。そのことへのいろんな憶測は乗船客の中での話題になっているが、あくまでも噂の域に過ぎない。「動かない船」(西の空からわずかに陽が射してきた。天候は回復にむかっているようだ) マンサニージョ寄港がハリケーンのためにかなわないのなら、アカプルコに再寄港して、オーバーランドのツアー客を収容して給油や資材補給をする方法もあるのではないだろうか。最後の寄港地をパスするのは残念だが、これ以上の日程の遅れは帰国日にも影響するのではと心配される。 ただ、これは単なる素人考えである。ブリッジや旅行会社の首脳部は、様々な条件や制約を踏まえて、一番最善の方法を検討しているのだろう。 「今日の夕食」(オリヴィエサラダ、エビと野菜のタマリンドスープ)(メインディッシュの白身魚のピカタ) 午後9時30分、船内放送があった。「本船はこれからマンサニージョに向けて航行します。今後の詳しい航路計画については追ってお知らせします」という内容であった。 そんなに高くはないが波長の長いうねりの中をいよいよ船は動き出した。果たして、今後のスケジュールはどうなるのか。マンサニージョに向かうことは確かのようだ。 今日は興味を引く企画もないので、1日中、英語スピーチフェスティバルの原稿を書いていた。日本語で原稿を書いて英語に直すかまっすぐ英語で書くか、それが問題だった。結局、自分のわかる範囲の表現で直接英語で書く方が早かった。 夜中まで頑張って、なんとか先生に見せるための原稿が出来た。何でもギリギリにならないと本気にならない習性はなかなか直らない。
2011/10/11
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アカプルコ沖に漂って2日目 今日は、最後の寄港地マンサニージョに寄港して「コリマ州の自然保護活動を学ぶと」いうツアーに参加しているはずである。しかし、まだ船は洋上を漂っている。大きなうねりが船を揺らし、まるで大きなゆりかごに乗っているみたいだ。 6階レストラン前にはハリケーン情報が張り出されている。それによると、ハリケーン(Hurricane)「ジョバ」は12日にはマンサニージョを通過するようである。「ハリケーンと熱帯性低気圧」 (続いて、熱帯性低気圧(Tropical Storm)「アーウィン」が13日頃に接近してくるようだ) 7月19日の横浜出港直後には、太平洋西の端の相模湾で台風6号を避けるために漂泊した。そして今は、太平洋の東の端のアカプルコ沖でハリケーンを避けるために漂泊している。 波の状態も穏やかなので船の揺れはそう大きくはないが、航行しているときの揺れよりも平衡感覚への影響は大きいようだ。船酔いにはならないが、この状態は船から釣りをしているとき船が走っているときには酔わないが船を泊めて釣り始めると船酔いが始まるのと似ている。 今日は、なんとなく気分も乗らない。部屋の中で本を読んだり、音楽を聴いたりしていると、もうマンサニージョへの寄港はもうどうでもいいようになった。デッキに出る元気も出ない。だから今日の写真は船内の写真だけである。「今日の本船の位置」 (昨日の位置からまったく移動していない) 船内のショップにお土産品のカタログがある。しかし、よく見ると、ヨーロッパ諸国の土産の小物などにベトナム製や中国製があったりして、現在の世界経済の動きが見られて面白い。チョコレートやクッキーなども、パッケージは各国のものになっているが、チョコレートはベルギー製が多く、クッキーにはデンマーク製が多いようである。「お土産カタログ」 (寄港地もあと1つを残すのみとなり、船内ショップには宅配土産のカタログが貼ってある) 土産も国際化が進んでいる。多分、今まで寄港地で買ったお土産にも、中国製や東南アジア製品が含まれているのではないかと思われる。 お土産と言えば、それぞれの国独自の民芸品などが一番記念になると思う、特に中南米においては、先住民の人の店から、先住民の人が作っているものを買いたいと思う。しかし、ツアーの中での限られた時間の中では思うに任せない。 それでも、21の寄港地が終わった今では、それなりに小物が船室の中を飾っている。帰ったら、専用の棚を作らなければ収納場所に困ることになるだろう。「今日のメニュー」 (人参の白和え、山吹漬け、けんちん汁、ミックスフライ、デザートはアイスクリーム) これだけ揺れている船内でも、キッチンやレストランのスタッフは作業をしている。今は食べることだけが生活の変化となっているが、スタッフの苦労に感謝して食べなければならない。
2011/10/10
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ハリケーンに阻まれアカプルコ沖に漂泊 昨夜11時過ぎに華やかなアカプルコの夜景を背に、我がオセアニック号は最終寄港地マンサニージョに向かった、はずだった。ところが、寝付きが悪い自分は何か変な感じがして船窓から外を見てみたらどうも船は走っていない。いつもなら船窓から見える船の蹴立てる白波が見えない。 今朝10時ごろになって船内放送があった。ハリケーンが次の寄港地マンサニージョに向かっているので、それを避けるためアカプルコ沖で漂泊しているという話だった。「アカプルコ港外で漂泊中」 (海図に示された本日(10/9)正午の本船の位置) 道理で、走っていないわけだ。そう言えば、大西洋を渡ってサントドミンゴ(ドミニカ共和国)に向かうときも、ハリケーンを避けるために進路や速度を調整ながら航行したことがあった。 夕方5時30分の船内放送では、ハリケーンは勢力を維持してマンサニージョに向かっているという。マンサニージョ寄港予定は明日10日だったが、12日以降でないと寄港できないそうだ。 日程が2日遅れになることは確定的のようである。放送では、安全を第一にして航行していきますということを念を押して告げていた。日程の遅れは、いろんな面に影響が出てくると予測されるが、自然の力には勝てないのだから仕方がない。 夕方、11階のサンデッキに上がってみると、昨夜出港したアカプルコの市街地が右舷(東)側に広がっていた。左舷(西)側には大きな黒雲が立ち上がっていた。「船も動かず、雲も動かず」 (アカプルコ沖合6kmで漂泊中。大きな黒雲の下は激しいスコールらしい) アカプルコで離脱して、オーバーランドツアー「テオティワカン観光」に行っていた人たちは、マンサニージョに船が入港出来ないからどうなるのだろうか。マンサニージョで下船して飛行機で帰国する予定だった人たちも、航空券のキャンセルや新たな手配などで大変だろう。 自分も、帰国予定日の翌々日には予定が入っている。2日の遅れを太平洋上で取り戻すことができるのだろうか。 こんな時、船旅は臨機応変に動けない。しかし、一つの船に乗り合わせるということは、いろんな不都合も好都合も含めて、一緒に味わうということだ。何事もいい体験だと、自ら楽しむ心で受け止めるしかないだろう。 21時過ぎ、夕食を終えて船室でこのブログを書いていたらやや船の揺れが変ったなと感じた。船窓から覗くと船は走っている。船内放送もないので、どちらに向かっているかはわからない。「船内に掲示されたハリケーンの進路」 (ハリケーンはカリブ海やメキシコ湾で発生すると思っていたが太平洋岸も襲うとは…) 船が北上しているならマンサニージョには近づくが、ハリケーンの進路に近づくことになる。南下しているのなら、マンサニージョから遠ざかっていることになる。 23時ごろ再び船足は止まった。再び漂泊を開始したようだ。こんな場合はいずれにしろキャプテン(船長)に任せるしかないのだが・・・。
2011/10/09
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大学生たちとの交流と街歩き リゾート都市アカプルコ、船を降りると大変強い陽射しが照りつけていた。その中を「アカプルコの大学生との交流会と街歩き」のツアーはミニバスで出発した。 なんと、このツアーは参加者が7名という超少人数だった。ピースボートのツアーリーダーとC.C.(コミュニケーション・コーディネーター)を加えても9名。しかも、大学生との交流というのに参加者は全員が中高年なのである。唯一C.C.の男性が現役大学生とあって平均年齢はとても高い。 港から車で10分ほどの繁華街の中に、アカプルコ・アメリカーナ大学はあった。創立されてまだ20年という。その外観はおしゃれなホテルのような雰囲気であった。「みんなで記念撮影」(日本人の写真好きを知っておられるのか、何かというと写真タイムだった) 昼食は学生たちが作ってくれたメキシコ料理で、どれもおいしかった。そのあと、マレーナ学長がスライドを使ってアカプルコ近郊やゲレロ州の概要を説明してくれた。学長をはじめ他の女性の先生方や学生たちはメキシコの伝統的な民族衣装を着ていて、その衣装についての説明もしてくれた。また、学長はそのあと自らギターを弾きながらこの地方の歌を歌って歓迎してくれた。 我々の中に、書道の道具を持参した人がいて、漢字で先生方や学生たちの名前を書いてあげるとみんなとても喜んでいた。また、浴衣の着付け、梅干しや黒砂糖などの試食会なども好評であった。学長先生、副学長のロドリゲス先生、言語学のオリビア先生、それに心理学や観光学を専攻している学生たち十数名と短い時間だったがとても有意義な交流ができた。「笑顔の学生たち」(彼らが箸ではさんでいるのは梅干し、そのまま食べたら大変なことに…) そのあと、数名のグループで街歩きをした。大きなショッピングモールは、中米とは思えない豊かさと快適さで、ほとんどアメリカと変らない感じがした。これは、メキシコのなかのごく一部の豊かな部分であることを思いつつも、すっかりリラックスして見物した。 ペットショップに中学生の女の子がいて、少し話をして一緒に写真を撮った。恥ずかしがり屋ではにかむところなど、彼女らは先住民(インドヘナ)の血を受け継いでいるようだ。「アカプルコで女子中学生と」(時刻は午後3時半頃だったが、彼女たちは下校途中だったのだろうか) 繁華街を抜けてビーチに行ってみた。そこにはこれぞアカプルコという光景が広がっていた。波打ち際に入ると、寄せる波で膝から下はあっという間に水浸し。はるか西で日本の海につながっていると思うと感慨深い。10月というのに海水は温かくまだ十分海水浴ができる季節のようだ。「アカプルコのビーチ」(高級ホテルが建ち並び、南米とは思えないようなこぎれいな風景だった) 大学へ戻る途中のレストランで皆でビールを飲む。ラベルはおなじみのコロナビール、1本1.5ドル。暑い陽射しの中を歩いたあとのビールは冷たくて美味しかった。 夜はメキシコ文化を代表するというルチャリブレ(日本訳は「自由な戦い」)の観戦に出かけた。これは300名を越すという今回のピースボート最大のツアーである。といっても、船から歩いて15分のところに試合会場はあり、ツアー客はアリの行列状態で会場に歩いて向かった。 昼間一緒に行動した大学の学生たちも十名ほど来ていて一緒に観戦する。ルチャリブレとは、要するにメキシコプロレスのことである。レスラーは覆面をつけ、キャラクターが善と悪とにはっきり分かれている。見ていてとても分かりやすいショーである。「ルチャリブレ」(たとえ日頃冷静であっても、積極的に興奮して応援に参加するのが楽しむ秘訣のようだ) メインエベントでは、水先案内人として乗船していたウルティマ・ドラゴンが登場して盛り上がった。スペイン語がわからなくても何か叫んでいたらいいからスポーツは便利な交流手段だ。「夜のアカプルコ」(治安は見た目ほど良くないようで、武装警官が我々一行の行き帰りを警護していた) 今日は、最少人数での「交流ツアー」と最大人数の「観戦ツアー」という、好対照の二つのツアーを体験することができた。有意義なメキシコ体験だった。↓ランキングに参加しています。よかったらクリックをお願いします。にほんブログ村
2011/10/08
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貧困、暴力、犯罪、社会的不平等をどう解決するか 昼食で久し振りに八宝菜が出た。肉より野菜、特に赤ピーマンが目立つが、中華好きだから嬉しかった。船の食事で中華料理は割と多いが、一度に大量を調理するためか味はやや落ちる。「されど八宝菜」(向こう側、真ん中のお椀が八宝菜) 外食といえばよく中華料理を選ぶ自分だが、味わうというより腹を満たすという意味合いが多かったように思う。ところが、この船に乗って3ヶ月になろうとする今、あの店のラーメン、あの店の中華丼、あの店の中華ランチとか、その店ごとの味が強烈に思い出されるのである。 船内の食事がまずいわけではないし、時間になれば朝、昼、晩と3度の食事が用意されている。この船旅は3食付きの移動下宿に泊っているようなものだ。しかし、食べたいときに食べたいものを食べられないと思い始めると、急に欲求不満が高まっていくようだ。もし何人か集まり「帰国後何を一番食べたいか」というテーマで話をすると、話はとめどなく続きとどまることがないだろう。 さて明日は今回の船旅で最後の国(21ヶ国目)となるメキシコに寄港する。16時15分から、「メキシコの人間安全保障」という講演を聞く。講師はメキシコ人の水先案内人パブロ・ロモさん。 以下は、彼の話の概要である。 植民地支配はエネルギー資源と天然資源の支配であり、特に20世紀は石油が争奪の的となった。メキシコも産油国であるが、石油があることは「呪い(のろい)」のようなものであり、世界経済の中に組み込まれ、自国の国民の利益にはなっていない。「石油の存在は呪い」(彼は、世界秩序の安定の反対側にメキシコの無秩序や貧困があると言った) メキシコではこの4年半で5万人が内戦や暴力により死亡している。これは、アフガニスタンよりも多い。特に女性やジャーナリストの殺害が多い。軍事費が増加している反面、国民の貧困は改善されない。国民の46.2%が1日2ドル以下の暮らしをしている。 国家予算における教育費の割合は1.3%に過ぎない。学費の高いエリート養成のための私立学校と大衆的な公立学校がある。公立学校の先生たちは給料は安いが、貧しい子どもたちにとってはヒーロー的な存在である。 教育の問題は、学校にあるのではなくテレビにある。テレビの影響が大きくて暴力や性や男性主義が番組に反映され、国民性を大切にしない。ましてや、テレビ番組のヒーローは先住民ではない。 このように、負の側面を紹介したあとその解決策は容易ではないが、様々なことに同時に対応することが大切だと言われた。その上で、負の連鎖を断ち切り問題を解決していくためには大国だけでなく、メキシコ人自身にも責任があるとも話された。 メキシコが最後の訪問国になるが、これまで訪問した国の約3分の2の国が、治安・貧困・暴力・圧政・人権など、様々な問題を抱えている。世界遺産の隣りに、現に生きている人々の貧しい暮らしがあることもこの目でいっぱい見てきた。「グアテマラでの買い物」(ネットのハンモック、飾り物、絵はがき、ナイフ、Tシャツなど…) いつものように、グアテマラで買った物を並べてみた。2日間のグアテマラ寄港で約800人のこの船の船客たちはグアテマラにどれぐらい経済貢献できただろうか。 明日はメキシコのアカプルコに寄港する。どんな体験が待っているか楽しみである。
2011/10/07
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高級リゾートホテルで寝過ごして 今日はチェックアウトが11時30分だったのでうっかり寝過ごした。同室の青年A君は、早起きしてキャノピー体験に行っていた。自分はA君が帰ってきた10時ごろ起きたから当然朝食抜きである。 高級ホテルのありがたみをあまり体感しないままチェックアウトとなる。今日は、湖に浮かぶ小さな島を観光して午後の飛行機で帰船する。たいした観光はないが、ふだんの人々の暮らしぶりが見られてのんびりとしたいい時間を過ごした。 バスはホテルを出発して1時間ほどで昼食のレストランに着いた。昼食のメニューは、パンプキンスープにメインが白身魚のソテーの野菜添え。魚はあっさりとした味でうまかった。旅行会社が選んだホテルによって決まるのだろうが、グアテマラの料理は特によかった。1日目(昨日)の昼食がチキン、夕食がビーフステーキ、今日の昼食が魚とバランスも取れていた。 また、小さな事だが印象が良いのは、食事の時に水のほかに全員にフルーツジュースがついていたということだ。寄港地での楽しみは、観光・見聞・買物のほかに、食べ物、飲み物がある。船の食事も美味しいのだが、船内レストランとはまた違ったメニューを食べる楽しみは大きい。「小さなお店」 (ヤシの木陰でちょっとヒマそうだが、何を売っているのだろうか) 昼食後、バスで少し走って下車し、ガイドさんの案内でフローレス島を観光する。特に大きな名所はなく、町の中心の丘にある教会の広場で解散となる。辺りには小さな土産店があった。「トゥクトゥク」 (ちいさなお土産店の前を走りすぎていく) ここグアテマラでは三輪タクシーを多く見かける。スリランカのトゥクトゥクと同じだ。また庶民の交通手段としてはバイクが幅をきかせている。「広い道路にバイクが数台」 (バイクは125ccのヤマハやスズキが多いが、そのほとんど中国製のようだ) 今日のツアーはバス1台分で行動しているために、いつものようにバス何台分もの日本人が土産品店に殺到するという状況ではない。しかし、客が少ないとかえってお店に入りづらい。1枚10ドルというTシャツを8ドルに値切って買う。 帰りのフローレス空港では、他のツアー客と一緒になった。結局我々は、最後の飛行機となったため、空港でかなりの時間待たされた。「ただいま給油中」 (待ちに待った我々の乗機であるが、やっと到着したと思ったら給油が始まった) 待たされはしたものの、帰りも順調なフライトで17時50分には港に着いた。夕闇が迫ってきている波止場には船客をあてにした露店が並んでいる。今日の帰船リミットは19時となっている。あと1時間だから、売る方も買う方も時間との勝負である。 グアテマラには「ケツアル」という現地通貨があるのだが、これまでの中南米の国と同様に、ここグアテマラでも米ドルが普通に使える。物価がとても高かった北欧を経て来ているので、中南米の安さにはつい財布のひもがゆるみがちになる。 少し物色して、ネットタイプのマヤのハンモックなど数点を買った。東南アジアや南米で庭先にハンモックを下げている光景を見て、とても気持ちよさそうなのでつい買ってしまったのだ。「ローカル色豊かな露店」 (右手に買ったハンモック、お兄さんが拡げているのがこの店自慢の商品なのだろう) 帰ってからの付帯工事の方が高くつきそうである。下船時の荷物梱包の時にクッション材としても活用できるという言い訳を考えて買ってはみたが、さてどうなるか。↓ランキングに参加しています。よかったらクリックお願いします。にほんブログ村
2011/10/06
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マヤ文明最大の遺跡ティカルへ 今日明日と、1泊2日でティカル遺跡へのツアーにバス2台で参加する。ところが、一旦乗車した2号車の人たちが下車している。小型チャーター機の調子が悪くて出発が遅れるらしい。 我々を載せた1号車は予定通り15分ほどで軍用飛行場に着いた。片隅に小さな双発のプロペラ機が3機いた。ブルーに塗られた思ったよりこぎれいな機体にちょっと安心する。「小さな飛行機」 (座席は右側に2列左側に1列。バス1台のメンバーが2機に分乗した) 10時、エンジンが始動するとハラハラドキドキする間もなくふわりと離陸した。乱気流による揺れや気圧変化による耳の痛みはあったが、1時間15分後にフローレス空港に無事着陸した。 フローレス空港からは、またバスでティカル遺跡までの64Kmを、現地ガイドのベネディクトさんのガイドを聞きながら走る。道は舗装されているが、周囲は熱帯雨林で人家はあまり見えない。「今日のランチ」 (13時から遺跡の入口にあったレストランでランチ。南米ではチキンをよく食べた) 14時からティカル遺跡の見学がスタートする。ジャングルの中を歩いて約3時間半のコースである。いきなり入口のゲート付近から雨がぱらつきだした。1号神殿と2号神殿が向かい合うグランプラザ(大広場)の見学が終わるころには雨がひどくなり3時過ぎごろからは土砂降りとなった。 歩いていた歩道も見る間に浸水し、雨水は滝のように低いところへ流れていく。それは雨が降っているというより、地中から水がわき出しているかのようだった。しかし、30分ほど雨宿りをしていると小降りになり、やがて晴れ間が見えてきた。 ティカル遺跡は、紀元前後から16世紀にかけてメキシコ・ホンジュラス・グアテマラなどに発展したマヤ文明で最大の遺跡である。遺跡の中心部にはピラミッドや神殿のほか、天文観測施設などもたくさん残っている。石灰岩を使った石造の文化である。「謎の文様」 (すっかり苔におおわれているが精緻な文様が描かれた石積みもある) このティカル遺跡の最盛期はAD300年~900年ごろという。しかし、10世紀に遺棄され、17世紀末スペイン人が発見した。ジャングルに覆われてまだ未発掘の遺跡も多いそうだ。 幸いに雨が上がったので、一番高い4号神殿に登ることができた。雨上がりのジャングルの中に、1,2,3号神殿の上部が見える。その向こうにはもう青空がひろがっている。「4号神殿からの眺め」 (このジャングルにこのような途方もない大きな遺跡を作った人たちに思いをはせる)「至福のひととき」 (4号神殿の最上部の石段に腰掛けて、この何にも例えようのない光景を眺めていた) 陽が落ちて濡れた衣類が肌寒く感じられるようになった。ジャングルの中からいろんな動物の鳴き声が聞こえてくる。一番大きな声は吠え猿の声。ここティカルは文化遺産と自然遺産の複合遺産に指定されていて、遺跡周辺には手つかずの自然が残されている。「夕闇にたたずむ神殿」 (見学コースの最後では、足元も暗くなってジャングル探検ムードになってきた) 18時ごろバスに乗って遺跡を出た時、外はもう真っ暗になっていた。19時過ぎにホテルに到着してすぐ夕食をとる。今朝、飛行機の故障で遅れて出発し、ティカル遺跡は明日見学することになった2号車の人たちと一緒に夕食を食べる。 ホテルは、ペテンイツァ湖畔のホテルとしては最高級のホテルである。ヨルダンの死海のホテル以来久し振りにバスタブにつかる。 虫除け対策が効いたのか、マラリアを媒介する蚊には刺されずに済んだようだ。 ↓ランキングに参加しています。よかったらクリックをお願いします! にほんブログ村
2011/10/05
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「助けることをやめる」ことから 今朝は珍しく早く起きた。プールデッキではもうラジオ体操の準備をしている。考えてみればこの船の船客で1番の多い世代はアラセブンティだ。早起きの人が多いのは当たり前なのだ。「朝の海」(10月4日午前6時22分、すでに空は濃い青色に染まっていた)「今日の朝食」(ラジオ体操のあと、今日はレストランで和風の朝食をしっかり食べた) 10時からドミニカ共和国出身の水先案内人カルロス・ミランダさんの「接続可能な災害後の復興」という講演を聴く。彼は2010年1月のハイチ大地震後の復興作業に関わり、今年3月11日の東日本大震災後は石巻で活動している。その経験をもとに災害復興のあり方について話を進めた。 「自然の災害は止められないが、そのあと起こることは我々に責任がある。生き延びたということを他の人のために使うべきである」と言われた。官僚組織やトップダウン式の救援は現場のニーズとのずれが大きい。私たちが助けようとするとき全体像を見ることを怠り、助けることへの満足感を優先してしまいがちになる。彼は「助けることをやめる」ことが大事だと言った。 例えば、単に食事を提供することでなく、そこには家庭の主婦もいるし食堂を経営していた人もいるだろうから、フライパンや鍋を提供するという発想が大切だ。それによって、災害生存者が無力な難民にされるのを防ぐことができるという。「接続可能な復興を」(災害復興のあり方について新しい視点を提供してもらった) 災害で物的なインフラは破壊されるが、社会のインフラや人の能力は奪われていない。復興のために大切なことは、現地の人を巻き込むことが大切になるという。そのためには地域起業が大切で、起業には失敗することもあるが能力は確実に養われる。 地域を巻き込んで起業することで、生存者は尊厳と主体性を持って復興に取り組むようになる。地域の力を活かす復興は第2段階でという考えがあるが、復興第1段階からそれをやっていくことが大切だということも話してくれた。とても有意義な講演だった。 講演のあと船内の美容室に行く。7月29日にシンガポールの理容店で散髪して以来2ヶ月以上伸び放題だった髪をやっとカットできる。2週間以上前に電話してやっと今日の予約が取れていたのだ。船内の美容室は女性の美容師さん一人でこなしている。800人の乗客とスタッフの頭髪を一人で「切り盛り」するのだから大変な仕事だ。 予約時間の11時15分に行くと、女性の美容師さんが笑顔で迎えてくれた。店内には客2人分の椅子があり、華やかな彩りが美容室らしい雰囲気を出している。この古い船の中では一番きれいで清潔な場所ではないかと思った。美容師さんに、「これまでも乗船したのですか」と訊くと、今回が初の乗船で、毎回自分の店の従業員から希望者が乗船することになっていると言った。 彼女から「関東からですか?」と訊かれたがこんなことは初めてだった。他県の人と少し話したら「九州ですか」とすぐ言われる。彼女は「九州の人は何人もおられますが、関西の人はもっと多いです」と言う。そう、関西人は言葉を隠さない。彼らは堂々と大阪弁(関西弁)を話すからなあ。「散髪後、自分の船室で」(話をしながらざっくりとカットしてもらった。こんなに短いのは中学時代以来かもしれない) 16時15分から「グアテマラの希望」という講座を聞く。パナマからグアテマラの大学生たち12人がこの船に乗船している。その彼らがこの講座の講師役だった。「グアテマラの希望」(平和で平等な社会をどう構築するか、グアテマラの現状に照らしながら発表してくれた) 地図上でしか知らなかった国のことを、実際にその国に生まれ生きている人たちから話を聞く。これは、ピースボートの船旅ならではの良さである。 グアテマラの学生たちの話は実証的で国の将来についての関心も高く母国愛に満ちていた。レジャーランド化したと言われる日本の大学に学ぶ日本の大学生と比べると、彼らはずっと大人に見えた。 明日はそのグアテマラのプエルトケツアルに寄港する。
2011/10/04
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残るは3寄港地、2ヶ国 昨日のバルボア(パナマ)では上陸に通船(テンダーボート)を使用することになっていた、しかし、中心街から離れてはいたが、パナマ運河入口に建設されて間もない新しいコンテナ埠頭に着岸できたので、通船に乗る不便さが無くなりよかった。 しかし、バルボアで予定されていた給油は、着岸状態での給油は通過船舶による波の為に危険だという地元港湾当局の指示で、港の沖に錨泊しての給油作業となった。そして、給油終了後の午前3時頃に錨を上げて太平洋に出たという。「パナマでの買い物」(パナマにはバルボアという通貨があるが米ドルと等価でバルボア紙幣は発行していない) 今日は第9回目の航路説明会があった。最後の3つの寄港地、プエルトケツァル(グアテマラ)、アカプルコ(メキシコ)、マンサニージョ(〃)についてまとめて説明があった。昨夜の沖合給油の件は、船内放送でも連絡があったが、改めて今日の航路説明会でその経過について説明があった。 カリフォルニア海流に逆らって北上するため、次の寄港地プエルトケツァルへの入港時間が遅れるという。でも、海流のせいだけでなく夜間の給油作業で出港が遅れたこともあるだろう。 寄港地説明では、各寄港地の様子や各国の特色、名物料理、土産物品などについての話があった。3つの寄港地が終われば、あとは2週間以上の太平洋上の旅である。もう次の港への期待が無くなるのがもの淋しい。せめて横浜帰港時に富士山がきれいに見えることを期待するしかない。 航路説明会の最後に、メキシコの国技で国民的娯楽でもあるルチャ・リブレ(メキシコプロレス)のウルティマ・ドラゴンさんが登場した。子どもの頃からプロレスにはシラケていた自分だが、アカプルコでの観戦ツアーのチケットを買ったので、ウルティマ・ドラゴンさんの活躍に期待しよう。「ルチャ・リブレのヒーロー」(日本人レスラー、ウルティマ・ドラゴンさんの登場) 夕方、ブログを2日分アップする。今日は、管理者ページに入るときにこれまで不要だったログイン情報の入力を求められたので手間どった。インターネット使用料金が高いので、ネット上の日本のニュースを見る余裕はない。 3.11後の日本はどうなっているのか。避難生活の人々や避難地域の学校はどうなっているか。福島原発事故でこの夏の電力供給状況はどうだったのか。この船には詳しいニュースが入ってこない。 週に1回程度、ネットを印刷したニュースが船内に貼り出される。しかしそれも、某新聞系の情報だけしか掲示されない。ニュースに飢えた人々(ほとんどが中高年)は、8階のフリースペースで、寄港地で積み込まれた日本の新聞を食い入るように読んでいる。それも2週間も3週間の前の、新聞でなくてまさに古新聞をだ。 普段は見るともなしに見ているテレビニュースが、案外世の中の情勢把握に役立っていたのだと今更ながら思う。衛星放送の時代だというのに、この船では日本の衛星テレビはおろか、沿岸国のテレビ放送も見ることができないのだ。 日本に帰ったら浦島太郎状態だろうなあ。竜宮城ならぬ世界一周から帰った浦島太郎だ。だけど、「玉手箱」だけはやめてもらいたいものだ。「本日のGET(有料英会話)ボード」(そろそろスピーチフェスティバルの原稿作成に取り組まなくてはならない) 本日時差発生、日本との時差は16時間(16時間遅れ)となる。
2011/10/03
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パナマの印象はグリーン 午前7時、舷門を降りた我々を迎えたのはかなり強い雨だった。しかも、雷と稲光り付き。ツアーリーダーの話では、ボート遊覧を予定しているガツゥン湖付近は降っていないそうだ。しばらく走っていると、確かに雨は上がって天気はよくなってきた。 8時30分過ぎからガツゥン湖の東北部をボートで遊覧する。約1時間の遊覧で、ナマケモノと猿、それに何種類かの鳥を見ることができた。ワニは見ることが出来なかったし、キャッチフレーズの「パナマの豊富な自然を体験」とまではいかなかったが、水面や森の中に生き物の気配を探すという童心に戻ったひとときであった。「ガツゥン湖の動物たち」(ナマケモノ、チンパンジー、サルなど) 11時過ぎに大西洋とガツゥン湖を結ぶガツゥン閘門に到着した。昨日通過したこの3段式の閘門を今日は陸上から見る。我々が着いた時、ちょうどパナマ船籍のコンテナ船が通航していた。(建物のむこうがわに見えるのは満載されたコンテナ)(閘門の水が抜かれて、コンテナ船は大西洋側に降りていった)(閘門の上を歩いて渡っている係員。左側の高い水面がガツゥン湖側) 1時過ぎにいったん帰船し、船内レストランで昼食を食べる。その後、自然に結成された6名で旧市街地に出かけることにした。港のゲートの外にはっきり白タクとわかる車が数台止まっていた。旧市街地まで1人5ドルというので利用することにした。 パナマ運河の太平洋への出口にかかっているアメリカ橋を渡って旧市街地に向かう。途中に空き家の多くてスラム化した下町があった。「ここは危ないから歩いてはいけない」と白タクの運転手が親切に言ってくれる。言われなくても歩きたくないような雰囲気が漂っていた。 運転手が「1人12ドルでいろいろ案内するよ」というのを断って、カスコ・ビエボ(歴史地区)の独立広場前で降りる。その時、運転手に16時に迎えに来てくれるよう約束を取り付ける。 ピースボートのツアーの他にも多くの観光客が歩いている。パナマ湾を見わたす場所に出ると、湾の西側には超高層ビルが林立する新市街地が見える。しかし、この旧市街地は通りを一つはずれると人通りが少なくてさびれている。観光客を守るように戦闘服みたいな制服を着た警察官が巡回している。この国人々の貧富の差を感じた。「パナマ旧市街地」(スペイン統治時代の建物が残っている世界遺産地区) 独立広場には土産物品の屋台がたくさんあった。店の人たちは英語は苦手で身振り手振りで価格交渉する。でも、ちょっとはにかむシャイな店の人相手に強引な値引き交渉もためらわれる。それに、もともとの価格がとても安いのだ。1ドルからお釣りがきた安いビールが、渇いた喉をうるおしてくれた。 迎えの車が約束の時間より遅れ、帰船リミットが迫っていた。それを伝えると運転手は猛スピードですっ飛ばし一同肝を冷やす。最後は少しあわてたが、16時50分になんとか帰船できた。 パナマの印象は、密林の濃い木々の印象から「グリーン」である。
2011/10/02
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1日まるごとパナマ運河を満喫 今日10月1日はパナマ運河を通って、いよいよ太平洋側に出る。「今からパナマ運河に入ります」という船内放送が午前5時過ぎにあったが、その時はまだ外は暗かった。6時になり空が明るくなったので屋上デッキに出てみるとすでに多くの人が集まっている。 パナマ運河が完成したのは1914年。総延長は80Km、途中で海抜26mのガツン湖を利用するため、大西洋側と太平洋側にそれぞれ3つの閘門(こうもん)が設けられている。「ガトゥン閘門」 (午前6時半頃、オセアニック号は連続3段のガトゥン閘門を通過してガトゥン湖に出た) ガトゥン湖には数隻の船が錨泊していた。オセアニック号も錨を降ろして停泊する。ガトゥン湖から太平洋側に出るためにはクラベラカットと呼ばれる、掘削された細い水路を通過する必要がある。そこに進入するための順番待ちの待機のようだ。 朝食を済ませてデッキに上がると、船はガトゥン湖を通り抜けて狭いゲイラードカットに入っていた。ここはパナマ地峡の分水嶺を切り通した水路で、幅190~220m、長さは12kmほどある。「ゲイラードカットを航行」 (掘削した土砂の量はピラミッド3基分というが想像がつかない。現在も掘削が続けられている) 閘門に入ると水の注水(上昇するとき)や排水(下降するとき)のため船は停止する。船は機関を停止して両側から電気機関車で牽引される。 閘門式というパナマ運河の仕組みは知っていたが、驚いたのは注排水の早さだ。閘門への注排水は湖面の水位差を利用して行われる。降りる閘門では、見ていてすぐわかるほど船が下降していく。 排水された状態でも、喫水線下9mほどあるオセアニック号が航行できる。ドッグの深さ、つまり閘門の高さは相当なものである。 閘門部分は複線になっていて、自分たちの船はグラン・ベニスという大きな自動車運搬船と相前後して航行していた。隣の閘門に入ったこの船の動きを見ていると、自分たちのオセアニック号の動きもよくわかった。15時過ぎに、太平洋岸に降りるペドロミゲル閘門(1段)を通過した。そして、しばらくするとミラフローレス閘門(2段)に入った。「ミラフローレス閘門」 (この閘門を出ると太平洋の海面と同じ高さとなる。隣は平行して通過中の自動車運搬船) 現在パナマ運河を通過できる船の最大のサイズは、全長294メートル・全幅32.3メートル・喫水12メートル以下に制限されている。このサイズをパナマックスサイズというが、現在もっと大型の船舶の航行を可能にするために拡張工事が行われている。「どちらも観光客」 (客船から運河を観光する我々と、ミラフローレス閘門の展望台で運河を観光する人たち) パナマ運河の航行に要した時間は約10時間だった。パナマ運河が完成する前は、南アメリカの南端をまわる航路しかなかったのだから、海運の面での重要性は計り知れない。また、運河自体がパナマ共和国にとっては大切な観光資源なのだ。 この日は、普段は閉鎖される最上階のデッキもオープンされていた。カメラを手に写真撮影に忙しい人、双眼鏡を手にワニを探す人などで終日にぎわった。ワニを確実にこの目で見たという人はいないようだった。 夕方5時、太平洋を遠くに見る新しいコンテナ基地みたいなところに船は着岸した。周囲は商店もないようで、市街地からも離れているようだ。治安の問題があるからか、今日は下船できないと前もって連絡があっていた。 昨晩の夏祭りとパナマ運河通航というクライマックスの疲れからか、今日は早めに寝た人が多かったようだ。 ↓ランキングに参加しています。よかったらクリックをお願いします。にほんブログ村
2011/10/01
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去りゆく夏を惜しみつつ 朝のうちは太陽が顔を見せたが、午後から雲が広がってきた。カリブ海地域が今雨期にあることを、空の色と海の色が物語っている。 10時から、水先案内人ノルマ・ルシアさんの2回目の講演を聴く。13歳の頃から社会運動に関心を持ち始め、大学生の時から非合法の左翼ゲリラに加わりその委員にもなっていたという、彼女自身の過去から現在までが語られた。 偽名を使ってゲリラ活動をしていた頃は、ジャングルの中での訓練など、男性に混じってその小柄な身体で活動したという。しかし、熱帯のジャングルを破壊する活動に疑問を持つようになった。やがて、国民の中に入っていかなければ貧困など様々な問題は改善されないと思い、現実社会に復帰して、合法的で非暴力の活動に取り組み始めたそうだ。「ラテンアメリカの今とこれから」(現実社会に復帰すると、女性差別などの現状を知り女性問題に取り組むようになったという) 彼女の半生を通して、コロンビアが抱える課題が浮かび上がってきた。優しい表情のノルマさんであるが、その話しぶりから、内に秘めた心の深さや強さが感じられた。 この旅に出る前、南米に関する情報を求めて大きな書店にも行ってみた。そこでわかったのは、南米は日本人にとっては地理的に遠いだけでなく、精神的にも遠い存在だということだ。観光ガイドの本はあっても、社会問題などについての書籍は少なかった。 ノルマさんの話は、自分がいかに知らないかということを知る第一歩になった。 午後1時30分から、洋上夏祭り「ななよる祭」が開催された。大西洋上から若者を中心に準備をしてきた大きなイベントだ。プールデッキで開催された祭りのオープニングで、自分も地球をかたどったお神輿を担ぐ一員として参加した。「祭りガールズ」(若者たちのパワーと、シニアの知恵でつくりあげた手作りのお祭りである)「即席のウォーターボーイズ」(いつ練習していたのか、なかなかのパフォーマンスで盛り上げてくれた) 年齢に関わらず全員が参加できる種目として、血液型対抗ゲーム大会が行われた。多分、人数的には一番少ないだろうと思い、自分もAB型チームの一員として参加した。「血液型に分かれてゲーム」(最初のクイズで全勝したAB型チームは、次のジャスチャーゲームで苦戦した) 最後のゲームとして、ラムネ早飲み・かき氷早食い競争がアナウンスされた。チームに若い者がいなくて誰も名乗り出ないので、自分がかき氷に挑戦することになった。 ラムネの若い女性が苦戦したが、引き継いだ自分がかき氷で一気に挽回し、このゲームも1位となり、総合優勝の賞状はAB型が獲得した。 のどが乾いていたとはいえ、かき氷の早食いは結構きつかった。口で溶かそうとすると舌がしびれてきつい。舌に乗せずにまっすぐのどに流し込むのがコツだとやりながらわかった。ところが、途中からは喉もしびれ始め、眼から氷水が飛び出すくらい冷たかった。 午前の部の最後に全員で記念写真を撮った。そのあと、各会場毎に展示や屋台、ゲームなどが開かれた。夜の部でも地球お神輿かつぎに参加した。ここでは、お神輿の「地球」の中に隠れていた若者が、サザエさんの歌で飛び出して笑いをとった。 夜の部の洋上盆踊り大会では、多くの人が輪になって去りゆく9月を惜しんだ。
2011/09/30
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コロンビアの蒸し暑い1日 明け方、コロンビア第5の都市であるカルタヘナの港に着岸した。中南米はあまり治安状況が良くないので、すべての寄港地でツアーに参加することにしている。ここカルタヘナでは「カルタへナ旧市街と要塞観光」に申し込んでいた。 10時に下船して少し歩いて観光ボートに乗る。カリブ海の青さと比べると湾内の水は透明感に欠けるようだ。この国では下水道などのインフラの整備が遅れているのではないかと思われる。「南米大陸に初上陸」 (ここカルタヘナでは着岸しているオセアニック号を海側から見ることができた) 湾内を行く観光ボートの右手に高層ビル群が見える。これらはマンションなどの高級住宅地のようだ。途中で何回かスローダウンしてガイドからの説明が入り、約30分ほどで湾の入口にあるサン・フェルナンド要塞に着いた。 16世紀の中頃、スペインは、ここカルタヘナを中南米から収奪した金銀財宝の集散地と位置づけた。そのため、市街地を城壁で囲み要所に強固な要塞を建設した。石灰岩とレンガを使って作られたこの要塞は、砲眼や銃眼、深い堀なども備えている。「サン・フェルナンド要塞」 (菱形で実戦向けの構造ながら、内部にはアーチ構造の居住区などもあった) 帰りの観光ボート乗り場で物売りの男が来て、ブレスレットが3本で5ドルと言うので買った。立売りする物売りを見ると、なんだかアジア圏に戻ったような感じがした。ただ彼らにはエジプトで感じたしつこさがなかったので、かえって買ってみる気持ちになった。 バスに乗って少し走った大きなホテルのレストランで昼食となる。メインディッシュは白身魚のソテーで、柔らかくて味もよかった。パンは独特のふんわり感がよかった。ココナッツで炊きあげたご飯は甘みがあって魚料理にマッチしていた。ビールは3ドルという安さで好印象となった。「ホテルでランチ」 (メインディッシュとココナツライス) その食事の最中、窓の外は大粒の雨となっていた。熱帯地域特有のスコールだ。食事が終わって、美味しいコロンビアのコーヒーを飲む頃には小降りになっていた。ところが驚いた。ほんの1時間足らずの雨だったのに、ホテル前の道路は足のくるぶしが沈むほどに道路が冠水していたのだ。「スコールのあと」 (思わずカメラを構えるツアーメンバー。やはりインフラの整備が遅れているようだ) そのあとは、ガイドさんの案内で旧市街を歩いて見て回る。いくつかの広場や教会などを見る。道路に面した窓にバルコニーがあり、独特の景観を作り出している。狭い旧市街の道路を車もバイクも走っている。生活感に満ちた世界遺産地区だった。「小さなフルーツパーラー」 (フルーツよりも、カラフルな衣装を着ている店主のほうに目がいく) その後、バスで城壁の外を一回りして観光土産品店が並ぶ一角で買い物時間となる。ある店で、ブルーの糸のシンプルな刺繍模様がついた白い襟付きのシャツが目についた。そこで試着した上で日常船内生活用に1着買う。 買い物のあとは海に面した高台にあるサン・フェリペ要塞を見学した。この要塞は市街地を一望する高台にありとても眺めがよかった。 16時30分ごろ港に帰り着いた。蒸し暑い中での行動だったので、船室に戻ってすぐシャワーを浴び、着ていた衣類を全部洗濯する。 帰船リミットは22時だったので外出する余裕はあった。しかし、港から市街地まで距離があったし、日没後の行動は避けた方がよいと思ったので外出は中止した。 夕食は船内レストランで食べる。メニューはカツ丼。普段は飲まないビールをジョッキ(約7ドル相当!)で注文する。それほど、汗をかいた1日だったということだ。
2011/09/29
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まもなく最後の寄港地ラッシュ 今日は朝寝坊したので、忙しい1日いや半日となった。まず13時30分より英文法講座を聴く。今日も、関係代名詞や現在完了など懐かしい言葉が出てきた。 15時30分からは、水先案内人のノルマ・ルシアさんの「コロンビアってどんな国」を聴く。元ゲリラという経歴を持つノルマさんは、今は地域開発やジェンダー教育に関わっているという。「ノルマ・ルシアさんの講座」(今日は第1回とあってコロンビア入門といった話であった) コロンビアは面積114万平方kmで日本の3倍ほど、人口は4700万人で日本の4割ほど、国名はアメリカ大陸を発見したクリストファー・コロンブスに由来し、公用語はスペイン語である。 この前、ヘルシンキの町歩きをしていて出会ったコロンビア人女性とは、写真を撮り合い英語でちょっと分かり合えた。しかし、ノルウェーでのフィヨルド観光のフェリーで出会ったコロンビア人のツアー一行は異質だった。彼らはメスチーソの血を引いている人たちだと思えたが、公共をわきまえず自分たちだけで声高に話し、周囲にうち解けがたい雰囲気をかもし出していた。 ノルマさんの話では、コロンビアでは最低水準以下の生活をしている貧困層が存在する一方で、一部のエリート階級が広い土地を所有しているという。あのときのフィヨルドツアーの一行は、そういう富裕層階級に属する人たちだったのだろうか。 自分にとってコロンビアは、貧困・麻薬・犯罪・誘拐などから連想される負のイメージが強い。ノルマさんの話でも、50年代から続く国内の混乱や治安悪化などが話題の中心となった。 1980年代の後半にいくつかの武装組織が社会復帰したが、麻薬組織や左翼ゲリラ、右翼の民兵などの間で抗争が続いている。今でも殺人や誘拐が多発する犯罪大国であるのは変わりない。特に、国内最大の産業ともいわれる麻薬組織の存在が社会不安の大きな要素となっているという。 今後のコロンビアに注目したい。とりあえず、明日(9月29日)はコロンビアに入国する。 16時50分から、30日の夏祭りの神輿(みこし)担ぎの練習に出る。人づてに聞き、なんとなく御輿をかつぐことになったのだ。本番に向けて、実際の神輿を担いでコース確認などをする。 18時30分から「愛すべき本当のアメリカ」というイベントに出席する。船内新聞の案内に「知れば知るほど魅力的! アメリカの本当の面白さ、美しさ、良さをたっぷり話します」とあった。 このイベントに関心をもったのは、この船の中でのアメリカ人の立場はあまり居心地良くないように思えるからである。ピースボートの催しや講座などには、アメリカ合衆国の政策(政治)やアメリカ的な経営(資本)を批判するようなテーマが多い。下世話な話だが、なぜ最近ピースボートはアメリカ合衆国に寄港しないのだろうかと素朴に考える時、「やはり反米的(というより反米政権的)」だからかなと思ったりする。まあ、最近はほとんど政治色はなくなってはいるのだが…。 それで自分は、今日はどのような話になるかと期待していた。GETの先生などアメリカ人5人がシンポジウム形式で話をした。今日は、自分の出身地や家庭教育、宗教などについての自己紹介といった内容に終わった。政治的なことを語るには、設定された時間が多分足りなかったのだろう。そしてその内容に、自分はなにか物足りなかった。「愛すべきアメリカ?」(本当に「愛すべきアメリカ」だと思えるか、次回に期待しよう) しかし、今日の午後のどの会場にもやはり若者の姿が大変少ない。若者のエネルギーは、夏祭りの準備に大半は吸収されているのだろう。いろんな企画に燃えて、頑張っているけど、何か大切なものを見逃していないだろうか。イベントに追われ、知的好奇心が摩耗していないか心配だ。「カリブ海でおでん!」(真ん中上に「おでん」!。自分の知った範囲ではメニューへの不満はほとんど聞かれない) 昨日夜サントドミンゴ(ドミニカ共和国)を出港し、明日の朝にはカルタヘナ(コロンビア)に入港する。そして、最終寄港地のマンサーニージョ(メキシコ)まで2週間で6都市に寄港する。 この船旅で最後となる寄港地ラッシュを迎えようとしている。 ↓ランキングに参加しています。よかったらクリックをお願いします。にほんブログ村
2011/09/28
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ドミニカ共和国で野球の交流試合 8時に5階の舷門を降りて12日ぶりに陸地を踏みしめる。久し振りに感じるこの熱気は、5週間前のアテネ以来だ。ただ、ここサントドミンゴはただ暑いだけでなく湿度も高いようだ。 「本場・ドミニカ共和国で野球交流」というツアーへの参加者はバス1台で39名だった。市街地では車の渋滞があり、9時半頃に試合会場に着いた。 即席のピースボートチームは、試合会場に着いたら早速ノックやピッチングの練習を始めた。その様子を余裕で見ている相手チームは、グリーンのユニホームで体格もすこぶるよろしい。年代は中学生ぐらいから30歳ぐらいのまでのようで、どうやら地元の野球愛好家チームのようだ。「試合前の気合いかけ」 (狭い船のスポーツデッキでキャッチボールをしたくらいで、おそろいのユニホームもない) 10時に試合が始まった。1回表、我がチームは2塁にランナーをおき、打席には3番バッターが入る。彼の打球は何とレフトへのライナー性の場外ホームランとなり2点を先制した。 その後も追加点を加え、6対4と2点リードで最終回の相手の攻撃。1死満塁でサヨナラ負けのピンチとなったが、サイドスローの我がエースは後続打者を凡打と三振に打ち取って試合終了。「劇的な勝利」 (ピースボートの交流試合史上初(と聞いたが)となる勝利をあげた) 我がチームには高校野球経験者が何人かいたが、正直勝てるとは思っていなかった。勝敗はともかく、音楽やスポーツは言葉の要らない交流手段だ。両チームのいいプレーには拍手をして、応援団のわれわれ中高年もしっかり楽しめた。2試合目の親善試合は、時間の都合で途中終了となる。 その後、球場付設のクラブハウスで相手チームと一緒に食事をする。英語を少し話せる人がいて身振り手振りで交流する。でも、南米ではスペイン語が話せないと充分な意思疎通は難しい。 13時30分頃から旧市街観光に移る。サントドミンゴは、1492年にクリストファー・コロンブスが到達して以来、スペインによるカリブ海地域の植民地支配の中心地として栄えた。「コロンブス像の前で」 (旧市街には教会などのほか、代々のコロンブス家の邸宅なども残されている) スペイン人は中南米の至るところにスペイン風の街を作り、教会を建て、スペイン語地名をつけて、先住民を支配していった。南米にある世界遺産の多くは、虐殺と略奪と黒人奴隷の過酷な労働の歴史を秘めている。先住民や黒人の人たちにとっては負の世界遺産なのだ。 観光を終えると、市内から4,50分走った隣の市にある「広島東洋カープ野球アカデミー」に向かう。門を入ると建物のデザインが赤と白になっていてすでにそこはカープの世界だった。 クラブハウスで選手とコーチたち十数名が待っていた。インターンシップで来ているという女子大生が案内役だった。選手たちは身体が大きく運動能力も高そうで独特のオーラがあった。彼らにとってあこがれの日本からのお客さんということで、笑顔で写真撮影などに応じてくれた。「金の卵たち」 (将来日本で活躍する選手もいるだろう。すでに来季は2名が広島に行く予定になっている) カープアカデミーを出て、バスはこの国の英雄であるサミー・ソーサ選手を記念する広場に向かった。狭い路地や広場で野球をしている子どもたちの姿にこの国の野球熱の高さがうかがえた。「サミー・ソーサの像」 (MLBで609本のホームランを打ったサミー・ソーサだが、その像はちっぽけで気合い抜けした) 帰りは左にカリブ海のリゾート地などを見ながらバスは走った。市街地に入ると、立派な(といっても日本の一般的な戸建て程度だが)住宅のほとんどが鉄の柵で囲まれていた。1人あたりGDPは日本の6分の1。多くの人が貧しいこの国の中にもまた貧富の格差が存在するようだ。 今日の夕食のテーブルは野球交流試合の話題で盛り上がっていた。↓ランキングに参加しています。よかったらクリックをお願いします。にほんブログ村
2011/09/27
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この船旅も残りあと1ヶ月 カレンダーの上では今日を含めて1ヶ月と1日だが、太平洋上の日付変更線で1日が消滅する。だから、長かったこの旅もあと1ヶ月ということになる。「大西洋からカリブ海へ」(船内の季節は晩秋から夏に逆行したようだ。これは船旅でしか味わえない感覚だ) 10時15分から、明日のツアー「本場ドミニカ共和国で野球交流」分科会に出席する。定員一杯の約40名が参加して実施されるこのツアーでは、現地の野球チームと交流試合をするということで、数日前から9階のスポーツデッキでキャッチボールやノックなどの練習が行われている。 この日はユニホームやチーム名を決めた。ユニホームはないのでできるだけ手持ちの黒のTャツなど黒を着て、それをチームカラーとすることになった。チーム名では「○○ジャパン」という意見も出たが、この船のメンバーは日本人ばかりではないので「ジャパン」は使わないほうがいいというスタッフの声もありこれは採用されなかった。 ピースボートの船客の国籍は多くの国にまたがり、船籍もパナマなので船に日章旗が掲げられることもない。この船に乗っている間は「地球市民」という感覚をもつことも必要だろう。「北緯20度42分」(正午にはすでにハワイより南に位置し、今夕にはカリブ海に入る~船内掲示の海図より) 午後、GETのLessonのあとでレセプションに行き、マンサーニージョのツアーを、「マンサーニージョ観光」から「コリマ州の自然保護活動を学ぶ」に変更した。ウミガメやワニ保護施設を訪問するほか、マングローブの海岸をボートで遊覧するコースである。 各寄港地でのオプショナルツアーで、自分は最初は多くの都市で普通の観光ツアーに申し込んでいた。しかし途中から半数以上をキャンセルし、自由行動にしたり体験交流型のツアーに変更した。明日のサントドミンゴも、当初の観光ツアーから「野球交流」に変更したものである。 旅行といえば普通は名所・旧跡を訪ねる「観光旅行」をさすのが一般的である。しかし、このピースボートの乗船者は、普通の旅でできない見聞や体験・交流を求めている人が多いようだ。 16時30分から英語文法講座に出る。前置詞、他動詞、現在完了などを今日も要領よく教えてもらった。ほとんど中学校で習ったことなのに、いざというときなぜ活用できないのだろう。「英文法講座」(出席者の90%が60代以降の人たち、いったい若者たちは何をしているのだろう。) 実は、若者たちの多くは9月30日に実施される「夏祭り(ななよる祭)」の準備で忙しいようだ。今頃なぜ夏祭りと思う人もいるだろう。しかし、北欧の初秋の寒さからカリブ海の暑さの中にやってきた我々にとっては「夏ふたたび」なのである。今日の正午の気温は33度にもなった。「これぞ日没」(明日はサントドミンゴ寄港、好天気のもとでいい交流試合ができることを期待したい) 先日はミュージックフェスティバル、そして、今度は夏祭り。若者を中心に多くの人が企画に携わり、その中で多くの出会いがある。このたびは新しい発見と出会いの旅なのだ。↓ランキングに参加しています。よかったらクリックをお願いします!にほんブログ村
2011/09/26
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未知への不安と期待 これまでで一番長い無寄港航海も、残すところあと1日余りになった。ベルゲン(ノルウェー)を出港してから10日目、今日(9月25日)中には北回帰線を越えてさらに南下してゆく。 今日は航路説明会があり、まず23日の転覆船について説明があった。先日のキャプテンの話と同じで、今年2月に行方不明になっていた船だが人は確認できず周囲にサメが泳いでいたという。 この転覆船の確認のため1時間半停泊したので、27日のサントドミンゴへの入港が約1時間遅れるという。また、ハリケーン「オフェリア」が西インド諸島に接近中だが、1日早くその進路を横切ってサントドミンゴに入港するという。「オフェリア」の影響か、波が少し高くなっている。「航路説明会」(今回で8回目。プロジェクターで映される地図でこれからの航路を確認する) 続いて、これまでのヨーロッパ地域と違う点について説明があった。まず、治安が悪いので安全対策に十分注意して欲しいということだった。ポイントは、日没後の行動は控える、単独行動はしない、不要な貴金属などを携帯しない、マリファナやコカインに手を出さない、の4点だった。 衛生面では、生水は飲まず必ずミネラルウオーターを飲むこと。トイレ事情が悪いので、トイレットペーパーを持参し、使用後のペーパーは流さずにゴミ箱に入れることなど…。 言葉の面では、英語はほとんど通じないそうだ。数の数え方も英語では通じないとなると買い物も不便だし、まして値引き交渉などとても無理だろう。自分は、スペイン語会話集を持ってきたが uno, dos, tres, cuatro, cinco (1,2,3,4,5)でさえ、いまだに覚えていない。 通貨は米ドルが使えるが、偽札が横行しているため小さな店では高額紙幣(100ドル札、50ドル札)は受け取りを断られる場合があるという。加えて、クレジットカードはほとんど使えないという。話を聞いているうちに、未踏の地である中南米への不安とともに新たな興味も湧いてきた。「洋上キャッチボール」(サントドミンゴ(ドミニカ共和国)で地元チームと野球交流するメンバーが練習している) 今日はフォーマルディナーの日。自分は一枚きりの襟付きシャツにノーネクタイ、それに一着きりのサマージャケット。いつでもこれが自分のフォーマルである。 今日のフォーマルディナーは、焼物、蒸物、煮物、椀物、栗おこわという正統派の和食だった。そして甘味(デザート)は何と「鯛焼き」とバニラアイスクリーム。「和食のフォーマルディナー」(鯛焼きはミニサイズの「金魚焼き」だった。「小さくても鯛」焼き、ということか) 英語メニューでは「Fish shaped Pancake(魚のかたちをしたパンケーキ)」となっていた。「今夜のメニュー」(レストランの入り口に掲示してある。毎日写しているが、暗くて写りが悪いのが難点である) 船内レストランのメニューは、ベルゲン出港以来ずっと内容が良くなっている。これは衆目の一致するところで、今まであまりなかった洋食も増えている。料理長が変ったからとか、苦情が殺到してメニューが良くなったとか、もっぱらの噂である。 その中で、多くが口にしているのが、人気・知名度抜群の田部井淳子さんが乗っているのでこの間のメニューが良くなっているという話である。田部井さんはピースボートの有力な支援者であるため、この噂が信憑性をもって語られている。 それなら、彼女が下船するサントドミンゴ以降のメニューが心配になるのだが。
2011/09/25
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多様な自己表現で自己実現・・・ 今日はミュージックフェステイバル「音っちゃお♪~音でつながる笑顔~」があった。13時30分からの1部から23時からの3部まで、32組の200人が出演する大音楽会である。 毎晩8階のスターライトバーでは船専属バンドの歌と演奏が行われている。しかし、いつも聴いている人はまばらである。 それなのに、今日のミュージックフェスティバルでは、この船の乗客の4人に1人が出演する。それほどまでに、聴くよりも、歌っちゃう・演奏しちゃう、つまり、音っちゃお♪(劣っちゃお、ではない)という人が多いというわけだ。「音でつながる笑顔」 (北欧での曇天がウソのような青空、多様な自己表現で自己実現を模索) そう言えば、夕食の時に出会う人の多くは話好きである。初めて同席し、当然名前も何も知らない同士だけど、そんなことは関係なく多くの人がよく語る。そして語るだけでなく、ダンス、絵、囲碁、麻雀、卓球、太極拳などなど多様な方法で自己表現をしている。「夜の部も盛況」(音楽もまた自己表現の一つだ。ギターなどの楽器を持って乗船した人も多いようだ) 15時から、クルーズディレクターである田村美和子さんの「ラ米との絆」を聞く。ピースボートでは時々耳慣れない言葉が使われる。「ラ米」とは「ラテンアメリカ」のこと。田村さんは、今回のクルーズでは寄港しないが、ベネズエラとの交流のことを中心に話をされた。 現在の大統領チャベス氏は1999年に当選し、憲法を改正し医療や教育の無料化などいろんな分野でミシオン(ミッション)を設定した。憲法は300条以上あり、その条文がスーパーの商品の袋に書いてあるほど国民に身近なものになっている。そして、田村さんが乗ったタクシーの運転手は憲法を勉強中で、手元に憲法を持っていたという。 学校では、点数による一方的な評価ではなく生徒の自己評価を中心にした評価をしている。教科書はキューバの教科書を使うなど、キューバとの友好関係を重視している。また、30を超える先住民の言語も大事にしているという。「ラ米についての話」(ベネズエラという国についての情報をほとんど持たない自分にとって新鮮ではあった) ただ、最近読んだ本には、ベネズエラの首都カラカスについて次のように書いてあった。 「旅人の間のみならず、コロンビア人、ベネズエラ人の間でもカラカスの評判はすこぶる悪い。タクシーには、絶対乗ってはいけないと。変なところに連れていかれ、お金を巻き上げられたり、あるいは、高い金を請求してきたりと、何しろたちが悪いらしい。 しかし、一番悪いのは警察だと言う。確かに南米の警察は全体的に面倒くさいことが多い。その権力を笠に着て、お金を巻き上げようとする「職権濫用型かつあげ」が横行している。その類の被害の話は、旅人の間で後を絶たない。聞くところによると、カラカスは今、南米一番、危険とされている街らしい」 (「世界よ踊れ」 ナオト・インティラミ~幻灯舎文庫 2011年) これらは、著者(最近2ndアルバム「ADVENTURE」がヒットしているミュージシャン)が、ベネズエラを旅行中に人から聞いた話として書いてある。(2004年時点) 田村さんの話では、タクシー運転手は憲法を勉強している。ナオト・インティラムの本では、タクシー運転手は金を巻き上げる。 情報が極端すぎるが、ひょっとしてどちらも真実かもしれない。 何事にも、いろんな見方や考え方があるということを前提に学んでいくことだ。
2011/09/24
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いつの間にか気温27度、水温26度 5日前の9月18日正午の水温と気温は13度だったのに、今日23日正午時点では、気温は27度、水温は26度と掲示されている。位置は北緯35度18分、西経48度40分。東経135度(日本の標準子午線)+西経48度=183度。もう確かに地球半周を過ぎている。 今日は秋分の日、「暑さ寒さも彼岸まで」というが、大西洋上のこの船でもそうだ。「暑さ寒さも大西洋にあり」だ。ただ、これから日本は寒さに向かうが、我々は暑さの中に入っていく。「明るい陽射しの中へ」 (季節が夏に戻っていくかのようなまぶしい陽射しが、長袖の季節の終わりを告げていた) 今日は、GETランゲッジオリンピックがあった。有料GETの生徒をいくつかのグループに分け、英語とスペイン語(スペイン語コース)の言葉のゲームで得点を競った。 与えられたアルファベットでいろんな単語を作ったり、3つの単語を使って文章を作るゲームなどに盛り上がる。最終的に、我がblackチームは総合3位、応援合戦では優勝という好成績を収め、昼食時間にはみんなでプールデッキで打ち上げをした。「blackチームの記念写真」 (老いも若きも、応援合戦のblack bear のポーズで・・・) 15時から「日本人なら富士山に登ろう」というテーマで田部井淳子さんの最終講演があった。「最終回は富士山のはなし」 (今、富士山には5月から8月までの間に、約30万人が登っているという) 登山者が増えた今は、1日目は8合目で泊り、翌朝の4時頃山小屋を出て9合目付近でご来光を仰ぐのがいいそうだ。頂上からだと人が多くて、ゆっくりご来光を仰げないという。 自分が富士山に登ったのは約30年前だった。富士宮口5合目に車を置き、その日の夕方に頂上に登って山小屋に泊まり翌朝のご来光を仰いだ。思えばそのころはゆったりしていた。 田部井さんは福島県出身ということもあり、3.11(東日本大震災)のあと、避難所暮らしの人と山に行く企画を、月に1回続けておられるそうだ。10月も、この船を降りたあと(サントドミンゴで下船の予定)帰国してすぐにこの企画を実施するという。 自主企画「目からうろこの英作文」とGET担当の伊豆さんの「英語文法3」にも出た。最近のGETのLessonでは文法的な話が少ないので、今日の英作文と文法の話は、実際に活用できる英文のかたちで頭に入った(ような気がする)。まだ自在に表現するところにはなかなか到達できないけど。 今日、GETランゲッジオリンピックが始まるころオセアニック号が停止した。左舷側に小さなボートが船腹を見せて浮かんでいる。オセアニック号から救命ボートが出て状況を確認していた。「転覆ボート発見!」 (転覆したボートに人の痕跡はなかったようで、救命ボートは戻りオセアニック号は航行を再開した) ある人があとでキャプテンに尋ねたら、「船名や船体番号を関係機関に通報した。このあたりはサメがいるからサメに食べられたかもしれない」と話していたという。何とも物騒な話である。 今日の航路の近くにはアゾレス諸島(ポルトガル自治領)がある。カツオ、マグロ漁やブドウ栽培が盛んな島々だ。漁に出ていて遭難した船かも知れない。 今日24時、1時間の時差発生。日本との時差は12時間。本当に日本の真裏だ。↓ランキングに参加しています。よかったらクリックをお願いします。にほんブログ村
2011/09/23
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未だ航路(みち)半ば、空と海の世界 あれは東シナ海かインド洋でのことだったか、気持ちよく晴れたある日、風に吹かれながらオープンデッキで景色を眺めていたら、空と海の間には確かに空気と水があるということを感じた。 空と海の間に、空気は風として流れ、水は雲となって浮かんでいる。そして、空気と水があって、地球上の生命がある。地球一周の旅は、地球サイズで物事を見て考える機会を与えてくれた。 だけど今は、その空気が湿気(しけ)ている。だから、空も海も、かつて見たような、絵に描いたような空でも海でもない。空は曇り、風は強く、波は高い。だから水平線も定かではない。ここ数日はオープンデッキに出ることもおっくうになる。 だけど今は、これもひとつの地球の風景をして受け止めよう。 今日(9月22日)の正午現在、船の位置はこの前の寄港地ベルゲンと次の寄港地サントドミンゴとのちょうど中間点にある。サントドミンゴ着岸予定は9月27日の午前6時。先日給油のためにベルゲンに1日停泊した遅れを取り戻すため、船足を速めて航海しているようだ。「本日正午の船の位置」(毎日正午過ぎ、8階に掲示される。この右には船の位置をマークした海図が貼ってある) 緯度は北緯40度で、日本で言えばまだ秋田市付近だが、いつの間にか外気温は22度、水温は24度になっている。経度は西経40度だから、もう少しで日本のちょうど反対側になろうとしている。そう言えば、今夜24時に1時間の時差が発生する。これで日本との時差は-11時間となる。 今日は、GETのLessonのあと、この航海で初めて船医(ships doctor)さんの所に行った。グアテマラでのオプショナルツアーで服用が望ましいといわれたマラリアの予防薬と、普段自分が服用している薬との関係を尋ねに行ったのだ。 医務室はちょっとわかりにくい6階にあった。6階はレストランがあるため一般船室は少ないようだ。医務室は女性の看護士さんと女性の医師の2人態勢のようだ。他に患者さんがいなかったようで、受付をするとすぐに女医さんが対応してくれた。 先生の回答は、同時服用は何ら問題はないということだった。そこで、その足でレセプションに行って薬を購入する。週1回1錠で5週間分、1錠400円だから5錠分で2,000円となる。ツアー1週間前の29日にまず1錠目をのむ。のみ忘れがないようにしなければいけない。「夜の大西洋をゆく」(デジカメWG-1 GPS の表示は、今晩22時15分の時点で北緯38度03分、西経42度49分) 緯度、経度にこだわるようだが、島影も船影も見えない大海の中では、緯度と経度が自分の位置を知らせてくれる唯一のものだ。星も月も見えない夜空の下ではなおさらだ。 どうやら、日本と真反対側の西経45度線を今晩中に通過するようだ。地球一周の旅は横浜出港から66日目にして、経度のうえでは地球半周の位置まで来たことになる。 ↓ランキングに参加しています。よかったらクリックをお願いします。にほんブログ村
2011/09/22
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意外とシンプルだったブリッジ(船橋) 長く続く揺れは、徐々に身体に効いてくるボディブローのようだ。船が揺れると出歩きたくないので、運動不足となって食欲不振につながる。 今日も、昨日に続いて午前10時から田部井淳子さんの講演があった。今日は「世界の山からこんにちは」と題して世界の山々のエピソードを話された。「世界の山からこんにちは」(特に、南極の最高峰に国際合同隊として登頂されたときの話は興味深かった) 南極に行くと決めた時から「南極貯金」を始められたことや、チリのプンタアレナスから乗った飛行機が1956年製というすごい古さだったことなど。苦労の末に登った南極の最高峰は素晴らしい風景だったという。話を聞いていてもその美しさが目に浮かぶようであった。 さて、GETのLessonは今日から3学期。授業開始は13時20分に変った。授業内容はあまり変化は無く、before / afterを使った文など、簡単な言い方の練習が中心である。「Phrases of the day」(英語とスペイン語の簡単な言い回しが、8階フリースペースに毎日掲示してある) 15時30分から事前に申し込んでいたブリッジ見学ツアーに参加する。ここ数日、1日5,6回のグループに分けて、見学会が実施されている。今日の15時30分からのグループは、約15名ほどが集合場所である5階レセプション前に集まった。 案内係の女性に先導され11階のオープンデッキに出る。そして、そこから階段を登って12階にあるブリッジまでの通路を歩く。今日は特に向かい風が強く、通路を歩くのは結構大変だった。 ブリッジの中のいろんな機器について説明があった。操船が自動化されているためか、波が高く時化ていたが、2,3名ほどいたクルーには特に緊迫感がある様子はなかった。「狭くてシンプル」 (ここが800名の乗客の命を預かるブリッジ(船橋)。手前はレーダーのディスプレイ) 横揺れ防止装置(フィンスタビライザー)の操作盤もあったが、全速で航行している時には使用できないということで停止状態だった。ほぼ中央部にレーダーのディスプレイがあり、GPSによる刻々と変っていく本船の位置情報が表示されていた。15時42分現在のオセアニック号の位置は、北緯44度02分、西経34度02分であった。「説明を聞く参加者」(船齢は古いが、地球を一周する大型客船だけあって操船は基本的に自動化されている) ノルウェーでの北緯61度から現在位置の北緯44度まで、アジアでいうと、カムチャツカ半島の付け根あたりから北海道の知床半島あたりまで南下してきたことになる。 正面中央に船長の座る高い椅子があった。船長の帽子をかぶってその椅子に座り、順番に写真撮影。最後に、強風の中をウイングと呼ばれる見張り台に出て、そこでも写真を撮った。 その後、船室にいると「風が強くなってきたので4階船室の窓を閉める」という放送があった。ガラス窓の開閉は元々出来ないが、内部からカバーをかけるのだろうか。7階の自分の船室にも波しぶきがかかるほどだから、4階の窓には直接に波があたっていることは想像できるけど。 今日、ブリッジツアーの前に5階レセプションに集まったが、その一角に忘れ物・落とし物の展示コーナーがあった。何気なく見ていたら、何と自分のミニ三脚があるではないか。部屋の中で無くしたとばかり思って部屋中を探しまくっていたのにここに届けてあったとは。 多分8階のフリースペースかどこかでソファーに座ったとき、ジーンズのポケットから飛び出していたのだろう。誰かが見つけて届けてくれていたのだろう。ありがたい。↓ランキングに参加しています。よかったらクリックお願いします。にほんブログ村
2011/09/21
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地理も歴史も見る立場が変れば 昨日(18日)の夕食は若い女性5人と相席だった。最初は彼女らで話が弾んでいたので黙って食べていた。北欧で寄港地が続いたので、各都市での観光などが話題になっていた。「北欧航路図」 (寄港地ラッシュの北欧を過ぎで大西洋へ、当分はずっと海ばかりの日々となる) 食事をしているうちに、ちょっとしたことから隣の若い女性との会話になった。彼女は韓国のサムスン系列の造船会社に勤めていたが、退職してこのクルーズに参加したという。会社では通訳の仕事などをしていたという。出身県はどちらですかと訊くと、これが何と韓国の人だった。顔かたちや上手な話し方から、てっきり日本人だと思っていた。 日本語は学校で学んで、その後日本に1年間留学したという。日本語は韓国語と似ているので英語よりも学びやすいそうだ。それから、しばらく自分と彼女との間で歴史や地理の話になった。「現在地情報」 (海図の横には、次の寄港地(サントドミンゴ)や船の位置(経度と緯度)などが表示されている) 彼女は、韓国では日本海のことを「東海」、朝鮮戦争は「韓国戦争」、日本の終戦記念日は「独立記念日」と呼んでいると言う。自分も聞いてはいたが、直接韓国人から聞いたのは初めてである。 伊藤博文は日本の近代化に貢献した偉人であるが、韓国ではその伊藤博文を殺した安重根が英雄であるという。また、竹島(韓国では独島)問題については、韓国が領有していたという歴史的史料は日本統治時代に日本に持ち出された。だから、韓国の領有権に正当性があるという。 これらの話は、2次大戦後の反日教育を受けた韓国人の平均的な歴史認識だろう。個々の件について、日本人としての見解を話したかったが時間は限られていた。日本では、過去の植民地支配への反省を踏まえ、世界平和に貢献する人間の育成を目指した教育をしていることなどを伝えた。 彼女は、「(日本人と違って)中国や韓国の人は自分の意見を強く主張しがちですからね」ということも言い添えた。日本語を学び日本留学を経験し大企業に勤めた彼女は知識人階層だろう。このピースボートでの経験を通じて、日本や日本人に対するイメージが好転していくことを期待したい。 彼女の話では、この船には韓国人は在日の人も含めて数名しか乗っていないという。しかし、韓国ではあと5年後ぐらいに、日本で言う団塊の世代が退職を迎えるそうで、その頃には韓国でもクルーズ人口も増えるでしょうと話した。 なぜ、団塊世代が日本と5,6年ずれているか。日本では第2次大戦後の1945年以降がベビーブームだが、韓国では1950年から53年にかけて韓国戦争(朝鮮戦争)があり、それ以降がベビーブームとなったのだ。なるほど、そんなことは、実際にその国の人と話してみないと気づかないことだ。 食事中と食後の短い時間であったが、韓国人鄭銀貞(チョン・ウンジュン)さんとの貴重な交流であった。後で知ったが、チョンさんは、ピースボートでCC(コミュニケーションコーディネーター)と呼ぶ、通訳の仕事で乗船していたのだった。道理で日本語(多分英語も)がうまいはずだ。「地理的にも近い日本と韓国」 (この船旅用に作った名刺の裏には、外国の人に住所を説明するため地図を印刷している) 今朝、10階プールデッキで餅つきが行われていた。何で餅つきかというと、「敬老の日記念餅つき大会」である。そう、今日19日は敬老の日なのだ。臼(うす)が二つ用意され、昔ながらの杵(きね)を使った餅つきだ。餅をつく人、餅を丸める人、老若男女にぎやかに楽しそうにやっている。 海が時化て船の揺れが大きいため、中には「カツーン」と杵で臼をつく人もいて笑いが起こる。自分も「昔とった杵柄」を発揮しようと思ったが、とったのは写真だけだった。 餅を食べたあと、10時15分からの「ティカル遺跡ツアー」参加者の説明会に出る。ここでの最重要事項はマラリア対策である。蚊に刺されないことが一番重要だが、90%以上の予防効果がある薬も船内で販売されるそうだ。 今日は、波の高さも一層高くなり、単なる揺れだけでなく船底からドンと突き上げるような振動も感じる。震度でいえば2から3ぐらいだろうか。 順応したのか船酔いにはならないが、揺れが大きいので出歩くのがちょっとおっくうになる。
2011/09/19
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雄大な大自然の造形の中を… 朝7時を過ぎたころ徐々に船窓が明るくなってきた。寝不足の目をこすりながらカメラを持って11階のサンデッキに上がる。もう多くの人がデッキに上がっている。 昨夜は雲のほとんどない星空だったせいか冷え込みがきつい。あまりにも寒いのでコートを取りに船室に戻る。この旅で一番の冷え込み、ベルゲンで買った温度計は6度を示している。 7時30分ごろ、船足は微速前進となり、正面に一昨日(15日)訪れたフロム村が見えてきた。崖の高い部分が陽光に照らされて輝いているが、フィヨルドの中までは陽は射さない。そして高い崖の向こうに月がこうこうと照っている。「崖の上の月」(月の光が、この肌寒い空気をいっそう冷ややかにしているようだ) 今日は特別に開放されている屋上デッキの先頭にずっと立っていた。8時前には船足はほとんど停まった。多くの乗客の関心は、この、排水量38,772t、全長228.4mのオセアニック号がどのようにして方向転換するかということであった。ここにはタグボートもいない。「正面にフロム村」(フロム村の前にある入り江は、オセアニック号の全長の2倍くらいの幅しかないように見える) もう30分以上もトップデッキにいるので手がかじかんできた。寒い中を、みな、どのようにして方向転換するのかを見届けないと朝食に行けないという思いで頑張っている。 やがて少し左に転舵して行足がとまったところで、次に徐々に右に回転し始めた。船首のスクリューが回転しているかはわからない。少なくとも船首から波紋は出ていなかった。 こうして船体が90度回転してほぼ横向きになるまでに30分ほどかかった。船は停止した位置でくるりと180度方向転換するようである。それを見届けて、一同安心したように朝食に向かう。「白く輝く氷河の名残」(ノルウェーの5大フィヨルドのうち、1年中観光できるのはここソグネフィヨルドだけという) 北側にトンネルの多い立派な道路があり、時たま走っている車を見かける。地形は海面からすぐにほぼ垂直に近い岸壁になっていて平地は少ない。サマーハウスや企業の保養所などが多いようだ。「わずかな平地に人家」(限られた平地には人の手が加えられ畑や牧草地になっている) 午後の時間帯になって船は西に航行しているので、北側の風景が写真的にはいい。南側の集落も斜光を受けるときには、いい風景があるので一眼レフカメラに70-200mmズームレンズで撮影する。「鏡のような海面をゆく」(長さ200km、幅平均5km、最大深度1,300m、崖の高さ1000m、ノルウェー最大のフィヨルド) いくら数字を並べても、この自然の造形の大きさは伝えきれない。また、今日は何度もシャッターを切ったが、自分の納得のいく写真はあまりなかった。最先端技術の結晶であるMade in Japanの一眼デジカメでも、この悠久の大自然から受けた感動を十分に伝えることはできない。 15時頃、オセアニック号はフィヨルドを抜けて北海に出た。さあ、大西洋横断の始まりだ。 ↓ランキングに参加しています。よかったらクリックをお願いします。にほんブログ村
2011/09/17
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給油のため1日足止め 昨夜ベルゲンの出港時刻が迫った22時過ぎにまたも船内が停電した。以前の停電は数分で回復したが、今回は20分以上は続いただろう。停電と同時に水もお湯も出なくなった。自分はシャワーは終わっていたが、シャワー中の人は大変困っただろう。 パソコンの電源を入れて、その画面の明かりで行動した。懐中電灯は船旅の必需品だった。停電から少し間があって「復旧作業をしています」という船内放送はあったが、前回のことがあるから、みな冷静に過ごしていたのだろう。 やがて復旧して蛍光灯は通常通り点灯した。しかし、白熱灯はときおり暗くなったりしていた。しばらくは電圧が不安定な状態が続いていたようだ。 再三電気が停まるということは、この船全体に対する信頼感を落とす重大なミスである。遭難などの緊急事態の時、電気系統が機能を失うとパニックに輪をかけることになる。2度と停電が起こらないように、どのような対策をとっているかという説明の一つも欲しいものである。「ノルウェーのお土産」(昨日、ベルゲンやフロム村で買ったもの。カップ麺Mr.Leeは韓国製) さて、昨夜はもうひとつ新たな事態が発生した。港予定時刻の23時を過ぎても船が動き出す気配がない。なぜだろうと思っていたら、やがて次のような船内放送があった。 「海上の時化のため給油船の到着が遅れ、大西洋を横断するだけの給油が済んでいないので今晩は出港できません。現在着岸している埠頭は空けなければいけないので、近くの埠頭に移動して明日給油作業をする予定です」という内容であった。「船内から眺める街並み」(給油埠頭周辺には、去りゆく夏を惜しむかのようにプレジャーボートが走っていた) そういうわけで、本来なら今日16日はソグネフィヨルドを観光しているはずだが、まだベルゲンに停泊している。一旦出入国しているので再度の入国(下船)はできないとのことで、指をくわえて船上から街並みを眺めるだけの1日となった。 そのような中、退屈さを紛らわすようにスポーツデッキで4×4のバスケットボール大会が開かれていた。船内生活に変化を与えるために、前もってスタッフが計画していたものだ。「北緯60度のバスケットボール」(穏やかな陽光を浴びて、プレーヤーも観客も楽しんでいた) 給油船は、オセアニック号の右舷につけていた。太くて黒いパイプが給油船から伸びている。確かに、大西洋を越える12日間には大量の重油を必要とするだろう。我々が寄港地で観光を楽しんでいる間に、常にこうして水や食料、燃料などの大事な補給が行われていたのだ「大西洋横断に備えて給油」(給油は夕方までかかり、ベルゲン港を出港したのは結局18時30分を過ぎた頃だった) 明朝7時ごろ、ソグネフィヨルドの最奥部フロム村に達するということである。フィヨルドの陽の出を見たいが、果たしてその時刻に目覚めることができるだろうか。 にほんブログ村
2011/09/16
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バス、フェリー、列車と乗り継いで 7時30分に出発した4台のバスは、トンネルの多いU字谷添いの道を登った。峠を越えたら普通車でも離合が難しそうな狭くて急な下り坂となった。今日は、ノルウェーの代表的景観フィヨルドを巡るツアーに参加した。「U字谷の重なる風景」(細くて急な坂道を下りはじめると、フィヨルドの典型的なU字型の谷が見えてきた) 10時過ぎにグドヴァンゲンという町に着いた。ここは全長204Kmに及ぶソグネフィヨルドの一つの分岐であるネーロイフィヨルドの先端に位置している。ここからフェリーに乗り換える。 約20Kmほどのネーロイフィヨルドは、2005年にユネスコの自然遺産に指定された。海抜0mのフェリー上からU字谷の両岸の標高1,000mを越える切り立った崖を見上げる。緑の木々に覆われた部分もあれば、石灰岩が白くむき出しになっている部分もある。一部には白い雪が残っている。もうすぐ初雪の時期だから、白い部分は1年中融けない万年雪で氷河の名残だろう。「悠久なる時の造形」(気の遠くなるような長い年月をかけて氷河は流れ、このような深い谷が造られた) ネーロイフィヨルドを抜けて、もう一つの分岐アウルランフィヨルドに向かう。この分岐の最奥部にフロムという人口500人ほどの小さな村がある。2時間ほどでフェリーはフロム村に着いた。そこの土産品店で絵葉書と切手を買い、絵葉書を書いて投函した。 ノルウェーは、北欧で物価が一番高いように感じる。絵葉書1枚が9 NOK(約130円)、日本向けの切手が1枚14 NOK(約200円)もする。フロムの土産物店では、まず絵葉書の値段を知ったところで、ピースボートの皆さんの財布のひもはきゅっと締まったようだ。 今度はフロム鉄道に乗り換えた。フロム鉄道は、標高2mのフロムから標高866mのミュールダールまでの20Kmを約1時間で結ぶ。20年の歳月をかけ1940年に完成して1944年には電化された。「フロム鉄道」(車窓からは素晴らしい景観が続いたが、一番の見どころでジョース滝では一時停車した)「豪快なジョース滝」(フロム鉄道の電力は落差93mの、このジョース滝にある水力発電所でまかなわれている) ミュルダール駅で首都オスロとベルゲンを結ぶベルゲン鉄道に乗り換える。ベルゲンに近づくにつれて人家も農地も増えてきた。山間のわずかな平地も農地として手が行き届いていて、羊や乳牛が飼われている。美しい景色は、昔見たスイスのアルプスと似ている。 ツアーのバスは17時40分ごろ港に着いた。充実した10時間のツアーだった。一旦帰船して船内のレストランで夕食を済ませ、19時から再び数名で街歩きをすることになった。 おしゃれな日用品店で気に入ったカップを見つけた。198 NOKの代金を100ドル札で支払い、350 NOKほどの釣り銭をもらう。この釣り銭をこの街歩きの費用とする。 今日もフロイエン山にケーブルカーで登ることになる。ここで、自分が買ったチケットを機械が読みとりきれずブザーが鳴る。駅員は自分のチケットを見て、一言「これは昨日のチケットだ」。「間違えた!」(財布の中に入れていた昨日のチケットを読みとり機にかざしていた) 同行のKさんからきっちりとチェックされ、「几帳面でしっかり者」という自分の評判を一気に落としてしまう結果になった。昨日のチケットをしっかりコレクションしていた几帳面さが裏目に出てしまった失敗である。 最後に魚市場の前にあるレストランでビールを飲む。赤外線のヒーターが照明を兼ねていて、屋外の席でも温かく感じた。肌寒くてもビール、ここのビールは74 NOK(約1,070円)だった。 帰船リミットまで30分ほど余裕をもった21時30分ごろ船に戻った。バス、フェリー、列車と異なった視点から、フィヨルドの魅力を満喫した1日だった。 にほんブログ村
2011/09/15
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ベルゲンで夜の町歩き 船は北海のノルウェー沿岸を北上し、今日(9/14)の19時にはベルゲンに着く予定だった。寄港日前日の夕方に着くのは8月16日のポートサイド以来で、みんなそれを楽しみにしていた。何が楽しみかというと、夕方から街に出て食事やちょっとした買い物ができるという楽しみである。 ところが夕方になって、「天候悪化のために運行予定が遅れ、ベルゲン港着岸は21時ごろになります」という船内放送があった。この放送で外出をやめた人も多いようだ。自分も知り合い数名と出かける予定にしていたが、夜も遅いし天気も悪そうだから外出中止を決めた。 ベルゲン港は外洋から100Kmほど入った、氷河によって削られてできた深い湾の奥にある。内海に入ると、大きな白波が立っていた海はうそのように穏やかになり、湖のように静かになった。そして、まだ明るさの残る20時過ぎ、2つの大きな吊り橋の下をくぐって港内へ進入した。「ベルゲン入港」 (灯が輝き出したベルゲンの街並み、左の山頂付近の灯がフロイセン山の展望台) 9時30分頃、上陸許可の放送があった。一旦は上陸を思いとどまったが、Aさんから「出ましょうか」という電話があり、2人で出かけることにした。Aさんはフルマラソンが趣味で2時間40分台の記録を持っている。今は、60歳台で3時間を切ることが目標で、船上でも日々ジョギングをしている。そんなAさんの歩きはとても速い。遅れないようにと自分も早足でついていく。 10分ほど歩いて世界遺産のブリュッゲン地区に着いた。間口は狭いが奥行きのある木造家屋が建ち並んでいる。その一階部分には土産品店や日用品や家具などの店のほか居酒屋もあるようだ。「夜のブリュッゲン地区」 (建物の隙間の細い通路にも、しっとりと落ち着いた感じの居酒屋などがある) ともあれ、23時まで運行しているというフロイエン山のケーブルカー乗り場をめざす。フロイエン山は標高320m、ベルゲンの街を一望できる観光名所である。 22時過ぎにケーブルカー乗り場に着いた。ところがチケット売り場の自動発券機は現地通貨(クローネNOK)しか使えない。困っていたら同じピースボートの若者たちが来て、下のATMでカードを使って現地通貨が引き出せたと言う。行ってみたらAさんのカードは使えたが、なぜか自分のカードは銀行が提携していないというようなメッセージが出て使えなかった。 ノルウェーはユーロに加盟していない。仕方ないので、Aさんに往復料金70 NOKを貸してもらい、22時30分発のケーブルカーに乗る。最大傾度26度、全長844mのケーブルカーは滑るように急傾斜の坂を登っていく。約6分で頂上駅に着き、駅を出た所が市内を一望する展望台だった。「ベルゲンの夜景」 (目に入る全ての地域が落ち着いて輝いている。右には我々のオセアニック号が見えていた) ノルウェー第2の都市といっても、人口はたった25万人だから小さな町かと思っていたら、いやいやとても立派な夜景である。船旅の仲間でこの夜景を今日見ることが出来たのは、我々のほかにほんの数名だけだった。しばらく景色を眺めて下り最終便23時00分発に乗って町に下った。 ブリュッケン地区に戻り、居酒屋でビールを飲む。北欧の物価の高さには慣れたが、1杯が71NOK、ということは約1,060円である。味は○○ドライ、○○絞り、○○モルツの3つの中では、○○モルツに一番近いけど、それよりさらにコクが深いという感じだった。「土産物店のショーウインドウ」 (午前0時をまわったこの時間、営業はしてなかったが、北欧を感じさせる土産物が並んでいた) 居酒屋を出て街並みを散策した。結局、船に帰ったのは午前1時過ぎだった。今日は帰船リミットは決められていなかったから、夜のベルゲンをもっと遅くまで楽しんだ人もいただろう。 明日(9/15)は早朝出発のフィヨルドツアーに申し込んでいる。朝寝坊は絶対できない。
2011/09/14
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バルト海から北海に抜ける 11時半過ぎに起床。このところ、寄港日でない日はドアに「DO NOT DISTURB」の札をかけ朝寝を決め込むことが多い。朝寝ができる日は睡眠がある程度充足している日でもある。 起きるとさすがに空腹を感じる。手っ取り早く着替えて、10階のラウンジに出かけてブランチタイムとする。やや多めの量を取り、海を見ながらゆっくり食べる。食べているうちにまず食道と胃袋が目覚め、やがてコーヒーを飲む頃には目も頭も目覚めてくる。 その後、部屋に戻って昼寝をしようと思ったが、天気も小康状態となってきたので午後1時ごろ2台のコンパクトデジカメを持って11階の屋上デッキに出てみる。 WG-1 GPS は、通常はGPS機能を使い船の現在位置を確認するために使う。時には自分撮りのためインターバルタイマー機能を使う。もう一つのLX 5はいわゆるハイエンドコンデジで、画質がいい。実質的には今回の旅のメインカメラで、寄港地ではムービー撮影することも多い。 一眼レフのEOS 7Dの出番は少ない。これまでの寄港地のうち3,4箇所ぐらいしか持ち出していない。ちょっと重すぎるし、観光地などの人混みではひったくりなどの被害も怖い。LX 5の画質がいいこともあり、EOS 7Dは船上から70-200mmレンズで風景撮影をする時に使うくらいである。 さて、 一週間前に訪れたデンマークはユトランド半島と大小500ちかい島々から成り立っている。今日、オセアニック号は、デンマークで一番大きな島であるシェラン島(首都コペンハーゲンのある島)と2番目のフェン島を結ぶグレートベルト橋の下を再び通過する。 通過予定時刻の1時過ぎには屋上デッキには多くの人が出てきた。「グレートベルト橋」(北緯55度19分53秒、東経11度2分29秒の地点、通過時刻は午後1時20分) 「北極圏の夏を走る」(笹目二朗 えい出版社 2004年)には次のように書いてある。 「その橋はハシゴを横にしたような平坦なものだが、中央部で曲がっており大型船の横断を考慮して、その部分だけカマボコ状に丸く高くなっている。通行料は250クローネ(4750円)だから、当時のフェリーと同じ、しかし所要時間はのんびり海を見ながら走っても20分たらず(距離にして30Km)と早いことは早い」 この本によれば、車で20分もかかる橋だということだが、我々に見えたのはその中央部の吊り橋の部分だけだったのだ。 今日は5回目のフォーマルディナーの日である。今日は、偶然にも自分のテーブルは若い女性ばっかりだった。両手に花2輪ずつという贅沢さ!。「気楽なフォーマルディナー」(フォーマルと言っても、こんなカジュアルな服装でOKというのかピースボートの気楽さ) 今日のメニューは、前菜がパテドカンパーニョ、スープはボルシチ、メインディッシュはアトランティックサーモンのオーブン焼き、デザートはグリークヨーグルトミックスベリーソースだった。もちろんパンと紅茶・コーヒーつきである。「今日のメニュー」(左上は前菜(パテドカンパーニョ)、右はメイン(サーモンのオーブン焼き)、左下がエクストラ(ニョッキ)) エキストラメニューとしてニョッキブルーチーズソース(ニョッキは団子のチーズあえ?)が用意されていた。また、普通はドリンクは有料だが、今日は全員にグラスワインがサービスされた。 自分はパンを一個食べたあとライスを持ってきてもらった。サーモンの塩味がちょっとききすぎていていたのでご飯が食べたくなったのだ。 今日は午後からかなり揺れが激しくなってきた。昼は青空も見えたが、雲の量の方が多かった。その雲も低くて、雨になりそうな雲である。 明日のベルゲン入港時の天候が心配だ。
2011/09/13
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雨のち晴れのち曇のち晴れ 昨日の夕方、町歩きを終えて船にたどりついたら数人の顔見知りの人から、映画「かもめ食堂」(2006年公開の日本映画)のロケ地となったレストランに行こうと声をかけられた。心の中は少し動いたが、すでにバッグの中はさっきコンビニで買ったハンバーガーでふくらんでいた。「昨日の夕食」(ほとんどバーガー類を食べない自分には、美味いのか不味いのかわからなかった) 今日(9/12)の午前中はかなり強く雨が降っていた。船窓から見える水平線もぼんやりと霞んでいる。その雨の中を、オセアニック号は音もなく、いつものように一定の速度で波を蹴立てている。船首に近い自分の船室には機関の音も届かない。 これまでの航海ではほとんど雨に出会わなかった。だから今日のような雨の中の航海もまた気分が変っていいものだ。「ヘルシンキでの買い物」(もともと買い物には興味がないうえ、北欧は物価が高いのでこまごまとしたものを買っただけ) 午後になるとは晴れ間が大きく広がってきた。と思っていたら、夕方からは曇ってきて風が強くなった。そして、日没時刻頃になると、今度はまた晴れ間が広がってきてきれいな夕焼けを見ることができた。「午後8時05分の西の空」(北緯56度22分11秒、東経17度16分10秒。バルト海南部、ゴットランド島の南)「午後8時05分の東の空」(満月が水平線から空にむかって少しづつのぼっていく) 昨日のヘルシンキで一日中好天気に恵まれたのがウソみたいに、今日は天候の変化が激しい1日だった。こんな変りやすい天気がこの地域の特色なのだ。 この付近は、5日前の9月7日に航行した海域である。このあと、デンマークの海域を通り抜けて、北欧最後の寄港地であるベルゲン(ノルウェー)に向かって北上する。 今日(9/12)は第5回目となる社会科の会を開催した。船内の掲示板にも日時と場所を掲示したが、今日20時30分に洋上居酒屋「波へい」に集まったのは常連の6名だった。 この社会科の仲間は、たまに寄港地で一緒に食事や街歩きをしたりしている。もう互いに気心もわかってきて、話はいろんな方面に盛り上がった。今回もこれまでの寄港地でのそれぞれの体験や感想を中心に語り合った。
2011/09/12
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去りゆく夏を惜しみつつ 昨日(9/10)のサンクトペテルブルグに続いて、2日連続となる寄港日である。今日はヘルシンキ市内の一人歩きである。上陸許可の放送から1時間ほど過ぎた11時40分に下船した。コートはなくても、寒冷地仕様の下着と登山用の厚手のシャツだけで汗ばむほどのいい天気である。 大きな道路に出ると明るい陽射しと穏やかな海が広がっていた。道路の脇にあった船揚場で海の水に触れてみると予想に反してあまり冷たくはなかった。「バルト海にタッチ」(ちょっとなめてみたが、話に聞いていたように塩分はかなり少ないようだ) しばらく歩いていたらバス停があった。料金2.5ユーロを運転手に払うと1時間乗り放題のチケットをくれた。10分ほど走ったと思ったら、バスはヘルシンキ港前の中心広場に着いた。 広場の一角に湾内遊覧船の乗り場があった。制服の美人のお姉さんの笑顔につられて1時間半コースの遊覧船に乗ることにした。料金は20ユーロ、カードでOKというのでこの旅で初めてクレジットカードを使った。端末から打ち出されたチケットと領収証を受け取り船上の人となる。 乗ってはみたものの、周りは全く知らない異国の観光客ばかりだ。「いつも船の上で生活しているのに、上陸してまで何で船に乗るの」と、自分でもおかしくなった。ただ、船に乗っている間は何も考える必要がない。ぼんやりと景色を眺めつつ、さすがにちょっと涼しすぎる海風に吹かれる。「ヘルシンキ港内遊覧」(ひょっとすると、この町の車の数とボートの数は同じくらいではないだろうかとも思う) 小さな入り江や湾にはボートやヨットが係留してある。観光船の廻りを大きさやかたちの違ういろんな船が走っている。昔自分が持っていたヤマハの「パスポート」という小型ボートともすれ違った。相当古いのにまだ頑張っている。いいものを長く大事に使う、これが北欧スタイルなのだ。 船を降りて市場を通って、遊覧船からもよく見えたヘルシンキ大聖堂に行った。青い空に緑色が良く映えるこの大聖堂はヘルシンキのランドマークにもなっているようだ。「ヘルシンキ大聖堂」(ヘルシンキはフィンランドの首都で人口61万、清潔で落ち着いた町だ) 大聖堂を見た後、また歩いてヘルシンキ中央駅に行ってみた。大きな扉を押し開けて駅に入ると、ガラスケースに食べ物を並べているレストランがあったのでそこで昼食とする。「中央駅とレストランでの食事」(ジャガイモと肉団子のスープ、黒パン、生ハム・イチゴジャム。これで16.5ユーロ) 好きな料理をとってトレーに乗せてレジに運ぶ。こんなシステムだとメニューとの格闘も必要なくてありがたい。レジのお姉さんは笑顔で「Thank you」と言ってくれた。北欧ではこのような笑顔に出会うことが多かった。南欧の事務的でむっつりした冷たさと違って、北欧の人々にはなにか親しみを感じる。本当ならラテン系の方が陽気で明るいはずなのに、何でだろう。 その後、ガイドブックにも載っているテンペリアウキオ教会に行く。これまで見てきたどの教会とも違ったユニークな造りで、岩をくりぬいた空間にドーム型の天井が乗っている。「テンペリアウキオ教会」(天井を支える100本の梁の間はガラス張りで、漏れくる太陽光線が岩肌を照らしている) 4時半過ぎに教会を出て、次の目的地として国立現代美術館を選んだ。ところが、チケットを買おうとすると「すみません、あと3分しかないので入館できません」と受付の女性が言う。ガイドブックには6時までと書いてあったはずなのだが…。 コペンハーゲンに続いてここヘルシンキでも、北欧デザインを観る機会を失った。仕方ないので急いでショップに行き、ムーミンのカレンダーなどを買う。 帰り道のハーバーの広場で十数台ほどのバイクが駐車しているのを見た。北欧に来てからさずがにバイクを見ることは少なくなった。しかし、バイクシーズンが限られている北欧でバイクに乗るというガッツが素晴らしい。「陽光を浴びて」(多くの人が去りゆく夏を惜しむかのように、傾きかけた日射しの中にくつろいでいた) 今日のヘルシンキでは、休日を楽しむ人々の姿が印象的だった。ヘルシンキの空と海はどこまでも晴れていた。自分の心と体も超快晴。
2011/09/11
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世界の至宝が目の前を通り過ぎて… サンクトペテルブルグは「西欧への窓」と呼ばれ、18世紀初頭のロシア帝国ピョートル大帝の頃から西欧化の最先端を走ってきた。8時50分、生まれて初めてロシアの大地に降り立った。港のターミナルでは厳しい入国審査があった。入国管理官は事務的にしかし確実に顔とパスポートの写真を照合する。身長を測る目安なのか、仕切りのガラスに横線と数字が書き込まれていた。 サンクトペテルブルグでは自由行動は許されず、ツアーへの参加が下船の条件だった。自分の選択は「サンクトペテルブルグ観光とエルミタージュ美術館」というツアーだった。 バスに乗ると、現地ガイドの流暢な日本語と笑顔に迎えられた。背の高い中年の女性で、名前はナターシャという。「ロシアの女の子の3分の1はナターシャという名前ですよ。うふふ」と自己紹介したが、確かにロシアの小説などで聞き覚えがある名前ではある。口をすぼめたフランス語っぽい話し方で、「うふふ」という一人笑いが話の合間に入るところに愛嬌がある。「車窓からの市街」(ヨーロッパ風の都会だが人通りは少ない。向こうの建物はエルミタージュ美術館の一部) まず「血の上の大聖堂」を見学した。1881年に暗殺されたアレクサンドル2世を弔うため、1883年に建設が始められたが、完成したのはロシア革命前夜ニコライ2世時代の1907年だった。この大聖堂の名は、この地がアレクサンドル2世の血が流された場所であることを示している。「血の上の大聖堂」(他のサンクトペテルブルグの建築と異なり、古いロシア様式で美しい装飾が目立っている) この壮麗な建築物も、10年後のロシア革命とそれに続くソ連社会主義政権により大きなダメージを受けた。一時はジャガイモなど野菜の倉庫として使用されていたという。「内部の装飾」(現在は復元されて観光名所となっている~モザイク画で飾られた天井の一部) 11時、エルミタージュ美術館に着いた。団体ツアーの強みで、列を作っている個人観光客を尻目に優先入場である。各自にレシーバーが渡され、ナターシャの説明を聞きながらめぼしい作品を駆け足で見て回る。膨大な収蔵品で世界3大美術館の1つと言われるこの美術館を2時間半で見てまわる。これはまさしく暴挙としか言いようがない。しかし時間がないから仕方がないのだ。 ナターシャは、館内の混雑状況をみて臨機応変にコースを変え、効率的に自分たちを導いた。そして、膨大な作品の中から見るべきものをきちんと選択し、丁寧かつ的確にガイドしてくれた。 ダヴィンチ、ミケランジェロ、ラファエロなどのルネサンス期の作品から、モネ、セザンヌなどの印象派、マチス、ピカソなどの近現代絵画に至るまで、たくさんの作家の作品を観た。写真撮影もノーフラッシュならOKだったので、一行は忙しく撮影しまくっていた。「世界の至宝を見学」(素晴らしい説明だったが、情報量が多く自分の記憶容量(メモリー)をはるかに越えていた) これだけの美術品があるのは、帝政ロシア時代の皇族・貴族や富豪たちが西欧の画家たちのパトロンとなっていたからだ。そのため多くの名作がロシアに流れてきた。このことは、ロシアが伝統的に持っていた西欧に対するあこがれを物語っている。 このエルミタージュ美術館にはロシア人の作品はない。自国作家の作品は他の美術館にあると聞いたが、文学や音楽では世界的な作家を出したが、美術では傑出した人が出ていない。その理由としては、国土が北方に位置し風景に明度や彩度に乏しかったということが考えられる。「美術館前の広場」(広場では音楽イベントがあっていて多くの若者でにぎわっていた) 遅めの昼食は超豪華ホテルで食べる。ボルシチとストロガノフというロシア料理がとても美味しかった。こんなことは自由行動では望めない。レストランを出ると突然の雨になった。ナターシャの「傘はお忘れなくお持ち下さい。うふふ」という言葉を軽く聞き流していた。 自由に街歩きができなかった不満はあるが、とても充実した1日だった。ツアーに参加すると、自由行動につきもののレストランのメニューとの格闘やトイレ探しの苦労などはない。 そういう意味では、エルミタージュ美術館超高速ツアーも自分にとっては休養日だった。
2011/09/10
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大国ロシアの行方 前夜寝つきが遅かったので起きたのはなんと昼の12時、と思ったら実は午後1時だった。前夜、時計を1時間進める時差が発生していたのだ。今、船は東に向かっている。この西回り航路では珍しいプラスの時差である。そのおかげで、あやうく昼食も食いはぐれるところだった。 午後2時45分から、水先案内人アンドレさんの「ロシアにおける民族紛争」という話を聞きに行く。ソ連崩壊以降のロシア各地での民族紛争について、その解決のために市民団体の立場で関わってきた自らの体験に基づいて話をされた。「ロシアの抱える課題」(1番収容力のあるブロードウェイシアターで開催されたが、参加者の多くはシニア世代だ) 1970年代~80年代にソ連は、計画経済の行き詰まり、原油値下がりによる財政悪化、共産主義への不信感など、多くの問題を抱えていた。それなのに、多くの解決すべき課題はモスクワオリンピック開催にすり替えられてしまった。そして、指導者は、高齢と病気で次々と交代した。(1984年のブレジネフ死去のあとを継いだアンドロポフは2年、その次のチェルネンコは1年で死去) 1985年、54歳の若さで党書記長に就任したゴルバチョフは、グラスノスチ(情報公開)とペレストロイカ(改革)を掲げた。1990年には複数政党制の容認や大統領制への移行などの憲法改正を行い、1990年の大統領選挙で初代大統領に就任した。 ゴルバチョフは、外交面では東西両陣営の緊張緩和を図り、冷戦体制の終結に道を開いた。しかし、経済政策の失敗でソ連の最後の蓄えを失ってしまったという。そして、東西の緊張緩和は東欧のソ連に対する信頼を失墜させ、東欧諸国の民主化が進んだ。 東欧の民主化の象徴は1989年のベルリンの壁の崩壊である。この1年後の1990年、自分はベルリンを訪問する機会があった。東西ドイツ統一のちょうど一週間後だった。旧東ベルリン地区の荒廃を見て、新生ドイツの抱えた問題の大きさを体感したものである。 しかし、この日のアンドレさんの話を聞いて、東側陣営の盟主であった旧ソ連(ロシア連邦)が抱えた問題は、新生ドイツのそれを大きく上回るものだったことが改めて分った。そして、ロシアは現在もチェチェン問題をはじめとして多くの問題を抱えている。「ロシア問題について質疑応答」(休憩後に場所を変えて行われ、北方領土問題についても質問が出た) アンドレさんは「北方領土は国際法上からロシアの領有権は明白」と話していた。彼のような民主的な人もそう考えるのかと思った。しかしそのあとで、「これはロシア政府の主張で、自分個人としては領土問題が両国の未来に希望が持てるかたちで解決できることを願っている」と付け加えた。それを聞いて、自分もまったく同感だと思った。 領土問題が解決して平和条約が結ばれたら、日ソ両国は経済面で大きなパートナーとなれる可能性がある。日本海という内海を隔てて向き合っているわけだから、その地理的な好条件は、ヨーロッパやアメリカなどの比ではない。「フィンランド湾の落日」(バルト海最奥部フィンランド湾、ときおり貨物船やフェリーを見かける) ところで、この質疑応答の場にいた60名ほどのうち、20代はたった一人だった。若者は同時に行われていた「宝探し」に集まっていたのだろうか。別にそれもいいと思うが、この質疑応答の場にも大きな宝があったはずなのにと、少し残念に思った。 今年はソ連解体から20周年。大局的見地から領土問題が解決の方向に向かうことを望みたい。しかし、めまぐるしく首相が変る今の日本の政治状況では何も期待できないだろう。 この船旅の途中で、管内閣から野田内閣に変ったという風の便り(船内の掲示板)あり。日本に帰国する頃には果たして誰が総理をしているのだろうか。
2011/09/09
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ストックホルム、最終盤に待っていた大ピンチ ニーネスハムン港は水深が浅いためオセアニック号は沖合に停泊し、船客は通船(テンダーボート)で上陸する。いつもは5階の舷門を使うが、今回は4階の舷門から通船に乗り込む。オセアニック号を海面から眺めると、救命ボートで退船する時はこんな情景だろうなと思った。 通船から送迎バスに乗り換え、約45分でストックホルムの王立オペラ劇場前に降り立った。歩いて繁華街のセルゲル広場に行く。食べ物の屋台が多くて、特に直径1mほどの大鍋のパエリアが目と鼻をひいた。大鍋でつくったパエリアを切り取って売っている。とても美味しそうだった。 広場に集った数名のグループでレストランに入った。自分は生サーモンを注文した。ポテトや赤タマネギなどの付け合わせが付いて139 SEK(スウェーデン・クローネ=約1,600円)である。「サーモン料理」(柔らかくて量もたっぷりでとてもうまかった。ちなみにビールは39SEKで約460円だった) 午後は各自で単独行動をすることになった。まず、王宮や大聖堂がある旧市街(ガムラ・スタン)に向かう。土産物店などの小さな店が並ぶ通りには観光客が多い。しかし、アジアや中東のバザールのような喧噪や熱気に満ちた雑踏ではなく、落ちついてゆったり歩けるところだった。 ドイツ教会を見てまた歩いていると海岸通りに出た。大小の船が海上を行き来している。そこで、フェリーに乗ってユールゴーデン島に渡ることにした。料金は40 SEKだった。 海上から市街地の風景を楽しんでいるうちにわった10分で島に着いた。フェリーを降りて少し歩くとヴァーサ号博物館があった。入館料110 SEK。ヴァーサ号は17世紀初頭に進水した全長62m、排水量1,300トンの大型木造戦艦。しかし、最初の航海に出るところで大風のために沈没した。「ヴァーサ号」(333年ぶりに引き揚げられてから復元され、今はこの博物館に展示してある) 館内には、当時の造船技術などについて多角的な展示がしてあった。説明板が数カ国語で書かれていたが、そこに日本語の説明板もあった。嬉しい驚きとともに、この博物館の意気込みを感じた。 博物館を出て、今度は橋を渡って再び中心街に向かう。途中の岸壁には古い船がぎっしり横付けされている。甲板にはソファやテーブル、自転車まで置いてある。大きな犬がつながれている船もある。これらは船上生活をする人たちの船のようだ。都心にしてはちょっと不思議な光景だった。「陰りゆく陽射しの中で」(午後6時40分、自分の影もぐーんと長い。対岸に見えるのは国立美術館) 再び国会の横を通って今度は王宮から大聖堂を経て、ノーベル賞博物館のある広場に出た。帰りのバスまではまだ時間がある。財布の中の70 SEKの使い道を考えながら散策する。「ノーベル博物館」(ノーベル賞の授賞式はここで行われる。入館時刻を過ぎていて外から眺めるだけだった) 土産品点で妖精の人形を見ていたら手頃なものが68 SEKだった。これだとばかりに、レジに持って行き70 SEK出したら、足りないと言う。何と、自分は値札をさかさまに見ていたのだ。正しくは89 SEK。そこで、持っていた50ユーロ札を見せて、これで釣りをユーロでもらえるかと聞いたら、「もちろん」と言ったので、89 SEK のものを買って、釣りを40 ユーロ受け取る。「トロール人形」(値札を落ち着いて見たら確かに89である。普通はあり得ないミスが海外では大いにある) そのあとトイレに行きたくなったが、なかなか公衆トイレがない。やっと見つけたが、それは有料トイレで、コインを5 SEK分投入するように図示してある。その時ポケットには1 SEKコインが1枚しかなかった。試しに1枚入れてみたが、ドアは開かずコインも戻ってこなかった。 辛抱たまらず、見かけたマクドナルドに入る。70 SEK を使い果たそうと、写真を指さしながら、普通のバーガーとコーラを注文する。合計額は66 SEK。思わず「ビンゴ」と叫びたくなった。 やれやれ、代金を支払ってテーブルにつき、すぐトイレに行く。すると、何とその店のトイレも公衆トイレと同じように有料トイレではないか。コインを探すが、さっきのバーガー代の釣りは4SEKで1枚足りない。さっきの公衆トイレに投入した1 SEK が手元にあったらよかったのだが。 事態は切迫しているのに笑えないこの現実。結局いろんないきさつの末、若い男の店員に事情を説明すると、彼はカギを持ってきてトイレを開けて使わせてくれた。ああ、やれやれである。 自由行動では、まず帰船時の交通手段を確認すること。それと同時に、トイレ事情について前もって確認しておくこと。これが、本日最大の教訓である。
2011/09/08
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地球一周の船旅も後半へ 今日は101日間のこの船旅の折り返し点である。出発前は途方もなく長く思えたこの船旅も、もう半分が終わった。夏休みが残り半分になった小中学生のような気分だ。「コペンハーゲンでの買物」(デンマーククローネ(DDK)を使い果たすために、細々とした買い物をした) 今日はGETのクラスに転入生があった。当初生徒6人でスタートした我がクラスも、転出や不登校(?)で、生徒は実質4名になっていた。転入生の20代の若い女性はやや緊張気味のようだったが、最近ちょっと固かったクラスの雰囲気が和らいでよかった。 午後3時からパスポート配布があった。明日のストックホルムとその次の寄港地サンクトペテルブルグでパスポートの携行が義務づけられているためである。午後6時からの航路説明会まで時間があったので、普段はほとんど観ない船内テレビをつけてみた。すると「Shall we dance」のハリウッド版が放映されていた。 リチャード・ギア主演のこの映画を観ていると、ダンスにはまりこむ人の気持ちが分る気がしてとうとう最後まで観てしまった。役所広司主演の日本版もよかったが、リメイク版がこれほど成功している例も珍しいと思う。船内でも、ダンススクールに力を入れている人も多い。時々フリースペースのフロアでステップの練習をしている、それも結構年齢の高い人たちが多い。「航路説明会」(プロジェクターを使って、バルト海をゆくこれからの航路について説明があった) 挾間(はざま)事務局長は航路説明のあとは、いつも周辺の見所や特色などについて話をしてくれる。今日はバルト海の話が印象に残った。平均深度が55mと浅いこと、塩分濃度が低いこと、冬季には北部が結氷することなど、それらの話は地理的な興味や関心を高めてくれた。 そのあとの寄港地説明では、明日のニーネスハムン(ストックホルム~スウェーデン)での通船(テンダーボート)による上陸方法や、サンクトペテルブルグ(ロシア)での今までの国とは違った面倒な手続きなどについての話があった。 最後は、クルーズディレクターの田村美和子さんから、帰船リミット厳守についての注意があった。昨日(6日)のコペンハーゲンでは、あと15分という時点で、まだ300人が帰船していなかったそうだ。「昨日私は、挾間事務局長と、これはどうなるだろうかと大変心配していました」と、にこやかに、しかし凛とした表情で話をされた。「バルト海をゆく」(地中海の青空はどっかに置き忘れてきたような鉛色の空が広がっている) 人から聞いた話であるが、ある日ある人が帰船時刻に間に合わなかったそうだ。その時、船の担当者は同室のメンバーに、当人の荷物を船から降ろすのでまとめるようにと告げたそうだ。結果的には出港ギリギリに間に合い、なんとか大きな問題にならずに済んだそうである。 もし帰船出来なかったら、自力で次の寄港地へ行くしかない。船から降ろす荷物とはそのために最小限必要な現金や貴重品、パスポート、着替えなどを指すのだろう。 今日の夕食時に同席した若い男性は、ルアーブル(フランス)で自由行動でパリに出かけたが、予定していた帰りの電車に乗り遅れたそうである。それで彼は、タクシーを探して3時間ぶっ飛ばしてもらい、ギリギリセーフだったそうだ。 タクシーを選択した彼の判断は正しかった。高かったタクシー代も、帰船出来なかった場合に自分と関係者が費やすお金やエネルギーと比べたら安いと考えるべきだ。 最近は、オプショナルツアーをキャンセルして自由行動する人が増えているようだ。自分もその一人だが、帰船リミットには十分ゆとりを持って行動したいものだ。
2011/09/07
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コペンハーゲンをひとり歩き 9月6日午前11時、薄雲りのコペンハーゲンに入港した。出迎えてくれたのは、環境保護に力を入れているデンマークにふさわしく、港の入り口に立ち並ぶ風力発電の風車の列であった。11時30分過ぎ上陸許可の放送がある。今日は完全単独行動なので他の人との待ち合わせもない。 ゆっくり準備をしながら、少し迷ったのは服装である。入港時には11階デッキに肌寒い風が吹き渡っていた。長袖Tシャツの上に着るシャツを厚手にするか薄手にするかしばし考えた。結局は薄手のシャツにしたが、午後から晴れて気温も上がりこれで正解だった。むしろ、サングラスを忘れてきたことを後悔するほどの日射しとなった。 まず、デンマークのシンボル「人魚の像」を見る。ほぼ等身大(?)のコンパクトな像である。埠頭から市街地に向かう海岸にあり、ピースボートの船客たちが人魚と一緒に写真を撮っている。「コンパクトな人魚姫の像」(「世界3大がっかり」の1つと言われるが、小さいけどそんな不名誉なものではないと思う) 彫刻家エドヴァルド・エリクセンが、当時人気を博していたオペラ「人魚姫」をイメージして制作し1913年8月23日に公開された。モデルは「人魚姫」の主役のプリマドンナ、エレン・プリースだが彼女が裸体になるのを断ったため、エリクソンの妻が首から下のモデルをつとめたという。 しばらく歩いたらアメリエンボー宮殿があり、ちょうど衛兵交替が行われていた。そのあと、大きな大理石造りのフレデリクス教会の内部を見学した。「屋根を修理中」(見学のあとドームを見上げたら作業中の人がいた。あらためてこの教会の大きさがわかる) 教会を出て右手に5,6分歩くと、多くの人でにぎわっている場所に出た。運河沿いに木造の古い家が建ち並んでいる。そこは、コペンハーゲンを代表する景勝地ニューハウンだった。レストランも多かったので、そこで昼食にしようと思ったが観光客でとても混み合っていた。「ニューハウン」(今日はサッカーの試合があるらしくて、両チームのサポーターたちが気勢を上げていた) 結局、食事は近くの広場の屋台ですませることにした。デンマークはEU加盟国だが統一通貨ユーロは採用せず、デンマーク・クローネ(DKK)が使っている。ハンバーガー25 DKKとコーラを買って50ユーロ札(約5,500円)を出すと、屋台のおばさんは一瞬お札に目をやり、やおら電卓で計算し、200 DKK札を1枚、100 DKK札を1枚、そして20 DKKコインを1枚お釣りにくれた。 現在の為替レートでは1米ドルが5DKKである。25 DKKだったハンバーガーは5ドルだから、1ドルが80円として400円となる。しかし、頭の中で2回も換算すると、それが高いのか安いのかというところまでは頭が回らない。ともかく、帰船までに320DKKのデンマーク・クローネを使い果たさなければならないのは確かだ。 次に、ローゼンボー城に着いた。入ろうとすると本物の(儀礼兵でない)衛兵がいて「入り口は向こうだ」と言う。それも、あまり顔を動かさずに正面を向いたままで…。入り口にまわって入館料(75 DKK=15 USドル=1,200円)を払って入館する。「端正なローゼンボー城」(3階までが博物館として公開されていて、戴冠式用の黄金の王冠が1番の見ものだった) 宮殿を出て、安売り専門のスーパーに入った。そこで飲み物や食べ物などを買ったが、それでもまだポケットには38 DKKほどのコインが残っていた。 デンマーク工芸博物館を見つけた。表示を見ると入館料は60DKKのようだ。係りの男性に、「sixty?」と訊くと「そうだ」とうなずく。ここで値切るわけにもいかないだろうから「I can not…」と言うと、係りの男性は、「残念」というような顔で見送ってくれた。 北欧諸国はデザイン先進国だ。街角のショーウインドーでお洒落な家具などを見ていただけに、この博物館には入りたかった。手持ちのDKKが気になっていて、カードを使うことを忘れていた。 船の近くの土産店で、小さなガラスのコップと絵葉書1枚買って37 DKKを使う。今日の帰船リミットは18時00分。今日はちょっと余裕をもって17時30分に乗船した。 歩数計はたった16,164歩。人口55万のコンパクトなコペンハーゲンをコンパクトに歩いた。
2011/09/06
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遠くにスカンジナビア山脈を望みながら 起床は8時過ぎ。10階のラウンジに出向き、昨日に続いて朝食を食べる。2日連続で朝食を食べるとは我ながら珍しいことだ。 朝食と昼食は6階のレストランか、10階のラウンジあるいはプールデッキで食べることができる。どちらもビュッフェ方式である。 6階レストランはみそ汁・梅干し・海苔・大根おろしなどが選べる和食系で、ウェイターが客のトレーを運んでくれて座席を指定する。だから必ず知らない誰かと相席になる。10階ラウンジはパン・ピザ・春巻きなどの洋食・中華系で、自分でトレーを運び好きな席を選んで座る。「地中海から北海へ」(バルセロナ、ルアーブル、アムステルダムを経て、明日(9/6)はコペンハーゲンだ) GETのLessonが終わったら昼食の時間になっていたので10階に行った。最初は1人で食べていたが、男性が1人で同じテーブルに来られたので、昨日のアムステルダムのことなどを話をする。そのうちにもう1人の男性が加わって、PCやネットの話になった。 偶然にも3人ともブログをやっていることがわかり、船内の通信事情やモバイルパソコンなどの話になった。互いに名前とルームナンバーを交換し合って、「いつかブログの会でもできたらいいですね」ということで別れる。「アムステルダムでの買い物」(パンフレットや文具類、それにマグカップ、右は姪夫婦からもらった差し入れ) 夕食は6階のレストランで、ウェイターのサーブによって提供される。船客を一度に収容できないので、17時からの組と19時からの組の2組に分けて実施される。自分は遅い方の組(オレンジのレストランカード)で、いつも19時すぎたらすぐに6階レストランに向かう。 今日の夕食は、はじめて同席する人もいたが前に1,2回話した覚えのある人もいる5人テーブルであった。今日はめずらしく青空が見えていたなと思って、隣のご婦人に「今日は久し振りに青空を見ましたね」と話しかけた。すると、「ああ、さっきまで雨が降っていましたね」と応じられた。なんか、とんちんかんな問答になっている。 でも、どちらも間違ってはいないのだ。北欧の天候は大体曇りが多いが、1日のうちでも天気の変化が激しい。何時ごろ空を眺めたかで、その日の天気についての印象が異なってくるのだ。 夕食が終わったがまだ日没に間に合いそうだ。カメラを持って11階のサンデッキに出てみる。ところが、残念ながら水平線付近は雲に覆われている。それでもじっと待っていると、太陽は厚い雲の向こうを滑り落ちて、わずかな隙間から顔を出してくれた。「北海の落日」(日没は午後8時12分。最後は点となって水平線上から消える) 高緯度到達の自己記録を更新しつつ、オセアニック号は北上中。 明日(9/6)は、ユトランド半島を時計回りにまわってデンマークのコペンハーゲンに寄港する。
2011/09/05
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