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理論を巡る無意味な混乱と激しい二面性昨年8月に公開した、宇宙際タイヒミューラー理論を巡る状況に関する報告書で(また[EssLgc]§1.5でも)詳しく解説している通り、・理論の数学的内容は既に多くの数学者によって よく理解されており、・理論の原論文のみならず、その延長線上にある 具体的な計算を纏めた論文も、査読を経て世界的 に有名な数学者たちが編集者を務める学術誌に 既に出版されており、・また新しい応用を見据えた、理論の3種類の新しい ヴァージョンも数名の共同研究者とともに開発中 であり、・理論に対して懐疑的であった欧米の数学者も、 普通に建設的な数学的な議論に応じされすれば、 理論に対する誤解や疑念は、(19世紀の有名な リーマン・ワイエルシュトラスの解析接続を巡る 論争とよく類似していて)現代数学の観点から 見れば至って初等的かつ簡単に払拭できるもの であり、・理論に間違いがあると主張する数学者に対して、 直接的・間接的手段で幾ら連絡を試みても、 主張されている「間違い」の特定に応じてもらえ ない(どころか、メールの返信にも応じてもらえ ない)不思議な状況が続いているにも関わらず、欧米を中心に、理論を巡って全く無意味な混乱が、依然として収まらないことは実に残念である。このような状況の中、昨年は、ヨーロッパの一流大学の教授クラスの先生との交流の機会が増え、こちらとしては、正直なところ、開いた口が塞がらないような、逆に言うと、ある観点から見れば非常に「興味深い」証言が数件(口頭またはメールで)私に寄せられたので、この場を借りて読者の皆さんにご報告したい。これらの証言に登場するA氏・B氏・C氏は、いずれもヨーロッパの世界的に有名な一流大学の年配の教授であり、証言の内容は、宇宙際タイヒミューラー理論に対する否定的な姿勢で有名な、若手の教授Z氏に関するものである。またA氏とB氏は、Z氏と非常に親しくしていて、日常的に交流のある人たちである。・A氏:「自分の周りには、Z氏の主張を真に受ける 数学者はいない。みんな無意味な内容のもので あることはよく分かっているから望月君は安心 したまえ。」・A氏:「本件を巡って、B氏はZ氏を厳しく叱責 した。」(これについては、別の独立な情報源 からも聞いている。)・C氏:「Z氏と少しメールのやりとりをしたが、次 のような印象を受けた。Z氏は怪物等ではなく、 むしろ自分がやってしまったことに対して恐れを なしたような精神状態にあり、告白する相手を 求めているが、残念ながらそのような相手がなか なか見付からない。元々は若気の至りとでも言う べき一時の言動がまさかここまで炎上し、重大な 結果をもたらすとは予測できず、今は子供のよう にただひたすら身を隠しているだけである。」・C氏:「大学の学部長さんに、本件について、 Z氏の'ダチョウ作戦'(=数学的内容と向き合う ことを拒否し、ダチョウのようにただひたすら 頭部=身を隠すこと)等、状況を説明した ところ、学部長の答えは至って単純であった。 つまり、Z氏は謝罪しなければならないねと。」つまり、非公開な状況下では、上記のような証言が、こちらとしては不思議な位に次々とまさに芋づる式に出てくるにも関わらず、公の場では、逆に情報がいつまで経っても一切出てこない。別の言い方をすると、多くの報道機関の報道で描かれているストーリーと全然話が違うではないか、ということである。その意味では、昨年は私にとって、このいわば統合失調症のような激しい二面性、別の言い方をすれば、「認知的不協和」の正体は一体何なんだろうか、度々考えさせられる一年であった。以前のブログ記事や加藤文元著の解説本「宇宙と宇宙をつなぐ数学」の巻頭言でも指摘している通り、数名の数学者の「面子」の問題という側面も確かに絡んでいるようだが、数名の個人の問題だけでなく、欧米社会全体が深く関与している側面もあることは間違いないようである。別の言い方をすれば、数名の個人の「面子」への拘りや、社会的状況に対する「恐怖」とさえ言える状況は、欧米社会の忠実な鏡とも言える。実際、欧米の多くの数学者は、如何なる数学的根拠も存在しない(=もっと具体的に言うと、根拠の提示を幾ら求められても、建設的な数学的な議論に応じることも、メールに返信することすらも、拒否する)にも関わらず、 理論の内容に関する建設的な数学的な議論のみ ならず、理論への言及すら、様々な場面において 禁止するような姿勢をとる傾向があり、そのような体制に協力しない数学者に対しては、職業的不利益処分を含む、(こちらとしてはいろいろな報告を聞くと愕然とするような)嫌がらせをすることがあるようである。また、たとえ現時点では理論の間違いを具体的に指摘することができなくても、 どうせ十分に時間が経ちさえすれば理論に間違い が見付かるに違いないという、数学的根拠が一切存在しない(=逆に言うと、どの確立された数学の定理に対しても、無意味な嫌がらせとして振り向けることが可能な)強烈な信念を持っている数学者が、欧米を中心に多数存在するようである。(この現象については、[EssLgc]1.5.1の「ブードゥー仮説」の話をご参照下さい。)数学的な議論・対話をどんなに辛抱強く呼び掛け、また探し求めても、数学的根拠がいつまで経っても一切提示されない、この「強烈な信念」の正体は一体何なのか。私のこれまでの数々の経験(=口頭・メールでの個人的やりとりの他、英語系メディアやネットの書き込みに見られる論調等)では、欧米の数学者に対して(「欧米 対 非欧米」という方向性の捉え方を誘導するような表現を一切出さないような形をとった場合でも)このような話題を向けると、非常に高い確率で「欧米 対 非欧米の日本」という構図に基く言論が返ってくる。つまり、簡単に要約すると、 理論が正しい上に、超エリートとされる若手の 教授から理論の間違いとして指摘されたものが、 実は大学院レベル(=日本で言うと修士課程 レベル)の簡単な初等的な誤解でしかないという ことになれば、神様によって選ばれた民(= 「選民」=一種の「神格化」)である欧米人、 つまり神様が(非欧米の人々と比べて)圧倒的に 一番愛しているはずの欧米人との約束を、余りに も激しく残酷な形で神様が裏切ったことになり、 それだけは断じてあり得ないし、容認できない、 考えられない、信じられないといわんばかりの態度である。宗教と癒着した欧米社会の権力構造欧米社会における宗教(=キリスト教・ユダヤ教)と、「欧米 対 非欧米」という人種・民族に基く権力構造の癒着ぶりは、世界史において非常によく知られたテーマであるが、最近の動向を踏まえた簡単な要約をすると、次のような事例が頭に浮かぶ:・米国という国の建国は、そもそも、人権や民主 主義的原理・価値観のような考え方とは対極に あるような数々の行為による ・先住民からの土地の収奪と ・奴隷制度 の上に成り立っている。後者を巡る米国社会の 数々の矛盾に関しては、 ・奴隷を解放した場合、合衆国から国外追放する しかないと主張しながら、 ・自身が所有した数百人の奴隷のうちの一人で あった、若い女性の奴隷との間に、現在も多数 の子孫が存在する子供を設けた 建国の父の一人であり、また米国の独立宣言の 著者でもあるジェファーソン氏がまさに象徴的で ある。このような状況の背景に、聖書では奴隷 制度は事実上、容認・擁護されているという事実 があると思われることが度々指摘されている。・奴隷制度を巡っては、(子供の頃、米国南部の テキサス州で5年間過ごしたことがある)私でさえ も昨年聞いて驚いたが、現在も、次のような動き が続いているようである: ・米国共和党の背後にある原理主義的キリスト 教系勢力は、米国憲法の廃止や、奴隷制度の 復活を主張している。 ・イギリスの与党系国会議員も奴隷制度の復活を 主張している。 ・米国の大統領候補の一人が、奴隷制度を好意的 に捉えている米国国民に対する、いわゆる 「ドッグ・ホイッスル」として、南北戦争の 原因を聞かれた際に、奴隷制度への言及を 避けた。 この大統領候補の発言に関連して、米国社会で は、人種・民族に基く一種のカースト制度を更に 強化し、次世代まで引き継ぎ、固定するための 動きが益々活発になっていると指摘する人も いる。・興味深いことに、1930年代の米国では、(大手 自動車メーカーの創設者である)フォード氏が、 反ユダヤ的内容の「ベストセラー」の本を出版 し、ドイツのヒトラーら、ナチス党員から、自分 たちの運動の原動力となったとして大変な賞賛 を受けた。当時の米国の有名な飛行家のリンド バーグ氏も同様な思想を持っていたようである。 また、米国の当時の大統領の友人等、20数名の 国会議員を含む勢力が、米国政府を転覆し、 代わりにナチス系の政権を樹立するための工作 活動を行ない、当時の米国では大変な騒ぎを 起こした。この状況は危うく隠ぺいされるところ であったが、当時の数名の関係者の大変な尽力に よって記録は何とか保存され、また後に公開 されることになった。明示的な歴史的な記録を 残すことの重要性については、本ブログでも、 [EssLgc]§1.5でも度々強調している。・欧米、特に米国とイスラエルの(いわゆる「神聖 牛」扱いに基く)特別な関係にも、「宗教との 癒着」や入植者の「先住民からの土地の収奪」 というテーマが深く影響しているようである。 このように解説しているチョムスキー氏も、 決してユダヤ人と対立している立場の人間では なく、自分自身ユダヤ系であるが、同じユダヤ・ イスラエル側からすればインサイダー中のイン サイダーであるはずの、(ダビデとゴリアテとの 類似性を語る)ユダヤ人入植者や、イスラエルの 大物政治家・軍人の息子といったような立場に ある方々の証言(=パレスチナの占領を、一種 の「アパルトヘイト制度」として厳しく批判する 主旨の証言)も実に興味深い。これらのテーマはいずれにしてもよく知られているテーマであり、また私の学問的専門でもないため、ここで詳しく解説するつもりはないが、より詳細な(英語の)解説については、上記の数々のリンクのビデオをお勧めしたい。欧米社会における宗教と、理性の弾圧宇宙際タイヒミューラー理論を巡る状況について解説するとき、よく強調するのは(数学雑誌PRIMSの出版元である)EMS(=ヨーロッパ数学界)の行動規範「COP」に記された「著者の責任」の第6項目 「数学者は、新しい定理を証明した、あるい は特定の数学的問題を解決したとする、公 の主張を行なった場合、主張を証明する 詳細な議論を、時宜に適った形で公表する 義務を負っている」である。つまり、この項目を忠実に遵守するような姿勢で関係者たちが行動していれば、宇宙際タイヒミューラー理論を巡る混乱は発生する必然性は全くなく、 数学者同士の間の、友好的かつ建設的な数学的 議論・対話、つまり、通常の学問的活動の実践 によって、如何なる混乱・誤解・疑念の類も、簡単に解消することが可能であるということである。以前のブログ記事や[EssLgc]§1.5, §1.10, §1.12等でも解説している通り、このような姿勢は、基本的な民主主義的原理である ・法の支配 ・法の適正手続の保障、 ・立証責任等とも深く関係している。一方で、強烈な宗教的信念と癒着した、欧米社会における悪質な権力構造が、学問的活動における基本的民主主義的原理や理性の追求を阻害しているとすれば、その阻害の仕組みの解明を進め、阻害を克服するための方策を講じたくなるが、欧米社会における ・学問のあるべき姿、 ・強烈な宗教的信念、それから ・悪質な権力構造という三つの要素が交錯する「現場」が他に存在するとすれば、場合によっては参考になる有意義なヒント・道標を与え得るものとして、自然な関心の対象として浮上する。その「他の現場」として最も代表的なものの一つとして考えられるのは、欧米における、いわゆる聖書学(=聖書のテキストや、古代キリスト教・ユダヤ教の研究)の現場である。私自身、十代の頃、ラテン語や古代ギリシャ語の勉強に大変な関心を持ち、また相当の時間と労力を費やした。この地中海地域の古代言語の勉強は、聖書学に学問的に非常に近い分野であり、実際、聖書学の学者は必ずギリシャ語やヘブライ語、アッシリア語等について深い知識を持っている。昨年は、上で述べたような考察から、(自分自身、ラテン語や古代ギリシャ語を、大変な熱意をもって勉強していた時代を懐かしく思い出しながら)最近の聖書学を巡る状況に関する数々のビデオを閲覧し、まさに不思議な位に、 様々な側面において宇宙際タイヒミューラー 理論を巡る状況と酷似した状況の下で、学界 の悪質な権力構造や、理性や数学的論理と矛盾 する強烈な信念の持ち主たちと格闘しながら、 理性や数学的論理・学問的対話等を重視し、 (いわゆる拳を振り上げるような、「喧嘩腰」 の姿勢ではなく)大らかな、愛に満ちた姿勢で 学問的活動に勤しむ学者たちの姿に感動したため、この場を借りて読者の皆さんにご報告したい:・まず、「悪質な権力構造」との対立の発端と なった学問的内容であるが、大きなテーマと しては、次のようなものが挙げられる: ・聖書は人間によって作られたものであり、 古代の著作物としてはとても優秀である ものの、論理的矛盾や、近代的な倫理観と 相容れない内容が多く、不完全な文学として 捉えるべきものであり、「神様」のような 超自然的な「エンティティ」の言葉として 捉えるべきものではない。 ・キリスト教において神格化の対象となるキリ ストという人物だが、そもそも、キリストは、 他の著名な古代人と違って、実在した証拠が (貧弱過ぎるというより)皆無に等しく、 実在しなかった可能性が極めて濃厚である。 興味深いことに、モーゼについては同様な 「神話論」(=つまり、実在しなかった架空 の人物であるとする学説)は既に学界では ある程度広く受け入れられているようである。 ・実際、古代においても、聖書に書かれた物語 は、一般大衆向けのものに過ぎず、宗教の 中核的な関係者たちの間では、それら物語は ただの抽象的な比喩・寓喩として捉えるべき であるという考え方があったようである。 ・また古代においても、キリストは架空の人物に 過ぎないと主張する「神話論者」の宗派も存在 したようである。・上記のような学問的内容を解明する活動に おいて、 ・理性、 ・真実や論理的整合性の追求(=つまり、「嘘」 を吐き続けなければならないという重圧からの 解放)、それから ・数学や数学的論理 の重要性が度々強調されたことも実に興味深い。 また、聖書の宗教的解釈の様々な問題点が解明 できても、それによって聖書が別に負の感情の 対象になるわけではなく、むしろ、古代人の文学 として捉えることによって古代人の本当の考えに より忠実に寄り添うことができるようになった ことを、学者たちはとても喜ばしく思っている。 これはまさに学問のあるべき姿である。・一方で、上記のような学問的内容を追求するに 当たって、 ・教授職の劣悪な労働条件を嘆いたり、 ・キリスト教の主張と相容れない主張をすること によって職業的な不利益処分(=解雇等!)の 対象となる危険性を心配したり、 ・面子に拘る否定派の学者たちと対立したり、 ・議論の途中のメールの返信拒否や、提示されて いる議論とまともに向き合うことを拒否する 等、また面子に拘る余り、脅迫めいた行動に 出る等、否定派の様々な厄介な言動に悩まされ たり、 ・綿密な調査の上、理解者のリストを作成し たり、 ・様々な「認知的不協和」を解消するための唯一 の方法として、対話の重要性を強調したり する等、実に不思議な位に、宇宙際タイヒミュー ラー理論を巡る状況を連想させられる、聖書学の 学者たちの証言がとても印象的であった。宇宙際タイヒミューラー理論も、決して様々な既存の数学の研究と対立する必然性はなく、[EssLgc]の ・§1.5の解析接続に関する部分、 ・§1.11の「豊富な相互関連性」に関する部分、 それから ・§1.12の遠アーベル的アデール解析に関する 部分、また[Alien]§4.1でも再三にわたり強調している通り、宇宙際タイヒミューラー理論は、様々な古典的な数学の理論と深い関係性を有している理論である。最後に、昨年印象に残った「一言」として引用したいのは、国際政治学者のイアン・ブレマー氏の、(偶々東京で行なわれた)2023年を振り返る講演の中で、講演の最後辺りに述べたことである。それはつまり、日本の世界における存在意義は、米国をはじめ、欧米と同じ民主主義的価値観(=上でも言及した、「法の支配」等)を共有しながら、その価値観の旗手を自任する姿勢をとっているにも関わらず実際にはその価値観と矛盾するような言動を連発する米国とは対照的に、その価値観をただ素直に、実直に堅持する、日本の揺るぎない姿勢にあると。本ブログでも、だいぶ前から(=ブレマー氏とは完全に独立に)、日本が世界の舞台において果たすべき役割として私が指摘している役割と、また不思議な位に、同じ方向性を向いている位置付けである。
2024.01.02
明けましておめでとうございます。昨年も本ブログをご閲覧いただき、誠にありがとうございます。昨年の主だった動きと言えば、・数論幾何学関連の研究・国際交流活動を支援する 目的で、「AHGT」という、 ・京都大学数理解析研究所、それから ・仏リール大学および ・ENS の三者がつくる、仏CNRSの運営の下にある組織 が発足し、・3月に仏ENSと数理研による研究集会を開催し、 また・9月に独オーベルファッハ研究所と数理研で 「MFO-RIMS」の研究集会を共同で開催し ました。一方、・東京では、宇宙際タイヒミューラー理論に関連 した研究活動を支援するための組織として、 IUGCが昨年7月に設立されました。・今年4月に、IUGCが主催する大きな国際的な 研究集会が開催される予定で、・同じ今年4月から、私が宇宙際タイヒミューラー 理論に関する連続講義(=月1回、1回90分)を オンラインで行なうことになりました。また、まだ論文等の発表ができる段階ではありませんが、研究面では、・宇宙際タイヒミューラー理論の3種類の新しい ヴァージョンの開発の他、・宇宙際タイヒミューラー理論そのものではない ものの、深く関係する遠アーベル幾何の研究も昨年大きく進展しました。後者に関しては、保障はできませんが、今年中に論文が発表できるよう、共同研究者たちとともに精一杯努力したいと思います。昨年以上に多忙極まる一年になりそうですが、どうぞよろしくお願いいたします。
2024.01.01
先日のブログ記事「年頭所感 2023: ...」(=特に、'欧米の「心の貧困」'という部分)の補足です。記事を公開した後、本当に偶々ですが、自分でも不思議な位に全く同様の方向性の考えを述べているイアン・ブレマー氏のビデオ(=特にビデオの7:00辺り以降の最後の部分。後、「大量混乱兵器」の脅威については、続編や「予告編」も併せてご参照下さい。)を偶々閲覧する機会があり、少々感動を覚えました。同氏は私とほぼ同年齢ですが、専門分野(=国際政治学)が全然違うだけでなく、お互い、これまでの人生を全く違う環境や立場の下で生きてきました。その背景や置かれている状況の相当の隔たりにもかかわらず、(当たり前ですが、私とは完全に独立に(!))同様の方向性の「可笑しいぞ!」という主旨の結論に辿り着いていることは実に興味深い。ただし、私としては、技術そのものは諸刃の剣というか、「民主主義の破壊に繋がる」必然性が技術そのものにはないように思いますので、「民主主義の破壊に繋がる'道具'(=つまり、技術)を輸出している」ことが問題だというより、「民主主義の破壊に繋がる文化を輸出している」ことが問題だと言いたい気がします。
2023.01.04
読者の皆様、明けましておめでとうございます。昨年の特筆すべき出来事と言えば、・宇宙際タイヒミューラー理論の様々な 改良版に関連した研究が大きく進展した 他、・長らく査読・出版が遅れていた様々な 論文や単行本が漸く出版され、・また関係者の多大なご尽力により、 ・数理研での次世代幾何学国際センター の設立、 ・仏CNRSの支援による、仏リール大学 と数理研を中心的拠点とするAHGTの 設立 という重要な組織的整備が進んだことが挙げられます。次世代幾何学国際センターとAHGT次世代幾何学国際センターの場合、宇宙際タイヒミューラー理論を中心とする「次世代幾何学」がセンターの活動の対象として謳われているのに対して、AHGTの方は、学問的な対象分野は数論的幾何学のより広範囲な領域を網羅するもので、その中の遠アーベル幾何学や宇宙際タイヒミューラー理論は対象分野の一つという位置付けとなっています。一方、どちらも2027年前後に期限のある時限付きの組織で、また数理研の数論幾何学の研究者と海外(=主に欧米)の数論幾何学の研究者のより積極的な交流を促進するという共通の目標を掲げているものです。特に、そのような交流により、宇宙際タイヒミューラー理論を巡る相互理解が大きく前進することが期待されます。実際にはこのような組織的整備が、そのような意味において、どの程度、威力を発揮し、また功を奏することになるか、予測は難しいですが、今年3月に予定されている、AHGTの発足を記念する研究集会は、(私を含む)日仏の数論幾何学の研究者が一堂に会する重要な機会となる見込みです。NHKの番組とポアンカレの格言昨年を振り返ると、上述の(どちらかいうと、建設的な方向性の)事例とはちょっと別の意味での「特筆すべき出来事」ということになりますが、宇宙際タイヒミューラー理論に関するNHKの番組の放送が挙げられます。2022年5月のブログ記事で詳しく解説している通り、番組の前半には比較的軽微な問題しかなかったものの、後半では、宇宙際タイヒミューラー理論を巡る数学界の混乱の正体を語る上において、(本ブログのここ数年の数々のブログ記事や、解説論文[EssLgc]で詳しく解説している通り)最も核心的な事実関係、つまり、 一部の(主に欧米の)地位ある数学者が、 単純に、理論の論理構造='∧(AND)'・ '∨(OR)'構造を巡って、実につまらない (=日本の教育制度で言うと、修士課程 レベルの)初等的な誤解・勘違いをして いるに過ぎないにも関わらず、自分たちの 「面子」や、周りの人間の「忖度」等々の 厄介な社会的・政治的力学により、それを なかなか認められないでいるという実態には一切触れることなく、ポアンカレの有名な格言の(初めて番組を視聴した際、ちょっと耳を疑いたくなるような、余りにもお粗末な)誤った解釈により、宇宙際タイヒミューラー理論について大変な誤解を招くような非常に可笑しな解説が行なわれています。2022年5月のブログ記事(や解説論文[EssLgc]のExample 2.4.7)で詳しく解説している通り、上述の「つまらない初等的な誤解」は、球面の幾何という実に初等的な事例を通して簡単に解説可能であり、海外の数学者でも、素直に本件を巡る数学的議論に応じる姿勢さえ持っていれば、誤解の正体の丁寧な解説に対しては、つまらない誤解に過ぎないことを理解し、認めててくれますが、問題は、上述の社会的・政治的力学により、そのように 誠意を持って通常の数学的な議論に 応じる用意のある海外の数学者が非常 に少ないということです。またNHKの番組の後半に登場したような、何名かの批判的な海外の数学者のように、専門がそもそも(宇宙際タイヒミューラー理論が所属している)数論幾何学という分野から離れていて、実は(宇宙際タイヒミューラー理論はさておき) 数論幾何学の(研究業績どころか) 基礎的知識すら全く持っていない人 たちが、恰も深い専門知識を持って いるかのような論調で、数学的に 可笑しな内容の主張を、ネットを 通して精力的に展開していることが、 状況をより一層、不必要に複雑に しているという面もあります。一般に、このようなジャンルの番組で最先端の研究の解説をする際、本来は、大学の数学教育と言わば手を携えて邁進するような協力的な姿勢で、最先端の研究と、学部学生が授業で習う数学との「地続き感」が溢れ出るような論調で解説しなければならないはずなのに、今回のNHKの番組では、可笑しな理屈により(=要は、加藤文元・東京工業大学教授(当時)や星裕一郎・京都大学数理解析研究所准教授等、宇宙際タイヒミューラー理論に詳しい数学者と、番組スタッフとの交流により、正しい情報へのアクセスが十分あったにもかかわらず、番組の後半に関しては、それらの数学者の助言を意図的に排除するという、NHKの編集スタッフの不適切な政治的な判断による方針により)、むしろ学部教育で習う数学を根底から否定するような「トンデモ系路線」に舵を切ったことは実に残念です。この「可笑しな理屈」の中核部分を成しているのが、ポアンカレの有名な格言の誤った解釈ということになります。このポアンカレの有名な格言については[EssLgc] §1.5(の該当箇所)で詳しく解説していますが、 「数学とは、一見して内部構造が類似 しているようには全く見えない数学的 対象同士の、それぞれの内部構造を詳しく 分析することにより、実は同一の'設計図' に基づく内部構造を有している、つまり、 専門用語で言うと、'同型'であることを 明らかにする'技'を磨く学問である」という主旨の内容のものです。この格言の主旨・「心」は、決して、ある理論が「数学」として認められるべきかどうかを判定するための、厳格な判定法を与えるというものではなく、実際、よく知られている数学の中でも、このポアンカレの格言で指摘されているパターンに則していないものは無数にあり、 則していない場合は決して数学として 認められないぞ!!というような(=即ち、NHKの番組で示唆されているような)議論は聞いたことがありませんし、数学界の常識ではまず考えられません。しかし、いずれにしても、多くの現代数学はポアンカレの格言で指摘されているようなパターンに則していることは多くの数学者の共通認識であり、私自身もその共通認識を共有している数学者の一人です。つまり、こうしてわざわざ指摘しなければならないことに対して激しい違和感を覚えるわけですが、 私もこの「ポアンカレの格言」を一度 も否定したことがなく、むしろ肯定して いる(数多くの)数学者の一人であるだけ なく、私自身の研究の多く、特に宇宙際 タイヒミューラー理論はまさしくこの 「ポアンカレの格言」(=つまり、一見 して同型には見えないものが実は同型で あることを示すという形の内容のもので ある)に立派に則しているものであると理解しております。(宇宙際タイヒミューラー理論が如何に立派に則しているものになっているかの詳細については、[EssLgc] §1.5(の該当箇所)の解説をご参照下さい。)また、繰り返しになりますが、上でも指摘した通り、理論が、たとえ則していないものであったとしても、それでもって「数学として失格だぞ!!」というような(=即ち、NHKの番組で示唆されているような)考え方には、これまで35年以上に上る、無数の数学関係者との交流の中で一度も遭遇したことがありませんし、常識的にはまず考えられません。欧米の「心の貧困」本ブログのここ数年の数々のブログ記事や、[EssLgc] §1(=特に、§1.10および§1.12をご参照いただきたい)でも解説している状況ですが、簡単に総括すると、 欧米の数学界において地位のある人物 たちが、自分たちの面子等々、政治的な 理由のために、ある数学的理論の論理 構造に対して、'∧(AND)'と'∨(OR)' を勝手にすり替えて、それによって発生 した、事実と異なる解釈を振り翳ざして 通常の数学的対話を拒否し、数学界に おいて大変な混乱をもたらす。このよう な言動は、数学界のみの問題ではなく、 ・法の支配や ・法の適正手続の保障、 ・立証責任等、 民主主義社会の根幹を成しているはずの 基本的な民主主義的価値観を根源的に否定 するものであるにもかかわらず、欧米社会 (=この場合は数学界)のかなり大きな 割合の熱狂的支持を得るに至っている。これまで本ブログのブログ記事でも度々指摘している通り、「ワンクリック症候群」(=つまり、何でも「ワンクリック」で手軽に手に入れたいという強い欲望)に代表されるような近年のネット文化によって更に拍車が掛かっているようにも見えますが、価値観や原則の厳格な維持や遵守よりも、自分たちが常に「ワンクリックでぶっちぎりのナンバーワン」に躍り出ることに繋がる道を圧倒的な勢いで選ぶ傾向が、ここ数十年の欧米の文化や政治において益々旺盛かつ顕著になっており、反面、そのような傾向を戒める向きの勢力は(決して皆無ではないとはいえ)日に日に劣勢に立たされ、あらゆる面において弱体化・劣化し、後退しているような印象を強く受けます。2022年の「特筆すべき出来事」と言えば、独裁国家の一方的な行動に纏わるものが多かったように思いますが、そのような独裁国家の一方的な行動を最も強烈に後押している要因の一つが、まさに欧米社会の様々な現場において、民主主義的な価値観や原則を放棄し、とにかく何が何でも、自分がナンバーワンになるような道を最優先するぞ(!!)という、「ナンバーワン症候群」、つまり言い換えれば、一種の精神面での激しい貧困状態=略して「心の貧困」であるように見えます。差し迫った現実に対応するための、短期的な面においては、独裁国家の一方的な行動に対する「備え」としての一定の(軍事面での)防衛能力の必要性を否定するわけではありませんが、もっと深い、長期的な面においては、自分自身や自国が「ナンバーワン」であるという形の結論に必ずしも直結するわけではないとしても、 研究者が研究に対して持つべき姿勢にも 通じる考え方ですが、大切な価値観や 原則を堅持し、短絡的な思考に立脚した 「勝者の早期確定」より、複雑で多元的 な真実=事実関係や論理構造ときっちり 向き合い、抽象的な原理こそがが真の勝者 となるような環境をもたらす文化を、持続可能な形で維持することこそ、独裁国家の一方的な行動に対する、最も強力な牽制・「備え」になることを、欧米社会の流行に惑わされ(流され?)がちな日本社会はもっと重く受け止め、自覚すべきであるように痛感した一年でした。総括NHKの番組が不幸にして日本国民に撒き散らした数々の誤解であれ、欧米の数学界(ひいては社会)の「心の貧困」であれ、自分の周辺で発覚した可笑しな誤解や病理に対しては、学術的活動を精力的に行なうことを生業とする立場にある人間として、その誤解や病理を逆手に取り、講演等の学術的活動のテーマとする機会に恵まれたという、(少々逆説気味な)捉え方をすることもできます。2022年に折角進展した、上述の様々な「組織的整備」を活用して、フランスを中心に、欧米の数学者との交流の機会が豊富に巡ってくることが想定される今年2023年は、年中を通してまさにそのような機会を積極的に活かしたいと考えております。また昨年5月のように、必要が生じたと判断した暁にはブログ記事を執筆したいと考えておりますので、本年も、本ブログの閲覧、どうぞよろしくお願いいたします。
2023.01.01
2022年4月に放送されたNHKスペシャル「数学者は宇宙をつなげるか? abc予想証明をめぐる数奇な物語」(=完全版(90分)+簡略版(60分))を閲覧しました。NHKという看板(やその看板から推測される潤沢な予算)と立派に釣り合う、高精細なCG技術や世界規模の取材ネットワークとは裏腹に、残念ながら、多くの視聴者の誤解を招くような、様々な不正確な内容もありました。誤解や不正確な情報の拡散に歯止めを掛けるためにも、また最も中核的な当事者である私自身の考えに関する明示的な記録・「証言」を残すためにも、番組内の不正確な内容について、この度、ブログ記事という形で補足的な解説を公開し、警鐘を鳴らすことに致しました。 番組の「前半」の評価 本論に入る前に、ここで言う「前半」の定義について説明しますと、素数やABC不等式の解説から、A・Bとラベルが付いた球面の解説(=つまり、Aの「2」がBの「4」、Aの「4」がBの「16」と繋がっているという解説)辺りまでの部分を指すとします。このABC不等式の解説にしても、A・B球面(=理論の用語で言うと、「テータ・リンク」)の解説にしても、内容は概ね適切で、CGも立派でしたので、多くの視聴者にとっては消化しやすい、NHKという看板と立派に釣り合う解説になったように思います。特に、A・B球面(=「テータ・リンク」)の解説の中で、掛け算と両立的であるが、足し算と両立的ではないという部分は立派だったように思います。 「前半」の場合、解説の「本筋」が適切だったことを考えると、「前半」全体に対して(文句なしの、ただの)「合格」という評価を与えたいところですが、残念ながら何件か、「本筋」には該当しないとしても一定の重みのある側面について、誤解を招くような不正確な内容も含まれていたため、「ぎりぎり合格」という評価にせざるを得ないという結論に至りました。 まず、「宇宙」という用語ですが、「望月が導入した概念・用語」という主旨の解説になっていますが、これは単純な事実誤認です。よく知られていることですが、「宇宙」という概念・用語は1960年代のグロタンディークの論文「SGA4」に遡るものであり、私が生まれる何年も前から数学者の間で用いられていた概念・用語です。一方、グロタンディークが考えていた数学では、別々の宇宙が登場しても、その間の関係性は、足し算と掛け算の両方が共に有効である「環論的」な対応付けによって誘導されるものであるのに対して、宇宙際タイヒミューラー理論では、A・B球面の解説にあった通り、掛け算とは両立的であるが、足し算とは両立的でない対応付けによって誘導される、別々の宇宙間の関係性を考えます。つまり、「宇宙」という概念が新しいのではなく、別々の宇宙の繋ぎ方が新しいということです。このような状況が、まさに(私が実際、新たに導入した用語である)「宇宙際」という用語が物語っている状況です。ここで説明した経緯については番組内で幾らでも簡単に軽く言及することができたはずなのに、不正確な解説が行なわれたことは残念です。 次に、私のプリンストン大学での学位論文のテーマの解説ですが、数学の場合、一般に(=少なくとも、当時のプリンストン大学においても、また現在の京都大学数理解析研究所においても)学位論文のテーマは原則として学生が、(実際に学位論文の提出期限までに得られた研究成果を参考にして)自由に決められる性質のものであり、指導教員が与えるテーマは、(初めて本格的な研究に取り組む立場にあることが多い)学生を支援するための「ヒント=サービス」のようなものであって強制力のあるものではありません。ですから、番組内で主張されているように、指導教員に「ABC予想」を学位論文のテーマとして与えられなかったことを私が「残念がった」等というはあり得ない、可笑しな話であります。実際には、より現実的なテーマである、フルウィッツ・スキームに関するテーマを与えられたのですが、予定よりだいぶ早くそのテーマに関する研究成果を得ることができたため、1991年1月に、もし時間が余っているのなら、(ABC予想に非常に近い)「エフェクティブ・モーデル予想」について考えてみたらどうかという主旨の提案を、指導教員からいただきました。ご本人はその場面を余り記憶していないか、もしくは余り本気度のない提案のつもりだったかもしれませんが、私にとってはとても印象的な場面だったので、そのときの板書の様子等も、今でも鮮明に記憶しております。 最後に、プリンストン大学で学位を取得後、米国では「引く手数多」の非常に恵まれた状況にあったにも関わらず、京都大学数理解析研究所の助手として就職したことがとても不可解であるという主旨の(番組側の)状況認識を面白可笑しく解説する場面が番組内に出てきますが、これは実際に当時あった状況に対する基本的な誤解に基づく解説であり、とても残念です。本ブログでも度々解説していることですが、当時の(と言っても30年後の現在の方がより激しくなっている気もしますが)米国での状況は、社会的な面においても、職業的な面においても、私にとっては極めて厳しいものでした。詳細については本ブログの他の多数の記事に譲りますが、簡単に総括すると、米国での状況は、 皆が皆、お互いに訳の分からない、出鱈目で 頓珍漢な異邦人のようにしか思えず、誰の 手にも負えない複雑度に圧倒されながら生活 している戦場のような状況で、正常で人間 らしさのある人間関係はいつまで経っても 成立しない状況でした。 このような状況ですと、当然仕事にも諸に影響が生じます。就職した当時の数理研の関係者は鮮明に記憶していると思いますが、あの頃の私は本当に死に掛けているような、かなり厳しい状況にありました。特に、指摘するまでもありませんが、「引く手数多」どころではありませんでした。数理研で与えていただいた様々な貴重な機会がなければ、現在の自分がどうなっていたかと思うと、正直なところ、恐ろし過ぎて考える気にもなれません。 番組の「後半」の評価 「前半」以降(=「A・B球面」以降)の部分を以下では、「後半」と呼ぶことにしますが、少なくとも「本筋」の数学的解説が立派だった「前半」と打って変わって、「後半」では、視聴者をいわば煙に巻くような、一種の「トンデモ系」路線に、番組のナレーションが舵を切ることになります。これは、NHKという看板の「威信」という面から言っても、(国民の血税で賄われていると思われる)潤沢な予算という面から言っても、また(多くの人が分かりにくいと認識している)理論を番組の前半と同等に明快な語り口で(NHKらしい重みや品格を添えて)解説する絶好の機会であったという面から言っても、個人的には残念でなりません。 本論に進む前に、「後半」の「本筋」を復習しますと、数学では、ポワンカレ以来「同じものを同じと見做す」ことが基本であったのに対して、望月はその考え方を抜本的に覆し、「同じものを違うものと見做す」という考え方を導入したという主旨の主張を、クレタ人の矛盾めいた話や、(オウム真理教による、「ポア」の正当化等の「トンデモ系」説法を彷彿とさせられる)仏教的な思想に絡む石庭の話を援用しながら解説しています。別の言い方をしますと、「AはAであって、同時に非Aでもある」という、自己矛盾していそうな、不思議な謎めいた考え方が望月の理論の基本となっていて、それが海外の研究者には受け入れ難い考え方であるという解説です。実際、番組放送後、この「AはAであって、同時に非Aでもある」という不思議な考え方を褒め称える(残念な!)内容のメールが、番組の視聴者から(私の大学のメール・アドレスに)何通も届きました。 まず、誤解がこれ以上広まらないように明言しておく必要があるように思いますが、 「AはAであって、同時に非Aでもある」と という、あからさまな論理矛盾を来たしている ような主張は私としても、全くの出鱈目であり、 宇宙際タイヒミューラー理論とは無関係 であります。一方、「同じものを同じものと見做すか、それとも違うものと見做すか」という話は、恐らく通常の数学用語で表現すると、 「同型なもの(=つまり、同一の'設計図'に 基づく内部構造を有するもの)を、同一視 するか、それとも区別するか」 というような記述の、一般人向けの翻訳のつもりでしょうが、同型なものを同一視することも、区別することも、(20世紀初頭に遡る)公理的集合論によって当たり前に記述できる考え方であり、つまり古くから純粋数学全般で広く知れ渡っている当たり前な考え方であり、決して私が最近になって導入した考え方ではありません。 番組内では、三個のリンゴの話が度々登場しますが、この「三個のリンゴ」という考え方自体、それぞれのリンゴが「同型」であるという認識がなければ成立しませんし、また「同型であるにも関わらず、それぞれのリンゴは同一視せずに区別する」という考え方がなければ、「三個」という概念も成り立ちません。(つまり、区別しないで同一視してしまうと、「三個」は「二個」になったり、「一個」になったりするということです。)完全版の最後辺りに出てくる、平面における「x軸」と「y軸」も同じ現象の一例になります。(つまり、「x軸」も「y軸」も、一次元の直線と同型になりますが、同一視せずに区別して扱うようにしないと、「平面」という幾何的図形は成り立ちません。)もう一つ初等的な例(=詳しくは、理論の解説論文 [EssLgc] 2.4.6 をご参照下さい)を挙げると、一般に数字の記述に使われている十進位取り記数法における、「一の位」の「1, 2, 3, ..., 0」は、「十の位」の「1, 2, 3, ..., 0」と、抽象的な数学的対象としては内部構造が「同型」なものですが、同型であっても、「一の位」と「十の位」を区別して扱うようにしないと、(当たり前ですが)十進位取り記数法の仕組みは成り立ちません。 高級で斬新な理論の解説は別として、学部レベルの数学教育という立場から考えても、同型なものを場合によっては同一視したり、場合によっては区別したりすることは、(上述の公理的集合論に立脚した)数学では当たり前な操作であって、繰り返しますが、決して私が新たに導入した考え方ではありません。また「AはAであって、同時に非Aでもある」という、あからさまに自己矛盾するような主張は(当然、宇宙際タイヒミューラー理論も含め)公理的集合論を基礎とする数学では断じてあり得ません。つまり、番組内でこのような解説が行なわれたことによって、一般の視聴者に対して、数学の研究とはどういうものであるかについてかなり著しい誤解・混乱を拡散したことになり、論理的な・数学的な思考の普及や数学教育の観点から見ても極めて遺憾であります。 では、番組後半の「本筋」に根本的な問題があるとすれば、(予備校風の)「正解」、「模範解答」は一体何なんだろうと、気になる読者の方がおられるかもしれません。例えば、実際に番組前半にあった「A・B球面」の解説の延長線上で、 宇宙際タイヒミューラー理論では、球面の「A」と「B」 を勝手に区別したり、同一視したりして整合性のない議論 を展開していると誤解する人もいますが、そのようなことは 一切ありません。むしろ、不思議な形で繋がった状態の 「A」と「B」を(同一視せずに)区別したまま、大きな 入れ物の中に埋め込んで、その入れ物の幾何を調べること によって「A」と「B」の間の距離は、実はそれほど大きく なく、不等式で上から抑えることができることを、「遠 アーベル幾何学」と呼ばれる数論幾何学の一分野による手法 を用いて示します。 といったような、単純明快な解説は(NHKらしい、立派な高精細なCG技術を駆使した形で)幾らでも簡単にできたはずです。また、更にもう少し時間の余裕があれば、加藤文元氏のビデオや解説本にあったような、携帯電話間の通信による喩えを用いることによって、「遠アーベル幾何学」において数学的対象の対称性からその対象の内部構造を復元する仕組みについて解説することもできたはずです。 もう一つの「模範解答」の例として、(理論の解説論文 [EssLgc] 2.4.7 (v)に記載されている)球面の幾何による解説が挙げられます。こちらの模範解答では、(「A球面」、「B球面」の代わりに) 一つの球面の北半球と南半球の、赤道線による 貼り合わせ=繋ぎ方を考えます。理論では、北半球と 南半球を勝手に区別したり、同一視したりして整合性 のない議論を展開していると誤解する人もいますが、 そのようなことは一切ありません。むしろ、不思議な 形で張り合わさった=繋がった状態の北半球と南半球 を(同一視せずに)区別したまま、球面全体という入れ 物の中に埋め込まれたものとして扱い、その入れ物の 幾何(=球面上の経線等、大円による幾何に対応する ような幾何)を調べることによって北半球と南半球の 間の距離は、実はそれほど大きくなく、不等式で上から 抑えることができることを、「遠アーベル幾何学」と 呼ばれる数論幾何学の一分野による手法を用いて示し ます。 といったような解説になりますが、このような解説も、NHKらしい、立派な高精細なCG技術を駆使した形で幾らでも簡単に実現することができたはずです。 なお、NHK流解説の定番ということで、19世紀の権威ある数学者を登場させないと気が済まないということであれば、(前述の「トンデモ系」路線の正当化に、不幸にして駆り出されてしまった)ポワンカレではなく、ワイエルシュトラスとリーマンの複素関数論への正しいアプローチを巡る、 「代数的真理」(=ワイエルシュトラス側)対 「幾何的夢想」(=リーマン側)の有名な論争を紹介することが幾らでも簡単にできたはずです。この論争では、リーマン面の幾何を用いるリーマンのアプローチがワイエルシュトラスの批判の主たる対象ですが、リーマン面はまさに(前述の北半球と南半球の話もその一例になりますが!)複数の同型な複素平面内の領域を、区別したまま張り合わせることによって定義されるものです。加藤文元氏が予てから度々指摘していて、かつ [EssLgc] §1.5でも解説している通り、この19世紀の論争におけるワイエルシュトラスの批判には、宇宙際タイヒミューラー理論の論理構造を誤解している研究者による、まさに時代錯誤的な批判との類似点が(実に不思議な位に!)数多く見られます。 最後に、番組後半において制作陣がいわば「トンデモ系」路線に手を染めるきっかけとなった「動機」と思われる経緯について言及したいと思います。一言で総括しますと、つまらない誤解(=以前のブログ記事でも、[EssLgc] でも度々解説している通り、日本でいうと、修士課程レベルの数学でも十分解説可能な誤解)が原因で宇宙際タイヒミューラー理論に対して否定的な立場をとっている海外の研究者と、(私を含め)理論に深く関わっている研究者を、同時に持ち上げたい=同時に盛大な「イエス!」を送りたいという無理難題への制作陣の執着が「動機」になったように見受けられます。数学的に・論理的に相容れない、二つの主張を同時に肯定しようとすると、(ほぼ同義反復になりますが!)数学的な・論理的な矛盾は必然的に発生してしまいます。一方、実際の数学、実際の宇宙際タイヒミューラー理論そのものには、(「同じものを違うものと見做す」あるいは「Aはであって同時に非Aでもある」といったような)矛盾は何もありません。つまり、数学的に・論理的に相容れない、二つの主張を同時に肯定しないと気が済まないという、 NHKの制作陣の方針上の矛盾を、無理矢理、 理論の数学的内容に責任転嫁しようとする、 制作陣の、まさしく文字通り無責任な姿勢が窺えます。このような局面に遭遇すると、 「veritas vos liberabit」 (=「真実はあなたがたを自由にする」)という、有名なラテン語の格言が頭に浮かびます。つまり、上述の「模範解答」(2例)のように、数学的な内容を、NHKらしい立派なCG技術等を駆使してただ淡々と正確に解説していれば、「二つの矛盾した主張を同時に肯定しなければならない」という、無責任な上に、不純かつ実につまらない政治的な葛藤からすんなり解放されるのではないか、ということです。 海外の研究者への取材について 番組後半では、何名かの否定的な海外の研究者へのインタビューが出てきますが、これらのインタビューについて様々な疑問点があります。 まず、これらのインタビュー全般を通しての疑問点ですが、何で次のような、まさにことの核心・本質を突くような質問をしようとしなかったのか、こちらとしては不思議でなりません: ・数学の性質上、適切な、建設的な空気の下で論理的な議論さえ行なうことができれば、必ず共通の認識に到達することができるはずです。今年1月のブログ記事で言及した欧米の研究者もまさにそのとてもよい一例になりました。また [EssLgc] §1.12でも解説している通り、理論が書かれている原論文や解説論文を読むことの他に、数学的対話を行なうことが、諸々の誤解を解消する上において、最も重要な手段であると言えます。にも関わらず、もし理論についてどうしても理解できないことがあると仰るのなら、何で望月本人(または望月の周辺にいる研究者)に直接連絡して、メールやビデオ通話等を通して徹底的に議論しようとしませんか。 ・これまでの数々のブログ記事でも、[EssLgc] でも解説している通り、誤解が原因で否定的な立場をとる研究者たちは、理論において同型な数学的対象たちを無理矢理同一視することを主張していますが、そのような不適切な同一視をしてしまうと、理論の論理構造の中核を成している「アンド '∧'」構造が破綻してしまいます。もし不適切な同一視を実行しても理論の論理構造に影響が生じないことを主張するのであれば、この理論の論理構造の中核を成している「アンド '∧'」構造の破綻との整合性をどう説明しますか。 一方、個別の研究者についても様々な疑問点が頭に浮かびました: ファルティングス氏の場合: ・インタビューでは、数学の理論は、論文を丁寧に読まなくても大まかな方針・アイデアを手短に伝えただけで理論の正否が判断できるものでないといけないことを主張しています。まず、一般論のレベルで考えても、これは全く可笑しな話で、読む側の研究者が既に精通している理論や議論に非常に近い内容の論文の場合、論文の詳細を精読するまでもなく、大まかな方針・アイデアを聞いただけで理論の正否の判断が付くことがあるとしても、多くの場合、つまり読む側の研究者が偶々慣れ親しんでいる範囲から外れている数学的手法を用いる論文ですと、論文を丁寧に読んでなおかつ場合によっては相当の時間をその内容の消化・理解に費やさないと、論文の内容を理解することはできません。これは数学全般に通じる常識と言い切ってよいと思います。なお、ファルティングス氏の場合、ご本人の研究(=1980年代後半の、p進ホッジ理論における「殆どエタール拡大」の研究が特にそうですが)の歴史的経緯から考えても上述の主張はとても不思議な主張に聞こえます。ご本人の研究論文の場合、他のp進ホッジ理論の専門家が論文のアイデアをちょっと聞いただけで論文の正否の判断が簡単にできたかというと、実態は(関係者の間ではよく知られている話ですが)それには程遠いものでした。実際、同氏は当時、まさに自分の論文を丁寧に読んでくれる研究者が余りいないことによって的外れな批判が多発しているだけだと盛んに主張していたように記憶しております。つまり、同氏の主張を時間軸に沿って総括しますと、「自分の論文を丁寧に読んでくれない研究者は断じて許せないが、他者の論文を丁寧に読むことを自分に期待するなんて到底承服できない」という、身勝手極まりない、一方的な主張のようにしか聞こえません。 ・ファルティングス氏のインタビューの別の部分では、宇宙際タイヒミューラー理論の最も基本的な問題は、「望月が理論を説明してくれない」ことにあるという主旨の主張をしています。過去10年間にわたり、多数の研究者に対して膨大な時間を掛けて、一対一の交流や多数の講演・研究集会を通して理論を解説し、理論の理解者が多数出現しているという実態を考えると、こちらとしてはとても不思議な主張に聞こえます。また個人的なレベルで見ても、過去の数々の研究集会への招待を同氏が断ったり、昨年秋には同氏宛てに数学的対話を呼び掛けるメールをこちらから送信しても返信がなかったりと、とにかく不思議な思いが拭えません。 デュプイ氏の場合: ・番組後半の、特に最後の部分では、デュプイ氏の活動に焦点を当て、まるで輝かしい「希望の星」であるかのような演出をしています。一般論になりますが、同氏が行なっているような理論の普及活動に取り掛かる前に、まず自分自身、理論を適切に、きちんとした形で理解する必要があります。限定的な、中途半端な理解しかないまま活動を開始してしまいますと、自分自身の誤解を広めることにしかなりません。詳細はここでは控えさせていただきますが、このような一般論から考えると、上述の番組の演出にはただならぬ違和感を覚えます。 最後に、海外での放送用に番組の英語版(=字幕なのか、吹き替え版なのかは不明ですが)も準備中であるとの情報がありますが、本記事で詳しく解説した通り、もし番組の内容(=特に番組後半)を大幅に訂正しないまま、このような計画が実行されてしまいますと、私や私の研究に対する多数の残念な誤解の拡散や名誉棄損に繋がる可能性があるのみならず、「日本を代表するNHK」ということで、日本の国全体の文化的水準に対する「評価の下方修正」(=具体的には、冷笑?失笑?場合によっては爆笑?)を誘発する危険性を孕んでいることを、関係者の方々に是非ご自覚いただきたいように思います。
2022.05.02
2021年といえば、数理研で行なわれた訪問滞在型研究「宇宙際タイヒミューラー理論の拡がり」の中核的事業となった4件の研究集会やその関連業務を中心に、宇宙際タイヒミューラー理論や、関連する遠アーベル幾何学の普及活動に奔走した一年でした。特に、ズーム(+アクロバット+マイクロソフト・ホワイトボード)による講演を全部で13コマ(=上記研究集会4件+12月に開催された別の研究集会1件において)行ないました。また講演のビデオ閲覧のための登録と、数学的な対話を呼びかける招待状を国内外の200~300名の数学者に送り、数十名の数学者による閲覧登録の申請を受け付けました。一方、講演に関連した数々の質問をオンラインや集会のスラックのワークスペースで受け付けて、質問への対応にかなりの時間と気力を費やすことになりました。そもそも2021年と言えば、3月に宇宙際タイヒミューラー理論の原論文4編が数学雑誌PRIMSの特別号に正式に出版され、また秋に、宇宙際タイヒミューラー理論の数値的に精密化された改良版[ExpEst]の、(東京工業大学が発行する)数学雑誌Kodai Mathematical Journalへの掲載が決定しました。これらの動きは国内の報道機関で取り上げられました。なお、更なる興味深い応用に向けた、宇宙際タイヒミューラー理論の更なる改良版の執筆作業も始まっており、この更なる改良版の報告が(上記4件の集会のうちの一つである)2021年9月の集会で行なわれました。一方、2021年3月に公開し、それ以降も度々更新している原稿[EssLgc]の(非専門家向けの)§1(=特に、§1.5, §1.8, §1.10)や2020年1月のブログ記事で詳しく解説している通り、私の研究や私自身を巡っては、(特に)欧米では、過去9年以上にわたり、現代西洋文明、あるいはいわゆる「西洋的価値観」の最も中核的な基盤を成しているはずの様々な考え方・議論の明示的かつ詳細な記録・基本的人権・法の支配・司法の適正かつ透明性が確保された形 での手続きの保障・証明責任・説明責任等の精神を根源的に蹂躙するような、実につまらない誤解に端を発した、極めて悪質な言動(=誹謗中傷・名誉棄損等)の嵐が吹き荒れており、残念ながら現在も、その勢いは衰える気配を見せておりません。これまで見た(欧米の報道は疎か)日本の報道でも、この欧米のお粗末かつ遺憾極まりない実態を直視し、毅然とした姿勢で厳しく糾弾する論調の報道を私は未だに目にした記憶がありません。またこの状況は、報道機関には数学的内容について厳密に理解する能力が本質的に欠如していることと決して無関係ではないようにも思います。しかし、一方で(ブログ記事でも)[EssLgc]でも詳しく解説している通り、否定的な人たちの数学的主張が如何に荒唐無稽でお粗末・滅茶苦茶であるかは、(日本でいうと)修士課程の学生でも十分理解可能な数学的内容です。一般に、報道という職業においては、(別に数学でなくても)必然的に、政治・経済・法学・会計学等、様々な専門分野の高度な知識がないと適切な内容の記事が書けないことはそれほど珍しい事態ではないはずです。つまり、これら数学以外の専門分野の場合もそうですが、記者の方が、高度な数学的な専門知識が全くない方であっても、取材に際して、様々な数学的主張を展開する相手については、その相手の社会的地位等々よりも、 相手の数学的主張を証明する議論が きちんとした厳密な形で書かれた文献 ・記録(=論文のPDFファイル等)の 存在や特定(=例えば、URL等による)つまり、もう少し平たく言うと、 相手の数学的主張の論理構造の追跡を 可能にする(文献・記録等の)明示的 な物的証拠の確保や相手自身の証明 責任・説明責任(=「バーデン・オブ ・プルーフ、アカウンタビリティ」)が如何に本質的に重要であるかは十分理解可能なはずです。しかし、これまで見た報道機関の取材ではそのような文献の存在や特定、あるいは主張が根拠としている数学的な議論の論理構造の・追跡可能性(=「トレーサビリティ」)や、・肝心の相手の証明責任・説明責任、・立証の手続きの透明性等への言及すら見たことがありません。歴史的な観点から見ても、例えばいわゆる「フェルマ予想」がフェルマによって既に証明されていたかどうかという問題に関して、本質的に重要なことは(指摘するまでもなく!)フェルマという個人の社会的地位等々ではなく、そのような証明が詳しく明示的に記述された文献・記録の存在・非存在であることは、数学の専門知識が全くない記者の方でも十分理解可能なはずです。宇宙際タイヒミューラー理論に対する批判的な主張の場合もそうですが、一般に、数学的主張が根拠としている数学的な議論の論理構造が詳細に記述された文献が明らかにされない状況が長期にわたって続くと、論理構造が永久的に謎のまま、迷宮入りを迎える虞が現実味を帯びてきます。そのような状況は数学界に多大かつ全く不必要な混乱をもたらすものであり、また(数学雑誌PRIMSの出版元である)EMS(=ヨーロッパ数学界)の行動規範「COP」に記された「著者の責任」の第6項目 「数学者は、新しい定理を証明した、あるい は特定の数学的問題を解決したとする、公 の主張を行なった場合、主張を証明する 詳細な議論を、時宜に適った形で公表する 義務を負っている」の精神に対する、明確かつ重大な違反でもあります。この文脈においてもう一つ重要な側面は、主張を展開する相手の態度であることも指摘しなければなりません。2020年1月のブログ記事や[EssLgc]の§1でも指摘していることですが、理論について誤解されている内容は、適切な論理的な姿勢で向き合えば、(日本でいうと)修士課程レベルの、それほど難しくない数学的内容であり、時間の圧迫を感じることなく、半年~一年程度の期間にわたって議論を行なう機会さえあれば、理解することはそれほど困難なことではありません。実際、2021年の、当方にとって特筆すべき出来事の一つは、まさに長らく宇宙際タイヒミューラー理論について誤解に基く内容の主張を展開していた欧米の数学者の一人を相手に、[EssLgc]の§3の内容を辛抱強く解説することによって、漸く相手に自分の主張が全くの誤解であったことを明示的に認めていただいたことです。相手の主張・思考の論理構造の細かい分析は双方にとって大変な時間と労力を要する作業となってしまいましたが、それでも 常に友好的かつ建設的な空気の下で 適切な論理的な議論を行なうことに よって長らく続いた相手の誤解を 決定的に氷解させることができたことは、2021年に起きた様々な出来事の中でも、当方にとっては珍しく希望を抱かせられる、とても貴重な経験となりました。またこのような文脈においてもう一つよく聞かれることですが、 宇宙際タイヒミューラー理論を巡る誤解 は計算機による、理論の正否確認によって 解消できるのではないかという質問ですが、幸か不幸かは別として、そういう性質の問題ではありません。[EssLgc]の§3でも詳しく解説していることですが、理論の誤解されがちな側面を、基礎的論理演算子 '∧'(=「AND」)・'∨'(=「OR」)の列で記述すると、(上でも指摘した通り、)それほど複雑な論理構造ではありませんし、計算機を用いるまでもなく、簡単に正否を確認することができます。また仮に何等かのソフト・アルゴリズム等を計算機上で走らせて「確認できた」という報告があがったとしても、元々懐疑的な観察者からすれば、ソフト・アルゴリズム等による理論の正否確認の仕組み自体の正否確認に疑問が生じることになるだけで、議論が収束する可能性は極めて低いと考えざるを得ません。つまり、何度も強調していることですが、理論を巡る誤解を克服する唯一の決定的手段は、 適切な論理的な数学的議論を通して、理論 に含まれる数学と向き合い、数学的に関与 することです。本当はこれは別に宇宙際タイヒミューラー理論の特殊性の問題ではなく、どの数学にも言えることですが、上述のような意味での適切な数学的関与を拒否する限り、その数学を決定的な形で理解することはできません。最後に、このような文脈においてもう一つ、参考となりうる考え方ですが、数学の「発展的復元可能性」という考え方です。上でも述べた通り、ある数学的理論の正否やその理論に対するある当事者の理解度を確認する方法として、最も基本的かつ直接的な確認方法は当然、その数学的理論の論理構造の細部にわたる点検ということになります。一方で、やや間接的な視点となってしまいますが、その数学的理論が正しい(あるいは正しく理解されている)場合、 その理論がもたらす、その後の応用等の 展開・発展によって理論の正しさ(あるい は理解度)を確認することができるというのが、「発展的復元可能性」という考え方です。つまり、言ってみれば、理論の正しさ(あるいは理解度)を、前述した直接的な論理構造の細部にわたる点検によって確認するのではなく、 理論がもたらすその後の発展から その理論の正しさを「復元」するという考え方です。因みに、この「復元」という考え方は、宇宙際タイヒミューラー理論や遠アーベル幾何幾何学においても非常に中心的・中核的な考え方であり、その意味でも、宇宙際タイヒミューラー理論の文脈において、この「発展的復元可能性」に注目することは至って自然な流れであると言えます。宇宙際タイヒミューラー理論の場合の具体的な事例としては、上でも言及した宇宙際タイヒミューラー理論の、・数値的に精密化された改良版[ExpEst]や・まだ執筆中の更なる改良版が挙げられます。一方で、それほど高級な数学でなくても、この「発展的復元可能性」という考え方は様々な事例に対して適用可能です。身近な例では、学生向けの試験等に登場する、数学の「応用問題」が挙げられますが、もう少し非日常的な事例では、地球外文明の探索や古代文明の数学的理解度・成熟度の測定があります。特に古代文明における数学の場合、文明の数学的理解度・成熟度を「発展的復元可能性」の視点から示すものとしては、・古代バビロニアの(ピタゴラスの三つ組について 書かれた)有名な粘土板文献「Plimpton 322」、・エジプトのピラミッド、・ナスカの地上絵、・プマプンクの古代遺跡等々、非常に興味深い事例が多数挙げられます。
2022.01.01
読者の皆様、明けましておめでとうございます。ブログ記事の件数こそ、ここ何年は少な目な傾向が目立ちますが、(これまでの記事にも、今回の年始記事にも言えることですが)「密」な内容を心掛けて執筆に当たっておりますので、一年(あるいは複数年)を通じて記事の内容が読者の皆さんの刺激になれば幸いです。そのような意味合いを込めて、本年もどうぞよろしくお願い致します。
2022.01.01
読者の皆様、明けましておめでとうございます。最近は記事が疎らで、読者の皆さんに対しては誠に申し訳なく思っておりますが、本年もよろしくお願い致します。今回のお正月休みも、(多忙のため)この通り、比較的短い、「年賀状型」の記事1件で失礼させていただきます。昨年と言えば、私の場合、宇宙際タイヒミューラー理論の連続論文4篇の学術雑誌への掲載決定発表という、昨年1月のブログ記事を執筆した時点では全く想定していなかった幸運な展開があり、またコロナ禍の影響で予定されていたRIMSプロジェクト(=いわゆる「訪問滞在型研究」)が2021年度に延期されることになりました。海外の研究者による短期間の日本での滞在が未だに難しい状況が続いているわけですから、集会は恐らく「ハイブリッド形式」(つまり、近くにいる参加者が対面で参加し、そうでない大多数の参加者はズームで参加するという形式)で開催されることになるかと思います。昨年11月に、アメリカのカリフォルニア大学バークレー校のズーム・コロキウムで(自宅から)講演しましたが、今年はズームやマイクロソフト・ホワイトボード等による、世界各地の数学者とのオンライン交流を通した、宇宙際タイヒミューラー理論の普及活動を益々活発に行なっていきたいと考えています。特に昨年1月のブログ記事で「∧」と「∨」を通して詳しく解説した、宇宙際タイヒミューラー理論の論理構造については、昨年の秋頃になって、更により詳細な、「∧」と「∨」を通した解説ができるようになって、それに関する報告書を現在纏めているところです。この報告書は数ヶ月以内に完成する見通しですが、普及活動を行なう上で重要な道具になると期待しています。一方で、昨年はコロナ禍の影響で仕事の業務内容や形態を含む生活のありとあらゆる場面が大きく変化した一年でもありました。このような大きな変化に見舞われること自体、仕事や生活の様々な場面において、 本当に真に必要、あるいは本質的な ものは何か、について一度立ち止まって改めて見つめ直すことを余儀なくされるという意味においては、個人の人生の効率化・最適化、ひいては人類の文明の発展にとっては健全かつ有意義な刺激という面もあるように感じました。特に私の場合、以前から本ブログの何件もの記事で訴えてきたように、誰の手にも負えない、 破壊的な複雑度の爆発を避けるには、国と国、組織と組織、あるいは個人と個人の間に、「心ある壁」を設けて一定の距離を置くことが如何に大切なことであるか、(コロナウィルス感染の拡大防止という、差し迫った事態によって)改めて浮き彫りになったように感じました。つまり、平たく言うと、 「心壁論」は自然界の論理構造=一種の 数学に近い法則に則った考え方であり、決して間違っていなかったのだということに関して、昨年は自分としては自信を深める場面に度々遭遇した一年でもありました。
2021.01.02
最近、本ブログ、特にコメント欄の運営に関連する興味深い情報を知るに至りましたので、 情報のリンクを読者の皆様と共有します。別の視点によるこちらの 解説も併せてご参照下さい。簡単に要約すると、 名誉毀損や面会の要求、つきまとい等、 不適切な内容のコメントの投稿は法的措置の対象と成り得ます。お心当たりのある方は特にご注意願います。どうぞよろしくお願いします。
2020.07.18
記事の標題にあるテーマについて度々聞かれますので、この際、内容をきちんと整理して皆さんにお伝えしたいと思います。この内容は報告とも言えますが、広い意味での、一種の「内部告発」とも言えます。まず強調しなければならないことは、理論に関わっている研究者の、約7年半に及ぶ大変な努力によって、理論の論理構造は細部まで徹底的に分析・議論され、何十回もの単独講演や何件もの大きな研究集会で詳細に解説され、また何名もの研究者により(いわゆる「サーベイ」という形で)解説原稿が出版され、特に理論の正しさは何十回、何百回と確認されており、この検証活動によって多数の軽微な記述上の不備等は発見され直ちに修正されているものの、理論の本質的な正しさに関わる問題点は一件も確認されていないということです。未だにときどき、ネット等で、「理論の正しさはまだ確認されていない」といったような主旨の主張を目にすることがありますが、多数の研究者による、この7年半に及ぶ膨大な時間や労力による壮大な規模の検証活動の中身や重みを鑑みるに、これは甚だしい事実誤認としか言いようがありません。理論の検証や更なる発展に関わった研究者の中には、様々な国籍、所属大学、年齢、職位等の方が含まれていますが、特に講師(相当)以上の研究者の場合、それなりの研究実績を有していて、数学雑誌の論文の査読を何十件も担当した経験のある方も何名も含まれています。これらの事実だけから考えても、IUTeichの論文が未だに正式に出版されていないことは大変不思議で不自然・不可解・不条理なことであり、実際、多くの理論の関係者はまさにそのような認識でおり、またそのような趣旨の発言を度々口にしています。では、実際の論文の査読状況はどうなっているのでしょうか。まず、2012年8月、IUTeichの連続論文4編を某数学雑誌に投稿し、それ以降、査読報告書は一回(=2016年5月=ちょうど論文の投稿から3年8ヶ月程経過した時点)しか受け取っていません。その査読報告書(英語・約5頁)は(公開するつもりはありませんが)IUTeichの連続論文を絶賛した上で、「論文の出版を非常に強く薦める」内容となっています。20件程の誤植等、それまで私や他の関係者が見逃した軽微なミスも指摘されていましたが、それらの指摘には直ぐに対応しました。また、2017年9月に雑誌から論文の完成版(=つまり、ニュアンスとしては、「本番の出版用の最終版」)の提出を求める連絡があり、その後暫くして論文の完成版を提出しました。一方、2016年5月以降、雑誌からは査読報告書のような正式の文書は一件も送られてきません。2019.01.02の記事でも強調した通り、歴史的な観点から言っても、 明示的な記録を残すことは 非常に本質的に重要なことです。数学雑誌による論文の審査の場合、査読報告書は審査の実態(=論文がただ放置されているだけだという状態とどこが違うか等)を確認する上において、殆ど唯一と言ってよい「明示的な記録」ということになります。私は、これまで約30年間にわたり、著者、査読者、編集委員、編集委員長等、様々な立場、また様々な雑誌での論文の査読に関与した経験がありますが、このように「論文の出版を非常に強く薦める」極めて肯定的な内容の査読報告書が著者に送られ、その後、3年8ヶ月もの間、何の説明等もなく、論文が事実上放置される(のと、著者からすれば区別が付かない)状況に置かれる、といったような事例に遭遇したことがありません。むしろ、以前、編集委員長の立場で、「論文の出版を強く薦める」趣旨の査読報告書を受け取った後、論文が約1年間、事実上放置された状況に対して、それなりの業績のある海外の教授の方からの「怒りの抗議」の手紙(=雑誌の運営状況を厳しく批判する主旨の内容)への対応に追われた経験すらあります。(その場合、論文を担当していた編集委員や査読者との交渉により、数週間で問題を円満に解決することができましたが。)では、どのような理由によって論文が事実上放置される状況が発生しているのでしょうか。もしも実質的な数学的な問題があるのであれば、その問題を詳細に記述した査読報告書を著者に送るのは通常の数学雑誌の手続きになります。もちろん査読報告書を用意するのに多少の時間は必要になりますが、以前から審査に掛かっている論文であるにも関わらず、査読報告書(=多くの場合は、1~2頁程度、長くても通常は5頁を超えない)を用意するのに3年8ヶ月もの年月が必要であるというのは通常の雑誌の運営状況からして如何にも正当化が困難な話になります。実際、2016年5月の5頁の査読報告書は、論文の投稿から(偶々ですが)ちょうど3年8ヶ月後に私の手元に届きました。これまでの私の経験では、論文の投稿後、想定外に長い(例えば、5年超等)時間が経過している場合、「申し訳ない。後、~ヶ月で査読報告書が出来上がる予定なので、もうしばらくお待ち下さい。」といったような主旨の連絡が雑誌側の関係者から届きますが、IUTeichの論文の場合、雑誌の関係者とこのような話題をしても、数学的な問題、あるいは査読報告書等への言及は一切ありません。そうすると、IUTeichの論文の査読を巡っては一体何が起きているのでしょうか。海外ではIUTeichについては、数学的には全く出鱈目な内容の指摘による様々な深刻な誤解が発生していて、この誤解については後程詳しく説明したいと思いますが、この手の誤解に対しては雑誌は如何にも不思議で、「学問の健全な発展」という、学問の世界において本来最も優先されるべき観点から言えば、極めて非建設的な立場を取っています。具体的には、雑誌の関係者はこれらの誤解の背後にある数学的に出鱈目な内容については、その数学的な出鱈目さを、査読報告書のような公式の文書という形で確認しない姿勢を取りながらも、実際には(その全体的な態度、物言い等から判断するに)十分に理解し、認識していることは間違いありません。しかしその一方で、誤解の数学的に出鱈目な内容に端を発した、海外の数学界のとある勢力による、私の研究に対する「激しい敵意」については、恐れを成してしまっている(=平たくいうと、「ビビってしまっている」)のでしょうか、毅然とした姿勢を取ることを完全に拒み、事実上、論文を放置し「機能不全もしくは機能停止」のような、如何にも残念(=情けない?)状態に陥っているように見受けられます。具体的には、「何も言えない・何も分からない・何もできない」といったような趣旨の発言をただ連発するだけで、論文を巡っては何がどうかなっているのか、誰にもさっぱり分からない 底なしの「ブラックホール状態」を 常態化させ、意味不明な「玉虫色天国」 をただひたすらに永久的に維持・運営しようとしているようにしか見受けられません。「中立的」な「玉虫色」の状態を維持することこそ、最も究極的に潔い姿勢である、と言わんばかりの方針で動いている雑誌や大学行政の関係者が相当数いるように見受けられますが、数学の場合、むしろ曖昧な状態を排して なるべく効率よく白黒を付けること は数学の精神の基本中の基本であり、社会的な勢力図に配慮した形の玉虫色の「中立論」は数学の研究には本質的に馴染まないものであります。なお、先ほど言及した誤解の場合、本記事の後半で詳しく解説している通り、効率よく白黒を付けることはそれほど技術的に困難なことではありません。更にもう一つの重要な側面を指摘しますと、上述のような曖昧な状態を(10年に迫る)長期にわたって「運営」していくことは、様々な場面において学問の健全な発展を根本的に阻害するものであり、私だけでなく、他の関係者、特に周辺の若手研究者の人生(=具体的には、就職や論文の出版等)に重大な影を落とす事態であり、学問の本来あるべき姿には程遠いものであると言わざるを得ません。ただし、ここで一つ注意しなければならない点ですが、この(本来優先されるべき「学問の健全な発展」という観点からして)余りにも奇妙で非建設的な「ブラックホール状態」の糸を引いている「黒幕」の正体については私は全く情報を持っておりません。つまり、「ブラックホール状態」の発生が、雑誌の関係者の独自の判断によるものなのか、海外の有力者の(何等かの人脈を介した)直接的な圧力によるものなのか、海外の「激しい敵意」に対して文科省官僚や大学の行政関係者が「忖度」をして雑誌に掛けた圧力によるものなのか、無数の可能性が頭が浮かびますが、現時点ではその発生の仕組みの解明には至っておりません。別の言い方をすれば、本記事の冒頭で「一種の内部告発」という表現を用いましたが、その広い意味での告発の対象は「海外の数学界のとある勢力による無意味な数学的な誤解」ということになりますが、より直接的・具体的な意味での告発の対象である「非建設的なブラックホールを発生させている黒幕」の正体は不詳のままであるということになります。ここまでの話を要約すると、IUTeichの論文を巡っては、本来の数学雑誌による査読・審査のあるべき姿、つまり、学問の健全な発展を最優先に、細かい数学的な内容について査読報告書とそれに対する著者からの返答のやりとりを通して論文の数学的内容の検証を進めるという状態から著しく乖離した奇妙で非建設的な「ブラックホール状態」が長年にわたって続いているということです。では、この異常な状態を解消し、論文の査読・審査を、 技術的な数学的な内容のやりとりを 主体とする本来の姿に戻すにはどうしたらよいのでしょうか。まず、どの数学論文にも言えることですが、その論文の内容を本格的に技術的に理解し、査読・審査に関わる技術的な資格のある研究者は世界的に見てもかなり限られていて、論文のテーマによっては世界的に見ても数人程しか存在しないといったような場合もそれほど珍しくありません。幸か不幸かは別として、これが現代数学の実態です。論文の内容をきちんと理解する技術的な資格のない研究者に査読を依頼しても、意味のある内容の査読が行なわれないことになるだけです。IUTeichの場合、「年頭所感 2020」でも言及した通り、関係者の大変な努力によって何名(=その人数は10名に迫る勢いである)もの理論の「習熟者」をこれまで育成することができました。そのような、査読に適任な「習熟者」に査読を依頼すれば、論文の査読は正常な形で実施することが可能であり、かつそれほど時間を要しないはずです。実際、2016年5月に受け取った査読報告書の場合、その書き方(=詳細な技術的な指摘等)からは明らかですが、立派に適任な研究者によって執筆されたものです。では、何で(論文の学問的内容に対する習熟度からして)適任な研究者による、通常の「正常な形での査読」(=例えば論文の投稿から2016年~2017年頃までの状態)ではだめなのでしょうか。上でも指摘した通り、非建設的な「ブラックホール状態」発生の仕組みや、発生させた「黒幕」の正体については私は何も分かりませんが、何等かの(=場合によっては複雑で「忖度」等を介した間接的な)仕組みによって海外の数学界のとある勢力を「震源地」とする妨害活動によって発生している事態と思われます。その海外の数学界のとある勢力は、(長年にわたるネット上の書き込み・誹謗中傷等からは明らかですが)私や私の研究に対して極めて激しい敵意を持っている人たちです。その激しい敵意の原因については、謎の部分が多く、純然たる感情論や様々な社会的・文化的・政治的背景、といったような非数学的な要因も少なからずあるという印象を強く受けておりますが、一方で、(これまで何度も言及していてかつ以下で詳しく解説する予定の)とある数学的な誤解も大きな要因ではないかと考えています。誤解そのものの解説に入る前に、一つ注意しておきたい点ですが、理論の正しさを検証する活動と、(他者による)理論に対する誤解を発見し処理する活動は根本的に「業務内容」が違うということです。前者の方は、上でも説明した通り、7年半前から多くの関係者によって精力的に行なわれていて、理論の正しさは既に何十回、何百回と確認されていて、これ以上行なおうとしても、理論の検証すべき箇所が見当たらず空転するのみである、つまり、別の言い方をすれば、既に(というよりだいぶ前から)「飽和状態」にあるということです。一方、「誤解学」と呼んでいる後者の方の活動ですが、 相手の誤解という肝心な「入力データ」 =「誤解学の研究対象」がないと始まらない活動になります。簡単な喩えになりますが、例えば、黒板に「2+2=4」という式を書いた人物「ヨンさん」がいたとします。その式を遠くから一瞬だけ覗いてみて、式を「2+2=9」という式と誤認した人物「キューさん」がいたとします。キューさんは、ヨンさんが「2+2=9」という式を主張しているという認識から、ヨンさんを、とんでもない間違った式を書いた人物として激しく誹謗中傷するかもしれません。しかし、誹謗中傷だけですと、ヨンさんは対応のしようがありません。つまり、「2+2=4」という式の数学的正しさを何度確認しても、キューさんの誹謗中傷に対しては意味のある対応には全くなりません。ヨンさんが意味のある対応を取るには、キューさんが「2+2=4」という式を 「2+2=9」という式と誤認している のであるという、肝心な入力データがないと意味のある対応は取れません。そのような肝心な入力データをヨンさんが入手して初めて意味のある形で「誤解学的な研究」に着手し、誤解の内容の適切な分析によって意味のある形での、キューさんの誤解の「決定的な処理」に当たることができます。ただし、数学的な内容からして適切な誤解学的分析が完成しても、ヨンさんとキューさんを巡る社会的な状況が、回復が困難になる程こじれてしまうと、学問的内容=誤解学的研究の分析結果だけ提示してもどうにもならない場合があります。IUTeichの場合、2017年末辺りまでは、私や私の研究に対する、海外の数学界のとある勢力によるネット上の激しい誹謗中傷の存在は認識していましたが、その背後にある数学的な内容(=「2+2=9」に対応する肝心な入力データ!)は全くの謎でした。今でも、その「肝心な入力データ」については完璧に把握できているかどうか分かり兼ねるところがありますが、少なくとも2018年の様々な動きによって、初めて「肝心な入力データ」を入手することができました。その「肝心な入力データ」を元に、個別の誤解について分析し、その誤解を決定的に処理するための解説(=誤解の主張のどこがどういうふうに間違っているかという詳細な説明)を2018年に行ないました。一方で、2019年の夏頃までは個別の誤解への対応が済んでいても、それらの誤解の発生の仕組みはまだ謎のままでした。2019年の夏頃になって誤解学上の大きな決定的な進展として、 数々の個別の誤解=「症状」を発生 する大元の「ウィルス・病原菌」の ような誤解を特定することができました。この「大元誤解の特定」は私のこれまでの誤解学の研究の中でも非常に決定的な、大きな進歩になりました。さて、以下では、この大元誤解の内容について詳しく解説してみたいと思います。より詳細な技術的な説明は私が書いたIUTeichの解説原稿[Alien] §3.11 (iv) に書いてあります。特に、[Alien]のExample 3.11.4は事実上、高校数学程度の知識でも理解可能な形で書かれていますので、関心のある読者の方には一読をお勧めしたいと思います。以下の説明は、まさにこの[Alien]のExample 3.11.4の内容の、ブログ読者向け解説ということになります。一言で言ってしまいますと、「大元誤解」の本質は、よく知られている論理演算子 「∧」(=「AND」=「かつ」)と 「∨」(=「OR」=「または」)の混乱によるものです。これらの論理演算子の意味を簡単に復習しますと、二つの命題「P」と「Q」がありますと、 「P ∧ Q」は命題「P」と「Q」の両方が同時に成立していることを意味するのに対し、 「P ∨ Q」は命題「P」と「Q」の、少なくともどちらか一方が成立しているけど、両方同時に成立しているかどうかについては言及しない(=特に、両方同時に成立していることは言えない可能性もある)ことを意味します。一般に、「P ∧ Q」より「P ∨ Q」は直ちに従いますが、逆、つまり、「P ∨ Q」より「P ∧ Q」が従うとは限りません。別の言い方をしますと、「P ∧ Q」は(相対的には)かなり強い主張をしていることになるのに対し、「P ∨ Q」の方は(相対的には)やや弱い主張をしていることになります。具体的な例は無数にありますが、例えば、ある人物「X」について 「Xの誕生日は1月1日」∧ 「Xの誕生日は2月2日」という主張は、かなり強い、矛盾めいた(=「びっくり!」な)内容の主張になりますが、一方で、 「Xの誕生日は1月1日」∨ 「Xの誕生日は2月2日」は全く驚きや不思議さのない、淡々とした調子の内容の主張になります。またもう一つの注目すべき点として、もし「Y」という、「X」とは別の人物がいたとすると、 「Xの誕生日は1月1日」∧ 「Yの誕生日は2月2日」という主張は、「∧」が出てくるような形をしていても、矛盾めいた驚きのある内容が一切含まれていない主張になります。さて、IUTeichに対する「大元誤解」の話に戻りましょう。まず、議論の中心的な対象となる4つの整数 A, B, ε, Nの記号を用意しておきます。これらの整数について、次のような不等式が成立していると仮定します: A>0, B>0, 3>ε≧0 .IUTeichでは、以前のブログ記事(=2017.01.06, 2017.05.06, 2017.11.14付けの記事を参照)でも解説した通り、「Θ(テータ)リンク」という数学的対象は中心的な役割を果たします。実際のΘリンクの定義は非常に高度な数学の知識を必要とするものですが、ここでは上述の「大元誤解」の本質的な論理構造を解説するため、先ほどの4つの整数しか出てこない、高校数学レベルの議論で説明することにしたいと思います。そのようにしますと、Θリンクの定義に対応するものは (N=-2B) ∧ (N=-A)という式になります。理論では、Θリンクから出発して様々な操作を行ない、(Θパイロットと呼ばれる数学的対象の)「マルチラディアル表示」というものを構成します。その「マルチラディアル表示」に対応する内容をこちらの議論の整数で表現しますと、 (N=-2A+ε) ∧ (N=-A)という式になります。つまり、「ε」という、比較的小さい「誤差」を認めてあげますと、本来一致するかどうか分からない整数 A と B を、まるで一致するものかのように扱うことができるということです。この「マルチラディアル表示」の内容を書き下してみると、まさに同一の整数 A に対して、論理演算子「∧」が成立していることによって、 -2A+ε=-A, つまり、A=ε< 3という式変形が可能になり、この議論の最終的な結論となる「A<3」という不等式が簡単に、形式的に従ってしまいます。先ほどの議論で注目したいことは、 論理演算子「∧」が 果たした本質的な役割です。元々のΘリンクの定義における「∧」は、一致するとは限らない整数 A と B を用いたからこそ、整合性(=「無矛盾性」)をもって定義することができました。これは先ほどの「Xの誕生日...」∧「Yの誕生日...」と全く同じ現象です。元々のΘリンクの定義が「∧」によるものであるこそ、その肝心な「∧」性を壊さないような操作によって行なわれる「マルチラディアル表示」の構成は「∧」性を引き継ぐことになります。また「マルチラディアル表示」において「∧」性が成立しているからこそ、議論の最終的な結論となる「A<3」という不等式が簡単に、形式的に従ってしまうのです。一方で、(ここから先が、先ほどの喩えの「2+2=9」に対応する「大元誤解」の内容になりますが)例えば、元々のΘリンクが、何かの理由によって (N=-2B) ∨ (N=-A)として認識(=誤認!)されたとします。すると、まず、整数 A と B が、一致するとは限らないものであることを仮定することには全く意味がない、つまり、最初から「A=B」ということにしても、整合性(=「無矛盾性」)の問題は全く発生しないのではないかと考えてしまいます。これは先ほどの「Xの誕生日...」∨「Xの誕生日...」と全く同じ現象です。しかし、最初から「A=B」ということにして、Θリンクの定義も (N=-2A) ∨ (N=-A)ということにすると、「マルチラディアル表示」に移行する際、(「∧」ではなく!!)「∨」を引き継ぐことになり、つまり、 (N=-2A+ε) ∨ (N=-A)という恰好の「∨版マルチラディアル表示」しか従わないことになってしまいます。このように考えると、実際の「マルチラディアル表示」に登場する、肝心な「∧」性を壊さないための数々の丁寧な細かい操作は全く無意味なもののように見えてしまいます。その上、最初から「A=B」ということにしてもよい状況の下で議論しているからこそ、そもそも「∨版マルチラディアル表示」(=「ε」という誤差を認めることによって本来一致するかどうか分からない整数 A と B をまるで一致するものかのように扱うことを可能にする表示)は全く無意味なものであるようにしか見えません。一方で、このように、「∨」、「∨」、「∨」で議論していると、議論の最終的な結論となる「A<3」という不等式を発生する式 -2A+ε=-Aは、まるでΘリンクや「マルチラディアル表示」の「∨版」に登場する 「∨」が、とんでもない「詐欺的な 論法」によって「∧」に勝手にすり 替えられたことによって導かれたようにしか見えません。ここでは、高級な数学的対象を用いる代わりに高校数学レベルの整数を扱う式を使って解説しましたが、上述の議論のように、本来のIUTeichの 論理構造の根幹を成している 「∧」、「∧」、「∧」が、 「∨」、「∨」、「∨」と 誤認されてしまったことが、(=上述の「大元誤解」)この7年半程続いたIUTeichを巡る(海外の数学界を震源地とする)大きな混乱(=つまり、理論がとんでもない「詐欺的な論法」の上に成り立っているとの誤解等)の真相であると考えています。当たり前ですが、もちろん、海外の(理論を理解していない)数学者が理論を批判する際、 『自分たちは「∧」を「∨」と誤認 しているため、数々の数学的に 出鱈目な主張をしていますよ!』ということを、ご丁寧に伝達してくれるのではなく、ただ凄い勢いで数学的に出鱈目な主張を並べていくだけなので、個々の個別の誤解(=正しくない数学的な主張)を発生している「大元誤解」を特定するという、誤解学的な分析には1年半程の時間を要しました。では、そもそも何で「∧」は「∨」と誤認されてしまったのでしょうか。IUTeichの連続論文では、「P ∧ Q」のような形の内容の「∧」性に対応する部分は、 「PとQを同時的に」、「Qを固定 した上でPを」、あるいは「Pと Qを、その共通部分に沿って貼り 合わせる」といったような表現で記述していますが、これらの表現はどう考えても、通常の数学的な(「デフォルト」の)解釈ですと、「∧」という捉え方しかあり得ないと思います。実際、これまで交流してきた「理論の習熟者」の多く(=特に、日本語で口頭で議論した研究者たち)はこれらの表現を問題なく最初から「∧」の意味で捉えています。また、この「大元誤解」(=つまり、「∧」は「∨」と誤認されてしまっている)の話を聞かされたとき、多数の関係者によるIUTeichの解説において様々な形で「∧」性が昔(=10年程前)から表現され強調されているにも関わらず、このような根本的な誤解がここまでおおごとになることに呆れ不思議がる習熟者も少なくありません。では、上のような「∧」性の記述に用いた表現は何で多くの(特に海外の)研究者によって誤解されたのでしょうか。これまで接してきた、誤解した人たちの数々の発言から推測するしかないですが、そのような人たちがよく強調しがちなことは、 「理論が複雑過ぎるから、思い切って 簡略化したい」あるいは 「理論を以前からよく知っている枠組 ・考え方で捉えられるはずだから、 そのように捉えることにしたい」といったような考えです。そのような考えに則った思考回路の持ち主ですと、 「とりあえず、馴染み深い枠組・考え 方に沿った理論として捉えられるよう に、A=Bということにしてしまっても 特に問題はないだろう」(記号は先ほどの高校数学レベルの議論の記号)という、数学的な根拠が全くない主張=一種の「希望的観測」が先行して、その希望的観測を正当化するためのものとして 『理論の細かいことは面倒くさいし、 余り読んでいないけど、どうせ要は、 「∨」、「∨」、「∨」と来て、最後 の不等式を導くところで「詐欺的な 論法」で「∨」を勝手に「∧」にすり 替えているだけだろう』といったような感覚が、ほぼ無意識・無自覚のうちに後から付随してくるのです。ただし、この文脈においてもう一つ強調したいことは、数学の研究者の議論において上で解説したような「∧・∨」の誤解は(幸か不幸かは別として)まさに日常茶飯事といって差し支えありません。通常の状況ですと、正常な、建設的な空気の下で議論が行なわれ、このような誤解は効率よく分析・整理され、多くの場合、(年単位の時間どころか!)数分のうちに処理できてしまうのです。実際、IUTeichにおけるこの「∧・∨」の誤解も、これまで(国内外の)研究者との議論において、まさしく数分~長くて数週間のうちに、非常に効率よく処理することに私は何度も成功しております。最後に、本記事の内容を簡単に総括したいと思いますが、総括するに当たって 「恐れるべきものは恐れ自体のみ」という有名な格言が頭に浮かびます。例えば、五百年や千年後の知識人から見て、IUTeichを巡る大きな世界的な混乱は歴史の一幕としてどのように総括されるのだろう、ときどき考えることがあります(このような考え方は2019.01.02付けの記事にも登場します)。そのような歴史的な視点に立って状況を俯瞰すると、まず、純粋に数学的な内容の面では、先ほど詳しく解説した 「∧・∨」の誤解こそが混乱の本質的な原因であることが言えるかと思います。しかし、先ほど指摘した通り、数学の研究者の議論においてこのような誤解はまさに日常茶飯事であることも紛れもない事実であり、正常な、建設的な議論が行なえるような空気さえ確保されていれば、このような誤解は数分~長くて数週間のうちに非常に効率よく処理できてしまうのです。つまり、本記事の標題の「ブラックホール」の話に戻りますと、本来なら 淡々とした技術的な数学的な議論を主体としているはずの、論文の審査や数学の研究者の議論の場ですが、 ・正常な、建設的な数学的な議論を 行なっている研究者をトンデモ系 の「狂った異端者」として描き、その上、 ・威圧的な政治的な空気や恐怖を撒き 散らし、また場合によってはネット 上の誹謗中傷で威圧的な空気や恐怖 を拡散させ、更に、 ・その恐怖の文化という虚構に対して 「忖度」や萎縮の塊と化して跪き、 機能不全・機能停止に陥ってしまう 関係者を究極的に潔い人格者として 持ち上げるといった要素・「症状」からなる文化的風潮こそが、論文の審査や数学の研究者の議論を機能不全・機能停止に追い込んでいる「真犯人」=IUTeichを巡る世界的な混乱の本質・真相と言い切ってよいのではないでしょうか。
2020.01.05
読者の皆様、新年あけましておめでとうございます。新しいブログ記事の掲載は年始のみ、というパターンは残念ながら当分は続きそうです。年末年始と言えば、年賀状の季節ですが、まさに読者の皆さんへの年賀状のような気持ちで書いているところがあります。2020年度、数理研では、宇宙際タイヒミューラー理論を中心的なテーマとした「訪問滞在型研究」=通称「プロジェクト」(英語で説明するときは「スペシャル・イヤー」と呼ぶこともあります)が予定されており、4件の大きな集会と、多数の海外からの訪問者により、以前にも増して多忙を極める一年になりそうです。これまでは関係者の大変な努力によって宇宙際タイヒミューラー理論の習熟者を一人ずつ育ててきており、その数も10名に迫る勢いですが、今年はこれまで蓄積された知恵や、「よくある誤解」を効率よく処理する技術を総動員して、そのような習熟者を量産できる体制を確立していきたいと考えています。昨年3月に50歳代に突入してしまいましたが、今年は50歳代らしい充実した活動ぶりを発揮できる一年にすることを目指しますので、どうぞよろしくお願い致します。
2020.01.01
2018年を振り返ると、海外を発信源とする、出鱈目な内容の残念な雑音に振り回された年になってしまったな、というのが正直な感想です。そのような出鱈目な内容の残念な雑音に接した場合、毅然とした姿勢で対応することの重要性を改めて認識させられる年にもなりました。更に、そのような状況に遭遇したとき、毅然とした姿勢で対応することを可とせず、「おこがましい」とか、「僭越だ」、「傲慢だ」といったような批判を浴びせたり、何とか工夫してごまかしたり、(事実関係からして頓珍漢な)玉虫色の絵を描こうとしたりする等、いわゆる「事なかれ主義」的な対応こそを最も「潔い」対応の形態とする、実に残念な文化が国内外を問わず人類社会に深く根を下ろしているという実態を、改めてまざまざと見せ付けられたような思いをしました。以前の記事(=2017-11-21付け)でも、「ノー」と言うべきときには、明確かつ毅然とした姿勢で「ノー」を発信することの重要性に言及しましたが、より大局的な視座から考えても、 議論全体の健全な形での進行・発展を図る上においても、毅然とした姿勢で対応することは議論に直接関わっている関係者全員のみならず、後世の利益にも最も適った形の対応になります。関連した指摘になりますが、昨年(=2018年)は大航海時代の地動説や、20世紀前半の相対性理論を巡る、(それぞれの)当時の激しい議論について初めてネット等で調べ、そのような激しい議論のような状況において、 関係者全員の主張(やその主張の背後にある 論理構造)の詳細かつ明示的で、(特に後世 の)一般人でもアクセス可能な 記録を残すことの歴史的重要性を強く印象付けられました。このような歴史的な観点から考えても、「ノー」と言うべきときには、明確かつ毅然とした姿勢で「ノー」を発信することは至って重要なことです。最後に、もう一つ、このような文脈で2018年に強く感じたことを記録しますと、大学の将来計画等の様々な書類において 「世界をリードする」という文言をよく目にしますが、(私の印象では)多くの場合には、この表現は非常に不適切な、「履き違えた」ような意味で用いられています。つまり、以前の記事(=2017-11-21付け)でも言及した通り、このような表現を用いる多くの大学関係者は、 「世界をリードする」=即ち、欧米の主流や 流行りを日本でもいち早く導入し(言い 換えれば、いち早く「ダウンロードして インストール」し)、その欧米の主流や 流行りに対して精一杯、究極的な「イエス」 を発信することこそが「世界をリードする」 ことであるというような考えの下で表現を用いているような印象を強く受けています。しかし、上で述べた通り、(欧米に限らず)時代の主流や流行りに対して、「ノー」と言うべきときには、明確かつ毅然とした姿勢で 「ノー」を発信できる文化を育むこと こそ、数学を始め、学問の原点でも あり、また(数学を始めとする)学問 の真の発展を実現する出発点でもあるというのが、私の理解です。
2019.01.02
ブログ読者の皆様、明けましておめでとうございます。本年もよろしくお願い致します。最近は忙し過ぎて、ブログを更新する時間も、テレビを見る時間もなかなかとれませんが、読者の皆様に発信したい考えや感想が大量にあるという状況は以前と全く変わりませんので、今年は仕事の多忙とブログ更新が両立するような、ブログの新しい活用の仕方を模索していきたいと考えております。
2019.01.02
去年とは書き方が多少違いますが、今回の「紅白」で気になった出演者や話題に関する感想を書きたいと思います:・欅坂46:今回の欅坂は去年と違って私にとっては初めてではなかったので去年のような衝撃はなかったのですが、今回のステージの「不協和音」という曲の歌詞で取り上げられているテーマは本ブログで度々取り上げているテーマと方向性が似ているなと改めて感じました。・パフューム:ちょうど一年前のドラマ・シーズンの「東京タラレバ娘」の主題歌ということもあって(「逃げ恥」のように特にそれほど深く感動したドラマというわけではありませんが)ドラマを懐かしく思い出しながら今回のステージを視聴しました。後、YouTubeのビデオは以前見たことがあったのですが、渋谷の高層ビルの屋上でそのようなステージを行なうと、迫力あるなと思いました。・松田聖子さん:松田聖子さんと言えば、私の場合、第一に頭に浮かぶのは約35年前流行っていた「秘密の花園」と、後、(同じころの)ドリフターズでの志村けんとの共演でしょうか。いずれにしても、ここ何年の「紅白」ではどちらかと言えば、(精一杯頑張っていらっしゃるかもしれませんが)かつてのような輝きやオーラが結構薄れてきたなというような印象でしたが、今回、余りにも鮮烈な形で若返ったように見えたのでちょっとびっくりしました。総司会の内村さんも、そのことにわざわざ注目を集めるようなコメントをしたので、もしかして何か特別なことでもあったのかなと思いました。・アニメ100周年:2017年がそうだったとは知りませんでした。次々と出てきた歴代の名アニメの画像の中に、子供の頃(=1970年代前半)大好きだった科学忍者ガッチャマンの画像も含まれていたので印象に残りました。数年前、当時(=1970年代前半)のビデオがネット上で公開されていることを偶々知って、ネットで調べたところ、(少し時間は掛かりましたが)無数のガッチャマンのヴァージョンの中から自分が見ていたヴァージョンのビデオを何とか探し当て、(もう少しで半世紀前(!)になりますが)私のおぼろげな記憶と全く変わらない主題歌を懐かしく聞いたりしながら再生しました。・福山雅治さん、黒柳徹子さん、郷ひろみさん:福山さんの年齢は私と殆ど変りませんが、一方で、黒柳徹子さんや郷ひろみさんは子供の頃から認識している「テレビのキャラクター」で、子供の私から見てやはり「大人」の代表格のような人たちでした。この二人については特に「ファン」のような気持ちがあったわけではなく、単に「あー、そう言えば、そういう人たちもいましたね」というようなレベルの関心しかなかったのです。でも、今になってみれば、現在のようなご年齢でこれほどもお元気でご活躍されているということは(私自身、体の衰えを感じ始める年齢層に入ったということもあって)本当に凄いなと思いました。後、黒柳さんと福山さんの小学生時代の話を聞いて、(小学校と大学院はもちろんレベルが全然違うわけですが)同じ教育者としての共感を覚え、また現在、私の周辺にいて、様々な問題を抱えながら奮闘している若い人たちに対して自分が(一教員=教育者として)どのように接したらよいか、考える上で参考になる話だなとも思いました。・乃木坂46:「インフルエンサー」という、(うっかりすると、「インフルエンザ」と誤入力してしまいそうな曲名の)曲で大きな賞をとったということで少し注目してみました。去年の「サイマジョ」と違って、個人的には特に感動するような曲ではありませんでしたが、 「重力」、「引力」、「自転と公転」、 「離れていたって働き掛けるその力」、 「存在するだけで影響与えてる」等、様々な数学的な概念を、踊り・音楽・歌を通して非常に鮮やかに表現できていたことに関心を持ちました。その点では、2017-01-06付けの記事で取り上げた「サイマジョ」と宇宙際タイヒミューラー理論(=「IUTeich」)との対応と比較すると、数学的概念の内容は全然違うわけですが、 踊り・音楽・歌を通して 難しい数学的な概念を表現しているというところに、以前の記事の比較との類似点があり、このような側面に関心を抱いた背景にある考察について以下ではもう少し詳しく解説してみたいと思います。まず、話はがらっと変わりますが、数学の研究は通常、研究論文という形で記録され、その研究論文は通常、英語で書かれたPDFファイルという形のデータとなって保存されます。そうすると、如何なる論文も、所詮は一つの複雑な文字列、あるいはコンピューター上の抽象的なデータとして考えると、「0」と「1」の列になります。そうすると、数学者のような立場で考えると、人類の寿命は有限ですし、例え(極論になりますが)生まれたときから打ち始めて、一切(食事等をせずに)150歳のときまで打ち続けたとしても、一人の人間が一生のうちに生成できるそういう データ(=「0」と「1」の列)の 長さは有限であるということになり、また、そのようなデータ(=「0」と「1」の列)には(数値的には膨大な数になるとしても) 有限通りの可能性しかないということになります。このような議論のヴァリアントとして、PDFファイルの代わりに、画像ファイル(=JPGファイル)、音声ファイル(=MP3ファイル)、動画ファイル(=MP4ファイル)等を記録に用いられるデータ形式として想定した場合にも同様な考察は成り立ちます。また、一人の人間ではなく、地球上の人口には上限があるわけですから、「全ての人間」という形の考察もできますし、地球そのものの寿命も有限だという視点に立つと、「過去にも未来にも存在する全ての人間」という形の同様な考察もできます。要約すると、 (*)数学は上記のようなデータ(=PDF, JPG, MP3, MP4等)によって、如何 なる情報の損失も生じることなく(= 数学用語でいうと、 数学 ↦ 上記のようなデータ という対応は単射になる)、完全に 記録可能であるという仮定の下で考えると、最近流行りの「人工知能」の文脈でよく取り上げられる囲碁、将棋、チェス等のように、 数学は完全に有限なゲームであるという結論が従ってしまいます。つまり、数値的にはとてつもなく膨大な量のデータの処理を必要とする計算になるとはいえ、 「全ての数学」は、とある有限的な計算に帰着可能であるということになります。上記の議論のまた別のヴァリアントになりますが、 (**)人間の脳に体験可能な 「認識の状態」は有限通り しかないという仮定の下で考えると、 少なくとも「認識状態歴」のレベルで 見ると、人類に経験可能な人生は高々 有限通りしかないという結論になってしまいます。もちろん、上記のような議論では、「有限」と言っても、可能性は数値的にはとてつもなく膨大な数のもの(=数学用語でいうと「濃度の集合」)を扱っていることになります。しかし、数学者の視点に立つと、数(=「濃度」)の数値的な大小ではなく、 有限か無限か?という定性的な性質が一番気になる点になります。一方、通常の人間的な感覚から言っても、 「人類に経験可能な人生は高々 有限通りしかない」、つまり、言い換えれば、その有限通りしかない可能性を(例え、現在の計算機技術では不可能だとしても、いつか開発される未来の計算機技術によって) 一度全部計算して列挙しておけば、人間 は「わざわざ」様々な苦労に耐えながら 生きていく意味がない等というような結論は、普通の人間なら受け入れることに対して強い抵抗感があるはずです。数学者も同様に、「全ての数学」は有限量しかなく、(例え、現在の計算機技術では不可能だとしても、いつか開発される未来の計算機技術によって) 一度全部計算して列挙しておけば、 数学者は「わざわざ」様々な苦労 に耐えながら数学の研究を行なう ことに意味がないといったような結論を受け入れることに対して並々ならぬ抵抗感を持っていると言い切ってよいかと思います。そうすると、上記の諸々のヴァリアントの議論の出発点となった 上記の(*)や(**)のような 「有限性仮説」は果たして正しい のだろうか、ということが気になります。特に、例えば(*)のような「単射性仮説」、つまり、「数学は論文(=PDFファイル等のデータ)によって完全に記録可能である」という仮説は、(私の場合、まさに自分の研究(=IUTeich)関連の様々な経験を経て感じたことですが) どうも正しくないのではないか、 つまり、「数学」を完全に記録し、伝達するには論文(=PDFファイル)だけでは不十分であり、どこかに 「抜け落ちている情報」が あるのではないか、と強く感じております。まさにそのことが以前から気になっているからこそ、 その「抜け落ちている情報」が忠実に 表現されている可能性があるように感 じる別系統の媒体=例えば、 ・2017-01-06付けの記事で取り 上げた「サイマジョ」、 ・2017-11の二つの記事で取り上げた 「芸術」や「バベルの塔の説話」、 ・今回の記事で取り上げた 「インフルエンサー」の検証に、数年前から特に強い関心を抱くようになりました。ただし、このような検証=「一種の研究」はまだ初期の段階にあり、例えば、数学の場合、 何故に同一のPDFファイル等のデータ を入手しているにも拘わらず、ある 数学者にはそのデータに記録されて いることになっている数学が比較的 容易に伝わっているのに、別の(同一 の専門分野のはずの)数学者には同じ データに記録されているはずの数学 がいつまで経っても伝わらないかという、実務的なレベルの謎の解明には全く至っておりません。
2018.01.04
読者の皆様、明けましておめでとうございます。昨年の年末は本ブログの閲覧件数が急増し約30倍に(!)になり、また読者の方からのコメントやメールも沢山いただきました。本ブログを通して私の人生を温かく見守って下さる読者の方には感謝の気持ちでいっぱいです。ブログ記事で取り上げたいテーマがどんどん溜まっていく一方で、忙しさに益々拍車が掛かる、そんな生活がここのところずっと続いておりますが、本年もブログの更新を頑張りますのでどうぞよろしくお願い致します。今年は(昨年と違って)やはり多忙のため、お正月番組関連の記事はちょっと厳しいかもしれません。
2018.01.01
まず、先日(=2017-11-14付け)の記事の幾つかの要点を復習したいと思います:・異質な者同士の間に「壁」を設定することは重要ですが、一方で、その「壁」を通り抜ける力のある「心」も重要です。この考え方や関連したテーマの考察を以下では「心壁論(こころ(ある)かべろん)」と呼ぶことにします。・逆に十分に異質な者同士の間に適切な「壁」を設定しないと、当事者の手に負えない複雑度の爆発が発生し、当事者同士の間の認識解像度が著しく低下することによって通常の人間らしい社会が破綻してしまうような状況に追い込まれてしまいます。これは政治的な問題、あるいは語学力の問題として誤解されがちですが、問題の本質は状況全体の論理構造にあり、一種の数学の問題として理解されるべき事象です。・以前から感じていることの一つですが、古くから伝わる物語や、芸術作品等、様々な文化遺産は実は、現代数学で用いられるような定式化の技術がなかった人たちが、直観的に感じ取っていた何らかの数学的な原理を表現し、記述するために創作したものではないしょうか。例えば、「バベルの塔」の物語では、まさに異なる民族や言語圏の人たちの間に本来存在する「壁」を無理に廃止し、一つの「組織」に纏めようとしても、複雑度の爆発によってその組織が必然的に空中分解し、バラバラになる状況が描かれています。・「バベルの塔」の物語に対応する現代数学の原理と言えば、「ラッセルのパラドックス」が頭に浮かびます。ラッセルという数学者は実際、様々な場面において人と人の間に本来存在する様々な種類の「壁」=「プライバシー」を取っ払うことに対して強い拘りを持っていたようです。・一方、私の研究(=宇宙際タイヒミューラー理論=「IUTeich」)では、特定の対象(=「フロベニウス的」な対象)が通り抜けることができない「壁」を設定することも重要ですが、その「壁」を通り抜ける力のある「心」(=「エタール的」な対象)を活用することによって非自明な帰結=定理を証明することができることも重要なポイントです。この、定理を証明するという、言ってみれば、とてもめでたい「ハッピーエンド」がIUTeichにおいて実現できることは、(「空中分解・離散」や「矛盾」のような)悲しい結末が描かれるバベルの塔の物語やラッセルのパラドックスと決定的に違います。実際、IUTeichは、「壁」と「心」を適切に設定し活用することによってラッセルのパラドックスに出てくるような矛盾的な状況を、矛盾を生じることなく「シミュレート」=「仮想的に実現」しているという見方ができます。言い換えれば、IUTeichは、「壁」と「心」を適切に設定し活用することによって、バベルの塔の物語やラッセルのパラドックスで描かれている状況に対して、これまでになかった種類の「成功例」を抽象的な数学的な理論の中で初めて実現しているという見方もできます。・先日(=2017-11-14付け)の記事の最後辺りでは「Cドライブ・Dドライブ」に関する話が出てきます。一見すると、「心壁論」とは直接関係のない話のようにも見えるかもしれませんが、OSが収容されるCドライブと、データの保管用のDドライブの間にあるものはまさに一種の「壁」であり、パソコン全体の動作に必要なCドライブとDドライブの間のデータのやりとりが適切な形で行なわれる仕組みはまさに(「心壁論」における)「心」に対応するものと見ることができます。・以前(=2017-05-06付け)の記事との関連性について少し解説してみますと、その記事では不適切な評価基準・「物差し」によって様々な社会的な損失や貧困が、不必要かつ大量に生じてしまっている社会的状況について論じましたが、このような不適切な評価基準・「物差し」は、(上記の「バベルの塔」・「心壁論」関連の「用語」で言うと) まさに心ならずも発生してしまった 複雑度の爆発を何とか抑制し、簡明 な「線型的」な秩序を確立するため の(不適切かつ極めて非建設的な!) 措置として講じられることが、一つのありがちなパターンの社会的力学として、人類社会では古代から定着しています。今回の記事では、上で復習した「心壁論」の延長線上にある、幾つかの補足的な観察や具体的な事例について考えてみたいと思います。先日(=2017-11-14付け)の記事では、米国や英語に関連した「心壁論」も展開していますが、だいぶ前(=2017-01-04付け)の記事で言及した水村美苗さんの「私小説」でも、米国の社会についてまさにバベルの塔のように、「複雑度の爆発」によって様々な深刻な不具合が発生している状況が描かれています。後、この水村美苗さんの「私小説」の関連でもう一つ思ったことですが、水村さんは子供(=12歳)のときから(親の事情により)米国にずっと在住していて英語に関しては(一般の日本人等と比較して)語学力の問題が全くなかったわけですが、それにも拘わらず、 (*) 言いたいことが山のようにあって、 しかも、それを何としても日本語で表現 しないと気が済まないということについては非常に強烈な熱意に燃えていた方のようです。水村さんは様々なことについては私とはだいぶ違うタイプの方だとは思いますが、少なくともこの点(=つまり、(*))については私の気持ちや精神状態とかなり重なるところがあることは実に興味深いように思いました。この点では、非常に格調の高いイギリス英語で文学活動を行なうことに対する拘りが目立つ、最近話題の日系英国人作家カズオ・イシグロ氏と比較すると、かなり根源的な人間性の違いを感じます。イシグロ氏は私と同じ5歳のときに初めて英語圏で暮らすようになったわけですが、私の場合、(一般の日本人等と比較して)語学力の問題がなくても、米国の学校での科目としての英語や米英文学の授業がいつもとても苦手で、自分にとっては「天敵」のような存在として認識していました。(ただし、誤解がないように書いておきますと、サボっていたわけではなく、いつも頑張ってよい成績をとっていました。)別の言い方をすると、自分の子供のときの様々な経験を思い出すと、(お互い、置かれていた状況が違っていたかもしれませんし、安易な比較をしてしまうと、様々な問題点を指摘されそうですが)イシグロ氏のように英文学に対して憧れの念を抱きながら育つという精神状態・精神構造に対しては非常に強い違和感を覚えますし、全く理解できません。私の感覚では 英語を通して記述される世界には、「色眼鏡」 のように、英語圏の文化や世界観を反映した、 著しく濁っていて有害な「歪み(ゆがみ)」が常に掛かっていて、子供の頃も今も、その歪みから解放される=その歪みと自分との間に分厚い壁(=この場合、「国境」)を確保することに対する強い意欲・「飢え」を抱えて生きてきました。子供の頃から認識していた、無数の具体例から一つ分かりやすいのを挙げてみますと、例えば、日本人の日常生活では当たり前な風景である「海苔ご飯を箸で食べる」ということを英語で表現するとなると、「海苔」を「シーウィード=つまり、海の雑草」、「箸」を「チョップスティック=ものをつついたり刺したりするための木の棒のようなイメージ」というふうに表現するしかなくて、全体としては「未開人どもが、木の棒を使って、そこいらへんの海に浮かんでいた雑草のようなゴミをライスとともに、未開人っぽい原始的な仕草でもくもく食べている」といったようなイメージに必然的になってしまいます。これは単なる一例に過ぎませんが、全体的な傾向としては、日本・日本語では大変な品格があったり、溢れる愛情や親しみの対象だったりする事物が、英語で表現した途端に、「どうしようもない原始的な未開人どもが、やはり原始的な未開人どもらしく、世にも頓珍漢で荒唐無稽なことをやっているぜ」というような印象を与える表現に化けてしまいます。過敏と言われるかもしれませんが、私は子供のときから英語のこのような空気に対しては非常に強烈なアレルギー体質で、自分たちがどれだけ根源的にコケにされているか全く自覚できずに英語や英語的な空気を浴びせられることに対して憧れのような感情を抱くタイプの日本人の精神構造が全く理解できません。少し話しが変わりますが、自分の学生(=修士課程や博士課程の大学院生)が英語で論文を書くときの指導の様子や方針について言及したいと思います。そのような指導をするときの「定番の話題」として、定冠詞・不定冠詞が付くか付かないか、単数形にするか複数形にするか等、英文を作文する際の「お馴染み」のテーマがありますが、私がいつも強調するのは、英語の語学的な技術的な側面等、 無数の非論理的な慣例や不具合・「歪み」 を抱えた自然言語に過ぎない 「英語」を忘れて、 数学的な内容の 論理構造や 「組合せ論的整理術」 (=議論や解説を細かく分割してその部分 部分を最適な順番に並び替えたりすること)に集中することの本質的な重要性です。つまり、このような作業の指導をする際のありがちなパターンですが、複雑な議論を上手く表現できなくて可笑しな意味不明な文章を書いたとき、学生は自分の語学力が不十分であることに原因があると訴えて、悲鳴を上げたりしますけれども、意外に思われるかもしれませんが、意味が通じる論理的な議論を書く上での本当の勝負どころは、語学力にあるのではなく、むしろ、英語を完全に忘れた精神状態で、表現しようとしている論理構造を適切に分析して分割し、議論の論理構造が追いやすい順番に並べて最適な仕組みで整理することにあるのです。その(英語とは本質的に無関係な!)作業さえきちんとできていれば、(数学の場合)数学記号や、比較的簡単な、決まったパターンの英語の表現を使うだけで、立派な文章を作文することが十分に可能なのです。しかも、論理構造が透明な、理路整然とした議論さえ書けていれば、偶に定冠詞・不定冠詞、あるいは単数形・複数形のミスがあったりしても、英語圏の読者から見てもそれほど理解の障害にはならないのです。先日(=2017-11-14付け)の記事の最後辺りで展開した「Cドライブ・Dドライブ」の観点で説明すると、学生だけでなく、多くの日本人は 英語を勢いよく自分の脳の「Cドライブ」に 詰め込むことこそが「幸せへの究極的な近道」 と誤解しがちですが、私の無数の経験から言わせてもらいますと、 英語を自分の脳の「Cドライブ」に詰め込む ことは実際にはむしろ、大変に危険であり、 むしろ「不幸への暴走特急」にしかなりません。つまり、 脳の「Cドライブ」に最優先で搭載すべきOS はむしろ、ことの論理構造を見極め、その論理 構造を上手く分割したり整理したりするための 「組合せ論的整理術」を効率よく実行する仕様 のOSなんです。 上述のような英文添削の文脈ですと、いつも思い出すことですが、英語に出てくるような定冠詞・不定冠詞は、日本では「欧米文化を代表するような事象」として見做されがちですが、古代や東欧まで視野を広げてみますと、・ラテン語には定冠詞も不定冠詞もない、・古代ギリシャ語には不定冠詞がない、・(現代)ロシア語には定冠詞も不定冠詞もない等、多くの日本人の感覚とだいぶ違う実態が浮かび上がってきます。また、ラテン語の場合、標準的な語順は日本語と同じ「SOV型」(=主語 (Subject) - 目的語 (Object) - 動詞(Verb))となっていて、日本語の感覚からすると強い違和感のある英語の「SVO型語順」と違います。子供の頃(=10歳前後)の私には、このような文法的特徴を持ったラテン語やギリシャ語はとても魅力的に映り、 十分に古い時代まで遡りさえすれば、英語の ような現代のヨーロッパの言語が日本語と 繋がっている世界を発掘できるかもしれないといったような感覚から、15~16歳の頃(=プリンストン大学の学部1年生の頃)までラテン語とギリシャ語の他に、印欧語族の中でも最も古い言語の一つであるサンスクリット語をかなり熱心に勉強しました。なお、この定冠詞・不定冠詞の話題をするときにいつも思い出すもう一つの重要な側面は、 一神教・多神教との関係です。この側面は私の研究IUTeichの中でも重要な役割を果たす数学的な概念である 基点や宇宙、あるいは、より初等的な数学でよく出てくる概念である 座標系というものとも密接な関係にあります。その関係を一言で説明することはなかなか難しいのですが、現代の一神教の欧米の文化では、 「たった一つの神しか存在しない」ことになっているのに対応するように、 「たった一つの、がっちり決まった物事 の考え方=座標系=基点=`心の基軸’」の下で思考する文化が徹底されています。このような全体的な文化的な状況は、定冠詞・不定冠詞が付くかどうかの基準となる、 言語空間で許容されている表現 のイメージの、一つのがっちり 決まった「座標系」と符合します。一方、日本のように「多神教」(=神道の「八百万の神」)系の文化的環境ですと、そのように 許容される表現のイメージ全体に一つ の固定された「座標系」を敷き、表現 のイメージ全体を通して 同一の「座標系」=「視点」 =「声」=「神」=「心の基軸」 しか認めないという姿勢を徹底する ことにはどうしても強い違和感を覚えるため、定冠詞・不定冠詞が付くかどうかの判断基準となるものが見当たらず、付くかどうかさっぱり分からない、判断のしようがない、という精神状態からいつまで経っても抜け出せないでいることになってしまいます。子供の頃(=5歳~10歳=初めて米国に渡って間もない頃)の私は、上記のような「難しい言葉」では上手く表現できなくても、上記のような状況を子供なりに、「空気的」に、直観的に完全に理解していましたし、「一神教の人間ではない」、つまり学校等でよく耳にした、より素朴な表現で言うと、「お前は神を信じるのか、信じないのか」というような形で問い詰められたりして遭遇した苦しい社会的な状況もあって、言語だけでなく、 古代ギリシャやローマの (「日本と同じ」)多神教に大変強い関心を持っていました。実際には、ヨーロッパでは、古代ギリシャやローマだけでなく、ケルト民族やドイツ民族、更にはロシア民族には、キリスト教が普及する前に長らく続いた多神教の伝統があったのです。一つの決まった「心の基軸」と言えば、戦後日本の場合、様々な分野における 「対米(あるいは場合によっては対欧米) 従属の文化」という(私に言わせれば)日本のみならず、米国あるいは欧米を含めた人類全体にとって非常に残念な文化的傾向・「心の基軸」があります。またその対米従属の文化と切っても切れない関係にあるのが、在日米軍基地の問題です。在日米軍基地は本当は日本国民(特に沖縄県民)のみならず、選挙期間中のトランプ氏の様々な発言や、どんなに厳しい批判を向けられても犯罪行為(=当事者による一種の「悲鳴」ともとれる)が後を絶たない在日米軍基地の関係者の実態からも窺えるように、米国側にとっても大変に頭の痛い負担となっています。在日米軍基地の存在そのものについては、将来的には、技術の進歩や様々な工夫によって更なる整理・縮小を(一国民として)期待したいという漠然とした思いはあるものの、日本を取り巻く厳しい軍事的な状況や、自分はそもそも軍事の専門家ではないことを考えると、強い主張等は特にありません。私の場合、子供の頃から問題にしたいと強く感じているのは、むしろ在日米軍基地関連の問題を含めた「対米従属の文化」全般、あるいは別を言い方をすれば、 「日本人の心の中の米軍基地」とも言える、残念な精神構造・「心の基軸」です。この文脈でいつも思い出すものの一つは、1990年頃の日米貿易摩擦の時代に、(ソニーの会長だった)盛田昭夫氏と政治家の石原慎太郎氏によって共同執筆された「ノーと言える日本」という本です。当時プリンストン大学の大学院生だった私がこの本をどこで購入したかは覚えていませんが、何とか購入して興味深く読み、自分も「ノー」と言うべきときには 「ノーと言える人間」になりたいなと強く思ったことを覚えています。ここのところの(=2017-10-19付けおよび2017-11-14付け)記事では、数学とは何か、あるいは数学と芸術等との関係について様々な考察を述べていますが、上記のような文脈で見ると、 数学=人類の認識の仕組みの論理構造 の解明はまさに、「ノー」と言うべき ときに断固たる「ノー」を突き付ける ための、一種の究極的な技術・手段であるように思います。残念ながら、今日の日本の文化では、 (過去あるいは現在の)欧米の数学界 のエリートに対して、憧れの念を極める =諸手を挙げて究極的な「イエス」を 発信することこそが「数学」であるかのような解説がなされることが多いような印象がありますが、私が強調したいのは、むしろ そのようなエリートのような相手に対して は、「ノー」と言うべきときに断固たる 「ノー」を、数学を通して突き付けること こそが、数学の本来の精神であり、数学が 果たすべき役割であるということです。また何度も繰り返しますが、様々な形態の「対欧米従属の文化」や「心の中の米軍基地」に対して、謙虚な姿勢で論理構造の解明・研究を遂行することによって「ノー」を突き付けることは、「拳を振り上げる」=「盾を突く」ような好戦的な姿勢として誤解されることもありますが、本当はそのようにすることは 長期的には、日本のみならず、欧米を 含めた人類全体にとって最も健全で 建設的な道になると、(様々な経験を踏まえて)強く感じています。最後に、ここのところ報道等でよく話題に上る北朝鮮の核兵器の問題ですが、このような報道を見るといつも(改めて!)痛感しますが、 人類にとって最も究極的な「武器」は やはり核兵器や化学・生物兵器等では なく、物事や仕組みの本質的な論理構造 を研究し、明らかにすること、つまり、 一種の広い意味での「数学」ではないでしょうか。私は軍事の専門家でも、朝鮮半島情勢の専門家でもありませんが、北朝鮮の核兵器の問題を見ても、一見すると「核兵器」が問題の本質のように見えても、本当は「核兵器」も、今我々が生きている時代の様々な「非本質的な技術的な要因」によって偶々浮上した一種の「小道具」に過ぎず、「小国」の北朝鮮が世界の大国を手玉に取る「外交術大国」としての地位を固めることができたのは、「偶々浮上した小道具」の「核兵器」を利用する場面があっても、本質的には(核兵器そのものとは全くの別物である!) 世界の大国の権力構造を支えている 論理構造を正確に解明し、その盲点を 突く技術が非常に高度に発達していることにこそ、主たる要因があるのではないでしょうか。
2017.11.21
先日(=2017-10-19付け)の記事の最後辺りの「友好的な姿勢を保ちつつ、一定の距離を置く」という話ですが、そのような考え方の背後にある様々な考察についてもう少し詳しく解説してみたいと思います。私は旅行や国際交流がとても苦手で、何十年にもわたり、基本的には自宅や研究室に閉じこもって数学の研究に打ち込む生活を送ってきた人間ですが、 何で旅行や国際交流が苦手か?と、様々な場面で交流のある方からときどき聞かれます。先日、ネットで偶々目に留まった、(日本語ができる外国の方と思われる方による)「つぶやき(ツイート)」 『どうも日本の人は「自分がアジア人で ある」ことがピンとこないらしいのね。 不思議』に、私が感じている非常に本質的な問題性が集約されているように思います。私の場合、アメリカに在住していた頃、世界中のいろいろな国の方=欧米露中韓印等々、と交流がありましたが、双方がどんなに流暢な英語を喋ることができてかつ、いわゆる「悪意・差別意識」がなくても、お互い住んでいる 「精神世界」が違いすぎて、私としては、無理のない範囲内における友好的な関係を築くこと自体は結構だとしても、最終的には、 「国境・国籍を放棄する =その人を自分と同じ国の人に思う」あるいは、別のもう少し具体的な言い方をすると、 「その人を(自分から見て)‘外国人 =異邦人’と呼ぶ(=として扱う) 権利・権限を放棄する」ことだけはどうしても承服できず、それだけは少なくとも自分としては、 「どうしても譲れない一線」であるように非常に強く感じました。上記のツイートの外国人のように、多くの欧米人は、日中韓、あるいは場合によっては南アジアや東南アジアの人まで一緒くたにして「みんなどうせ同じアジア人だ!同じ有色人種だ!」というような思考回路で考えたがるところがあって、私の場合、そういう空気はどうしても生理的に受け付けられない=非常に強烈なアレルギー反応を起こしてしまいます。また、関連した現象ですが、私の場合、アメリカの高校や大学で(直接的な意味で)よく経験しましたし、(インド人等の知り合いを通して)第三者としても目撃したことがありますが、 「ザ東洋人男性」(=例えば 「チン」という名前の)というような形で、別々の個人を別々の個人として認識できずに、「同一の生命体」としてしか認識できない欧米人が意外と多いです。つまり、もっと具体的にいうと、例えば、高校では同じ寮の中に、韓国系やタイ系の人がいたりしましたが、私たちが別々の個人であり、同一人物ではないということを何度説明しても間違えられたり、大学ではよく知らない人からまるで親しい知り合いかのように(誤認されて)話しかけられたりしました。少し話が変わりますが、よく旅行や国際交流に対して積極的な姿勢をとりがちな方を観察していると、自分との対比で、双方の活動(あるいは生き方全般にも言えるかもしれませんが)の一つの基本的な違いとして、次のようなことが挙げられるように感じることがあります: そのような方は人類の様々な既存の文化を 堪能し、満喫する(あるいは仕事等では、 整理し、演出する)ことを目的とした活動をされている(ように、少なくとも私には見受けられる)のに対して、私はむしろ 既存の文化の流れを(「邪魔」、「障害物」 として認識し)なるべく自らの個人的な世界 から排除し、自力で新しい文化の流れを自ら の手で創作することに対して非常に強い拘りを持っている人間です。この人間性の違いはそのまま、「旅行」や「国際交流」、「新しい生活環境を体験する」ことに対する、双方の(それぞれ、肯定的な、否定的な)捉え方に反映されているようにも感じます。再び 何で旅行や国際交流が苦手か?という質問の話に戻りますが、一言で説明するのはなかなか難しいですが、先ほどの人間性の違いによって、そのような活動の 「費用対効果」(=「コスパ」)は、私の場合、非常に悪い(=苦しいこと、強い不快感を覚えることが多すぎる割りに、プラス面・見込める収穫等が貧弱すぎる)というのは、一つの「端的な」説明の仕方だと思います。例えば、多くの旅行好きな方から見ても、恐らく北朝鮮や、中東の戦闘地域は、「費用対効果」が悪すぎるのではないでしょうか。あるいは、多くの外国人(特に例えば、欧米の数学者!)から見て、日本に旅行することの「コスパ」が悪すぎて殆どしないのではないでしょうか。一方、旅行好きの多くの方が旅行をする際に体験する(好感を伴う、よい意味での)刺激よりも 遥かに凄い(=壮絶な!)景色の世界を、 私は自分の心の中で旅している(=例え、物理的な意味ではずっと同じ場所に留まっていても)ように、子供の頃から強く感じています。更にもう少し分析を進めさせていただきますと、私の場合、旅行や国際的な状況が非常に苦手である基本的な理由の一つでもあり、またこれまでの様々な経験(=上記の「別々の個人を識別できない」という話もその最たる一例ということになりますが)を経て感じたことですが、お互いに語学力の問題が全くなく、かつ悪意(=差別意識等)が全くなくても、 異国の人間を取り巻く状況や精神世界は 単純な「データ」・「抽象的な論理体系」 として扱うという立場で考えても、複雑 度の「爆発」が圧倒的すぎて 人類の脳の処理能力 を遥かに超過してしまっているため、相手 のことを、 極めて低い解像度 でしか認識・理解することができません。一方、相手に対する 「認識解像度」が著しく低下してしまう(=つまり、画質の粗悪なパソコン画像のように)と、相手の「人間性」や「個性」が全く見えなくなってしまい、 人間らしい社会生活が本質的に成り立たなくなってしまいます。つまり、言い換えると、ずっと長い間、様々な極めて残念な経験を経て感じたことですが、実質的な異邦人同士の交流の問題性・不具合等の本質は、(多くの米国人が主張したがる=誤解しているように)政治的な問題ではなく、また(多くの日本人が主張したがる=誤解しているように)語学力(=例えば、「英語力・英会話能力」)の問題でもなく、圧倒的な、爆発的な複雑度を擁する「データ」・「抽象的な論理体系」に対する 人類の脳の処理能力の限界にあるように強く感じます。別の言い方をすれば、本質的には 一種の数学の問題であるように思います。(因みに、「(多くの米国人が主張したがるように)政治的な問題ではなく、一種の数学の問題である」と書きましたが、このような文脈ですと、19世紀に米国のどこかの地方政府が「円周率(’π’)は3である」という趣旨の法律を制定しようとしたという有名な話を連想させられます。)更にもう一つ、このような文脈でよく連想させられるのは、旧約聖書等に出てくる バベルの塔の物語です。バベルの塔と言えば、最近、日本でもオランダの画家ブリューゲルの作品「バベルの塔」の展覧会が開かれたりして話題になっています。百科事典等で引くと、「バベルの塔」の物語は次のように要約されたりします: 「この物語は,民族と言語の多様性を説明する と同時に、神と等しくなろうとする人間の罪 を描いている。」誤解がないように書いておきますと、私は別にキリスト教等、特定の宗教の教徒ではありません。しかし、昔から強く受けている印象の一つですが、 多くの芸術作品や文学にしても、古代から 伝わる神話や物語にしても、人間が直観的 なレベルにおいて実質的に感じ取った 一種の数学的な原理 を(現代数学で用いられるような定式化の 技術がなかったために)何とか後世に伝達 できるように表現し、記述するための手段 として創り出されたものが多いのではない でしょうか。つまり、そのような様々な文化遺産は、 一種の「数学的な予想」の宝庫として捉えることが出来るのではないしょうか。例えば、「バベルの塔」の場合ですと、 全ての民族・言語の間の「壁」を取っ払い、 一つの「塔」の中で「一本化」しようとして も、それは本質的に数学的に不可能であり (=つまり、「神」はそれを絶対に許容し ない)、どんなに努力して回避しようとして も民族・言語の多様性は必然的に発生する ものであるという、一種の「数学的原理」(=つまり、上で述べた「認識解像度」、「圧倒的な、爆発的な複雑度に対する処理能力の限界」に対応)を、古代人が表現しようとしていたのではないかと推測されます。この「バベルの塔」がある意味、予想しようとしている=記述を試みている数学的原理に対応するものを現代数学の中に求めようとすると、「ラッセルのパラドックス」、つまり、 「自分自身を元として含むような集合、例え ば、全ての集合をその元として含むような 集合、は存在し得ない=即ち存在し得ると 仮定すると矛盾が生じる」で有名な、20世紀初頭の数学者ラッセルを思い出します。ラッセルと言えば、有名な著書「結婚論」で「裸を非とするタブー」を疑問視する(この点では、1960年代に流行したいわゆる「ヒッピー」の運動に通じるものがあるようですが)等、人と人の間にある様々な「壁」(=言い換えれば、「プライバシー」(!))を究極的な形で取っ払うことに対する強い拘り、趣向があったようです。一方、私の研究(=宇宙際タイヒミューラー理論=IUTeich)では、「Θリンク」等、別々の舞台=「宇宙」の間に、通常扱う数学的な対象たち(=「フロベニウス的」な対象たちと呼ぶ)が「向こう側」に通り抜けることができない 「壁」を設定することが理論の重要なポイントであり、一種の出発点とも言えます。一方、壁を設定することが重要であっても、その 壁の向こう側に通用する= 通り抜けることができる特別な対象たち(=「エタール的」な対象たちと呼ぶ)を扱うことも、理論の展開、特に最終的な定理を示す上においては必要不可欠です。このIUTeichの枠組の根幹を形作っている数学的な状況は、「バベルの塔」やラッセルのパラドックスだけでなく、私の旅行や国際的な状況に対する消極的な姿勢や、米国での様々な経験に対する考え方とも密接に関係しているように思います。簡単に言ってしまいますと、私がこれまで経験してきた多くの場面では、 国や民族、言語等の間に本来存在する「壁」 =「プライバシー」が破綻しすぎていたため、 そのようなものの間の 「壁」に飢えている 体質の生き物として育ってしまいました。私の場合、米国や英語に対する壁にも飢えているわけです(=別の言い方をすれば、私にとっては、 米国や英語こそ、一種の巨大な「バベルの塔」ということになる)が、米国では、まさに自分から見て「異人」と感じる人たちに対する「壁」に飢えている人が非常に多いように思います。(もちろん、自分から見ての「異人」の定義は人それぞれですが。)まさにそのように「壁」に飢えている人たちが非常に多い(=圧倒的な多数派に迫る勢い?)からこそ、トランプ氏のような大統領がついに誕生したのではないでしょうか。また、先般のフランスの大統領選挙の際の右翼政党の集会で用いられた「我々は我々の国にいる」というスローガンを見ても、移民の多いフランス等、西ヨーロッパの国々の社会においても、類似の現象=「壁への飢え」が如何に「猛威を振るっている」かが窺えます。(因みに、誤解がないように書いておきますと、これら外国の政治家、政治運動については、私は批判するつもりも、賛同するつもりもなく、単に現象の分析を行なっているだけです。)ただし、2017-10-19付けの記事の最後辺りにも書かせていただいた通り、(IUTeichの「フロベニウス的・エタール的」もそうですが!)「壁」=「距離」=「プライバシー」の設定も本質的に重要ですが、その壁の向こう側(にいる人たち)にも通用するもの= 長期的な、安定的な平和を大切にする、 全体的に友好的で開かれた姿勢、あるいは別の(より「日本的な」)言い方をすれば、 「お互い様」、「お世話様」といったような 視点を忘れない、(壁を通り抜ける力のある) 豊かな感情移入力に支えられた博愛と敬意の 下で運用される壁を目指す姿勢も本質的に重要であることを見失ってはいけません。最後に、もう一つの重要なポイントですが、成人して、人間としての様々な基本的な感覚や行動パターンが完全に固まって=確定してから、上述のような(=「壁」の破綻から生じるような)厳しい状況に遭遇するのと、未成年としてそのような状況に遭遇するのとでは、決定的な違いがあるということです。上の「認識解像度」の話のように、IT関連の現象との類似で説明を試みると、パソコンの動作を本質的に狂わせる危険性のある悪質なウィルスが、 (多くのウィンドーズパソコンでは 「ただのデータ」の保管用に用意され ている)Dドライブに、まさに「ただの、とある抽象的なデータ」として取り込まれる(=「成人として遭遇」に対応)のと、 (多くのウィンドーズパソコンでは オペレーティングシステム(OS)が 収容されている)Cドライブに取り込まれる(=「未成年として遭遇」に対応)のが全然違うのと似たような現象であるように思います。つまり、どんなに悪質で強烈な破壊力のあるウィルスであろうと、「ただのデータ」としてDドライブに取り込まれても、パソコンにとっては「痛くも痒くもない」、あくまでも「ただの、とある抽象的なデータ」に過ぎないわけですが、Cドライブに取り込まれて「やりたい放題」な状況でOSに直接作用し得るような事態が発生すると、パソコンの動作は非常に不安定な状態に陥ったり、場合によっては、パソコンそのものが簡単に、呆気なく破壊されてしまいます。旅行等に対する私の拒絶反応のある側面も、まさにこの「Cドライブ・Dドライブ」の類似を通して理解することが可能であるように思います。
2017.11.14
ご無沙汰しております。書きたいことがいろいろあるのに、仕事で忙しくて書く時間がとれないのは実に残念ですが、今日は、二週間程前から続いている本ブログの読者の方(=米国在住の日本人の方=以下では「Aさん」)とのメールのやりとりの抜粋を(読者の方にご了承いただいた上で)次の通り、公開させていただきたいと思います:>私のまわりの精神障害のある作家は、きら>めきがあっても陽の当たらない人が多い>です。望月先生が、日陰の人の中にまぶしさ>を感じるのは、どのような時(人)ですか。短い文章ではありますが、上記のご感想・ご質問だけで私がブログを通して発信しようとしているメッセージ(=より正確に言うと、数々のメッセージのうちの一つ)がAさんにかなり忠実に伝わったようで、とても感動致しました。本当にありがとうございます。よく思うことの一つですが、数学の研究の中でも最も核心的に重要なものは「~予想」というような名称のついている有名な予想・未解決問題等ではなく、むしろ、(*)「何で数学が人類にとって本質的に必要 不可欠なものであるか」ということを、 どうやってより明示的な形で一般社会 に対して示すことができるかのような問い掛けだと思います。別の言葉でいうと、人類は人類にとってまさに 「異星人」であり、その「異星人ぶり」は国家間、民族間、世代間といったような場面において如実に現れがちなものですが、もう一つの非常に重要な場面はまさに 「(いわゆる)健常者 対 (様々な種類の)障害者」の間にある壁だと、個人的に以前から強く思っております。この様々な意味での「異星人」(=即ち、様々な種類の壁の向こう側にいる人間・知的生命体)の心に通用する言語は無数の社会的偏向(=「不純物」)に塗れた普通の(英語や日本語等のような)自然言語ではなく、 人類の脳内で動作する数々の認識の仕組み の抽象的な論理構造の解明を、(ある意味) その本質的な使命とする(学問分野でもあり、 一種の「言語」でもある)数学だと思っております。まさにそのために数学の研究は歴史的に見ても、また人類の現在や未来を考えても、人類にとって本質的に必要不可欠なものだと考えております。元々のAさんのご質問>望月先生が、日陰の人の中にまぶしさを感じるの>は、どのような時(人)ですか。に対する答えになっているかどうか、余り自信がありませんが、私が様々な状況の下で「日陰の人の中にまぶしさを感じる」のは、邪魔になりがちな無数の社会的な物差し・基準等を無視し、忘却した上で、より原始的な、抽象的な(=つまり、「数学的な」)論理構造だけを見てその人のことについて理解しようとするときだと思います。>ブログの「数学界にとっては事実上、ゴミ」の>人材を育成した記事は、実体験とも重なって感動>しました。忠実に私に伝わったのは、先生の文章>が正確で心がこもっているからだと思います。ありがとうございます。>豊かな人材を溝捨てする平らな物差しが、複雑>な形に伸び縮みすれば、異星/国/民人とも、障害>者とも、お互いの眩しい部分を計り合って生きて>いけるのかもしれません。先生の返信を読んで、>そこに数学があることを、初めて意識しました!そうでしたか。私としては、数学の「ポイント」はまさにこのような側面にあるという認識ですので、(昔から感じていることではありますが)数学の研究の意味が一般社会ではやはりかなり本質的に誤解されているということになるかと思います。このような状況ですと、益々ブログ関連の活動に力を入れたくなります(!)。(そのような活動に割く時間がないのは実に残念ですが。)>>私が様々な状況の下で「日陰の人の中にまぶし>>さを感じる」のは、邪魔になりがちな無数の社会>>的な物差し・基準等を無視し、忘却した上で、>>より原始的な、抽象的な(=つまり、「数学的>>な」)論理構造だけを見てその人のことについて>>理解しようとするときだと思います。> >この視点をもち、かつ行動に移せる人はまだまだ>少数なのかもしれません。望月先生の「本音」>が、読者のこころに種を蒔いていると思います。ありがとうございます。読者に対してそのような効果があるとすれば、ブログ初心者としては嬉しい限りです。>アメリカは確かに無駄な”ワンクリック”情報戦に>溢れる国です。ただ「日陰の人に対しての行動」>に自信が持てたこの国には、感謝する部分もあり>ます。米国には(私自身、お世話になった)「ご立派」な面があり、それを無理に否定するつもりは毛頭ありませんが、「ご立派」には程遠い面も少なからずあることも紛れもない事実であり、私の場合、長年にわたる数々の国の方との無数の交流の経験を経て辿り着いた結論としては、米国をはじめ、諸外国に対しては、 全体的に友好的な、開かれた姿勢を保ちつつ、 一定の距離を置くことは、決して拳を振り上げるような、いわば「盾を突く」ような好戦的な姿勢ではなく(=そのように誤解されたりすることもあるようですが)、むしろ相手の文化や内面的な世界と誠意をもって真剣に向き合った経験から生まれた、 長期的な、安定的な平和を愛する姿勢であると考えております。
2017.10.19
2016-12-18付けの記事でも本ブログの名称について少し言及しましたが、この名称を思い付いた経緯についてもう少し詳しく説明しますと、実は、次のような幾つかの「要素」・「イメージ」がうまく嚙み合わさってできた名称なのです:・思い付いた時期は2016年11月、つまり、ドラマ「逃げ恥」を毎週見ていた、というよりも強く意識していた時期でした。特に、2017-05-06付けの記事でも言及したみくりの幾つかの妄想シーンに出てくる「政治演説」を見て、私も正にこのドラマで訴えられていた数々のテーマ(=あるテーマについては2017-05-06付けの記事をご参照下さい)に対して自分の「心の一票」を投じたいなという気分にさせられました。・『新一の「心の一票」』、つまり、 「新・一・心・一」 =「しん・いち・しん・いち」という字面の見栄えというか、対称性に引かれました。・新垣結衣さんが出演するバライエティ番組等で度々話題に上るペットの「トカゲモドキ」ですが、最初この話、特に、新垣さんが毎日檻の中にいるトカゲモドキに生きたコオロギを餌として与えているという話を聞いたとき、どちらかというと、私が新垣さんに対して持っているイメージにそぐわないという、違和感・不快感がありました。しかし、ペットの名前が 「心(しん)ちゃん」だという話を聞いたとき、(トカゲモドキそのものに対しては個人的にはやはり魅力を感じないという気持ちは変わりませんが)やっと新垣さんの気持ちが分かったような気がしました。自分自身、子供の頃、よく周りの大人から「しんちゃん」と呼ばれたりしていたわけですが、その「しんちゃん」の響きがもたらした心理的効果と、後、「しんちゃん」の「しん」として「新」など普通の男子の名前に出てきそうな字だけでなく、「心」も有り得るのだという発見の新鮮さによってこの新垣さんのペットの話が印象に残りました。こういうふうに書くと、「逃げ恥」ファンは、まるで檻の中で生活する新垣さんのペットのようなもので、週一回の「逃げ恥」という「餌」を与えられては何とか次週まで生き長らえていたような、ちょっと情けないイメージになってしまいますが、ドラマ放送当時、ネット上のいろいろな書き込みを読んでいると、どうもそのような精神状態の視聴者が全国に相当数いたらしいです。あるいは、別の視点に立つと、新垣さんが多くの国民から大変な愛情を注がれる立場にあり、その新垣さんが心ちゃんに大変な愛情を注いでいるという状況を総合的に考えると、(まだ生きているかどうか分かりませんが、少なくともご存命中は)心ちゃんはある意味、日本の社会の中ではとてつもなく偉い立場にある(あった)ことになります。
2017.05.07
昨年秋、放送されていた当時、(恥ずかしながら(?)、私も含め)皆あんなに「熱狂的に」盛り上がっていたのに、いつの間にか忘れ去られ掛けている感のある、ドラマ「逃げ恥」。私も今年に入ってからは何度か主演の新垣結衣さんが賞(=コンフィデンスドラマ賞+日刊スポーツ・ドラマグランプリ賞)を受賞したという報道や、YouTubeの関連動画の広告に接したりして偶に懐かしく思い出す程度です。以前(=2017-01-04付けの記事)から予告している通り、このドラマの感想について(本当は感想の「テーマ」が多すぎるので)少しずつ整理しながら書きたいと思います。今の時代の日本の社会を見渡すと、みんな「身を粉にして」せっせと働いているのに、全体的に余り豊かさを実感できない状況の下で生活している、というような趣旨の「暗い」報道(=「ブラック企業」や過労死から結婚・出生率の低下、待機児童の問題、子供の貧困、若者の就職難等)が非常に多いように感じます。一方、そのような「俯瞰的な」、「マクロ」の視点ではなく、個人個人の「ミクロ」のレベルで社会(=特に自分の普段の生活の中で接する人間)を観察していると、(場合によっては)逆にこの国の人的資源の豊かさに寧ろ感動するような場面がしばしばあるのは私だけではないのではないでしょうか。そうすると、この「マクロ対ミクロ」の落差は一体どのような原因によってこれほども激しい形で発生してしまうのだろうか、解明したくなります。この「マクロ対ミクロ落差」はドラマ「逃げ恥」の主要なテーマの一つだったように思います。大学院卒でありながら就職活動が上手くいかない、しかし様々な面においては本当は眩しい位の優れた「人的資源」ともいえる森山みくり(新垣結衣)がある意味、この「マクロ対ミクロ落差」の「代表格」・「リーダー格」ではないでしょうか。実際、みくりの数々の妄想シーンの中でも何度か登場するみくりの「政治演説」のようなものも、みくりという登場人物に託されたこのような「指導的な」役割を物語っているように感じます。一方、他の登場人物(=津崎平匡、土屋百合、沼田頼綱、風見涼太、堀内柚、梅原ナツキ)も、みくりほどの「眩しさ」を付与されていなくても、様々な舞台における、「残酷な社会的・マクロ的評価」対「個人としての尊さ・資質」の落差を描くための、一種の「道具」として登場させられているように思いました。では、この「マクロ対ミクロ落差」はどのようにして発生しているかということについて突き詰めて考えると、 個人が学校や就職先、公的機関等で、 (多くの場合、不適切に)画一的な 基準・物差しによるマクロ的・社会的 評価を受けて人生が大きく左右される場面に晒されながら生きていかなければならない立場にあることが基本的な原因ではないでしょうか。とすると、このようなマクロ的・社会的評価の際に適用される基準・物差しの内容にポイントがあるということになります。つまり、ドラマ「逃げ恥」の大きなメッセージの一つは、みくりを筆頭に、様々な境遇に置かれている登場人物たちに代表されるような事例では、 実態からして極めて不適切な基準が適用 されていることによって社会は多くの貴重 な人材、ひいては貴重な「富」をいわば 「溝に捨てている」ぞ!という内容のものではないでしょうか。少し話しが変わりますが、同様な「メッセージ」・「パターン」の事象として次のようなものが頭に浮かびます:・何年か前にアフリカの有名な女性活動家が国連での演説の中で「モッタイナイ」という日本語を使ったことがきっかけで「モッタイナイ運動」のようなものが世界的に広がったという話を思い出します。・人的資源ではなく食料資源の話になりますが、いわゆる「食品ロス」の問題(=つまり、本当はまだ様々な用途に使用可能なのに消費期限が来たという理由だけで大量に廃棄される食品の問題)も連想させられます。言い換えれば、社会は重大な「人材ロス」問題を抱えており、その問題への対応の甘さが社会の様々な場面において大変な「貧困」を生み出しているということになります。しかも、いわゆる「頭脳流出」という現象と違って、海外に出ることによって解決する性質の問題ではなく、貴重な人材がただ十分に活用されないまま生涯を閉じることになるだけです。・社会が、個人の尊さや資質の実態と乖離した、不適切に「狭い」基準・物差しに拘ることによって、逆に社会全体にとっての大きな損失や様々な形の「貧困」を生じているという構図を考えると、近年多発している高齢運転者による交通事故の原因の一つとして(認知症と共に)指摘される「視野狭窄」を想起させられます。つまり、社会が、数々の場面においていわば深刻な「視野狭窄」を起こすことによって(社会全体にとって)悲惨な「自損事故」を多発しているということです。一方、視点を変えて上述のような社会問題・状況に対して 自分には何ができるか?という観点で考えると、まず頭に浮かぶのは、 数学界の(学生あるいは研究者に対する) 評価基準には無数の「歪み」や「不具合」があり、その歪み・不具合によって数学界も社会全体も莫大な損失を被っているように感じるという、自分の日常生活ともこれまでの人生とも密接に絡む状況です。もちろんこのような状況に対して自分一人でできることには非常に限界があることを自覚しなければなりません。しかし、個人名や他の詳細を書くと問題視されるでしょうから差し控えますが、私は学生に対する評価の際においても、若手研究者の就職・採用に関わる評価の際においても、一般的な基準と大きく異なる基準を適用することによって、一般的な基準では 「間違いなく不適格=数学界にとっては 事実上、ゴミ」に等しい烙印を押された人材を拾い上げて育成し、最終的には、 実態からして一般的な基準よりも遥かに 実質的な基準において立派な水準の人材 に育て上げることを何度も経験しており、その人材の目覚ましい成長ぶりに度々感動を覚えさせられたことだけは書かせていただきます。最後に、2017-01-06付けの記事の例に倣って、ドラマ「逃げ恥」と私の研究=IUTeich(宇宙際タイヒミューラー理論)との、興味深い接点・類似点について解説してみたいと思います:・まず、上述の「マクロ対ミクロ落差」ですが、これは言い換えれば、「個人」対「社会=集団=群れ」という数学的な構造問題と見ることができます。このように考えると、IUTeichに出てくる『「単解的構造」対「正則構造」』の'緊張関係'に対応していることになります。このような側面については2017-01-06付けの記事で詳しく解説していますのでご参照下さい。・上述の議論では言及しなかった側面ですが、「逃げ恥」では、少なくともみくりと平匡の場合の「マクロ対ミクロ落差」問題に対する「突破口」として浮上するのは「契約結婚」という形の対応であり、このような「突破口」を採用することによって発生する様々な結果への対処が正にドラマのストーリー展開の基本ともいえます。このように、難しい問題に対して、最初から完璧な「模範解答=満額回答」を求めずに、寧ろ、一種の 「仮想的な満額回答」を勝手に宣言し設定 した上で、その「仮想的な満額回答」に よって生じる「歪み・不具合・誤差」を 計算するという筋書きは正にIUTeichにおける「Θリンク」(=「仮想的な満額回答」)と、そのΘリンクによって生じる「歪み・不具合・誤差」を、アルゴリズムによる明示的記述を用いることによって計算するという展開とそっくり(!)です。つまり、標語的なレベルで整理すると、 「契約結婚」=「仮想的満額回答の設定」 =「Θリンク」といった寸法になります。IUTeichのこのような側面についても2017-01-06付けの記事で詳しく解説していますのでご参照下さい。
2017.05.06
年始の挨拶(=2017-01-02付けの記事)では今年は沢山の記事を書くつもりでいるかのようなことを書いておきながら、お正月休み以降、一つも記事を書いていないことについて、期待していた読者の方(=実際には0名かも分かりませんが)にお詫びします。以前から予想・心配していた通り、仕事で忙しくて書く時間がなかなかとれません。残念ですが、今後も(幸か不幸かは別として)今回のように、大型連休のような時期以外は新しい記事を書く時間がとれない状況が続きそうです。
2017.05.06
まず、2年程前の話になりますが、2014年の年末にDIGAの全録機をネットで購入して偶々12月31日に届いたのですが、箱から出して初期設定を済ませるのに少し手間取って、やっと使えるようになったときには午後10時を過ぎていたと思います。「動作確認」のつもりで付けてみたら、ちょっとびっくりするような映像が目に飛び込んできました。何と、あの(iPS細胞の)山中伸弥先生らしき人物がNHKの紅白歌合戦の観客席に座っているではありませんか!確認してみたら、山中先生はどうも実際にその年の「紅白」の審査員の一人になっていました。山中先生が度々ニュース番組等に出演されているのを知っていたのですが、まさか「紅白」の審査員のような活動までされているとは、私にとってはかなり衝撃でした。私も以前から何度かテレビ出演の依頼がありましたが、全部断っています。山中先生の「紅白」出演を批判するつもりは毛頭ございませんが、とにかく自分だったら嫌だな、とても考えられないなと思いました。私の場合、プリンストン(の大学・大学院)にいた頃(=1985年~1992年)は、当然インターネットというものはまだ存在しませんでしたし、ケーブルテレビで見られる日本の番組は非常に限られていました。その数少ない番組の一つが「紅白」だったので(多分)毎年見ていたと思います。京大の助手になって京都に住むようになってからはあまりよく覚えていませんが、20代の半ば頃までは時々見ていたような気がしますが、その後は見ていなかったと思います。つまり、上述の「衝撃の動作確認」は私にとって恐らく約20年振りの「紅白」になったと思います。いずれにしても、その「衝撃の動作確認」がきっかけで、それ以降(の3回)は「紅白」を見ています。(ただ、リアルタイムで見るのではなく、数時間遅れで、しかも(長いので)適当に先送りしたりしながら見ています。)つまり、純粋に「営業」的な視点に立つと、山中先生の審査員としての起用によって私という人間に対する「集客力」が働いてしまい、結果的には私も「紅白」を見るようになってしまったということになります。前々回の「紅白」(=第65回)では多分一番印象に残った演出は、(そのときまで関心がなかった)椎名林檎さんと、(80年代初頭の「セーラー服と機関銃」の頃から好きだった)薬師丸ひろ子さんだったと思います。前回の「紅白」(=第66回)も椎名林檎さんの演出が一番印象的でした。一方、今回(=第67回)は椎名林檎さんの演出には(なぜか、上手く説明できませんが)余り関心が持てませんでした。今回一番印象に残った演出を列挙すると次の通りになります: ・欅坂46の「サイレントマジョリティ」、 ・乃木坂46の「サヨナラの意味」、 ・ピコ太郎さんのゴジラ撃退とそれに対する (審査員の)新垣結衣さんの反応。もう少し詳しく説明しますと、まず3番目の項目ですが、昨年秋のドラマ「逃げ恥」がきっかけで今回審査員を務めた新垣さんに注目していましたが、残念ながら全体的に(=星野源さんの「恋」の演出のときも含めて)新垣さんの存在感が非常に薄くてちょっとがっかりしました。ただ、ピコ太郎さんのゴジラ撃退の歌のときの新垣さんの、笑いを堪えているような呆れた表情が印象的でした。そもそもピコ太郎さんのあの間抜けな演技が何でここまで世界的に人気を博すに至ったか、私としては以前から不思議でなりません。ピコ太郎さんのゴジラ撃退の演出の中に、ピコ太郎さんの不可思議な人気ぶりこそ日本の芸能界にとっては正に一種のゴジラのような存在だ、というようなメッセージが込められていたかもしれません。ピコ太郎さんの例の間抜けな演技を見てちょっと思ったのですが(といっても、念のため、 本気で思ったわけではありませんが!)、私の場合、自分の研究の解説の仕方が世界的にこんなに不評なのに、何でこのピコ太郎さんの間抜けな演技がこんなに世界的に受けるのだろう、私も、ピコ太郎さん風に 「アイ・ハブ・ア・ログ」、 「アイ・ハブ・ア・テータ」、 「ログ」、「テータ」、 「ログ・テータ」なんて歌ったら世界的に受けるのでしょうか。いずれにしてもこの3番目のピコ太郎さんの場合は、どちらかというと、「逆説的」な意味で印象的でしたが、2番目の乃木坂46と1番目の欅坂46の方は、普通の肯定的な意味で印象的でした。乃木坂46も欅坂46も、名称は以前から認識していましたが、曲を聴くのも、演出を見るのも、センターの橋本奈々未さんや平手友梨奈さんの存在を知ったのも、今回の「紅白」が初めてでした。昔からあった「無邪気な少年」のような気持ちで楽しむことができただけでなく、若い頃の自分とはちょっと違う気持ちも芽生えているように感じました。それは一言ではちょっと言い表しにくいのですが、元気な若いメンバーたちの「キレキレ」の踊りが、一種の宗教的な儀式というか、「弾ける若き生命力の祭典」のようにも見えました。よく考えてみれば、「アイドル」の語源は正に「崇拝する対象」という宗教的なニュアンスがあるわけですが、今回の「紅白」のこれらの演出で私の目に眩しく映った「崇拝の対象」が、年齢の所為か、(「アイドル」の本来のニュアンスと思われる「異性としての魅力」から)「若き生命力」に移行しつつあるように感じました。2番目の乃木坂46の「サヨナラの意味」については、ネット検索で見付けた動画の中で「紅白」の演出に一番近いのはこの動画です。(ただし、「紅白」の演出になかった「ブランコ」という曲も後ろにくっついていますが。)一方、1番目の欅坂46の「サイレントマジョリティ」(以下では「サイマジョ」(='才姫'ならぬ'才魔女'?)と書くことにします)については、「紅白」に一番近いのはこの動画でしたけど、その他にもこのような拡大版も見付かりました。今回の「紅白」全体の中でも、私にとって圧倒的に一番印象的だったのは、この「サイマジョ」(=特に拡大版)の歌詞でした。「前置き」が少し長くなってしまいましたが、本当はこの歌詞こそが、今回の記事の執筆に踏み切った一番のきっかけでもあり、また記事の本題でもあります。歌詞にそこまで感動した理由ですが、今でもまだ分析でき切れていないような気もしますが、大体次のような理由になります:・メッセージの方向性が昔とだいぶ違う:私はもちろん専門家ではありませんし、ちゃんとした系統的な調査をしたわけではありませんが、私の記憶では、本来アイドルが歌うような曲に込められたメッセージ(=若い世代に向けられたメッセージ)は、 「社会の主流='群れ'について行け、ついて 行けばこそ歌っているアイドルさんのよう な素敵な恋人が待っている」というような内容ではなかったのでしょうか。それに対して、「サイマジョ」の歌詞は正におよそ正反対のメッセージ、つまり、「群れについて行くな」 ― 歌詞のレベルでいうと、 「この世界は群れていても始まらない」、 「夢を見ることは時には孤独にもなるよ」、 「誰もいない道を進むんだ」、 「人の数だけ道はある」― という内容になっていて初めて聞いたときは(よい意味で)衝撃でした。もちろん、「サイマジョ」の方が遥かに健全な内容になっていて、そういう意味では「サイマジョ」の対象世代の若い人たちは恵まれた時代に生まれたんだなと思いました。・メッセージの内容は本ブログの様々な指摘と重なる:先ほど引用した歌詞は(本ブログ)2017-01-02付けの記事の「隔絶した異世界=一種のガラパゴス」といったような理想、もっと言うと私がこれまで自分の研究、あるいは生き方そのものに込めた気持ちを奨励しているような内容とも言えますし、また 「選べることが大事なんだ」、 「人に任せるな」、 「行動しなければNoと伝わらない」 といった歌詞は、(本ブログ)2017-01-04付けの記事の『私の「心の一票」』という項目で解説している考え方(=正に本ブログの名称の由来!)と見事に(!)重なります。・メッセージの内容は宇宙際タイヒミューラー理論の内容・'筋書'に見事に対応している:一般に、個人がどの程度 「社会の主流=群れ」について行くべきで、どの程度 わが道を行くべきか、つまり、この二種類の方針の「緊張関係」や「最適なバランス」というのはある意味、人類社会の「永遠の課題」とも言えますが、宇宙際タイヒミューラー理論(=「IUTeich」)の数学的内容の重要な部分に対応しているとも言えます。「群れについて行く」ことはIUTeichでは、 「(数論的)正則構造」と呼ばれるものに対応していて、それぞれが「わが道を行く」という状況はIUTeichでは、 「単解的構造」と呼ばれるものに対応しています。歌詞の 「誰かの後について行けば傷つかない」、 「その群れが総意だと、ひとまとめにされる」という部分は、IUTeichの中で(数論的)正則構造が有効な(=「傷つかない」!)部分、つまり、「ホッジ劇場」と呼ばれる構造の内部に対応していて、この歌詞に合わせた、メンバー全員が腕を回転させる動きは、ホッジ劇場の内部において群(=「群れ」!)が働くことによって成立する対称性に対応していると見ることができます。一方、 「君は君らしく生きて行く自由があるんだ」、 「大人たちに支配されるな」という歌詞は、IUTeichの中で正則構造から決定的に離脱する部分、つまり、「Θリンク」と呼ばれる部分に対応していると見ることができます。ちょうどこの歌詞のところで、センターの平手友梨奈さんだけが拳を挙げる仕草をするわけですが、その拳を挙げる仕草の形状は(数学用語でいうと)「デルタ関数」(=一種の「デル杭」!)=「ガウス分布」によく似ていて、「ガウス分布」は正に「Θリンク」そのものといってもよいものです。また、 「選べることが大事なんだ」、 「人に任せるな」、 「行動しなければNoと伝わらない」という歌詞は、その正則構造から離脱する際、肝心な数学的構造は常識的なスキーム論(='人')任せにするのではなく、遠アーベル幾何やIUTeichで用いられるようなアルゴリズムとして明示的に記述するという'行動'を実行しないと、その肝心な数学的構造はΘリンクの向こう側には通用しない(='伝わらない')という状況に対応していると見ることができます。一方、歌詞に登場する「自由」や「夢」はIUTeichの最終的な帰結である不等式(=いわゆるABC予想やシュピロ予想の不等式)に対応していると見ることができますが、それを 「あきらめてしまったら、 僕らは何のために生まれたのか」という歌詞は、IUTeichを勉強する上において肝心なポイントである、 「何でその'夢の不等式'が従うか分からなく なったときは、そもそも何のためにΘリンク を定義したのか、改めて思い出すべきで ある」という状況に見事に対応しているように思います。また 「列を乱すなとルールを説くけど、 その目は死んでいる」 「夢を見ることは時には孤独にもなるよ」、 「誰もいない道を進むんだ」、という歌詞は、 「'夢の不等式'を導くには正則構造(='列') を('乱して')放棄し、通常のスキーム論的 数論幾何の常識(='ルール')が通用しない 単解的な道を進むしかない」というIUTeichの状況に(これまた見事に!)対応していると見ることができます。とにかく、歌詞が細部まで余りにも見事にIUTeichの理論の展開に対応していることに気付いたときはとても興奮・感動してしまい(かなり「特異性の高い」お正月休みの過ごし方だと思いますが)、その興奮・感動を読者の皆さんと分かち合いたくなりました!最後に、ここまで来ると、改めて指摘するまでもないと思いますが、上記のような観察は、世界広しと言えども、私以外の人間が考え付くとはちょっと信じ難い、という状況を考慮すると、やはり(本ブログ)2016-12-18付けの記事の「特異性」の話にあったように本ブログの主の身元を隠す努力をすることには意味がないと思わざるを得ません。
2017.01.06
日本の報道機関や政府の情報収集能力について(日本国内の)評論家のインタビュー記事等で「欧米と比べて幼稚で稚拙」といったような厳しい意見を目にすることが多いですが、(本ブログ)2017-01-04付けの記事で言及した「ビットコイン」や「ニューヨークで育つ」のような事例について少し見方を変えれば、次のような捉え方もできるのではないでしょうか:(合計で)18年間も米国国内に在住し、かつ如何なる隠蔽工作も行なわずに普通の市民生活を送っていた人間についてすら ・「そもそも米国のどこに住んでいたか」、あるいは ・「どのような分野で活躍するのに必要な 専門知識や資格を持っているか」といったような、 極めて基本的な情報を収集する能力が 如何に米国の報道機関や知識人に本質 的に欠如しているか、その報道機関の関係者や知識人が自ら進んで 「動かぬ証拠」をネット上で量産する 「精一杯の努力」を行なっていたことになります。そういう意味では、トランプ氏の当選の可能性に関する報道 ― これは「現実逃避部門」においては歴史に残る一種の「不朽の傑作」だと思いますが ― と構図がかなり似ているようにも感じます。別の言い方をすると、如何なる隠蔽工作も行なわずに(合計で)18年間、米国国内で普通の市民生活を送っていた人間に関する上記のような情報すら収集する「難易度」が高過ぎるという実態があるのであれば、米国と敵対している様々な外国政府やテロ組織(=つまり、様々な機密情報についてプロが徹底して隠蔽工作を行なっているような組織)に関する正確な情報を本当に収集できているのだろうか、甚だ疑問に感じます。米国のエリートたちが世界全体にどれだけ多大な影響を及ぼす力を持っているかということを考えると、上記のような「現実逃避癖」の事例は最早「幼稚、稚拙」を通り越して、人類にとって(冗談で済まされるレベルの事象ではなく)深刻な「安全保障上の脅威」であるようにも感じます。実際、(私は決して中東問題の専門家ではありませんが、様々な報道から受けている印象では)中東での米国の様々な軍事行動の際、何らかの「善意」と「誠意」をもって実行しているつもりの作戦でも、無数の事実誤認や誤解・曲解等によって誤爆等、テロの温床を更に大幅に「温める」ような方向性の行動が多発しているのではないでしょうか。私個人の話に戻りますと、私の研究に対する欧米の多くの数学者の非建設的と言わざるを得ない反応も上の様々な非数学的な事例と、ある意味では同じ系統の問題のようにも感じます。この問題ついては、私の2014年12月の報告書、フェセンコ氏の解説論文の最後の節辺り、それから私の解説論文の最後の節辺り等で詳しく論じています。簡単に要約すると、上の非数学的な事例と私の研究関連の事例の一つの核心的な共通項として挙げられるのは次のような状況です: ネットの普及が大いに影響している面がある と思われるが、世界中の多くの人は世の中の 全てのことについて「満額回答がワンクリッ クで瞬時に手に入る」ことを要求したくなる 「ワンクリック症候群」 のような症状を発症していて、謙虚な姿勢で、 虚心坦懐に、よく分からない事象について時間 を掛けて粘り強く勉強し、研究することの価値 や重要性を見失ってしまっている。2014年12月の報告書でも指摘しているように、このように謙虚に基礎研究をする姿勢の社会的な意義や価値は一般社会においてのみならず、数学界の中でも忘れ去られ掛けているように感じます。以上の話について次のような纏め方もできるのではないでしょうか:中東での惨事等を受けて、世界中のイスラム教徒に対してジハードを呼び掛ける声が上がったりしますが、それに対して私は 世界中の真実を愛する人たちに対して、(時間 を掛けて謙虚な姿勢で粘り強く行なう)研究を呼び掛ける存在でありたいと思います。別の言い方をすれば、長期にわたって謙虚な姿勢で様々な個人的犠牲を強いられながらも粘り強く続行する研究こそ、「真の聖戦」ではないでしょうか。
2017.01.05
少し遅いかもしれませんが、本ブログを開設するに当たっての「抱負」とブログの名称の由来について、ブログ開設のきっかけとなった幾つかの具体的な出来事を振り返りながら、解説してみたいと思います:・加藤文元さんのツイッター:数ヶ月前にこのツイッターを偶々発見して、2005年~2011年春までの間、月に数回、数時間の数学の「セミナー」をした後、一緒に食事(=多くの場合、焼肉)に行くという形で加藤さんと頻繁に交流していた頃の気分を懐かしく思い出し、何らかの形でその頃の「気分」を再現できないか検討したところ、(ツイッター等のSNSだと文字数の制限があったりして自分のように長文を書きたがる体質の人間には向かないだろうと感じたため)ブログを開設するのが一番自分のイメージに合った形態の「個人的文化発信」の装置になるであろうとの結論に達しました。・「仮想的な仲間」の創出:上の加藤さんのツイッターの話の延長線上にあるような指摘になりますが、そもそも歴史的には、文学、特に日記というものは 「こういう話が気軽に出来て理解して もらえる仲間が欲しいけど、普通の 物理的な意味では周りにはそういう 人は見当たらない」といったような状況に(作者が)遭遇したときに発生しがちなものであり、偶々今の時代だと、「ネット上のブログ」という「仮想的な仲間」を創るのに役立つ便利が技術があるだけで、「ブログ=日記を通して仮想的な仲間を創る」という行為自体は、上のような状況に置かれている人間にとってはごく自然な流れであるようにも思います。昔テレビのドキュメンタリか何かの番組で知った話で、うろ覚えなので詳しい内容については余り自信がありませんが、「サザエさん」の作者の長谷川町子さんも、実際に「サザエさん」の設定から想像されるような豊かな社会的状況の下で暮らしていたわけではなく、寧ろそのような状況を「仮想的に実現」するために「サザエさん」を創るに至ったそうです。後、この文脈においてもう一つ頭に浮かぶ(少なくとも私にとっては)重要な「文学の例」は、2005年頃に読んだ水村美苗さんの「私小説」です。12歳のときに米国に渡った著者の滞在20年目の米国での生活が詳しく書かれていて、すべてとは言えないまでも、(私としては想定外に)多くの点で私の経験と符合するものがあり、読んだ当時はとても感動しました。また同様な事例として、森永卓郎さんの(だいぶ前にどこかの雑誌か何かに載った)インタビュー記事で子供のときに米国で過ごした時期の体験談を読んで自分の経験と符合する部分があって感動した記憶があります。水村さんにしても森永さんにしても、そういう話を(私を含む)不特定多数の人間(=「仮想的な仲間」)に公開いただいたことで大変お世話になったように感じました。・自己紹介機能の「名刺代わり」:私の場合、日本語と英語のネットしか読めませんが、私=「望月新一」という人物を巡って私の想像を超えたような=目を覆いたくなるような=開いた口が塞がらないような、とんでもない出鱈目なネット上の書き込みが氾濫しています。この手の書き込みをしている人たちの中に恐らく悪意かそれに近い感情の持ち主もいるかと(書き込みの全体的な雰囲気から)推測しますが、一方で、そうではなく、単純に知らない、ネット上の適切な情報源が見付からないといったような原因によって発生する書き込みもあるかと思います。可笑しな書き込みの件数が余りにも多過ぎるので一々反論することに大量の時間とエネルギーを費やす気にはなれませんが、少なくともブログを開設することによって私の(数学者としての研究・教育活動とは直接関係ない)「個人的文化」に接する「窓口」をネット上で設けることに意味があると感じました。因みに、ネットに溢れている出鱈目情報の教科書的な、代表的な例として次のようなものが挙げられます: ・私は「ビットコイン」という文字列を、偶々 報道で目にするまで知りませんでしたし、 ニュース番組の数分程度の簡単な解説を見て も今でも何なのかよく分かりません。理解 するための努力をするつもりもありません。 にもかかわらず、その「ビットコイン」の 「創設者」に、いつの間にかされてしまい、 その関連で報道関係者から取材依頼が殺到した 時期がありました。取り合うには及ばない話と 判断し、その関連のメールは全部無視しました が。 ・私はもう少しで48歳になりますが、今まで生き てきた48年のうち、約30年は日本で過ごし、 約18年(=連続してではないが、合計で)は米 国で過ごしています。生まれは東京で、(最も 肝心なことですが!)物心がついたときはまだ 東京にいましたが、子供の時から父の仕事(= 新日鉄(=旧八幡製鉄)、後には、日新製鋼) の関係で日米間で頻繁に引越しをしながら育ち ました。大学(=アメリカのプリンストン大 学)に入るまでは、平均で約1年半に一回程度 引っ越すという、私にとってはかなり辛い育ち 方でした。「故郷の風景」と言われれば、真っ 先に頭に浮かぶ光景の一つはうず高く積まれた 日通の段ボール箱でしょうか。(つまり、常に 越してきたばかりか、次の引越しをするための 準備をしていたということです。)最初にアメ リカに住んだときは結局8年間住みましたが、 最初から8年間在住するつもりでアメリカに渡っ たのではなく、最初は寧ろ約半年の滞在の予定 で、それがいつの間にか、(会社の方針等に よって)少しずつ1年に延び、2年に延び、最終 的には偶々8年で終止符を打つという形になり ました。私はこれまで日本では、 東京と京都、 米国では マサチューセッツ州のベルモント・ケンブ リッジ・ボストン、 テキサス州のヒューストン、 ニュー・ハンプシャー州のエクセター、 ニュー・ジャージー州のプリンストン でしか暮らしたことがありません。つまり、 ニューヨーク(市・州)には(短期の 滞在をしたことがあっても)在住した ことがありません! 特に、ニューヨークの街も言葉(=「ニュー ヨーク訛り」)も全然知りません。にもかか わらず、「ニューヨークで育つ」などという 不思議で頓珍漢な記述をネット上で時々目に します。例えるなら、関西弁も知らない、京都 の大通りの名前も知らないという人間を「京都 育ち」として紹介するようなものです。 ・私は未婚ではありますが、いわゆる(「ゲイ」 等)「性的少数者」ではありません。・自分という人間の記録:上の「名刺代わり」の話と重なる部分がありますが、この年になると、後どの位生きられるか分かりませんし、死ぬ前に何らかの明示的な形で、自分という人間の「足跡」(=数学者としての研究・教育活動以外の側面)の記録を(無性に!)作りたくなりました。・私の「心の一票」:「選挙」という仕組みは民主主義の基本ですが、現代社会は民主主義の仕組みが考案された時代と比べて余りにも激しい、桁違いの複雑度を擁してしまっているため、国民一人一人の運命にかかわる大きな決断は、多くの場合、通常の選挙で争われるような争点とは全く関係ありません。つまり、「選挙」という仕組みを考案した人たちの「心」に最も近い行為は、多くの場合、現代社会では、自分の人生とは直接的には余り関係がない、そもそも特に強い意見を持っているわけでもない選挙において投票することではなく、寧ろ 自分にとって緊急性があったり、自分の人生に とって本当に「一大事」だったり、大変な熱意 をもって何としても表明したくて仕方がない考 え・意思を、様々な社会的な縛りやタブーに萎 縮することなく堂々と表明したり、その考え・ 意思を実現するための具体的な行動をとることであるように思います。もう少し具体的な話をしますと、私の場合、京都大学の教員になった20代半ば位のときから、ちゃんとした社会人になろうと思って、(必ず毎回というわけではありませんが、多くの選挙では)投票していますが、本当の意味での熱意をもって投票したことは一度もありません。アメリカに住んでいた頃、時々、大統領選で盛り上がっていたとき等、民主党と共和党とどちらを支持するか聞かれたりしましたが、(アメリカ人に対して直接表明する勇気は中々出ませんでしたが)究極的な「本音」は大体次のような内容のものでした: 民主党でも共和党でも、結局同じアメリカ人、 同じ英語的な世界の話ではないか。私はアメリ カには住みたくない、英語はもう聞きたくない。 つまり、 「日本」、「日本語」に投票したい。でも、(当たり前ですが)そのような「明確な意思」を米国の民主党や共和党への支持によって表明することは明らかにも技術的に本質的に不可能です。具体的なレベルでいうと、博士課程を修了したら日本の大学に就職できるように様々な努力をすること以外に、上記の「本音」を実現する方法がなかったように思いますし、実際、そのような努力をすることによって目出度く(というか、運よく)その「本音の実現」に(京大の助手のポストという形で)漕ぎ着けることができました。一方、日本の選挙での争点と私の個人的な「本音・声」とのズレはもっと遥かに複雑な内容を含んでいます。数学者としての活動を通して自分の「本音」のある重要な部分については納得できる水準の「実現」が出来ていますが、以前からある程度感じていて、最近になって益々強く感じていることは、数学者としての活動だけでは実現が本質的に不可能な「本音」が多過ぎるということです。こちらの方の 「本音=声=心の一票」の表明は、まだ元気に活躍できるうちに、本ブログを通して何とか実現に漕ぎ着けたいと考えたことが、本ブログ開設の最も重要かつ「本命級」の動機でもあり、また本ブログの名称の由来でもあります。・ドラマ「逃げ恥」:老若男女を問わず、意外と小さい子供まで多くの国民に感動を与えた昨年(=2016年)秋の人気ドラマ「逃げ恥」ですが、私は(感動した人間の一人として)個人的なレベルでもいろいろなことについて考えさせられ、また無数の新聞記事や一般人によるネットの書き込み、YouTubeの関連動画等を閲覧することによって接した多種多様な意見にも刺激を受け、自分なりの 「逃げ恥論・ガッキー(新垣結衣)論」を書きたくなったのも、本ブログ開設の動機の一つになりました。ただ、書きたいことが有り過ぎて、自分の考えをきちんと整理して記述するのに少し時間が掛かりそうなので、本ブログへの掲載はまだ暫く先になりそうです。
2017.01.04
元日は富士山の初日の出を羽鳥慎一さんの新春番組で見ました。ここ数年はこの番組を見ていますが、昔から似たような新春番組を見ています。しかし昔から似たような番組で似たような光景を見ているにもかかわらず、元日にこの富士山の初日の出の様子を見て新鮮な気分になるのはとても不思議な現象のようにも感じます。富士山を取り巻く自然環境にはそれだけの「重み」というか「神秘性」があるということでしょうか。ちょっと話が変わりますが、一昨年(=2015年!)の10~11月、静岡の親戚を訪問した際に、静岡県の「望月」と長野県の「望月」の関係や違いがちょっとだけ話題になりました。私も、(ちょっと意外なことに)先方も、このようなテーマについては深い専門的な知識があるわけではありませんが、長野県は「望月町」という場所が(少なくとも昔は)ありましたし、長野県の方が古いという話をしました。一方、長野県での苗字別の人口分布をネットで調べると、「望月」は何と92位(!)であるのに対し、静岡県でも山梨県でも(静岡県の場合は、「鈴木」、「渡辺」、山梨県の場合は「渡辺」、「小林」に次いで)堂々の3位であるだけでなく、(私の親戚が代々暮らしている)静岡市では、(ダントツ!)1位なんですね。実際、現地へ行ってみると、初めての人は驚くと思いますが、すごい「望月王国」なんです。何でこのような状況になったのか、あるいはこの状況にはどのような意味があるか、ということについて昔から(歴史的な専門知識が全くない)素人の立場から気になっています。とにかく専門家ではないので、自説を書くのも恐縮ですが、次のような「仮説」を立ててみたくなりました: 日本には様々な「都」、つまり政治の「都」の 東京、商売の「都」の大阪、文化・芸術・学問 の「都」の京都等、がありますが、静岡市と いうべきなのか、富士山というべきなのか、は 日本の 「地形学的な都」 であるという見方ができます。正確な地図やGPS 等がなかった戦国時代の乱世の状況、つまり、 戦乱によって自分の故郷が滅ぼされたり、いき なり遠いところに簡単に流されたりすることが多 かった状況に置かれていると、(少なくとも本州 の)どこにいても、「自分はあそこに見える、 あの富士山辺りの出身の人間だ」と胸を張って 言える身分というのは結構魅力だったのではない でしょうか。別の言い方をすると、静岡市に おける望月姓の「類を見ない一極集中」的な状況 は、他の「都」のように人類社会の荒波に左右 されることのない、つまり時の権力者ではなく、 人類社会を超越した'自然界'が常に絶対的に保障 してくれる 究極的に中心的な、核心的なところ=富士山! にどんと構えていたいという強い欲求・志向から 生まれた状況ではないでしょうか。このような状況に対して批判的なネットの書き込みもあるようですが、私は昔からこの状況に対して(自分自身は静岡に在住したことがありませんが)何とも言えない「ロマン」を感じています。後、もう一つ以前から強く感じていることを書きますと、自分の数学の研究(=遠アーベル幾何や宇宙際タイヒミューラー理論等)を巡る社会的な状況、つまり、国内外の多くの数学、あるいは数論幾何の研究者から見て、 数名の協力者で固めて築き上げた 「隔絶した異世界=一種のガラパゴス」を私が数十年掛けて創り上げたことも、上記の静岡県の「望月」を巡る状況を生じさせたのと、同系統の遺伝的傾向・志向の現れではないでしょうか。
2017.01.02
読者の皆様、明けましておめでとうございます。今年は本ブログを自分の(数学とは必ずしも直接的な関係があるとは限らない) 「個人的文化」の「発信基地」として(仕事で多忙な合間を縫って)精力的に活用できる年にしたいと思います。どうぞよろしくお願い致します。
2017.01.02
私は余りにも「特異性」の高い人間なので、自分の身元を隠してもばれるのはどうせ時間の問題であり、身元を隠すことにはあまり意味がないとの結論に達しました。私は数学者であり、私の研究・教育活動については京都大学のサイト内のホームページをご参照下さい。(因みに、「なりすまし」の可能性が気になる読者の方もいるかもしれませんが、いざというときは、上記の(大学のサイト内の)ホームページやそこに記載されているメールアドレスの管理体制と、本ブログの管理体制がリアルタイムで連動していることはいつでも簡単に証明できます。)一方、本ブログでは、大学のサイト内のホームページに「相応しくない」様々な個人的な、非数学的な感想やコメントを公開するつもりです。私の場合、これまでマスコミで取り上げられたりして国内外において一定の知名度が発生してしまっていることもあり、私の大学のメールアドレスには大量のメールが届くようになりました。その多くは残念ながら大学の仕事とは直接関係のない、(様々な意味において)「不適切な」内容のものです。大学のメールアドレスに届くメールについては、原則として 大学の仕事と直接関係のある メールにしか返信しないことにしております。またマスコミからの取材依頼やテレビへの出演依頼はこれまで何件も発生しておりますが、このような依頼については(当分)原則として お断りすることにしております。このようにしていることには様々な理由がありますが、一つの大きな理由は(これまでの経験から)こちらが発表を希望する内容には大変な複雑度があり、双方に悪意が全くなくても、取材する側の「想定」からその内容が大きく外れる傾向がある等の原因により、こちらが認識している 内容が著しく誤解・曲解・歪曲された形で公開される恐れがあることです。誤解がないように書いておきますと、・本ブログに対するコメントはブログの標準装備の機能として受け付けております。・不適切と判断するコメントは遠慮なく削除させていただきます。・私の大学のメールアドレスに送られたブログ関連のコメントについては、対応する職務上の義務は全く存在しません。(こちらが)相当強い個人的関心を持った場合を除き、基本的には対応・返信するつもりはありません。・本ブログでは仕事とは直接関係のない、極めて個人的な内容のコンテンツを扱うこともあると思います。私と仕事上の交流のある方から寄せられるブログ関連のコメントについては、(肝心な!)仕事に支障を来す可能性もあり、(こちらが)相当強い個人的関心を持った場合を除き、基本的には対応する(=話題に付き合う)つもりはありません。・本ブログ関連の内容についてはマスコミからの取材依頼・テレビへの出演依頼には依然として応じるつもりはありません。数学的な内容であろうと、非数学的な個人的な内容であろうと、その内容の複雑度により、誤解・曲解・歪曲される恐れがあり、取材等と違って 私が完全な編集権を認められている 媒体である ・大学のホームページ(=数学等、仕事関連の 内容について)、それから ・本ブログ(=非数学的な内容について)を主な発表の手段として活用させていただきたいと考えております。
2016.12.18
本ブログの名称について結構迷いました。現在の名称の"新一の「心の一票」"は何回か変更した末に辿り着いた名称であり、いつまた変更したくなるか分かりません。"新一"という部分についてはこれまで"新一君"、"新ちゃん"のような候補を、また"「心の一票」"という部分についてはこれまで"声"、"本音"のような候補を検討したりしました。いずれにしても現在の名称に込められた気持ち・「真意」については "新一"="新一君"="新ちゃん" "「心の一票」"="声"="本音"というような形で理解いただいて結構です。
2016.12.18
ブログを開設しました。仕事で忙しくてそれほど頻繁に更新することはできないかもしれませんが、とりあえず、この通り、略式でブログ開設のご挨拶をさせていただきたいと思います。どうぞよろしくお願い致します。(因みに上の画像は富士山の写真です。もう少し補足しますと、2015年11月、親戚の結婚式に出席するために静岡を訪問した際に撮った写真です。)
2016.11.25
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