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世界で最も長く続いている国は日本です。よく中国4000年の歴史と云いますが、王朝がコロコロ変わっています。支配している人種も違います。日本は紀元前660年の建国以来、2684年、天皇を中心として続いている国家です。この数字に関しては正確ではないかもしれませんが、天皇を中心として古代から続いてきたことは確かです。日本書紀をみると、古代、朝鮮半島が日本の影響下にあったのは間違いありません。任那は日本の直轄地、百済・新羅は日本の属国でした。これに高句麗の侵略があり、朝鮮半島で激突します(第15代応神天皇の御代)。その後、倭の五王が外交で朝鮮半島にマインドを取ろうとします。しかし、第25代武烈天皇崩御による天皇家断絶の危機の隙に、新羅や百済がわがままを言い出し、朝鮮半島が不穏な情勢になります。なんとか、第26代継体天皇で皇統を保つも、任那が新羅にかすめ取られ、百済・高句麗を含めた三つ巴の戦いに拍車がかかります。結果的には新羅が大国の唐と組み、百済の息の根を止めます。第38代天智天皇は百済再興のため、日本軍を派遣しますが敗北(白村江の戦い)。第40代天武天皇の巧みな外交で戦後処理が済み、以降、朝鮮半島の権益は全て無くなりますが、国内は平和な時代が続きます。新羅による朝鮮半島統一と、大国唐という外圧が、日本を天皇の元、一つの国にまとめました。古事記・日本書紀は、この時期に作成が始められます。これまで40代続いてきた天皇を中心とした国家づくり。これを、改めて今後も天皇を中心にしていこうと宣言した瞬間です。その後、道鏡が出たり、武士の時代になり、承久の乱が起きて上皇が島流しになるなど、幾多の皇統の危機がありましたが、天皇にとって代わることはありませんでした。皆、天皇の血統・正統性の大切さを分かっていたのです。これはおそらくに、中国大陸や朝鮮半島の大動乱の歴史を見続けてきたからではないかと思うのです。つまり、力あるものが正義、侵略・略奪するのを良しとし、時々の権力者が、前の権力者・住民を蹂躙し、国がコロコロ変わる不安定な世の中。日本はこういう国にはしないぞ!という気概が、古代以降の日本人の中のDNAにしっかりと刻み込まれてきたのでしょう。中国は、幾多の王朝転覆の歴史でした。そして、王朝交代の度に、多くの民が殺されました。ロシアもです。ロシア革命で王朝が崩壊した時、王のみならず、その家族も殺害され、多くの民が偽性になりました。日本は幕末の大動乱の時も、天皇がいたおかげで、中国やロシア、そして革命の起きたフランス・アメリカまでの犠牲や混乱は起こらず、むしろ奇跡の近代化を起こすことができたのです。しかし、そんな日本も大動乱が起きた歴史があるのです。それが、南北朝の大動乱です。天皇が北朝・南朝と割れた時です。この時に、日本は秩序がなくなり、武士の都合で、北朝を担いだり、南朝を担いだりしたのです。この正統性が二つになることによって、日本の秩序は乱れたのです。そして、応仁の乱→戦国時代へと続いていくことになるのです。この流れを見た時に、いかに天皇が大切か、日本にとって宝なのかが分かるというものです。これは、敗戦の危機と戦後の奇跡の復興を見ても分かるというものです。敗戦確定の終盤、もはや日本政府は機能していませんでした。このため、ポツダム宣言受諾を決めたのは、第124代昭和天皇でした。敗戦を受け入れ、戦争を終わらせられたのも天皇、そして打ちひしがれた日本人を励まして、アメリカに次ぐ世界二位の経済大国へ押し上げた背景にも天皇がいます。天皇は日本の宝なのです。これまで、幾多の皇統の危機がありました。しかし、日本人は知恵を振り絞って皇統を守ってきました。これを現代の日本人が続かせていかずして、誰が続けていくのでしょうか。第26代継体天皇(皇統の危機)、第48代称徳天皇(道鏡事件)、第82代後鳥羽天皇(当時上皇、承久の乱)、南北朝大動乱、第119代光格天皇(皇統の危機)。私たちの日本人のご先祖様は、これらの危機を乗り越えてきました。その歴史に学び、我々現代人が、これからの子孫のため、日本の伝統・宝を守り続けていかなくてはなりません。現在の天皇陛下は第126代です。今後、秋篠宮文仁親王の127代、悠仁親王の128代と、末永く続いていくことを願ってやみません。「君が代は、千代に八千代に栄え、細石(さざれいし)の、巌となりて、苔の生す(むす)まで」日本の国歌です。これは、第60代醍醐天皇の御代(897年~930年)に作られた「古今和歌集」に載っているものです。天皇の御代が、1000年も8000年も、細かい石が集まって巌となるくらい、日本人の子孫がいつまでも反映しますようにということを祈った歌です。戦前の軍国主義を思わせる詩ではないのです。今から、1100年も前に願われた詩ですが、その願いも今も繋がれ、天皇家が続き、歌われ続けています。当時の中国、朝鮮半島を憂いて、今の日本があります。しかし、今は中国、朝鮮に売国行為をおこなう政治家、起業家、社長がいます。違うのです。本当に嘆かわしいことなのです。100回に渡り、天皇を中心として日本を、日本人が作ってきたことを描いていきました。今後も、1000年、8000年と続く国家でいて欲しいです。そのためには日本人の正確な歴史認識と気概が必要だと感じるのです。
2024年09月23日
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敗戦により国土は焦土と化しましたが、第124代昭和天皇と国民の努力により、奇跡の復興・復活を遂げました。しかし、敗戦による後遺症は現在も残っています。それが歴史認識問題や領土問題などです。これらは国益だけでなく、日本という国そのものの存続に関わる重大問題なのです。●歴史認識問題1982年宮沢喜一内閣の時に、近隣諸国条項ができました。要は歴史認識に関して、中国や韓国などの主張を配慮して、日本の立場を貶めるというものです。先の大戦のことに関しては、これまで記載したとおり、支那の横暴や、アメリカによる嫌がらせで、自存自衛のために戦わざるを得ないところへ追い込まれたことにあります。それを日本が侵略国であった・悪い国であったとされてしまうのです。どこの国に、君たちが生まれた国は悪い国だったと教える国があるのでしょうか??そして中曽根内閣の時に、靖国参拝問題が起こります。これまでの総理は普通に参拝をしていました。中曽根首相も1982年~85年の間に10回参拝していたのです。ところが、1985年8月15日の参拝を最後に公式参拝を止めたのです。時の中国の胡耀邦首席が困難な立場に立つからというのです。中国が騒ぎ、近隣諸国への配慮ということで国内のマスコミも騒ぎ出し、止めたのです。この禍根は今も続き、事あるごとにマスコミが騒ぎ、中国・韓国も騒ぎ、参拝しにくい状況になっています。国のため戦い亡くなった方を参拝するのに、何故近隣諸国の顔色を伺わなければいけないのでしょうか?更には、1995年の村山談話。「植民地支配と侵略によって、多くの国々、とりわけアジア諸国の人々に対して多大な損害と苦痛を与えました」だそうです。本当に情けなくなります。以後、首相はこの談話の見解を踏襲していくことになります。このような見解があるから、お金をバラマキ、謝罪外交などになり、国益を損ねていくのです。●従軍慰安婦問題日本軍が侵略により、無理矢理、現地の女性に性的暴行をしたという言いがかりです。日本軍としてこのような事実はありません。しかも、敗戦直後から出た話ではなく、50年以上も経った1996年から言われるようになります。そして、何より終戦際のソ連の侵略や、相変わらずの支那の暴徒、どさくさまぎれの朝鮮人(当時はまだ日本領土ですから日本人扱い。得意の手のひら返しです。)、ポツダム宣言受諾後のアメリカ軍の進駐により、日本の女性が性的暴行を受け、堕胎手術が多かったということをもっと日本は強調すべきでしょう。「お前らに言われる筋合いではない」です。負けた国には言いたい放題、容赦ないのです。また、戦前でも、ソ連は尼港事件。支那に至っては、通州事件を筆頭に、数々の暴行・虐殺事件があり、それにより満州事変・支那事変が起こったことは、これまで述べた通りです。戦後では、韓国がベトナム戦争で、アメリカ支援のためにベトナムに軍を派遣。そこでの蛮行は有名です。ライダイハンで検索するといいでしょう。日本政府もこれらのことくらいは言い返して欲しいものです。●領土問題領土問題も今だに解決していません。ソ連の北方領土侵略。前に述べたようにポツダム宣言受諾後の不法な占拠です。韓国とは竹島問題があります。1951年のサンフランシスコ平和条約で、竹島は返還の領土として含まれておらず、女要約発効直前に不法に自身の領土に組み込み(李承晩ライン)、不法に占拠したのです。中国とは尖閣諸島問題です。そもそも戦後は、中国領と言っていなかったのですが、資源が見つかるや、そして国力が付いてくるや、いきなり勝手に主張しだしたのです(1970年代頃から)。大体、尖閣諸島は、世界的にも沖縄県という認識でした。1972年にアメリカから返還されると、お得意の領海侵犯も増えていきました。そして1978年、この問題を棚上げにして日中平和友好条約を結んでしまったのです。したたかさは昔も今も変わりません。35年程経った今も、当然解決できず、それどころか沖縄本土さえ、自分たちのものだと言わんばかりの態度なのです。領海・領空侵犯は中国の国力増強に伴い、どんどんエスカレートしていきます。更にはこうした武力のみならず、土地まで合法的に買われてしまい、これを防ぐ法律すら満足に作れないでいます。外国人参政権を取り入れていこうとするなど、今現在も侵略が進められているのです。これらは、申し訳ないことをしたという間違った歴史認識を持ち、多額の支援をし続け、毅然とした態度を取れない政治家の責任です。●憲法問題特に9条の戦争放棄ですね。戦争は相手あってのものです。こちらは戦争などしたくなくても、残念ながら真の侵略国が近隣にあるのです。ロシアが、【相手国が弱いとみるや侵略してくる国】であるということは日本も経験済みです。そして中国の横暴は昔も今も変わりません。両国の領空・領海侵犯はもはや十八番です。今まではアメリカが基地をおいて軍事同盟を結んでいるから(日米安保条約)、実際に攻めてはきませんでしたが、今後の力学の変化次第では、いつどうなってもおかしくないのです。それを「戦争しません(9条)」って、どれだけおめでたいのか。戦争経験世代もいなくなってきて、やはり歴史認識問題の影響が大きいのでしょう。現状では、やられるまではやりかえせない憲法で、しかも自衛戦争であるという評価を下せるまで時間もかかるでしょう。その間に更に攻め込まれたらどうするのか。。。憲法改正問題は喫緊の課題です。●皇位継承問題そして最も心配なことが皇位継承問題です。2019年4月30日、第125代平成天皇が生前退位され、第一子:徳仁親王(第126代令和天皇)が天皇に即位されました。しかし、徳仁親王には男子がいないため、次の第127代は平成天皇の第二子:秋篠宮文仁親王が即位されます。そしてその次の第128代は、秋篠宮文仁親王の第一子:悠仁親王となります。これまで見てきたように、天皇は男系で繋いできました。長い長い歴史の中で続けてきた伝統ですから当然の継承順位です。これは女性差別ではありません。むしろどこの者か分からないような男性が天皇にならないようにした仕組みなので、男性排除の仕組みです。第25代武烈天皇が男子を成さぬまま崩御され、近縁の男子がいなかった際、朝廷の重臣たちは、5代も前に遡った第15代応神天皇の5世孫とされる継体天皇を即位させました。第101代称光天皇が崩御された際は、4代前の北朝初代:光厳天皇まで遡り、4世孫の第102代後花園天皇を即位させました。近い時代でいくと江戸時代、第118代後桃園天皇が崩御された際は、4代遡った第113代東山天皇の3世孫の第119代光格天皇に即位させました。そこまでして男系にこだわってきたのです。ニュースを見ると、徳仁親王の唯一の子:愛子様を礼賛する記事が多い一方、秋篠宮文仁親王や悠仁親王を叩く記事を多く目にします。マスコミは余程、秋篠宮家に皇位を継承させたくないようです。愛子様という女性天皇を待ちわびているかのようです。愛子様は女性天皇ですから前例もあります。しかし、今後愛子様にお子様が誕生し、その子が皇位を継ぐとなるとこれは女系となります。日本の歴史・伝統を知っているのでしょうか?愛子様がふさわしい、秋篠宮家はふさわしくない。そんなことは関係ありません。男系が日本の伝統で、日本国たるゆえんなのです。この辺でも歴史認識、教育問題が絡んでいるように思えます。<一系統の危うさと宮家について>現在の皇室で、天皇に即位されていない男子は、秋篠宮文仁親王、悠仁親王しかいないのです。なんとか秋篠宮家で繋いでいくしかありません。実は、現在の天皇に繋がる第119代光格天皇の系統は、男子が成人になる前に崩御されたりで、ぎりぎり一人の男子のみで繋いできました。第123代大正天皇になり、ようやく4人の成人男子に恵まれましたが、結局繋げたのは第124代の昭和天皇のみです。昭和天皇にはお二人の男子がおりましたが、これも次の第125代平成天皇しか子孫が残せませんでした。それが現在の天皇と、弟君の秋篠宮文仁親王です。天皇陛下のお子様は女性の愛子様のみですので、次は秋篠宮文仁親王、そしてその次が秋篠宮悠仁親王です。このように現在の光格天皇系統の皇室は、綱渡りの一系統のみで続いているのです。過去には、こうした一系統のリスクに備えて、宮家創設をしてきました。有名な宮家が伏見宮、そして現天皇に繋がる閑院宮です。ところが、この宮家、戦後、アメリカにより廃止させられたのです。旧宮家11家の廃止、皇籍離脱です(1947年)。日本が男系の天皇により紡いできた約2600年の伝統が、日本の結束力の源でした。これを恐れたので、男系で繋ぎにくいよう、宮家を皇籍離脱させ、断絶リスクを高めたのです。まさに何十年、何百年先を見据えた日本潰しです。その11宮家も既に5家が断絶。本流で伝統の一番ある伏見宮家も断絶見込みで、残り5家が存続しています。こうしてみても、一系統のリスクがあまりにも高いというのが分かるでしょう。ただ、問題点として、今の皇室からはあまりにも遠くなりすぎています。現在の天皇からは、第113代東山天皇まで10代遡り、伏見宮でいえば9世孫ということになります。現在御年92歳なので、存続している5家の今後の若い当主でみれば、10世・11世孫にあたります。これまでの最高の遡りの、第15代応神天皇も超す遡り具合です。しかし、そうは言っても、現在の皇室は天皇を除くと、秋篠宮家しかありません。それも文仁親王ー悠仁親王の一系統です。現代において、側室制度は中々理解を得られないので、遠いとは言っても、この旧宮家を再度復帰させるなど、対策をしなくてはなりません。歴史認識、教育問題、領土問題、皇位継承問題。。。敗戦の後遺症は今も続いているのです。
2024年09月17日
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アメリカとの戦争に敗れてしまった日本。しかし、日本が戦ったことによって、世界史を塗り替える大偉業を果たしたのです。【アジアの独立】日本は大戦中、東亜の独立を謳いました。当時、世界は欧米列強の植民地施策真っ只中で、日本以外ではタイがかろうじて独立を保っているにすぎませんでした。(支那は内戦で分断状態です。タイも、イギリス領のビルマ、フランス領のインドシナに挟まれる緩衝地帯として生かされていたにすぎません。)人種差別撤廃を提案した日本は、アジアの真の独立を願いました。勿論、一番は自存自衛の戦争でしたが、欧米列強の世界を変えるため、アジアの独立を後押しして欧米の力を削ごうとしました。敗戦後も、舞い戻って再度支配しようとした欧米を追い払い、完全独立のため、現地に残って戦い続けた日本兵も多くいました。結果、敗戦後、アジアは次々と独立。1945年インドネシア1946年フィリピン1947年インド、パキスタン1948年ビルマ、セイロン、マラヤ連邦1950年ベトナム、ラオス、カンボジアアジアの指導者たちの言葉を見ればそれが分かるというものです。日本は世界史を塗り替える程の業績を残したのです。・明治維新という近代化の成功・日露戦争による勝利・大東亜戦争を通じてのアジアの独立これらは世界に誇るべき奇跡です。【日本が防ぎたかった共産主義が世界で蔓延】日本は自存自衛のために米英と戦ったわけですが、共産主義とも戦っていました。この戦いは、ロシア帝国滅亡後に誕生したソ連におけるシベリア出兵より始まります。何と言っても皇帝を殺した共産主義は、天皇制を頂く日本には真逆の考え方でした。このため、ソ連を仮想敵国とし、共産化した横暴が目に余る支那とは戦いをしていかざるを得ませんでした。しかし、敗戦により、結果的に共産主義が世界に蔓延することになります。支那では、勝者であるはずの蒋介石が、共産党の毛沢東に追われます。毛沢東は日本が引き上げた後、真っ先に満州を狙います。日本が多大な投資をして発展したこの地域が欲しかったわけです。満州を抑えた毛沢東は、蒋介石を台湾へ追いやり、1949年、共産党による中華人民共和国が誕生してしまうのです。そして今現在も、変わらず約束を守らない横暴国家のままです。ただ当時と違うのが、核も持ち、アメリカに次ぐ軍事国家となってしまっているので、昔以上にたちが悪いでしょう。朝鮮も南北に国家が分かれることになりました。北は共産国家で、国民生活を顧みないまま、ミサイルをどんどんぶっぱなしています。南は北よりは割と会話が成り立つのかもしれませんが、恥を知らない国家です。戦前は日本人として戦ったくせに、敗戦後は手のひら返しの被害者面。口を開けば、賠償しろ!謝れ!困ったら「日本助けて~」の国です。そして共産国家バリバリのソ連。この国は崩壊しましたが、新たにできたロシア連邦も世界の嫌われ者です。というより国が変わっても、中身は変わらないのです。8/6、日本が原爆を広島に落とされてから、8/8に日ソ中立条約を破って満州や千島列島に侵攻します。8/15のポツダム宣言受諾以降に北方領土を侵略し、調印日の9/2以降も侵攻。4島を占領。今に至る・・・この侵略の際、多くの日本人を捕虜・奴隷としてシベリア抑留させます。弱いと見るや軽々と侵攻してくるのは、ウクライナのクリミア半島を見ていたらよく分かります。そして北方領土には住民を住まわせ、自国の既成事実を作る。領空・領海の侵犯を繰り返し、自国領という既成事実を作るどこかの国と同じですね。ロシア帝国もソ連もロシアも同じなのです。日本がロシアを恐れて、倒幕・明治維新を起こしてまで近代化を図ろうとしたのがよく分かるというものです。中国・朝鮮・ロシア。防共のため日本が戦ってきたわけですが、その日本を倒した後、防共の矢面に立ったのがアメリカです。アメリカは何のために日本を潰したんでしょうか。。。もう二度と戦争はしません!という憲法を作らせておいて、朝鮮戦争が起こるや警察予備隊→保安隊→自衛隊 を作らせています。その後、世界は 資本主義のアメリカ VS 共産主義のソ連 という冷戦を迎えることになるのです。日本を潰したことで、結果的に世界で共産主義が蔓延しました。歴史は後世が評価をする と考えた時、アジアの独立を果たしたこと、敗戦後に共産主義が蔓延したこと敗北を恥じることなく、むしろ日本人の誇りを取り戻さなくてはなりません。(アメリカの占領軍最高司令官:マッカーサーは、後の朝鮮分裂を目のあたりにして、あの時の日本は自存自衛のために戦ったと、日本の正当性を認めました。)【歴史上の為政者とは違う昭和天皇】古今東西、為政者は自分の身に何かあった時の保身だけはしっかりしています。捕まった時でも、自分だけは悪くない と言うものです。しかし、神代の御代より続く天皇、第124代昭和天皇は違いました。「戦争の遂行にあたっての全ての決定と行動に対する全責任を負う」と、マッカーサーとの会談で述べたと云います。開戦の責任は内閣にあります。昭和天皇は戦争に反対でしたし、いつも平和主義者でした。日本政府も開戦は避けたかったのですが、外交の失敗と、アメリカの嫌がらせ、支那の横暴、ソ連の暗躍、ドイツに振り回され、開戦やむなきに至り嵌められました。それを全て飲み込んで、自分が全責任を取ると仰せになったのです。【戦後、日本国民の傍にいた昭和天皇】日本国民に対しても誠実に向き合いました。焼野原となり何もかもが無くなってしまった日本国民を元気づけるため、1946年2月~1954年8月の8年半をかけて全国を行幸し、国民に勇気を与え続けました(アメリカの統治下であった沖縄県を除く。沖縄行幸は次の第125代平成天皇がなされました)。日本国民にとって、天皇とは「偉い雲の上の権力者」ではなく、寄り添う日本国民の父のような存在なのです。天皇は太古の御代より、日本国民の安寧を願う存在なのです。そして1955年より高度経済成長に入り、1960年代後半にはアメリカに次ぐ世界2位の経済大国になります。焼野原の敗戦からわずか20年程のことです。まさに日本は奇跡の復興を遂げるのです。勿論、日本国民の頑張りの賜物ですが、その背景に天皇の存在があります。幕末、欧米列強による外圧がありながらも、奇跡の近代化を成し遂げたのも、天皇の存在がありました。日本にとって、天皇制は宝なのです。天皇を中心に日本人を日本人たらしめ、一つにまとまってきたのです。このことをマッカーサーは、占領期から感じていました。だから天皇を潰しては日本がかえって大混乱になると判断したのです。更に、昭和天皇との会談での姿勢に感銘を受けたことが、天皇制廃止に動かなかった要因でしょう。昭和天皇は、戦争末期、内閣が機能不全に陥り、もはや戦争を終わらせることすらできなくなった時も、終戦をご決断されました。そしてまた、敗戦後のボロボロになった日本を立て直されました。124代の歴史の中でも非常に波乱に満ち・偉大な天皇であったと思うのです。
2024年08月28日
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支那問題の解決は困難を極め、国際孤立が進み、いよいよ米英との戦争も余儀なくされます。1941年12月、真珠湾攻撃により遂に開戦となるのですが、開戦に至るには様々な要因がありましたので、見ていきたいと思います。【ドイツに振り回される日本】第一次世界大戦で敗戦国となったドイツ。立て直しのため、支那への軍事支援を始めます。特に蒋介石が上海クーデターで、共産党と手切れをした翌年の1928年から、ドイツとの結びつきが強くなります。軍事顧問団の派遣、武器輸出、陣地構築などの支援が行われ、特に満州事変以降、本格化します。日本政府はこのことに何度も抗議をしていますが、ドイツはやめる姿勢を見せません。ちょうど共産化の波はドイツにも押し寄せていました。そこで日本は防共協定を結ぶ形で、ドイツと支那の間を絶とうとします。1936年11月締結に至ります。内容としては●日独でコミンテルンの破壊に協力して防衛●一方がソ連から攻撃を受けたら、ソ連の負担を軽くするようなことはしない●他国も誘う→イタリアが加わり日独伊防共協定に(1937年11月)しかし、これも効果がありませんでした。そうこうする内に支那事変が勃発。この時の第二次上海事変では、ドイツ援助の元作られた防衛陣地に、日本は大いに苦しめられることになるのです。ここでも外交で何とか断ち切ろうとするものらりくらりとかわすドイツ。そんな折、1938年3月にドイツが第一次世界大戦を経て結ばれたヴェルサイユ条約の破棄を通告。翌月にオーストリアを併合。いよいよドイツが再び欧州戦線の準備を進めていきます。1938年6月、ようやく対中輸出禁止を決め、駐華大使の引き上げを命じます。日本の願いをやっと聞き届けた・・・というよりは、欧州戦に備えて日本を敵に回したくないという自己都合です。こんな国を信じて、日独伊三国同盟を締結して(1940年9月27日)、英米との戦いを始めたのですから、その意味でも外交の失敗でしょう。実際、大東亜戦争が始まり、ドイツが日本のためにしてくれたことはありませんでした。【ソ連の暗躍】ソ連は日本を恐れていました。満州事変が勃発すると、翌年にはフランス・ポーランド・エストニア・ラトビア・フィンランドと不可侵条約を結び、西方を安定させた上で東方の日本の動きに備えます。更に支那事変が起こると、ソ連の指導者:スターリンは南京政府(蔣介石政府)と不可侵条約を結び、蒋介石に武器を提供し始めます。支援が途絶えたドイツに代わり、今度はソ連が支援を開始したのです。これは1941年6月の独ソ戦開始まで続きます。とにかく日本が怖かったのです。ノモンハン事件(1939年5月~9月)で、よく日本がソ連に敗れたと云われますが、ソ連も実はかなりやられています。(実際、日本の終戦直前までソ連は日本を攻めてくることができませんでした。)そんな折、ドイツはソ連と結びます。独ソ不可侵条約です(1939年8月)。ドイツとは防共協定で協力していました(1936年11月締結)。敵という共通認識である共産勢力と結んだのです。このことからもドイツを信じてはいけませんでした。この不可侵条約には日本政府も驚き、時の平沼騏一郎内閣は総辞職に至ります。しかし、1940年9月、快進撃を続けるドイツに幻想を抱き、日独伊三国同盟締結をしてしまうのです。更に近衛内閣の松岡洋右外相は、ドイツが不可侵条約を結んだソ連も加えた日独伊ソ四国同盟を狙いますが、これは早くも独ソ開戦で破談になるのです(1941年6月)。勿論、国際情勢を見誤った松岡洋右にも非はありますが、迷惑な国々です。共産化が進む支那の恐ろしさを知っていた日本が何故、共産主義の大元:ソ連など信じてしまったのか。。。コミンテルンの暗躍により、戦争へズルズルと引き込まれたわけですし、最後の最後に攻めてきましたしね。そんな国を当てにして、終戦直前、アメリカとの仲介を頼もうとするわけですから、どうしようもないです。ただ、そんな国を当てにしないといけないくらい、アメリカが日本を追い詰めてきたわけです。【アメリカの嫌がらせ】<アメリカの人種差別と日本抑圧政策>アメリカは、日露戦争、第一次世界大戦に勝利した日本の力を恐れ、排除の動きをしていきます。・1913年排日土地法・1921年四か国条約(日露戦争勝利の要因:日英同盟を破棄させられる)・1922年九か国条約(支那の領土保全・門戸開放=要は支那に関して抜け駆けするなという遅れて参入したアメリカのわがまま)・1922年ワシントン海軍軍縮会議・1924年排日移民法・1930年ロンドン海軍軍縮会議日本に対する恐れもありましたが、根強い人種差別がありました。「黄色人種ごとき奴らに、我々白人が・・・」というものです。日本は、第一次世界大戦後、パリ講和会議にて、「人種差別撤廃」を提案しますが、アメリカが却下。その後、アメリカが形式上、人種差別撤廃を導入したのは、1964年の公民権法まで待たなければなりません。日本は45年も早い、1919年の時点で既に人種差別をするなと提案。このことは我々日本人は誇ってよいことなのです。日本人の民度の高さが伺えます。大東亜戦争への道を考えた時に、支那の横暴、ロシアの崩壊・共産化(ソ連誕生)が大きいのですが、アメリカの日本に対する差別があったことも忘れてはなりません。そして、九か国条約によって、支那問題はこじれにこじれました。支那による横暴で日本が被害を受けた時、日本が何かするたびに「九か国条約違反だ!」とアメリカと支那が騒ぎ、支那の横暴は益々エスカレートしていくのです。その意味ではやはり、陰りが見えていましたが、当時世界最強と云われたイギリスとの同盟を破棄させられたこと、九か国条約を結んでしまったことは、日本にとっては痛恨でした。それでも、英米が協調して支那を叩こうと誘ってきた1927年の南京事件あたりまでは、希望があったのかもしれませんが、それ以降はいずれ戦いは避けられないという方向でした。アメリカが敵視してくるのですから。だから、石原莞爾は対米戦を見据えて満州国建国に走ったのです。しかし、満州建国を巡って日本は国際連盟を脱退。国際孤立が進んでしまいます。<大東亜戦争への道>さて、こじれた支那問題の帰結が、支那事変ですが、これでもアメリカはヘソを曲げ、蒋介石への支援を本格化させます。しかし、支那の横暴が止まず、日本としても引くことができなくなり、支那事変がどんどん拡大。ついに1939年7月、アメリカは「日米通商航海条約の破棄を通告」。半年後の1940年1月に破棄されます。これで日本の貿易は打撃を受け、支那との戦いに影響をきたすことになります。これを受け、フランス領であった北部インドシナ半島へ進駐します(資源が豊富なので)。当時、フランスはドイツの快進撃にあい、パリが陥落します(1940年6月)。ドイツに従属的なヴィシー政権ができるのですが、日本はこのヴィシー政権と話し合いの上、合法的に進駐の協定を締結します(1940年8月)。アメリカはこれに対して、石油製品・ガソリン(主に航空機燃料)・鉄・屑鉄の輸出許可制を敷き、日本を更に締め付けます。翌月、日独伊三国同盟が締結され、アメリカはより態度を硬化、屑鉄は全面禁輸となります。12月には航空機潤滑油製造装置など16品目の輸出許可制を敷いてきます。このようなアメリカの動きに対処するため、よい方法ではありませんが、ソ連を巻き込んで日独伊ソ四国同盟を模索しますが、ドイツがソ連と戦争を始めてしまい、構想は破談します。更に締め付けが厳しくなり、1941年6月に南部インドシナ半島へも進駐を決断します。(これも合法的に協定を結んでの進駐です)南部仏印は軍事物資である生ゴムの世界生産の9割、錫の世界生産の6割を占めており、アメリカが締め付ける以上、アメリカよりも早く抑える必要がありました。だが、アメリカは在米資産の凍結。イギリスも日英通商航海条約を破棄。そして8月には石油が全面禁輸。いよいよ船や飛行機が動かせなくなるので、開戦やむなきに至ったのです。それでも、第124代昭和天皇は何とか戦争を回避させようと、交渉を白紙に戻して一から和平の話し合いを求め、尊皇思想の強い東条英機を首相へ指名します。しかし、アメリカはもはや日本と戦争する気満々でした。舐め腐ったハルノートを突きつけ、ついに開戦へと至るのです。(インドのパル判事は、後にこんなものを突き付けられたら、モナコやルクセンブルク(のような小国)でも戦争で訴えただろうと言ったとされます)真珠湾攻撃の日、対米開戦を知った日本国民は胸のすく思いであったといいます。そのくらい、アメリカの嫌がらせに対してうっぷんが溜まっていたということです。それはそうです。横暴極まりない支那の味方をし、進駐は駄目といいながら自分は進駐して、経済制裁してくるんですから。日本が悲惨な戦争へ進んだのは、日本が侵略国だからではないのです。●支那の横暴●アメリカの日本人差別(排日移民法)、経済的締め付けつまり自存自衛のためと言えるでしょう。これが大きいです。昭和天皇も後に、アメリカとの開戦の原因として「遠因に排日移民法、直接的原因に石油禁輸」と分析されていたそうです。アメリカは、日本を徹底的に叩くため、不正義を働く支那の横暴には目をつむったのです。その結果、今現在、大きくなってしまった中国に、アメリカ自身困ってるじゃないですか。しかし、残念ながら、支那問題を国際協調により解決できず、ドイツ・ソ連に頼ろうとしているような日本政府に、大国アメリカと戦って勝てる道理もなく、敗戦となってしまうのでした。(現場の軍人は世界最高峰でしたが、如何せん政府の力量に差がありました。。。現場で優秀でも外交がダメだと話になりません。現在の政治家にもこのことは認識して欲しいものです。)日本に嫌がらせをして追い詰めた国は、原爆を2度も落とします。更には全国各地で空襲をおこない、非戦闘員である市民に対して非人道的行為をおこないながら、今現在も世界警察気取りです。しかし、そんなアメリカに対して敗戦後も戦い続けたのが、昭和天皇でした。
2024年08月15日
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満州事変は単なる関東軍の暴走ではありません。まず背景に、①約束を守らない支那があります。そして、②それに対して有効な手立てを打てない日本政府がいます。ここに経済不況も重なり、③これに対しても有効策が打てない日本政府。国民も不満が高まります。そこに、ガツンとかました関東軍。メディアが乗っかり褒めそやして民意が同調します。そのため日本政府も関東軍を強く抑えられなくなります。④支那の横暴は止まらず、軍を抑えられない日本政府が更に国際孤立、、、となります。【①約束を守らない支那の横暴】支那は約束を守りません。今も。蒋介石が北伐を進めて支那の領土が増えていき、かつ、赤化が進むにつれて横暴が更に際立っていきます。日本とは3000件といわれるほどの懸案事項があがってしまっていました。日本だけではありません。欧米列強とも様々な懸案があったのです。関税自主権の回復、治外法権の撤廃、これらは日本の場合、富国強兵することで勝ち取りました。しかし、支那は違います。暴力により無理やり承認させたのです。欧米はあまりの横暴さに手を焼きます。1927年の南京事件で、日英米の居留民は恥辱凌辱を受け、英米は軍艦から艦砲射撃をして支那に報復しましたが、日本は不干渉を貫きました(幣原外交)。英米が一緒にやろうと誘ったのにです。特に第一次世界大戦後、米は日本を警戒して事あるごとに反日姿勢を示していましたが、この時は協調を誘ったのです。これを拒否して、またも心証を悪くしてしまいます。日本としては、米英が理解を示してくれていたこの時に協力して支那を叩き、約束を守らせるチャンスでした。(3か国で叩いても守らなかった可能性も高いですが・・・)しかし、米英は1928年、関税自主権の回復を認めます。もう諦めたのでしょう。。。むしろ、協力をしなかった日本を敵視するようになります。1929年11月、ソ連も満州へ侵攻します。張学良政権の易幟により、蔣介石の国民党軍に降伏してから排外運動がより激化。東清鉄道の通信機器を実力回収に踏み切った結果、ソ連が侵攻したのです。ところが、この時アメリカはソ連を批判していません。日本の満州事変には激しく非難したのにも関わらずです。ここもアメリカの日本敵視政策が見えてきます。【②有効な手が打てない日本政府。そして国際孤立へ】3000件とも云われる程の事項があがっていながら、解決策が打てない日本政府。ズルズルと支那の横暴に引きずられ、更には南京事件の協調タイミングを逸して米英からも疎外され。。。当然、世論も「政府何やってんだよ!国民の生命財産守れよ!」となります。この帰結が満州事変です。9月18日の柳条湖事件より始まった満州事変ですが、日本政府は9月24日に不拡大方針を発表。一方で国連には、この問題解決のための中華民国政府との交渉にあげるものとして・両国は相互不可侵・中華民国の領土保全の尊重・中華民国は国内の反日ボイコット・反日宣伝を取り締まる・中華民国は満州の日本人の生命、財産を守る・中華民国は条約を尊重日本の思いは上記の主張に集約されています。逆に、中華民国がやってきたことが分かるというものです。しかし、政府の不拡大方針に反して、支那の挑発も更にエスカレートするのと、関東軍はもはや中華民国と別の国にしないと3000件の案件も解決しないと思っているので、どんどん戦火を広げていきます。国連はリットン調査団を派遣して満州の実態調査をおこないます。日本は受け入れる条件として、満州での匪賊討伐権を認めさせます。このことからも匪賊だらけの国で、約束を守るも何もない国というのが分かります。(満州建国の1932年2月時点で、匪賊は20万もいたとされますが、1933年2月には掃討しました。そのため、満州は人口も増えて栄えていくのです。日本のおかげで)調査報告は事件の翌年1932年10月に公表。□支那における反日ボイコットは多少なりと中華民国に責任がある□中華民国は、1931年9月(満州事変勃発)時点での条約は守れ□日本が撤退するための準備として、満州の平和を維持するため、有能な憲兵隊が組織されないとダメなんと、中華民国の非を認めた内容なのです!やはり列強も分かっていたのです。蒋介石は屈辱的な内容であると言ったそうです。ただし、支那の横暴が続くので、関東軍は進撃を止めません。このため、「日本の満州に対する権益は認めるが、満州国は認めない」ということになり、世論は激高、これに引きずられるように国連脱退に至ってしまったのです。日本政府の動き、どうでしょう??満州での支那の横暴を解決できず、事態は悪化の一途。かといって、満州国を作ろうなどとは考えてもおらず、満州をまとめられる政権を支持するという姿勢でした(1927年東方会議)。だから現地の関東軍が満州事変を起こすと、「これ以上騒ぎを大きくするなー」と不拡大方針を出します。そのくせ、リットン報告書で、満州国建国は認めないと云われると、国連を脱退してしまうのです。。。この一貫性の無さが、日本政府の問題点でもありました。勿論、満州事変を受けて若槻内閣が総辞職したり、その後の犬養内閣も、五・一五事件で犬養首相が暗殺され総辞職したり、など、内閣がコロコロ変わっていたというのもありますが、あまりにお粗末でしょう。【③不況に対しても手が打てない日本政府】タイミングの悪いことに経済不況も日本を襲います。これに対しても有効策が打つことができません。支那の案件も相まって、国民は政府に不満を募らせます。1931年濱口雄幸首相銃撃、1932年の血盟団事件、五・一五事件は、首相などを狙った事件です。血盟団事件は実際には首相は殺害されませんでしたが、五・一五事件では犬養首相が暗殺されます。(濱口首相はその後、銃撃の傷が元で死亡)そして、1936年の二・二六事件も政府中枢を狙ったテロです。陸軍内の派閥争いなどの要素もありましたが、背景に貧困・格差があり、これに対して有効な手立てを打てなかった政府に対しての不満があります。そして、血盟団事件、五・一五事件に関しては首謀者に甘い判決が下りました。同情的な民意もあったからでしょう。(民意が裁判に反映するなどあってはならないのですが・・・)そのくらい国民も、支那問題への無策ぶりと、貧困・格差問題に対しての政府への不満があったのでしょう。軍部も政府へ不満がありました。それは第一次世界大戦後の、ワシントン海軍軍縮会議です。もう戦争は嫌だ!軍縮を決めようという列強の話合いの中で、海軍力を抑え込まれることになったのです。続く1930年ロンドン海軍軍縮会議でも米英に対して抑え込まれます。国民、軍部、共に現政府に対して不満がありました。そして、軍部によるクーデター・テロは、政府を更に委縮させ、軍を抑えることが出来なくなっていき、国際孤立が進み、支那問題解決をより困難にしていくのでした。【④続く支那の横暴、そして支那事変へ!】手が打てない日本政府を嘲笑うかのように、支那の横暴は続きます。その度に協定を結ぶのですが、破り続けるという満州事変に至る道と同じ道を辿ります。この帰結が1937年7月7日の支那事変です。満州事変以降も、こんな感じで案件が沢山起きています。※蒋介石が共産党勢力に捉えられ、再度手を組まされたのは日本にとって不幸でした。いよいよ中華民国政府が、赤化共産党と一つになって、日本に嫌がらせを最大限エスカレートしていきます。満州事変は支那の横暴に対して、現地人や日本の権益を守る為に一部の関東軍が計画的に引き起こしたものでした。しかし支那事変は違います。数々の支那の挑発(盧溝橋事件)によりズルズルと引き込まれるように引き起こされたのでした。(支那側の発砲ということは分かっています。)やはりこの時も、日本政府は不拡大方針を出しますが、世にも恐ろしい通州事件が起こります(7/29)。これはシベリア出兵の時の尼港事件と同じ共産勢力による惨殺事件です。これで日本世論は激高。いよいよ支那との全面衝突が避けられないかとなりますが、それでも中華民国政府と関係の深い船津辰一郎氏を派遣して、和平工作を試みます。この内容としては、満州事変以降に得た権益を全て返すという非常に寛大なものでした。しかし、やっぱり徴発・虐殺が続き、これも破談します。特に8月13日より勃発した第二次上海事変はひどいものでした。蒋介石軍は日本軍のみならず、米英仏など外国人をも攻撃し、これを日本軍の仕業と触れ回り、外国を干渉させます。支那のあまりの横暴ぶりに、欧米の仲裁を日本は丁重に辞退し、上海を制圧しました。これを受け、再度、和平交渉をしますが(第一次トラウトマン工作)、同じ結果でした。徴発・虐殺が続くのです。そうこうする内に、戦火は拡大し、日本軍は南京まで占領することになり(1937年12月)、和平の条件が上がらざるを得なくなり、再再度の和平交渉も実らず(第二次トラウトマン工作)、ついに時の近衛首相は「蒋介石政府を相手とせず」・・・と話し合い放棄になってしまうのです。(近衛声明)またも、リットン調査団の時と同じ、最後は切れてしまうのです。最終的に切れるなら、最初から米英と手を組んで叩いておくべきだったのです。それが、「いいよ、いいよ」で支那が付けあがり、寛大な処置に対して虐殺・惨殺の返礼を受け、関東軍が反撃をすると不拡大方針を出すのに、抑えられなくなって最後は切れる・・・日本だけで切れてしまうから、米英から不信感を抱かれ国際孤立していくのです。米英と上手く足並みを揃えて対処できなかった外交の失敗と、国内テロを恐れ軍を強く抑えられなかったことが、日本をズルズルと戦火の渦の中に巻き込んでいくことになるのです。そして、米英との戦争にも引きずり込まれていくのです。ただ、日本は悲惨な戦争に引きずり込まれた大本の原因として、支那の横暴があったことは絶対に忘れてはならないです。<補足:南京大虐殺というプロパガンダ>日本は敗戦国になってしまった故、この時の南京占領で大虐殺をしたと言われっ放しで、情けないことに日本国民でそれを信じている者もいますが、上記のようにそれはありません!以上!
2024年08月05日
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清が1911年に崩壊し、孫文が翌年、中華民国臨時政府の臨時大統領に就任しますが、早くも袁世凱に臨時大統領職を乗っ取られます。袁世凱は帝政を目指すも失脚し、段祺瑞が新しく実権を握るなど、中華民国は早くもぐちゃぐちゃの状態でした。(というか国と呼べないバラバラの状態なので、当時から中国地域を示す’支那’と呼ばれていました。)当然、清の版図をまとめられるわけもなく、各地域の豪族が跋扈し、戦国時代の様相を呈していました。そんな中、孫文の右腕として頭角を現したのが「蒋介石」でした。彼の軍事力もあり、孫文は1921年に中華民国非常大総統に返り咲きます。孫文は復権していく最中、ソ連の共産思想が浸透し(赤化)、1924年には孫文の国民党と連携:第一国共合作をはかります。(中国共産党は1921年に結党)翌1925年に孫文が死去すると、蔣介石は共産党への警戒感を強めます。それもそのはず、1925年には農民協会員は20万人、労働組合員が45万人だったのが、1926年にはそれぞれ、300万人、120万人。1927年には980万人、280万人にも膨れ上がります。支那に急速に共産主義が蔓延し、勢力が大きくなっていったからです。そして、1926年7月、蔣介石は支那の統一に向け、北伐を開始します。増えてきた共産主義者が、北伐の途中で引き起こした事件が、1927年に起きた「南京事件」「漢口事件」です。当時、南京・漢口には日本人含め外国人が居留しており、共産党の影響が入った国民党軍が略奪・凌辱の限りを尽くしました。これを受け、蒋介石は共産主義を排除します(上海クーデター)。しかし、翌1928年には済南で同じような「済南事件」が起こります。もはや国民党軍の中に、赤化が浸透していたのです。日本による山東出兵は、これら漢口事件・済南事件を受けて、居留民を保護するために行ったものです。混乱している支那の領土をかすめ取るものではなく、あくまで自国民保護のための出兵なのです。この時、共産党員はもちろん、そうでない支那人も、日本国旗侮辱・反日ビラ・邦人店の不買運動どころか破壊や略奪などもされています。いつの時代ですか!今でもこういうのニュースで見たりしますよね。国は変われど、昔も今も変わらないですよね。そして出兵をして現地で色々と交渉するも、その時の協定は守られず、相変わらずデカい声で、「日本人が先に手を出した!」「日本が虐殺をした!」と言うのです。列強はどこも信じていませんでしたが。この辺も変わらないですよね。笑ってしまうのが、反日暴動が起きたようですが、山東の人たちは治安が良くなるので大歓迎だったそうです。このことが当時の支那の状況をよく表していると思います。【北伐の中で起きた張作霖爆殺事件】辛亥革命の後、満州地域は満州馬賊の出身:張作霖が奉天軍閥を作り、実質支配します。1922年には、満州の東三州(奉天・吉林・黒竜江)の独立を宣言し、中華民国とは別の国であることを示します。1926年には北京政府の実権を握るまで勢力が拡大していきますが、1928年に蒋介石による北伐で敗北します。そして満州に戻る最中、乗車していた列車が突如爆発して亡くなります。張作霖爆殺事件です。この事件は、当初、満州に権益を持っていた日本が、張作霖を傀儡政権として操っていたが、次第に言うことを聞かなくなり、挙句の果てに蒋介石に敗れたので、用済みとなり日本軍に殺害されたと云われています。第124代昭和天皇はこれを憂い、当時の田中義一首相に事件解明を求めますが、結局有耶無耶となってしまい、内閣総辞職にまで発展しました。<日本軍の仕業なのか?>張作霖の奉天軍閥支配下では、満州鉄道平行線を作るなど、日本への妨害工作が横行していました。つまり、第一次世界大戦中の二十一か条の要求など、まったく無視され続けてきたのです。日清、日露で得た権益を、清が崩壊したため、清時代の約束を守ってね と多くを妥協して再度約束したにも関わらず、このような約束破りが横行していたのです。蒋介石らの北京政府と別の政府とはいえ、前王朝の条約の履行義務があるのは、先進国としては当たり前のことでした。(この意味でも当時の支那は先進国でもなく、暗黒大陸だったといえるでしょう)徳川幕府時代の不平等条約改定に躍起になった日本とは大きな違いです。この数々の約束破りが、日本軍の中の一部(特に満州に滞在していた関東軍)で不満があったことは事実でしょう。今回、日本軍が関与しなかったにせよ、いずれ不満が爆発したと思われます。(実際、1931年に石原莞爾が満州事変を起こした理由の一つにこれがあります。)<日本政府・日本国としての仕業か?>ただ、日本政府としてはどうでしょうか?前年の1927年に、田中義一首相が開催した東方会議の内容がこちらです。ここから言えることは、日本政府としては、満州を乗っ取るなどと考えておらず、まして張作霖の片棒を担いではいないのです。約束を守ってくれる政権と満州の安定を望んでいるだけです。そのことが日本にとっての一番の国益なのですから。(日本が満州国を運営するとなると、膨大なお金や労力がかかります。それは朝鮮を併合して実感していたと思います。)日本国として、 蒋介石に負けて用済みだから捨てる というのは考えにくいです。<共産党員の仕業か?>張作霖爆殺事件が起きた1927年には、先程示した通り、随分と共産勢力が浸透してきていました。(先程の南京事件、漢口事件は1927年、済南事件は1928年です)よって、この暗殺劇にも共産党員の関与は否定できません。実際にスターリンの指示によるソ連特務機関犯行説などもあるようです。ただ、済南事件にみたように、国民党軍にも赤化が浸透しており、支那の混乱ぶりからすると、支那側の仕業というのも大いにあり得ると思います。後年の支那事変は、支那側の度重なる挑発の帰結です。【満州権益の行方 ~日支懸案3000件!~】事件後、満州は張作霖の息子:張学良が後を継ぎますが、1928年12月、蒋介石の国民党軍に降伏します(易幟:えきし)。ただし、蒋介石は満州の独立を承認しており、張学良を満州の支配者として認めていましたが、赤化が満州を覆っていたのです。そして、更に排日運動が激化してくるのです。代表的なものに1929年の土地盗売厳禁条例(日本人に土地を売ると処刑)があり、その他60余りの禁令を出します。しかも、過去にさかのぼって適応するという無茶苦茶ぶりです。そして当時、朝鮮人は日本人でしたから、朝鮮人が満州で土地を買っていくと、これらの条例に触れることとなり、トラブルが頻発していました。それらの帰結が、日支懸案3000件とも言われる程の問題山積、そして満州事変なのです。そして、●この懸案に対して、日本政府が強気の対応が出来ず、満州現地の軍部(関東軍)の一部で不満が溜まったこと●元々満州は清帝国発祥の地で、国民党軍はおろか、張学良政権すら歓迎されておらず独立機運があった(中華民国とは違う国だし、満州の馬賊出身の実力者もただの成り上がりにすぎません。)満州の権益が侵され、それに対して何も有効策が打てない日本政府への不満により、現地の関東軍の一部が満州国建国に走ることになるのです。実際に、満州事変後、満州の各地域で独立宣言が出されましたが、日本軍が清朝皇帝の溥儀を擁立し、満州国を建国すると、各地域の軍閥は従ったのです。このため満州事変は、ただの関東軍の暴走とは言い切れないのです。これはリットン調査団の報告でも明らかなのです。しかし、第一次世界大戦同様、ここでも日本はその後の外交で失敗をするのです。。。
2024年07月19日
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第一次世界大戦の最中、ロシア帝国は崩壊し共産主義のソビエト連邦が誕生してしまいます。大戦よりも前に崩壊した帝国がありました。清朝です。1895年に日本に日清戦争で敗れて後、清朝は列強に領土を侵食されていきました。1898年にドイツが膠州湾を租借、ロシアが旅順・大連を租借、更にイギリスが九龍半島・威海衛を租借。1899年にはフランスが広州湾を租借します。1900年には義和団の乱が起き、国内で排外運動が盛んになります。当初は清はこれを抑えようとするも、結局は迎合し、北清事変を起こし列強に宣戦布告することになります。8か国の共同出兵により鎮圧されますが、ロシアが満州に駐留し続け、我が物顔で日本海を伺うことになり、日露戦争へと至るのです。日本はこれを撃退するわけですが、もはや清は国家の体を成しておりませんでした。ロシアに勝利した日本に学べと、日本に来ていた孫文は中国同盟会を1905年に結成します。それまで複数あった革命結社を統合して結成されたのですが、あちこちに反乱の芽があったのです。そして1911年10月、ついに武昌で蜂起、辛亥革命が勃発します。1912年1月、中華民国臨時政府が成立し、孫文は臨時大統領に就任します。しかし早くも2月、北洋軍閥のトップ:袁世凱に臨時大統領職を奪われます。臨時政府は孫文の下、まとまっていたわけではなく、力が正義の戦国時代のような状態でした。そんな折、第一次世界大戦が勃発するのです。【対華二十一か条の要求とは】対支二十一か条の要求とも云いますが、ロシアに勝利した日本が調子にのって、中国へ理不尽な要求をしたと言われますが、どういう内容のものでしょうか?これは第一次世界大戦の最中に出されます。<第1号・第2号について>イギリスは当初、日本の第一次世界大戦への参戦を望んでいませんでしたが、思わずドイツに苦戦を強いられ、助けを求めることになります。ただし、欧州への本格参戦ではなく、ドイツが中国に権益を持つ山東省(租借地である膠州湾含む)への出兵に限定を条件にしました。ところが欧州戦線の状況ははかばかしくなく、イギリスは太平洋にドイツが権益を持つ南洋諸島の攻略もお願いします。それで終わらず、攻略した南洋諸島の領有を見返りとして、更に欧州の地中海への海軍派遣(1917年2月)、欧州大陸への陸軍派遣と際限がなく要望が拡大していきます。さすがに陸軍の派遣はしませんでしたが、日本の活躍が第一次世界大戦の勝利に大きく貢献したのです。しかし、日本には懸念事項がありました。山東省と、日露戦争で権益を得た旅順・大連、これらは元は清朝の領土でした。まず旅順・大連を含む南満州は、日露戦争によりロシアから権益を認められました。これを受けて、今度は清朝と満州善後条約を締結します(1905年12月)。これはポーツマス条約の内容について清にも了解を得るものでした。加えて、●満州鉄道の吉林までの延伸●同鉄道守備のための日本軍常駐権●鉄道沿線の鉱山採掘権(鉄道走行に不可欠)●安奉鉄道の使用権継続と両国の共同事業化(この鉄道は日露戦争の時の補給路線として使用)●平行線設置の禁止●日本人居住地の設置許可などを清に認めてもらいました。まさに第2号の内容です。つまり、前の王朝清朝に認められたものなので、後継の中華民国さんも継続して守って下さいね という確認事項です。実際、この満州善後条約の後、清やその後の中華民国は、アメリカを巻き込んで平行線をバンバン建設しようとして、日本の南満州への権益妨害をしてきます。これらは条約違反です。だから守れ!と言ってるのです。そしてドイツから得た山東省は、この時は既に中華民国になっていたので、改めて獲得した山東省に関して、権益継承の確認と、鉄道の敷設権(南満州で得た権益と同じ内容です)獲得を求めると共に、他国に渡さないことを求めたものです。中華民国といっても国ではなく内乱の戦国時代の様相でしたから、各地域の豪族たちが勝手に外国とつるまないよう、他国に渡させないことを求めました。というか、こんなことを確認しないといけないくらい、中華民国はバラバラの状態でした。また、山東省の各都市を外国人に開放とあり、日本は山東省を一人占めして分捕るつもりがないのは明らかです。<第3号・第4号について>3号に関しては、資源に乏しい日本が1899年に、この公司と鉄鉱石の輸入契約を結んでいました。ところが1900年の義和団事件を機に、ドイツが日本のこの権益に妨害を加えてきたため、公司と300万円の借款契約を交わして、担保として公司の鉱山を60年間売却しないことにしました。辛亥革命により、この契約も危うくなり公司が没収を逃れようと200万元を日本に要求。その条件として日支合弁にするよう提案していました。つまり、これも前から決まっていた契約をきちんと履行して下さいね ということです。4号の沿岸・島嶼を他国に渡さない というのも、山東省の内容と同じです。特に日清戦争後、日本の領土となっていた台湾の向いにある福建省が他国に渡されたら緊張が走りますので、これを勝手に渡さないように というものです。これを見ても中華民国が国の体を成していないのがよく分かります。つまり、不当な要求ではなく、後継国家として「約束を守ってね」と言ってるにすぎないのです。<第五号(要求ではなく希望)について>これは要求ではなく希望です。つまり、対華二十一か条の要求ではなく、14条の要求+7条の希望事項 なのです。そして、この希望条項を見ると、日本過激だなって感じがしますが、そもそもこれは孫文がこうしようと提案してきたことなのです。中国は戦国時代の大混乱の様相を呈していました。そのため孫文としては、統一のためには日本の力が必要だと思っていたのです。これを袁世凱も「入れてくれ」 と希望し、入れたら、「日本にいじめられたよー」と騒ぎ出したのです。引っかかった日本政府も日本政府ですが、断じて日本が中国をいじめて突き付けたものではないのです。(そういう国だという教訓にしておく必要はあります。)袁世凱によるプロパガンダで【要求】とひとくくりにされているにすぎません。<対華二十一か条の要求のその後について>ただ、袁世凱によるプロパガンダは、日本を敵視していたアメリカには好都合でした。日露戦争後、満州参入が出来なかったアメリカは、第一次世界大戦後も日本封じに動きます。●日英同盟破棄(代わりに日英米仏の四か国同盟という共同責任は無責任の状態に)●中国の領土保全・門戸開放を掲げて、列国の抜け駆けを禁じる(九か国条約。実態は中国分捕り合戦の参入に遅れたアメリカが、きれいごとを並べて抜け駆けを禁じたものにすぎない)これにより山東省は放棄させられます。さらに南満州における権益に関する第2号でも、鉄道敷設の優先権などを放棄させられます。更には希望事項に関しても放棄させられ、結局は二十一か条ではなく十か条になっています。これが第一次世界大戦後のワシントン会議の結果です。(1922年)加えて海軍の軍縮条約も含み、これが日本国内で不穏な政治情勢を生むことになり、後の大東亜戦争への道に繋がっていく一つの要因となるのです。日本は第一次世界大戦では戦勝国でしたが、その後の外交で敗北したのです。そして、この妥協は中国から見くびられ、日本排斥運動の激化に繋がりやがて満州事変へと繋がっていくのです。第123代大正天皇の御代は、大正デモクラシーで自由な言論があったいい時代と云われますが、「英米との確執」「ロシア帝国の崩壊と共産主義の台頭」「清朝の崩壊と中国大陸の大混乱」と、不穏な時代になってきていたのです。1926年12月25日、大正天皇が崩御され、いよいよ大激動の時代、昭和時代へ突入するのです。
2024年06月25日
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第一次世界大戦を通じて、これまでの友好国であったイギリス・アメリカから警戒をされ、暗雲が立ち込めてきた日本。英米だけではありませんでした。日露戦争を経て日本はロシアと関係を深め、アメリカによる満州介入を阻止してきました(日露協約)。第一次世界大戦においても、日本は英だけでなく、ロシアに対しても武器支援をしていきました。(日露戦争における借金返済の目的もあり、英仏露などに支援をしていました)しかし、そんなロシアがなんと国ごと無くなってしまうことになるのです。ロシア革命の始まりでした。元々、ロシアはロマノフ王朝が支配する帝国でしたが、日露戦争時、明石元二郎の裏工作により労働者(プロレタリアート)による反乱が起きていました。この時点で庶民に大きな負担を強いていたわけですが、第一次世界大戦でこの不満が頂点に達します。1917年に二月革命が起き、臨時政府が作られます。(これはブルジョワジーによる反乱)同年七月革命では、プロレタリア-トの革命を臨時政府が鎮圧。レーニンが亡命。十月革命で、レーニンが盛り返して臨時政府を打倒。ロシア社会主義連邦ソビエト共和国が誕生します。当初は選挙をするのですが、レーニン率いるボリシェヴィキが負けると議会を閉鎖。一党独裁体制を敷きます。秘密警察、強制収容所も作られ、現在のどこかの国のような形に早くもなるのです。ポリシェヴィキは1918年3月に共産党へ改称。そして共産主義の革命思想が世界に吹き荒れるのです。【1918年3月:ブレスト=リトフスク条約の締結】共産党はまず足固め。ドイツ、オーストリア=ハンガリー帝国、オスマントルコ、ブルガリアの中央同盟国と、ブレスト=リトフスク条約を結びます。ロシアは当初、英仏日など連合国側として参加していましたが、共産党は敵国と講和することにして、第一次世界大戦からの離脱を宣言します。更には、現在のフィンランド・バルト三国、ウクライナ、ベラルーシ、カフカス地方を放棄したのです。そのくらいソビエトは追い詰められていましたが、まずはロシア帝国の残党など、内戦制圧へ注力することにしたのです。ただ、連合国もロシアの離脱阻止、更には共産化の波及を恐れ、干渉戦争をおこないます。(フランス革命後の対仏干渉戦争と同じ構図ですね)ポーランドが英仏の支援などを得て、西ウクライナへ侵攻。1918年11月に中央同盟国の敗北が決まり、第一次世界大戦が終了した後も、対ソ干渉戦争は続きます。ソビエトも、一旦は放棄の宣言をしたものの、やはり領土を取り戻そうとしていきます。〇ソビエトが取り戻した国、戻せなかった国ポイントとしては、欧州に接している国は、英仏らの干渉戦争により共産化を阻止。ウクライナも東は共産化するも、西は連合国側が介入、ベラルーシにとどめます。南側のウズベキスタン、カザフスタンなどは、元々、ソビエトもブレスト=リトフスク条約で放棄は宣言していないものの、欧州も接しないので、慌てることなく自治を認めつつ、ゆっくり連邦に組み込んでいます。ソビエトはロシア帝国の残党を葬り、足場を固めるため、まずは内側 → そして一度手放した領土を再び取り返そうとしています。のみならず、共産化の革命思想をどんどんバラ蒔いていき、世界中を混乱させていきます。天皇を頂く日本にとっては、労働者階級:ブルジョワジーの反乱は脅威でした。(日本の場合、欧州の絶対王政とは違い、天皇は民の安寧を祈り愛しむ存在なのですが、革命思想はやはり脅威でした)【シベリア出兵と尼港事件】この共産革命の阻止が、シベリア出兵です。日本はセミョーノフという、反革命のロシア人を支持してソビエトの防波堤にします。英仏はコルチャークという、反革命のロシア人を支持してソビエトの防波堤にしますが、第一次世界大戦の終了と、コルチャークが共産化の指導者:レーニンに敗北すると支援を縮小していきます。更にフィンランド・バルト三国をソビエトとの干渉国にしたら、手を引きます。アメリカはまた別の思惑があり、革命阻止というより、仮想敵国日本の影響力排除です。日本単独でシベリアに干渉されるのを嫌い、共同出兵を提案。日本と共同で動くことで逆に日本の足かせになります。英仏が手を引くと、アメリカも共同提案しておきながら勝手に手を引きます。日本も手を引く準備に取り掛かりますが、そうこうしているうちに、尼港事件が起こります。断じて、第一次世界大戦下でロシアが崩壊した混乱に乗じて領土侵略ということではないのです。尼港事件を受けて保障占領した北樺太も放棄、終始アメリカの都合に振り回されるのです。尼港事件は、日本に共産主義への恐怖を更に強めることとなりました。幕末以降、最も恐れたロシアを日露戦争で撃退し、ようやく協力できる関係になれたのに、そのロシアが崩壊し、ソビエトというまたも大きな脅威を隣国に抱えることになるのです。しかも、ロシアの時と違い、革命思想という日本にとっては受け入れられない思想が追加されて。。。そしてもう一方の隣国、中国も激動の戦国時代の様相を呈してくるのです。日露戦争に勝利して絶頂となった日本に早くも暗雲が垂れ込めてきたのです。
2024年06月11日
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ロシアに勝利した日本ですが、ロシアをけん制するため、日本と同盟を結んだイギリス。そして講和条約を斡旋したアメリカ。この両国が、今度は強くなった日本に警戒を示し始めるのです。【アメリカとの確執】まずアメリカは、満州鉄道に関して共同経営を提案してきます。(この時はまだ鉄道王ハリマンによる提案で、アメリカ国としての提案ではありません)しかし、日露は満州を巡って多くの血を流したので、共同してアメリカが入り込むのを阻止。これが第一次日露協約です。(1907年)南満州は日本、北満州はロシアの勢力範囲と日露で相互承認し合います。このあたりから、アメリカでの日本人移民排斥運動が激化してきます。1909年、今度は南満州鉄道中立化提案を、アメリカが国としておこないます。これに対して、第二次日露協約で排除。先の満州の勢力範囲の維持と、両国の鉄道権益確保の協力を確認します。1910年のことです。そして1913年には、アメリカのカルフォルニアで排日土地法が定められ、日本人の土地所有を禁止してきます。1921年~25年にかけて、他の州でも土地の所有・借地が禁じられていきます。1922年には日本人の帰化を認めなくして、1924年排日移民法が定められ、日本人はアメリカから完全に受け入れを拒否された扱いとなりました。アメリカは日本を開国させておきながら、脅威になるや今度は敵国かのような態度を示してきたのです。【イギリスの警戒と日英同盟の破棄】ロシアに勝利した立役者、イギリス。イギリスとも歪が生じ、日本が警戒されます。1914年に勃発した第一次世界大戦の時にそれが表れました。イギリスは、日英同盟はヨーロッパの戦争には適応せず として、当初は参戦を拒否したのです。ところがドイツの脅威を目の当たりにして、参戦を促してきたのです。最初はドイツが占有していた中国の膠州湾(中国沿岸)だけ渋々認めたのですが、状況の厳しさから、ドイツが持っていた南洋諸島、更には地中海、ヨーロッパ大陸への派遣まで求めてきたのです。日本は膠州湾は中国へ返還し、南洋諸島も占領などの領土欲は示しませんでした。しかし、地中海への派遣要請に至り、見返りとして赤道以北の南洋諸島の領有を認められます。さすがにヨーロッパ大陸への陸軍派遣は断りましたが、世界最強と云われた大英帝国のイギリスが、それだけ追い詰められていたということです。日本が参戦したことにより、ドイツの権益である膠州湾と、南洋諸島を攻略し、イギリスに貢献したわけです。それだけ日本が強くなっていました。これに気に入らないアメリカが、南洋諸島の国連管理など、徹底的に日本の影響力排除を図りました。これは却下されましたが、中国大陸での辛亥革命の混乱により管理が認められていた膠州湾は、最終的に返還させられることになるのです。それだけでなく、日露戦争勝利の要因でもあった日英同盟の破棄までさせられます。(代わりに四か国条約へ。日英米仏。しかし共同責任は無責任。この条約は機能せず、実質的な日英同盟の破棄になりました。) → 1921年11月から22年2月までのワシントン会議にて世界で有数の列強国になった日本ですが、アメリカ・イギリス、のみならず大英帝国の一員であるカナダ・オーストラリアからも警戒され、大正天皇の御代には暗雲が漂ってきたのです。
2024年05月31日
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当時、イギリスに次ぐ世界第二位の列強国、ロシアと戦うことになった日本。これを避けたいがため、近代化に舵を切り、明治維新を起こしたわけですが、戦争は相手国があることです。日本が避けたくても、ロシアがどんどん南下してくるのです。日本のまさに喉元まで迫ったギリギリのタイミングで戦争を決断。第122代明治天皇や、明治政府の中枢の思いはいかばかりであったでしょうか。。。。しかし、大国ロシアに勝利します!!それは偶然ではありません。この勝利にあたり、様々な人の根回し・努力があったのです。◎明石元二郎・・・ロシアの皇帝に、明石をして満州の大山巌軍の20万に匹敵する活躍をしたと言わせた。ロシアで革命を起こさせ、戦争どころではないように仕向けた人物。◎高橋是清・・・戦争の資金繰りに紛争。彼の活躍がなければ戦争は遂行できなかった◎金子堅太郎・・・アメリカのルーズベルト大統領と学友で、アメリカを味方につけ講和を有利に進める自ら前線で指揮した東郷平八郎、作戦を立案した秋山真之、旅順攻略を成し遂げた乃木希典など、現地の頑張りはもちろんですが、こうした裏方含めて日本は明治天皇の下、一丸となって大国ロシアに勝利を収めたのです。【ポーツマス条約】●韓国に対する日本の指揮監督権 →完全にロシアの影響を排除●旅順・大連の租借権 →ロシアから譲り受けます●長春以南の鉄道敷設権(南満州鉄道の敷設権。ただし、ハルビンから長春は得られなかった)●南樺太の割譲(金子堅太郎がルーズベルトの助言の下、交渉を有利にするため占領していた)●南沿海州とカムチャッカ漁業権などを獲得しました。戦争目的である「韓国は完全に日本の勢力圏」になったわけですから、良しとしなければいけなかったのですが、多大な犠牲と、新聞社の煽りもあり、日本国民は「勝ったのになんでこれしか得られないんだ!!!」と怒りをあらわにするわけです。(ハルビンから長春の敷設権や、賠償金が得られなかったことなど)日比谷公園焼き討ち事件です。大東亜戦争の時もそうでしたが、マスコミの煽りはこの時から日本に暗雲をもたらしていたのです。【韓国併合】韓国は日本が近代化を後押ししようとしましたが、清になびき拒否し、日清戦争後はロシアになびいて再度拒否。この事大主義が日清・日露戦争の原因になりました。二度と事大主義にならないよう「財政・外交顧問を日本が推薦」(日露戦争中、第一次日韓協約:1904年8月)日露戦争に勝利し、「外交権を接収」(第二次日韓協約:1905年11月)韓国は抵抗するも、列強も日本の保護国化を承認し「内政も日本に掌握させ、韓国軍も解散」(第三次日韓協約:1907年7月)1909年7月に韓国併合の閣議決定がなされます。伊藤博文はこれに反対。当然です。貧乏な韓国を日本に併合しても、日本に負担が増えるだけなのです。日本は明治維新の時からそうでした。韓国を併合など考えてもおらず、韓国に近代化を図ってもらい、共にアジアの国として列強に併合されないよう、強国になってもらおうと働きかけていただけでした。しかし、当の韓国の最大政党が日本に併合されることを望んでいたのです。1909年10月、一番韓国併合を避けようとしていた伊藤博文が、韓国の安重根により暗殺されます。皮肉なことにこれにより韓国併合が加速したのです。安重根は韓国では英雄視されていますが、英雄でもなんでもないのです。1910年8月、日韓併合が国際承認の下、行われたのです。日本が無理やり併合したのでは断じてありません。そして、日本の併合による投資拡大で、韓国は飛躍的に発展を遂げたのです。それは建物とかだけではありません。法体系や教育面もそうです。現在のハングル文字を普及させたのも日本のおかげなのです。鉄道の敷設、発電所の建築。水豊ダムは今も北朝鮮最大の発電所なのです。感謝こそすれ、日本が文句を言われる筋合いは全くないのです。そんなに日本が嫌いなら、日本が戦後含めて投資したものを壊せばいいのです。日本は日清戦争で得た台湾にも投資をして飛躍的に発展をさせました。日本には旧帝大と云われる七つの名門校があります。東大・京大・東北大・九州大・北大・阪大・名大です。実は北大の次に建てられたのが、京城・台北大なのです。阪大・名大よりも前に韓国と台湾で大学が作られたのです。このことは忘れてはなりません。日本は本気で韓国・台湾を発展させようとしていたのです。当時、植民地施策をしていた列強国では、考えられないことです。現地の人の頭を良くしたら、反抗されるからです。これが当時の常識でした。しかし日本は搾取ではなく、共栄を図ったのです。このことを日本人は誇るべきで、侵略した・悪いことをした などと反省することではないのです。ちっぽけなアジアの島国が、当時世界2位の大国ロシアを退け、アジア各国の近代化を一緒に遂げようとしたことは、日本人が誇ることなのです。そして、日本が得た韓国・台湾だけでなく、列強に侵食されていた他のアジアの国にも独立という希望を与えることとなるのです。第122代明治天皇は、幕末の大動乱を一つにまとめ、文明開化の旗振りをし、幕末に押し付けられた不平等条約を改定させ、列強国に押し上げました。天皇という存在が日本を一つにまとめたのです。そんな明治天皇は、1912年7月30日、崩御されます。時代は大正時代へ移っていくのですが、列強国に上りつめた日本に、暗雲が漂う時代へと移っていったのです。
2024年05月15日
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ついに日本と清が対決することになりましたが、この日清戦争に日本は勝利します。そして、下関条約が結ばれます。内容を要約すると下記の通りです。清は①朝鮮が独立国であることを承認②台湾、澎湖島、遼東半島が日本領へ。沖縄も日本領であることを承認 →1871年の琉球漂流民殺害事件を契機に、1874年に琉球が日本領であることを国際的に認めさせましたが、これで正式に清から琉球(沖縄)が日本領であることを認めさせました。更に台湾もです。③二億両の賠償→日本が1897年に金本位制になる契機に。このお金を元に1901年に八幡製鉄所を建設当初の目的であった朝鮮が独立国であることを認めさせます。華夷秩序ではなく、国際法的に朝鮮が完全な独立国であることを認めさせ、国際社会への仲間入りを果たさせたのです。これは大きいです。しかし当の朝鮮が、せっかく手に入れた独立国であることを放棄してしまう暴挙に出るのです。きっかけは三国干渉でした。不凍港が欲しいロシアは、朝鮮半島を虎視眈々と狙っていました(南下政策)。西のヨーロッパでは、イギリスによる妨害で南下政策が思うようにいかなかったからです。なんとしても遼東半島が欲しかったのです。日本に取られてはたまらないと、当時同盟を組んでいたフランスを誘い、そしてドイツは露仏同盟による脅威を東にむけるため賛同し、三国で日本に圧力を加えたのです。「おうおう、お前、清に勝って遼東半島手に入れたけど返せや!断ったらどうなるか分かるよな??」といった具合です。日本は国力を鑑み、得た遼東半島を手放してしまいます。このことは、事大主義の朝鮮を勢いづかせたのです。「日本は清に勝利して、僕らを独立国にしてくれたけど、やっぱりロシア様についた方がいいよね」と・・・閔妃が復権!しかし閔妃が暗殺され(1895年10月乙未事件)、独立党が盛り返すと思いきや、国内のロシア派がクーデターを図る。国王:高宗(閔妃の旦那)は、王宮を逃れロシア領事館に1年も逃れ、ロシア派の言いなりに。国を捨てたに等しい行為により、完全にロシアの傀儡国家となるのです。(1896年2月露館播遷)朝鮮は今と全く変わらないのです。そして1896年、ロシアは朝鮮、更には清と密約を結びます。◎露韓密約 ・ロシア人の軍事教官を送る ・鴨緑江の伐採権を獲得 ・朝鮮国王は希望により露館に滞留できる ・朝鮮で内乱や、他国による朝鮮独立を阻む時、軍事援助する朝鮮は日本のおかげで得た独立を、自ら独立を放棄するのでした。◎露清密約 ・東清鉄道の敷設権を得る。東清鉄道会社は免税・排他的行政権を持つ ・日本を仮想敵国とした軍事同盟を締結朝鮮は完全にロシアの傀儡国家へ。そして清は日本憎しでロシアと接近。利権を与え、日本を仮想敵国とした軍事同盟を結ぶのです。日清戦争に勝利したはずが、日本は逆に追い込まれていくのです。◆迫るロシアロシアの猛威は止まりません。東清鉄道の敷設権を得た後は、旅順・大連の租借権を得ます。この旅順・大連はいわゆる遼東半島で、日本に三国干渉で返せと言っておきながら、自分たちがちゃっかり租借したのです。そして、旅順・大連に軍を輸送するために、今度は南満州鉄道の敷設権を得ます。これは日清戦争における清側の賠償金援助を申し出て、その担保として得たのです。1898年のことです。人の弱みに付け込むのが得意なロシアなのです。ロシアが朝鮮ではなく、清の鉄道を得ようとしてきたのは、もちろん港を得たいというものの他に、下記の理由によるもあります。◎日本が朝鮮に関しては独立国であるとうるさい◎そして鉄道の線路幅が朝鮮は違うので、ロシアとしても朝鮮への鉄道参入は難儀であった◎当時の朝鮮は貧乏すぎて、経済圏としてのメリットがなかったしかし、不凍港を得たいのは変わらないので、朝鮮に関しては鉄道ではなく、軍港を手にしようと侵略の手を伸ばしてきたのです。そんな折、日清戦争に敗れて以降、列強に次々に領土を侵食されていた清で、内乱が起こるのです。1900年義和団事件です。これを列強で鎮圧するわけですが、ロシアはそのまま満州に居座り続けるのです。鉄道だけでなく、軍も駐留して完全にロシアを支配下に置こうとしたのです。満州を占領、そして朝鮮は軍港を抑える。いよいよ、ロシアが日本海に進出しようとしてくるのです。このロシアの南下を恐れたのは日本だけではありません。イギリスもです。ここに日英同盟が締結されます。1902年1月のことです。ロシア最大の宿敵、イギリスと日本の日英同盟に焦ったロシアは、清と満州返還協約を結びます。内容としては、3期に渡って撤兵するというものでした。しかし、これはいわゆるパフォーマンスで、1903年4月の2期目にあたり、第二次撤兵をせず、それどころか増派の気配を見せ、更には朝鮮の西側の竜岩浦を占領、軍港:ポートニコラスと命名。そして1903年7月には、東清鉄道が完成。ついに日本海のウラジオストックにまで軍を送る体制が完成したのです。◎日本、満韓交換論を提示し、戦争回避を模索1903年8月、ロシアがいよいよ日本海に出てきて(東清鉄道の完成、朝鮮の港をポートニコラスに、旅順大連の租借→南満州鉄道の敷設)、日本は外交でこれを阻止しようとします。これが満韓交換論です。要は「満州の優越権はロシアに認めますから、朝鮮に関しては日本に優越権を認めて下さい。」ロシアは幕末の頃からの脅威でした。とにかくロシアに飲まれないように という思いで明治維新が起きたといっても過言ではありません。このために近代化をはかり、ただ文明開化をしたばかりの日本だけでは抑えられないので、隣国朝鮮も近代化をさせて、ロシアの南下を防ぐ。これが日清戦争の原因でした。これに勝利して、ようやく朝鮮の近代化が図れたと思いきや、ロシアを中心とした三国干渉で、日本のおかげで独立国となったのに、ロシアになびき、むしろロシアの属国に成り下がります。そして、日清戦争前の時以上にロシアが近くになってしまうのです。だから、日本は日清戦争で得たはずの満州の権益を捨ててまで、ロシアに譲歩したのに、ロシアからは「朝鮮の北1/3(北緯39度以北)は中立地帯、その南側は日本の権益を認める」と回答してきたのです。ことここに至って、日本はやむを得ず開戦の決断をすることになるのです。日本が幕末の頃から避けたいと願っていた日露開戦です。
2024年05月05日
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【近代化ができなかった朝鮮】朝鮮半島は1392年、高麗から李氏朝鮮が誕生しています。幕末から明治維新という大変革を迎えた日本ですが、李氏朝鮮は変革ができずにいました。まず日本は、明治新政府となり王政復古したことを、対馬藩を通じて朝鮮に文書で知らせました。しかし、李氏朝鮮は中国でしか使用が許されない「皇」(天皇)の字が入っていることなどで、受け取りを拒否。(1870年には5回も日本は使者を派遣)そして、1871年7月に廃藩置県により対馬藩が消滅。対馬藩にある朝鮮駐在事務所(李氏朝鮮が建てた)を、大日本公館として外務省に管理させます。この措置に朝鮮は怒り、公館への食糧供給の禁止と、日本人による貿易を停止させるという報復行為をします。(1872年9月)ところが、1874年に日清互換条款が結ばれます。これは琉球人が台湾に漂流して原住民に殺害されたのを発端として、日本の台湾出兵を受けたもので、琉球人が日本人であることを認めさせたものです。清相手に満額ではないですが賠償金を支払わせ、国際的に琉球が日本領であることを認めさせたことに驚いた李氏朝鮮は、ようやく国書を検討したいと言います。日本は1875年2月に外務次官をソウルに派遣するも、洋式の大礼服を着ていたことで、江戸以来の服装ではないと、またも揉めてしまいます。◎江華島事件(1875年9月20日)と日朝修好条規(1876年2月26日)そんな折、起きたのが江華島事件です。これは日本が沿海測量のため、朝鮮近海に小型砲艦「雲揚」を派遣し、水を求めて小型ボートを出したときに、李氏朝鮮側から砲撃され、日本が反撃して江華島を占拠した事件です。よく、ペリーのように日本も砲艦外交をしたと云われますが、アメリカのように大艦隊を出したわけではありません。早く朝鮮とわだかまりを解消して、条約を結んで近代国家同士との付き合いをしたいという思いでした。ところが李氏朝鮮側が、近代国家になることを拒否して、今までのような清への従属外交を望んだのが、日本・李氏朝鮮のお互いにとって不幸でした。そして、この事件を受けて結ばれたのが「日朝修好条規」でした。※李氏朝鮮の独立を謳った点※片務的領事裁判権(ただし江戸時代の頃より、朝鮮での日本人の犯罪は対馬藩で裁いていた)※関税自主権の喪失いわゆる、日本が当初列強と結ばされたような不平等条約でしたが、これは清と対等条約を結んでいた以上、清の従属国である朝鮮との条約では仕方のないことでありました(清との摩擦を回避)。ただし、独立国と謳えたのは大きかったのです。そして、日本の援助の下(軍事教官を迎えるなど)、近代化へと舵をきったかと思われました。◎壬午軍乱(1882年7月)当時の李氏朝鮮内では、幕末の日本同様、鎖国派と開国派で対立が起きていました。宮廷内では、幼い皇帝:高宗の父:大院君(=鎖国派)が権力を握っていました。彼は攘夷の方針で、フランス人宣教師や、アメリカ船員などを皆殺しにするなどして強硬派でした。そんな中、高宗と妻の閔妃が成長していくと、開国派となり大院君を引きずり下ろします。1873年11月のことでした。そんな力を失った大院君が盛り返すためにクーデターを起こしたのが「壬午軍乱」です。閔妃派の要人や日本の軍事教官、公使館員を殺害。日本公使館を焼き討ちします。閔妃は逃げて、清に助けを求めます。清が軍隊を派遣して大院君を幽閉。この事件を機に、李氏朝鮮は、より清への依存度を深めます。1882年10月、朝清商民水陸貿易章程を結ばされ、李氏朝鮮が属邦であることを明記されられます。3000の兵を朝鮮内に駐留させ、閔妃の傀儡政権を樹立。日本式改革を捨てさせ、清国司令官管轄の軍隊を創設。そして清の人の居住、営業、旅行の自由を獲得。のみならず、日本をけん制するために、清は次々に列強(米英独伊露仏)と朝鮮に不平等条約を結ばせます(1882年~84年)。日朝修好条規とは対照的です。中国は今も昔も変わらないのです。一方の日本。同1882年10月、李氏朝鮮は日本へも謝罪。賠償金50万円を5年かけて支払いすることになりましたが、日本は朝鮮のわがままを聞き入れ、朝鮮の発展のためと10万へ減額。汽艇1隻と山砲2門を贈与しました。そして、李氏朝鮮の独立党を援助して、朝鮮近代化を更に後押しするのです。お人よしの日本も、今も昔も変わらないのです。◎甲申政変(1884年12月)と天津条約1884年、清仏戦争が勃発しました。朝鮮駐留の清軍が半数になったことを受け、独立党が日本公使援助の下、王宮を占拠。事大党を排除しようとするも清の介入で失敗します。ここで再び、朝鮮は日本への賠償と、公使館護衛の駐留権を確認します。(1885年1月)【天津条約】そして日本は1885年4月、清と「天津条約」を結びます。日本は公使館護衛の駐留権を得ていました。清も壬午軍乱以降、駐留をさせていました。朝鮮を独立させたい日本と、あくまで属領として近代化をはばむ清とで、偶発的な衝突が起きないよう下記を確認します。・4か月以内の日清両軍の朝鮮からの撤兵と、出兵の際にはお互いに通告をし合うこと・朝鮮は第三国支援の下、軍隊を教練して自ら治安維持をする(日清は朝鮮の教練に絡まない)しかし、清は袁世凱を通商事務全権委員という名目でソウルに留まらせ、中国人街を形成して清国商人を庇護。日韓両国の商人を圧迫しました。更に4か月以内の撤兵を謳いながらも200余名の兵商を密にソウルに残留。天津条約の骨抜きを図り、日本を追い出しにかかります。東学党の乱:甲午農民戦争(1894年3月)東学党とは、キリストの西学に対して儒教・仏教・道教の3つを混同した宗教団体のことです。清に自国を売り渡す事大党に対する不満を爆発させ、乱を起こしたのです。背景に、失脚した大院君がいたと云われます。全国に波及していったので、袁世凱は閔妃に圧力をかけて出兵を要請させ、またも介入してきます。天津条約の元、清は日本に出兵を通告。日本も天津条約と、公使館護衛の駐留権を理由に出兵します。慌てた閔妃は、急遽東学党と和解しますが、日清両軍はにらみ合いの展開になります。日清戦争開戦(1894年7月)そしてついに、日清開戦となります。両軍の宣戦布告を見てみると◆日本「朝鮮は我が国が誘って列国にした独立国なのに、清国は常に属国として内政干渉する」◇清「朝鮮は我が大清帝国の藩属たること二百年。毎年朝貢している国である」日本が国際法に則った秩序で外交をおこなっていたのに対し、清はあくまで華夷秩序で外交をしていたことがよく分かる宣言文です。日清戦争は、◎あくまで華夷秩序を固辞して近代化を阻む・約束を守らない清◎強い方に流れ、国を売り渡す朝鮮が原因で起きた戦争です。
2024年04月15日
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◎幕末の外圧の脅威列強との通商条約締結は、日本の富を流出させるものとして、国内の反発は大きなものでした。人々は高まってきた尊王思想と相まって、尊王攘夷を唱えます(天皇を中心とした世にして、外国を打ち払う)。幕府は、国内と外国の軍事力の差を正確に把握していましたし、列強のやり口などを聞いていたので、攘夷の不可を知っていました。しかし、幕府の力の衰えもあって、諸藩の意見を統率することができなくなっていました。長州・薩摩は列強に喧嘩を売り、1866年に改税約書を締結させられます。幕府は最大限の努力で、最小限の影響にとどめようとしていたのですが、薩長が幕府の許可なく戦争を始め、不平等条約になっていったのです。それなのに、「幕府の不徳」として責任を押し付け、最終的に幕府は滅亡したのです。(むしろ、幕府の近代化施策、領土確定への動きなどは、その後の明治新政府の船出にも大きな助けとなったのです。)原動力となったのはもちろん薩長ですが、幕末にかけての尊王思想と、第121代孝明天皇の外国嫌いも譲位思想を後押しし、時代を動かしたことは間違いないでしょう。天皇が時代を動かしたのです。◎倒幕後の大転換倒幕後、時代は大きく動きます。全国のお殿様が藩主(約300藩)の座を返還した版籍奉還と廃藩置県。そして鎌倉幕府以来、武士の世が続いてきた武家社会の終わり。廃刀令から秩禄処分。武士に代わって、徴兵制による国民皆兵。こうした時代の大転換では、必ず国内で大きな混乱が伴うものですが、スムーズに転換できた理由に、やはり天皇の存在があります。(徳川幕府最後の15代将軍、慶喜が政権返上や身を引いたのも、天皇の存在があったからに他なりません。)日本国の始まりの象徴であり、万世一系で続いてきた天皇の血を引く第122代明治天皇の存在が、日本人をまとめたのです。西郷隆盛、木戸孝允、大久保利通、維新の三傑と云いますが、彼らだけでは成し遂げられませんでした。何処の馬の骨だか分からない奴等め と潰されていたでしょう。天皇という旗印あってこそです。ただ、やはり彼らが大きな仕事をしたのは確かです。西郷隆盛は、討幕だけでなく、その後の時代の変化における武士の不満を一手に受け(西南戦争)、武士の世を終わらせました。大久保利通は、列強との交渉で領土確定をして、近代国家の礎を築くとともに、西郷隆盛の死(武士の時代の終わり)の恨みを受け、真の意味で新しい時代へ昇華させました。木戸孝允は、二人とは違い長州出身で、幕末当初は、幕府により潰されかかった藩でした(第一次長州征伐)。しかし、その後薩長同盟を実現させて復活を遂げ、倒幕を果たしました。まさに長州無くして、時代の転換はあり得ませんでした。更に木戸は憲法制定を進め、大久保と共に近代国家作りに邁進したのです。こうして明治天皇の元、日本は大転換に成功したのですが、それができず列強に侵食され続けている国が、日本のすぐ近くにありました。朝鮮(李氏朝鮮)と中国(清)です。両国が列強の国の領土になれば、日本と接してしまいます。まだ近代国家になりたてのヒヨコの国である日本にとって、それは列強に飲み込まれることを意味しています。そのため、日本は朝鮮・中国の近代化を後押ししようとするのです。日清戦争はこの過程で起こったのです。
2024年02月17日
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近代国家になるために、中央集権国家を目指していきますが、列強の仲間入りするために解決しなければならない問題がありました。領土問題です。解決すべきところは◎琉球(沖縄)◎小笠原諸島◎樺太・千島列島でした。◆琉球:沖縄(1874年国際的に日本領と認めさせる)1871年11月、琉球船が嵐により台湾南部へ漂着。ここで原住民に殺害されます。日本政府は清に責任を問います。当時、清が台湾を領土としていたからです。しかし清は、台湾人は「化外の民」として、統治の及ばない者が起こした事件である、と責任回避に努めたのです。これを受け、台湾征伐をしても清は関与せず問題ない として、軍が台湾出兵をします。しかし、台湾に利権のあるイギリス・アメリカが干渉してきます。そんな折、欧米視察から帰国した大久保利通が、慌ててこれを抑えにかかります。イギリスに調停を依頼し、清と話し合いで解決することになりました。<1874年10月日清互換条款>◎台湾を支配するつもりはないが、出兵は正当であった◎賠償金(日本が求めた1/4の金額で決着)琉球人が殺害されたことに対する出兵は、琉球人が日本人であるということを他国へ認めさせたことになります。これが大きかったです。琉球は、14世紀に明(清の前)の冊封を受け、17世紀に薩摩藩の属国となり、両国に属した曖昧な状態でした。その意味で、日清互換条款の意義は大変大きなものでした。全国の廃藩置県から遅ればせながら、1879年沖縄県になりました。国民を守る、領土を守るという気概がいかに大切か、今の政治家は歴史に学んで欲しいです。◆小笠原諸島(1875年領有確定)小笠原諸島には1825年、イギリス船が父島に上陸して1827年に領有を宣言しました。1828年、ロシアも探索船が上陸し、領有を宣言しています。1851年には、アメリカのペリーが上陸し、日本開国のための前線基地にして、領有宣言をします。お互い、先に見つけたぜ! と勝手に領有宣言しています。いずれの国からも遠いので、とりあえず領有宣言して、互いに抗議程度はしていますが、父島を巡って戦うまではいかなかったのです。しかし、実は日本はそれより遥か昔、1675年に父島・母島に上陸しています。1670年に紀州のみかん船が遭難し、母島に上陸して幕府に報告していたのです。(この時、遭難者の島谷市左衛門は探検記録を残しています。)それだけに、列強に小笠原諸島を見つけられ、領有宣言までされ、幕府は焦ります。1862年、幕府の外国奉行:水野忠徳が咸臨丸に乗り、小野友五郎を使って小笠原付近の海図を作成します。水野は、列強が日本侵攻にあたって、必ず小笠原諸島が前線基地になると思ったからです。老中の安藤信正は米英に開拓を通告。米ハリス「本国に確認する。ただし住民の既得権益を要求する」英オールコック「管理を怠った日本に権利はない。帰属先は米英露に委ねるべき。それでも開拓するなら外国船の自由な停泊を認めよ。それであれば干渉はしない」という反応を受け、開拓を決断、1862年に領有宣言をしました。この辺の条件を読み取って領有宣言に動いたというのもありますが・米は南北戦争という内戦に突入していたこと・露は1861年の対馬事件でイギリスに追い返され、清や朝鮮の方に目を向けていた・英は現地人が米寄りで、遅れを取っていたし、幕府との交易もあり動かなかった動けないだろうという読みもありました。島民も、遠い米英露よりは、近い日本に保護してもらった方が安心でした。幕末大動乱に突入し放置されますが、その後の1875年、明治政府が領有宣言をしましたが、反対されませんでした。一番は1670年の遭難者の島谷市左衛門も探索記録、1862年の幕府による海図作成。これが大きな根拠となりました。幕府の残した遺産は大きかったのです。※新政府軍の海軍も、元は幕府の長崎海軍伝習所が前身ですし、講武所はやがて陸軍に変貌を遂げます。※幕臣小栗上野介が残した横須賀製鉄所・造船所もです。 日露戦争の日本海海戦に勝利した東郷平八郎は、この造船所のおかげで勝てたと言っていたそうです。幕府は敗れはしましたが、日本国を守りたいという「国を思う気持ち」は新政府軍と同じだったのです。幕府の行動力・功績は大きく、明治新政府は幕府の遺産の恩恵を受けて発展しました。今の日本の政治家にも、選挙の勝敗がどうだとかではなく、日本の将来を考えた人が増えていくことを願ってやみません。◆樺太・千島列島(1875年ロシアとの国境確定)幕末におけるロシアの進出は脅威でした。列強の中でも一番最初に日本に現れていたのがロシアでした。1770年代には北方四島や北海道の霧多布に現れ始め、通称を求めてきます。この時、ロシア人の持ってきた地図には国後島がロシア領とされており、松前藩は抗議、通商を拒否します。(1715年、既に松前藩は幕府に北海道、樺太、千島列島、カムチャッカは松前藩領と報告していました)北千島に現れた時は、抵抗者のアイヌ人を武力制圧、重税を課すなどして、アイヌ人が南下して逃げてくるなど、幕府に脅威が伝わってきていました。1853年の日米和親条約を受け、ロシアとも1854年に日露和親条約を締結。その時は、千島列島:今の北方領土最東端の択捉島までが日本、その先の得撫島から北はロシア領樺太:日本人とロシア人の混在の地として、解決を先延ばしになります。そしてロシアは樺太に多くのロシア人を送り込みます(特にクリミア戦争が終結した1856年以降)。今の北方領土に対してと同じですね。1867年、これではまずいと、日露間樺太島仮規則を作り、樺太を南北で分ける案を日本が提案するも、結実しませんでした。むしろ、更に大量のロシア人を送ります。明治新政府も負けじと日本人を送りますが、1875年、国力を鑑み樺太を諦めます。しかし、代わりに千島列島全部を手に入れます。ここでようやくロシアとの国境が画定しますが、その過程で受けた脅威が大きすぎて、その先の戦争の歴史はロシアの脅威によるものです。ただ、現代の北方領土問題を考えた時、この時の日本政府の交渉力はすごいなと感じます。いずれにせよ、1875年、琉球・小笠原諸島・千島列島と本土から離れた離島の領土が確定し、日本の国際的な領土が認知されました。そして、1889年、憲法も制定=法治国家となり、いよいよ近代国家へ仲間入りするのです。それは、幕府の残した遺産と明治新政府の努力・胆力によるものでした。
2024年01月23日
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戊辰戦争で倒幕した新政府軍。まずおこなったのが、1869年6月の「版籍奉還」です。これは今まで、藩が治めていた土地と人民を、朝廷に返上するというものです。大化の改新で行われた公地公民と同じ考えですね。あの時と同じ中央集権国家を目指すというものです。~土地と人民の統治の大まかな流れ~初代神武天皇が現在の奈良県橿原に拠点を作り、欠史8代で婚姻政策により拠点を広げていき、10代崇神天皇で今で云う地方政府並の行政機関を作り上げます。(ハツクニシラス)12代景行天皇の御代に、皇子の日本武尊と共に九州や中国地方に支配領域を広げ、14代仲哀天皇の妻:神功皇后と、その皇子:15代応神天皇の御代に朝鮮半島への支配を強めます。以降、朝鮮半島の直轄地:任那と友好国:百済のため、新羅や高句麗と争っていきます。562年任那が滅び(29代欽明天皇の御代)、百済も追いつめられていきます。半島情勢が風雲急を告げる中、645年、大化の改新が始まります。公地公民制の始まりです。それまでは、朝鮮半島に遠征軍を送る程の力を持っていた天皇ではありましたが、土地と人民は豪族の支配下にあり、天皇はそれらを束ねる代表のような形でした。この公地公民によって、初めて、土地と人民が天皇のものと定められたのです。660年に百済が、新羅・唐の連合軍により滅びます。663年、百済再興をかけて、37代斉明天皇が援軍を送りますが、敗れてしまい(白村江の戦い)、朝鮮半島の権益はこれで完全になくなってしまいました。38代天智天皇・40代天武天皇は敗戦処理の中で、中央集権国家作りに邁進します。42代文武天皇による701年の大宝律令は、一つの完成形といっていいでしょう。ところが、朝鮮半島が新羅に統一され、唐と新羅が仲違い。外圧がなくなり、それと共に公地公民制も崩れていきます。723年の三世一身の法、743年墾田永年私財法により、人民に土地の私有化を認めます。(荘園が増えていきます)公地公民制は100年程で崩壊したわけです。背景には、外圧がなくなったということが大きいでしょう。摂関政治により藤原家の力が増すと、土地は人民の私有地というよりは、藤原家に寄進し、藤原家の栄華となります。(藤原家への寄進地系荘園の増加。もちろん、朝廷への寄進もありました)荘園を守るために武士が力をつけ、影響力を強めていきます。まず源平合戦を制した源頼朝が、守護地頭を支配地に置くようになり、鎌倉幕府の土地が増えていきます。特に1221年の承久の乱によって、朝廷・公家の荘園の多くを幕府の土地とします。以降、武士が土地と人民を支配するような形になります。朝廷が南朝・北朝に分かれて戦った時には、朝廷が持つ大きな荘園郡:八条院領(南朝)、長講堂領(北朝)を経済基盤としていましたが、南北朝合一により、長講堂領は残りましたが、八条院領は解体されていきます。残った長講堂領も、応仁の乱とそれに続く戦国時代により解体されていき、天皇家は困窮します。第103代後土御門天皇のご遺体が40日間も安置されてしまっていたのは、前回の記述通りです。天下を統一した豊臣秀吉による太閤検地で、荘園は完全に解体。続く徳川幕府もこの時の検地法を踏襲し、所領・石高、そして人民を藩が支配・管理していきました。このように、土地・人民は、摂関家→武士により統治されていましたが、公地公民制が生きていた墾田永年私財法までの743年以来、久方ぶりに天皇に返上されたのです。~実を伴った廃藩置県~ただし、公地公民制の時と違って概念的なもので、これまでと変わらず、藩主が土地と人民を統治していたので、次に行ったのが1871年7月の「廃藩置県」です。世襲制の藩主を廃して、知藩事を置くことで、名ばかりの版籍奉還から、実の伴った中央集権国家へと目指していきました。王政復古の大号令に続く、第二のクーデターです。幕府に対するクーデターに続き、藩主に対してのクーデターになります。倒幕した西郷にしても、大久保も、薩摩藩所属なので、藩主の島津久光が当主にあたります。この藩主の席を無くしたわけですから。~そして近代国家へ~土地は天皇のものと言っても、あくまで概念的なもので、私有を保証しました。ただし、土地に対して、これまでの年貢(米)ではなく、税金を課します。お金にすることで、資本を蓄え、国力・軍事力の増強を図ったのです。(1873年発布の地租改正)併せて1873年に徴兵制も整えながら、旧体制の武士を解体(1876年の廃刀令→秩禄処分。最終的に1877年の西南戦争で、武士の解体が完了したと言っていいでしょう。)近代国家へと舵を切っていくのです。
2024年01月13日
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第96代後醍醐天皇の執念により、初めての武家政権:鎌倉幕府は滅亡しました。しかし、その後の建武の新政は、倒幕に貢献した武士たちに報いるものではなかったため、早速反乱が起こります。その中心人物が足利尊氏でした。彼は後醍醐天皇と対立し、吉野へ追いやります。天皇を抱えない足利幕府は、正当性を得るために天皇をこしらえます。ここに南朝(後醍醐天皇)と北朝(初代は崇光天皇、足利幕府がバックアップ)の二つの朝廷が誕生し、時代は南北朝大動乱を迎えるのです。●南朝天皇(第97代後村上天皇、第98代長慶天皇、第99代後亀山天皇)後醍醐天皇は京都への帰還を夢見て、1339年崩御します。後を継いだ皇子の第97代後村上天皇も、北朝・足利幕府と戦います。その最中、足利幕府は内部分裂をします。足利尊氏と弟の直義の兄弟げんかです。(観応の擾乱)ここで直義は南朝に下ります。北朝・足利尊氏VS南朝・足利直義 の構図です。追い詰められた尊氏でしたが、なんと尊氏は南朝に和議を申込み直義を降伏させます。この時に、北朝から南朝へ三種の神器が引き渡されたと云います。北朝三代:崇光天皇を廃位し、一旦、南朝と北朝は合一されます。正平一統です。尊氏は弟を倒すため、自分がこしらえた北朝を一旦廃したのです。このため直義を倒した後、再び尊氏は後村上天皇と袂を分かちます。再び正当性を失った尊氏。尊氏の息子で二代将軍:義詮は、再度北朝から天皇を立てます。北朝四代後光厳天皇の誕生です。三種の神器もなく、治天の君もいない状態です。それまでの三人の北朝天皇は、この時、南朝側に捕らえられていました。ここで、義詮は、皇族ではない人(第93代後伏見天皇の女御、北朝三代崇光天皇・四代後光厳天皇の祖母)を治天の君として、後光厳天皇を即位させたのです。後にも先にも、この時だけの前代未聞のことでした。●南北朝合一(第100代後小松天皇の誕生)と国体の危機後村上天皇は、あくまで正当性は南朝にある!と北朝と戦い、5度までも京都を制圧し善戦しました。続く第98代長慶天皇も強硬路線で北朝と戦いますが、善戦していた九州戦線が崩れ、更に三代将軍足利義満の力が増していき、和平派の第99代後亀山天皇の即位も相まって、1392年明徳の和約が結ばれます。即ち、三種の神器を北朝に返還し、鎌倉末期の時のように両統迭立として、南北朝合一を図るというものでした。北朝6代の後小松天皇が、第100代の天皇として即位し、朝廷が一つになったのです。南北朝合一を成し遂げた足利義満は強大な権力を握ります。・天皇の許可なく明と勝手に冊封関係を結ぶ(古代から日本が中国に冊封したことは一度もない) →894年の遣唐使廃止を決定して以降、中国とは関わりがなかった(元寇で戦争はしましたが)・後小松天皇を自分の住まいの北山第に呼び、隣に座る・正室を後小松天皇の准母に・息子を立太子の礼で元服させ、自分は太上天皇のように振る舞うなどの暴挙を行い、天皇家乗っ取りの動きをします。古来から続く万世一系の天皇の皇統を繋いでいくという伝統を犯すものでした。まさに国体の危機でしたが、息子の立太子の礼のわずか11日後に義満が急死したのです。次の四代将軍義持は、父の治世を否定。朝廷からの太上法皇の追号も拒否。そして明との勘合貿易も中止し、冊封関係の否定と断交をします。こうして、古来から日本の天皇を中心とした政治体制:国体の危機は去ったのです。●両統迭立の反故と後南朝(第101代称光天皇、第102代後花園)幕府は両統迭立を約束しましたが、反故にされ、後小松天皇の皇子:第101代称光天皇が即位します。これに反感を持った南朝の残党勢力が決起します。後南朝です。更に称光天皇の後が途絶えると、4代遡った北朝初代:光厳天皇を共通の祖とする、遠い親戚の第102代後花園天皇が即位します。これに後南朝側は再度反乱を起こします。二度に渡る反乱は失敗に終わりますが、1443年に三種の神器の剣・勾玉が後南朝勢力に奪われる禁闕の変(剣はすぐに奪還)、勾玉を取り返す長録の変が起こります(1457~58年)。朝廷が2つに分かれてしまったことは、長く日本を混乱に貶めたのです。そして日本に無秩序をもたらし、戦国時代に突入していくのです。●困窮する天皇家(第103代後土御門天皇、第104代後柏原天皇、第105代後奈良天皇)戦国時代は天皇家も困窮させました。第103代後土御門天皇は崩御後、40日間もご遺体が安置されていたと云います。祭祀の中でも重要な大嘗祭が中止されたのも、この天皇の御代でした。第104代後柏原天皇は即位の儀が、即位21年後であったと云います。第105代後奈良天皇も即位の儀が、即位11年後であったと云います。初代神武天皇以来、最も貧しかった時と言えるでしょう。●終わる戦国時代、復権する天皇(第106代正親町天皇、第107代後陽成天皇)そんな戦国時代も、織田信長、豊臣秀吉によって終焉します。両名は天下統一の過程で、天皇の権威に着目し、これを活用します。これに伴い、第106代正親町天皇、その孫の第107代後陽成天皇の御代には、天皇が大きく復権します。●江戸幕府による天皇抑圧策と尊王思想(第108代後水尾天皇、第112代霊元天皇、第115代桜町天皇、第116代桃園天皇、第117代後桜町天皇、第119代光格天皇)豊臣秀吉の死後、天下を制したのは徳川家康でした。家康は、信長・秀吉による天皇の権威を活用していたのを近くで見ていて、改めて日本が天皇を中心とした国家であるということを痛感したのでしょう。天皇の権威を恐れ、信長・秀吉とは真逆で抑圧政策を進めます。禁中並公家諸法度を1615年に制定し、法で天皇を抑えつけます。これを盾に、幕府は天皇の裁定などに口を出し、第108代後水尾天皇に徹底的に嫌がらせをします。この意趣返しとして、後水尾天皇は徳川将軍家から送られた娘との子を天皇に即位させます。第109代明正天皇です。一見すると、徳川家にとってはめでたいことに見えますが、女帝を誕生させたということは、「今後、明正天皇系統から天皇が即位することはない」ということを意味します。女系になるからです。後水尾天皇は幕府に最大限の抵抗・意地を見せたのです。後水尾天皇の子:第112代霊元天皇は、自身の息子(後の第113代東山天皇)の即位後の初めての新嘗祭(大嘗祭)を復活させます。第103代後土御門天皇以来、221年ぶりの復活でした。これは朝廷内部でも慎重な姿勢があったようで、再度中断し、飛んで第115代桜町天皇の御代で、再復活しました。徳川家に抑圧されながらも、朝議を復活させ、天皇家の権威が復活してきたのです。第116代桃園天皇の御代では宝暦事件(1758年)、第117代後桜町天皇の御代では明和事件(1767年)が起こり、尊王思想の拡大と共に幕府の警戒が強くなってきます。決定的だったのは第119代光格天皇の御代でしょう。1782年の明暦の大火、1787年の天明の飢饉では、光格天皇が幕府に申し入れをし、これを受け入れさせています。(御所の再建、民衆の救済を実施させる)特に天明の飢饉は、民衆は幕府ではなく御所に助けを求めたということで、民衆も日本の中心は天皇であるということに気づき始めていたのです。●迫る欧米列強、幕末大動乱(第120代仁孝天皇、第121代孝明天皇)尊王思想が拡大する中、欧米列強がいよいよ日本に開国を迫ってやってきました。幕府は列強との国力の差を痛感していたので、開国やむなしで考えていましたが、諸藩は情報が少なかったので、列強を打ち払う攘夷が大半を占めていました。幕府が和親条約、通商条約を結んでいくのを見て、世論は反発します。更に幕府は反対派を粛正する(安政の大獄)ので、余計に国内で反発が起こり混乱をしていきます。幕府は国内を一つにするために、公武合体が進めます。第120代仁孝天皇の皇女が将軍に嫁ぐことで国難に当たろうとします。(1861年)当初は攘夷を訴えていた長州藩・薩摩藩も列強と戦争をおこない、列強の力を思い知ります。しかし長州・薩摩は幕府と協力するのではなく、幕府を倒して、自分たちで新しい日本を作ろうとします。(1866年1月:薩長同盟)第121代孝明天皇も、薩長同様、当初は外国嫌いで攘夷派でしたが、次第に攘夷の不可を知ります。ただ、薩長と違い、幕府と協力して国難に当たろうとしていました。(公武合体派)そんな孝明天皇が1866年12月、突然崩御されるのです。そして世の流れは倒幕に傾き、江戸幕府は崩壊。鎌倉時代から続いた武家の時代は終わり、新しい時代が始まるのです。
2024年01月03日
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<公武合体派の孝明天皇が崩御 → 倒幕の流れへ>薩摩藩は1863年の薩英戦争を機に、公武合体の考えを見直します。1864年には長州藩が列強と戦い敗北します。前年の外国船砲撃事件の報復を受けたものです。列強の力を目の当たりにした者同士、このまま幕府に日本の舵取りを任せていてはまずいと手を結びます。薩長同盟の締結です。一度は幕府にも敗北した長州ですが、二度目は薩摩からの裏援助を受け幕府を跳ね除けます。14代将軍家茂は戦時中に病死、代わりに指揮を取った徳川慶喜は、朝廷に働きかけて休戦に持ち込みました。幕府に陰りが見える中、朝廷内の攘夷派が巻き返しを計るも、第121代孝明天皇はこれを拒否。天皇は、攘夷はもはや不可能と思いながらも、幕府との公武合体により日本を一つにまとめようとしていました。開国やむなしの方向になりますが、それを幕府と共に舵取りしていくのか、新しい政府を打ち立てて日本を舵取りしていくのか?孝明天皇は前者、薩長は後者でした。そんな折、孝明天皇は突然崩御されたのです。(1866年12月)そして流れは一気に討幕へ進んでいきます。<最後の将軍慶喜の抵抗 → 下級藩士・下級貴族のクーデター → 倒幕>~大政奉還から王政復古の大号令、これを形骸化させようとして戊辰戦争へ~しかし最後の15代将軍慶喜も負けてはいません。日本を守るため、列強から強く迫られていた兵庫の開港の勅許を得られるよう粘ります。朝廷は幕府と違い、列強から詰められていないので攘夷派が多いのでしょう。二度までも却下されています。(1867年3月)慶喜は諦めず、5月に勅許を得ることに成功しますが、薩長は慶喜(幕府)が政治の主導権を握るのが気に入りません。9月に薩長に安芸も加えた三藩による武力討幕同盟を結びます。土佐の山内容堂はこの動きを受け、慶喜に大政奉還を建白。慶喜はこれを受け入れて、1867年12月、朝廷に政権を返上する大政奉還を行います。幕府を潰したい薩長に対し、『政権返上したから幕府を潰す必要はありませんよ』としたのです。しかも今まで幕府が政権運営していたので、政権返上したとしても、結局は幕府に頼らざるを得ないだろうと慶喜は踏んでいたのです。名を捨て実を取ろうとしたのですね。これに対し薩摩軍を率いる西郷隆盛・大久保利通(両名とも下級藩士出身)は、朝廷内の下級公家:岩倉具視と結託し、クーデターを起こします。慶喜のいない新政府会議を開き、まだ15歳と若い第122代明治天皇のご臨席の元、王政復古の大号令を発します。・幕府の廃止・京都守護職、京都所司代(幕府の朝廷監視機関)の廃止・摂政関白の廃止(豊臣秀吉を除き、長年藤原氏で独占していた役職)また、辞官納地も決まります。(官職の辞任、領地の返納)幕府を完全に潰して、慶喜が取ろうとした「実」までも奪ったのです。慶喜はここにおいても武力ではない形で、抵抗を続けます。●諸外国(米・英・仏・蘭・露・伊)の大使を呼び、内政不干渉と幕府の外交権保持を認めさせます●これを受け、朝廷には政権委任の継続を認めさせます●諸大名との話し合いの上で、朝廷への領地の返納割合を決める(薩長だけでなく、他藩を巻き込む)などで、辞官納地の形骸化を図ります。追い詰められた西郷は部下を使って幕府軍へ挑発をおこないます。慶喜は自重していましたが、幕府軍が薩摩藩邸に砲撃し、戦いが始まったのです。戊辰戦争の始まりです。ここで薩長軍は、天皇家の御旗【錦の御旗】を使うことで幕府軍を破り、これで本当に江戸幕府は滅亡し、薩長を中心とした明治新政府が誕生します。慶喜自身は錦の御旗が出てから、徹底して恭順姿勢を示しましたが、さぞ無念であったことでしょう。<役者の大きな入れ替わりと変わらない者>~倒されたのは幕府だけでなく、朝廷で天皇に次ぐ地位の藤原家まで~第56代清和天皇の御代に、人臣で初めて藤原良房が摂政になり、以来、摂政関白はこの藤原家の系統が就任していました。866年以来途切れたことはありましたが、およそ1000年に渡り世襲されていたのです。王政復古のクーデターは、薩摩の下級藩士:西郷隆盛や大久保利通だけでなく、朝廷の下級貴族も暗躍していました(岩倉具視など)。そのため、上級貴族と下級貴族の立場もひっくり返り(ガラガラポンが起こる)、日本史の役者が大きく変わったと言えます。しかし、それでも日本史の中で一貫して変わらない主役がいるのです。それが天皇なのです。
2023年12月31日
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1853年にアメリカの東インド艦隊司令総監であるペリーが浦賀へ来航します。いわゆる、黒船来航です。これに幕府が慌てて、翌年、日米和親条約が結ばれ開国した と習いましたが、実は、それよりもだいぶ前に欧米列強は日本に開国を迫ってきていました。<まず来ていたのはロシア><次にイギリス、アメリカが迫る>これを見ると、いきなり黒船が来て開国したのではなく、幕府が開国要求をかわして来ていたことが分かります。アメリカはこの経緯などを調査してきていたのでしょう。1853年の時には、いわゆる砲艦外交:威圧的な外交と近代装備を見せつけ、強硬に開国を迫ります。幕府はアヘン戦争での清国の状況もみて、日本国を守るために現実的な対応をしたというのが真実です。ただ、言いなりとなって開国したわけではなく、交渉の過程において、むしろアメリカをタジタジにさせたのです。(下田・函館の開港をしますが、交易を許可したのではなく、あくまでこの2港で薪と水(燃料と食料)の補給を許可しただけなのです。外国人の港内での移動範囲も厳しく制限し、隠れて交易をしないようにさせました。)この外交力は今の政治家にも見習ってほしいところです。そして、今までと違い、拒否をすれば侵略を受けていたでしょうから、列強のやり方と日本の国力との差を冷静に分析できていたという点も評価しないといけないかと思います。<1858年の日米修好通商条約以降の国内の混乱>日米和親条約締結後、他の列強国との条約締結も余儀なくされます。更に、日米和親条約を根拠に、1855年にはハリスが下田に駐在します。そして列強の海外での行為を伝えながら、巧妙に通商条約を迫ります。まずは仲良くしましょう!(和親条約)次は交易をしましょう!拒否すると列強が何するか分かりませんよ、内はお宅を守りますから(通商条約)と段階をおったのです。ついに1858年の日米修好通商条約締結を締結。当然、和親条約の時と同様、他の列強国とも通商条約を結ぶことになります。【安政の五か国条約:和親条約も通商条約も、先鞭をつけたのはアメリカでした】これに攘夷派は憤激。特に、朝廷の勅許を得ずに勝手に締結したことを問題視します。(尊王思想も拡大し、強まってきていましたね)痛いところを突かれた大老井伊直弼は、反対派を次々に弾圧します。安政の大獄です。そして、横浜・函館・長崎も開港(しかも今回は交易)が決まり、弾圧も相まって火に油を注ぐ形になり、攘夷派の怒りが頂点に達します。1860年、井伊直弼は江戸城登城の折に、攘夷派の襲撃を受けて落命。桜田門外の変です。幕府の大老が暗殺されるなど、前代未聞のことでした。幕府は国内をまとめるため、朝廷と一致協力して国難にあたることにしました。時の天皇、第121代孝明天皇の異母妹にあたる:和宮と、14代将軍家茂の婚姻をお願いしたのです。(徳川幕府は、発足当初からずっと朝廷の力を抑え込もうとしましたが、時代が進んで尊王思想が再び復活し、結局は朝廷の力を借りざるを得ませんでした。)和宮の父にあたる第120代仁孝天皇は、15人の子供に恵まれながら多くが夭折しています。皇子はわずか一人で、後の第121代孝明天皇です。残り二人の皇女の内、一人が和宮です。孝明天皇の異母妹にあたります。和宮が第14代将軍家茂に嫁ぐことで、公武合体を推し進め、欧米列強による外圧に日本が一丸になって乗り越えていこうという意図です。1860年4月に幕府が申請をしますが、孝明天皇は攘夷を条件にこれを受諾。1861年に降嫁します。幕府としては安堵したことでしょう。しかし、情勢は予想をはるかに超えて大きく変わっていき、幕府の思惑通りにはならなかったのです。降嫁の際の、出来もしない攘夷・条約破棄が足かせになったのです。長州・薩摩はこの約束を盾に、列強に喧嘩を挑むのです。
2023年12月24日
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【鎖国への道】徳川幕府は鎖国のイメージがありますが、実は初代将軍の家康は貿易推進派でした。1616年に家康が死去。二代将軍秀忠の時代を迎えます。この時から貿易を平戸・長崎に限定していきますが、いきなり貿易を否定したわけではありませんでした。秀忠の時代の特徴としては、下記の2つです。◎禁教へ(特に信仰重視のカトリック勢を排除)◎日本人の傭兵・武器流出の禁止(海外のゴタゴタに巻き込まれたくない)1つ目の禁教ですが、当時、日本ではキリスト教信者が増え、大きな勢力となっていました。特に1596年のサン=フェリペ号事件で、時の権力者:豊臣秀吉はカトリック教国の企み(信仰が植民地化の一環)を知り、禁教政策に踏み切りました。そして徳川家康は、秀吉よりも寛容ではありましたが、1612年の岡本大八事件(幕府中枢にキリシタンがいて、政治へ影響していることが露呈。幕府が処断した事件)を受け、秀忠時代からは禁教政策に舵を切ります。2点目の日本人傭兵・武器流出禁止については、長い戦国時代を経て、日本の軍事力は世界最強レベルになっていました。徳川幕府誕生により、ようやく日本の戦国時代が終わりますが、不要になった武器が海外に流れたわけです。また日本人の腕が買われていたのです。世界のゴタゴタに巻き込まれたくない幕府は、これを禁止するわけです。そして三代将軍:家光の時代に、実際にゴタゴタに巻き込まれるようになり、鎖国に舵を切るのです。よって、・家康時代は貿易積極推進・秀忠時代は貿易は否定しないが、禁教・世界の紛争に巻き込まれないという姿勢の徹底・家光時代になって貿易も否定(一部に限定)という流れになるのです。<スペイン・ポルトガル(カトリック国)からイギリス・オランダ(プロテスタント国)の時代へ>日本が戦国時代の頃、世界はスペイン・ポルトガル(カトリック:信仰重視)の時代でした。両国で世界を二分していました。(トルデシリャス条約)しかし1588年、スペイン無敵艦隊がイギリスに敗れ、世界の勢力バランスが崩れ始めてきました。徳川幕府の頃には、イギリス・オランダ(プロテスタント:実利重視)が貿易を軸に世界の覇権国家となってきたのです。幕府が先にスペイン・ポルトガルを締め出したのは、覇権国家の移行というのも勿論あったでしょうが、やはり信仰主義のカトリックを嫌ったというのが大きいでしょう。そして、今度はプロテスタント同士のオランダとイギリスが、オランダ領(現インドネシア):アンボイナ島でぶつかります。このアンボイナ事件の結果、日本など東アジアから締め出されたイギリス。しかし1652~1674年の三度に渡る英蘭戦争を制し、いよいよイギリスが覇権国家となります。イギリスが再び幕府に貿易再開を求めるものの、これを断固拒否。以降、100年以上、ヨーロッパとはオランダとの貿易継続のみでした。それでも1685年にはオランダ・清との輸出額を規制。1686年には、対馬藩と朝鮮の貿易学も規制します。いずれも日本国内の金銀流出(富の流出)を防ぐためでした。1688年には清の船も70隻/年までと規制し、ほぼ鎖国状態となったのです。<忍び寄る欧米列強>世界の覇権国家:イギリスのライバルはフランスでした。欧州大陸のみならず、インドや北米大陸の領土・権益争いをしていました。その争いが過熱したのが7年戦争(1756年~63年)で、イギリスが勝利を得ますが、この戦いの戦費を賄うため、イギリスの北米植民地に重税をかけることになり、アメリカで独立の機運が高まります。フランス、スペイン、オランダなど、イギリスに煮え湯を飲まされた国々がアメリカ独立を支援。1776年、ついにアメリカが独立します。アメリカは当初は小国でしたが、弱っていたスペインからフロリダを買収したり、スペインが追い出されたメキシコを支配していったりと、どんどん領土を広げていきました。そして1846年のメキシコ戦争に勝利して西海岸まで領土を広げ、いよいよ太平洋に進出してくるのです。イギリスのもう一つのライバル国、それがロシアです。イギリス・フランスは海に出て海外に拠点を広げていきましたが、ロシアの場合、海に出れませんでした。寒くて港が凍るからです。両国のように海に出るためには、不凍港を何としても手にしたかったのです。<南下政策>出るとすると、西は黒海にあるクリミア半島、東は朝鮮半島でした。イギリスにしてみると、クリミア半島に出てこられては具合が悪いです。ロシアは海に出てくるなという思いで一致したフランスやオスマン=トルコ帝国と同盟し、ロシアをコテンパンにします(1853年~56年)。そして西を諦めたロシアは、東に手を伸ばしてくるのです。アメリカの独立は許してしまいましたが、フランスを北米大陸やインドから追い出し、ロシアに対しては西の不凍港獲得を断念させた世界最強のイギリス。英蘭戦争を制した後の日本との貿易再開は叶いませんでしたが、18世紀後半に産業革命が起こり、大量生産が可能となったイギリス。再び貿易を求め、海外への圧を強めます。1840年にはアヘン戦争を引き起こし、アジアの大国:清を破ります。次のターゲットは日本です。日本は望む望まないに関わらず、イギリス・ロシア・アメリカといった列強が迫ってきたのです。
2023年12月10日
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<第118代後桃園天皇での皇統断絶>第117代後桜町天皇は女帝です。第116代桃園天皇が1762年に崩御した際、皇子は2人で、第一皇子でもまだ5歳でした。このため、桃園天皇の異母姉が中継ぎとして天皇に即位されたのです。これが第117代後桜町天皇です。そして、1771年に桃園天皇の第一皇子に皇位を譲ったのです。第118代後桃園天皇の誕生です。第118代後桃園天皇は皇子をなさず(皇女がお一人)、1779年、21歳の若さで崩御されます。父である第116代桃園天皇には、他にも皇子が一人いて伏見宮へ養子へ行っていますが、彼も既に1779年の時点では亡くなっておりました。皇統の危機が起こったのです。<閑院宮家から第119代光格天皇が誕生>この時、天皇の候補として挙がったのが、①閑院宮家から、美仁親王(後の第3代伏見宮家当主)②同じく閑院宮家から、祐宮③第18代伏見宮家の皇子(後の第19代伏見宮家当主)の3名でした。この時、新天皇の条件として、第118代後桃園天皇の皇女が嫁ぐことがありました。これは第25代武烈天皇で皇統が途切れた時と同じですね。武烈天皇の父である第24代仁賢天皇の皇女(武烈天皇の姉)が、第26代継体天皇に嫁ぐことで、なるべく血を近くしています。継体天皇は、第15代応神天皇の5世孫と云いますから、仁賢・武烈天皇からは遠かったわけです。それと同じで、閑院宮家は第113代東山天皇の皇子を起点としていて、第118代後桃園天皇から遠くなってしまっているので、後桃園天皇の皇女が嫁ぐことで、血を近くしたわけですね。さて、そうなりますと①美仁親王は既婚で却下③の伏見宮家は起点が北朝三代目の崇光天皇の子供になります。あくまで北朝の天皇なので、正式な天皇まで辿るとなると、崇光天皇の祖父:第93代後伏見天皇になってしまいます。これは遠すぎます。そういうわけで、閑院宮家出身の②の祐宮が選ばれたのです。第119代光格天皇の誕生です。約70年も前の新井白石の建白が、この時に活きたのです!<第119代光格天皇も復古へ向けて尽力>1782年天明の大火が起こり、御所が焼けてしまいました。光格天皇は内裏再建にあたり、幕府に対して平安時代様式に新築させました。更には、1787年天明の大飢饉が起きた時、民衆は幕府に対してではなく、御所に助けを求め、御所千度参りが行われたのです。禁中並公家諸法度では、朝廷は幕府に口出しをしないと決められていましたが、光格天皇は幕府に民衆救済を申し入れ、これを実現させました。民衆もいよいよ、日本の中心は幕府ではなく天皇であると気付きだしてきたのです。閑院宮家から出た光格天皇ですが、朝廷の権威復興に大きな役割を果たされたのです。○1788年~1793年尊一号事件更に、幕府の権威を落とす事件が起こります。それが尊一号事件です。閑院宮家から出た光格天皇は、父:典仁親王に太上天皇の尊号を贈りたいと幕府に申し入れをします。過去、天皇の父が天皇ではなかった場合、天皇即位後に父には太上天皇の尊号を与えられていました。具体的には、第49代光仁天皇の父、第86代後堀河天皇の父、第102代後小松天皇の父(3代伏見宮)、第107代後陽成天皇の父。いずれも天皇が即位してから「太上天皇」の尊号を父に与えられています。(正確には光仁天皇の父は春日宮御宇天皇の追尊)これと同様、光格天皇は幕府に対して太上天皇の尊号を贈りたいと希望したわけです。ところが幕府はこれを拒否。もしかすると、朝廷の権威が復活してきていることに、過敏になっていたのかもしれません。ちょうどタイミング悪く、徳川将軍も途切れてしまい、同じ徳川一門の一橋家から第11代将軍家斉が迎えられていました。家斉も父が将軍ではなかったので、父に大御所の尊号を与えようとしました。しかし、先の一件があったので、老中松平定信はこれを却下せざるを得ませんでした。家斉はこれに怒り、松平定信を失脚させました。※光格天皇の父には、その後、徳川幕府が滅び、明治の時代になって太上天皇の尊号が贈られました尊一号事件は、幕府の権威を下げ、尊王思想の人たちの怒りに火をつける出来事となりました。そして、欧米列強が日本に開国を迫るようになり、いよいよ幕末大動乱の時代を迎えるのです。
2023年11月27日
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<第115代桜町天皇:朝儀の復活>第114代中御門天皇の皇子、第115代桜町天皇が即位したのは1735年です。1737年に中御門上皇が崩御し、親政を始めます。取り組んだのは、曾祖父の第112代霊元天皇同様、朝儀の復活でした。東山天皇即位の後の大嘗祭(1687年)から再度中断をしていましたが、1738年に自身の大嘗祭を復活させました。他にも、宇佐神宮、香椎宮への奉幣使を復活させます。宇佐神宮の主祭神は神功皇后に、その皇子である第15代応神天皇香椎宮の主祭神は神功皇后に、その夫である第14代仲哀天皇です。日本書紀で三韓征伐をした神功皇后が共通しており、特に朝鮮半島と関りの深かった古代において、応神天皇と共に英雄視されているお方です。まさに復古を志向した象徴的なことだと感じます。<第116代桃園天皇:宝暦事件(1758年)>第115代桜町天皇の唯一の皇子が1747年に即位します。第116代桃園天皇の誕生です。桃園天皇の御代で起こったのが、宝暦事件です。これは、桃園天皇の側近が、国学者で神道家であった竹内式部の講義を受けさせたことに対して、幕府が危険視をし、側近を処罰した事件です。幕府は復古の動きを警戒して動いたのです。<第117代後桜町天皇:明和事件(1767年)>更に事件は続きます。神道・皇道学を教え尊王論を唱える山県大弐の元に、多くの小幡藩の藩士が学びにきて弟子となっていました。幕府も無視できないほどに大きくなっていたようですが、この小幡藩の内紛にかこつけて幕府は逮捕します。この事件は、幕府に対する反感が芽生え、幕末の倒幕運動の幕開けとなる事件と云われています。徳川幕府は、設立以来、軍事力と禁中並公家諸法度という法律を盾に、天皇を押さえつけていました。長年、日本の権威たる天皇を恐れていたといってもいいでしょう。その為、がんじがらめにしてきたわけですが、長年の泰平に伴い、学問も進み、「古来から日本の中心となってきたのは天皇ではないのか?」「徳川幕府は、天皇から政権を委任されているだけではないのか?」といったことが分かってきたのでしょう。勿論、徳川幕府に押さえつけられてきた不満というのもあったでしょうが、庶民は気付き始めていたのでしょう。第108代後水尾天皇、第110代後光明天皇、第112代霊元天皇の幕府に対する抵抗が、時代が進んで実を結んでいるような気がするのです。
2023年11月22日
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第110代後光明天皇は、子供が皇女お一人であったため、次も第108代後水尾天皇の皇子が継ぐことになります。後光明天皇崩御の1654年、一番末っ子で生まれたばかりの第19皇子が、皇子のいない後光明天皇の養子に入っており、次とされていましたが、幼すぎるために、中継ぎとして高松宮家へ養子に行っていた第8皇子が呼び戻され、第111代後西天皇として即位しました。<高松宮家:1625年創設→後の有栖川宮家>この高松宮家は、後水尾天皇の同母弟を初代として始まった世襲親王家です。つまり、天皇家が途絶えた時に、即位できる親王家のことです。いざという場合に立てられた宮家です。<八条宮家:1589年創設→後の桂宮家>当時、近い宮家としては、八条宮家がありました。こちらは後水尾天皇の父:第107代後陽成天皇の弟を祖とします。豊臣秀吉が猶子にしていた智仁親王です。秀吉に鶴松が生まれて猶子関係を解消され、八条宮家を創設しました。後陽成天皇が次の天皇にしたがっていたお方ですね。<伏見宮家:1409年創設>もう一つ、遠くはなりますが、最も歴史の古い宮家は伏見宮家になります。北朝初代:光厳天皇の孫を祖とします。高松宮家、八条宮家と比べて非常に古く歴史のある宮家になります。第101代称光天皇が後継皇子がないまま崩御された後、この伏見宮家から、第102代後花園天皇が立てられました。(称光天皇と後花園天皇は見ての通り、4代遡った光厳天皇に繋がることになります。)第三代伏見宮の皇子にあたります。第四代伏見宮は後花園天皇の同母弟で、以後伏見宮家はここから続いていきます。代々、この伏見宮家は天皇の猶子となり、いざという時のための皇位継承権を有していました。第4代:第102代後花園天皇の猶子第5代:第103代後土御門天皇の猶子第6代:第104代後柏原天皇の猶子第7代:第105代後奈良天皇の猶子第8・9代:第106代正親町天皇の猶子第10代:第107代後陽成天皇の猶子第13代:第108代後水尾天皇の猶子第14代:第112代霊元天皇の猶子第15代:第113代東山天皇の猶子といった具合にです。当時は皇后の他にも典侍や後宮などもおりましたから、天皇は子沢山でした。子供の多くは出家していましたから、途絶えることも想定してこうした制度がありました。ただ、見てみると新設した高松宮、八条宮はいずれも早々に途絶えてしまい、逆に天皇家から養子を迎えて繋いでいます。第111代後西天皇も、早々に断絶した高松宮家へ養子にいっていたのですが、まだ後水尾天皇の第19皇子が生まれたばかりだったので、中継ぎ天皇として呼び戻されたのです。本命の第19皇子が即位したのは1663年のことです。第112代霊元天皇の誕生です。即位当時はまだ9歳で、父:後水尾上皇が院政を敷く形になりました。1680年に後水尾上皇が崩御すると、大人になった霊元天皇は、父に似て幕府と対抗するようになります。特筆すべきは、天皇の祭祀の中でも最も重要な新嘗祭、それも特に天皇が即位した最初の時の新嘗祭を大嘗祭と言いますが、これを第103代後土御門天皇の大嘗祭(1466年)以来、実に221年ぶりに復活させたのです。(霊元上皇院政時:上皇の第四皇子:後の第113代東山天皇の大嘗祭が1687年に行われる)幕府のことを気にしてか?当時の宮廷内でも復活に反対派がいたようで、次の第114代中御門天皇の大嘗祭では早くも中止になっています。幕府は朝廷の復古に神経を尖らせていたようです。<閑院宮家:1710年創設>しかし幕府は、皇統を続けていくことの重要性は理解していたようです。それはそうですよね。幕府設立は天皇という権威の元でされているわけで、徳川幕府の求心力の源泉はやはり天皇にあるのです。1710年に新井白石の建白により、新たに閑院宮家が創設されます。初代は第113代東山天皇の第六皇子になります。背景として、やはり〇第110代後光明天皇が皇子を成さず断絶したこと 第19皇子が生まれたばかりで、他の兄は出家、唯一の第8皇子が高松宮家へ養子にいっており呼び戻さざるを得なかったこと〇高松宮家、八条宮家が早々に断絶して、養子を迎えることが続いていたこと〇伏見宮家は古くて歴史があるが、高松宮家、八条宮家に比べると祖が遠すぎること(第102代後花園天皇の父まで遡ってしまう)◎他にも、強硬な霊元天皇に比べて、穏健な東山天皇の方を幕府も支持していたため、東山天皇から宮家を創設したという側面もあったと思います。そして、後にこれは大英断となるのです。以上四家が世襲親王家(四親王家)になります。
2023年11月21日
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度重なる幕府の圧力に、第108代後水尾天皇は怒り、譲位をします。徳川和子との間に生まれた娘、第109代明正天皇の誕生です。1629年のことです。後水尾天皇には例のおよつ御寮人事件にもなった、四辻与津子との間に一男一女いましたが、譲位の時点でこの男子(第一皇子)は早世しています。徳川和子との間に、二男五女がいましたが、こちらも譲位の時点で男子は二人とも早世していました。つまり、1629年の時点で男子はなく、和子との間の長女である興子内親王が第109代明正天皇として即位するのです。<第109代明正天皇即位が示すもの>第48代称徳天皇以来、実に859年ぶりの女帝の誕生です。道鏡を寵愛し、皇位を始めて天皇以外に譲ろうと考えた御方ですね。それ以来、女帝はずっと避けられていました。女帝の場合、男性問題が絡んでくると、天皇の血を引かないものが皇位に入り込んでしまう可能性があるからです。よって、女帝は天皇もしくは皇太子と結婚されたものを除いては、生涯独身となっています。天皇以外の夫と子ができると、もしその子供が継いだ場合、女系になるからです。 ◎結婚した女帝 ・第33代推古天皇:夫は第30代敏達天皇 ・第35代皇極天皇(第37代斉明天皇):夫は第34代舒明天皇 ・第41代持統天皇:夫は第40代天武天皇 ・第43代元明天皇:夫は草壁皇子(天武天皇の皇子。即位する前に崩御) ◎生涯独身の女帝 ・第46代孝謙天皇(第48代称徳天皇) ・第109代明正天皇 ・第117代後桜町天皇今、愛子様天皇論が出ています。愛子様が天皇になるのは、今回の明正天皇の事例からもOKです。しかし、ここで愛子様が今後一般人と結婚された場合、その子供が皇位をつくということは✖です。皇位に天皇家以外の血が入るからです。明正天皇が即位したということは、次は天皇と結婚して子供を産まない限りは、明正天皇の子孫に皇位がいくことはないのです。そうでなければ生涯独身です。(実際、生涯独身を貫かれました)後水尾天皇は、徳川幕府に対して、徳川の娘である明正天皇を立てることで、幕府の執拗な嫌がらせを避けると同時に、逆に「今後、徳川の血を引く明正天皇の皇統が続くことはない!」という態度を現し、一矢を報いたのです。ただ、いざ明正天皇が即位すると、明正天皇や、その母徳川和子にすり寄り、朝廷や幕府に対して影響力を持つものが出るようになり、1643年には明正天皇の外部との接触を禁止します。こうしたこともあり、徳川家は以後、天皇家に娘を入内させなくなります。その意味で、後水尾天皇は幕府に勝ったと言えるでしょう。<父に似た第110代後光明天皇>1643年、明正天皇は異母弟に譲位します。第110代後光明天皇です。後水尾天皇にとっては、この時点では一番上の皇子になります。(徳川和子との皇子含め、3人の上の皇子は当時崩御されておりました)後光明天皇は父に似て、非常に気が強く、反幕に関する逸話が残っております。(↑のスライド参照)そのため、崩御に関しては幕府による暗殺説もある程です。後光明天皇には皇子がいらっしゃらなかった為、引き続き後水尾天皇の皇子が即位することになります。後光明天皇崩御の1654年当時、一番末の息子が第19皇子でした。後水尾天皇は、なるべく院政を長く続けるためか?生まれたばかりの第19皇子を天皇にするため、まずは第8皇子を中継ぎとして天皇にします。(第5皇子は夭折、第6・7皇子は出家していた)第111代後西天皇の誕生です。第108代後水尾天皇と幕府の暗闘は続くのです。
2023年11月17日
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1598年に豊臣秀吉が亡くなると、徳川家康が台頭してきます。家康は、朝鮮出兵に端を発した内部分裂に付け込む形で、1600年に天下分け目の関ヶ原の戦いを制します。1603年、第107代後陽成天皇から征夷大将軍に任じられ、江戸幕府を開きます。1605年には、征夷大将軍を息子の秀忠に譲り、江戸幕府は豊臣ではなく、徳川の世襲制であることを世に知らしめます。豊臣は秀吉一代の栄華で終わったのです。さて、徳川家康の世になると、天皇家に対しては豊臣秀吉とうって変わり、抑圧の方面に動きます。◎関白の座を豊臣家から、元の五摂家に返上し、天皇の最側近を味方につけてコントロールしやすくします◎1609年には朝廷の醜聞事件の判決に介入し、後陽成天皇を怒らせますそして、1611年、後陽成天皇が後継にと希望していた豊臣派の親王を退け、政仁親王を即位させます。第108代後水尾天皇です。1614年には徳川二代将軍秀忠の娘:和子の入内が決まります。この年に大阪冬の陣・翌年に夏の陣が起こり、入内は延期されますが、豊臣家の息の根を止め、徳川の天下は盤石なものとなります。<1615年禁中並公家諸法度:天皇家を抑圧>徳川の世が盤石になると、家康は法律を定め大名を統制します。武家諸法度です。そして大名のみならず、天皇・公家をも法律で縛り付けます。それが同年に出された禁中並公家諸法度です。古代より祭祀を一番の仕事としていた天皇に対し、一番にやることは勉学 としています。他にも、親王よりも五摂家を上にし、五摂家の合議制を重視し、天皇家の力を抑えるようにします。更には改元権を奪うことなどもしています。北条泰時が定めた御成敗式目は、あくまで武家の法律でした。武家以外には律令がありましたが、この法典において中心は天皇です。臣下である武家が、天皇を縛る法律を出したのでした。神代から戦国時代に至るまで、このようなことはありませんでした。(承久の乱以降、幕府の意向に逆らえなくなりましたが、それは力によってというだけで、法で縛っていたわけではありません)<1620年徳川和子入内>大阪の陣で入内が延期となっていた二代将軍秀忠の娘:和子の入内がされます。ただ、この入内に至るまでも第108代後水尾天皇と幕府ではひと悶着がありました。後水尾天皇が寵愛していたおよつ御寮人が、天皇の子を1618年、1619年と立て続けに懐妊。秀忠は激怒し、朝廷に圧力をかけ、監視役・天皇側近などを追放・出仕停止にさせました。更には、およつ御寮人を追放・出家させ、1620年に和子を入内させるに至ります。<1627年紫衣事件>禁中並公家諸法度では、朝廷の大きな収入源であった「僧正へ紫衣を与えること」を幕府の許可制にしていました。紫衣を与えるということは、収入面だけでなく、「仏教界に対して、天皇が僧正を決める」という天皇の権威の象徴でもあったのです。この権限を許可制にすることで奪ったことになります。1627年、これまで天皇が与えていた紫衣を、与える規定が甘すぎると無効にして、後水尾天皇を怒らせました。<1629年三代将軍家光の乳母:福との謁見と天皇の譲位>更に、怒らせて今度は天皇に譲位をさせてしまう事件が起きます。それが徳川三代将軍の乳母であるお福との謁見です。お福は将軍家の乳母とはいえ、徳川の血を引くでもなく、官位もない人物でした。それを無理やり公家の猶子にして、官位を与えさせ参内をさせたのです。後水尾天皇はことここに至って怒り、譲位をしたのです。徳川和子との娘:女帝第109代明正天皇の誕生です。【武闘派だった後水尾天皇】後水尾天皇は在位中に、自身の追号を、「後水尾」にするよう指示します。第56代清和天皇の異名です。鎌倉幕府を開いた源頼朝は清和源氏なので、清和天皇は武家の棟梁の祖にあたる人です。後水尾天皇は、清和源氏の流れをくむと主張する徳川家康に対し、自分はその祖なんだ と言いたかったのかもしれません。かなり武闘派の天皇だったようです。父で先代の後陽成天皇の追号(後陽成)も、問題があって退位させられた第57代陽成天皇に当てはめるという強烈なことをしています。※第57代陽成天皇に関しては、武家として活躍していった清和源氏からも忌避され、本当は陽成源氏なのに、系図を変えて清和源氏にしたという話もあるくらいです。結構問題があったようです。※第107代後陽成天皇も、理解不能な皇位継承をさせようとする変わり者で、後水尾天皇とは仲が悪かったようです。武闘派の後水尾天皇は長寿でしたので、娘である明正天皇に譲位して以降、上皇として4代の天皇に渡って院政を敷きます。江戸幕府4代将軍:徳川家綱の時代まで存命し、最盛期であった徳川幕府の圧に晒されながらも、天皇家の意地をみせていくのです。(文治政治に移行するのが、ちょうど家綱の時代です。それまでは大名も沢山取り潰されていました。)
2023年11月11日
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天下統一目前に家臣の明智光秀の謀反により倒れた織田信長。後を継いだのは同じく家臣の豊臣秀吉でした。<秀吉、天皇の権威をバックに天下を統一>秀吉も信長同様、天皇家を支えていきます。農民出身で、何の正当性もない秀吉にとって、日本の最高権威である天皇をバックにして、自身の官位をあげていき、日本を一つにまとめようとしました。1585年には五摂家筆頭の近衛家、近衛前久の猶子になり関白に任じられます。更に、1586年9月、第106代正親町天皇から姓をもらい豊臣秀吉と名乗ります。そして12月には太政大臣に任じられます。大名間の領土争いを私戦とし、これを禁じる惣無事令を出すことで大義名分を得、九州・関東・東北を平定します。1590年、ついに天下統一となったのです。それとともに、朝廷も以前のような輝きを取り戻すことができたのです。時に第107代後陽成天皇の御代となっていました。第96代後醍醐天皇の御代である南北朝動乱時代から、およそ250有余年、ようやく天皇家が安定し、日本も一つにまとまったのです。秀吉の関白就任についてですが、関白は代々藤原氏北家が世襲しておりました。第50代嵯峨天皇の御代に天皇に寵愛された藤原冬嗣が権勢を得て、その息子:房前が人臣で初めて関白に就任し、以来世襲していき、鎌倉時代に五摂家になってからも、代わる代わる五摂家が就任していました。近衛家は五摂家筆頭です。その近衛家の猶子になるのは、当主の前久としても面白くなかったことでしょう。出自の分からない農民の子供なのですから。しかし秀吉は、いずれ前久の息子に譲るからと言葉巧みに言いくるめ、無理やり猶子とさせました。当然これは後に反故にし、それどころか藤原氏長者の地位も得て、〇藤原氏氏神:春日大社の最高責任者の任命権を行使〇始祖:藤原鎌足(中臣鎌足)を祀る談山神社を無理やり遷宮させるなどのことをしています。近衛家のみならず、他の四摂家も忸怩たる思いだったでしょう。そして、これにより秀吉は、名実ともに日本のNo2になったと言えます。後に、徳川の世になると、関白の地位を五摂家に戻しています。徳川家は五摂家を取り込み、天皇を抑える動きに出ます。豊臣と徳川、両者は対照的な動きをしたのです。<第107代後陽成天皇の奇妙な皇位継承希望>後陽成天皇は、秀吉の死後、病気にかかり譲位を口にします。普通ですと自身の息子に皇位をつなげるように思いますが、弟:智仁親王への継承を希望します。智仁親王は秀吉の猶子となっており、当初は関白の地位を約束されていましたが、秀吉に待望の子:鶴松が生まれるとこれを反故にします。これを哀れと思ったのでしょうか??或いは同腹の兄弟でしたので、母の意向でも組んだのでしょうか??よく分かりません。結局、この時は譲位は行われず、関ケ原の戦い後、徳川の世になっていくと、豊臣の息のかかった親王は皇位から遠ざけられていきます。智仁親王のみならず、秀吉時代に後陽成天皇の後継と目されていた第一皇子:良仁親王しかりです。最終的には1611年に第三皇子の政仁親王が即位します。第108代後水尾天皇です。<豊臣秀吉による朝鮮出兵について>さて、天下を統一した後の秀吉は朝鮮出兵を行います。1592年~93年が文禄の役、1597年~98年が慶長の役になります。元寇以来、長らく中国・朝鮮との戦いが無かった日本ですが、どうしてこの時期にこのようなことが起きたのでしょうか??戦国時代当時は、世界の覇者はスペイン・ポルトガルでした。両国は地球を大雑把に2つに分けて、それぞれ支配を進めようとしました。1494年に結ばれたトルデシリャス条約です。インド・アジアはポルトガル領とされ、その流れでポルトガルから鉄砲やザビエルなどが来たわけです。この南蛮貿易を最大限活用し、新しい武器(鉄砲のみならず、特に火薬の原料となる硝石)・戦略・情報などを積極的に仕入れたのが織田信長でした。彼はこれらを得るために、キリスト教の布教を許可し優遇します。天下統一を推し進めることができた理由の一つに、南蛮貿易があったのは間違いないでしょう。豊臣秀吉もこの路線を継承しますが、キリスト教の布教拡大と共に下記のような行為も目立つようになり、危険視するようになります。・日本人が海外に奴隷として売られていた・日本古来の神社仏閣が破壊される・キリスト教にのめり込んだ大名で、土地をイエズス会に売ったものがいた(有馬晴信は浦上、大村純忠は長崎・茂木など)これらに激怒した秀吉は、キリスト教布教禁止令を出します。1587年のことです。1590年 秀吉天下統一1591年 ゴア(インド)のポルトガル政庁に入貢を要求1592年 マニラ(フィリピン)のスペイン政庁に入貢を要求天下を統一すると、ポルトガル・スペイン政庁に入貢を要求するまでになります。秀吉は「布教は許さんが、貿易はしたいし認めるから入貢せよ」と、強気に出ます。これを拒否され、朝鮮へ服属するよう要求 → 拒否 → 出兵 へ続くわけです。世界帝国:スペイン・ポルトガルに対峙していくために、まだ両国の植民地になっておらず、解禁政策の朝鮮・明を取り込んで交易を拡大し、対峙する力をつける。幕末・明治維新と同じ構図ですね。(しかも、1588年にはスペイン無敵艦隊がイギリスに敗北。欧州のパワーバランスが変わろうとしており、秀吉も当然この辺の情報を把握していたと考えられます)明を征伐した暁には、第107代後陽成天皇を明の皇帝につけようと考えていたそうです。秀吉は、明確にポルトガル・スペインと対峙できる帝国を目指そうとしたのでしょう。(後陽成天皇は朝鮮出兵に反対だったそうです)1596年、サン=フェリペ号事件が起きます。スペイン船が難破して土佐に漂着します。取り調べの最中、拘留された乗組員との口論の中で、スペインが世界各地を征服してきた手法が語られます。(まず宣教師が布教させて味方を増やし、信者が増えたところで本国から艦隊を派遣して制圧するというもの)秀吉は明確にカトリック信者は危険と感じたのでしょう。日本人キリスト教カトリック聖職者26名を処刑します。そして翌年、再度の朝鮮出兵となるのです。やはり世界帝国と渡り合える国を作ろうという意思を感じます。秀吉は、朝鮮や中国から人気がありませんが、日本人からすると、国土・日本人・日本文化を守るために断固キリスト教に立ち向かったのでしょう。褒められたことではないかもしれませんが、国土が売られて何の対策も打てない・打たない今の政治家よりはいいですよね。ただ、この朝鮮出兵で豊臣政権の分裂を生み、天下は徳川に転がりこむことになるのです。
2023年10月28日
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戦国時代の突入は、時代の主役を大きく変えました。日本全国がバラバラになる中で、衰退した天皇を支えることで自らの地位を高める動きをした人物がいます。まずは毛利元就です。第106代正親町天皇も、先代同様、お金がないため即位後に即位式ができないでいました。毛利元就が献金するこで、即位から3年後に即位式をすることができたのです。そのため、21年後の第104代後柏原天皇、11年後の第105代後奈良天皇と比べると大変早い段階ですることができました。そして全国統一に大きく貢献したのが織田信長です。織田信長も天下布武を進めるにあたり、天皇を担ぎました。天皇家を援助して、再び権威を高め、正親町天皇の元、再び日本を一つにしようとしたのです。※他にも本願寺の顕如なども多額の献金をおこなっており、力をつけてきたものが、自身の立場を更に上げるために(官位を得るなど)、天皇の権威を高めようとしました。信長が危機に陥った時には、天皇の力を借りて和睦に持ち込み、何度も危機を脱しています。天皇や足利将軍の権威を借り、そして堺や京をおさえて経済力を伸ばし、周囲の大名を倒していきます。強大な権力を持つにつれ、横暴になった織田信長。■天皇同様、担いできた第15代将軍:足利義昭とは、途中仲違いし、1573年に追放して足利幕府を滅亡させます。■1576年には安土城の築城を開始し、1579年に完成します。安土城の天守から見下ろせる位置に天皇を迎える清涼殿が作られており、「伺うのではなく、呼ぶ」という考えを持っていたようです。■1581年の京都の馬揃えは、正親町天皇に譲位をさせて、皇子である誠仁親王を天皇に即位させようという軍事的圧力であるという説があります。 ⇒譲位に関しては、正親町天皇自身がむしろ希望をしていたという説もあります。第103代後土御門天皇、第104代後柏原天皇、第105代後奈良天皇は、貧困のため譲位したくても出来ませんでした。正親町天皇は、先祖3代の念願であった、古くから続いていた院政の政治体制を希望していたというものです。ただ、信長の後半期には譲位を援助できるだけのお金はあったでしょうから、信長が譲位を迫っていた、或いは譲位をさせなかった、どちらの姿勢かは分かりませんが、正親町天皇の思い通りにはさせないという横柄な姿勢であったのは確かなのだろうと思います。■1582年には天皇の大権である暦の変更を要請します。朝廷も官位を信長に与え、懐柔しようとしますが、これを拒否。こうした中での1582年、天下統一を目前にして、最も信頼していた腹心:明智光秀に裏切られて本能寺で殺されるのです。この背景から、朝廷黒幕説が云われています。信長の後継者:織田信忠もこの時に二条御所で討たれています。御所には誠仁親王もいたので、面白い説ですが、考えにくいかなと思われます。本能寺の変からわずか11日後、同じ信長の家臣である羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)により明智光秀は破れます。この間の準備の無さからしても、光秀の突発的な犯行かなとは思いますが、足利義満にしろ信長にしろ、絶頂となり天皇にとって代わろうとする疑いが感じられる途端、死亡しているところが、歴史の不思議さ、面白さでもあります。信長は結局、譲位をさせたかったのか?させたくなかったのか?今となっては分かりませんが、誠仁親王は1586年、皇位を譲られる前に崩御。失意の正親町天皇は、誠仁親王の子:和仁親王に譲位をしたのです。(第107代後陽成天皇)全国統一を成し遂げなかった信長に代わり、豊臣秀吉が1590年ついに全国を統一します。秀吉も天皇家に献金して支えていき、ようやく戦国時代の終わりと天皇家の復権がなされ、第88代後嵯峨天皇に南北朝動乱の種がまかれて以来、やっと皇統も安定していったのです。
2023年10月17日
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11年の長きに渡った応仁の乱ですが、これは始まりに過ぎず、ここから長い戦国時代へ突入していくのです。後南朝が消え、ようやく一つになった天皇家。その日本の最高権威でさえ困窮していったのです。【困窮する天皇家】第103代後土御門天皇は、応仁の乱の最中、10年間御所ではなく室町第への避難生活を余儀なくされ、崩御された折にはお金がなく40日間もご遺体が放置されたと伝わります。継続していた数少ない祭祀:大嘗祭も中断されました。第104代後柏原天皇は1500年に即位されましたが、即位の礼は1521年と21年も後のことです。第105代後奈良天皇も1526年に即位されましたが、即位の礼は1535年と11年も後となりました。そのくらい困窮していたということです。後奈良天皇はご自身の書籍を売って収入の足しにしていたそうです。第103代後土御門天皇、第104代後柏原天皇、第105代後奈良天皇、ともに存命中に譲位しませんでした。譲位するお金もなかったのです。【将軍家、三管領や四職の末路】将軍家もひどいものでした。東軍に担がれた9代義尚は、六角氏を攻めている最中、陣中で病没。10代義稙は二度将軍に就任しているのですが、その二度とも細川氏によりクーデターで追放されています。11代義澄は義稙が九州の大内氏の力を借りて返り咲く際に追放。12代義晴も細川氏の内部分裂に翻弄されます。13代義輝は細川氏の内部分裂の中で力をつけてきた家臣:三好長慶の傀儡になります。そして利用価値がなくなると、その重臣三好三人衆により暗殺までされます。14代義栄が傀儡として立てられますが、織田信長により京を追われると15代義昭が立てられ、最終的にはこの義昭と信長が対立して足利幕府は滅亡します。応仁の乱以降の足利将軍は、皆お飾りでしかなかったのです。幕府の重職である三管領、四職も例外なく衰退してしまいます。三管領:斯波・細川・畠山は元は足利一門四職の内:山名は新田一門の出、一色は足利一門。つまり両家とも源氏でした。6代将軍義教を殺害した赤松も村上源氏の出です。残りの京極は、足利尊氏を支えた佐々木道誉の出(佐々木氏自体、宇多源氏の出とされますが)。つまり、足利将軍のみならず、幕府の重鎮は皆、源氏出身で名門でした。しかし、戦国時代の突入で秩序がなくなり、実力だけがものを謂う時代になり、守護代或いは守護代の更に家臣などにより立場を奪われることになり、出自が不明な人物が歴史の主役、下克上の時代になったのです。(全国統一の立役者、織田信長は平氏、徳川家康は源氏と称していますが、きわめて怪しいです。豊臣秀吉に至っては農民出身です。)第105代後奈良天皇は、祭祀の中でも重要な大嘗祭ができないことを、国力の低下と、私利私欲が先走る下克上の世によるものである。上下和して民の豊穣を祈るばかりであると仰せになったと云われています。祈る天皇として、平和と五穀豊穣への願いが込められています。織田信長により全国統一、戦国時代の終焉へと向かっていきますが、そこに至るまでに多くの血が流れたのです。
2023年10月11日
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室町幕府は安定した時期の短い幕府でした。まず初代足利尊氏、2代義詮の頃は南北朝動乱の時代で安定しませんでした。これを統一したのが、3代義満です。彼はそれをいいことに、日本国王を気取り、明に朝貢するということをしてしまいます。それどころか皇位簒奪という野心すら抱きます、絶頂の最中に急死します。4代義持は、父とは真逆の方針を打ち出します。◎父の太上法皇の追号を拒否◎勘合貿易の廃止(明と断交、朝貢の取りやめ)◎権力の分散化(三管領・四職に権力を分散)5代義量は早世し、6代義教は、義満の時代のような将軍への権力集中を図ります。やり方が強引で、万人恐怖と呼ばれていました。この中で四職の一つ:赤松家の家督相続に介入し、反感を持たれて逆に赤松満祐に殺されます(1441年嘉吉の変)。(これにより赤松家は潰されますが、再興のために遺臣が勾玉を奪還:長禄の変1457-58)7代義勝も早世し、応仁の乱の火付け役:8代義政の代となります。当初は義満・義教路線で、幕府の権力を強めるために、三管領の斯波氏・畠山の家督相続に首を突っ込んでいましたが、反感を買い政治への関心を失っていきます。こうした中、自身の異母弟:義視へ将軍職を譲ろうとしますが、義視はこの時出家しており、今後、義政に子供が出来た場合揉めるからと拒否されます。義政は子供が出来た場合でも、その子には継がせないと約束し、義視を次期将軍に据えるも、子供(後の9代義尚)が生まれると、回りがそれを許さず、全国が義視派VS義尚派と分かれて、争いを始めます。元々、足利幕府自体、絶頂期の3代義満の頃でも経済力は集中させられていても、軍事力は一極集中していた訳ではなく、各守護大名に分散化していました。それだけに、きっかけは将軍家の後継問題でしたが、それぞれの大名が私利私欲の争いをはじめ、どんどん問題が大きくなっていったのです。足利家以外のメインの役者は、6代義教を殺害した赤松家を倒した管領:細川氏、四職の山名氏です。この2氏が勢力争いをおこない、将軍家分裂に乗じて全国を二分しました。自身がきっかけであるにも関わらず、義政は積極的な解決に動こうとせず、むしろ東西どちら側にも属さず逃げてしまいます。このため争いは混迷を極め、延々と続くことになり、京都は焼け野原になります。これが応仁の乱で、世は戦国時代へ突き進んでいくのです。これだけ無秩序な応仁の乱が起こった、或いは長引いた理由に、原因である義政の無関心・無責任や、各守護大名へ権力分散化の他にも◎1428年正長の一揆、1441年嘉吉の一揆、1454年享徳の一揆、1457年長禄の一揆など、飢えや貧困も背景にありますが、やはり南北朝動乱を通じて、朝廷の権威が衰えていたことがあると思います。幕府が立てた北朝をみても初代:光厳天皇・・・廃帝、南朝に捕まる二代:光明天皇、三代:崇光天皇・・・南朝に捕まる四代:後光厳天皇・・・皇族ではない祖母を治天の君にして、正統性のない即位五代:後円融天皇・・・義満の怒りを恐れ切腹未遂を起こすこのように権威が失墜しています。正当性がある南朝は、幕府により攻撃をされ、虐げられていました。合一後、両統迭立を反故にされてから起こった「後南朝」に関しては、北朝同様、散々な扱いになっています。(系譜や没年自体、不明な点が多いですが)初代:金蔵主・・・禁闕の変で殺害二代:自天王・・・長禄の変で殺害三代:南天皇・・・長禄の変後の再度の赤松家遺臣の襲撃による傷が元で後に崩御虐げられていた南朝ですが、後南朝に関してはそれ以上に殺害までされています。しかも、勾玉を取り戻そうとした赤松家遺臣にとっては、朝廷に三種の神器を返すというよりも、赤松家再興が主目的であり、この辺も私利私欲が先走っていることが伺えます。そして、将軍を要する東軍が、朝廷を囲うことになるので、対抗するために西軍が後南朝を担ぎます。いえ、利用します。これが四代:西陣南帝です。応仁の乱がまだ終わらない1473年、東西の守護大名の主役である細川勝元、山名宗全が相次いで病死すると、西陣南帝は忘れ去られ、後南朝は自然消滅するのです。1336年12月に起こった南朝は、ここで歴史の表舞台から姿を消します。武家にとって、朝廷の権威は地に落ち、便利な道具でしかなく、無秩序な状態になるのです。この無秩序が、応仁の乱を起こした、長引かせた大きな原因と言っても過言ではないと考えています。天皇の存在は、日本の安定に絶対に欠かせません。これは古代からの知恵で、長い歴史の中で培われたものです。そして、長い日本の歴史の中で、国内が最も荒れた時代が、天皇家が南北に割れた時代だったのです。私は、南北朝時代は、天皇の尊さを強く問いかけているように感じます。これからも天皇家を日本人が守っていかないといけないと思うのです。
2023年10月06日
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室町幕府3代将軍、足利義満の急死により、天皇家乗っ取りという日本の国体の危機は免れました。しかし、義満存命時に結ばれた南北朝合一に繋がる1392年の明徳の和約。この時の和約:両統迭立は守られませんでした。(そもそも両統いる時点で合一じゃないですが・・・)1411年に、第100代後小松天皇の皇子:躬仁親王(後の第101代称光天皇)が立太子され、元南朝側から天皇を出すことにはならなかったのです。(1410年に突如、第99代後亀山天皇が京を出奔し、吉野に移ります。もしかすると和約を守られない動きを察知しての抵抗だったのかもしれません)【第101代称光天皇即位と後南朝の反乱①1414年~1415年】この反故に対して南朝派の残存勢力が反発をします。1412年、第101代称光天皇が即位すると、南朝の後亀山上皇(第99代)と、その皇子である小倉宮皇子が担がれて、北畠満雅(北畠親房のひ孫)が反乱を起こします。(1414年~15年)これは幕府に討伐され、一旦和解することとなります。1416年には後亀山上皇が京へ戻ります。その後、1422年に小倉宮皇子、1424年には後亀山上皇が崩御されております。【第102代後花園天皇即位と後南朝の反乱②1428年~1429年】1428年、男子を成さぬまま、第101代称光天皇は崩御します。幕府により、やはり北朝系統の第102代後花園天皇が立てられます。北朝系統の天皇が即位することで、再び後南朝勢力の反乱が起こります。北畠満雅は再度挙兵。今度は、後亀山上皇の孫:小倉宮聖承を擁立して反乱を起こしますが、1429年討ち死にをし、この時も失敗に終わります。小倉宮聖承は許されるものの、その後の暮らしは厳しいものだったようです。反乱はこれだけでは終わりませんでした。同年、6代将軍足利義教暗殺未遂事件が起こります。(楠木光正:楠木正成のひ孫とされるも詳細不明)その後も断続的に反乱が起こっていたそうです。1434年には足利義教が、「南朝御一流、今において断絶さるべし」という方針まで出しています。【1443年禁闕の変:三種の神器の剣・勾玉強奪事件!】そうした中の1443年、金蔵主が後花園天皇を暗殺するため、御所に乱入するという事件が起こります。天皇は無事だったものの、剣と勾玉が盗まれてしまいます。剣は取り返したものの、勾玉は奪われたままでした。勾玉を使って即位の礼がおこなわれ、ここに後南朝初代が誕生することになります。※初代が金蔵主ということになりますが、金蔵主はこの禁闕の変で撃たれたとも、逃れてその後吉野で崩御したとも伝えられます。出自すらも、99代後亀山天皇の皇子であったり、孫、はたまた甥の子供などの説もあり、一定しません。後南朝初代とされながら、謎の多い方のようです。※1446年に第97代後村上天皇の孫:円胤が後南朝として反乱を起こし、1448年に鎮圧され殺害されます。しかし勾玉はこの時は奪還できず、後南朝2代目の尊秀王(自天王)即位に用いられたとされます。 自天王の父は金蔵主とされますが、この辺りも父同様謎が多いようです。【1457-58年長禄の変:勾玉の奪還】奪取された勾玉を取り返すことができたのは、なんと十数年も経った時のことでした。取り返したのは、6代足利将軍:義教により潰されていた赤松家の遺臣たちでした。室町幕府の中で高位の家格である四職家の一つを占めた赤松家を再興するため、動いたのです。1457年12月、2代目後南朝の尊秀王(自天王)、そしてその弟とされる忠義王を殺害しますが、この時も勾玉の奪還は叶わず、翌1458年3月に取り返すことができたそうです。これらの事件が長禄の変です。ようやく三種の神器が揃い、赤松家は再興されました。終息したかに見えた南北朝騒乱。しかし明徳の和約で決めた両統迭立の反故をきっかけにして、南北朝動乱の時程の規模ではありませんが、対立が再燃したのです。不透明な時代は続き、やがて応仁の乱→戦国時代へと突入していくのです。※<第102代後花園天皇の即位が、現代の我々日本人に示すもの>※称光天皇には弟もいましたが、既に崩御されており、第102代後花園天皇が立てられますが、御花園天皇と称光天皇は、なんと四代前に遡りやっと先祖を同じくする関係です(北朝初代:光厳天皇を共通の祖とします)。称光天皇には皇女もおりましたが、皇位を継ぐものは男系であることを鑑み、わざわざ4代遡って後花園天皇が即位されたのです。第25代武烈天皇で皇統が断絶した時に、5代前の第15代応神天皇に遡り、そこから5世孫の第26代継体天皇に皇位を継がせました。武烈天皇には姉がいたにも関わらずです。これを思わせる皇位継承です。あくまで皇統は男系に継いでいくというのが、この室町時代にもきちんと継承されていることが重要です。ですから、現在、愛子様天皇論が出ています。女性天皇は過去にもおりましたから愛子様の天皇即位は歴史的にみても可能です。しかし愛子様の将来の子供への継承は女系となるのでありえないのです。それは男女差別とかそういう問題ではなく、日本が古代から継承してきた伝統なのです。男系で皇統を繋いできた日本国たる所以なのです。
2023年09月26日
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南北朝合一を果たした足利義満。その後、1394年に太政大臣になりますが、これは武家では平清盛以来です。1399年には有名な金閣寺を建立し、ここを中心に政治の場(北山第)とします。そして、彼は貿易で巨万の富を得るために、日本国の代表たる天皇を差し置いて明に朝貢し、冊封を受けたのです。権力と膨大な富を手にした義満の横暴は留まることをしりません。【天皇による国家祭祀もままならぬ状態に】第41代持統天皇の御代に定められた飛鳥浄御原令、この中に神祇令という国家祭祀についての項目があるそうですが、そこには天皇家がおこなう国家祭祀は ※( )は既出2月:祈年祭3月:鎮花祭4月:神衣祭、大忌祭、三枝祭、風神祭6月:月次祭、鎮火祭、道饗祭7月:(大忌祭)、(風神祭)9月:(神衣祭)、神嘗祭11月:相嘗祭、鎮魂祭、新嘗祭12月:(月次祭)、(鎮火祭)、(道饗祭)と、重複を除くと13個の恒例祭祀が定められているようですが、1403年の時点でおこなわれていたものは、赤字の4個にすぎなかったそうです。これら4個の祭祀とて、義満に財源を拠出してもらわねば出来なかったとのことで、合一したとはいえ、第100代後小松天皇のご心労はいかばかりであったか。。。。【足利義満、天皇への野望】更には、1404年には北山第にて、天皇が国家安寧のためにおこなう仏教の修法を、毎月欠かさず実施しました。それも公卿を集めての実施で、これは私的なものではなく、天皇に成り代わり国家祭祀をおこなったということになります。(公卿も公卿で、正月拝賀はまず義満のところに行き、宮中は後回しのあり様だったようです)ここに義満の野望が見て取れます。まだ終わりません。1406年、後小松天皇の母が崩御。この時、義満は自分の正妻を後小松天皇の准母としました。妻を強引に皇族にしたのです。1408年には後小松天皇を北山第に行幸させ、義満は後小松天皇と並んで座ったそうです。そして寵愛していた自分の子供:義嗣の元服を、立太子の礼でおこなうという暴挙まで犯します。自身の子を時期天皇にして、自分は太上天皇にというあからさまな野望を示します。まさに、蘇我氏、道鏡に次ぐ天皇家乗っ取りの危機だったのです。※しかも、当時、幕府は、尊氏VS直義・直冬という、尊氏の弟、息子との戦いという反省から、長子以外は出家させるという方針をとっていました。そのため義嗣も出家していたのですが、そのルールを破り還俗させて時期天皇にしようとします。やりたい放題だったわけです。計画は順調かと思われましたが、なんと義嗣立太子のわずか11日目で突然義満は死んだのです。神代から続く天皇家を中心に、歴史を作ってきた日本。南朝・北朝に分裂してしまい、これを統一した自分こそが中心だ!とでも思ったのでしょうか?天皇家を乗っ取ろうとした義満。更には、明に勝手に朝貢して冊封までされてしまう国賊。日本書紀を読むと、中国から独立した国であるという日本の誇りが感じられます。遣唐使廃止以降は、国家的な国交すら辞めており、古代から日本は独立した国であるという連綿とした思いを無視し、わざわざ朝貢するという意味不明な行為。天皇家乗っ取り計画と朝貢、幕末におきた足利将軍の木造梟首事件に、義満も入っている理由でしょう。【義満の死後】次の将軍は、息子の第4代義持になりましたが、父の方針を継ぎませんでした。むしろ義満の治世を否定しました。自らの立場を理解していたのでしょう。まず、朝廷から、生前義満が欲していたであろう太上法皇の追号を送るという申し出がありましたが、義持は断っています。勘合貿易も中止し、1411年に明と断交、冊封関係を否定します。立太子した義嗣や、後小松天皇の准母となった義満の正妻も政権の中枢から遠ざけられました。正妻が亡くなった後、北山第は金閣寺を残して解体され、後小松天皇に返還しました。義嗣に至っては、後に謀反を疑い殺害しています。こうして、日本の国体の危機は去ったのです。
2023年09月06日
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【力をつけてきた第3代将軍:足利義満】1383年に第99代後亀山天皇が即位されます。和平派の楠木正儀も南朝に戻ってきて、いよいよ和平に向けて動き出します。一方の室町幕府側も、3代将軍足利義満が成人して政治力を発揮してきています。幕府の課題としては、これまで2分して内部争いをしていた為、各武将の勢力(守護大名)が侮れず、幕府に権力を集中させることにありました。義満はまず弱ってきた朝廷の権限を奪います。●段銭・棟別銭(田や家屋当たりにかけられた臨時課税。国司を介して徴収していた)の徴収を、幕府が実施●検非違使の警察権を幕府政所で実施朝廷の財源・軍事権を横取りし、朝廷を縛り付けます。※北朝が義満の顔色を伺っていることがよく分かる事件が1383年に起こっています。第5代後円融上皇の宮人(第6代後小松天皇の母)と足利義満の密通疑惑が生じ、後円融上皇は宮人の頭を叩きます。後になって、義満の怒りを恐れた上皇は、切腹未遂事件を起こすという事件が起こります。上皇がそれほどまでに恐れるくらい、義満の力は大きくなっていたようです。次に、守護大名の勢力削減です。特に大きな力を持ったものを、根回しの上狙っています。一番苦戦していた九州戦線を収めた今川了俊も解任させています。そして勘合貿易を始めて財力を蓄えていきます。あれだけ分裂していた幕府が、一気に大きな力をつけていったのです。【1392年明徳の和約】1392年、南朝方の楠木正儀の息子:正勝(正儀は既に死去)が籠る楠木家の本拠:千早城が落城します。そして、第99代後亀山天皇の南朝方との和睦が締結されるのです(1392年明徳の和約)。条件は、●三種の神器を北朝へ返還●荘園領地の取り決め(長講堂は北朝、国衙領は南朝へ) ※第89代後深草天皇(持明院統→北朝)は長講堂を相続 第90代亀山天皇(大覚寺統→南朝)は八条院領を相続していました。 南朝は劣勢だったので八条院領は解体しており、代わりに国衙領を当てがった●両統迭立とする →これを受け、北朝第6代後小松天皇は、第100代後小松天皇となります。 ※しかし、以後、両統迭立の約束は守られず、北朝に皇統が繋がれていきます。第96代後醍醐天皇が、吉野にて南朝を開いたのが1336年12月。ようやく1392年10月に明徳の和約が結ばれ、南北朝が形上は合一しました。しかし、強大な力を手にした足利義満は、この後、大きな野望を推し進めていくのです。
2023年09月05日
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1368年、第97代後村上天皇が崩御します。前年には室町幕府第2代将軍:足利義詮も死に、和睦交渉がストップします。次に即位されたのが、後村上天皇の第一皇子:第98代長慶天皇です。長慶天皇の御代では、和睦交渉が途絶していたようで、対北朝強硬派だったようです。和睦交渉が途絶した背景に、●後醍醐天皇の皇子:懐良親王の善戦があったように思います。懐良親王も、後醍醐天皇の他の皇子同様、北朝と勇敢に戦っていた親王でした。懐良親王の場合は、九州へ派遣され、1348年に征西府を設置し九州攻略を進めます。北朝との戦いで悲劇の最後を辿った尊良親王、(毒殺されたと思われる)恒良親王、成良親王でしたが、懐良親王は善戦致しました。九州も京都や鎌倉のように敵味方入り乱れるのですが、1361年には太宰府を占拠します。幕府方の今川了俊に占拠される1372年まで、劣勢気味の南朝の中にあって、九州情勢は希望の光だったのでしょう。大宰府を占拠されたものの、その後も抵抗を続けます。(ちなみにこの九州の戦いで、最終的に幕府方として戦った大友氏、島津氏は後に九州の地で戦国大名となります)異母兄の宗良親王は、足利義直死後、南朝と足利尊氏の和睦が決裂した際に、尊氏に代わって征夷大将軍になり、一度は鎌倉で尊氏を退けるも、その後敗北(武蔵野合戦1352.2-3月)、信濃に逃れて抵抗を続けます。宗良親王の関東戦線は終始押され気味ではありましたが、京以外でも戦いは続いておりました。●足利義詮死後の第3代将軍、足利義満が幼かったというのも和睦交渉途絶の背景にあるように感じます。義満は1358年生まれということで、長慶天皇即位当時はまだ10歳。幼い将軍の幕府には勝てる!という思いもあり、長慶天皇は強硬姿勢だったのかもしれません。【南北朝合一に向かう】そうした中、南北朝合一に向かっていった要因はいくつかありました。●和平派:楠木正儀の裏切りと出戻り南朝内で強硬派が台頭してくる中、楠木正成の三男:楠木正儀が1368年に北朝方へ帰順します。(二人の兄:正行・正時は、1348年の南朝VS北朝の四条畷の戦いで戦死しています)正儀は、南朝方として、京都での戦いで何度も北朝を追い出した武略に長けた武将だったようですが、和平の道も探っていた武将でした。第97代後村上天皇の側近として、足利義詮との和睦交渉も勤めていました。残念ながら交渉は頓挫。強硬派の長慶天皇が即位し、南朝内で浮いた存在になったため?か、北朝へ寝返ることになります。武略に長けた正儀が北朝についたことで、南朝側の劣勢は明らかになってきます。●九州戦線の苦戦・信濃戦線の崩壊と懐良親王・宗良親王の崩御更には、1372年に大宰府が北朝側に奪われ、それ以降は九州戦線も厳しくなります。1374年には宗良親王も吉野へ戻り、信濃戦線は崩壊します。 ※懐良親王の崩御(1381年~83年頃とされる)、1385年には宗良親王も崩御こうしたこともあり、南朝内には和平派の勢力が大きくなります。そんな中、1382年に楠木正儀が戻ってくるのです。 ※南朝の主力は、元々正儀だったので、正儀が北朝に行くことで結果的に和平が早まると読んだ?? ※北朝で正儀を受け入れ後盾になった細川頼之が1379年に失脚:康暦の政変 が原因とも 何故、南朝を裏切り出戻ったかは諸説ありそして長慶天皇は、和平派の第99代後亀山天皇に譲位します。北朝を要する幕府側でも、成人した3代将軍:足利義満の力も大きく増していき、いよいよ南北朝合一に向けて動き出すのです。
2023年09月04日
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観応の擾乱で勝利するために、南朝と和睦した尊氏派。しかし、直義が亡くなり室町幕府の力が削がれたと思ったか、今度は南朝が和睦を破棄し、尊氏を攻撃し、一時的に京都を制圧します。結果的には尊氏派が勝利をおさめますが、北朝の3人の上皇が捉えられてしまいます。【正当性を欠いた北朝の復活】南朝との和睦が破断になり、また北朝も天皇がいない状態となり、正当性に書いた室町幕府。義詮は北朝で4代目となる天皇を立てることにします。しかし、三種の神器は和睦の際に南朝に引き渡してしまっています。そこで驚く方法で4代後光厳天皇を立てることにしたのです。治天の君(政務の実権を握った天皇もしくは上皇)がいれば、三種の神器は無くても天皇を立てられる!と思い、治天の君を立てることにします。しかし、3人の上皇は捉えられたままです。なんと、第93代後伏見天皇の女御:広義門院を治天の君としたのです。広義門院は、西園寺家の娘で藤原北家閑院流になります。つまり公家であり、皇族ではないのです。皇族ではない人を治天の君にして、天皇を即位させたのです。(後にも先にもこのようなことはこの時のみです)広義門院は、3人の上皇(第1代光厳上皇と第2代光明上皇は息子、第3代崇光上皇は孫)を南朝に渡してしまったことを恨みに思って、固辞しましたが、正当性を得られるためには何としても!という義詮の説得により、無理やり治天の君にされます。こうして北朝4代後光厳天皇が誕生したのです。(1352.8)これにより、再び南朝・北朝両方ができることになり、元号が再び2つになったのです。(南朝は正平、北朝は観応に戻る)正平一統からわずか4か月程の出来事だったと云います。【京都を5度制圧した南朝。第97代後村上天皇の意地】しかし、後光厳天皇を立てた北朝は、なおも 尊氏・義詮 VS 直冬で対立が続きます。しかも武将間で、尊氏派と直冬派に入れ替わり立ち代わりの裏切りが続き滅茶苦茶です。内部対立が続く中、1353年6月、南朝軍が、新たに後光厳天皇を立てた北朝を攻め、義詮軍は敗北。後光厳天皇も京都脱出を余儀なくされます。南朝側は、態勢を立て直した義詮軍に再度、京を追い払われるも、1354年また京都を奪還(この時は直冬も南朝に協力)、1355年にまたも追い払われます。(神南の戦い)そして、北朝第2代光明上皇が、1357年に北朝第1代光厳上皇、第3代崇光上皇が南朝から返します。南朝側も、度重なる戦いや、1354年に支柱である北畠親房も病死しており、力を失いつつあったのでしょう。しかし、1357年再び京都を奪還、後光厳天皇は三度京都を追われます。1358年にまたまた追い払われます。この年、南朝の宿敵:足利尊氏が死去します。義詮派に裏切りが出て、1361年に一時的に京を奪いますが(3人の上皇を奪った時の制圧を含めると、南朝は5度京都を制圧したことになります)、1364年、直冬派にも裏切りが出て、直冬派ついに義詮に降参。幕府の内紛も一段落します。この頃から、南朝と北朝と和睦交渉が進められていきますが、第97代後村上天皇は南朝の意地を示して交渉は難航します。後村上天皇も、父の後醍醐天皇に似て非常に個性の強い天皇だったようです。和睦文書の中に、「幕府の降参」という文言が入っており、これに義詮が激怒。交渉が決裂します。再度、和睦交渉がスタートするも、そうこうしているうちに、足利義詮が死去(1367.12)、そして後村上天皇も1368年3月に崩御。和睦交渉がまたまたストップすることになります。室町幕府は、正当性の欠いた北朝を急ごしらえし、そのため?か幕府内も一枚岩ではなく、家臣団の裏切りや出戻りなどを繰り返していく中で、南朝に京都を奪われてすったもんだを繰り返していきました。日本を大混乱に貶め、私利私欲の戦いを長引かせたもの・・・それは●日本の最高権威である天皇が二つあること●北朝が武士の都合で作られた正当性の欠けるものこの南北朝時代というのは、日本の歴史の中で、最も日本人が日本人っぽくない頃だったと思います。そして最も秩序のない時代だったと思います。安定した天皇の存在がどれだけありがたいものなのか、南北朝の動乱を見ていると強く感じるのです。
2023年09月03日
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【兄弟同様、戦いに明け暮れた義良親王(第97代後村上天皇)】後醍醐天皇の次の第97代後村上天皇も、父の後醍醐天皇や、兄弟同様、戦いに明け暮れた天皇です。建武の新政が始まった折、鎌倉幕府の北条残党軍や東国の治安維持のため、後醍醐天皇側近の北畠親房、その子の顕家らに奉じられ、東北の多賀城に入城し、親王となり、東北将軍府を設置します。まだ元服もしていない幼年の親王(義良親王)でした。1335年12月に足利尊氏が、後醍醐天皇に対して反旗を翻します。この時、東北から北畠親房、顕家と共に駆け付け、足利尊氏軍を破り九州へ追いやることに成功します。(この後、元服します。)しかし、武士団の支持に支えられ、盛り返した足利尊氏により、1336年5月楠木正成を湊川の戦いで失い、8月には京都を制圧され後醍醐天皇は拘束されます。12月に後醍醐天皇が吉野へ脱出し、南朝を設立します。押され気味の南朝でしたが、1337年8月、東北将軍府(この時は福島の霊山城を拠点に移していた)の義良親王と北畠顕家は、鎌倉へ攻め入りこれを奪還します。1338年1月には更に西上して足利軍を破って、吉野へ行き後醍醐天皇に合流します。しかし、足利軍は盛り返し1338年5月北畠顕家、石津の戦いで戦死1338年8月新田義貞、藤野の戦いで戦死と、後醍醐天皇を支えた主力の武将が相次いで戦死してしまいます。そして、後醍醐天皇も1339年8月、ついに寿命を迎えます。義良親王に譲位し、翌日に崩御されます。第97代後村上天皇の誕生です。【観応の擾乱】南朝の主力が崩壊し、もはや南朝も終わりか??と思われましたが、今度は勝った側の足利内部で兄弟争いが起こります。足利尊氏と弟の直義の兄弟間の争いです。これが1350年から起こる観応の擾乱の始まりです。兄の尊氏の執事である高師直・師泰兄弟にかねてから反感を持っていた弟の直義。※高兄弟は、1348年の北朝VS南朝の四条畷の戦いで、楠木正成の息子:正行・正時兄弟を討ち取って北朝を勝利に導き、幕府内でも大きな力を持っていました。しかも室町幕府は、軍事・恩賞部門と裁判・行政部門と担当が尊氏と直義と分かれていました。ここに分裂の素地があったのです。尊氏の息子である義詮、直冬ですが、直冬は、尊氏にとっては出自の分からない女性に産ませた子として認知をしておらず、面会も許されないという不遇な子供でした。そのためか、直義の養子となり、直義派として活動します。ついに1350年、尊氏と直義は戦うことになります。尊氏は、自身が立てた北朝の光厳上皇に、直義討伐の院宣をもらい正当性を訴えます。旗色が悪くなる直義は、なんとこれまで対立していた南朝に下り、自身も正当性を訴えたのです。第一次の戦いは直義派が勝利し、高兄弟は殺害されます。追い詰められた尊氏ですが、恩賞を預かる権限を持っていたのを利用して、直義派の瓦解を図ります。直義は北朝に和議を申し込むも不調に終わり、鎌倉へ逃れます。【正平一統】執事を殺された尊氏はおさまりません。直義を追い詰めるため、なんと南朝と和議を結ぶのです!そして直義討伐の院宣を南朝からも出させることで更に追い詰めようとしたのです。この時、南朝との和議の条件として●三種の神器の引き渡し(この時、後村上天皇は非常に喜んだと云い、後醍醐天皇が北朝に渡した三種の神器は偽物だとしましたが、本物だったのかもしれません)●北朝3代目の崇光天皇を廃位を尊氏は飲んだのです。信じられないですよね。自身が立てた北朝の天皇を廃位させるとは。。。己の勝利のために、散々戦ってきた南朝にいとも簡単にすり寄り、擁立した北朝の天皇を廃位させるという。。。(足利尊氏は、幕末になって尊王攘夷論者に木造が梟首されています。2代義詮、3代義満も)この和議を正平一統と言います。元号が北朝・南朝と2つ使われていましたが、南朝の正平に統一されたので、正平一統です。そして1352年、弟の直義を毒殺したのです。倒幕、その後の南朝との戦いを一緒にしてきた兄弟同士の戦いは、悲しい結末を迎えたのです。(観応の擾乱の終わり)ところが、足利尊氏憎しの南朝は、直義が死んだ後、室町幕府の力が弱ったと見たか、今度は尊氏の排除に乗り出します。直義派で父尊氏憎しの直冬と和睦し、尊氏の征夷大将軍を解任し、再度、南朝VS尊氏 となります。鎌倉では尊氏派の勝利。京都では南朝が一時的に勝利して、北朝の第1代光厳上皇、第2代光明上皇、第3代崇光上皇を拘束します。(最終的には義詮が勝利)まだまだ南北朝の動乱はおさまりません。
2023年09月01日
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第96代後醍醐天皇に反旗を翻した足利尊氏。後醍醐天皇とその皇子達はどうなったのでしょうか。【護良親王】護良親王は悲劇的な皇子です。後醍醐天皇が隠岐を脱出して倒幕の綸旨を出す前から、楠木正成と連携して令旨を出して倒幕を呼び掛けて、自らも挙兵していました。倒幕に多大な貢献をしたのですが、後に倒幕のもう一人の功労者:足利尊氏と対立。後醍醐天皇が盾となってあげなければいけないところですが、それができませんでした。●足利尊氏は、後醍醐天皇が寵愛していた阿野廉子に取り入り、護良親王を遠ざけた。(自身の皇子に皇位を継がせたい阿野廉子と利害が一致)●後醍醐天皇も、足利尊氏の武名、武士からの人気を無視できなかった。●後醍醐天皇自身も、自分の綸旨の前に、令旨を乱発した護良親王に疑いを持っていた??(自分にとって代わろうとしているのではないか?と疑心暗鬼に)ことなどが理由としてありました。結局は、1334年の正月に、後醍醐天皇と阿野廉子との皇子である恒良親王が立太子され、その後に護良親王は拘束。謀反の罪を着せられ、11月には鎌倉へ幽閉されてしまいました。護良親王は「足利尊氏よりも父の方が恨めしい」という言葉を残したと云います。1335年7月に中先代の乱が起こると、北条残党軍に旗頭にされることを恐れた足利尊氏の弟:直義により殺害されることになりました。倒幕に多大な功績を残した護良親王。その功労者をみすみす死なせてしまったことにより、足利尊氏の力が結果的に大きくなり、後醍醐天皇はその後吉野に逃れていきます。このことを考えた時、本当に痛恨の出来事であり、悲劇的な皇子であったと感じざるを得ません。【天皇に数えられるはずだった恒良親王】【尊良親王・成良親王】後醍醐天皇と阿野廉子の子である恒良親王は、1334年に立太子されました。しかし、中先代の乱以降、勝手に武士たちに恩賞を与え始めた足利尊氏は、1335年12月に明確に反旗を翻します。一度は破れて九州にまで落ち延びましたが、武士からの多大な後押しを受け、再起してきます。これでは勝てないと進言した楠木正成ですが、聞き入れらず湊川の戦いで壮絶に散ります。その後、足利尊氏が京都に迫ると、新田義貞と共に恒良親王は、北陸統治を名目に越前へ下向します。そこから各地へ綸旨を出しており、天皇と認識していた節があります。(三種の神器も後醍醐天皇から渡されたとあります。※注:太平記のみの記述)その後、足利尊氏により幽閉されていた後醍醐天皇が脱出して吉野に逃れ、足利尊氏が擁立した北朝の光明天皇に引き渡した三種の神器は偽物であるとし、本物を持っている自分が正統であると南朝を開きます。これにより恒良親王の持った三種の神器は偽物となり、即位は無効、歴代天皇にも数えられていません。1337年1月越前の金ケ崎城に足利軍が迫ります。3月まで続いたこの戦いで敗北。この時、新田義貞の子:義顕と、恒良親王の義母兄の尊良親王が自害し、恒良親王と、同母弟の成良親王が拘束されました。翌1338年毒殺されたとも伝わっています。(真相不明)【第96代後醍醐天皇】1336年12月に吉野に逃れて南朝を開いた後醍醐天皇。8月に尊氏によって、光明天皇を担がれていたので、ここに南朝・北朝の二朝廷が存在することになりました。(元号も二個存在することになりました)しかし、忠臣:楠木正成の戦死後も、1337年の金ケ崎の戦いを通じて恒良親王、尊成親王、成良親王を失い、1338年には北畠顕家、新田義貞も失い、南朝は圧倒的な不利な立場に立たされます。そうした中、1339年8月、皇子である義良親王に譲位し、第97代後村上天皇の即位を見届け、崩御します。「王骨は、たとえ南山の苔に埋まるとも、魂魄は常に北闕を望まんと思う」太平記は、後醍醐天皇の遺詔をこう伝えています。自分の身は南朝の吉野に埋まっていたとしても、魂は常に京都にあると・・・一度は掴んだ天皇親政の新しい世ですが、武士や民に受け入れられず吉野に逃れ、それでもなお天皇親政の世を諦めなかった後醍醐天皇。歴代天皇の中でも、稀有な輝きを放っています。
2023年08月31日
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<第71代後三条天皇即位と摂関家の栄光の終焉>第71代後三条天皇は、藤原北家を外戚としない天皇でした。実に藤原北家の娘が嫁いだ第54代仁明天皇(在位833~850年)の皇子、第55代文徳天皇(在位850~858年)以来のことです。後三条天皇即位以降、摂関家の影響力が大きく削がれていくのですが、子宝に恵まれず外戚とならなかったことの他に、武士の時代が到来していたことも、摂関家の力が落ちてきた背景にあります。あとはこの後記載する保元の乱で、摂関家が二分したことも大きいでしょう。●1019年刀伊の入寇(第68代後一条天皇の御代)●1028年平忠常の乱(第68代後一条天皇の御代)●1051年~1062年前九年の役(第70代後冷泉天皇の御代)●1083年~1087年後三年の役(第72代白河天皇、第73代堀河天皇の御代)「この世をば・・・」と謳えた藤原北家の最盛期である藤原道長の時代と共に、武士の時代になってきていたのです。<第72代白河天皇が招いた本格的な武士の時代の到来:保元の乱!>武士の時代の到来を決定付けた事件が1156年に勃発した保元の乱です。この原因を作ったのが、第72代白河天皇です。白河天皇の次は、皇子である第73代堀河天皇、そしてその次は孫の第74代鳥羽天皇と、ここまでは父から子へと直系へ継承されていきました。しかし、次の第75代崇徳天皇には出生の秘密(公然の秘密ですが・・・)がありました。鳥羽天皇の皇子とされていた崇徳天皇(白河天皇からするとひ孫になるはずが・・・)。実は、白河天皇の子供だったのです。このため、鳥羽天皇は崇徳天皇のことを「叔父児」と呼び、忌み嫌っていました。崇徳天皇を無理やり退位させ(白河上皇が崩御されており、鳥羽の院政時代になっていた)、鳥羽上皇の皇子:第76代近衛天皇を即位させます。近衛天皇が幼く崩御するも、今度は同じ鳥羽上皇の皇子:第77代後白河天皇を即位させ、後白河天皇の皇子を立太子(後の第78代二条天皇)させて、崇徳系の皇位継承を徹底的に否定します。鳥羽上皇時代は、大人しくしていた崇徳上皇ですが、1156年に鳥羽上皇が崩御すると不満が爆発。崇徳上皇VS後白河天皇 の争いが勃発します。ここに摂関家の内部分裂が加わり、武士団がこれに乗っかり勢力を二分したのが保元の乱です。崇徳上皇側はこれに敗れ、呪いの言葉を残して崩御したといいます。第72代白河天皇の女性問題、そしてそこに端を発した第74代鳥羽天皇の憎しみが、保元の乱のきっかけになりました。<第77代後白河天皇と平家の台頭>保元の乱に勝利した第77代後白河天皇。しかし今度は勝利した後白河天皇側での内部争いが起こります。実の親子ながら、後白河上皇と二条天皇派に分かれて争います。この原因は父である鳥羽上皇にありました。鳥羽上皇が寵愛した美福門院の養子にした二条天皇への偏愛が強く、待賢門院との子である後白河上皇はあくまでも二条天皇に継がせるための中継ぎと考えていたのです。白河上皇同様、鳥羽上皇も女性への偏愛が、天皇家の内部分裂を生んだのです。ここで上手く立ち回ったのが、平清盛でした。平家一門の娘を入内させ、後白河上皇の子:第80代高倉天皇を皇位につけます。大きな力を持ってしまった平清盛に対抗しようと、後白河上皇は策を練ろうとしますが、清盛に感ずかれ幽閉されてしまいます。そして幼帝:第81代安徳天皇を立てて、平家にあらずんば人にあらず の時代になります。これに反発して立ち上がったのが源氏です。源平合戦の始まりです。<第77代後白河天皇と鎌倉幕府>源平合戦を経ていく中で、後白河上皇は平家打倒のため、源氏の頭目である源頼朝に、色々と特権を与えます。●侍所の設置(1180年)●東国支配権(1183年)●公文所、問注所の設置(1184年)1185年に平家を滅ぼし、功労者である弟の義経に官位を与えて、力をつけた頼朝の対抗馬にしようとしますが、政治力に優れた頼朝の前に義経はなす術がなく、●守護、地頭の設置(1185年)により、義経包囲網と共に、頼朝に政治的実権を与える形になってしまいます。最終的には1189年に義経、そして平家と並ぶ実力者:奥州藤原氏を義経を匿った罪に問い滅ぼします。●権大納言、右近衛大将任命(1190年)となりますが、最後まで頼朝が求めた征夷大将軍は拒否し続け、後白河上皇は崩御します。親である鳥羽上皇には中継ぎ扱いをされ、平家と戦い、源氏とも戦い、幽閉されたりと波乱万丈の生涯を閉じたのです。崩御後1192年に、次の第82代後鳥羽天皇から征夷大将軍の任官を受け、頼朝は念願だった鎌倉幕府を打ち立てるのです。<第82代後鳥羽上皇、国体の危機!1221年承久の乱>第82代後鳥羽天皇は、第81代安徳天皇が三種の神器を持って平家と共に西に逃れたため、神器がないままの即位でした。このことが後々までコンプレックスであったと云います。そのため後鳥羽天皇は、幕府成立により相対的に弱まった天皇家の力を復古させるような動きに出ます。時の第三代将軍:源実朝に官位を与えるなどして、取り込もうとします。これを母である北条政子や、執権の北条義時は諫めようとします。しかし実朝は進言を受け入れず、せっかく作り上げた武家政権を幕府成立前に戻すような動きをします。ここに至って、実朝は暗殺され、後鳥羽上皇と幕府の間に大きな溝ができます。しかも実朝暗殺により、初代将軍:源頼朝直系の一族がいなくなり、執権の北条義時は、後鳥羽上皇の皇子を四代将軍として迎えたいと申し入れしますが、後鳥羽上皇はこれをはね付け、溝は益々大きくなります。守護地頭の設置を認めてしまったことにより、天皇家の所領・警察権問題なども絡み合い、ついに承久の乱という形で幕府と戦うことになります。朝敵となることを恐れた武士団ですが、北条政子の演説(御恩と奉公を訴えた)により、後鳥羽上皇軍を破ります。後鳥羽上皇は隠岐に、協力的であった第84代順徳天皇は佐渡へ。順徳天皇の皇子:第85代仲恭天皇は廃位させられます。そして消極的ではありましたが、父のことに責任を感じた第83代土御門天皇は進んで土佐へ配流となり、一気に三人の歴代天皇が配流、現天皇が廃位となったのです。武家による天皇家転覆という前代未聞のことで、日本の国体の危機ともいえる事件でした。しかし、北条義時は後鳥羽上皇の甥っ子:第86代後堀河天皇を即位させ、古代から続く万世一系の天皇が日本の中心であるという国体を変えることはありませんでした。武家・幕府はあくまで天皇の信任を受けて政治をおこなっている という立場を鮮明にしたという点では、北条義時は英断を下した人物だったと思います。(天皇の正当性を訴えた「神皇正統記」も承久の乱に関しては、後鳥羽上皇に手厳しいです。) ただ、第86代後堀河天皇の系統は、皇子である第87代四条天皇が夭折してしまい断絶することになります。そこで、承久の乱には消極的だった第83代土御門天皇の皇子が即位することになります。第88代後嵯峨天皇の誕生です。<第88代後嵯峨天皇の偏愛により、皇統が2つに!持明院統と大覚寺統の対立>第88代後嵯峨天皇は、子供への偏愛から皇統を2つに割るということをしてしまいます。第89代後深草天皇よりも、次に生まれた第90代亀山天皇を可愛がったのです。父が存命中は大人しくしていた後深草天皇ですが、崩御してから不満を幕府にぶつけます。幕府は承久の乱以降、天皇の決定権を持ったにも関わらず、元寇の対応による忙しさか?情に流されたか?順番に回すという愚策をおこないます。或いは、順番に回していくことで、天皇家の勢力削減という思惑があったのかもしれません。(藤原北家を五摂家に分けたように)※当初は大覚寺統から第90代亀山天皇→第91代後宇多天皇と2代、次は持明院統から第92代伏見天皇→第93代後伏見天皇と2代と、二代おきでしたが、1301年の第94代後二条天皇(大覚寺統)からは、一代ずつと両統迭立が明言されます。当初はそれで回っていましたが、幕府が元寇や、内部のゴタゴタなどで力が弱ってきたタイミングで出されたのが、1317年の文保の和談です。今後の予定を明文化してしまったことで、不満を持った第96代後醍醐天皇が倒幕の動きに出るのです。二度失敗しましたが、諦めることのなかった後醍醐天皇の呼びかけに応じ、ついに全国で倒幕の動きになり、鎌倉幕府は滅亡するのです。後醍醐天皇が夢見た天皇親政国家:建武の新政が始まりますが、武士は鎌倉幕府は不要と感じていながらも、武士の世を否定したわけではありませんでした。そこを読み違えた後醍醐天皇。建武の新政は僅か3年で失敗に終わるのでした。せっかく皇統が後醍醐天皇系に統一したかと思いきや、建武の新政の失敗により、南北朝時代へと突入。再び皇統が南朝・北朝と二つに分かれる大動乱時代に入るのです。鎌倉幕府成立の過渡期に、源頼朝と戦った第77代後白河上皇。結果的には鎌倉幕府が成立しましたが、最後まで征夷大将軍を認めず戦い抜きました。一方の第82代後鳥羽上皇は、後白河上皇同様、武士と敢然と戦おうとしたわけですが、既に幕府が成立して確立していた時期の乱でした。時代を読み違えたと言ってもいいと思います。そして第96代後醍醐天皇は、幕府の体制が揺れている時期の乱ではありましたが、二度失敗しながらも三度目の正直で倒幕を成功させました。後白河上皇・後鳥羽上皇同様、非常にパワフルな帝だったのでしょう。ただ、倒幕後の未来図が、武士のニーズに即したものではなかったことが、悔やまれてなりません。その意味では時代を読めていたようで、最後まで読み切れなかったのかもしれません。成立期・確立期・崩壊期と、同じ鎌倉時代を生き抜いた三人の天皇。三人とも最終的には願いが叶わなかったかもしれませんが、時代を大きく動かした魅力的な天皇であることに間違いはないと思うのです。
2023年08月30日
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天皇を決める程の権限を有していながら、文保の和談という中途半端な対応により、幕府はその特権を手放し、いよいよ鎌倉幕府は崩壊に向かいます。1324年正中の変、1331年元弘の変、二度に渡る後醍醐天皇の倒幕計画は失敗に終わりました。一度目は後醍醐天皇に処罰が及びませんでしたが、二度目の元弘の変の時には、隠岐に流されてしまいます。(承久の乱の時の後鳥羽上皇と同じ場所に配流されます)そして、文保の和談で決めていた通り、後醍醐天皇の次は、幕府により持明院統の光厳天皇が即位します。しかし、ここで諦めないのが後醍醐天皇のすごいところです。1333年隠岐を脱出し、倒幕の綸旨を出し、諸国に挙兵を呼びかけます。当初は様子見だった武士団ですが、出自不明の楠木正成の奮闘により、流れが変わります。幕府方だった足利尊氏、新田義貞らも呼応し、足利尊氏が京都を制圧、新田義貞が鎌倉を制圧し、ついに鎌倉幕府は崩壊します。(足利も新田も、元は源氏の出です。源氏に従っていた北条氏(元は平氏)の風下に置かれていることを良しとしなかった思いもあったでしょうか。)幕府崩壊に伴い、文保の和談は反故になります。●光厳天皇は廃位●邦良親王系統の廃位(皇子であった康仁皇太子は廃位) ※邦良親王自身は1326年に没していたそして後醍醐天皇による建武の新政が開始され、それに伴い皇統も大覚寺統で後醍醐天皇系統へようやく一本化されるに思われましたが・・・・<失敗した建武の新政>後醍醐天皇による建武の新政はうまくいきませんでした。理由として◆幕府滅亡に貢献のあった武士に対する恩賞が低く、倒幕にはあまり関係のなかった公家などに恩賞が厚かった◆武士が実行支配していた土地を貴族・寺社への返還を求める◆武士の世界・ルールを無視した綸旨つまりは武家は、鎌倉幕府は不要と判断しましたが、武士の世を否定したのではなかったのです。かつてのような天皇親政の世界を目指すあまり、後醍醐天皇は武家のニーズを読み違えたのです。<北条の残党による中先代の乱と足利尊氏の離反>建武の新政がおこなれている頃、北条の残党による中先代の乱が起こります。1335年のことです。この時、北条の残党は、持明院統の後伏見上皇を担ぎ出します。足利尊氏の弟:直義は破れてしまい、一旦鎌倉を奪われるような形になります。その後、尊氏が盛り返してこの乱を制圧するのですが、後醍醐天皇の許可なく勝手に恩賞を与えて、建武の新政ではなく、自身が政治の中心であることを示したのです。足利尊氏の離反です。後醍醐天皇には、楠木正成、新田義貞、神皇正統記を記した北畠親房の息子の顕家らが味方し、足利尊氏を追い込み、一度は九州まで後退させますが、武士団が彼を支持し、ここでも盛り返します。楠木正成は湊川の戦いで敗れ、有名な『七度生まれかわって国の為に報いる→七生報国』を唱え自害します。(この楠木正成は稀代の忠臣として、和気清麻呂と共に皇居に銅像が設置されています。)後醍醐天皇は吉野に逃れて、そこを都とします。南朝です。ここに南北朝の大動乱が始まるのです。南北朝時代の始まりです。
2023年08月29日
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<1260年~1287年まで 第90代亀山の大覚寺統時代>第89代後深草天皇系の持明院統、第90代亀山天皇系の大覚寺統。当初は、父である第88代後嵯峨天皇の意向を重視し、幕府は亀山天皇系に皇位をつけていくことにします。これで話が終わるかと思いきや、●幕府内のゴタゴタ:霜月騒動に亀山上皇が加担。●後深草上皇が王子を鎌倉の将軍として送ることで、幕府のかねてからの願い:皇族将軍が誕生した●幕府が元寇の対応に追われていたなどもあり、後深草上皇の皇子の立太子を認め、持明院統系の第92代伏見天皇が誕生します。<1287年~1301年 第92代伏見の持明院統時代>伏見天皇の御代では、天皇暗殺未遂事件が起きて、ライバルの大覚寺統の頭目:亀山上皇の関与が疑われ、幕府に誓紙まで出しています。続く第93代後伏見天皇は伏見天皇の皇子で、持明院統系で行くと思いきや、伏見上皇による強権で持明院統の内部分裂が起こり、1298年に後伏見天皇が即位した折に、大覚寺統系の第94代後二条天皇が立太子することになります。伏見上皇も、亀山上皇に負けず劣らずのキャラクターだったようで、幕府から警戒されていました。時代が進みますが、1316年には幕府に潔白状を出させられています。1301年、後二条天皇即位と共に、今度は持明院統から立太子(後の第95代花園天皇)され、両統迭立が正式に表明されます。幕府にとって、亀山上皇も伏見上皇も油断ならぬと感じたのか?天皇抑制策が見え隠れします。<1301年~1308年 第94代後二条天皇の御代:亀山・後宇多の院政時代>大覚寺統で現天皇である後二条天皇としては、当然、次々は自身の皇子:邦良親王を第96代の天皇にと考えていました。ところが、ここでまたも亀山上皇がトラブルを持ち込みます。なんと自身の末子:恒明親王かわいさから、この皇子を96代にしようとして、第91代後宇多、第94代後二条を説き伏せます。ライバルの混乱は望むところですから、持明院統の頭目:第92代伏見天皇もこれに同調します。<1308年~1318年 第95代花園天皇の御代:伏見・後伏見の院政時代>1305年に亀山上皇が崩御、1308年に後二条天皇が崩御すると、同じ大覚寺統の分裂を恐れた(恒明親王擁立を防ぐため)頭目:後宇多は中継ぎを立太子させます。これが後の第96代後醍醐天皇です。(邦良親王がこの時立太子しなかったのは、幼すぎたこと、病気がちであったことがあるとされます)そんな折、相手方である持明院統の頭目:伏見上皇が崩御。大覚寺統の本格的な巻き返し活動が起こり、仲裁が必要となり幕府が出したのが【文保の和談】です。●10年で両統が交代する →現第95代花園天皇は翌1318年で退位。次が第96代後醍醐天皇に●しかし、後醍醐天皇は中継ぎなので、次(97代)は邦良親王へ継承させる●邦良親王の次(98代)は持明院統から、光厳天皇にするこの約束が文保の和談です。ところがです。この和談、実に曖昧で不明瞭です。◆両統迭立で交代交代ならば、何故、後醍醐天皇の次は持明院統からではないのか?◆後醍醐天皇と邦良親王で合わせて10年になるのか?当然、自身の子供が皇位を継げない後醍醐天皇としては面白くないし、邦良親王としても成長して1320年には皇子も誕生し、早く譲って欲しいという思いもあるしもちろん、持明院統としても、「なんで2代続けて大覚寺統から?」「光厳の次も持明院統から出して、2代連続持明院統にしてくれるのか?」、この辺りが不明瞭なので、不満が溜まります。つまり、幕府の場当たり的な【文保の和談】は、大覚寺統内でも分裂を生み、持明院統としても不満が溜まり、誰も納得のできるものではなかったのです。そして、行動力のある後醍醐天皇は倒幕に傾倒していくのです。私は、鎌倉幕府崩壊は、もちろん元寇に対して、●恩賞を与えられなかったこと●それを受けて発出した永仁の徳政令で、かえって困窮を生んだこと●またそこから悪党が出現し、治安が悪くなったことなどが挙げられますが、この文保の和談により、皇統をハッキリと決めなかったことこれが鎌倉幕府を崩壊させた大きな理由であると感じています。元寇を防いだ英雄:北条時宗は、亀山系に統一するんだ!という決断をしませんでした。この時は、元寇の対応に追われていたというのがあったかもしれません。しかし、文保の和談の時は、その脅威は無くなっていました。にも関わらず、ここでも幕府は曖昧な対応に終始しました。天皇家の力を弱める思惑があったのかもしれませんが、大覚寺統・持明院統、どちらか片方でも納得できる内容ではなかったことが、幕府崩壊を早めてしまったのです。1324年の正中の変、1331年の元弘の変という二度に渡る後醍醐天皇の倒幕計画は失敗しましたが、時代は大きく動いていくのです。
2023年08月12日
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第50代嵯峨天皇は、ヘンテコな皇位継承をさせた為、自身が崩御した2日後に承和の変が起き、藤原摂関家の時代の扉を開けました。第88代後嵯峨天皇も、自身が崩御した後に波乱の扉が開かれました。後嵯峨上皇は、同じ子供ながら、後深草よりも亀山を寵愛し、亀山系へ皇統を繋いでいくことを示します。父が存命の内は黙っていた後深草ですが、父が崩御した途端、皇位継承への不満をぶつけ、幕府に訴えます。【当初は亀山系が有利に】時の第8代執権、北条時宗は後嵯峨上皇の妻:皇太后に後嵯峨上皇の意向がどうであったかを尋ね、改めて亀山天皇の皇子である第91代後宇多天皇が誕生することになります。1274年のことです。これに拗ねた後深草上皇は出家をします。見かねた西園寺実兼は、北条時宗に訴え、後宇多天皇の次は後深草上皇の皇子(後の第92代伏見天皇)を立太子させることに成功します。大帝国の元の侵略から日本を守った英雄の北条時宗。しかしこの皇統に関しては、南北朝動乱の火種を作るという意味で、時宗らしからぬ決断でした。ここでも、「亀山系に統一するんだ!」とリーダーシップを発揮して欲しかったです。文永の役でそれどころではなかったのかもしれませんが、皇統の安定は日本の安定にも繋がることなので、ここは悔やまれるところでした。(一応、伏見は亀山上皇の猶子として、形上は皇統を亀山系にするという折衷案にしていますが・・・)【巻き返しを図る後深草上皇】そんな折、1285年に霜月騒動が勃発します。第9代執権北条貞時の妻の実家:安達家と、執権の執事として力をつけてきた平家との覇権争いです。亀山上皇が安達家と懇意にしていたこと、霜月騒動で失脚したのが安達家であったことと、後深草上皇寄りの西園寺実兼の働きかけもあり、幕府は、亀山系(大覚寺統)の第91代後宇多天皇を1287年に退位させ、予定通り後深草系(持明院統)の第92代伏見天皇を即位させることになります。形上、伏見天皇は亀山上皇の猶子としているので、大覚寺統優位でしたが、後深草上皇の実子ですから持明院統が盛り返す形になりました。続けて、後深草上皇は自身の皇子を幕府将軍として送り込み、本格的に巻き返しを図ります。そして1289年、93代天皇として伏見天皇の実子を立太子させることに成功します。1290年伏見天皇暗殺未遂事件が起こり、亀山上皇が疑われます。(この時、幕府に誓紙まで提出させられたというのですから、天皇と幕府の関係が、承久の乱以降、逆転しているのがよく分かります。)後深草系の皇統:持明院統が完全に有利になるかに思われました。【伏見天皇政権の内部抗争で、再び亀山系へ】92代伏見→93代後伏見 とレールが敷かれ、血筋として後深草上皇系の持明院統が有利になるかと思われましたが、伏見天皇は京極為兼を重用し、自身の立太子に貢献のあった西園寺実兼との内部抗争を作ることになってしまいます。西園寺実兼は大覚寺統寄りになってしまい、1298年後伏見天皇へ譲位した折に、次の天皇として、第91代後宇多天皇の皇子が立太子されることになります。1301年、後伏見天皇は退位させられ、第94代後二条天皇が即位します。再び亀山系の大覚寺統が有利になるのです。ただ、この時、後伏見天皇には皇子がいなかったので、弟が立太子(後の第95代花園天皇)して、持明院統・大覚寺統、順番に回していくことが決まります。この1301年の後伏見天皇退位の時に、両統迭立が正式に表明されるのです。西園寺家の加勢により完全に大覚寺統有利になったわけではなく、幕府は両方順番こにしていくことで、天皇家の力を抑えようとしたのです。(藤原摂関家を五摂家に分けたように)しかし、これは日本にとっては非常にまずいことだったのです。
2023年07月29日
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第88代後嵯峨天皇が上皇として院政を行っている頃、中国大陸では巨大帝国が誕生しました。モンゴル帝国です。1259年には高麗が降伏。1260年には後に国号を「元」と改めて、日本侵略を企てたフビライ=ハーンが即位します。この動きを受けて、日蓮が「立正安国論」を時の5代執権:北条時頼に献上します。元が攻めてくるというのは、おそらく日蓮だけでなく、日本国民全体が危機意識を持っていたのではないでしょうか。それは高麗が降伏したことにより、日本とモンゴル帝国の間に緩衝地帯がなくなったからです。モンゴル帝国が日本と領土を接することになるというのは、つまり次は日本を攻めてくるということになります。ヨーロッパ大陸へも領土を広げていた元を見ていたら、容易に想像がつくはずです。1268年高麗の使いがフビライの国書を携えて大宰府に来ます。この時に北条時宗が8代執権に就任します。1271年には国号を「元」に改めます。そしてこの時に、高麗ではなく元の使いが来航します。いよいよ来るか!と1272年に鎮西御家人に筑前・肥前の要害警護を命じます。 また、この時に北条一門の名越家(宮騒動を起こした氏族です)を討伐します。二月騒動と云われるものです。国内の反乱分子を征伐し、国内一致して元に対抗する体制を固めます。<1274年文永の役。第一次元寇>攻めてくるのは元・高麗軍です。高麗は先兵として日本に迫ります。こういう国柄です。一方の幕府は、西国の守護に非御家人の動員も命じて、まさに日本全体として防衛体制を固めたのです。しかし対馬・壱岐を落とされ、博多まで攻めてきます。戦い方の違いなどで苦戦しながらも、日本は勇敢に戦い、博多への上陸を許しません。一旦、海に退いた元・高麗軍。しかし、この時に暴風雨が来て文永の役は終了します。時宗は、また来る!と思い、1275年異国警固番役を定め、備えを強化します。1276年には鎮西武士に防塁を築かせます。これは663年の白村江の戦いの後、時の第38代天智天皇が防塁を築かせたのと同じですね。同年、長門探題も設置。1279年には南宋が元により滅ぼされ、いよいよ本格的に日本を攻めてくると考えます。(実際、第二次元寇では南宋の方からも攻めてきます)1280年、第90代亀山天皇(当時上皇)が、異国降伏の祈祷を命じます。天皇は祈りを捧げ、政治を担う執権:時宗が具体的な防御態勢を指揮します。白村江の戦いの時は両方を天皇が担っていました。祭政一致でしたが、この頃には分離されています。権威と権力の分離ですね。<1281年弘安の役。第二次元寇>文永の役と違い、南宋からも攻めてきて軍勢も桁違いです。しかし一度文永の役で戦い、対処法を研究していたので、今度も元・高麗軍を寄せ付けません。防御だけでなく、夜襲などを繰り返して追い込んでいきます。そうこうしているうちに、再び暴風雨に見舞われ弘安の役が終わります。1284年、北条時宗は32歳という若さで病死します。元寇の苦労が影響したのでしょうか。巨大帝国元と渡り合い、降伏勧告の使者を何度も切り捨て、一歩も退かない姿勢を示した時宗。彼は間違いなく日本史の英雄の一人でしょう。この国防意識の高さ、挙国一致させた手腕、現代の政治家にも見習ってほしいです。というか、こういう歴史を知っていて欲しいですよね。中国・朝鮮がどういう国なのか、国を守るということとは。お金をバラマキ仲良くしましょう って言っても、軍事を強化してミサイルを日本に向けている国です。ちなみに元に滅ぼされた南宋も、お金をバラマキ平和を買おうというスタイルでした。分裂前の宋もそうです。こういう歴史を見てもいい対処法とは言えません。第38代天智天皇・第40代天武天皇、北条時宗には学ぶことが沢山あると思うのです。<驚くほどの当時の国防意識の高さ>さて、北条時宗は死にましたが、その後も日本は警戒を緩めません。1286年異国警備を強化。この年には計画されていた三度目の日本遠征が中止されますが、1291年に幕府から異国降伏の祈祷が命じられます。1293年には博多に鎮西探題を設置し西国警備と九州統治の強化をします。1296年には御家人同士の訴訟の処理も担当させます。1297年永仁の徳政令を出し、警固役のため借金までした御家人のために借金帳消しを命じます。そして1299年元の使者が来航し、和平の国書を持ってきたのです。実に弘安の役から18年も経っています。この間、御家人のケアをしながら、警備を継続してきたのです。こういった歴史を我々は忘れてはならないと思います。1192年に鎌倉幕府が成立し、1221年の承久の乱を経て、武家政権が確立します。武家中心の世になったことは、元寇を思う時、良かったなと思うのです。刀伊の入寇の時のような摂関家の時代だったら・・・しかし、この戦いで鎌倉幕府は衰退し、また時代が変わっていくのです。
2023年07月15日
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承久の乱により第86代後堀河天皇系統へ皇位が移りましたが、早くも断絶することになり、後鳥羽上皇の皇子ながらも乱に消極的であった土御門天皇系へ皇位を移すことになります。第83代土御門天皇の皇子:第88代後嵯峨天皇の誕生です。1242年のことです。<摂家将軍の最後。摂関家も5家に分家して勢力が削がれる>この1242年に、御成敗式目を作った3代執権:北条泰時が死にます。この泰時は、2代執権の義時の子でしたが、正室との子ではありませんでした。しかし、義時は泰時の素質を見抜いていたのでしょう。後継に据えます。面白くないのは正室からの系統である名越氏でした。「本来なら執権を継ぐのは我々だ」と。こんな思いから1246年に起こったのが「宮騒動」です。この計画に4代摂家将軍の九条頼経が乗っかったため、幕府は頼経の幼い子供:頼嗣を傀儡将軍として迎えます。結局は失敗し、頼経は排除、5代将軍頼嗣の誕生です。この頃、御家人の安達氏が、嫁を執権に入れ勢力を拡大していました。これをよく思っていなかったのが三浦氏です。宮騒動の翌年、三浦氏は反乱を起こし失脚します。(宝治合戦)この時の三浦氏の残党が後に反乱を起こすのですが、5代摂家将軍の頼嗣はこれに加担。成人になり、幕府の父に対する仕打ちに不条理に感じたのでしょうか。父の頼経同様、頼嗣はここで排除されることになりました。1252年のことです。この宮騒動、そして宝治合戦後の三浦氏の残党を経て、摂家将軍は途絶えることになるのです。摂家将軍を出していた九条家は、源頼朝以来、鎌倉幕府と関係が深く大きな力を持っていました。摂家将軍の父・祖父である九条道家も失脚し、88代後嵯峨天皇に嫁いでた西園寺家(ここも藤原北家が元です)の力が増していくことになるのです。源平合戦を経て、摂関家は近衛家・九条家に分かれましたが、幕府により九条家は一条・二条の3家に分家。近衛家も鷹司家と2家に分家し、ここに五摂家体制が完成します。藤原道長が築いた最盛期の摂関政治も、5家に分家され大きく力を落としました。幕府は、摂関家を5つに分けて勢力を削いだのです。<皇族将軍へ>宮騒動で失脚した権力者:九条道家。失脚した1246年、重しが取れた第88代後嵯峨天皇は、早々に89代後深草天皇に譲位し、院政を敷きます。更に後嵯峨上皇は、幕府との関係を良好にし、自身の影響力を強めるため、幼い長男を(母が身分が低かったため)、第6代将軍として送ります。2代執権の義時が欲していた皇族将軍が、時を経て誕生したのです。ただ、重しが取れた後嵯峨上皇が、皇統を巡って暴走してしまうのです。1249年に後の亀山天皇が出生し、後嵯峨天皇の愛情は弟の亀山天皇の方に移ってしまいます。わずか10歳で立太子させ、1260年には第90代亀山天皇として即位させます。更には1267年に皇子が誕生するや、翌年すぐに立太子させ(後の第91代後宇多天皇)、後深草天皇系統ではなく、亀山天皇系統へ皇位をつないでいくことを示します。ここに、後深草系(後の持明院統)、亀山系(大覚寺統)の2つの系統へ別れ、南北朝動乱の火種を作ることになるのです。第50代嵯峨天皇は、自分の子ではなく、異母弟の系統に皇位を譲るという不可解なことをして、結局承和の変を引き起こし、藤原良房が台頭し、新たに摂関政治を招くことになりました。今度の後嵯峨天皇は、自分の子同士(それも同母兄弟です)ではありますが、愛情に優劣をつけて後深草系(持明院統)・亀山系(大覚寺統)と皇統を二つに割ってしまい、新たな動乱の種を蒔いたのです。
2023年07月10日
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承久の乱を受け、六波羅探題が設置(1221年)、更には荘園にも地頭が置かれ(新補地頭、1223年)、朝廷は幕府の視体制に置かれます。そして、乱を起こした後鳥羽上皇の系統は排除され、後鳥羽上皇の同母兄:守貞親王の皇子が第86代後堀河天皇として即位します。守貞親王が天皇になるのではなく、その皇子が天皇になるというのは、守貞親王の院政体制の形にするためでしょう。<源頼朝が幕府を作り、北条義時が日本の国体を維持し、泰時が法の支配を確立>乱を制した北条義時は1224年に死去、北条政子も1225年には死去しています。次の執権は義時の息子、3代泰時です。彼は後世にも多大な影響を与えた法律、御成敗式目を制定しています(1232年)。これは頼朝以来の先例・慣習などから作った武家の決まり事です。以降、この法律は室町幕府・戦国武将にも分国法として受け継がれていく程のインパクトのあるものでした。武力を持ったからといって好き勝手するのではなく、きちんと決まり事を守っていこうというものです。初期の幕府は頼朝のカリスマ性に支えられていましたから、頼朝が死んだあと、有力御家人で合議制にするも内部対立が起こり、頼朝の息子:2代3代将軍まで暗殺されるなど、安定しませんでした。北条家がNo2の執権となり、トップに皇族を迎えようとして安定を図ろうとするも、後鳥羽上皇としこりを作ってしまいます。そんな折、1221年に承久の乱が起きたわけです。安定はしなかったものの、鎌倉幕府は武家に受け入れられ、義時がこの乱を制します。(神皇正統記でも、義時が政権の実権を握って人々の期待に背かなかったのだから、臣下に非難すべき点があるとはまだいえない。後鳥羽院の過失というべきだった と記されています。)しかし賢明な北条義時は、朝廷を廃するのではなく、天皇家の血筋から新しい天皇を迎え、古代から続く日本の国体を維持します。(監視はしますが)政治は武家が行い、天皇はあくまで日本の中心・権威として残したのです。藤原道長が下した決断と同様ですね。そしてこれは現代の日本の政治の仕組みと同じなのです。天皇の信任の元、政治を預かる体制です。承久の乱を制したことにより、全国での武家の支配地域が増え、それと共に御家人や荘園領主との紛争も増えるようになりました。義時に続く第3代執権:泰時は、武家の決まり事を明文化し、カリスマの下ではなく法の下、統制をしていこうとしたのです。源頼朝のカリスマ性により武家政権が誕生し、続く北条義時は承久の乱を制しながらも、頼朝同様、あくまで日本の国体は天皇を中心とした体制にあるという英断を下し、北条泰時が法を定めて武家社会を公平なものにし、カリスマによる政治体制ではなく、法による支配体制を構築し、江戸時代に至るまでの武家社会を確立させたのです。<ただ皇統の決定権を北条家が握ることは・・・>国体の危機は免れたものの、天皇が北条家の意向により決められることになったことは遺憾でした。第86代後堀河天皇は、幼帝:第87代四条天皇を即位させ院政を敷きますが、自身が崩御して後、四条天皇も幼いまま崩御してしまいます。ここで泰時は、承久の乱に消極的だった土御門天皇の皇子を第88代後嵯峨天皇として即位させます。この判断は幕府から見れば当然だったのかもしれませんが、幕府の意向で皇統が決められることは、後々大きな問題として噴出してくるのです。ここに南北朝動乱の種が蒔かれることになるのです。
2023年07月10日
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源頼朝と最後まで戦った後白河法皇。崩御後、第82代後鳥羽天皇により征夷大将軍に任じられます。この時をもって、朝廷により認められた武家政権:鎌倉幕府が成立します。正統性を得るために、朝廷の権威を利用した頼朝ですが、あくまでも朝廷からは独立した政権を目指します。摂関家や平氏のように、娘を天皇に嫁がせて権力を得てきたやり方をしていないことからも伺えます。(奥州藤原氏も同様で、朝廷から独立した東国政権を目指していました)所領も天皇家の所領を奪おうとはせず、武家の中での新しい秩序体制を作ろうとしていました。それは源頼朝の政治力、武士からの求心力(カリスマ性)の高さのなせる業でした。ゆえに1199年に頼朝が死んでからは、この新しい秩序に綻びが出ます。<頼朝死後の内紛と続く将軍暗殺>息子の頼家が2代将軍として継ぎますが、独善的であったためか御家人をまとめきれません。重臣13人による合議制が取り入れられることとなります。この中で台頭してきたのが、頼朝の妻:政子がいる北条氏です。邪魔なライバルを次々に失脚させていき、1203年には執権となり、将軍に次ぐNo2の地位になります。翌年に2代将軍頼家まで暗殺し、頼家の弟である実朝を3代将軍にします。3代将軍:実朝は文化的で朝廷に憧れがあり融和的であったようです。そんな朝廷も実朝に官位を与えるなどして、その度に母の北条政子や執権:北条義時は諫めていたようです。この実朝の動きは、武士からすると、頼朝がせっかく作り上げた朝廷から独立した武家政権を、幕府成立以前に戻すに等しいことでした。そんな反発があってか、実朝も1219年に暗殺されることになります。この朝廷に融和的な3代将軍実朝暗殺が、1221年の承久の乱の原因の一つにありそうです。<第82代後鳥羽天皇の不遇な即位>さて、承久の乱の主役である後鳥羽天皇は1183年に天皇に即位しました。当時は平氏が源氏に押され、都を追い出されていた時でした。この時、安徳天皇・三種の神器を持って西国へ逃れます。天皇が京を不在にして、急遽立てられたのが後鳥羽天皇でした。よって、即位に必須の三種の神器がない中での即位でした。このことは後鳥羽天皇に後々まで大きなコンプレックスを抱かせることになったそうです。<皇族将軍を求めた北条義時との溝>三種の神器がないために、天皇の正統性にコンプレックスを持った後鳥羽天皇は、それをカバーするかのように天皇の力を強める動きに出ます。例えば、第72代白河天皇が法皇時代に、力をつけた寺社勢力から守るために設けた北面の武士に加え、西面の武士を設けて武力を増強します。武力を持った幕府に対抗しようとします。1219年、源実朝が暗殺され、頼朝の直系が途絶えることになり、執権北条義時は、後鳥羽天皇(当時上皇)の皇子を後継将軍として迎えたいと申し出ます。元々、源氏は天皇家の血を引いてるので、義時としても幕府に箔をつけるために、天皇家の血を引く皇子を求めたのでしょう。後鳥羽上皇は、条件として寵愛していた愛妾の所領の地頭撤廃や、自身の家来である西面の武士の処分撤廃など、幕府の存在意義に関わる権限に口を出します。結局は九条家から将軍を迎えることとなり、義時は皇族将軍を諦め後鳥羽上皇としこりが残ることになります。1220年のことです。※当時朝廷は、後白河法皇が残した長講堂、八条院領という膨大な荘園を朝廷は有していました。幕府は朝廷から独立しようする反面、朝廷の荘園を奪い取るということはしませんでしたが、地頭を置くことで、どうしても所領問題は起きていたようです。同様に、警察権問題なども起きていたようです。実朝暗殺に続き、将軍後継問題とそれに伴う所領問題・処分権問題などで溝が広がっていきます。後鳥羽上皇は、天皇の権威・権力・武力を高めようとしていただけに、ぶつかり合うこととなります。<1221年承久の乱勃発!>そして1221年、後鳥羽上皇はいよいよ挙兵、北条義時討伐の院宣を出します。83代土御門上皇は消極的でしたが、84代順徳天皇は後鳥羽上皇以上に積極的であったと云います。敢えて幼い皇子である仲恭天皇を85代天皇として譲位し、自由の身になって協力したといいます。幕府の御家人は朝敵になってしまうと動揺します。しかし、北条政子が頼朝の御恩をなんと考える!と大演説をし、御家人を一つにまとめ、承久の乱を制圧することになります。82代後鳥羽上皇、84代順徳上皇、85代仲恭天皇は配流されます。仲恭天皇は現代に至るまで歴代最短の即位期間です。消極的であった83代土御門上皇は、父の責任を感じて自ら配流になります。なんと4人の天皇・元天皇が一気に配流となったのです。ここに朝廷・幕府の二元体制は終わり、幕府が朝廷を管理・コントロールすることになるのです。古代からの朝廷をトップとした体制は終わり、武家中心の世になったのです。まさに国体の危機でした。しかし、武力で天皇を追放したものの、次の天皇が北条家から出るのではなく、後鳥羽上皇の兄:守貞親王の皇子が第86代後堀河天皇として即位します。北条義時は、天皇家にとって代わるのではなく、あくまで古代から続く天皇を中心とした日本という国体はそのままに、武家が天皇から信任を受けて政治をおこなうという体制にしたのです。ここは北条義時を評価すべきかと思います。もしこの時、義時が天皇として即位したら、その後の日本はどうなったでしょうか?北条家が滅びた時に、今度は足利尊氏が天皇になり、その後、足利が滅ぶと織田信長が天皇になりと、中国のように王朝交代を繰り返していったことでしょう。交代の度に秩序が変わり、今のような日本ではなかったでしょう。北条義時は現代にまで大きな影響を与える決断をした人だったんだなと思います。<後白河法皇と後鳥羽上皇の違い>南北朝時代に書かれた天皇の正統性を論じた神皇正統記でも、承久の乱については、後鳥羽上皇の落ち度であったと手厳しく書かれています。後白河法皇の頃は、まだ鎌倉幕府成立の過渡期であり、頼朝と渡り合い、最後まで頼朝が求めた征夷大将軍を与えず戦い抜くことができました。しかし、後鳥羽上皇の頃には、もはや幕府の体制が確立し武士もこれを支持していました。お互いに武家と渡り合った二人ですが、時代の変化を見誤ったことが、天が後鳥羽上皇に味方しなかった理由かと思われます。
2023年07月05日
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私が子供の頃は、鎌倉幕府の成立年は1192年と教わりました。しかし、最近は色々な新しい説が出ているようです。①1180年説:頼朝が富士川の戦いで勝利し、鎌倉を本拠として侍所を設置した年②1183年説:朝廷から東国支配権を承認する宣旨が出た(寿永二年十月宣旨:義仲討伐の見返り)③1184年説:公文所・問注所の開設④1185年説:守護・地頭の設置⑤1190年説:頼朝が権大納言・右近衛大将に任じられた⑥1192年説:頼朝が征夷大将軍になった①の侍所は「軍事・警察・御家人の統率」。本格的に旗揚げをして軍事統制が必要になるので設置。②は平氏を破り都入りした源義仲が横暴を働き、後白河法皇が義仲討伐の院宣を出すのですが、その見返りとして頼朝が得たのが東国支配権です。東国に関してのお墨付きをもらいます。③は公文所(政所)は一般政務・財務などを司り、問注所はいわゆる裁判所です。④逃亡した義経を捕縛することを名目に、全国に守護・地頭の設置を認めませます。また、京都守護や鎮西奉行(九州の御家人の統率)も設置。奥州藤原氏を滅ぼした1189年には奥州総奉行も設置し、全国の支配地域を固めます。⑤征夷大将軍を求めるも法皇は拒否し、代わりに権大納言・右近衛大将に任じます。頼朝はすぐに辞任し、抵抗をします。ただ、この叙任により翌年、政所と公文所が公的な意味を帯びるようになります。⑥法皇崩御後、第82代後鳥羽天皇により念願の征夷大将軍に任じられます。こうして見ると、①はあくまで頼朝が勝手にしたことで、②は朝廷のお墨付きをもらっています。平氏滅亡、奥州藤原氏の滅亡に伴い、勢力範囲を広げ、守護地頭の設置をしていきますが、後白河法皇も認めっぱなしではありません。地頭は荘園の管理ということで、兵糧米の徴収権を認めさせ、全国での兵の動員体制を整えましたが、翌年に廃止させ、地頭の設置場所は平家から奪った没官領と謀反人跡に限定させたようです。更には摂関家が、頼朝追討の院宣を出させた問題で、二つに分家させられて勢力が削がれることになりましたが、その二家の所領問題で、後白河法皇は近衛家に相続させることを頼朝に認めさせます。頼朝は九条家を押していましたが、ここでも後白河法皇が勝ったのです。ただ、頼朝も負けっぱなしではありません。奥州藤原氏追討の院宣を要求しますが、中々出さないので攻め込み、滅ぼした後に追認させる形で院宣をださせます。また、権大納言・右近衛大将に任じられた後、わずかこれを数日で辞任します。しかし、後白河法皇は最後まで、頼朝の求めた征夷大将軍には任じず崩御します。頼朝が征夷大将軍に任じられたのは、その後のことです。武力を持たない法皇でしたが、最後まで頼朝に抵抗したのです。【頼朝に日本一の大天狗と呼ばれた後白河法皇】後白河法皇は本当に波乱の生涯だなと感じます。●親である第74代鳥羽天皇からは中継ぎとしか見られず●実の息子である第78代二条天皇と争い●それまで仲良くしていた平清盛と争い幽閉されます●源平合戦が始まると、平氏を都から追い出した義仲に追討院宣を出し●追い出された平氏の追討院宣を出し●平氏滅亡に大きく貢献した義経に、頼朝追討の院宣を出し●勝った頼朝に負い目を感じることなく渡り合いましたこんな法皇に、頼朝は「日本一の大天狗」と呼びました。武士の時代が確立していく過渡期の中で、必死に武家と戦った偉大な天皇(法皇)といっていいのではないかなと感じています。さて、今回のテーマである鎌倉幕府の成立年ですが、①の1180年から鎌倉幕府の原型が出来上がり、奥州藤原氏を滅亡させて全国を武力でもって制圧し、権大納言・右近衛大将に任じられた⑤の1190年にかけて武家政権の形が整っていったのでしょう。しかし、東国支配権や守護地頭設置権などを、あくまでも朝廷に認めてもらうよう働きかけています。正統性を天皇・院に承認してもらうという観点から考えるならば、やはり鎌倉幕府は後鳥羽天皇から征夷大将軍に任じられた1192年とすべきでしょう。この年が鎌倉時代の始まりです。その意味で後白河法皇は最後まで戦いぬき、勝利したと言えるのかもしれません。
2023年07月01日
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【平氏の滅亡】専横を極めた平氏。1180年に後白河上皇の皇子、以仁王が挙兵。これは失敗しますが、嚆矢となり全国で反平氏の挙兵が起こります。中心人物は源頼朝です。彼は平治の乱で敗れた源義朝の長男です。一度は挙兵に失敗するも、二度目の挙兵で勝利します(富士川の戦い。1180年10月)続いて、頼朝の従兄弟にあたる源義仲(木曾義仲)も俱利伽羅峠の戦いで平氏に勝利します。(1183年5月)そして平氏を都から追い出し、源義仲が入京します。(この時、第81代安徳天皇も京を離れます。都に天皇がいないのはまずいと、後白河法皇の皇子が即位します。第82代後鳥羽天皇です。南北朝時代を除き、天皇が2人在位していたのはこの時だけです:1183年~平家滅亡で安徳天皇が崩御する1185年まで)しかし義仲は都で横暴を働き、後白河法皇が頼朝に義仲追討の院宣を出します。頼朝の異母弟、義経の活躍により義仲を葬ります。続いて後白河法皇は平氏追討の院宣を出します。義経の大活躍で、栄華を誇った平氏は滅亡。この時、平氏の血を引く第81代安徳天皇は壇ノ浦の戦いで崩御します。【源氏内での対立 ~頼朝と義経の対立~】平氏を破った義経に対して、後白河法皇は官位を与えます。これに加えて、義経を九州の地頭に任じたことに頼朝は不快感を示します。自身が構想する武家政権の根底を揺さぶるものだったからです。頼朝は義経と会うことすらせず、対立は決定的になりました。義経は、後白河法皇に頼朝追討の院宣を出させますが、武士団が義経には従わず失敗します。武士団としても、頼朝の武家政権を望んだのでしょう。逆に頼朝が、義経追討の院宣を出させるべく圧力をかけます。最終的には義経を匿っていた奥州藤原氏に対して、義経追討の院宣を出させ、義経は藤原泰衡に攻められ自害します。義経の悲劇に目が行きがちですが、頼朝追討の院宣を出させたことが問題視され、摂関家が近衛家と九条家に分けられることになります。保元の乱で内部分裂をして勢力が衰えましたが、それでも藤原北家の本家は大変なブランドでしたが、そこが2家に分かれ、摂関家の力の低下は決定的となりました。時代は確実に、摂関家から武家に移ったのです。【奥州藤原氏の滅亡】奥州藤原氏は元々源氏と所縁がありました。前九年・後三年の役で絡んでいます。後三年の役以降、勢力を伸ばし、東北に根をはっていました。黄金の中尊寺金色堂や無量公院など、東北に王道楽土を築いた奥州藤原氏。平氏の時代には義経を匿い、源平合戦が始まると中立を保ちます。しかし、平氏が滅びた後、源頼朝と仲違いした義経を匿うも、最終的には院宣が出たことにより、義経を自害させ、奥州を守ろうとします。ですが、義経を匿っていたことなどを理由に、今度は奥州藤原氏追討の院宣を出させて、頼朝に滅ぼされます。奥州藤原氏は独自の文化が華開いていましたが、長年の平和ボケで戦う意欲や危機感が欠如していたのでしょう。中立とは両方に攻められても大丈夫くらいの武力を持っていないと、保てないことを示した良い教訓です。現代でも忘れてはならないでしょう。西国に根を張った平氏の滅亡・摂関家の分家・東北の奥州藤原氏を滅亡させ、頼朝が日本史上初の武家政権、鎌倉幕府を打ち立てるのです。
2023年06月28日
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保元の乱を制したのは、第77代後白河天皇側でした。しかし平和は長くは続きませんでした。次は後白河天皇内での派閥争いが起こります。平治の乱です。【後白河上皇(平治の乱当時)のブレーンの失脚】きっかけは後白河上皇が寵愛したブレーン、藤原信西です。彼は後白河天皇親政を強化するとともに、摂関家(北家)の弱体化、自身の身内(南家)を近臣に送り込み、周囲から恨みを買うようになります。彼を支持していた平清盛が不在の隙を狙い、後白河上皇のもう一人のブレーン:藤原信頼が源義朝とともに院の御殿を襲い、後白河上皇と息子である第78代二条天皇の身柄を確保。信西は自害します。クーデターを起こしたのです。しかし平清盛の反撃を受け藤原信頼、源義朝一派は排除されます。【後白河上皇と二条天皇の争い】信西・信頼というブレーンを失った後白河上皇の力が衰えた隙をつき、二条天皇が父を追い詰めます。かねてから、親子関係でありながら、後白河上皇と二条天皇は対立していました。父・祖父である鳥羽上皇の偏愛が原因でした。鳥羽上皇は孫の二条天皇を寵愛し、自分が寵愛していた美福門院の養子にしています。期待していた息子の近衛天皇が若くして崩御し、その次は二条を天皇にと考えます。しかし、いくらなんでも存命の父、後白河を飛ばしての即位は良くないのではないか。というので中継ぎの意味で、立太子もしていなかった後白河天皇をとりあえずの形で即位させ、二条を立太子させます。こうした鳥羽上皇の偏愛もあり、二人は親子ながら対立したのです。鳥羽は、憎んでいた祖父の白河が崩御した後、待賢門院ではなく、美福門院を寵愛します。待賢門院との子である後白河に対し、思うところがあったのでしょうか。白河同様、鳥羽の女性問題が根っこにあったのかもしれません。また遺産(所領)争いの側面も見逃せません。不利と思われていた後白河上皇、しかし二条天皇が若くして崩御し形勢が逆転します。【牙向く平清盛!後白河上皇を幽閉】後白河上皇 VS 二条天皇の成り行きを、黙って見ていた平清盛。ただ劣勢な後白河上皇に娘を嫁がせることをしています。結果的に二条天皇が早世し、その息子の六条天皇が即位しますが、ちゃっかり孫の高倉天皇を即位させます。藤原氏同様、娘を天皇に嫁がせることで外戚になるという技を繰り出すのです。後白河上皇としても、二条天皇と対立する中で平清盛の支援が欲しかったのでしょう。しかし、二条天皇崩御後は、力を増してきた平清盛と対立します。特に平清盛の娘が摂関家に嫁いでおり、摂関家の土地を取り上げる動きに出て、ついに清盛は後白河上皇を幽閉します。そしてこの時、全国の半分の土地を持ったとまで言われます。更には日宋貿易で巨万の富を得ていました。平家にあらずんば人にあらず とまで云われ権勢を持った清盛。藤原信西の時のように専横を極めると周りからよく思われず、いよいよ平家打倒の動きが出てくるのです。
2023年06月19日
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第71代後三条天皇の後を継いだ第72代白河天皇。摂関家の影響力が弱まり、院政を本格的に始めます。息子の第73代堀河天皇、第74代鳥羽天皇と幼年で即位させ、父・祖父として院政を敷きます。まだ堀河天皇の時は、摂関家と歩調を合わせていましたが、鳥羽天皇の御代になると摂政・関白は名ばかりで、白河院政が本格化します。まず、自分の実の子供、堀河天皇の系統に皇位を継承させるため、自分の異母弟(輔仁親王)を失脚させ、自身の子:堀河→孫:鳥羽系統へと繋ぎます。そして鳥羽天皇の皇子を第75代崇徳天皇として即位させます。1123年のことです。しかしこの崇徳天皇、実は鳥羽上皇の皇子ではなく、鳥羽上皇の祖父である白河上皇が、寵愛した藤原璋子(待賢門院)に産ませた皇子だったそうです。これは公然の秘密だったそうで、鳥羽上皇も崇徳天皇を自分の子ではなく、祖父の子と認識し、叔父児(祖父の子供、つまり鳥羽上皇にしてみれば父の堀河天皇と異母弟にあたり、叔父になります。)と呼び徹底的に嫌っていたそうです。この白河上皇の女性壁、鳥羽上皇の崇徳天皇への憎しみが後に大きな紛争を生むことになるのです。崇徳系統にならないように、鳥羽上皇は徹底的に皇位を崇徳系統から遠ざけます。第77代後白河天皇が誕生します。鳥羽上皇が存命(43年もの院政を敷き、強い影響力を持っていましたが)の内は良かったですが、1156年に崩御すると、崇徳上皇の不満が後白河天皇に向けられて乱が起こるのです。保元の乱です。これまで、天皇を巡り宮中での勢力争いはありましたが、この保元の乱は武力を持った武士(源氏と平氏)を巻き込んだ争いになりました。武力が重要な時代になったのです。平氏は叔父で、源氏に至っては父子で二つに分かれたのでした。摂関家も父子で二つに分かれ、いよいよ天皇→摂関家→武家の時代へ進んでいくのです。敗北した崇徳上皇側。崇徳上皇は隠岐へ流されます。その後、反省して写本を書き、朝廷へ納めて欲しいと送りますが、これを返送されて激怒。髪・髭を伸ばし悪魔のような姿になり舌を噛み切って、その血で「日本国の大魔縁となり、皇を取って民となし民を皇となさん」と怨霊伝説が生まれました。これまでの日本の国体をひっくり返す呪いの言葉を残したのです。いずれにせよ、武家無くしては権力が維持できない時代へと移っていったのです。
2023年06月13日
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第71代後三条天皇(在位1068年~1073年)は、藤原氏を外戚としない天皇です。あれだけ藤原道長が娘を嫁がせましたが、早速、外戚としない天皇が誕生します。それだけに藤原氏に遠慮はありません。●延久の荘園整理令(1069年)今まで、何度か荘園整理令は出されたものの、藤原氏の特権を犯すことはありませんでした。しかし、藤原氏を外戚としない後三条天皇は次々と藤原氏の荘園を取り潰します。道長が存命であればそれは阻止されたのでしょうが、息子の頼通・教通が不仲により藤原氏が足並みを揃えられなかったことも、推進できたことの理由でしょう。そしてこの整理令は、藤原氏のみならず力をつけてきた寺社仏閣などの仏教勢力の経済力を弱めることも目的としてありました(寺社仏閣も荘園を守る為、僧兵が誕生し大きな勢力を持ってきました)。天皇家の公領の比率が高まり、天武天皇が推進した【天皇を中心とする中央集権国家】の復活を試みています。※ただ、藤原頼通が建立した平等院鳳凰堂の荘園までは手を出せなかったようです。●武士の時代になったことも要因更には刀伊の入寇(道長絶頂期)での無関心ぶり、道長死後(1028)の翌年の平忠常の乱、前九年の役(1051年~1062年)などを通して、武士の力の重要性が認識させられ、藤原氏の時代から変わろうとしていたのです。前出の平等院鳳凰堂は、当時流行していた末法思想の反映と云われます。武力の時代になり、余計に末法思想も浸透したのでしょう。藤原氏は延久の荘園整理令で経済力を弱められ、そして武士の時代の到来により、権力を弱めていくことになるのです。末法思想の流行は、当時の庶民にとっても大きな時代の変化を感じていたのだと思います。藤原氏(特に北家)は、良房が56代清和天皇の御代に、人臣で初めての摂政になりました。この良房は、いきなり重用されたわけではなく、父である冬嗣が、第52代嵯峨天皇の寵愛を受けたことがきっかけでした。嵯峨天皇はヘンテコな皇位継承を行い、これがやがて承和の変として藤原良房の力を確固たるものにしました。摂関政治の種をまいたのが、第52代嵯峨天皇だとすると、藤原氏の一極化を壊したのが第71代後三条天皇と言えるでしょう(摂関家の内部対立、武力の時代になってきたというのも要因)。後三条天皇は第72代白河天皇に譲位し、影響力を行使しようとしますが、わずか1年で崩御します。しかし、白河天皇が父を見習い同じ手法を用いて院政を開始するのです。
2023年06月11日
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<平忠常の乱:1029年~1031年 第68代後一条天皇の御代>刀伊の入寇では、国外の海賊に対して、中央は現場に丸投げして、武士(武力)の必要性が認識されました。今度は国内でも反乱が起こり、武士の時代の到来を感じさせる事件が起こります。同じ第68代後一条天皇の御代のことです。平忠常の乱です。これも平将門の乱(939年~940年)同様、国司に対しての反乱です。忠常は将門のいとこの子供にあたります。国司の横暴に対する反乱でした。国司の横暴から守るため、開発領主が武装をするようになったのが武士の始まりでした。また、国司の搾取から逃れるために中央への寄進も増えてきました(寄進地系荘園)。そんな中央も土地を守るために武士を警備に当てます。平忠常の乱は、そんな中央から派遣された源頼信により鎮圧されます。関東には元々桓武平氏が根を張っていましたが、この乱以降、源氏の勢力となるのです。平将門の時もそうでしたが、刀伊の入寇も経て、益々武士の力の重要性が認識されます。そんな折、今度は東北地方で大規模で長きにわたり武士の戦いが繰り広げられます。<前九年の役:1051年~1062年 第70代後冷泉天皇の御代><後三年の役:1083年~1087年 第72代白河天皇、第73代堀河天皇の御代>平忠常の乱から約20年後のことです。これも元は国司(陸奥守)に対する、地方豪族:安倍氏の反乱です。前九年の役の始まりです。ここでも源氏が討伐に動きますが、中々制圧できず、最終的には、源氏を支援した隣国出羽国の清原氏が漁夫の利を得ることになります。続く後三年の役は、東北全土を支配することになった清原氏の内紛劇です。結果的には安倍氏の婿になっていた藤原経清の息子:清衡が勝利して、奥州藤原氏の礎を築くことになります。前九年・後三年の役で活躍した源頼義・義家親子(平忠常の乱を制した頼信の子・孫)、しかし中央はこれを私闘と判断し、恩賞を与えませんでした。これを受け源義家は、私財を投げうって自分を支えてくれた坂東(関東地方)武者に報います。このことが後の鎌倉幕府の礎となります。刀伊の入寇同様これらの戦いでも、中央は現場任せで恩賞も与えず解決力がないということと、武力の重要性を再認識させることになりました。刀伊の入寇という外寇、国内の戦乱。。。これらから身を守るもの、それはもはや武力しかなかったのです。平和ボケの中央と距離を置き、自分の身は自分で守るの時代になっていったのです。
2023年05月27日
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藤原道長の意向で即位した第68代後一条天皇(即位:1016年~1036年)。道長にとってはまさに絶頂期といえるこの頃、大きな事件が起こります。1019年に起きた「刀伊の入寇」です。これは沿海州の女真族の海賊が、対馬→壱岐→筑前博多へと襲撃してきた事件です。当時のアジア情勢としては、907年に唐が滅亡し、五代十国時代を経て960年に宋(北宋)が誕生926年に渤海が契丹により滅亡936年に高麗が朝鮮半島を統一というように、第60代醍醐天皇(897年~930年)、第61代朱雀天皇(930年~946年)、第62代村上天皇(946年~967年)の御代で、アジア情勢は大きく変化します。そんなアジア情勢が変化した中、女真族が海賊行為を積極的にしていたようです。そして1019年3月~4月にかけて、対馬・壱岐・筑前博多を襲いました。この時、朝廷(時の権力者:藤原道長)は国家として対応しませんでした。・長く対外戦争がなく、新羅・唐とも国交がない時代が続いた ・国内でも52代嵯峨天皇の御代で蝦夷との38年戦争も終結し、61代朱雀天皇の御代で、935~941年に承平・天慶の乱が起こるも、平和な時代が長く続いていた【平和ボケ】がこうした事態を招いたと考えられます。代わりに対応したのが現場です。かつて藤原道長との政争に敗れ、左遷されていた「藤原隆家」です。65代花山天皇を襲った人です。(長徳の変)汚名を持った人でしたが、九州の武士団を引き連れて海賊を撃退する活躍をします。ただ、この海賊行為により日本人365人が犠牲になったそうです。また1300人近くの日本人が拉致されています。日本を襲った後は、高麗で海賊行為を働いたそうですが、高麗軍がこれを撃退し、日本人の捕虜を送り返してくれたそうです。この時朝廷は、海賊討伐を現場に丸投げしたのみならず、高麗に御礼をせず、むしろ高麗側に何らかの意図・狙いがあるのではないか?と疑っていたそうです。新羅と国交を断絶した後も、度々新羅の海賊が日本近海を襲っていました。その後継国家である高麗に対して警戒心があったとしても不思議ではありません。しかし、高麗が捕虜を送り返してくるまで、賊の主体を把握していなかったようです。賊退治もせず、情報収集も十分にしないくせに、高麗を疑ったままで、捕虜を返還しに来た使者へは、現場の指揮官である藤原隆家が返礼をしたと云います。これら現場丸投げの無策・無関心ぶり、情報収集不足・事後対応の悪さには驚きです。白村江の戦いの後、38代天智天皇が防塁を築き、防御を固め、以降、40代天武天皇を中心に中央集権国家へと進んでいきましたが、今は昔となったようです。平和ボケによる危機管理の欠如…なんだか今の日本と似ていますね。。。事件を通じて、国を守ろうという気概・危機意識の欠如が露呈、武士が必要とされたのだと思います。刀伊の入寇は、武士の時代を呼び込んだ一つの重要な事件だったと考えます。
2023年05月19日
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