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皆さんお元気ですか?
「東日本大震災」
私の実家がある「気仙沼市」も大変な被害を受けてしまいました。
地震直後、大館でもこんなに揺れたんだから
実家も揺れただろうな?と思い電話をしましたが
30分以上つながらず・・・
やっとつながった母の携帯から母の泣く声が聞こえて来ました。
「おっかなかった~~~~~」と
腰が抜けてしまい這って外に出たと・・・
そして今から津波が来るので逃げるところだと・・・
その後、携帯はつながらず・・・
非難して無事だと連絡が入ったのは夜9時頃でした。
その1本の電話後は一切つながらず、気仙沼の状況は一切わかりませんでした。
大館も地震後、停電になり情報が入るのはラジオの声だけ・・・
気仙沼はどうなっているのだろう???
と不安な夜を過ごし・・・
朝。
旦那が「仕事も出来る状況じゃないし、 お母さんとお婆ちゃんを迎えに行こう」
と言ってくれました。
それからは、ガソリンを掻き集め
ご飯をたくさん炊いておにぎりを作り
タンクに水を汲んで
子供たちを旦那の父と母にお願いして
出発しました。
もちろん高速道路は閉鎖。
国道を南下してやっと着いたのは夜の9時を回っていました。
非難している場所は気仙沼中学校の校庭付近で
近所の方の車にいると聞いていたので
懐中電灯で一台一台探しました。
そして
一台の車の中に6人で毛布をかぶって寝ていました。
母は迎えに来るとは思っていなかったらしく・・・
あっけにとられていました。
祖母はその日、ディサービスに行っていて
そこでお世話になっているとのこと
私もホッと一安心。
そのときの気仙沼の状況は・・・
真っ暗闇の中で海岸が赤~く燃えていました。
母は「海が燃えている」と・・・
避難場所付近の駐車場には、たくさんの車が並び・・・
車の中で寒さをしのぐたくさんの人たちがいました。
電気どころか水も食料もない状態。
トイレはあふれ出し、使えませんでした。
次の日。
車の中で夜が明けるのを待って
避難場所から坂を下ってすぐの実家を見に行きました。
空気は汚れていて
ヘドロの臭いと油が燃えた臭いと煙で
喉が痛くなりました。
そして、実家は奇跡的に残っていました。
津波は来た様子はありましたが
床上には上がってはおらず
家の中もほとんど物は落ちていませんでした。
ほんの20m先には家が丸ごと流されていて
その先は 瓦礫の山で見に行くことも出来ませんでした。
その後
ディサービスに寄って祖母と合流。
99歳の祖母は
地震があったのはわかりましたが
津波が来て大変な状況だということが理解できないようでした。
大館に帰ってきて
TVで報道される地震の生々しい状況に
私と母は毎日のように泣いていました。
それから約2週間。
地元の人と電話がつながる様になり
気仙沼の状況がわかってくると
母が、「帰りたい」と日に何度も口に出すようになりました。
皆が大変な思いをしているのに
家が残っている私がここでのんびりしているのが
辛い・・・と
でも、帰りたくてもガソリンが手に入らないし
せめて水が出るようになってからにして欲しいとお願いしました。
それからまた1週間。
ガソリンが普通に買えるようになり始めたら
母が「やっぱり帰りたい」と
何度話しをしても、納得してくれないので
じゃあ、一度気仙沼に行ってみようということになりました。
ただし、家がちゃんと住める状態か旦那が(建築士)確認して
大丈夫だったらね!と
家に入り電気がつくのをまず確認。
水道はまだ使えませんが、家のすぐ近くに給水車がくるようなので
まず、住んでも大丈夫だろうということになりました。
でも、相変わらず余震は続いていて
地響きとともに地震が起きて
怖くてなかなか眠れませんでした。
翌朝
旦那と気仙沼市内外を見に行きました。
車が通れるところしか見れませんでしたが
それでも、かなりの状況でした。
もっとひどい所は通行止めになっている為
入ることは出来ませんでしたが、それでも最悪な状況だということはわかりました。
普段は海が見えないところから
海や大島が見えたり
道路を走っていても、今まで目印にしていた建物が
すっかりなくなってしまっていて
どこを走っているのかわからなくなってしまったり・・・
私の故郷は今後どうなっていくんだろ~
という不安が募ります。
でも、前を向いて進むしかありません。
大館から何か出来ることがないか。。。
暗中模索の毎日です。
最後に、被災された皆様に早い復興と
そしてお亡くなりになられた方々のご冥福をお祈りいたします。