母の癖



 例えば、緊張すると知らず知らずに指で字を書いてしまう。
 とりとめもなく、思い浮かんだ事を、ただひたすら指で……。
 その癖は、母のものだった。


「どうしても出て行くのなら、あんたのことなんかもう知らん」
 そう言いながら、母は畳に指で字を書いた。
「だって、こんな田舎で一生を送りたくないの。分かってよ、母さん」
 母はそっぽを向いたまま、表情を強ばらせている。
「母さん達が言うように、普通にお見合いもしたじゃない。でも、どうしても結婚なんかしたくない。わたしの人生なんだから、たった一度の人生なんだから、好きなように生きさせてよ。ね、お願いだから」
「何度お見合いしても、全部断って……。嫁入り支度にって、あんたの好きな着物をあんなに作ってあげたじゃない。母さんの気持ちはどうなるの」
 下を向いたまま、母は肩を震わせた。

 突然立ち上がり、和箪笥からたとう紙ごと着物を、わたしに投げつけた。
 結んだ紙縒りが解けて、着物が畳の上に散らばった。 
 わたしの大好きな加賀友禅の小紋もあった。
 普段の母からは想像もつかない形相をして、裁縫箱から裁ち鋏を取り出した。
 母は狂ったように、その着物に鋏をいれた。
「母さん、何をするの!」
 わたしは事のなりゆきに、背筋が凍った。
 母を後ろから羽交い締めにして、
「止めてよ。この着物は母さんとの思い出じゃない。止めてよ」
 ただ、なす術もなく泣き叫んだ。
「あんたなんか、あんたなんか、私の娘でも何でもない。出て行きたいなら出て行きなさい。その代わり、二度と戻ってなんか来ないで!」

 それは今まで見たことのない、まるで別人のような母の姿だった。
 父に目配せをして、わたしはそのままそっと家を出た。
 二十八歳の初秋。母と一緒に植えたななかまどに、赤い実がびっしりとついていた。

 このごろわたしも、よく母の癖が出る。
 無意識に指で字を書いている。
 いつの間にか、母の気持ちが身にしみる年になっていた。


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