殿上人日記

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2010年05月17日
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カテゴリ: 愛知、三重の旅

松平郷3

  愛知県西部にあたる尾張(おわり)に生まれたのは
  織田信長に豊臣秀吉。愛知県東部の三河(みかわ)の
  徳川家康といった三英傑の他に、それに与して大名と
  なった武将らも、この両国での出身者が多い


松平郷1

  その中でも江戸幕府の初代征夷大将軍にとなった家康の
  祖先が誕生をしたのが、室町時代に興った弱小な豪族の
  松平(在原?)氏の本拠であった三河国加茂郡松平郷
  (愛知県豊田市松平町)といわれている


松平郷22

  室町時代初期(14世紀後半)に、清和源氏の新田氏の
  支族である世良田氏(得川氏)の一族の世良田有親の子
  世良田(得川)親氏が、鎌倉公方(または斯波氏)に敗れ
  足利氏の追捕を避ける為に出家をして、徳阿弥(とくあみ)と
  名乗り諸国を流浪していた


松平郷12

  三河国加茂郡松平郷に流れ着いた徳阿弥を、領主である
  松平(在原?)信重は、その器量を見込んで末娘の婿養子と
  したので、徳阿弥は還俗し松平三郎親氏と名乗り、松平郷に
  郷敷城を築いて「中山七名」と呼ばれる近隣の領主らを
  滅ぼし勢力を拡大させ、その後の松平氏の基礎を築いた


松平郷11

  しかし証拠となる史料などは無く、東国から流れてきた
  一武士が、松平信重の家を乗っ取ったのだとか、諸国を
  放浪をする職人だったとする説などもあるが、おそらく
  将軍家の出自だけに、上記のような箔をつけた次第だ


松平郷8

  松平氏の重臣となった酒井氏の系譜では、初代となった
  酒井広親は、徳阿弥(親氏)が松平氏の後を継ぐ前に
  三河国碧海郡酒井村の領主の婿に入った時の子だそうで
  酒井氏も松平氏の同族であるという 

  徳川家の家紋の「三つ葉葵」は、元々は酒井家のもので
  酒井忠次の代に、松平氏の家紋であった「片喰紋」と
  交換をしたそうだ


松平郷4

  他にも松平親氏が松平郷に入った後、賀茂明神に祈願し
  加茂神社の神紋(二葉葵・加茂葵)にちなんで葵を家紋と
  したとか、第七代の松平清康が吉田城や田原を攻める際
  本多正忠が味方したことで、勝利をおさめたと喜んで
  本多家の家紋であった「三つ葵」を召し上げたという説も


松平郷6

  葵紋はウマノスズクサ科のフタバアオイを図案化をした
  もので、フタバアオイの通常の葉は2枚で、三つ葉葵は
  架空のものであるそうだ

  松平親氏を助けて共に活躍をした、親氏の嫡子(叔父か
  弟ともいわれている)の泰親が、松平氏二代目を継いで
  近隣十数か村をも領有をするような、氏族に育てあげたと
  伝わっている


松平郷2

  松平家系譜の史料などで、実在が確認できるのは三代目の
  松平信光からで、第二代の松平泰親(叔父か大叔父とも
  言われている)、もしくは初代の松平親氏の嫡子(または
  末子)といわれており、生母は松平信重の娘であるそうだ


松平郷5

  松平信光は、室町幕府の政所執事を務める伊勢貞親に仕えて
  いたそうで、安祥(愛知県安城市)に進出をして西三河にも
  勢力基盤を築き、戦国大名としての松平氏の足固めをした


松平郷7

  こうして松平氏が平地に進出をする中、元来の所領である
  山間部の松平郷は、松平親氏の庶長子である松平信広に
  継承されたが、安祥松平家が台頭をするまでは、元来の
  所領を受け継いだ事から、その当初は松平嫡宗家と見られて
  いたらしい


松平郷13

  松平信重までの松平郷の領主が名乗る、太郎左衛門少尉の 
  通称から、松平郷松平家(松平太郎左衛門家)の当主も
  代々「松平太郎左衛門」を通称として名乗っていたという


松平郷15

  戦国の世で大きな手柄に恵まれず、江戸時代を迎えての
  所領は250石余り(のちに加増を受け440石)の旗本身分に
  留まったのだが、将軍家の発祥の地である松平郷を領有し
  松平親氏の直系の家である為、「交代寄合」として大名並みに
  参勤交代を行う家柄とされたそうだ


松平郷16

  この松平郷松平家のように、特別の由緒がある地方の豪族や
  大名家の分家、改易をされた大名家の名跡を継ぐものなどが
  「交代寄合」に列せられたそうだ。松平郷松平家には江戸に
  拝領屋敷はなく、参府の際には分家もしくは、前回にここで
  紹介をした、陣屋大名の「奥殿(のち田野口)」の大給松平家に
  宿したそうだ



松平郷14

  明治中旬に生まれた松平郷松平家二十代目の松平信博は、東京
  音楽学校の器楽部を卒業し、外国航路の楽士として世界各国の
  楽譜を収集し、詩人の西條八十と組んでの流行歌や、映画音楽
  管弦楽曲などを残している


松平郷17

  郡司次郎正の小説「侍ニッポン」は5度の映画化をされているが
  昭和6年の大河内傳次郎主演での主題歌は代表作となり、その
  歌碑があった

           人を切るのが 侍ならば
           恋の未練が なぜ切れぬ
           伸びた月代 寂しく撫でて
           新納鶴千代 苦笑い


松平郷9

  そんな流行歌で有名になった信博を苦々しく思って
  いたのが、四人兄弟の長女として生まれ、思春期を
  迎えた娘の松平須美子で、とかく横道にそれてしまい
  アコーディオンなど買い込む父親に、もっと本格的な
  芸術をやれと喧嘩をふきかけて父娘二人が、大声で
  言い争いをする始末だった


松平郷19

  そんな東京の下谷区上野桜木町の松平家からは、彫刻家の
  木内克のアトリエが見え、黙々と彫刻をつくり続ける姿に
  須美子は自分の父親にはない、芸術の道に真摯に打ち込む
  芸術家の姿に次第に憧れていった


松平郷18

  昭和23年。須磨子が22歳の時、木内が裸婦モデルを必要と
  している事を知って「私は芸術は好きだが、自分で創作する事は
  できない。だから役立つものなら、そういう仕事をしたい」と
  志願をして以来、30年にもわたって木内の専属モデルとして
  アトリエに通い詰め、木内に献身したそうである。当時、木村は
  56歳で、あんな賑やかな落着かない娘にできるわけがないと
  思ったそうである  



松平郷20

  1952年3月末の木内のアトリエ開きでは、純粋で感受性の
  強い須美子は「牧神の午後」のイメージで、木内と新アトリエの
  為に一糸まとわぬ裸で乱舞し、一同は静まりかえって、須美子の
  姿に吸い込まれたそうである


松平郷21

  1977年3月4日、急性肺炎のために85歳で木内が亡くなり
  須美子は人目もかまわず、激しく泣き伏したそうである。歴史と
  いうものは面白い。国を動かすような政治家や、経済人、文化人
  だけではなく、沢山の無名の人たちこそが、この国を作り上げて
  歴史を作ってきたのではないかと思う


松平郷23

  そんな訳で将軍や音楽家や、芸術の女神ミューズをも生み出す
  事になった松平氏のふるさと。山深き里には松平氏の城や
  館、菩提寺、墓所などなど所縁の史跡が立ち並んでいる


松平郷24

  帰りには大きな饅頭、紅白の饅頭なども売っている和菓子屋の
  ノーマルな松平まんじゅうを土産に買った


松平郷10

            平成22年3月28日に松平郷で撮影






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最終更新日  2010年05月17日 16時22分17秒 コメント(42) | コメントを書く


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