新聞でこんな記事を見ました。
シベリア抑留を描く演劇が、さる5月29日、ロシアで初演された。
 この演劇は『シベリアに桜咲くとき』。イルクーツクの作家ネリー・マトバーノワ(ブリヤート人)さんが、日露の和解と協力の出発点になればと願い、10年ほど前に一気に脚本を書き下ろした。明石市在住の元抑留者・山下静夫氏の画集『兵士の記録 シベリアの物語』(1993年刊のロシア語版)を原本に用い、元抑留者で民族学者の加藤久詐氏の『シベリア記』(1993年刊のロシア語版)なども参照した実録ものである。日本では抑留者の体険記録も数多く出ているし、抑留を措く演劇・映画も珍しくないが、ロシアではこれまで、抑留問題は、歴史の負の遺産とみなされ、公然と語られてこなかった。このところ過去の歴史を見直す機運が生まれ、西シベリアのミヌシンスクで、日常の友好親善・相互理解の「桜」の 蕾が開いたのだ。

ロシアも世代が変わって、きちんとした理解が広がるといいですね。
(2010年08月10日 11時00分02秒)

貴重な満州体験記・そしてリコウランの人生いろいろ

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kurashiki-keiko@ Re:65年前の8月9日、避難民生活の始まりでした。(08/08) 娘さんのかつての国語科教師です。授業で…
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リコウラン @ しがやん0710さん お返事が遅くなりごめんなさい。 母がよ…
リコウラン @ megumegu001さん お返事が遅くなりました。 ソ連側が書い…
EYASUKO @ こんばんは♪ 今日TVの番組で、池上彰さんが、「日本…

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2010年08月08日
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カテゴリ: カテゴリ未分類

私は第二次世界大戦と言うより太平洋戦争の戦争中は

満州國の北、ソ満国境琿春に住んでいました。

昭和20年8月9日

日本と不可侵条約を結んでいたソ連軍が一方的に条約を破って

満州に侵攻してきました。

琿春は図們河を挟んで向こう岸はソ連と言った国境の町。

琿春には国境警備隊の関東軍駐屯地がありました。

官舎の近くには「酒保」(軍隊内の売店のことで食料品や日常品を扱っていた)が

有りました。

当時、町で軍服姿の兵隊さんを見かける位で

戦時中という緊迫感はありませんでした。

8月9日の朝早く、住民にソ連侵攻の報道があり

2,3日避難しているようにということでした。

町の人たちは「強い関東軍」がソ連をやっつけてくれると信じていました。

着の身着のままの状態で、正午頃琿春駅に向かいました。

母は食べ物が必要と思ったのでしょう

家の米櫃に有ったお米を晒しの袋に入れて持って出ました。

唯一の持ち出し物でした。

私たちは日本の勝利を信じ大した着替えも持たず夏の着衣姿で

家を出たのです。そしてそれっきり65年間戻れていません。

2度と戻れない旅立ちになるとはとは夢にも思っていませんでした。

毎年8月9日には20年のその日の空が

きれいに青く澄んでいたのが忘れられません。

ブログでお知り合いになった「しげやんさん」が

「ソ連が満州に侵攻した夏」と言う本を送って下さいました。

その本によると、ソ連の参戦は翌年4月に日本との不可侵条約が切れた後

だと思われていました。

しかし8月6日アメリカが原子爆弾投下して、事態は変わりました。

うかうかしていたら戦勝国になれないと焦り、急遽作戦を変更してドイツ戦で戦った兵士を

ソ満国境に呼び戻したそうです。

休戦を受諾せざるを得ないところに来ている日本に寝返りをうったのです。

ただし日本はソ連とは宣戦布告をしていないそうです。

戦利品として御存じ北方4島と樺太を占領しています。

ソ連がソ満国境に侵攻してきた頃には関東軍の大半は

ソ連との不可侵条約を信じソ満国境の兵士を南方の戦地に移動していて

手薄になっていたのです。

そしてアメリカ、イギリス、フランス軍のような戦闘の犠牲も、期間も短い参戦で

戦勝国として利益を得たのです。

先日TVで北方4島の一つの島にに住んで居られた方が

8月15日以降島に上陸してきた兵士が

アメリカ兵出でなくソ連兵だったので大変驚いたと言っておられました。

そしてもっと人道的に許せないのは終戦後の捕虜収容です。

衣食住どれをも満足に与えず、重労働を強いられたのです。

戦争は悲惨です。地球に戦いの無い平和が来ますように!






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Last updated  2010年08月10日 02時19分52秒
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おはようさん  

Re:65年前の8月9日、避難民生活の始まりでした。(08/08)  
しがやん0710 さん
 昔から”勝てば官軍負ければ賊軍”(かてばかんぐん
まければぞくぐん)という喩えが云われてきました。

 つまり、戦いに勝ったほうが正義になり、負けたほうが
不義となる。道理はどうあれ強い者が正義者となるという
たとえですが、昔も今も一つも変わっていません。日本人
にとっては、悲しいことです。

 それから、しばらくお休みしていたわたしのブログ7月
末から再開しています。和歌山電鐵「たま駅長」の駅舎が
8月4日に「たまミュージアム貴志駅」として生まれ変わ
りました。ブログにアップしています。是非お越し下さい。 (2010年08月11日 14時07分18秒)

こんばんは♪  
EYASUKO  さん
今日TVの番組で、池上彰さんが、「日本の終戦は8月15日であるが、旧ソ連は終戦条約の結ばれた9月2日を戦争終結と主張し、現ロシア政府が、それを65年経った今年になって追認したと話していました。
満州に侵攻したソ連軍(当時)は、そのまま樺太を経て北方4島にまで攻め上ったのが8月15日過ぎ。それゆえ戦争終結が9月2日と主張することにより戦争による占領権が主張できると言わんがためだそうです。
その爪あとは、例年拿捕されたり銃撃の脅威にさらされる漁船に反映されています。
何回かあった北方4島(とりわけ歯舞、色丹の2島)の奪回のチャンスをモノに出来なかった日本外交の情けなさに歯噛みする思いです。
ロシアの主張に対しても、「終戦の解釈が違います。協議をしませんか?」というしたたかさがあってしかるべきでないでしょうか?残念なことです。 (2010年08月11日 23時54分33秒)

megumegu001さん  
リコウラン  さん
お返事が遅くなりました。
ソ連側が書いたシベリア抑留のお話なんてどんな風になっているのでしょうか。
8月15日以降に身柄を拘束して、捕虜とは如何なものでしょう。
食事も一日に豆の煮たのを10粒位を支給し、極寒の暖房もない、寝具もない2段ベッド、たまに出るお粥も食器がなく
手作りの板の上にお玉に一すくい、それが見る見る間に凍って行ったそうです。
暖を取るために、禁じられていた岩塩を持ち込み、棒で砕いてそのまま薬のように飲み込むとドクドクと体が脈打ち熱くなり、寒さが感じなくなるそうです。
塩を飲むことで体力が弱まり、亡くなる人も多かったそうです。
亡くなられると・・・・・ここから先は惨過ぎて書けません。
ソ連は日本人墓地を造って弔っていると見せかけて、戦後訪れた人を案内しているそうですが、本当に身元が判っている人は少ないようですよ。
人道的な扱いをされなかった現実をソ連側から記述するでしょうかね。
戦争の惨さは一般国民に降りかかってくるものです。
靖国神社に連れて行ってもらって
心の痞えが少し取れた気持ちです。


>。
-----
(2010年08月15日 21時13分58秒)

しがやん0710さん  
リコウラン  さん
お返事が遅くなりごめんなさい。
母がよく口にしていました。「勝てば官軍負ければ賊軍」
久し振りに聞きました。(目にしましたかな)
ソ連参戦の本有難うございました。
私が勝手に戦勝国になりたさに条約違反をしたと思っていましたが、本を読ませていただき間違いなかったとよく理解できました。
まだ読み終えていません。もう少し拝借お願い致します。

たまちゃん、ますます人気者ですね。
しげやんさんのブログに行きつけなくって、ご無沙汰しています。


> 昔から”勝てば官軍負ければ賊軍”(かてばかんぐん
>まければぞくぐん)という喩えが云われてきました。

> つまり、戦いに勝ったほうが正義になり、負けたほうが
>不義となる。道理はどうあれ強い者が正義者となるという
>たとえですが、昔も今も一つも変わっていません。日本人
>にとっては、悲しいことです。

> それから、しばらくお休みしていたわたしのブログ7月
>末から再開しています。和歌山電鐵「たま駅長」の駅舎が
>8月4日に「たまミュージアム貴志駅」として生まれ変わ
>りました。ブログにアップしています。是非お越し下さい。
-----
(2010年08月15日 21時31分00秒)

EYASUKOさん  
リコウラン  さん
お返事が遅くなってごめんなさい。
ソ連と言う国はそんな国なんですね。
日本は8月15日に終戦ですから、その時に北方4島に上陸しても戦はなかったでしょうに。
関東軍の兵士は8月18日頃に戦場を離れ夜間暗闇の中撤退していたところ見つかり降伏(8月25日頃)して、武器を取り上げられたそうです。

ソ連としては9月2日にしなければ国際条約の違反に問われますもの。日本政府は「日にちが違うでしょう」と抗議すべきです。
重ねてソ連と言う国はそんな国なんですね。

体調如何ですか。夏の暑さには耐えられるのでしょうか。



>今日TVの番組で、池上彰さんが、「日本の終戦は8月15日であるが、旧ソ連は終戦条約の結ばれた9月2日を戦争終結と主張し、現ロシア政府が、それを65年経った今年になって追認したと話していました。
>満州に侵攻したソ連軍(当時)は、そのまま樺太を経て北方4島にまで攻め上ったのが8月15日過ぎ。それゆえ戦争終結が9月2日と主張することにより戦争による占領権が主張できると言わんがためだそうです。
>その爪あとは、例年拿捕されたり銃撃の脅威にさらされる漁船に反映されています。
>何回かあった北方4島(とりわけ歯舞、色丹の2島)の奪回のチャンスをモノに出来なかった日本外交の情けなさに歯噛みする思いです。
>ロシアの主張に対しても、「終戦の解釈が違います。協議をしませんか?」というしたたかさがあってしかるべきでないでしょうか?残念なことです。
-----
(2010年08月15日 21時53分38秒)

Re:65年前の8月9日、避難民生活の始まりでした。(08/08)  
kurashiki-keiko さん
娘さんのかつての国語科教師です。授業で藤原てい著「流れる星は生きている」を朗読することがあって、たぶん印象深く聞いてくださったのではと思っています。私も実は中学の恩師にそういう時間をもらい、ぜひにと思って実現したものでした。もう40年近く前の話です。このたびの震災でも福島原発の避難者は何もわからずに何も持ちださなかったとのことでしたが、非難の状況はよく似ています。そうと知っていればもう少し何か持ち出せたであろうに。
悲惨な戦争の一番の犠牲者は幼い子供だと思います。 (2011年08月18日 12時04分34秒)

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