アンティークな琥珀堂

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ウェッジウッド



「英国陶工の父」と称されるジョサイア・ウェッジウッドは、1730年、“チャーチヤード工場”を営んでいた陶工トーマスとメアリー・ウェッジウッドの末子、第13子としてイギリス、スタッフォードシャーに生まれました。

9歳の時に父親が亡くなると、長兄の受け継いだ工房で徒弟となり、修業後、1754年には当時英国の最も偉大な陶工で、フェントンのマスターポッターであったトーマス・ウィルドンとの共同経営に入ります。そこでジョサイアは実験につぐ実験を重ね、アゲート ウェア、クリーム ウェア、新しい釉薬などの研究を進めました。

彼は、後にこう記しています。「作品の胎土、上釉、色、形をたえず改良していこうと試みる時、我々を取り巻く大地は限りなく広がり、良い土は豊富にあり、労をおしまず努力する者には、その苦労にむくいる充分の恵がある。」これらの実験がその後の活躍の布石となり、また事業に欠かせない財産となりました。
これまでの陶芸を一歩進めて、芸術の域まで洗練させたい。」
それを夢見たジョサイアは、生涯、研究と実験を重ね、いくつもの名品を誕生させました。

完璧を目指して実験を重ね、白い食器を作るのが難しかった当時にしては画期的な乳白色の「クリーム ウェア」を生み出します。この優雅なクリーム ウェアは時のシャーロット王妃を魅了し、1766年、シャーロット王妃より「Potter to Her Majesty(王室御用達の陶工)」と認められ、「クィーンズ ウェア」の名が与えられます。ジョサイアはこの時点で満足せず、さらに研究、実験を重ねました。

そして、1768年には深みのある光沢を放つ「ブラック バサルト」を完成。さらに、1774年には数千回の試作を経て、最大の偉業であるオリジナルの素地「ジャスパー」を完成。このユニークなストーン ウェアは、地の色はさまざまで、その上に古典的なレリーフを施してあり、まもなく世界中で多大な人気を博すこととなりました。

1759年、28歳のジョサイアは、アイビーハウス工場(Ivy House Works)を借り受け、独立。すなわち、これがウェッジウッド社の創立です。その後、工場をブリックハウス(Brick House)、自身で建設したエトルリア(Etruria)へと移しながら、ウェッジウッド社を不動のものとしていきます。特に、当時としては最大級の工場であったエトルリア工場では、合理化、規律、品質管理、専業化、従業員の福祉・健康管理など、革新的なシステムを導入していき、科学と美と事業を一体化し、「質の高さ」と「多くの人々の手に」という一見相反した理念を実現していきました。このジョサイアの精神こそ、現在のウェッジウッド社に流れている基本理念となっています。

ジョサイアはまた、ビジネス上のパートナーにも恵まれ、斬新な発想を実現化し、成果をあげていきます。当時、首都ロンドンにエレガントなショールームを設けたのもそのひとつです。
目抜き通りに開設したショールームは、宣伝方法として大変な効果をあげました。
このショールームのマネージャーにもなっていたのは、1769年から共同経営を始めた、生涯の友トーマス・ベントレーです。トーマスは裕福なリバプールの商人で、芸術、文化に造詣が深く、彼の知識や社会的人脈は、ジョサイアの人生及び事業に限りない影響を与えました。

また、他の斬新なアイディアとして、商品カタログを初めて制作した事も挙げられます。

現代ではよく見受けられる手法ですが、美しいカタログを店に置くことで、在庫がなくても注文を受け、効率よく生産することを可能にしました。

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サラとの間に誕生した子供たちは、ジョサイアの陶工家、科学者、社会事業家、企業家など、あらゆる側面を受け継ぎ、活躍しました。長女のスザンナは後に『種の起源』を発表したチャールズ・ダーウィンの母親となり、長男のジョンは王立園芸協会の初代財務長となりました。また、事業を次いだ次男のジョサイアII世は、画期的な美しい素地 ファイン ボーン チャイナを完成させ、最年少の息子、科学者トーマスは、「英国写真の父」という称号を与えられています。 そして、その子孫にもジョサイアの科学的、革新的精神は脈々と引き継がれています。
Wedgwood Family >>

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世紀、ヨーロッパ諸国では白い陶磁器の開発にしのぎを削っており、ジョサイアもその中の一人でした。ジョサイアは、次々と釉薬や素地の実験を重ねて、ついにイギリス製陶史上において驚くほど優雅で美しい鮮やかなクリーム色の陶器、「クリーム ウェア」を生み出します。

この美しさに目を奪われた時の王妃シャーロットは、ティーセットやコーヒーセットをウェッジウッド社へ注文し、さらに1766年には「クリーム ウェア」に「クイーンズ ウェア」という特別な名称を与えました。その後「王妃御用達の陶工(Potter to Her Majesty)」の名声は世界中へと広がり、各国の王侯貴族からも注文が相次ぐこととなりました

世紀後半、イギリスでは芸術の風潮がロココ趣味から新古典主義へと移り、芸術家や建築家は古代への憧れを表現し始めます。クリーム色のクイーンズ ウェアの実現に成功を収めたジョサイアは、次に「黒」に永遠の美を見出しました。

1768年、英国スタッフォードシャーで長年「エジプトの黒」として知られ作られていた粗質で黒い陶器を洗練、改良し、「ブラック バサルト」を完成させます。それは、固く密質で、ジョサイアは、「自然の石バサルト(玄武岩)と殆ど同じ性質を持つ。」と記録しています。ブラック バサルトは、見た目がアンティークのブロンズのようで、様々な装飾品に使われました。

バサルトは、磨き上げることも出来、また自然のにぶい光沢のままにしておくことも可能ですが、彼はその表面を宝石研磨用の旋盤で磨き上げ、しばしばエナメル彩で古代の蝋画のような絵付けを施しました。

黒いカップでお茶を飲むとコントラストでより手が白くみえ、それが当時の流行に適っていたこともあり、ブラック バサルトのティーカップは18世紀の貴婦人達に好まれました。これもまた、時代の流れにのることに長けたジョサイアの商才のひとつとして挙げられるでしょう

転写と時代背景

転写技術は装飾陶芸の先駆的な新しい技法として、ジョン・サドラー&ガイ・グリーンによって1756年に開発され、のちにジョサイア・ウェッジウッド(ウェッジウッドの創始者)により採用されたものとして知られています。
1700年代、その頃の陶器の流行として、中国から輸入されたもの(現在、Flow Blue「フローブルー」と言う名で知られる)が代表的でしたが、価格的にとても高価で、贅沢品として扱われていました。価格のより安価な類似品が、その頃から、1800年前半にかけて、イギリスの焼き物町、スタッフォードシャー地方の100ほどある、焼き物工場で、数多くの転写技術を用いて、中国のデザインをまねたものが、製造されていたと言う記録が残っています。('Survey of the City of Worcester' published in 1764)

Flow Blue「フローブルー」
ジョサイア スポード 一世(スポードの創始者)によって開拓された、コバルト・ダイオキサイド着色技術と共に転写が無くてはならない存在として多くの工場で活用されていました。
1820年頃、石灰や塩化アンモニアをグレージングプロセスする際に使用することでフローブルーの青さを高め、にじませる技術の第一任者として、ジョサイア・ウェッジウッド(ウェッジウッドの創始者)が知られています。
青さのにじみ具合は製造会社によって違うものの、1820年代のものは、青さの濃いものが好まれましたが、1830年代になると、青さの強さがよりソフトなものの方が好まれたようです。その頃のフローブルー転写のデザインとしては、共通して中国などのオリエンタルな風景画を取り込んだもの(「ブルーウィロー」、「インディアン・ツリー」など)その他、田園風景、情景、を描いたもの、ロマンチックなものなどが製造されたようです。
ブルー色だけでなく、その他、レッド、グリーンを用いたものが主にあげられます。
それらのデザインは、現在まで、こよなく愛され続けています。

参考にしたリンク、便利サイトなど
http://www.thepotteries.org/patterns/willow.html

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お世話になったサイト

■NOP Design http://www.nopdesign.com
■Angelique http://www.miyuweb.com/angel
■goo 辞書 http://dictionary.goo.ne.jp/index.html


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