アンティークな琥珀堂

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ダイアモンドの歴史


<ダイヤモンドの歴史>

[ ギリシャ時代|ローマ時代|ルネッサンスまで|カットセンターの変遷 ]

ギリシャ時代およびそれ以前(聖書での記述)

ダイヤモンドは旧約聖書に載っていると主張する人もいます。
聖書の「エレミア書」には(第17章1)「ユダの罪は、( Adamant ) のとがりをもってしるされ、彼らの心の碑と、祭壇の角に彫りつけられている。」と書かれています。
「エゼキエル書」には(第3章9)「わたしはあなたの額を岩より堅い ( Adamant ) のようにした。 ゆえに彼らを恐れてはならない。」と書かれていると言うのです。
(しかし、ここで言うギリシヤ語の Adamant がダイヤモンドを指すという説に対しては、一般的には Adamant は鉄鋼もしくはコランダム Corundum (Al2O3)を指すという説が有力で、今日の学説では、旧約聖書やギリシヤの古典にはダイヤモンドが登場しないということで一致しているともいわれています。)


ローマ時代(プリニウスの博物誌)

はっきりとダイヤモンドが文献に現れるのはローマ時代になってからです。 プリニウスの博物誌(第37巻16章)では鉄鋼を含めて硬いもの全体を表現した「アダマス」という物質の一種として取り上げられ、その中で特にインド産のものとして、「透明で平滑な面が六つの角で出会っている。 それは二つの反対の方向へその先端に向かって先細りになっており、その一番広い部分でくっつき合っている」(今日で言う正八面体の結晶)と明記されているのが文献に残る最古のダイヤモンドです。
この説明の中にダイヤモンドの名前のもとになったアダマス( Adamas )は「征服し得ない力」を意味するギリシャ語に由来することが述べられています。 この Adamas が変形して Diamas から、後期ラテン語では Diamant になりました。 仏語では Diamant 蘭語でも Diamant です。
日本語のギヤマンはこの蘭語の Diamant からきたもので、本来はダイヤモンドの意味ですが、ガラスの切り削りにダイヤモンドを使用したことから、今で言うカット・ガラスをギヤマン細工と呼び、さらにガラス自体をギヤマンというようになりました。
ところで日本語の金剛石ですが、これも仏典のなかの「金剛不壊」からとったとされ、ダイヤモンドの硬さを象徴しています。


ローマ時代からルネサンスまで

ダイヤモンドのカットや研磨の方法を知らなかったローマ時代の人々にとって、ダイヤモンドは宝石ではなく正八面体の結晶(これは天然の鉱物としては、非常に珍しい)の持つ神秘性、そして何物よりも硬いという性質、それにはるか遠くの原産地であるインドから風に乗って伝えられた伝説などが色々に混じりあった、神秘的かつ呪術的な力なのでした。 ローマ時代の人々はこうした伝説的なあるいは呪術的な力を信じましたが、キリスト教の時代になると、ダイヤモンドの持つとされる力は単なる迷信として排除されました。 以降、カットの方法が確立して、その美しさが理解されるようになるまで十数世紀にわたり、ダイヤモンドは宝石の中でも低い扱いしか受けてきませんでした。
例えば、ルネサンス後期の著名な金細工師であったベンヴェヌート・チェリーニは、ダイヤモンドをルビイやエメラルドより価値が低く、価格もルビイの八分の一以下と決めています。
ダイヤモンドの研磨方法の発見
ダイヤモンド同士をこすり合わせたり、ダイヤモンドの粉末を付けた皮などでこすると、さしもの硬いダイヤモンドも形をかえます。 この事実がいつ頃から知られたのかはっきりしませんが、十五世紀初めには既に欧州では知られていました。 言い伝えによれば、伝説では 1475 年、ベルギーのルドウィグ・ヴァン・ベルケム (Ludwig van Berquem) が現代に通ずる研磨法を発明したとされています。
初期のダイヤモンドの研磨が目指したものは、ダイヤモンドの美しさを引き出す反射と屈折のうち、反射を良くすることにありました。 原石のすりガラス状の表面を削って、光沢のある面にします。 そして時には、不要な角の部分をすり落とす程度のものです。 古いカット方法はすべてこうした目的のためのものでした。(ポイント・カット)
その後、テーブル・カットやローズ・カットなどが開発されてゆきます。
(詳細については「<ダイヤモンドの形>形の変遷」の項を参照願います。)
1700 年ヴェネチアのガラス職人であったヴィンセント・ベルッチなる男がダイヤモンドの上下の部分に合計五十八個のカット面をつけた今日で言うブリリアント・カットの原型を創作したと伝えられています。 その後、トルコウスキーなどの研究と努力によって物理的にダイヤモンドを最も美しく見せるカットの詳細が決定され、今日の美しいブリリアント・カットが誕生しました。


ユダヤ人を中心にしたダイヤモンドの取引とカットのセンターの変遷

古代にユダヤ人の住んでいたパレスチナは地理的に交易の要にあたっていました。
多くの宝石はインドからエジプトへ、あるいはギリシャへローマへとパレスチナ(イスラエル)の地を通って運ばれていたのです。 このようなアジア、アフリカ、ヨーロッパの三大陸の架け橋にあたる交易ルートの真ん中にいたユダヤ人は商人としての才能にも秀でていました。 ユダヤ人がキリスト教徒の度重なる迫害の中で最後に便りになるのは宝石、中でもダイヤモンドであることを学んでいったのです。
ここではユダヤ人を中心としたダイヤモンドの取引とカットのセンターの変遷を場所別に述べてみます。

<ベニス>
ダイヤモンドは13世紀頃、インドの鉱山から地中海を経由してベニスに運ばれ、それからヨーロッパ各地に送られました。 ダイヤモンド取引はベニスから始まったといってもよいでしょう。
そして、1460年代に中継地点がリスボンに移るまでダイヤモンド取引を独占していました。

<ブルージュ>
13世紀から14世紀末までベニスからの原石はブルージュに運ばれブルージュはダイヤモンド取引加工の一大中心地として繁栄することになります。 14世紀初頭にはアントワープが台頭してきます。
ブルージュと北海を結ぶ運河が浅くなり、役に立たなくなるとともにダイヤモンド産業も衰退します。

<リスボン>
15世紀になるとポルトガルがインドへの直接航路を発見し(1498年)、原石取引の中心はベニスからリスボンへと移行します。 リスボンからアントワープ、ロンドン、アムステルダム、ベニスに運ばれてゆきました。 ポルトガルに於ける異端審理の宗教裁判とユダヤ社会の排除は結果としてセンターの衰退を招きます。 ですから、この頃には既にダイヤモンドの取引はユダヤ人の手に握られていたいってよいでしょう。

<アムステルダム>
16世紀の末に異端審理の宗教裁判によってスペインやポルトガルを追われたユダヤ人の多くは、当時、信教の自由とギルドの制約がなく市民的な自由を認めていた唯一の国オランダに安住の地を見いだし、アムステルダムはその後長くダイヤモンド産業の中心になります。 17世紀に入って、オランダはインドからの原石直接買い付けにのりだし、17世紀末には、アムステルダムは原石取引と研磨の中心地となりました。 
18世紀に入るとアムステルダムが研磨センターとして繁栄のピークを迎え、第一次世界大戦とナチスによる産業破壊により第二次の世界大戦の終戦と共にアムステルダムのダイヤモンド産業はほぼ幕を閉じます。

<ロンドン>
17世紀を通じてユダヤ人の中のセファルディー系のダイヤモンド商人は、インドとの密接な関係と、ブラジルにおける原石ダイヤモンドの発見を利用して、当時ブラジルとの航路の支配権を握っていた英国のロンドンを原石ダイヤモンドの供給センターへと築いてゆきます。 18世紀に入って原石取引と研磨業は分離され、その後ロンドンは今日まで原石供給の中心地となっています。 

<アントワープ>
アントワープは14世紀末以降ダイヤモンド・センターとして機能してきました。 第二次世界大戦はこのセンターに大きな影響を与えます。 第二次世界大戦中にオランダやベルギーからのユダヤ人難民はダイヤモンド研磨に関するノウハウを携えて米国、キューバ、イギリス、そして当時のパレスチナ(現在のイスラエル)へと移住していきます。 ユダヤ人大量虐殺の直後にユダヤ人のダイヤモンド技術者はアントワープに戻り、国際ダイヤモンド社会の中心的な力としてアントワープを見事に立ち直らさせました。 (詳細は後述のアントワープの地位およびHRDを参照願います。)

<テルアビブ(ラマトガン)>
第二次世界大戦後移住してきたユダヤ人の手で、1937年最初の研磨工場がペタハ・ティクバに建設され、その後も続々と研磨工場が作られ、テルアビブの近くにあるラマトガンにダイヤモンド・エクスチェンジができ 28階建ての世界一の規模のこのセンターを中心に運営されています。
 イスラエルは世界最大の研磨センターとなっています。
(詳細は後述のユダヤ人国家イスラエルとデビアス社を参照願います。)

<ボンベイ>
ボンベイとスラトには多くのサイト・ホルダーが集まっており、安い労働力を武器に重要な研磨センターとなっています。

<ニューヨーク>
実際の研磨は主としてプエルトリコで行われています。

<その他>
ダイヤモンドの研磨は安い労働力を求めて移動する側面があります。 一時は盛んになりかけたタイの研磨産業は人件費の高騰で足踏みしています。 他方、旧ソ連の崩壊後はCISおよびその周辺国での研磨産業への進出がみられます。 将来的には中国の労働力にも注目が集まっています。


ダイヤモンドと、デビアス

古代、唯一のダイヤモンドの産地はインドでした。 1730年代になって初めて、ブラジルが産地として登場しました。 しかし大資本が存在せず、殆どが奴隷中心の人海戦術による採鉱にすぎませんでした。産出量も平均すると年十万カラット程度で、資本の不足から、後の南アフリカに見られたような大規模採掘は行われず、地表を人力で探す程度に終始しました。 しかし、ブラジル産のダイヤモンドは、それまでにインドから細々と流入してきたものと比較すると莫大な量といえました。 これが契機になって、欧州各地、特にアムステルダム、アントワープなどの町にダイヤモンド加工工場が初めて設立されました。 家内工業から産業への転換の始まりでした。 これらの貿易、加工、販売のすべてがユダヤ人の手によってなされてきました。

ブラジル産のダイヤモンドは 1860 年代には早くも枯渇し始めました。 このため、折角誕生した欧州のダイヤモンド産業も、倒産や縮小の危機に見舞われました。 だが、丁度その時に、南アフリカで新しい大鉱脈が発見されました。 1866 年のことでした。
1899 - 1902 年にかけて起きた南アフリカのボーア戦争は、典型的な帝国主義戦争として知られていますが、色々な側面が指摘されています。 英国参戦の主な理由は、十七世紀に入植したオランダ系の白人であるボーア人が支配する共和国での黒人解放と、英国系外国人居住者の地位確保が主なものでした。
しかし、英国が戦った真の目的は、十九世紀後半に発見されたキンバレーのダイヤモンドとトランスバールの金を経済的に支配することにあったと言われています。
アフリカ南部でのダイヤモンドの埋蔵量の膨大さは、すぐにはっきりとしてきました。 1870 年にわずか十万カラットであった生産は 1913年には六百万カラットへと増大しました。 こうした急激な過剰生産はダイヤモンドの価格を非常に不安定なものにしました。 このような事態を放置すれば、ダイヤモンド採鉱業者は、いつまでたっても利益なき繁忙へと追いやられるだけであることをいち早く見抜いた男がいました。 その人の名前はセシル・ローズ Cecil Rhodes です。

ダイヤモンド生産の集約

セシル・ローズは 1881 年にロスチャイルド Rothschild (ユダヤ系)資本の後ろだてでデビアス鉱山会社 De Beers Consolidated Mines を設立、1988 年には当時最大のライバルであったキンバリー鉱山を合併しました。 その後、ウェッセルトン Wesselton、ヤーガースフォンテイン Jagersfontein など、現在でも生産を続けている鉱山群を買収し続けました。 ローズの率いるデビアス社は十九世紀末には、当時知られていた生産地の九割以上を支配するようになりました。
しかし、ローズが死去した 1902 年にはプレミア Premier 鉱山が発見されました。 この巨大な鉱山はデビアス支配下の全鉱山の生産量と同じダイヤモンドを産出しました。 さらに 1908 年には現在のナミビア、当時の独領南西アフリカで、巨大な漂砂鉱床が発見されました。 こうしてデビアス社自身の生産支配は大きく低下して二十世紀初めにはわずか四十パーセントに落ち込んでいました。
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デビアス社による独占

ドイツ系のユダヤ人オッペンハイマー Ernest Oppenheimer は 1917 年に現在でも世界最大の金生産者であるアングロ・アメリカン社 Anglo-American Corporation を設立、次いで、第一次大戦後に独領から南アフリカへの信託統治となった、南西アフリカで発見されていた漂砂鉱床の鉱山を入手、コンソリデイテッド・ダイヤモンド・マインズ社 Consolidated Diamond Mines of South West(CDM)を設立してダイヤモンド業界に進出しました。 そしてその彼が 1926 年にデビアス社の役員になり、1930年にはデビアス社の会長になったのです。 この様にしてダイヤモンド生産の主要業者を支配することになった彼が作り上げた機構は今日でも他に類を見ない独創的でかつ精密なものでした。

第一に、ダイヤモンド・プロデューサー・アソシエイション Diamond Producers Association(ダイヤモンド生産者組合( DPA ))と呼ばれる生産者連合を作り、生産調整を行わせました。
第二に、その生産物を一括して買い上げ、分類作業を行うダイヤモンド・トレーディング社 Diamond Trading Co.(ダイヤモンド貿易会社( DTC ))を設立しました。
第三に、それらのダイヤモンドを一手に販売するセントラル・セリング・オーガニゼイションCentral Selling Organisation(中央販売機構( CSO ))という機構を作り上げました。
こうした組織は今日でも基本的には同じです。 このシステムにより、デビアス社は生産調整を行うと同時に、生産実績に応じて販売内容と価格を決定、得た利益をプールすることで、生産調整に不可欠な買い入れ資金を得るという巧妙な循環システムを作り上げました。
勿論、このシステムに従わない業者に対して陰に陽に圧力を加えたのです。
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デビアスの機構

<英米投資会社 Anglo-American Investment Trust, Ltd.>
このトラスト資本団は、生産者側のデビアス合同をはじめとして、販売者側のダイヤモンド販売会社に至るまで、直接間接の投資によって、世界のダイヤモンド市場の中心になっています。
<デビアス合同鉱山 De Beers Consolidated Mines, LTd.>
自ら採掘を行う他、その子会社、生産組合、その他の独立会社との契約により、殆ど総てを総括している中枢です。
<ダイヤモンド・コーポレーション The Diamond Corporation, Ltd.>
デビアス合同の全額出資による会社で、採掘組合と非組合間の連絡、斡旋、買い取りなどを行い、契約によって各国から産出されるダイヤモンドを総て引き受けるなどをしています。
<ダイヤモンド生産者組合 The Diamond Producers Association>
デビアス合同やダイヤモンド・コーポレーションの諸会社が一丸となって、いわゆるダイヤモンド生産者組合を構成し、原石供給の統制を司っています。
<ダイヤモンド貿易会社 The Diamond Trading Co., Ltd.>
生産者組合から宝石用ダイヤモンドをダイヤモンド購入及び貿易会社 Diamond Purchasing and Trading Co., Ltd. を通じて引き受け、世界各地の大小消費者に売り渡します。
<工業用ダイヤモンド配給会社 Industrial Distributors (Sales), Ltd.>
生産者組合から工業用ダイヤモンドを工業用ダイヤモンド配給1946年会社 Industrial Distributors (1946), Ltd. を通じて引き受け、世界各地の大小消費者に売り渡します。


インドのダイヤ


 宝石と言えばダイヤモンド。インドは南アフリカでダイヤモンドが発見される1896年迄は、世界で唯一のダイヤモンドの供給ソースでありました。現在は産地ではありませんが、カットと研磨では世界で一番大きな市場に発展しています。カットと研磨は何と約58面体まで可能です。数量(カラット)で言って世界の92%のダイヤモンドはインドの町スーラットでカットされ磨かれています。このスーラットの街は同じくグジャラート州にあります。バローダの街からボンベイに向かって車で4時間くらいの所。2003年度において金額で言うと約86億ドルものダイヤモンドがインドから輸出(原石は輸入)されました。

 この様にインドはダイヤモンドの国でもあります。「STAR OF INDIA」と言う名前の有名な宝石がありますが、これはニューヨークの自然史博物館に永久保存されているスリランカ原産のブルー・スターサファイヤでダイヤではありません。インドで有名なダイヤは、世界で最も有名なダイヤモンド、"KING OF DIAMOND" であり、「コヒヌール(Kohinoor)」と言います。インドでは看板などでよく見かける言葉ですが、ペルシャ語で「光の山」と言う意味があります。現在、エリザベス皇太后の王冠の飾りとして、ロンドン塔博物館に収蔵されています。1852年東インド会社創立250周年記念にビクトリア女王にインドより贈られました。1858年王冠に収められ、以後歴代のイギリスの王妃の冠に据え付けられて来ています。インドは英国にこのダイヤの返還を求めており、印英間の外交問題の一つとなっています。このダイヤは英国のインド植民地統治時代、インドが搾取された象徴なのです。さて、もう一つ有名なインド産ダイヤがあります。それはフランスに渡ってしまい数奇な運命を辿る「ブルー・ダイヤモンド」です。ブルボン王朝の歴代の王妃が身につけ、最後の王妃となったマリーアントワネットがこよなく愛したダイヤです。因みにマリーアントワネット王妃は、このブルー・ダイヤとインド産シャトーシュ・ショールを愛したインドファンでもありました。このダイヤを持つと呪われて皆死んでしまったというダイヤなので、今では怖くて誰も持つものがなく米国の博物館入りしています。全く恐ろしい宝石です。青の他に、ピンクや赤、黄色にオレンジ、緑や黒のダイヤもこの世の中にあります。

2004年01月02日
“デビアス”離陸せず!?■
 今秋9月、イメージモデルのイマン(元スーパーモデルで現デヴィット・ボウイ夫人!)が黒い肌に世界最大級のダイヤ「ミレニアム・スター」(203カラットで価格は88億円)を輝かせてオープニングに登場する等、派手なプロモーションで日本に初上陸した超高級宝飾ブランド“デビアス”。
 19世紀末創業から世界中に数々の鉱山を所有しダイヤモンド市場を支配してきた世界最大のダイヤモンドシンジケートが2001年1月にLVMHグループと提携し、ジュエリーブランドとしてスタートさせたもの。レザーに大粒ダイヤモンドをあしらった斬新なデザイン等が目を引くが、商品のバリエーションが少ない上に目の玉が飛び出る超高額品ばかり。 でも、消費者にとっては知名度もなく、ブランドとして認知されていないのが実情。“デビアス”を扱っている都内百貨店では30~40坪の売場で月1億円の売上を期待していたが、なんと1,000万円前後に留まっているとか。LVMHグループがバックに付いていながら、ブランド戦略に問題があったのでは? いっその事“デビアス by ルイ・ヴィトン ”という名前にすれば良かったんじゃないの。

◎ダイヤモンドはどうして生まれたのか
-最新の「地球深部二段階説」-

 この地球上に存在する物質のなかで最も固い物質(硬度一〇)で、かつ現在では最も高価な宝石がダイヤモンドである。Diamondの語はギリシア語で“打ち勝ちがたい”という意のadamasからきている。しかし、このダイヤモンドは今だに多くの謎に包まれた宝石なのである。というのは他の物質の生成がほぼ解明されているのに、ダイヤモンドだけは、どこで生まれたのかが解明されておらず、いまだ諸説紛々の状態であるからである。
 しかし近年、アメリカ・イギリスの科学者と日本の東大教授で地球物理学の小嶋稔氏らが、「地球深部二段階説」という新説を提起し、注目を集めているので、その要点を紹介しておこう。
 ダイヤモンドには極(ごく)微量のヘリウム・ネオン・アルゴンが含まれており、その含有数値は地球のどんな岩石の数値より多いという。地球が生まれるのには隕石が大きな役割を果たしたと考えられているが、ダイヤモンドに含まれる前記の希ガスは隕石よりも多い。ということは、ダイヤモンドは、地球創成期の希ガスを抱えていることを意味していると考えられる。
 また、ダイヤモンドには立法体型の真中に八面体の核があることが判明し、「核と外側の結晶は別の場所で成長した」との説がアメリカ・イギリスの学者から一九八七年に発表された。


 小嶋教授はこの説と自分の研究を総合して「マントル (地球の地殻の下部を構成する層)が部分溶融するとマントルを構成する鉱物の結晶から、アルゴンのような希ガスが出てくる。立方体型のダイヤモンドの外側の部分の結晶が成長するとき、この濃縮された希ガス(ヘリウム、ネオン、アルゴン)を取り込んだ。……普通の八面体ダイヤモンドは下部マントルで成長、外側の立方体はマントルが部分的に溶融している上部マントルで成長したのでは」と推論している。
(朝日新聞一九八九年三月一一日号「ダイヤの故郷に新説」より)



 このような地球深部で出来たダイヤモンドはどうして地球の表面部まで上昇してきたのだろうか。これについても定説はないが、地球の核から立ちのぼる「ホットプリューム」という熱い物質に混じってやってきたのではとの説が唱えられている。
 このようにして地球表面部にのぼってきて固まった岩石が青色の硬い岩石=キンバリー岩(最初に南アフリカのキンバリーで発見されたためつけられた名)であり、現在地球上で産出されるダイヤモンドはすべてこの岩石のなかか、それが数百万年を費して風化浸蝕され、川岸や海岸に流れついて堆積した漂砂鉱床から産出されているのである。

◎ローマ帝国とダイヤモンド

 ダイヤモンドに関する最初の記録は、旧約聖書に記されたものであった。最も古いものは『出エジプト記』にみられるが、『エレミヤ書』第一七章には「ユダの罪は、鉄の筆、金剛石(ダイヤモンド)のとがりをもってしるされ、彼らの心の碑と、祭壇の角に彫りつけられている」とあり、ダイヤモンドが非常に固い物質で祭壇(真鍮でできていた)に文字を刻むのに用いられていたことが分かる。その他の記述は、ダイヤモンドが装身用の宝石として用いられていたことを示している。
 ローマの偉大な博物学者プリニウスは、その三七巻におよぶ著書『博物誌』のなかで、ダイヤモンドについて興味深い話を紹介している。ダイヤモンドの研究者砂川一郎氏の要約を引用しておこう。


 さてプリニウスによると、ダイヤモンドは東洋のただ一か所、人間が近づくことは絶対にできない深い谷間の底にだけ産する。原住民でもその谷底までおりて行くことはできないので、彼らは、山の上から谷底をめがけて腐肉の塊を投げ込む。この肉塊にダイヤモンドのかけらが附着する。この肉塊めがけて鷲が飛びかかってゆく。鷲は、肉塊を山の上の自分の巣まで運ぶとともに、これに附着したダイヤモンドも、山の上まで運ばれる。こうして、鷲の巣のまわりには、ダイヤモンドがちらばり、土人たちは山頂まで登って行って巣のまわりにちらばったダイヤモンドを拾い集めてくるのだという。」
(砂川一郎『ダイヤモンドの話』岩波新書)



 これを読んで、どこかで聞いたことのある話だと思われる人も多いであろう。『アラビアン-ナイト』のシンドバットの冒険のなかの有名な物語りと全く同じである。イスラム文学の最大の傑作である『アラビアン-ナイト』は、イラン、インド、ギリシア、ローマなどで語り継がれた物語を集大成したものであることを、このダイヤモンドの話ひとつからも実感できよう。ローマではダイヤモンドはインドから、絹は中国から輸入され、もっぱら上流階級の貴婦人の身を飾るのに用いられた。

◎インドとダイヤモンド

 さきの引用中の「東洋のただ一か所」とあるのはインドのことで、一八世紀にブラジルでダイヤモンド鉱床が発見されるまでの数千年間、インドは唯一のダイヤモンド産出国であり、輸出国でもあった。ムガル帝国時代にインドを訪れたフランスの宝石蒐集家タベルニエによると、ベンガル湾に注ぐクリストナ川流域のゴルコンダ地方のコウロウ鉱山では、六万人もの労働者がダイヤモンドの採掘に従事していたという。インドは現在でも多くの宝石を産出する国であるが、ムガル帝国時代の王宮や寺院(タージマハール廟など)は壁面にまでルビーやメノウなどの宝石をはめ込んだ装飾をほどこしていた。
 インドのダイヤ産地はすべて地質学でいう漂砂鉱床であったが、このゴルコンダ地方の鉱山は、大粒のダイヤモンドを産することで有名であった。現在イギリスのエリザベス女王の所有になっている「コーイヌール」とよばれる巨大なダイヤは、発見当時は八○○カラットもあったという。ムガル帝国を創設した初代の皇帝バーブルは、征服したインドの王子からこれを手に入れた。そのころからこのダイヤを所有した者が世界を征服するという言い伝えが生まれた。ムガル帝国が衰退に向かった一七三九年、ペルシヤ王が侵入して首都デリーを占領、このダイヤを奪った。ペルシア王は、このダイヤの光るさまをみて「おおなんとすばらしい光の山よ!」と叫んだ。以来このダイヤは「Mountain of Light」とよばれるようになった。
 このムガル帝国を事実上征服したイギリス東インド会社は、このダイヤを入手して、一八五〇年イギリスのビクトリア女王に献上した。伝説通り、ビクトリア女王は、大英帝国の女王として世界に君臨したのである。




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