全12件 (12件中 1-12件目)
1
大阪の自動車整備専門学校「ホンダ学園」に通っていた息子が我が家に帰ってきた。JAFの支部が地元に決まったためである。この支部での「整備部門」での採用は何と18年ぶりだという。直属の上司も「久々の新卒採用、待っていたよ!」と言ってくれたらしい。管区内での異動はあるにしろ、とりあえず地元でのスタートは、親としてとても安心である。東京での1か月の研修が終わり、5月からいよいよ現場での勤務が始まる。とにかく学び続けること、素直に感謝の気持ちを表すこと。「赤となる シグナル多き道程を 子よ急ぐなかれ 旅ははるけし」。私が母親に送られた歌を、改めて息子に贈りたい。
2017.05.06
コメント(0)
ホンダテクニカルカレッジに学ぶ長男も早や4回生。地元のホンダに就職するものと思い込んでいたものの、ある日「JAFに行きたい」とポロリ。困っている人を助けたいというのが動機らしい。確かに警察官になりたいと言っていた時期もあったと思い直す。すでに面接を終え、内定をもらう。ありがたいことだが、相変わらずマイペースで、自分の意思を最大限生かそうとするところが、何というか…。いずれにしても一級整備士の国家試験は相当難関らしいから、気を引き締めて学んでほしい。
2016.04.16
コメント(0)
確かに働きたくない人、気力のない人はいるだろう。しかし、今の失業率の高さの背景に「自由競争」原理による無慈悲なリストラや企業改革があると感じる。こつこつと生真面目に物を作り、その「物作り」に職人としてのプライドを持っていた人は多い。しかし、急激な機械化が進み、効率だけを追い求め、人件費の安い東南アジアや中国・韓国と競うために人を育成するという視点を忘れ、即戦力だけがもてはやされ、生真面目だけがとりえの職人気質の人は敬遠されてきたこの「高度成長にっぽん」の現実。結果的に「安かろう悪かろう」の商品が市場にあふれた。これがデフレに拍車をかける。農業・漁業・林業といった第一次産業もやはり「てまひまかけた商品」であるがために輸入に頼り、自給率は低下し続ける。そんなにっぽんの将来は大丈夫か!?上野公園で「炊き出し」に並ぶ「生真面目そうな人々」に出会い、考え込んだ。教育に何ができる????さて、上野動物園に入る前に、腹ごしらえ、というわけで、ファーストフード店でピザやらポテトやらジュースやらを買い込み、木陰で食べようとしたそのとき、やたら大きなカラスが舞い降り、われわれの昼食を奪うしぐさ・・。あわてて道路を隔てたお店のテーブルにさりげなく座り、何とか奪われることなく昼食を済ませて公園内に入る。上野動物園は「客寄せパンダ」不在でちょっぴりさみしかったが、夕方までのんびりのんびり散策。改めてその広さに感心した。 小1の息子は「ふれあいコーナー」がお気に入りで、恐る恐るヤギやらニワトリやらに触れ、慣れてくるとそのあとを追いかけ始めていた。中3の長男はちょっと退屈そうであったが、今回買ったばかりの「ハイビジョンビデオカメラ」の担当として抜擢していたため、家族の姿を自分なりに構成して収めておこうと活躍していた。一番はしゃいでいたのは小6の長女。 「あのキリンのながーい首、かわいい!!」「あのかばのつるつるのお肌、さわりたーい!」「わたし、飼育係になりたい。いい?」と、やたら叫んでいた。つい最近までは「お花がいっぱいで、ケーキが置いてあって、お茶が飲めて、私のピアノを聴かせるお店を開きたい」と言っていた。いずれにしても、小6としてはちょっと現実離れしてるかなあと思いつつ、「いいんじゃない?」と返事をしておいた。 もう足がくたくた。上野駅を目指す。ところが・・・。出口と入り口が異なってたため、「コインロッカー」の位置が分からない。ようやく一つの荷物はゲットしたものの、もう一つの荷物の置き場が分からない。「あの時、トイレが近くにあったよな」「このお店、見たような気がする」「この階段の下じゃないか?」それぞれがそれぞれの記憶をもとに好き勝手に言うものだから、上野動物園並みに駅構内を歩き回る羽目に陥ってしまったのだ。最大のポイントは地下道の脇にあったこと。その地下道がどこに向かっていたものなのか、それを思い出せばいいのだが、誰も覚えていない。小一時間も歩いただろうか。目的のコインロッカーを見つけたときは本当に安心した。これでホテルに向かえる・・・。大荷物は二つ。そして小分けにした荷物が各自一つずつの合計7つ。それらを抱えて山手線外回りで品川まで出て乗り換え、「武蔵小山」駅に到着。インターネットで予約したこのホテル、すでに地図もゲットしており、簡単につけると思ったのが甘かった。駅でてすぐ左に曲がったのがすべての敗因。ホテルは右側にあったのだ。大きく待ちの中を回って逆サイドからホテルにたどり着いた7つの荷物を持った私たち家族は口も利けないくらい疲れきっていた・・・。 続く
2009.10.03
コメント(0)
昨晩、次兄と姉、私の3人で話し合いました。それによると、2400万円で15年前くらいに購入したマンションのローンが1700万円、銀行ローンの元金が200万円、カードローンが各50万円の3社で計150万円、借金総額2000万円余りにものぼることが分かりました。保険代理店として銀行から独立し、こつこつやってきたものの、現在はなんと年収60万円!月5万円の手数料しか入ってこないそうです。10年位前から生活費を稼ぐためにやってきた朝市の手伝いが月11万円くらいしかなく、これも59歳の身には厳しく、今年4月末で退職、現在は就職活動中、つまり無収入です。そんな中で、古い友人から徳島のインターネットカフェの経理責任者として赴任してもらえないかと打診があったそうで、本人はその気になっていますが、決定が10月。8月末は何とかなりそうですが、9月末のカードローンの利子部分さえ払えない状況、あとはサラ金しかないという切羽詰った状況です。自己破産も考えてみたそうですが、次兄の借金はゼロになる代わりに、マンションのローン1700万円の連帯保証人に長兄がなっており、その肩代わりをしなければならなくなる、ということで、それもできないとのこと。マンションもこの不況で、今売却しても1000万円に届かず、結局1000万円近い住宅ローンが残ってしまう・・・。しかし、今仮にカードローン分150万円を工面したとしても、残っている200万円の銀行ローンと1700万円の住宅ローンの返済にたちまち行き詰まり、補填と生活費のために、またまたカードローン会社に借りるという事態は避けられないこと、目に見えています。徳島の件がうまくいけば、手取り月30万円は硬いと本人は言っていますが、ちょっとあやしいです。さらに、すでに姉にこっそり借金をしており、それも全く返済していないことが分かりました。姉にとっては2回目の無心です。一体どうしたらいいのでしょう・・。
2009.08.29
コメント(5)
個人的な問題ですが、私は4人きょうだいの末っ子で、二人の兄と姉がいます。最近二番目の兄から「不況のため保険の仕事がうまくいかず、生活費にも事欠き、銀行ローン、カードローン含め350万円の借金がある。助けてもらえないか」との相談が姉にありました。兄は妻と離婚し、子どもも独立しており、現在はマンションに一人暮らし、離婚を機に銀行を退職し、細々と大手保険会社の委託事業をしていました。私にはまだ教育費がかさむ子どもがおり、遠慮して相談しなかったようですが、姉一人に任せるわけにもいかず、タイに住む長兄にも相談しているところです。正直、どう対応していいものやら、母のかいごのもんだいも含め、頭が痛いです。
2009.08.29
コメント(2)
小6の娘の自由研究のテーマが決まった。戦国武将豊臣秀吉に敗れた我が城主の足跡をたどるという。昨日一緒に県立図書館に行って検索すると、郷土資料コーナーで10冊以上見つかった。古文書とまでは行かないが、古いものでは明治35年の論文が残っていた。私も地元の人間として大体の話は聞いていたが改めて資料に目を通すとこれがなかなか興味深い。天下統一をめざす信長にとって毛利氏は目の上のたんこぶ。その信長の命を受けて、宿敵である毛利側につく我が城を落とす為、姫路城から4万もの兵を引き連れてやってきた秀吉は、(ここは資料によって1万、2万、3万と諸説ある)難攻不落といわれた山城攻めをやめて、周囲を包囲し、徹底した兵糧攻めを開始した。場内には、我が城主の家臣1000名に加え、秀吉による「皆殺し」のうわさにおびえた近隣の人々3000人が篭城していたという。しかし秀吉の戦略は徹底していた。一粒の米も穀物も搬入させないため、周囲の田畑を焼き尽くし、村々には密使を送り込み、情報を収集。秘密の補給路は次々に封鎖された。海から川に入り、食料を補給しようとした毛利の援軍も豊臣側の水軍に破れ、その任務が遂行できない。(食料を積んだ船が何十槽も沈められた。強い水軍も持っていたんだ・・・)食べ物の尽きた城内では草や根はもちろん軍馬まで食われ、しまいには犬も、そしてついには人までもが食われる地獄絵図が・・・。ここで秀吉は和解を申し出る。降参すれば城主も含め、命は助けてやるというのだ。城主はきっぱりと拒否した上、和解ではない、条件を出す。自分の首を差し出すかわりに、家臣そして城下の人々を助けてほしいと申し出たのだ。もとより、無血入城を考えていた秀吉は「何も死ななくても」と考えていたらしい。しかしそこは武士の情け。秀吉は了承し、若き城主のために最後の晩餐会まで準備させたという。我が城主は山麓にある寺で自刃、臣下数名も後を追い、数ヶ月にも及んだ戦いの幕は閉じた。時に35歳。この「自己犠牲」の勇敢な姿は後々まで語り継がれ、戦中は戦意高揚に利用され、戦後も市民有志によって銅像まで建立された。その山城と城主の墓、そして秀吉が陣取った山などはすべて校区内。というわけで、娘の小学校には本物の銅像のレプリカまで設置されている熱の入れようである。娘そっちのけで資料に夢中になった私、もう少し調べてみた。この城主はもともとお隣の県のお城のぼんぼん。それが毛利氏によっていきなり信長との代理戦争となる最前線に派遣された。そのときすでに秀吉は我が城を兵糧攻めにしており、「もう降参」と簡単に申し出た城主は熱血家臣によって追い出されていた。もっと気骨ある城主を、という求めの応じたこの若者。入城前に兵糧攻めに備え、大量の食料を供給するよう求めたが思うように集まらず、「首桶」を用意して城に入ったという。死を覚悟の入城である。時に秀吉の兵を夜襲したが双方にかなりの犠牲を払うだけで膠着状態が続いた。秀吉は兵隊の犠牲を最小限にとどめようと、数万の兵を有しながら、山城総攻撃のかわりに、大阪あたりから食料を次々補給していた。時にどんちゃんさわぎをして、村人に物量の違いを見せ付けた。一方で周辺の村々の田畑を焼きつくし、米一粒、芋一個の収穫も許さない、密使を送って補給路を断つ、なかなかの策士である。最後まで秘密だった補給路の一つはある婆さまによって暴露された。密使によって「城内におる娘に食べ物を届けてやる」とそそのかされた婆さまが、ついついしゃべってしまったのが運の尽き。「婆さまのせいでお殿様は・・・」と、後々まで村人からうんと責められたと記録に残っている。さて、近いうちに城跡はもとより、この秀吉が陣取った山城の峰続きにあるところに娘と散策に行って、秀吉の目線で山城を眺めてみようと思う。また、婆さまの暴露した山道には今も石畳が残るという。行ってみたい。若き城主が自刃した寺はなんと私の父が檀家としてお世話になっているその寺。今回資料ではじめて知った!父の死がきっかけで気心知れた住職にインタビューできたら最高だ。(今はお盆で忙しさのピーク。この前の初盆も10分ほどでお帰りになった。タイミングを考えなければ叱られそう・・・・)娘が興味を持ったのは秀吉という超有名な武将が我が城を攻めてきたという一点。彼女にとって戦国の三人の武将は憧れの的なのである。今の教科書はそんなふうなかきっぷりである。(ちょっと気になっている・・・)しかし今回、若き我が城主の「生と死」をどう読み解き、当時の家臣や城下の人々の思いをどう予想し、どうまとめていくのか、楽しみな夏休み後半である。
2009.08.11
コメント(0)
先日、息子と市立武道館に行き、一緒に弓道を楽しんだ。私は大学時代からスタート、3年生のときは三段になり、的中率抜群の副将として活躍、と言いたいところだが、本番にはまるっきし弱く、みんなの期待を裏切り続けたのであった。ただただ、仲間と打ち上げで酒を飲んだり、一緒にバイトしてためたお金で遠征試合に出かけたりするそんな雰囲気が好きだった。わが大学弓道部は弱かったなあ・・。成人してからは、年に1回、お正月に地元大学の弓道場に行き、2本だけ矢を放ち、その年の運勢を占っていた。今の新興住宅街に転居した15年前から体育系の友人から声をかけられ「市民体育祭」に出場。競技人口が少なく、レベルが高くないこともあって我がチーム(3人)は優勝、準優勝、悪くても3位入賞で、得点源として賞賛され続けた。息子が生まれたのは、そんなころ。3歳の頃から道場で弓道をする私の姿を見て「ぼくもしたい・・」と言っていた。そんな息子が中学校1年生になり、本当に弓道部に入ったときはとまどった。なんせ弓道は運動量があまりなく、精神的にしんどい競技。中学生にはマッチしていないと感じていたからだ。でも本人がやりたいというのだから、しかたないか・・。と思っていたら、市民体育祭に出ていることを知っている息子の同級生の父親や母親から「中学校の弓道、指導して」と依頼される。確かに中学校の顧問の先生は経験ゼロ、何せ競技人口が極端に少ないのだから仕方がない。でも中学校の部活は学校教育の一環だから一般人がコーチに入るのを好まない。ねばり強く学校側と話し合って了解を得たのが11月。土曜日だけのコーチだからあまり強くしてやれないまま息子は3年生。それでも主将に推薦されてからは、熱心に練習してきた。2年生のときから2位ばかり、個人戦優勝まであと一歩という状況で迎えた最後の「県中学総体」。仕事の都合で応援に行けなかったが、12射7中で同点決勝になったらしい。弓道では「射詰め」と言っているが、矢を1本だけ持って入り、当たるかはずれるかのサドンデスで優勝を決める。話によると、1本目、両者とも的中。2本目、両者ともはずしいよいよ3本目、先行の相手が的中、悲願の優勝のためには是が非でも当てなければならない場面で・・・。矢は12時(的の真上)をカチーンと音を立ててかすめ、後ろの砂の山(あづちといっている)にズボッとめり込む。これを俗に「けられる」という。的に矢がけられたのだ。運命は息子を突き放した。はずれははずれ、息子はまたもや優勝を逃し、中3の夏は終わった。まあ、1年生のとき一緒に入った友達が次々と辞めていく中(中学校の方針として辞めさせないので、実際にはさぼってるのだが・・)ねばり強く、こつこつと練習を続けてきた、そのことに親としては感心。というわけで、今は高校受験に向けて自宅で数時間、塾で数時間の勉強にいそしんでいる。ところが、辞めてから、したくなるのが部活の魅力。時々中学校の練習に「センパイ」として顔を出している。先日は、塾が終わったあと道場に行こうと約束、久々に一緒に楽しんだ。息子はふっきれたのか、抜群の集中力で皆中(かいちゅう:4本セットで的前に入るのだが、全部当たるのをこう呼んでいる)皆中の連続で9連中まで到達、一方、50肩に苦しむ私は満足に「会」(かい:矢を引き絞って的を狙う最終段階)までもっていけない。4射1中で息も絶え絶え・・・。終わってみれば息子は16射14中、私はわずか4中でぼろ負けだった。希望校は私の卒業した普通科高校。私は思春期真っ只中で先生に反抗し内申点が極端に低くて苦労したが、息子は点数で苦労している。まあ、現在5割しかとれていないのだから伸びしろがあるということになるわけで、「弓道のように、やればできる」とわけのわからないことを言って励ましている今日この頃である。
2009.08.08
コメント(4)
墓の状況が悪く、延期されていた納骨式が3日の日曜日に行われた。なんだか、すっきりした。でも母がさえない。「父ちゃん、死んじゃっただか・・」「誰か、いっしょにいてくれんだか・・」あいかわらず、この繰り返し。3日の夜、これまた一日前倒しの母の誕生パーティー。訳あり独身の次兄と、私の家族5人が実家に行き、84歳の誕生日を祝った。でも表情がさえない。「ばあちゃん、楽しい?」孫の問いかけにも、「うん、まあなあ・・」と生返事。翌4日はデイサービスで入浴させてもらえる日。ところが、昼過ぎにお風呂にも入らず帰ってきてしまった。理由は、私たちがお風呂に入っている間にいなくなってしまうのではないかという不安。いくつになっても付きまとうこの「不安」という厄介な感情。4日の夜は、私の長男と次兄が泊まることにした。5日、6日は次兄が泊まってくれるが、さすがに7日からは仕事。私も例外ではなく、7日以降のことで頭を悩ませている。父と苦労して建てた実家から一歩も離れようとしない母。車で10分ほどの私の家に来てくれれば・・妻は言ってくれるのだが、さすがに、実家に引っ越すことには渋い反応。子どもの学校のことを考えると私自身もその決意ができない。さてさて、このアポリア(難題)をどう解決するか・・・。今日、また実家の剪定作業をしながら考えることにしよう。
2009.05.05
コメント(0)
父の死から1週間以上が過ぎた。前倒しによる納骨は、墓のコンディションが悪かったため延期、明日日曜日に行われることになった。老いた母は、極端に一人を不安がるため、姉と私が話し合いながら今日まで実家にどちらかが泊まっていた。しかし、お互いに仕事も、子どもの学校もあり、いつまでもというわけには行かない。その夜、午後7時過ぎに実家へ。夕食はヘルパーさんと姉が準備してくれていた。その日は母「デイサービス」でお風呂に入れてもらっていたので、私一人風呂を済ますと、母と遺影やお骨のある祭壇の部屋で一緒に横になった。母と一緒に寝るのは、子どものとき以来だった。母は、とんでた記憶が戻ってきたのか、父の最期を詳細に、繰り返し繰り返し語った。「前の日の夜から、父ちゃんはしゃべれにょうになった。もう今夜が峠だと感じて、一晩中、顔をくっつけて、背中や腕をさすっとった。何度も口に手をやって息しとることを確かめた。確かにすうすう息をしとった。静かだったけどなあ・・・。明け方だったかなあ。急に眠とうなってうとうととした、そん時だ。「しまった」と思って父ちゃんの口に手をやると、息をしとらんかった。ほんの一瞬だったと思う。まだ父ちゃんはあったかかった。でも、もう息はせんかった。うなることもなかった。もう夕べから意識が遠なっとったんかなあ。でも苦しまんかったと思うで・・。」何度繰り返しただろう。最期の最期が看取れなかった後悔と、苦しまずに逝った安堵と、一緒に添い寝できたうれしさを繰り返し繰り返し語った。認知症の母の言うことが、どこまで事実なのかは、誰にも分からない。でも、たぶん言っているとおりだったのだろう。父は幸せだったと思う。次の日は日曜参観の振替休業日だったため、ゆっくり寝るつもりであったが、母は6時には起きて、朝食の準備をしてくれた。母は、今日が休みだということをすっかり忘れていた。食べている途中も、「何時に行かないけんだ。」と聞いた。「休みだ」と言うと、「そうか、なら、ゆっくりできるな」と、何度も言った。それからは、別の話題が繰り返された。「お前が、この家に帰ってくれたら、一番ええだけどなあ。でも無理は言えんなあ。」「そうだなあ、家も建てとるしなあ。」「え、家を建てとっただか。何で建てるだいな。この家があるのに・・・。」「2人が気楽でええ、って言っとったで。それに子どもらの学校のこともあるしなあ」「ああ、転校せないけんようになるけえなあ。そうか・・・。」このやり取りが、エンドレスに続いた。「一人で寝るだか・・。練習せないけんなあ。お前がこの家に帰ってくれたら、一番ええだけどなあ・・。」いつまでも付き合っているわけにも行かず、わたしは、畳の張替えの準備をした。父の「下の世話」がうまくいかず、2~3枚の畳がだめになっていた。すべてを更新することにし、今日搬入の予定だった。それまで、うっそうと生い茂っていた庭の立ち木の剪定作業をした。暗い影ばかりだった縁側に明るい光が差し込んだ。母が生きていることを、通りの向こうからも見られるように、洗濯物が縁側から干せるようにと思い切って剪定していった。午後3時、新しい畳が届き、あとは、明日の仏壇の搬入、月末の位牌の到着、5月3日の開眼式を待つばかりとなった。夕方5時、いつものヘルパーさんが、新人を連れてやってきた。ヘルパーさんに引き継ぎ、今日は甥っ子が泊まってくれるし、おばさんも来てくれるからと母を安心させ、私は帰路についた。
2009.04.25
コメント(0)
18日土曜日午前10時30分、父は近所の方々に見送られ、苦労して建てた自宅を後にした。もう二度と戻ってくることはない、もう泣くまいと思っていたが、そう思うとまた涙が止まらなかった。午前11時、父を乗せた霊柩車は、葬儀社の葬祭ホールに到着。位牌を持った喪主、遺影を持った母、遺骨箱を持った姉に続いて、私たち男兄弟や私のいとこたちに棺を持たれ、祭壇に設置された。みごとな祭壇であった。遠い親戚から仕事関係者、身近な親族による献花や小さな菊やランなどの切花が波打つ。中央の父の遺影はふくよかで満面の笑みを浮かべていた。今小学校6年になる私の娘が生まれたばかりの頃、父が胸に抱いてとった記念写真であった。男が圧倒的に多い私の家系で、久しぶりの女の子の孫に父は喜んだ。囲碁を趣味とした父は田舎三段の腕前、素人の大会では優勝を重ね、実家は賞状や楯、トロフィーでいっぱいになっていた。最も、ダンボールの箱に無造作に入れられていたそれらを、父が寝たきりになり始めた頃私が整理して並べたものだが・・・。実家から、認定証や賞状、愛用の碁盤や碁石も持ち出され、波打つ花の中にレイアウトされていた。これらの演出は、葬儀社の方が実家を見回して決めていったこと。プロとはいえ、父の思い、家族の思いがみごとに具現化されていた。午前12時15分、館内放送がある。まだ15分もあるのに、もう招集なのか・・そう思っていると、左奥の天井からスクリーンが静かに下りてくる。プロジェクターが映し出したものは、豊かな自然の動画と、幼少からの父の軌跡であった。次兄が選んでいた写真10枚がナレーションとともに浮かんでは消えた。最も長く父と過ごした末っ子の私には、見覚えのあるものばかりであった。腕白そうな10歳頃の父、母との仲を取り持った戦友であり、義兄でもあるおじとともに撮った兵隊姿、母との質素な結婚写真、家財道具は本当になべと釜だけだったと語っていた。母を連れての新潟への初の帰省、待たされ続けてもう今にも寝そうな顔で写った私の七五三の家族写真、私だけは新調の洋服だが、兄や姉の服は古びていて、貧しさの中で無理してとった記念写真であることをうかがわせる。そして最後は一昨年の米寿の祝いで撮った親族一同の集合写真・・。実はこの日の朝、父は持病の心筋梗塞の症状が出て、長兄が病院に運んでいた。しかし満面の笑みからは、全くそんな出来事を読み取ることはできない。まさに、走馬灯のように数々の思い出が頭を巡った。静かにスクリーンが上がり、住職が入場される。この世は四苦八苦、皆苦しみばかりだが、南無阿弥陀仏と念仏を唱えれば、必ず極楽浄土に導かれる、そういった意味のことを唱えられる。通夜で一度聞いた解説を思い出しながら、意味を考えながら聞いている自分がおかしかった。会葬者に向き合うと、生前の父について聞き取ったことを交えながら、最後のお説教。寺とは疎遠だった父だけに、住職もご苦労されたことだろう。これから地元に住む私が付き合っていくのかな、そんなことを考えているうちに住職は式場を去った。親族だけが残され、生身の父との最後のお別れ。花で埋め尽くされた父の冷たいおでこをぱちぱちたたきながら、私は泣いた。私の髪が薄いのは、父方のかくせい遺伝、父だけはあまり薄くならず、真っ白になっていた。もうひざに抱っこされることもない、約束だけは守れと怒られることもない、戦争責任について激論を闘わす事もない、酒を酌み交わすこともない、教育について熱く語り合うこともない・・・。心なしか、父が微笑んだように見えた。また、私は泣いた。棺にふたがされ、霊場に運ばれることになる。ちょうど、午後1時30分であった。午後2時ちょうど、父は焼き場の中に入っていった。それから1時間半、午後3時30分、父は白い骨になって再び現れた。霊場の係の方に見覚えがあった。およそ10年前、43歳で自死したいとこの悲しすぎる別れのとき、「まだお若いから、骨が焼けることなく、とてもたくさん残っています」と語られた、その方であった。父もしっかり残っていた。あんなにやせ細っていたのに、骨だけは頑丈だったんだな、魚を骨まで食べていたからかな・・そんなおかしなことを考えながら、しばしその骨を眺めていた。喪主、母の順でお骨箱に収めていった。お寺で戒名の意味を伝えられる。「誠誉芳道善居士」「誠実に生きろ」いつも私にそういっていた父。偶然ながら「誠」の文字が初めに来ていることに、私は驚いた。葬祭センターでの「精進落とし」を済ませて実家に戻ったのが午後7時。母は「父ちゃん、死んだだか、わしは、ひとりぼっちか・・。」と言って泣いた。皆が慰めても、思い出したように泣いた。「おまえ、この家に帰ってきてくれんだか」「ひとりはいやだ・・」私にそう言った。しばらく母は、仏になった父のそばで暮らすだろう。しかしそのうち慣れるのか、それとも誰かと暮らしたいと言い続けるのか、身の回りの世話は、別居状態で介護センターのデイサービスと妻、私、姉、義兄でやっていけるのか。これからのことが頭をぐるぐる回る。今日は、海外や県外に帰らなければならない兄達のために、初七日と四十九日をまとめて執り行い、父が戦前に段取りよく建てておいた墓に納骨する儀式がある。父の死を現実のものと受け止めきれないまま、儀式は淡々と続く・・。
2009.04.20
コメント(0)
昨日17日は通夜。家のことを済ませ、あらかじめ遠路来られる人たちのホテルの支払いを済ませてから実家に向かう。長兄と姉は浄土宗のお寺に打ち合わせ。私たち家族は、通夜の準備に追われていた。午後2時、葬儀社から「おくりびと」2人が来られる。長兄のかわりにご挨拶をしようと玄関に出るとかつて担任をした子どもの母親であった。バレーが大変上手で、はつらつとした印象のその保護者は「先生のご実家だったのですか・・・。このたびはご愁傷様です」「先生には娘が大変お世話になって」と私の母親に語りかけた。私は「何かのご縁を感じます。今日はどうぞよろしくお願いいたします」と、少し他人行儀に返した。父は、いつもの寝室から広い客間に移された。生前より「わしが死んだらここで身内だけで葬式してくれ」といって改装したその部屋へ。次兄を含む親族で父を運ぶ。「しばらく準備に時間がかかりますので、一旦別のお部屋へ。」と言われ、時間をおいて再び客間に入ると、防水シートの上に設置された「浴槽」に父は大きなバスタオルで覆われ、横たわっていた。「これより、儀式を執り行います」そう告げられ、母を初め、きょうだいとその家族が父に向き合うように正座した。まず「逆さ水」。左手のひしゃくに水を入れ、手前にひしゃくを傾けるようにしながら父の足元から胸まで一筋の水をかけていく。「戻す、返すということは避けるようにと言われておりますので、その点だけご注意ください」まず母から、長兄、次兄と水をかけていった。最後は小1になったばかりの私の息子といっしょに水をかけ、この儀式は終わった。ひとつひとつの行為のたび、おくりびとはその意味を伝えてくれる。家族の心情を思い、どうするのが一番よいか相談してくれる。まず父の真っ白な「無精ひげ」がそられ、姉が寝たきりの状態で散髪したため、少し「とら」になった髪を流れるような所作で洗っていく。入れ歯ははずされた。やせこけ、落ち込んだ頬に「ふくみわた」を入れるかどうか尋ねる。もちろん、生前の姿に少しでも近づけたい母は了承した。面白かったのが「化粧」。おくりびとからどうするか問われると、母は「女じゃありませんから、このままで」と言った。「そうか、そんな感覚だったんだ・・」内心、化粧によってもう少し血色のいい父にしてもらいたかった私は、「そのままがいい」という母のことばに「なるほど」と思った。「そうですね。ご主人様は、とてもおきれいなお顔をなさっていますから、このままがよろしいと思います」おくりびとは、母を気遣い、そう応えてくれた。「これから、皆様には少しお辛い作業になりますので、別のお部屋でお呼びするまでお待ちください」儀式ではなく、実際に父の体をきれいにしてくれる。顔を整えてくれる、そんな作業の過程には、いろんな苦労があるのだろうな、そんなことを考えながら、私たちはべつの部屋でお客を迎え入れる準備に取り掛かった。それから何と1時間。こんなにも時間がかかるのか、正直そう思った。再びその部屋に入ると、父は、長兄が選んだ白い装束に身を包まれていた。皆でその体を棺に納め、再び儀式が始まる。「浄土宗は、旅をする宗派でございます。そのお支度を始めさせていただきます。」親族が交代で父の棺にわらじとかさ、そして杖をそえていった。6文銭も入れられる。「父ちゃんは旅先でスリにあったことがあるからなあ。すられなきゃいいけど・・」次兄が、場にそぐわないジョークを飛ばす。誰も反応しない。花をそえ、棺にふたをした。すべての出来事が初めての体験であった。新潟の貧しい農家の三男として生まれ戦場では従軍看護兵として最前線で働き、シベリアに抑留されそうなところを命からがら日本に逃げ帰ってきた父に仕事はなかった。貧しさ故、医者になりたいという夢はついえた。長らく戦友の妹と文通をしていた。それが私の母。母の親戚を頼り、仕事をさがす。母の姉の夫が「靴職人」をしていた。父はそこに見習いで入り、腕を磨き、独立した。貧しかったが、仕事へのこだわりにはすさまじいものがあった。妥協することがなかった。黙々と靴を作り続ける父の横顔や後姿は記憶に鮮明である。注文が重なり、徹夜することもあった。無理して、若い頃わずらった肺炎が再発したときは「すまんなあ」と言いながら病室に向かうエレベーターの中で泣いた。私が見た、最初で最後の父の涙であった。私はまだ小学校の高学年であった。その時期、次兄の大学進学、姉の高校進学も重なり、我が家は極貧の状態に陥った。自由業の辛さ。とたんに収入が途絶えたからだ。給食費が払えず、私はつらかった。見よう見まねの簡単なかかとの修理や靴磨きは私の大好きな手伝いになった。何しろ収入に直結する手伝いだったから。集金業務は1年生の頃からしていた。「つけ」の多いその町で、集金は私の得意技。小さな子が「お金ください」というのだから、支払いを先延ばししたい人々も快く支払ってくれた。時にあめだまや小遣い銭ももらえた。そんなことを、私は思い出していた。そして父が大切に残していた一切れの茶色い「皮」を棺に納めさせていただいた。私は子どもの頃、こんないやわらかい皮があんなに硬い紳士靴の上の部分になることが不思議でたまらなかった。とうとうその技術を学ぶこともなく父はこの世を去った。おくりびとは「これですべての儀式を終わらせていただきます」と言い、玄関を後にした。そしてその保護者は振り返り、いつもの表情と声で私に語りかけてくれた。「先生、本当にご愁傷様でした。お母様を大切にしてあげてくださいね」ありがたいなあ、心からそう思った。午後6時、浄土宗の住職とその「弟子」が来宅、教えを説いた。「南無阿弥陀仏」と唱えるだけで極楽浄土へ導いてくれるという。無宗教で、仏壇も神棚もなかった私の家に、初めて訪れた「宗教」の教えであった。これから少し学んでみようかな、浄土宗のこと・・。そんなことを考えながらお経を聞いていた。
2009.04.18
コメント(0)
昨日午前9時25分、学校に妻から電話が入る。めったにないこと。用件を聞くと、私の父が死んだと・・・。年老いた母は、朝目覚めて、いつものように父に声をかけたらしい。しかし反応がない。「父ちゃんが息をしていない・・」そう姉に電話したのは午前9時。介護の中心となっていた姉に第一報が入る。姉は病院で外来の対応に追われていた。そこで私の妻に「実家に様子を見に行ってほしい」と電話。車で10分ほどの実家に妻は到着。父は確かにピクリとも動かない。動転して私に電話。ちょうど体育の授業に出ようとしたそのときだった。校長に事情を話し、実家へ。玄関を開けると、年老いた母が棒立ちで私の顔を見るなり「父ちゃんが死んだ・・」と号泣。その手をとって寝室に入り、母と一緒に呼吸と脈を確かめる。しかし確かめるまでもなく・・・父はすでに冷たくなっていた。私と母は泣いた。「父ちゃんが死んだなあ・・」「本当に死んだなあ」と泣いた。妻はかかりつけの医者に電話していたが、長い間自宅介護が続いていた関係で往診、死亡確認を断られる。私はやむなく119番通報をし、判断を仰ぐ。すぐに向かってくれるとのこと。同時に警察への通報を指示され、9時35分、救急車、そしてパトカーが到着する。心肺停止状態ではあったが、AEDによる心肺蘇生を試みてくれた。数分後、死亡していることを告げられる。救急車は引き上げ、警察の聞き取りが始まる。母も認知症が進んでおり、昨日のこと、そして今朝のことも語れない。ただただ「父ちゃんが死んだ・・」と涙ながらに訴えるばかり。昨日、私も妻も立ち寄ってはいない。姉の夫が午前中に見舞っている。そして介護サービスの方が午前11時と午後6時過ぎに食事の世話をしてくれたことが介護日誌によってわかる。父母は夕食を済ませ、早めに就寝したようだ。その後、検案のため、専門医が来宅、血液と髄液を採取し、簡易検査。「心筋梗塞による死亡、推定時刻は午前6時ごろ」と告げられる。母はたぶん午前8時ごろ起床したのであろう。ゆっくりゆっくり朝食の準備をして父に食べさせようと声をかけ、異変に気づいたらしい。警察による聞き取りは1時間以上に及んだ。病院ではなく、自宅での死亡についてはさまざまな可能性が考えられるためらしい。しかし母は時折思い出したように「父ちゃんが死んだ。早すぎる・・」「もう話もできんだなあ・・」「本当に死んだだか?」とつぶやくばかり。妻と私が、知っている限りの既往症や介護状況を説明。午前11時、姉が到着。警察に聞き取りに、てきぱきと気丈に応える。まるで病院で、一人の患者の状況を語るように・・。看護師としての語りが身に染み付いていた。検案をしてくれた医者のところに「死亡確認書」を取りにいき、市役所に死亡届を出すように警察の方に指示される。警察の聴取が終わり静寂が訪れる。姉は父母が会員として積み立てしていた葬儀社に来宅を依頼。午前12時過ぎ、男性社員が一人で来宅、父の体を拭き、衣装を調え、床を整える。姉と私、そしてその社員とともに父をその床に移動させると、大きなドライアイスをケースから取り出し、胸に、お腹に、足にと置き、固定する。その上から日頃使っていた布団をかけ、きれいに仕上げると、簡単な焼香台を設置した。父がだんだん遠ざかって行くのを感じた。しかし、そんな感傷に浸る間もなく、枕膳と塩、味噌、水を用意するよう指示される。大体が整ったところで、今後の打ち合わせ。私の兄、長兄は長年海外で働いているが、現在はタイが正月とのことで一時帰国中、県外の自宅に滞在していた。もう明日にはタイに変える予定で予約していた航空機をキャンセル、次の搭乗手続きをして実家に急いだ。次兄も県外から実家に向かっている途中。決められる範囲で姉と私が話し合いながら通夜や告別式の日程等を確認、お寺にも都合を聞き、今日17日が通夜、明日18日午前12時30分から告別式という段取りになる。夕方4時過ぎ、長兄が、5時過ぎに次兄が到着し、きょうだい4人そろって最終確認をしていった。これから学校に向かい、日程を報告し、残務整理、補欠授業を組んで実家に向かおうと思う。
2009.04.17
コメント(0)
全12件 (12件中 1-12件目)
1