〇六年沖大祭報告(4)

~見に来てくれたみなさんへ~


わたしたち沖縄大学旅の会が企画した「ザ・那覇」のテーマは大きくは二つあります。ひとつは「足元を見つめ『沖縄』を再発見しよう」ということです。旅の会のモットーでもある「『沖縄』にこだわる」を、もっとも身近な那覇の街を通して考えてみようというものです。那覇は沖縄のひとつの地域に過ぎませんが、そこを掘り下げていくことで、沖縄全体の姿が見えてくるような企画にしたかったのです。

 もうひとつは、「『沖縄』は面白いゾ」ということです。普段見慣れた風景、住み慣れた街から、何か新しい発見ができれば、「沖縄」の面白さを実感できると思ったのです。「知らないまま」「つまらないまま」にしておくのはもったいなさ過ぎます。
 以上のことを考えながら、腰の重い旅の会が動き出したのは夏休み頃からです。それぞれのメンバーが情報を持ち寄り、試行錯誤しながら、今回の沖大祭での展示発表にこぎつけました。拙い展示ですが、ぜひ最後までご見学ください。

 二つのテーマが、どの程度伝わったか、あるいは伝わらなかったかについては、見に来てくださったみなさんが、感想(アンケート用紙は受付に)を寄せていただければ幸いです。今後のサークル活動に生かしていきたいと思います。



那覇の歴史


一、島だった那覇


ずいぶん昔のことですが、那覇は「浮島」と呼ばれ、国場川の河口に浮かぶ島でした。そのためか港町として栄えていました。

 北山、中山を陥落させて三山の統一を射程に入れた尚巴志は、それまでの王都・浦添を首里に移動しました。その最大の理由が、那覇の港を手にすることだったそうです。王府は、何とか那覇=港と首里を結ぶことができないかと頭をひねった挙句に、海上道路を造ってしまいました。それには「長虹堤」という、なんとも優雅な名前がついています。それは現在の松山付近から崇元寺まで約1キロメートル続き、7つの水門を有する巨大なものでした。江戸時代の浮世絵師として有名な葛飾北斎は、「琉球八景」のなかで「長虹秋霽」という作品を残しています。

 那覇と首里の間は次第に埋め立てられ、周辺が陸地化していきました。水門の一つのアーチは「美栄橋」として残っていましたが、それも戦争でなくなってしまい、現在ではほとんど面影はありません。十貫瀬(じっかんじ)社交街(旧ダイエーの道路を挟んだ向かい側)のまっすぐな道路は、堤の名残ということです。そこも昔は海だったということは驚きです。


二、戦前の那覇


戦後の那覇の中心といえば「国際通り」ですが、戦前は那覇四町といわれた東町・西町・若狭・泉崎一帯が中心地でした。街はしだいに東へ広がります。しかしその当時、那覇から首里に向かう道路は、泊―前島(崇元寺)を経由しなければなりませんでした。

 この不便を解消するために造られたのが現在の「国際通り」にあたる道です。しかし、この頃は「国際通り」の面影はまったくなく、湿地帯の中を通る田舎の一本道でした。


三、沖縄戦で消えた街


現在にも影響を残すもっとも大きな出来事は、やはり沖縄戦です。地上戦に入る前である一九四四年十月十日には沖縄、奄美全域が空襲にさらされ、那覇では市街地の9割が消失し、二百二十人余が亡くなりました。空襲は朝7時前から夕方4時頃まで五波にわたり、はじめに海軍小禄飛行場と那覇軍港(および停泊中の大型艦船や艦艇)を破壊し、昼からは市街地を徹底的に破壊しました。焼夷弾を使った爆撃で、沖縄で使用されて以降、全国の各都市の爆撃でも多用されるようになりました。十日の朝、多くの市民の反応は「今日の演習はすごい、実弾を使っている。これだけ飛行機があれば日本の勝ちももうすぐだ」というものだったそうです。

四、戦後復興は壷屋から


戦争で焼け出された人々が、戻ろうとしたかつての那覇の街の中心部は、アメリカ軍が占領していました。わずかに出入りが許可されたのが、現在の壷屋一帯です。

 一九四五年十一月に先遣隊百三人が壷屋に入り、日用雑貨の生産を始めました。これは無償で市民に配られたそうです。周囲はアメリカ軍基地に囲まれ、米兵による暴行・レイプ事件が後を立ちませんでした。

 那覇市内で戦後初めてできた小学校は、壷屋初等学校です。はじめは、その日暮らしが精一杯で教育への関心もありませんでしたが、不発弾がごろごろする中で子供達を遊ばせておくことに危険を感じた住民たちが学校設置に向けて動き始めました。「不発弾の危険対策」が学校設置の理由だったというのは驚きです。


五、3年間存在した「みなと村」


北は字松尾、東は字与儀、西は漫湖をはさんで山下町、この一帯に戦後すぐ那覇港湾作業隊として編成されものが、一九四七年五月に「みなと村」となりました。那覇市に合併されるまでの約3年間、行政区として存在していました。旅の会にも知っているメンバーはほとんどいませんでした。

六、肥大化する那覇


ここまで当たり前に那覇と書いてきましたが、それは現在の那覇よりずっと狭い範囲です。戦前の旧市街(那覇四町付近)が開放されるのはまだ先です。つづいて小禄村、首里市、真和志市との合併問題が話し合われ、最終的に一九五七年の真和志市の合併で、現在の那覇市が形成されました。

 肥大化のもう一つの理由は、相次ぐ埋め立てです。漫湖や東海岸沿いの埋め立てで那覇は肥大化しています。、現在も安謝港辺りに行くと、海上埋立ての最前線の様子を間近に見ることができます。これからも那覇は肥大化していくのでしょうか?


七、小禄村について


戦後の小禄の中心地は、現在のジャスコ近辺ではなく、豊見城に近い宇江原や高良のほう(現在の小禄中学校や高良小学校あたり)でした。収容所から戻ってきた小禄の人たちは、村のほとんどが米軍に占領されていたため、わずかに解放された宇江原や高良一帯の狭い空間に集住するしかなかったのです。

 しだいに開放される地域も出てきましたが、やがて窮屈になってさまざまな問題が発生し、新たな居住地域の必要性に迫られました。小禄村の人たちは、漫湖の埋立を要請し、居住地域を手にしました。それが現在の鏡原地区です。現在の鏡原中学校は昔の漫湖の上に立っています。三三〇号沿いの那覇大橋に近い「うるくそば」の裏手には、森(ガーナー森)が茂っていますが、昔は漫湖に浮かぶ島で、同じく島だった奥武山と並んで景勝地の一つだったそうですが、今では完全に陸地です。

 ちなみに小禄高校の前には巨大なくじらが目立つ公園があります。「なぜ、くじら?」と思っていましたが、このガーナー森が別名「くじら毛(モー)」でした。多分これが由来ではないかと思います。


八、首里市について


首里は沖縄戦の時には首里城の地下に日本軍の司令部壕があったため特にひどく破壊されました。一九四五年十二月、知念村の収容所から建設先遣隊四十四人が汀良町(現在の首里中学校付近)に入り、整理作業や遺骨収集など戦後復興を開始しました。西森(「西森小松」のことと思います)は米軍の焼き捨て場で、まだ使えるミシンやタイプライター、毛布、材木などが燃やされていました。市民は、そこを“山形屋”と呼んで、喜んで拾ったそうです。

 現在、新都心で県立博物館の工事が進んでいますが、前までは龍潭池のそばにありました。この出発点となった「首里郷土博物館」は、一九四六年頃にはすでにできていたそうです。とても早い時期にできていたのだなと驚きました。


九、真和志市について


真和志は他の地域よりもアメリカ軍の占領期間が長く、収容所を転々とさせられた村民が村に戻れたのは一九四六年八月からでした。真和志の住民は、真和志初等学校(現在の真和志中学校)を、収容所のあった糸満市米須で開校しました。初等学校は、米須から嘉数(豊見城)へ、そして現在の場所へと移動してきました。安里初等学校(現在の安謝小学校)は、真壁村糸洲米軍キャンプ跡地で開校し、嘉数をへて現在の場所へ。大道初等学校(現在の大道小学校)は嘉数で開校し、現在の場所へ。村内の各学校が、村外の収容所などで次々開校されたというのは驚きです。さらに真和志の住民たちは、地域住民と協力して、戦後すぐ遺骨採集を行ない、いち早く慰霊塔を建てました。それが現在も糸満市にある「魂魄の塔」です。

 また軍政下で発布された「土地収用令」(一九五三年)に基づいて土地収用が初めて強行されたのも真和志です。アメリカは一九五二年十月、現在の新都心の一帯(銘刈、安謝、岡野、平野)の四部落に対し、立ち退きを言い渡しました。住民たちは立法院へ「なるべくなら立ち退きたくない」と陳情しましたが、翌年四月に強制接収が行われました。住む場所を奪われた人たちは、寄宮などに移住を余儀なくされたそうです。接収された土地には、アメリカ軍の住宅地ができました。


十、奇跡の一マイル=国際通り


街は、壷屋から開南、神里原(かみさとばる/現・神原)へ広がっていきました。開南には「闇市」ができ、大量の「戦果」が出回りました。「密貿易」が栄えたのもこの頃です。「闇市」はやがて、現在の「牧志公設市場」に移動されました。

 現在の壷屋小学校から「てんぶず館」付近にあった黒人部隊の集積所が撤退し、一九五一年頃から旧市内も開放されます。「国際通り」の名前の由来ともなったアーニーパイル国際劇場ができた(一九四八年頃、現・那覇テンプス館)のを皮切りに、しだいに街並みが形成されていきました。映画館は次々立ち並んだようで、当時の映画人気はすごかったようです。

 「国際通り」の顔的存在だった「三越」、「山形屋」、「りうぼう」という3大百貨店は、一九五〇年代には、すべてそろっています。


十一、平和通り


戦後復興の頃の平和通りの写真を見ると、屋根がありません。そして中央に川(ガーブ川)が流れています。「平和通り」という名称は公募で決定したそうです。近くに「平和館」という映画館があったことも無関係ではないと思います。

 「平和通り」は、「公設市場」ができてにぎわいましたが、ガーブ川がことあるごとに氾濫し、水害がくり返されました。川をまたぐようにして開かれた「水上店舗」を取り壊して、ガーブ川に蓋をする工事が終了したのが一九六五年です。
ちなみにガーブ川は、与儀公園内を通り神原中学校のそばを経て、平和通り―沖映通りの地下を流れ、旧ダイエーの手前、学生がよく使うカラオケ屋ディスワン付近で再び地上に現れ、やがて久茂地川に合流します。

 現在のアーケードが完成したのは一九八二年。ベトナム戦争期には、落下傘で屋根を覆った「落下傘アーケード」だったときもありました。


十二、沖縄返還をへて


一九七二年五月十五日、沖縄は日本に返還されます。沖縄返還と同時に、アメリカ軍基地の統合・再編も行われました。もっとも大きな動きは、県都・那覇市に集中していたアメリカ軍基地の統合・再編です。返還前、アメリカ軍基地は市域面積の三十%を占めていました。新都心も、瀬長島もジャスコを中心に発展が進む小禄・金城(かなぐすく)地区も、わずか二十数年前までアメリカ軍基地でした。統合・再編で、一九九〇年代までには十%ほどに減っています。

 那覇に集中していたアメリカ軍基地は、一、嘉手納基地など中部方面の基地へ移設/二、返還後に沖縄に入ってきた自衛隊へ移管、という形で統合・再編されていきました。

 こうして見ると、軍事施設そのものはほとんど減っていないこと、また現在大きな問題となっている基地の県内移設による統合・再編が今に始まったことではないことなどが分かってきます。


十三、那覇の今、そしてこれから


街並みはどんどん姿を変えています。とくに新都心や小禄金城地区あたりはどんどん姿を変えています。二十年程前まで米軍基地だったとは思えないほどです。ここではとくに書くことはありません。見に来てくれたみなさん、現に那覇で生活しているみなさんのほうがずっと詳しいはずですから。そしてこれからのことは、わたしたち一人ひとりにかかっているのですから。

一九八六年四月十一日  泊大橋
一九九〇年二月二十一日 県庁舎
一九九一年4月     波之上ビーチ
一九九一年四月十九日  パレットくもじ
一九九二年九月     福州園完成
一九九二年十一月三日  首里城復元
一九九六年十一月    那覇OPA開店
二〇〇〇年九月     小禄ジャスコ
二〇〇〇年十月     天久りうぼう楽市 
二〇〇二年十月     那覇メインプレイス
二〇〇三年八月十日   ゆいレール運行開始
二〇〇三年十二月    アップルタウン(coop)
二〇〇五年三月     DFSギャラリア沖縄
二〇〇六年十月一日   沖縄そば博物館が開館
二〇〇七年秋(予定)  県立博物館・美術館
二〇〇九年       那覇港沈埋トンネル供用開始(予定)
???         那覇軍港の全面返還


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