2010ただ那覇をあるく



那覇をあるく1

8月8日(通称母の日)、旅の会が動きました。最初の予定といくらか変更になったのですが、那覇市内散策。身近ですが、意外と知らないとか、行ったことない、という場所もあるので、その辺りを狙って散策しました。

その報告します。

11時、那覇市民会館に集合。入学式を思い出すような・・・

なのに徹夜で寝てるやつがいたり。

けっこうな雨。

バイクのGさんは雨宿りで遅れる。

330(ひめゆり通り)のマックで合流。

最初の目的地は壷屋。観光マップとかには絶対紹介されてるけど、地元民はそれほど見に行ったりしない。実際、M君も「行ったことがない、行ってみたい」ということで、今回のコースに入りました。

まずはまじめに紹介を。

壷屋焼
1682年に当時の琉球政府が窯業振興のため美里村(現沖縄市)の知花焼・首里の宝口窯・那覇の湧田窯の三ケ所にあった窯場を現在の地に統合したのが壷屋の発祥とされています。以来、壷屋では人々の生活と密着したあらゆる種類の陶器が生産されました。
300年余の歴史と伝統の火を燃やし続けている壷屋焼は大別すると「荒焼」(あらやき)と「上焼」(じょうやき)の二種類に分けられ、その優れた技法は昭和51年6月通産産業省大臣より伝統工芸品の指定を受け、全国的に高く評価されています。


・・・だそうです。

と書いたものの、「荒焼」も「上焼」もよく分からない無邪気な旅の会。説明板の傍にあったシーサーの撮影会をして、観光客ジラーしてました。


P8080116.JPG
このシーサーは「上焼」です。

その真裏に「東ヌカー」。これは生活に根ざした共同井戸だそうです。壷屋300年余の歴史で最初に掘られた井戸です。

というわけで、観光に来ていた親子連れに混じって、シャーーって井戸水を飛ばす旅の会。

そんな写真が載らないのは、誰も写真に写りたくないから。写真嫌いが多いのが旅の会の特徴です。ただただ観光客っぽく撮影会。

P8080118.JPG
それだけじゃあれだから解説を読んで勉強してるマジメな旅の会の姿を。(実はアカの他人だったりして)

30メートルほど石畳の道(意外と交通量が多い)を進むと、右側にまた井戸発見!


P8080119.JPG
名前?

さっそくコキコキ棒を上下させるが出ない。それではということで、「東ヌカー」でわが旅の会の井戸水飛ばしナンバー1が決定していたので、彼の黄金の腕にまかせる。

コキコキ

コキコキ

おー!出た。ありがたや~ありがたや~腕が光ってる!



・・・なんだこの展開

とにかく水は出てきました。



つづく。



那覇をあるく2

さらに進むと、右に細い脇道あり。またもどることを条件に旅の会番長(ウソ)の許可を得て入っていく。

そこには国指定重要文化財である「新垣家住宅」があった。

ところが思いっきり工事中で入ることも見ることもできない。しかも隣の建物は解体されて、ない。工事の看板には、赤瓦の立派な写真(2010年3月)が載ってるけど、目の前にあるのはただの工事中の旧い家。

工事期間2009~2016。長っ!なんでも引っ越しの工事らしい。

ところで「新垣家住宅」の何がありがたいかと言うと、ネットで調べたところ(便利じゃ)次の通り。

新垣(あらかき)家住宅は、琉球王府時代の陶工壺屋統合(320年前)のころ造られた上焼きの御用窯(東ヌ窯)で18世紀後半の母屋や作業所など伝統的な壺屋陶工の住宅形式を唯一残している。

だそうです。

ということは、あの穴は300年前の陶工が作業してた場所かも。貴重な写真かもしれない。というわけで隠し撮りっぽい写真を貼っておきます。

P8080120.JPG
深さ数十センチの穴の壁には石垣が積み上げられてる。

また石畳道に戻る。左右にギャラリーとか製陶所とか。「荒焼」も「上焼」も知らない御一行様は、店先の陶器に目もくれず、先を急ぐ。(でもシーサーが多かったような。やっぱり生活に根ざすというよりは客向けの焼物が増えてるのかも)

B君が「スージ小」の看板を発見。小道に入る。石畳道は国際通りからひめゆりに出る近道で使うけど、小道は完全にノータッチ。ここから未知の世界。

B君の目的は「上焼東ヌ窯」だったみたいだが、かなり進んで一言「地図の見方間違えた」。

メンバー一同、何やってんだよ、の雰囲気が充満する。と、目の前に井戸が。

一転ほのぼのとした雰囲気が。

なんだか井戸めぐりしてるみたいだ。

コキコキ、コキコキ

やや軽い。

Dさんは「あの階段が気になる」とそばに立ってるアパートの超急な螺旋階段に注目してました。

ここは結局、水が出なかった。

P8080122.JPG
壷屋町民自治会の近くに迷い込んで偶然発見。

小道に入った本当の目的は、地図の説明によれば「古い壷屋の風情がそのまま残る」という「いしまち通り」だ。

「ここ右折、かな」とたどたどしいナビにしたがって進む。

つづく。


那覇をあるく3

道すがら発見したもの紹介。

P8080123.JPG
これは古い木の電柱を途中で切って案内板にしたもの。電柱は炭になってたけど火事にでもあったのかな?

P8080124.JPG
なんかいい

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「育陶園」の庭先にお邪魔して撮影。旅の会がいっぱしの観光客に見えたのか、「予約された方ですか?」みたいな感じで声をかけられた。

P8080126.JPG
「石敢當」と笠地蔵もどき。よく見ると笑ってない。

緑に覆われた壁に挟まれた小道を進むと、アレ?舗装道路に出てしまった。「いしまち通り」は?

ナビは首をかしげたけど、結論としては「今通ってきたのが『いしまち通り』ということで」。なんだか適当なナビについて進んでいくと、また石畳道に合流。

「ここで、バイクで滑って転びました」、とKさんが語りはじめる。

こうして、こうなって、こうやって、転んだ。

なるほど、ここは忘れられない場所ダッタンデスネ・・・

P8080127.JPG
とりあえず証拠写真を。

そばに案内板発見。

なんだなんだ、ということで近づくと

ウオッ!



・・・滑って転んだ人が。T君なんですけど。

人の痛い話を面白がってる奴が転ぶのは当然と報い。

とは言っても、その後すぐにやってきた観光客のお姉さんも滑ってこけそうになってたから、この辺は「すべる場所」ということで納得しました。

つづく。



那覇をあるく4

ツルリ滑った場所に案内板がありました。これは壷屋の歴史を知ることができるので紹介します。

壷屋区役所跡
沖縄戦の後、最初に設置された那覇市の行政庁舎後。
 沖縄戦以前、上之蔵(現那覇市東町)にあった那覇市役所は、1944の10・10空襲により焼失した。
 1945年11月10日、沖縄戦で住民の立ち入り禁止となっていた旧那覇市の一角の壷屋に、陶器・瓦製造のため陶工を中心とした復興先遣隊103名が初めて入り、那覇の復興が始まった。
 翌1946年1月3日、人口増加にともない糸満管内壷屋区として区役所が設置され、焼け残った民家を庁舎として行政事務を開始。同年4月4日壷屋区は糸満管内から分離し那覇市となった。
 那覇市役所庁舎は、その後牧志、開南、牧志、天妃へと移り、1965年9月には泉崎へ移転。この間、1950年特別行政区みなと村、1953年首里市・小禄村、1957年真和志市と合併、埋め立ても行い、那覇市は現在の市域となった。


なぜ、壷屋(那覇市)が糸満管内なんだろう?

特別行政区みなと村って何?

そういう疑問はありますが、この謎はいずれ解くとして、先へ急ぎます。

博物館のわきを素通りして平和通りへ。

途中「てんぷら坂ってなんでてんぷらなの?」っていう疑問があったけど、「てんぷらを売ってたから?」くらいの答えしかなかったので、素通りして先を急ぎました。

アーケード街を歩いていると、なんとも観光客気分。

F君情報によると、高校総体で数万人がこの沖縄にやってきているらしい。というわけで自然と高校生に目が。

確か岐阜県、福岡県?そんなところに出会ったような?忘れた。

「あれ国際通りって、今日は歩行者天国じゃなかったっけ?」

「高校総体やってるんだから、やればいいのに」

とかブツクサ文句言いながら横断。

三越のわきを抜け、玉の子保育園の傍を通り、「りっかりっか湯」の看板が目に入り(CMの過剰ストレスのあの女の人は誰?)、那覇セントラルホテルの傍を通り、ファミマのところを左折。(ここ完全にネットで地図見て書いた。どーでもいいーけど)

この通りが十貫瀬(じっかんじ)通り。

知る人ぞ知る、「長虹堤」。昔ここらへんは海で、まぁ言ってしまえば海中道路。ちょっと前までは(数十年前だけど)、市内有数の社交街(1ドル売春街なんていう言い方もあったらしい)、893さんのドンパチがあったりしたこともあったらしい。今は寂れてる。

そんな歴史ある通りを歩いていたなんて! 僕なんて何でもないアスファルトの道を目的もなく歩かされていたわ、とか思ってたりして。

目の前に迫ってきたこんもりした森が「子育て幽霊」で有名な「七つ墓」の丘。その正体はいかに。

つづく。



那覇をあるく5

「子育て幽霊」がどんな話かと言うと・・・なぜか金武町のホームページから紹介します(広域伝説っていうので出てました)。

昔の那覇の十貫瀬(じっくゎんじ)一帯は墓が密集し、ゆうれいにまつわる話が多く、昼でさえも通るのに怖いところだったという。その地域からどのくらい離れていたのだろうか、一軒のマチヤグヮー(小さな雑貨店)があったそうだ。

ある日、そのマチヤーに一人の女がやってきて、「お菓子ください」と言って、真ん中に穴があいた、丸い小銭を渡して去っていった。

夜になって、マチヤーの主であるおばあが、店を閉めた後、その日の売り上げを数えていた。すると・・・、何枚かのウチカビー(紙銭・焼香や盆の時など、死者や祖先に棒げるお金で、紙でつくられている)が交ざっているではないか。

人を疑ったことのないおばあであったが、「まさかあの女の人が持ってきたお金が・・・。いや、確かにほんとうのお金だった」と、その日はしょうがないとあきらめた。

明くる日、前の日の女がやってきて、また「お菓子ください」と言って、小銭を何枚か渡して去っていった。

店を閉めた後、おばあがさっそくお金を調べてみると、やはりウチカビーに変わっていた。「世にも不思議なことがあるものだ。これは後生(ぐそう)でしか使えないお金だのに、なぜあの女が・・・。あ・・・、ナンマイダー、ナンマイダー」とおばあはふるえあがり、今度は商売のことどころか、末恐ろしくなってきた。

翌朝早く、おばあはとなり近所の屈強(くっきょう)の青年を何名か集め、それまでのことを話して聞かせた。青年の中には、怖がって帰るのもいたが、そのうちの二人は好奇心が強く、女の後をつけていくことになった。

その日も、いつものように女がやってきて、お菓子を買い、小銭を渡して去っていった。その後から二人の青年がつけていく。ところが、女の足は人家(じんか)のない十貫瀬の墓の多いところに進んでいく。


つけていくとそこには・・・

あとは想像におまかせします。結末を知りたければ、金武町ホームページへ。

・・・ここまで書いてアレなんですが、あの丘がホントに上の話の「墓の多いところ」かどうか今ネットで調べてみて分からなくなった。たしか美栄橋のところの案内板も地図的には違うところをさしていたような・・・。
なぞが多いぞ、十貫瀬。



丘を越え、大通りに出ると、そこは美栄橋。ここに碑が立っているらしい。どこだどこだ?

ちょっと分かりづらい。バス停のところにあった。

P8080129.JPG
これが由緒正しい美栄橋碑。

誰かが言った、「めだたネー」



那覇をあるく6

美栄橋の由来を案内文より紹介します。

新修美栄橋碑
いにしえの那覇は、「浮島」と呼ばれる島であったため、首里との交通は不便でした。
 そこで尚金福王は、1452年、冊封使を迎えるにあたり、国相懐機に命じて、崇元寺前からイベガマ(現松山1丁目付近)に至る1キロメートルの「長虹堤」という、海中道路を築かせました。「長虹堤」には、3つの橋が架けられていたといわれ、美栄橋はそのうちの1つでした。
 那覇が発展していくに従い、美栄橋は手狭になり、さらに上流からの土砂が橋の付近にたまって浅くなってしまいました。そのため、川を浚(さら)え、橋を架け替えることになり、1735年10月8日に着工、翌2月6日に竣工しました。その経緯を記してあるのが、新修美栄橋碑です。正議大夫揚大荘(せいぎたいふうようたいそう)が文をつくり、都通時揚文彬(とつうじようぶんひん)がこれを書き上げました。碑文には、工事に要した費用なども記され、当時の経済状況もうかがい知ることができます。
 その後、美栄橋は1892年に改修されましたが、沖縄戦で破壊されてしまいました。しかし、碑だけは原形を止め、付近の民家に保管されていたものを現在の場所に移して保存しています。


案内文は一段落で、さらりと衝撃的なことをいいやがります。那覇が島だったって?

懐機って誰だ?

正議大夫揚大荘って誰?都通時揚文彬って誰?どっちも中国人ぽい名前だね。

とにかく、記録を残すというのは大切だというのは、今も昔も大事なことなんだね。

ところで、崇元寺の「崇」の字は、「たかし」で変換できた。やった!解決。

どうでもいいし。

今度は少し大事。

決して目立たない「新修美栄橋碑」が最近話題になったことが。それは写真をみてくれ。

P8080130.JPG
碑の表面の模様に注目。

詳しくは以下の記事を。昨年の琉球新報より抜粋。

「美栄橋碑」に落書き 復旧は困難
2009年12月17日

 那覇市指定美術工芸品に指定される那覇市牧志のゆいレール美栄橋駅前にある「新修美栄橋碑」に落書きされていたことが15日、分かった。11日、同市教育委員会文化財課に通報があり、職員が確認したところ、碑の両面にガラス片のようなものでひっかかれた落書きがいくつもあることを確認。同課は14日に那覇署にパトロールを要請した。


碑のあちこちには弾痕と思われるキズもみえます。その重いキズとは違った軽~いキズが碑に記録されることになりました。これは僕たちの世代がつけた安っぽいキズなのかもしれません。

なお、美栄橋の近くには、「七つ墓」・十貫瀬の伝説ほか、天女伝説の「ティーラガー」や沖縄陶芸史上に名を残す「渡嘉敷三良」(とかしきさんらー)・「張献功」の墓などがあるそうです。市内はまだまだ見どころがあるよ。

つづく。



那覇をあるく7

「どこ行く?」

「とりあえず県庁の方へ向うでしょ」

計画があるんだか、ないんだかよく分からない感じになったとき

おなかがへった。

旅の会だからこそ・・・

「どん亭」。

・・・。

ここでは「カレーにみそ汁ってありなんか?」という話が出たりした。自分の知り合いは「絶対ない!」って断言してたけど、どう思う?

食うものを喰い、出すものを出したので、再出発。

緑ヶ丘公園。那覇に住んでいるならみんな、いやだいたい、いやけっこう多くの人が知ってるだろう。

しかし、次の碑を知ってる人はほとんどいまい。実際見た旅の会だって、意味分からんのだから。

P8080133.JPG
「那覇大綱挽久茂地●練習●」(一部読めません)って書いてあるけど、なんで練習の碑があんねん。誰かこのなぞ解いてほしい。

隣の「緑が丘」の碑も、わからん。だいたいここはうっそうとした雑木林。っていうか手入れ一切なし。墓はあるけど木ボーボー。公園からは離れてます。

蚊に刺されながら奥にすすむと、白い犬にほえられるし。洗濯物も見えるし。わさわさしてて自分しか見えて無かったと思うけど、「敬和」と書かれた碑もあったし。どんだけ?な碑が点在してんねん。

「大東そば」のある通りの、とあるマンションの後ろの森での出来事でした。蚊に刺されまくるだけの価値があったかどうかは人それぞれです。

さらに進むと、安いそば発見!たしか280円。F君は近い打ち制覇すると息巻いてた。ただ食べに来るだけなのに大げさ。

というか、さっき食ったばかりなのに。

P8080135.JPG
「やぁーさのーし」ってどういう意味?

「緑ヶ丘公園」を抜け、国際通りに合流。

やっと繁華街に。

その途端、大雨に。「わしたショップ国際通り本店」にて雨宿り。

子どもと一緒に、「琉神マブヤー」を見てしまいました。マブヤー人気は続いてますね~

雨はやがて小ぶりに。

しかし、ここで何人かとお別れ。買い物があるらしい。

涙涙のお別れの儀式をして、残ったメンバーで県庁方向へ向った。その道のりわ、難行この上ない・・・

3分かかってないと思いますが。

国際通りにどかっと並ぶシーサーの頭をなでたとき、県庁前の広場に何やら異物発見。それは何かというと・・・

つづく。



那覇をあるく8

P8080136.JPG
その正体はなんと「ヤンバルクイナ」の親子でした!

なんのために立っているのか、なぜここにいるのか、そういった説明はほとんどなし。きっと「ヤンバルクイナを守ろう」「自然を守ろう」みたいな企画だとは思うけど、宣伝すりゃいいのに。

そして、クイナ親子の前でメンバーはふと立ち止まる。作戦会議。

「これからどうする?」

「・・・」

まだ元気だった(?)ので、緻密な計画通り(?)準備してたコースを進むことにしました。

次に行ったのは、県庁のそばにある琉球政府時代の「立法院跡」。

P8080138.JPG
こんな感じ。

説明板によると

1954年7月、この地に建設され、以来、38年の歳月にわたり、政治活動の舞台として、自治権の拡大や施政権の早期返還あるいは振興開発や基地問題などのさまさまな課題が審議され、沖縄県の戦後史に重要な役割を果たした。

自治権の拡大って何だろう?

振興開発ってどんなことだろう?

説明がコンパクト過ぎてよくわかりませんでした。いくらなんでも、もうちょっと説明が欲しい気がしました。

突然ですが・・・

ここでネット捜索隊から情報提供。

前回紹介した「那覇大綱挽久茂地●練習●」ですが、ネット検索にすがったところ、あれは「那覇大綱挽久茂地旗持練習場」でした。しかし由来とかは分からず。でもあの妙な石碑に立ち止まってた人が他にもいてよかった。よかった。由来まで分かる人いたら教えてください。 by SST

・・・とのことです。

次に向かったのはハーバービュー。観光客っぽくしてた旅の会、ついにホテルに泊まって身も心も観光客に?そうではありません。

ハーバービューといったら、

はい、そうです。

シーサーですね。

これは基本中の基本です。

そういうわけで、最初に見つけた人に賞品(飲み残しのコーラくらい)を、ということでみんなでちょっと怪しい目線で民家密集地帯を見回しはじめた。

通りをキョロキョロしたり、玄関先の変な石がアヤシイといっては家先で頭をひねったり。

遠くから見たら、それはもう観光客と言うか、下手な空き巣かって感じ。

到底見つからんので、ハーバービュー前に立ってた崎原さんに聞いてみた。

「あの、しーさーってどこにありますか?石のやつなんですけど・・・」

おい、ところで崎原って誰やねん。

いやー、ベレー帽かぶってたから親切かなーと。

その正体はハーバービューの警備係のおじさんなんですけどね。

崎原さんの指示に従ってあるいていくと・・・ついに!

つづく。


那覇をあるく9

いきなりですが最終回です。

P8080139.JPG
これが言わずと知れた「獅子松尾」(シーシャーまーつー)

とても分かりづらいところにあった。崎原さんの親切な道案内がなければたどり着かなかった。

崎原さん、どうもありがとう!

というわけで、旅の会はシーサーの名前を「崎原シーサー」と名付けました。

案内板によると、獅子は「火伏せ」のために置かれたらしい。この辺りは仲里松尾(仲里按司の請地)というらしい。この辺から湧田壷屋の窯址だったらしい。

ここにきて壷屋と接点が出てきたり、昨年のシーサー巡りで知った通り「火伏せ」の役割りをもってるとか、なんとなくつながりが出てきてうれしかったです。

いつ頃つくられたのでしょうか?

感動もつかの間、次へ向ってあるきだしました。

すぐに変なもの発見。

P8080142.JPG
なんだこれ?歩いてるといろいろ発見できて面白い!

「公園があるぞ」誰かが言った。

そうそう、公園に目を付けるのは正しいんです。沖縄の公園には何かある。経験的に。

「阿手川公園」。

・・・なんもない。でもなぜ阿手川?この辺って壷川か泉崎じゃなかったっけ?

疑問は解けず。ネットによると、以前は壷川西公園だったらしい。阿手川って何だろう?

それはいいとして、329号線に沿うようにあるいてバスターミナルへ向う。

途中、あれがうまそうだの、あっちのラーメンは食べてみたいだの、食う話ばっかりでした。こんど腹いっぱい食いに行こうよ!

10分ほどでバスターミナル。バスには乗らない。ナビに従い移動。

でか!何が?

いやただの岩なんですけど・・・

紹介します。知ってる人多いかもしれないけど・・・

仲島の大石
高さ約6m、中央部の周囲は約25mの琉球石灰岩で、岩の下の方は波に浸食されてくぼんだ「ノッチ」と呼ばれる跡があり、昔このあたりが海岸であったことを示している。久米村の人びとは「文筆峰」とも呼び、村の風水にかかる縁起のいい大石として珍重していた。
 またこの付近に中島の遊郭があり多くの遊人が訪れ賑わっていた。歌人として有名な「よしや(吉屋チルー)」も、この遊郭で短くはかない生涯を終えたと伝えられている。1908年には仲島の遊郭は辻に合併移転し、大正初年までにはこの付近は埋め立てられ現在に至っている。


なぜ「文筆峰」といったのだろう?

「吉屋チルー」って誰だろう?

辻への移転は埋め立てのためだろうか?

P8080144.JPG
写真では大きさが分かりづらいけど、でっかいよ!やっぱただの岩じゃないよ。

鳥居があるんやで、なぜか?

後ろへ回ると、また碑が立ってた。

「石川正通先生歌碑」?

那覇名誉市民らしい。

その歌はといえば・・・

橋内の

誇りも高き

泉崎

昔も今も

人美しく


なんか英語の先生だったらしいです。教育に貢献したということで名誉市民になった、みたいです。なんかよくわからないけど。

なぜ、こんな狭い場所にあるんだ?

そんなこんなで、まだまだ回りたいところもメンバーから出たけど(三重城とか、福州園とか)、正直疲れたので、国際方向へ休息のために向かいました。

これにて終了、メンバーは何処の方向へ去って行きました。

・・・

やっぱりあるくと、いろんなものが見えてきますね。那覇なんて身近すぎてえーって思うかもしれないけど、まだまだ魅力に満ちた場所が隠れているようです。

これは第二弾もやりまっか?

あれ?返事がない。寝てるし。

おしまい。


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