2011・6首里散策

6月4日の旅の会(1) 2011/06/13

まず首里駅近くのそば屋「すいそば」に入店。

そば喰ったどーー!


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上が三枚肉そば(大)多分。下がソーキそば(中)多分。自分でも何頼んだか定かじゃない、記憶が・・・。でもスッキリとした味で格別でした。今回はJ君オススメだったのですが、なかなか良かったと思いますデス。


その後、末吉公園へ。

公園の中には、「劇聖 玉城朝薫の生誕三百年記念碑」。なんで末吉公園にあるのかというと、首里宜保で生れたから。案内文には「「執心鐘入」のゆかりの地」とあるんだけど、ネット検索すると和歌山の「道成寺」がヒットする。

演劇に詳しくないから?だけど、「道成寺物」という分野があるらしく、「デジタル大辞泉」によれば「 愛を誓った旅僧安珍に裏切られた清姫が、憤怒のあまり蛇体となってあとを追い、道成寺の鐘の中に隠れた安珍を、鐘ごと焼き尽くしたという道成寺伝説に取材したもの 」だそうです。

「執心鐘入」では、美男子・中城若松が女に迫られて寺に逃げ込む。追ってきた女は思いのあまり鬼女になる、というもの。ストーリーが「道成寺物」だということでしょう。


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こんな石畳を登っていくと、、、


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台風の名残むき出し!!!



目的地の末吉宮に向かう坂をさらに上っていくと、、、


「あ、何かある!!!」


寄り道。・・・めんどくせいなー・・・(ピヨピヨピヨピョ)


しばらくたつと・・・


「クワガタいる!!!」


どれどれということで見に行くと、あぁホントだ。

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だから別に。と言わないで。自分的に野生のクワガタ観るの何年ぶりだろ?なつかしい・・・(郷愁にしばしひたる)


「で、これ何?」


墓なので写真は撮ってないのですが「漢那親雲上」という方のお墓です。

「だれ?」


つづく。中途半端な閉じ方ですまぬ。



6月4日の旅の会(2) 2011/06/15

墓の主の正体。墓碑の後ろに書いてありました。

 漢那親雲上は首里秦姓門中の元祖で流球国王尚寧王世代金城村に生まれる。尚豊王世代黄冠に叙せられて漢那の夫地頭となる。その長男次男三男共に金武より首里に居を移して長男が山城家の始祖となり次男は金城家の始祖となり三男は兼島家の始祖となって各々国王から秦姓の家譜を賜ったのである。

 親雲上は琉球国王府内にて物奉行所在勤中上司と共に公務を帯びて渡唐す上司彼地にて病没したためその遺品並に公用の重要物資を守護して一人帰国の洋中船員達悪心を抱き上司の遺物その他の重要物資を奪い取る策謀をして親雲上にその事を通告してきたので親雲上は事の重大危機を直感し此の上は自己の身命を賭しても遺物その他の重要物資を守護すべく決意して即刻彼等の申し出を断乎として拒否したためについに船員達によって懐中に投げ込まれたのである。処が不思議にも天地のの感応に逢いたちまち海中から大鱶現われて親雲上を背中に乗せて豊見城村我那覇仲地の海辺に押しあげられその鱶の助力によって九死に一生を得て公務を完遂したのである。此の善行は痛く時の国王を感激させ国王からその善行に対して褒賞を賜ったとのことである。

 後日親雲上は鱶の恩澤を忘却しないために大石で鱶の形を作り屋敷内に安置して朝夕礼拝なし子孫に対しては鱶肉を喰うことを堅く禁じたのである。此の石は今なお金武村小橋川家の庭に三百年来そのままの形で現存しているのである。

 この事実は今から百十六年前の兼島家祖先に依って清書改めされた秦氏門中定例記に明記されてその結語には、この元祖の善行名誉のことは秦氏永代の子孫の悪事を戒め善事を励めるために書き置くものなりと記されているのである。

 惟うに今次の日米大戦によって我が郷土は焦土と化し山河形をかえる大災害を蒙りために我が門中にも被災者を出したことは誠に遺憾この上もないことである。せめて生き残った秦氏門中はこの際何等かの精神のより処を作って大周団結し血は水よりも濃しとの譬えの如く今後喜びも悲しみも相共にしていきたいとの念願●かち今日首里秦氏門中相計かり元祖漢那親雲上の神霊を祀り墓碑を建立することに決しその地を首里末吉宮境内の最とも風光明媚なる聖地を卜して建立し秦氏子々孫々に元祖の偉大なる人格と高徳を敬仰せしめ併せてその徳化を享けて元祖に続く優秀なる子孫の排出を希望して止まないものである。

 なお前庭の茶の木は尚豊王世代の摂政金武王子尚盛薩摩から花種を持ち帰り自分の領地漢那に栽植したとき元祖儀はその栽植に従事しその功によって尚豊王より漢那の夫地頭に任じられたのである。その元祖の功績をながく記念するために墓前に茶の木を植え付けた訳である。
・・・(以下略)


建立趣意書、超長い! かなり古いものなので表面に傷つきまくりで読みづらかった。


そんなわけでふたたび石畳に戻ろうとすると左側に大きな穴が。

「ガマだね、これは」

「ホントだ。中どうなってる?」

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覗いてみたところ、そこそこ奥行きがありました。


このガマ何とはなく通り過ぎたのですが、どうも知る人ぞ知るのガマのようです。


詳しくはホムペ「ガイドブックに載らない史跡」の「末吉公園の壕跡」を検索してみてください。


さらに不安定な石畳を上っていくと、すぎに末吉宮にたどり着きました。


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「ところで末吉公園は霊感スポットと呼ばれてるけど、なんで霊が出るの?」質問したところ、返ってきた答えは・・・


つづく。このタイミングでつづくはねぇだろ!



6月4日の旅の会(3) 2011/06/18

末吉宮は、いつ頃建てられたとか、誰が建てたとか、由来があるわけですが、今回そこら辺はスルーします。

社殿と反対の方向に歩いていくと、すぐ崖。注意を喚起する標識もないから、うん、あれは危険だ。

「トンデミルカイ?」

「・・・」

もう少し登って行くと、途中に絶妙なカタツムリがいたので撮影会。

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肉厚のキノコ喰ってる!!!

R君は「俺、カタツムリ超キライなんすよー!」

ゴメンネ・・・


とにかく拝所みたいのが多い。

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「子ぬ方入口」。何なのでしょう?ネット情報によると、「北の方角」という意味です。首里城から北にある、ということらしいです。

その石碑から先は、なんだか撮影しちゃいけないと思い、あまり写していません。あしからず。

ある石碑には次のような文字が。

宇天親加那志 (ウティンウフガナシと読む)

子ぬ方軸ぬ神加那志 (ニヌファジクヌカミカナシと読む)

宇天十二神 (ウティンジュウニシンと読む)

よく分かりません。ちなみにこの石碑の後方は、深い溝になっていて降りられもするのでしょうが、そんなことはとてもとてもできる雰囲気はないので、行った人は覗くくらいまでにしましょう。

「火と水の神」とか書かれた石碑もあったけど、その先は台風の影響で道がふさがれてて行けず。

もうひとつの石碑には次のように書かれてました。

聖地国の主
国ぬ主(願丘の総取下げ国の栄を司る)

御先天孫子(人類の神)

宇天みるく神(裕福を司る)

宇天美女呂神(水子供養)

宇天不動明王(神を守護する)

宇天天の川母神(自然司祭身心浄化)

獅子神(悪風除け動物供養)


「宇天」って何ですかね?

その他にも小さな祠みたいのや、碑があちこちにありました。



と・こ・ろ・で・・・

何で霊が出るの?でしたが

「ユタの修行場で、霊がいっぱいよってくる」とのこと。悪い霊ばかりが来るわけじゃないけど、悪いのも良いのも来るから、まぁ結局は悪い霊が悪さしたりするということらしい。某先輩談。

私は、ここは沖縄戦の激戦地でもあるから、そうして亡くなった人たちの霊がさまよっているのが理由かと思いましたが違うようです。

まぁ別に、「ユタ修行場」説を信じてるわけではないのですが。

というか霊すら信じてないのですが・・・。

とにかく末吉の森を抜けて先を急ぎましょう。

つづく。



6月4日の旅の会(4) 2011/06/21

鳥居をくぐって、やっと明るい世界へ。

その後首里大名町を散策。というか誰ひとりどこを歩いているのか分からず。30分はただダラダラと歩く。なんとかなったのですが。

次の目的地は「北森」。

これまたマイナー路線の旅の会だなぁって思う。

入口には「黄金豊饒神」と書かれた石碑があって、そこに鉄の網で封じられた穴(?)があって、そこが拝所みたいになってる。

「北森」とはニシモリと読む。沖縄では北は「ニシ」で西は「イリ」だ。ややこしい。

M先輩が「西原(町)は首里の北側にあるから、ニシハラ」と教えてくれた。なるほど西原は「北原」と書くべきところなのかも。

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入口の石碑は完全に劣化して崩れていました。「北森 儀保町 拝所入口」と書かれていたらしい。

森の中には首里儀保町の自治会が管理してる御嶽があったり、さらに先に進むと、少し広い空間が広がっていて、あちこちに拝所みたいな「何かしら」が点在してました。

あまり撮影してはいけない雰囲気が満載なのですが、少しは伝えたいのでひとつだけ。

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「慈母観音菩薩」と書かれてる。だけど、その姿は、ない。碑のみ。うーん、あの微笑みは心に持て、ということでしょうか。

ここからの眺めも悪くない。遠くに白い変な建造物が見えた。

「さて、シュガーローフはどこでしょう?」

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5月の第一回目のそば隊の復習です。

みんなでうーんと探して、いっせーの・・・

「あった!」

首里城もシュガーローフも末吉の丘陵も、ほんのすぐそばなのですね。この一帯が66年前、5月中旬から下旬にかけて血で血を洗う戦場でした。ここから見えるひしめき合った街並みがウソのよう。


すべてが消滅するのに、さして時間はかからなかった・・・


つづく。



6月4日の旅の会(5) 2011/06/21

さて、北森御嶽を後にして、また末吉公園へ。

「マイナスイオンのでる滝があるはず」

「こっちこっち」

Kさんの後についていく、健気なメンバー。


あれ?ここはちょっと間違ってるかも・・・


KさんKさん・・・あれKさん?


振り返ると、なんとKさん後ろの方で立ち止まっているではありませんか!健気なメンバーに様子見て来いとばかりに。Kさんの言った方に歩いただけなのに。


そっか、そっかKさん・・・



悲しいぞなもし。

そろりそろり歩いていくと、

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やっとついた。ここが僕たちの観たかった滝です!

F君いわく

プラスイオンだなこれは!!!



まず、臭いがもう生活排水臭がたんまり。台風のためかどうか分かりませんが、ゴミっぽい、イヤゴミそのものが岩とか木とかのあちこちにからみついてる。

ちなみにマイナスイオン(プラスイオンだけど)は、健康増進に役立つという科学的な証明はなされていないらしい。

つまりは、プラスでもマイナスでも良かったのか!いや、

やっぱりマイナスイオンであってほしかった!

これは安謝川の源流になるのだろうと思います。源流ときいて、子どもがパシャパシャ水遊びする場面を想像してしまいますが、ダメですここは。皮膚に見慣れない赤い斑点があらわれそうです。

末吉公園から出発した散策はこれにてぐるっと一周終えました。

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末吉の森全景。末吉宮あんなところに。それにしても台風の影響で森全体が赤茶けてる様子が気がかりです。

次に首里城へ向った。つづく。



6月4日の旅の会(6) 2011/06/22

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手前の建物が県立芸大。奥の森が末吉の森。沖縄戦のときは首里城の地下に日本軍の司令部があったので米軍から攻撃を受けました。末吉方面からの米軍はかなりてこずったとされています。

県立芸大の一角には「沖縄師範学校跡」の碑があります。先生育成の学校。戦争中はひめゆり学徒隊とか鉄血勤皇隊がつくられて多くの学生が犠牲になりました。

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電波塔。たぶん那覇で一番高い。この方面も激戦地。浦添の幸地とかそっちのほうからも首里城にむけて攻め進んだ米軍。

西からシュガーローフ、北から末吉方面と石嶺方面、そして東側は運玉森と南以外は完全に包囲された司令部。そのとき司令部がとった作戦は?

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首里御嶽。首里城内でもっとも格式高い場所らしいです。地下に司令部があったものだから首里城はものすごい攻撃で灰燼と化しました。再建されたのは1992年。

更に進んで、あまり人気のない「西のアザナ」へ。たぶん首里城内でもっとも景色が良い。

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南部方面。正面の丘は与座岳。ポツンと飛び出た建物見えますか?建設中のレーダー施設です。

5月末に南部以外を包囲された司令部は、できるだけ時間を稼ぎ本土決戦を引き延ばす当初の作戦通り、南部に撤退。そこは多くの住民が逃げた土地でもありました。米軍は攻撃は続行。与座岳も「馬乗り攻撃」を受けたらしい。

中部から首里までの戦線は主に軍隊同士の戦闘だったけど(もちろん住民も数多く巻き込まれた)、南部戦線では更に多くの住民が殺された。



そんなこんなで、西のアザナで一服し解散するのであった。

みんなお疲れ様!

これにて報告おしまいです。

しかし、旅の会の旅のつづく。



明日は6月23日慰霊の日でふ。


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