2011・7平和?糸満散策

納豆の日、南部散策(1) 2011/07/12

納豆の日=7月10日、旅の会で南部散策に出かけました。

行き先は次の通り。

平和創造の森公園

百美そば

糸洲の壕

平和祈念公園

すべて終了した時の企画者の反省の弁。

「暑い。今度やるときはもっと近い場所にしましょう」


それでも戦跡巡りを取り組めたのは旅の会としては、なかなかないことなので、参加したメンバーもマジメにやれたという意味では意義ある企画だったと思います。

確かに暑かった~

次回より詳しく報告します。



納豆の日、南部散策(2) 2011/07/13

10時集合。

最初に向かったのは「平和創造の森公園」。バイクで向かいましたが、那覇から30分くらいですかねぇ。

公園近くには駐車場のすぐそばの道路に路駐車がいっぱいあったり、道端の樹木に網持って立ち向かってるオッサンがいたり、なかなか新鮮な体験でした。

とにかく、駐車場に止めて講演をすたすた散歩しました。

事前の話では「ガマがあるらしい」、「展望台とガマ見よう」だったので、手元にある地図(ちゃんとコピッてきてた、準備よし!)を参考にしながら、ガマへ向かいました。

歩いて7,8分。目立ちはしませんでしたが、茂みの中に発見。

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案内板もありましたが、解説が簡素すぎ。たしか沖縄戦の時に糸満市山城の住民が避難した「マヤーガマ」、くらいな説明。

「これじゃ分からないね」とメンバー。

というわけで調査隊さっそく調べてきました。今回はそれを書いておきます。

以下「糸満市史 資料編7 戦時資料 下巻」より。太字は引用です。

字山城には1944年には第9師団(武部隊)が駐屯していた。その部隊が12月に台湾へ移動してから第24師団(山部隊)が配備された。1945年3月より米軍の攻撃が激しくなって字民は「マヤーアブ」や「サキアブ」などの自然壕に避難した。

この「マヤーアブ」が今回旅の会で見学した「マヤーガマ」のことだと思われます。なのでその関連の部分を引用します。

マヤーアブは入口りは小さいが奥が深くて、ほとんどの字民が入っていたという。そこで何世帯かずつ班をつくり班長を決めて、水くみ作業、飯炊き作業、野菜取り作業などを分担していたという。日中はガマの中に隠れて、夜になると畑に芋を掘りに行き、共同で食事を作っていた。ガマには水がなかったので、アンチャーガーから水をくんできたが、やがて井戸に死体が浮かぶようになり、水運びも困難になった。

これはたぶん4~5月頃のことだと思われます。この頃、地上戦は首里北方の沖縄島中部で繰り広げられていたので、南部の山城付近は日中は米軍の艦砲射撃があったのじゃないでしょうか。

この文章は字民の証言をまとめて書かれているようなので、完全に時系列通りではないと思いますが、そういう状況だったと思います。井戸に死体が浮かぶようになってきたのは戦死者が増えてきたことを意味していると思いますので、5月末に司令部が首里を撤退し、南部へ移動した後と思います。

字民同士が協力して事に当たっていた様子がうかがえます。班長を決めたり班分けしたりという秩序だった共同生活は、他のガマでも自然と行なわれていたことなのかなと思います。ふだんの地域のつながりが力を発揮したのでしょう。


 第62師団が山城一帯に後退してきてからは、字民の行動は監視されるようになった。ガマの出入口には衛兵がおり、外に出るには証明書が必要だったという。また日本兵の命令で、近くの陣地から真壁の寺山の陣地まで弾薬運びをさせられたこともあった。

5月末の首里撤退で、沖縄南部は軍民が混じり合って犠牲が急増したとされています。米軍からすると、首里占領で軍事的には決着がついていて、その後は「掃討戦」といっていいでしょう。ようするに敗残兵狩り。第62師団はたぶん負傷兵をたくさん抱えていたと思います。そういう追いつめられたなかで軍隊が取った行動は住民を監視し軍協力の強制だったということは注目しておいてよさそうです。「追いつめられたとき」の行動が、その部隊の本質です。

 マヤーアブには多くの字民が避難していたが、ある時日本兵がやってきて、ここは軍が使うから民間人は出るようにと軍刀を突きつけて脅かした。字民は畳で入口をふさいで拒否していたが、やがて畳は軍刀で切り裂かれ、仕方なく砲弾が飛び交う中を全員がガマから出ている。
・・・
 マヤーアブから追い出され、やっとガマを発見して隠れたものの、そこにも日本兵が押しかけてきて、ついには幼児が殺害されるということも起こっている。そこはマヤーアブの南側のユクダキと呼ばれているところで、字民約50人が隠れていたという。やがてマヤーアブが米軍の攻撃を受けて、そこから脱出してきた日本兵がこのガマに逃げ込んできた。そしてこの日本兵らは、子どもがいたらまた米軍の攻撃を受けるからと、3歳以下の子ども5人の殺害を通告した。家族の者は殺されるくらいならガマを出ようとしたが、出すとスパイをするからと許さず、子ども一人一人つかまえて毒物を注射したという。・・・


ここを読むと、沖縄の人たちがギリギリの場面で日本兵と激しくやり合っていた様子がうかがえます。弾薬運びなどの軍協力はしたけど、命がかかった場面では簡単に命令を聞くことはできなかったのでしょう。もちろん弾薬運びも命がけですが、ガマ追い出しは家族丸ごと、字民丸ごとの命がかかっています。

日本軍によるガマ追い出しは各地で発生していますが、その瞬間どういう状況で住民がいかなる行動をとったかについては、しっかり注目しておく必要があるかもしれません。そこには命がかかった場面で、「命を守る」方策があるかもしれないからです。

ところで、子どもに注射した毒物を、どうして日本兵は持っていたのでしょうか。「捕虜になることは恥」というのが軍の教えだったから、米軍に捕まりそうになったときの「自決用」じゃないかと思うのですが。しかし「自決」どころか子どもに注射してまわったというのだから到底許せる話ではありません。ちなみに他の住民全員も殺害通告されましたが、その直後に米軍の攻撃で日本兵に被害が出てその隙に住民は逃げ伸びることができたそうです。日中頭上に降り注いで多くの命を奪った米軍の砲弾によって命を救われたというのは何とも皮肉な話ではありますが、これがギリギリの場面で起こっていた事なのでしょう。



以上のような出来事があったのが、今回見学したマヤーガマです。字の住民が避難したことだけじゃなく、追い出しを受けたこと、子どもが殺されたり字民丸ごと殺されそうになった(しかも日本兵の手で)ことまで解説されていないと、案内板の意味はありません。簡素すぎる案内板にはいろいろ訳がありそうですが、これについてはまた後で触れます。

次は「どこ行く?」

「とにかく進もう!」

つづく。



納豆の日、南部散策(3) 2011/07/14

公園内をへとへと歩いて行くと噴水を発見。

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でも水流れてない。しかも水が緑色。キタナイ。とはいってもずっと流しておくわけにもいかないのでしょう。

さらにとことこ歩いて行くと、公園から出てしまって、「東京の塔」という慰霊塔にぶち当たりました。

「東京の塔」を見学してから再び公園内に入り、道なき道を行くと、偶然にも展望台に到着。

一見石造りでごっついので何だろう?と思ったのですが、大丈夫あれ展望台でした。

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海キレイ。あの赤い屋根は何だろうね? それにしてもこの公園、人が少なすぎる。少年サッカー以外にここまでほとんど人に会ってない。

というわけで今度は赤い屋根を目標に歩く。それが何かというと・・・、その正体は?

平成五年四月二十五日この地に 「植樹祭の詩」 という碑が建ってました。

どうやらここは第44回植樹祭の開催地みたいです。

天皇・皇后両陛下をお迎えし「育て 緑の中の未来
よう 地球の緑 豊かな未来」を
大会テーマとして第四十四回全国植樹祭が開催されました。
 「みどり」と「平和」を愛する
人々の輪がここ沖縄戦の戦跡から
世界へ大きく広がることを念願し
この記念碑を建立します


当時の県知事は大田昌秀氏でした。

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赤い屋根の建物のそばに木が植えられていて、超防御システムで囲まれていた!赤い屋根の建物は「天皇・皇后両陛下」が休息した場所なのですかね。

子どももうかうか近づけない。「ボールくらい拾ったっていいのにねぇ」とぽつり。

何もいたずらするつもりなどありませんが、あまりにも狭苦しいところに植えられて松の木がかわいそうに思えたので、少しだけ侵害してきました。少しだけね・・・。

なるほど「みどり」と「平和」!

なるほど「創造の森」!

なるほどねぇ・・・

とちょっぴり毒気を吐いて次へ進みました。

さらにまたへとへとへと歩くと噴水のところへ戻ってきて、片言なのかしゃべれるのかよく分からない外人さんに道を聞かれ、さらにまた進み到着したのは水車小屋。

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水流れてないです。

ここまで見て、「創造の森公園は制覇したな」と一致したので、水分補給のため販売機へ向かいました。公園を回るときは水分持参しないと死にそうになります。これは大事な教訓でした。

昼前になって、ようやく何組かの来場者に出会いましたが、F君曰く「だだっ広い公園」のわりには来る人が少ないと感じました。

もったいないような気もするけど、糸満のこの辺りは沖縄戦でも多くの犠牲者が出たところだから、公園で気軽に楽しくレジャー、というわけにもいかないのかもしれません。それは推測にすぎないけど、なんかこうもっとやりようはなかったのかなと思ってしまいました。

ちなみに前回書いたマヤーアブの簡素すぎる案内板ですが、簡素にしか書けなかった理由は、ここが天皇・皇后が参加した植樹祭のために整備した公園だからなのかもしれません。これも推測にすぎず、本当のところは分かりません。

つづく。

納豆の日、南部散策(4) 2011/07/14

創造の森公園をまわったあと時間があったので急遽「荒崎海岸」に向かいました。見学後うろうろしていたら集落内でバイクのエンジンがかからず焦るの巻。

そんなことがあって結局、待ち合わせのそば屋「百美」に1時前に到着。

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「百美」行ったことありますか?あの庭園見ながらのそばはちょっといい感じ。

豚骨ベースの汁がうまいらしいと大したことない情報を手に「なんとかそば」(600円)を注文。カツオベースの汁と食べ比べできるかと思ったら、全員豚骨。

こういう場所では珍しく、注文から対して時間かからずやってきました。

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いただきまーす!

豚骨特有の臭さはまったくなく、食べやすかったよ!

R君は店を出るときに「今度はカツオに挑戦したい」と言ってました。

また行こうゼ!

旅の会が次に向かったのは「糸洲の壕」。

鎮魂之碑の碑文より。

此の洞窟は第二十四師団山第二野戦病院の跡である。長野、富山、石川県出身の将兵現地防衛隊尚修平並に従軍看護婦積徳高等女学校看護隊が傷病兵を収容した壕跡である

隣には「仲村さん一家」の鎮魂之碑も建っていました。ここで亡くなったそうです。

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けっこう暗い。「電灯mってくればよかった~」というメンバー。

下りきったところはけっこう広くなってました。さらに奥にも続いてるのかもしれませんが明かりもなくまったく見えませんでした。

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中から外を見上げるの図。

積徳学徒隊とは・・・

「沖縄大百科事典」によれば、1945年2月初旬から軍医が来校し看護教育を受けていたそうです。碑文の通り第24師団(山部隊)に配属されました。第2野戦病院は最初は豊見城グスク跡にあったようです。

3月31日に予定されていた卒業式は戦争のため中止。5月中旬に南部へ移り、糸洲の壕は6月20日に米軍による火炎放射器と手榴弾攻撃によって多数の死者が出ました。

こう考えると、最後の写真は米軍の攻撃をうける場面を彷彿とさせます。「怖い」と言う間もなかったのではないでしょうか。

つづく。



納豆の日、南部散策(5) 2011/07/16

次に向かったのは「平和祈念公園」。ここは「誰でも行ってそうだけど、意外とちゃんと見て回ってないんじゃないか」ということで旅の会としては珍しく「王道」スポットに行ってきました。

とにかく広いので事前に回る場所を決めました。次の通り。

韓国人慰霊塔

平和の礎(韓国、朝鮮民主主義人民共和国)

各府県慰霊塔めぐり

黎明之塔

だいたいこんなルートを決めました。「平和祈念資料館に行きたい」という意見もありましたが、今回は時間の関係など諸事情により除外、「あらためて行くときは見に行こう」ということで決定しました。

はじめに韓国人慰霊塔。碑文は次の通り。ちなみに報告の際の碑文はホムペ「沖縄戦の記憶」別館「沖縄戦と慰霊塔」より拝借しています。とても参考になるホームページです。
 1941年 太平洋戦争が勃発するや多くの韓国青年達は日本の強制的徴募により大陸や南洋の各戦線に配属された。この沖縄の地にも徴兵、徴用として動員された 1万余名があらゆる艱難を強いられた。あげく、あるいは戦死、あるいは虐殺されるなど惜しくも犠牲になった。祖国に帰り得ざる、これら冕魂は、波高きこの地の虚空にさまよいながら雨になって降り、風となって吹くであろう。 
 この孤独な霊魂を慰めるべく、われわれは全韓国民族の名においてこの塔う建て謹んで英霊の冥福を祈る。願わくは安らかに眠られよ
  1975年 8月 韓国人慰霊塔建立委員会 


P7100106.JPG

碑文より先に進むと石で覆ったドームのようなものが見えてきました。石は韓国から持ってきたものです。

ドームの正面の石碑にはうっすらと朴正熙大統領の文字が。

韓国人慰霊塔については、その建立経緯がよく分からないところがあるのですが、沖縄戦の中で朝鮮半島から多くの人たちが強制連行されてきて、厳しい戦場のなかにいたことは徐々に明らかになってきています。しかし、そのほとんどは名前さえはっきりしないという問題もあります。

次に向かったの平和の礎。

デザインコンセプトは 鉄の暴風の波濤が、平和の波となって、わだつみに折り返して行くコンセプト らしいです。でもこの波っぽい感じは平地では分かりません。三つ折りの資料にはちょっと高台から写した写真が載っていますが、どこから眺めると「平和の波」が展望できるのでしょうか?

今回、旅の会で見に来た外国人枠は向かって最右翼。

とことこ歩いて行くとありました。

刻銘のない黒御影石が建っていました。他の地域の石は名前がずらっと書かれているのですが、ここは何も書いていない黒御影石がただ立ち並んでいました。

それもそのはず。刻銘者数をみると以下の通り。

沖縄県 149,233
県外 77,327
米国(USA) 14,009
英国(UK) 82
台湾 34
朝鮮民主主義人民共和国 82
大韓民国 365


約24万人。その中で朝鮮人・韓国人の刻銘者数はきわだって少ないンです。

理由については、後でまとめて書こうと思います。


平和の礎を離れて、今度は階段を上って丘の上へ。各府県の慰霊塔がずらっと並んでいます。いくつか写真をはっておきましょう。

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神奈川の塔。港の船をつけるアレを象ったものかな。


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岩手の塔。これは、もう完全に県の形。すぐに3・11大震災を思い出してしまった。

他にも青森だったらりんごの形とか、県が連想できる慰霊塔はいくつかありました。


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長崎の塔。なにを象ったものかよく分かりませんでした。


今回の慰霊塔めぐりは「碑文をしっかり読もう」ということで取り組みました。

いくつか見学ポイントとしては
・いつ、だれが建てた?
・だれ宛に建てた?
・死をどう言い表してる?
・戦場をどう言い表してる?
・沖縄にかける言葉は?
・その他特徴的なことは?

ところが途中でメンバーの一人が暑さでダウン。あはじめから体調があまりよくなかったみたいです。手を振ってサヨナラ。残ったメンバーで先へ進みました。

平和祈念公園一帯を見学する際には、水分を事前に買っておかないとヤバイことが分かりました。残ったメンバーもヘトヘトのカラカラになりました・・・。

つづく。



納豆の日、南部散策(6) 2011/07/16

今度はいくつか碑文を紹介します。またホムペ「沖縄の記憶」の「分館」にある「沖縄戦と慰霊塔」より「碑文は何を語るか」から拝借します。(※一部写真で撮ってきたのと違う部分は書き加えたり訂正したりしています)

全部見ることはできないので、あらかじめメンバー同士で見る場所を神奈川・岩手・宮城・福島・茨城・長崎・大阪・ダバオなどと決めておきました。

みえてきたこと、疑問に思ったこと。

建てられたのはだいたいほぼ1960年代。建てたのは「遺族会」の場合と県知事が代表の「戦没者慰霊碑建設委員会」みたいな場合の2タイプがあるみたいです。

「県が建てるのはおかしいんじゃないの?」

「遺族会が建てると、より軍国主義っぽい感じもする」などの意見が出ました。

ふくしまの塔

財団法人福島県遺族会が管理しています。
碑文                 
われわれ福島県民は第二次世界大戦終戦二十一年にあたり、祖国の繁栄世界平和を祈って、大戦中海外において祖国に殉じた
本県出身戦没者 六万六千余柱の英霊につつしんでこの塔を捧げます。              
むせび哭く み魂の散りしか この丘に かすかにひびく 遠き海鳴り


比較的、簡素な碑文でした。設置管理者が「福島県遺族会」と分かったのは改修のための碑文が別に建っていたからです。


茨城の塔

茨城の塔碑文                 
この塔は太平洋戦争において本土防衛の防波堤となって沖縄の戦をはじめ 遠く南方戦線に死闘を重ね異郷にその尊い生命を国家の栄光の前に捧げた 茨城県出身戦没者三万八千余柱の勇魂をこの地に招き 二百万県民が平和の祈りをこめて建立したものである
諸霊の愛国の至情は仰いで範とすべく 耿々として後進を鼓舞することを信ずる
冀くは雄魂 永くこの霊地に鎮まり 国家永遠の隆昌と 遺族の繁栄に加護を垂れ給え
昭和三十九年十一月
財団法人
茨城県遺族連合会
理事長 遠山勇


「愛国の至情」。少し引っかかる言葉でした。「愛国」が良いとか悪いとかじゃなく、そういう意味付けがアリか、ナシかっていうところで。

宮城之塔

碑文                 
 ここは太平洋戦争最後の戦場となった 摩文仁 の 丘 
思えばこの大戦で惜しくも散華された郷土出身の戦没者は実に四万五千五百人の多きにおよぶ
 ひとしく平和を希いながら悲運の死を遂げられたこれら将兵の英魂を慰めようと 百八十万県民のまごころをこめて とこしえに 宮城之塔 を建立す
 望郷しきりの戦没者の心情を汲んで 塔碑ははるかの故山に向かってそびえ立つ 捧げまつる鎮魂の詞はほかになし 安らかに ただ安らかに眠り給え
昭和四十三年二月二十日
宮城県海外戦没者慰霊塔建設委員会
会長 宮城県知事高橋進太郎


ここまで読むと、誰のために戦没者は「安らかに眠る」必要があるのか戸惑うところでもあります。

岩手の塔

碑文                 
大東亜戦争に際し祖国に殉じられたる郷土出身三万四千八百有余柱のみ霊よわれら今日あるは諸霊に負うところ多し
諸霊の愛国の至情を後世に伝えみ霊を慰むるはわれらが責務なりされば本土防衛最後の戦場となりしここ摩文仁ヶ丘にわれら県民の平和への願いと慰霊の誠をこめて塔を建立す
希くはとこしえにこの霊地に鎮まり給わらんとを
   昭和四十一年十月二十日
岩手県戦没者慰霊塔建立期成会
会長 岩手県知事 千田 正


戦没の原因が、「愛国の至情」の場合と、「平和」のためと、二通りあるみたいです。両立するのかしないのか。いろいろ読み比べてみないと分かりません。

それと「本土防衛のための」沖縄とだけ書かれると、それが何だか良い意味に取られそうな気がして少し気になっちゃいます。


神奈川県の塔

 われわれ神奈川県民は大東亜戦争終戦ここに20年を迎えるにあたり、南方諸地域において祖国の興隆を信じて参戦し、惜しくも異郷に散華せられた、み霊のご冥福を祈るため、ここ摩文仁の丘にふるさとの銘石を運びつきぬ平和への願いをこめて「神奈川の塔」を建立しました。
4万余諸霊が永遠に安らかに眠られますよう祈ります。
昭和40年11月26日
神奈川県南方諸地域戦没者慰霊碑建設委員会会長
神奈川県知事 内山岩太郎


なお神奈川県の塔には、「建立の由来」という長い碑文もありましたが省略。ちなみに各慰霊塔は20年とか25年とか経って改修されていて、その際に碑文を新たに建てているところが多かったです。


なにわの塔

 太平洋戦争最后の激戦地たるこの沖縄に勇戦力闘して、悲壮の戦死を遂げられた大阪府出身の英霊二千四百有余柱。ねがわくは奇蹟的復興を遂げえた郷土の現状を見そなわせ。これひとえに最期まで祈り続けられた諸霊が在天御加護の賜にほかならない。
 思えば個人の生命は短く、民族の歴史は永い。
 終戦二十年に当り最も犠牲の多かりし摩文仁の丘に「なにわの塔」を建立して恭しく諸霊の御遺徳を顕彰しあわせて人類恒久の平和を祈る
御証悟安からんことを。
昭和四十年四月二十六日
大阪沖縄戦没者慰霊塔建立委員会
大阪府知事 左藤義詮
大阪市長 中馬 馨
大阪府遺族会長 粟井岩吉


知事・市長・遺族会長全員の名前が書かれてたのはあまりなかったような気がします。

長崎の碑

鎮魂長崎之碑建立の記     
 靖国の神のいさおしたヽえつヽ
新しい日本創られてゆく
佐藤 勝也
 すぎし日の大戦により中国大陸および沖縄以南の各戦線において長崎県出身三万五千余名の方々がゆたかな春秋を残して散華された
 祖国日本の繁栄を念じつつ国難に殉せられた崇高な愛国のまごころを思うとき敬慕の情おさえ難いものがある

 百七十万県民は子々孫々に至るまであげて崇敬と慰霊のまことを捧げご遺徳を偲ぶよすがとすべく大戦最後の激戦地ここ沖縄のゆかりの地を選びご遺族から寄せられた霊石を礎とし郷土の名石もって碑を建立する
 英霊の永久に安らかならんことを祈る
一九六六年九月吉日建立
長崎県戦没者沖縄慰霊塔建設期成会
名誉会長 長崎県知事 佐藤勝也
会長 長崎県議会議長 小●二雄


会長さんの名前が読めず。柳か柿かどっちかだと思うのですが。長崎は被爆の歴史体験もあるから、それがどのように碑文に活かされているのか注目していたのですが、あまりそういったことは感じられませんでした。それにしても知事さん目立ちすぎ(笑)

・・・

慰霊塔は、沖縄戦に限定した戦没者について書いたものは少なく、ほとんどが沖縄以南の南方諸地域の戦没者について書かれていました。

「別にここになくてもいいんじゃない?」

というメンバーの感想は、ある意味、的をえているのかもしれません。

他に「ダバオの塔」と「黎明の塔」を見ました。途中あまりにも喉が渇き売店でジュース購入。おばあちゃんに団扇で煽っていただき、原価で高いと思いつつ「しゃないか」。

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ダバオの塔

建立のことば
第二次世界大戦中フィリッピンミンダナオ島ダバオにおいて戦没された幾多の御霊並びにダバオ開拓途上犠牲になられた先亡同胞等二万余柱の御霊に対し限りなき思慕の情を寄せ供養するため、摩文仁丘の聖地を選びダバオ関係者の真心によって、ここに「ダバオの塔」を建立す
 御霊よ、安らかにお眠りください
  昭和四十七年三月二十八日
           ダバオ会


「沖縄戦の記憶」では「軍関係の部」に区分されていましたが、あらためて読むと「ダバオ開拓途上犠牲になられた先亡同胞」とあることが気になります。ダバオの場所も、ダバオの歴史も知らないメンバーは、その時は誰もちゃんと目がいきませんでした。

「ダバオ開拓」はいつ頃、どういう経緯でおこなわれたのでしょうか。

つづく。



納豆の日、南部散策(7) 2011/07/17

おばあさんから「工事今日はやってないから上いけるよ」と教えてもらったので、工事現場をぬうようにして登っていくと「黎明之塔」に到着。

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ここは第32軍の司令官・牛島満と参謀長・長勇を祀ってある塔です。以下碑文です。

第三十二軍は沖縄県民の献身的協力を受け力斗奮戦三ヶ月に及んだがその甲斐も空しく将兵悉く祖国に殉じ軍司令官牛嶋満大将並びに参謀長長勇中将等此の地において自刃す時に昭和二十年六月二十三日午前四時三十分茲に南方同胞援護会の助成を得て碑を建て永くその偉烈を傳う
   昭和三十七年十月
財団法人
沖縄県遺族連合会


写真で分かる通り、現在工事中です。地面にタイルみたいなのをはっていました。台風の影響で地表が削れて歩きづらくなったためか、何のためか知りませんが、とにかくそんな作業の途中でした。

ジュースを飲んだけど、メンバーはもうほとんど疲れがピークに達していたので、そのまま無言で公園の駐車場へ向かいました。

木製の階段を下っていくと・・・

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行き止まり。疲れがどっと出る。出れんし。出たけど。

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ただの風景。どんより曇ってます。

しかしここにも沖縄の現在進行形が写り込んでいました。

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今回、糸満市高嶺付近でいったん止まって撮った写真。5月の連休中に糸満散策した時に偶然発見した建造物で後に「レーダー」と判明しましたが、その時はまだあからさまに建設中でした。今回来たときは遠目に見た感じでは完成してました。

これが何物か少し分かったので紹介して終わりにします。2006年11月4日の琉球新報より。

新レーダー11年度運用 沖縄の拠点化鮮明に

 防衛庁の弾道ミサイル防衛(BMD)システム整備計画で、航空自衛隊(空自)の那覇基地与座分屯基地(糸満市)のレーダー更新で、2009年から弾道ミサイルの探知・追尾が可能な新警戒管制レーダー・FPS―XXの整備を開始し、11年度に運用を開始する計画であることが3日までに分かった。事業費は150億円。米軍のパトリオット・ミサイル(PAC3)の嘉手納基地配備も合わせ、沖縄のMDの拠点化が一層鮮明になってきている。
・・・
 与座岳の従来型の警戒管制レーダーは、侵入航空機や対空通信の監視が主な任務。今回の新型レーダーは対航空機だけでなく、弾道ミサイルにも対応可能となる。一方、同基地は米空軍第18航空団も共同使用しており、管制施設を設置している。


与座基地に配備されるのは、FPS‐5というレーダーみたいです。全国的にみると、
下甑島分屯基地(鹿児島)
佐渡分屯基地(新潟)
大湊分屯基地(青森)
そして与座岳分屯基地。全国で4カ所みたいです。写真で分かるかな、丸いボコボコした形が亀の甲羅に似てるから通称「ガメラレーダー」と呼ばれています。かなり巨大な建物です。首里城からもちゃんと見えます。

というわけでその能力や役割りについて手広く調べようと思ったけど、よく分からないんですよね。

とにかくへとへとになったメンバーは駐車場に行き、「今日はこれで解散ということで」。

以上で7月10日の南部散策の報告終わりです。


以下、補足説明です。


遺骨はどこへ? 2011-07-20


今回は7月10日に見学してきた「平和祈念公園」の丘の上にあった慰霊塔について。

これについて詳しく書かれていた「死者たちの戦後誌 沖縄戦跡をめぐる人びとの記憶」(北村毅著、御茶の水書房)について紹介します。

まず注目したのが著者の年齢。わたしよりはもちろんぜんぜん上ですが、1973年生まれ。沖縄戦の体験どころか、復帰以降の生まれ。どうして沖縄戦に興味もったんだろうとかいろいろ考えてしまうけど、そういう世代がこういう本をまとめて世に出すってすごいなぁと思ってしまいました。

それを念頭において読んだのですが、知らないこといっぱいあって興味深く読めました。分厚いのでなかなか完読するのはきついですが、この休み中とかどうですか?

(なんでお前は読めたのかって? けっこう前に読んだんですよ。そんなに前じゃないけど・・・。それといろいろあってヒマしてる最中でして・・・)

ここでは第一章のみ紹介します。

本書の特徴は「遺骨の行方」に執着している点です。

沖縄戦が一応終結して糸満方面はホントに骨だらけだったそうです。「遺骨の世界」と書かれています。畑を耕すとどんどん出てくる、それが戦後すぐの状況だったそうです。

生活のために遺骨収集をしなくてはならない。それが沖縄の戦後の始まりでした。

ただ収集といってもそれは死者の遺骨ですから、丁重に扱わないとならないわけです。でも戦後すぐは米軍は遺骨を収集し納めることを許さなかったそうです。それが反米運動に通じるということで。

そういう中でなんとか米軍と交渉してできたのが「魂魄之塔」。ここには約3万5000柱がおさめられたそうです。そういう造られた経緯とかによって、この塔は実質的に「沖縄の塔」とされるものです。これは「平和創造の森公園」に行く途中にあります。今回見学はしていませんが。

注目しておくべきことは、この当時建てられた「慰霊塔」は「納骨所」だったんです。考えもしてなかった! なんとなく「慰霊塔って、犠牲者を祀ってある慰霊碑なのかなぁ」。そのくらいでした。そうではなかったのです。

しかし今現在、そこに遺骨はありません。遺骨は何処へ行ったのでしょうか? ここからが読みどころです。



1957年に那覇市識名に「戦没者中央納骨所」ができました。遺骨は次々とここへおさめられました。

納骨所ができた以降に収集された遺骨は、ここにおさめられたのは分かるけど、それだけではないんです。これより前に収集された遺骨も続々とここへ移された。どんなふうに?


慰霊塔=納骨所という状況も「戦没者中央納骨所」ができてしだいに変わってきます。遺骨の一括管理がすすむのです。住民のつくった慰霊塔は「そまつ」「管理困難」「悪い環境」ということで改修され、その過程で遺骨は「戦没者中央納骨所」へ移動させられました。

地元の人たちが、せっかく自分たちの手で収集し納骨した、住民の犠牲者を祀っているとか、そんな経緯も関係ないとばかりに、中には地元の反対を蹴って了解も得ずに担当職員が掘り起こして遺骨をもっていってしまった事例まであるそうです。

そんなことしてまでどうして一括管理にむかったわけは何でしょうか?



実は1962年より「霊域整備時事業」が開始されています。この過程で遺骨は一括管理に向かい、そして摩文仁の丘には慰霊塔が建ち並びはじめたのです。摩文仁のあの慰霊塔が建ち並ぶ風景は、この頃からできたということです。

ちなみにあの摩文仁に立っていた慰霊塔は、納骨とは無関係。だから厳密に言って、あの慰霊塔は、何を表明しているのかという点のみが重要です。いかに戦争を後世に継承するかということだけが、あの慰霊塔の目的にしかなりえいからです。だから7月10日にやったように碑文に注目して見学する方法が、求められているのだと思います。

何が表明されているのか。それについてはすでに報告されています。「別にここになくてもいいんじゃない?」



そしてついにふたたび遺骨が動き出します。1979年に「国立沖縄戦没者墓苑」が完成。摩文仁の慰霊塔の中央にあたかも取り囲まれるように位置しているのが「国立沖縄戦没者墓苑」です。識名の納骨所の遺骨は摩文仁へ移動します。この遺骨は「無名戦没者」とされています。

それではかつて建てられた慰霊塔はどうなった?以下引用です。

一方、霊域整備事業の展開の中で転骨された慰霊塔のほとんどは廃塔になったが、そうならなかった場合でも、収骨口やガマの開口部が封鎖されることによって納骨所としての役目を終えた。その措置によって、慰霊塔内部によって、慰霊塔内部に若干の遺骨が残っていた場合でも、遺骨の存在は不可視化され、戦跡空間から隠蔽された。

実は「浦和の塔」。浦添グスク跡でみたアレですが、あの地下はガマになっていて柵で封じられていました。あれがここでいう「納骨所としての役目を終えた」姿だったのです。

まったく知らなかった・・・

ただ、あの柵からを中を覗いていた・・・

興味本位とはオソロシイものです・・・

「魂魄之塔」や「浦和の塔」などから運び出され、最終的に「国立沖縄戦没者御苑」に納骨された「無名戦没者」は、18万余柱とされています。それは沖縄戦で亡くなった人の99%にあたるそうです。

つまり遺骨が家族の下に返されたのは、たったの1%。

しかも不思議なことに、「国立沖縄戦没者御苑」におさめられて、初めて「国内」に遺骨が「送還」されたというのが厚生労働省の認識なのだそうです。「遺骨の日本復帰」の最初は1979年だったということになりそうです。それはたんに遅れたとか、復帰できて良かったねとかいうことではありません。

どうして遺骨の場所が変わっただけで、遺骨の意味が変わってしまうのか。家族の下に返されることはなかったのに、国内には返された。一括管理の目的は「遺骨の日本復帰」にあったのではないかというのが著者の主張です。詳しくは以下引用します。

少なくとも厚労省の「遺骨処理」における認識では、沖縄は「外地」でり、そこから日本国内に遺骨が「送還」された象徴的達成として沖縄墓苑が位置づけられていることは間違いないだろう。・・・

 いわば、そこに「遺骨の日本復帰」ともいえる運動力学を看取することができる。国家が建設した納骨所に囲い込まれていった遺骨たちは、誰の遺骨であるかということを閉却され、いかなる国民の遺骨であるかという観点から中央集権的に集積されていった。それは「日本人」の遺骨を同定する政治作用であった。生者のナショナリティを同定しようとする復帰運動の力学は、戦死者においても作用していたのである。戦死者の遺骨は、一塊の「日本人」の遺骨として帰属すべき定位置を与えられたわけだが、この「復帰」への力学に支配された戦死者遺骨の集骨・収骨において、家族のもとへの遺骨の復員に向けた国家の責任がはたされてこなかったことは明記しておく必要があるだろう。




さて最後に、7月10日のときに、ヘトヘトなメンバーが体験した話を書いておくこととしましょう。

・・・慰霊塔を見学しながら歩いていると、「国立戦没者御苑」につきました。ちょうどバスに乗った御一行も到着しました。他県の方々です。

旅の会のメンバーはガイドさんの説明を聞いてみようということで、おじいさんおばあさんの団体に紛れ込みました。「あら、歩いてきたの、大変ねぇ」、「いやいや、アハハ」みたいな何でもないやりとりをしました。

ガイドさんは、御一行が御苑の前に集合したタイミングを見計らって語りはじめました。その内容はここに「無名戦没者」が納骨されていること、18万柱がおさめられていること、御苑の設計が沖縄特有の赤瓦であること、などでした。

誰が言ったか、全員に「黙とう」が告げられました。自分は、じっと眼を開けて、その場にただずんでいました。「黙とう」の意味を感じたかったからです。

約30秒。しかし何も分かるはずはありませんでした。

ガイドさんの話も終わって、そろそろ帰ろうかなぁと思った時でした。あるおじいさんが

「私の父もここで眠っている」

と語り始めました。御一行全体が、へぇーという感じで耳を傾けました。

当時37歳の兵士、若くはなかった。

それ以上の話はなかったように思います。話し方も別に誇らしげというわけでも悲しげというわけでもなく。ただ亡くなった父のことを分かる範囲でその場にいた人たちに伝えるような語り口で。

そのとき、御一行全体がへぇーへぇーと話を聞き、あらためて御苑へ近づき向き合ったように感じました。

少し間があいた後、引き返して行きました。もちろん旅の会のメンバーもその場を離れました。



37歳の兵士がどこで亡くなったのかも、どのような段階を経てこの御苑にやってきたのかも分かりません。ただこの地で亡くなったらしい。きっと「無名戦没者」として御苑に葬られている。ガイドさんの説明が終了し、黙とうが終り、その事実が明らかにされた。そして御一行全体に無言の共感が流れた・・・。

こんなことは、もしかしたら御苑の前で何万回も行なわれてきたことなのかもしれません。何万回も積み上げられて、語られて、そういった上にイメージされる「沖縄戦」、持ち帰られる「沖縄戦」。気になるところです。


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